「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート22
~敵の要塞を打ち砕け Part2~」

2018年11月18(日)
新城教会主任牧師 滝元順
第二コリント人への手紙 10章3節〜6節

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 ハレルヤ!すばらしいダンスを見させていただきました。KANERIの後に信先生が出てきて違和感がありましたが、私も同じだろうなと思います。
 みなさんに祈っていただき、「ペルーリバイバルミッション」も無事に終わり、戻って来ることができて感謝します。
 この秋、多くの海外奉仕があったのですが、全て無事にこなすことができて、私的には「やった!」という感じですが、感謝します。みなさんのとりなしがあり、働きが進んでいることを実感しています。

 もうしばらくするとクリスマスです。クリスマスは大変忙しいのですが、福音を伝えるチャンスです。是非とも、クリスマスには多く方をお誘い下さい。

 今日みなさんのお手元にクリスマスコンサートのチラシが届いていると思うのですが、今年は二十数年ぶりに小坂忠さんが来て下さいます。コンサートに多くの方々をお連れいただきたいと思っています。
 その他にもいろんなプログラムがあります。来週は、ヘブンリーキングダムのコンサートもあります。クリスマスに先だって、大変すばらしいコンサートになります。

 ペルーリバイバルミッションは、すばらしいかったです。多少、アクシデントもありました。それは、滝元開先生が犬に噛みつかれたからです。あの辺の犬は危ないのです。狂犬病になったら、人は生きることができないらしいです。彼が犬に噛まれたという情報が入った時には、戦慄が走りました。
 ラインのほうに、彼が車椅子に座っている写真が配信されましたから、ちょっとびっくりされたと思いますが、病院の診察室にそれ以外、椅子がなかったらしいです。犬が明後日まで生きていたら、彼も生きるそうです(11月20日時点で、犬は元気だそうです)。病院の方も、犬を調べて、たぶん問題ないだろうということです。
 やはり世界宣教は危険が伴うので、祈りと細心の注意が必要です。

 今回はペルーのワッチョという町で、中心的に働きが進められました。ペルーはリマが首都ですが、リマから北へ二百キロくらい上った所にワッチョという町があります。そんなに大きな町ではないのですが、そこで四日間のミッションが開かれました。
 その町で伝道しておられるのが、ビクトル先生夫妻です。

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 先週も雅也先生がペルーについて、詳しくお話ししてくださったので聞いたと思いますが、彼は十年くらい前に、不思議な夢を見たそうです。
 ワッチョという町は占い師が大勢いて、霊的にはたいへん重い町です。なかなか教会に人は集まらないし、教会をやめようかと思っている時、不思議な夢を見たというのです。イエスさまが夢の中に現れて、「大分、苦労しているな。おまえを助けてやるぞ!日本からサムライを送ってやる。」と言われたそうです。
 そしてサムライの顔が夢の中に出たそうです。しかしそのサムライには、頭に髪の毛がなかったというのです。そして目が細かったというのです。どんな顔だったかというと、こんな顔をしていたそうです。

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 今回、彼がそのことを詳しく話してくれたのですが、「ペルーミッションは私が見た夢の、預言的な実現だ」と言うのです。夢を見た時に、私の周りに目の細い人たちが大勢いたというのです。
 やっぱり今回、みんな目が細いじゃないですか。
 アジアの人たちは「目が細い」と言われます。それが差別につながる事もあるのでややこしいですが、今回は預言の成就ではないでしょうか。神さまって、グローバルなお方ですね。このような不思議な導きがあって、ワッチョに行くようになりました。

 新城教会のインターナショナルの働きは、先週も語られていましたが、今から二十八年前、二人のペルー人のおじさんが、この教会に来られた事から始まりました。
 当時、私はペルーがどこにあるのかさえ知りませんでした。「どこから来たんですか?」と聞くと、「ペルーです。」と言われて、ピンときませんでした。アフリカかな?と思って、アフリカを調べたけれど、ペルーはありませんでした。南米を見たらありました。そんな理解しかないのにもかかわらず、ここまで宣教の働きが進むとは、夢にも思いませんでした。
 ワッチョでの働きの背後には、多くの不思議なことがあるのですが、神さまは世界を見渡して、私たちを将棋の駒のように、神の国の実現のために動かされるのです。

 なぜペルーなのか、初めはまったく分からなかったのですが、二十六年間の霊的戦いの進展と共に、ペルーが大変重要な、鍵を持った国であることが分かってきました。

 聖書を見ますと、創世記十一章に「バベルの塔」が出てきます。その当時、人類は同じ言葉を話し、同じ地域に住んでいたようです。もしも全員が同じ言葉を話し、同じ地域に住んでいたら、肌の色は変わりません。言葉が通じれば、どこでもアクセスでき、その中で結婚しますから、肌の色は同じになるわけです。
 また文化も生じません。文化とは、比較する事によって違いに気づき、文化だと認識されるわけで、皆、同じライフスタイルならば文化は生じません。
 しかし今、世界中には多くの言語があって、多くの文化があります。それはバベルの塔が原因しているのです。バベルの塔で何をしたのかというと、人々が高い塔を作って、その頂上で創造主を礼拝するのではなくて、星占いを中心とするシャーマニズムと偶像礼拝を行ったのです。その塔で悪霊を呼び下すことをしました。その時に神がその行為をたいへん危惧されて、人々の言葉を全て変えて、人々を世界中に散らしたのです。

 バベルの塔がどこにあったのかを考古学的に調べてみると、今のイラクの近所ではないかと言われます。

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 その付近には、ジグラッドと呼ばれるピラミッドが数多く存在します。エジプトにもピラミッドがありますが、エジプトよりもさらに古いピラミッドは中近東にあるのです。この黒い点は、ジグラッドが残っている場所ですが、このような「高き所」と呼ばれるものがこの付近に集中しています。
 これは、砂漠の真ん中に山を作り、山の頂上に霊を降ろす、シャーマニズムの拠点でした。日本の修験道や山岳宗教も同じです。これらを始めたことによって、神がその行為を危険視され、人々の言葉が通じないようにして、世界中に散らしたのです。どのように散らされていったのかは、はっきり分かりませんが、ヨーロッパのほうにも、アフリカのほうにも、さまざまな方向に散らされたはずです。
 聖書は、ただの歴史書ではありません。しかし、歴史的にも貴重な資料を残しています。人々が世界中に散らされていったことは、人類学的にも証明されています。

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 そんな中、最も遠くまで散らされていったのが、モンゴロイドと呼ばれる東に向かった人々です。
 日本も、初めは誰も住んでいない島だったのですが、バベルの塔から散らされた一派が最初に来たはずです。彼らはさらに進んで、北米大陸から、南米にまで侵入していきました。

 今回、私たちは「Caral/カラル」という場所に行きました。カラルは今、世界遺産に登録されています。そこに行きますと、こんなピラミッドが残っています。

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 それもこの付近に何十基も残っています。カラル遺跡のガイドさんを頼んで、いろいろと、考古学的な説明を聞きました。南米大陸には現在、いろいろな国があります。ここにもブラジルから来られている方や、さまざまな国から来られているのですが、南米大陸の文化の原点はどこかというと、カラルだと説明されました。
 人類が長い旅をして、最終的に拠点を作ったのがカラルです。そこを拠点にして南米全地域に広がっていったわけです。
 もしかしたら、人類は最初にカラルに下って来て、それから北米にも、アメリカインディアンと呼ばれる人々が上って行ったのかもしれないのです。
 バベルの塔から最も遠くまで散らされた人たちが作った拠点、それがペルーのカラルである事が、最近の考古学で分かって来たのです。それは、ワッチョのちょっと北に位置します。

 さて、当時の最先端技術とは何かというと、現在はコンピューター技術であったり、さまざまなハイテクと呼ばれる技術ですが、当時は「シャーマニズム」でした。いかにして悪霊と交信し、取引をし、自分の目的を達成するかの技術、それがシャーマニズでした。
 現在、どこかに旅をする場合、飛行機を使いますが、かつては悪魔・悪霊どもに頼んで瞬間移動していたようです。どちらかと言えば、そちらのほうが手軽です。彼らはその手法を、よく知っていました。カラル付近には、悪しき霊的能力が高い人たちが集中して住んでいたのです。その子孫たちが住んでいるワッチョに、霊能者が多いのもその為です。

 今回、私たちはカラルに行って、散らされた者たちの最終地を勝ち取る祈りをしました。主はそのために私たちを遣わしてくださったと思いました。
 バベルの塔の記事と、エルサレムで聖霊が注がれた時の状況を比べると、大変よく似ています。似ているというより、逆バージョンです。バベルの塔では一つの言葉が多くの言葉に分かれて、互いに通じなくなったのですが、使徒の働きの二章で聖霊が注がれた場面では、今まで言葉が通じなかった人たちと、聖霊により、言葉が通じるようになったからです。また、散らされていった人たちが集められたのです。聖書の回復は、ある意味、「バベルの塔の呪いからの回復」と言ってもいいと思います。

 そんな中、日本人は回復のための鍵を持っているのかもしれません。日本はかつて、縄文人と弥生人が共に住んでいました。目の大きい人と、目の細い人が住んでいたわけです。
 東京大学のリサーチによると、日本人のゲノム解析によると、縄文人系統と弥生人系統のミックスだというわけです。
 しかしある時、目の大きい人たちが日本から少なくなりました。少なくなって消えて行きました。どこに行ったのかというと、その末裔が南米のインディオたちなのです。
 南米に行きますと、インディオと呼ばれる原住民の方々が多くおられます(ペルーは人口の半数がインディオです)。アメリカンインディアンも同じ系統ですが、彼らは皆、モンゴロイドと呼ばれる人々です。赤ちゃんには、おしりに青い紋章があります。ということは、日本人にバベルの塔の終着駅を勝ち取る、使命が委ねられているのかもしれないです。

 皆でカラルでとりなしの祈りをさせていただいたのですが、大変すばらしい祈りとなりました。今回のチームにおいては、宣教チーム、医療チーム、とりなしチームなど、様々な働きをさせていただきました。
 医療ミッションも、ネパールとは違って、ちゃんとしたポスターもありました。

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 医療ミッションは、ワッチョ郊外の大変貧しい地域で行われました。午後から詳しいことをお話ししますが、やはり先生方、仕事となると、顔つきが変わりますね。プロの顔になります。すごいですね。

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 この写真、見方によっては、右のおばちゃんを主体にすると、あなたの運勢は・・みたいに見えるのですが、そうではないです。医療ミッションにこられたおばさんです。

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 美味しい食べ物もありました。やっぱりカラルですね。ご飯もピラミッドです。この肉、無茶苦茶うまいです。みなさんに食べさせてあげたいですが、何の肉かは聞かない方がいいです。

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 これが頭です。

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 いろんな山に登って、とりなしました。インディオ系の人たちが住み着いている貧しい地域です。

 今回のチームの宣教の形は、たいへん効果的なものでした。貧しい地域の教会で医療ミッションを行いながら、地域の人たちにトラクト配布をして、「今日は医療ミッションがありますよ」とお知らせをして、賛美チームが一軒一軒、家々を訪問して、賛美をし、お祈りして、ショートメッセージを語りました。みんなたいへん喜んで迎えてくれました。
 また、公立の小学校も、日本人が来ていると聞いて、「日本人って、どんな動物なんだ?一回見てみたい。」のような感じで訪問させていただきました。何をしたらいいのかと思いましたが、賛美して、メッセージをして、全員のために祈ってあげる働きが出来ました。
 午後からお話をさせていただきますが、普通、公立学校に授業中に入り込んで、集会ができるなんて、いくらペルーでもあり得ません。しかし日本人がいない地域に行けば、日本人って捨てたもんじゃないですね。目が細いことが役に立ちます。「何人だとだと思いますか?」と聞いたら、日本人って分かる人は一人もいませんでした。「中国人」と言われました。「日本人ですよ」という話から、福音を伝えさせていただきました。

 新城教会では、インターナショナルの働きを二十数年やっています。ここで救われてペルーに戻った方々は、大勢おられます。帰国者の方々のための集会も、開かせていただきました。懐かしい方々が大勢集まってくださり、一緒に礼拝を持つことができました。

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 ペルーで信仰の火を、しっかりと燃やしていて、感動しました。そのほかの教会でも奉仕させていただきました。新城教会のみなさんを始め、全国の方々が祈ってくださった事により、こりように成し遂げることができたと感謝しています。

 福音とは何でしょう?『全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を伝えなさい。』とありますが、すべての造られたものに対する福音です。
 コロサイ書一章六節に、こんなことばがあります。

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 私たちが「福音とは何か」を本当に理解すると、福音は勢いを持って進んでいくというのです。日本では福音を伝えるのが、なかなか困難だと言われます。
 しかし初代教会においては、福音とは何かについて、正しい理解があったので、もちろん苦労もありましたが、勢いよく自動運転で広がったというのです。

 日本で福音が伝わらない原因はどこにあるのだろうか、といろいろと論議されているのですが、その中で、私たちの福音理解を見直さなければいけないのではないか、という意見が出されています。
 コロサイ書一章十九節〜二十節を見ますと、パウロが福音に対して、どのような理解を持っていたのかが記されています。これはちょっと復習になりますが。

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 イエスさまの十字架は誰のためであったのか、それは私たちの罪をあがなうためであったことは間違いないのですが、イエスさまの十字架は、ただ人だけの為ではではなく、「万物との和解」であったというのです。人だけでなくて、神が造られた被造物全てとの和解の福音であったのです。
 続いて読みますと、コロサイ書一章二十一節〜二十二節、

『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』

 イエスさまの十字架によって、「万物との和解が成立した」前提の上で、次には、私たち人類に福音は及ぶわけです。
 人との和解の中では、『それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』とあります。人が罪から聖められて、神の前に立つことは、重要なカギなのです。
 それはどうして重要かというと、二十三節から見ていきますと、

『ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』

 パウロは、この箇所で「福音とは、万物との和解だ」と二回も強調して語っています。そのその土台の上で、人の存在がどのようなものかを語っています。
 私たちも被造物の一員ですが、私たちが神の前に聖くなることは、管理を委ねられている、被造物全体の回復につながるのです。
 私たちがなぜ、神のみ前に聖く立たなければならないのかというと、足下に置かれている被造物全体の解放にもつながる、重要なカギだからです。

 「人類にとっての福音とは何か」を一言で言えば、「悔い改めの福音」といってもいいと思います。ルカの福音書二十四章四十五節〜四十七節、

『そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』

 またマルコの福音書一章十五節、

『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』

 福音は、人類の悔い改めと共に、世界に拡大していくのです。「悔い改め」は、なぜ、必要なのかというと、私たちが神の前に聖くなり、神のみ前に立つことにより、神が造られた被造物全体も聖くされ、回復につながるからです。人類にとって福音とは、「悔い改めの福音」と呼ぶことが出来ます。

 最初に読んでいただきました、コリント人への手紙第二、十章には、どのように記されているかというと、コリント人への手紙第二、十章三節〜六節、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 私たちにはすぐれた「戦いの武器」が与えられているのです。それは要塞をも破るほどに力のあるものですが、その「武器」とは何かというと、「悔い改め」です。
 私たちは「悔い改め」という武器をもらっているがゆえに、この武器を使うことによって、要塞が砕かれるのです。先々週も語らせていただいたのですが、要塞とはどこにできるのかと言えば、「味方の領域のただ中」に形成されるのです。
 クリスチャンになっても、やはり罪を犯しますから、悔い改めは大変重要な武器になります。そして内側の要塞が打ち破られる時に、『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている。』とあります。
 霊的戦いは、私たちの内側に起こります。内側の要塞を知り、その罪を悔い改める時に、それが外側と連動して、外側も変っていくと言うのです。その点について、前回も話しましたが、イエスさまの十字架は、「自分対世界、世界対自分」という構図があり、私たちの内側が変わる時、世界が変わりますよ!とパウロは述べています。私たちクリスチャンの悔い改めと、世界の罪がシンクロされているわけです。

 「要塞」とは何かと言えば、「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりだ」と告げています。神が提示された法則によって生きるならば、要塞は生じませんが、神の知識と逆の知識を持ってしまうと、それが罪となり、要塞となるのです。
 それを神の知識に置き換えていくのが、すなわち「悔い改め」です。

 誰にでも、「世界観」というものがあります。誰にも、自分の眼鏡があるわけです。その眼鏡で世界を見るわけです。どんな色眼鏡で世界を見るのかで、世界の色が変わります。英語では、「ワールドビュー」と言いますが、誰にでもあります。それぞれ違った世界観があるから、なかなか苦労するのですが、クリスチャンのワールドビューは、「神の国の世界観」でなければいけません。
 私たちの内側の世界観を、この世的な世界観ではなく、神の国の世界観に変えるならば、それが世界を変えるのです。そして、神が造られた被造物全体を変えていくわけです。
 ですから悔い改めの領域は、戦いの武器として、最もすぐれた武器であると言えます。私たちの内側が変わるならば、世界が変わっていくからです。

 時々私たちは、悔い改めと聞くと、なんとなく消極的になる傾向があります。しかし罪が示され、神の前に悔い改めることは、世界の解放のために、被造物全体の解放のために、重要なことであるのです。

 コロサイ書にも出ていましたが、一章二十二節に、神は私たちを、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせたい」と願っているのです。
 我々が神の前に聖く、傷なく、非難されるところのない者として立つことができれば、その結果として、神が造られた被造物もついてくるのです。
 ということは、私たちには大きな責任を、被造物全体に対して、課せられているわけです。
 第一テサロニケ五章二十三節にこんなことばがあります。

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

 やがてイエスさまが帰って来られますが、その時に、私たちが神の前に立った時に、「霊、魂、体」が完全なものとして、立つことができるようにという、パウロの祈りです。
 いつイエスさまが帰って来られても良いように、主にすべての領域を明け渡して、聖くならなければいけないです。

 先週、雅也先生が大変すばらしい、メッセージを語っていました。神はイスラエルの人たちを救い出し、彼らを救った後、律法を与えているというのです。「これを全部守らないと救ってあげないよ!」というのではなくて、先に救い出しておいてから、「わたしが神ですよ。だから、わたしと付き合うには、このようにしてくださいよ。」と律法を与えたと、なかなかうまい説明をしておられました。実にその通りだと思います。
 十戒に記されている事柄は、聖い神さまとお付き合いをするために、我々はどうあるべきか、すなわち、ワールドビュー、世界観を提示しているのです。
 人間には、霊、魂、肉体の三つの領域があると聖書は告げています。人間には、三つの扉があるみたいです。霊的な扉、魂の扉、肉体の領域の扉という、三つの領域があります。
 神のみ前に聖く立つためには、この三つの扉と領域をしっかりと意識する必要があると思います。その前提として、十戒で述べられている戒めが基本にあるのですが、その中で特に、霊、魂、肉体に関わる、三つの要塞を意識し、聖くなる努力をすることが、私たち自身を超えて、被造物全体の解放にもつながっていくのです。

 『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。』と祈られています。「全く聖なるもの」というのは、完全にして下さるということでしょうか。そんな中、霊、魂、肉体が完全に守られるようにと祈られています。三つの扉と共に、サタンとの契約が存在していると私は思います。罪の中でも、強力に悪しき力とつながり、暗闇に引き込む罪があります。
 デカルトは、「我思うゆえに我あり」と言いました。「自分を意識するから、自分が存在する。」みたいなことを言いましたが、そうではないのです。人間は、霊的な存在から声を聞いています。自分を思うから自分があるのではなく、霊的な世界とつながっているから、自分があるのです。そのところをしっかりと理解しないと、神の前に聖く立つことができないばかりか、敵の策略に引っかかります。
 特に、霊的領域で最も危険な罪とは何か、それは他でもない「偶像礼拝」です。偶像礼拝は、ただ像を拝むだけではなくて、祖先崇拝、占い、自然崇拝、シャーマニズムなど、創造主以外の神々とつながる、広い概念を含みます。これは最も、大きな罪であるわけです。

 以前にもお話ししましたが、罪には「二つ側面」があります。それは神に対する反逆と、もう一つは、サタンとの契約行為です。サタンとの契約行為の中で、最も大きな罪となるのが、偶像礼拝です。日本において、偶像礼拝から離れるのは、なかなかパワーが要ります。しかし霊的領域の扉を閉め切るために、また、神の前に聖く立つためにも、最も重要な条件です。

 今回、南米に行きましたが、向こうはローマカトリックが多いです。それはキリスト教のように見えますが、キリスト教ではなく、偶像礼拝です。南米のカトリック教会に行きますと、教会の中に偶像がいっぱいあるわけです。マリア像があったり、聖人の像があったり、イエスさまがむごたらしく十字架にかかっていて、その像をみんな拝んでいます。
 偶像礼拝に関して、こんな風刺画があるのですが、ヨーロッパの人たちは、偶像を拝んでいるのを見て馬鹿にしていますが、ヨーロッパの人たちも同じように偶像を拝んでいるじゃないか!という風刺画です。

 偶像礼拝から離れることは、幸せに生きるための大変重要な条件です。

 十一月は、カトリックにおいては「死者の日」の月間で、死者を拝みます。人の骸骨を拝むわけです。これはハロウィンと同じ概念だと話しましたが、日本では、祖先崇拝です。
 偶像礼拝によって、悪魔・悪霊どもに対しての扉が開かれ、霊的領域のドアの隙間から、悪しき力が人生に介入するのです。
 日本において偶像礼拝からはっきりと離れて、契約を断ち切っていくことは、大変重要な戦いです。

 次に魂の領域です。エペソ人への手紙四章二十六節〜二十七節。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 特に聖書の中に、悪魔に機会を与える、チャンスを与える罪として、「怒り」が関わっていると告げています。
 人間関係の中で、時々、怒りが生じます。夫婦の間でも、このような喧嘩が生じたり、憎しみが生じたりしますが、聖書は、『怒っても、罪を犯してはなりません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』と呼びかけています。
 毎日の生活の中には、必ず感情が伴いますから、誰かに対して怒ったり、憎しみが生じたりすることが多々あります。しかし、『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』と勧めています。
 イスラエルの一日は「夕刻から夕刻」です。一日以上、怒っていると悪魔に機会を捕らえられるのです。ですから、怒りの賞味期限は「二十四時間」だということです。みなさん、何か頭にきたとしても、二十四時間以内に処理してください。「くっそー!」と怒りがこみあげても、怒りの賞味期限は二十四時間です。それ以上経つと、腐って、ゴキブリが来るというか、悪霊が来て魂を鷲づかみにします。魂の領域を悪魔に渡さないためには、感情のコントロールが必要です。

 憎しみや怒りは、必ず、正当な理由があるでしょう。あの人が、あれだけのことをしたのだから、これだけ怒るのは当然だ!と主張するのですが、誰かを指さした時には、三本の指が自分のほうに向いていることを、忘れないでください。親指は、どっちかな?と迷っています。自分の安全のためです。とにかく相手はどうでも、まずは、自分の安全のために、「赦す」という立場に立つことは大切です。
 なぜなら、私たちが怒りを持ち続けるならば、また、憎しみを持ち続けるならば、「悪魔が機会を捉える」と聖書は教えているからです。

 そして三番目に、肉体の領域を通して、悪魔はどのようにして、私たちを操作するのでしょうか。コリント人への手紙第一、六章十五節〜十六節、

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。』

 ここに、「ふたりは一体となる」とありますが、結婚の契約のことです。
 コリントの教会の男たちはクリスチャンでありながら、遊女の所に行っていたらしいのです。コリントには神殿娼婦が大勢いて、ちょっと金を払えば、性的な罪を犯すチャンスが町中にありました。一般の人たちは、それを普通の事として、コリントの男たちの文化だ、習慣だと考えていたわけです。そしてクリスチャンさえも、そのような性的な罪を、簡単に考えていたみたいです。
 しかしパウロは言いました。遊女の所に行って性的関係を持つのは、遊女と結婚するのに等しい。彼らは、別に、遊女と結婚するわけでもないし、そんなのただの遊びで、関係ないと思っていたようです。性的罪は、結婚と同じ意味合いがあるのです。性行為は「一体の契約」です。

 今日、週報を見たら、来週は婚約式があるみたいです。滝元光太君と、今松愛満ちゃんが婚約するんですね。すごいですね。
 結婚は大変重要です。それは「キリストと教会」の関係を表しているからです。一人の男性、一人の女性が聖く、神の前に出て、婚約し、やがて結婚するならば、キリストと教会が一つとなる構図につながります。それは教会の勝利にもつながることです。一人ひとりが聖くなり、特に、結婚という領域が聖められていくと、イエスさまが持っておられる資産を共有できるわけです。
 現代の教会、なぜ、力を失っているのかというと、結婚と教会という構図をサタンに奪われ、壊されているがゆえに、力を抜き取られているのではないかと思います。
 結婚とは、男性と女性が、神の前に誓いをして夫婦となることです。それは神の目から見たら、一体となる事です。神さまの目から見たら、一人の人として見られるのです。
 ということは、男性が持っている能力と賜物、女性の持っている能力と賜物が一つになるのです。夫婦関係って、ものすごく重要なわけです。一体の契約ですから、結婚の中で、お互いが持ち得ない賜物を共有することができるのです。
 男性は女性の持っている賜物を、結婚という契約の中で使うことができるのです。今、結婚しておられる方々は、夫婦関係を良くしなければいけないです。悪かったら奧さんの賜物を、ご主人は使うことができませんし、奧さんも、ご主人が持っている賜物を、使うことができません。

 神が定めた、「一体の契約」を悪魔もよく知っています。その契約を崩すために、人々を汚れた罪の誘惑に引き込んで、結婚の契約を壊す働きをします。
 性的な罪の怖さは、一体の契約の中にあります。正式な結婚以外の性的な関係を通して、すべてを共有化してしまうからです。不倫、浮気で肉体関係が結ばれると、そこには一体の契約が関わりますから、相手と霊的に一体として結ばれてしまうわけです。
 それは悪魔のネットワークに入れられてしまうのと同じです。ある人の罪が、他人の罪と一瞬にして、共有化されてしまうのではないでしょうか。
 最近のインターネットでは、「クラウドサービス」があります。自分の携帯電話のデータを変えると、クラウドのコンピューターデータも一瞬にして変わり、アップデートされます。
 性的罪は、悪魔の敷設したクラウド・ネットワークに入るようなものです。ある人が罪を犯すと、自分のファイルも、全て書き変えられると私は考えています。
 「あなたの体を遊女の体にしてはいけない。一体の契約が結ばれますから。」とパウロは警告していますが、性的領域は、あくまでも、「夫婦間限定」で与えられたものです。
 それはなぜかというと、「キリストと教会」という構図が、夫婦関係の中に現されるからです。

 今の時代、結婚する前に肉体的な罪を犯すのは普通になっているし、結婚しても、罪を犯すのが当然かのような風潮です。これは悪魔の声です。絶対に聞いてはいけないのです。悪魔のネットワークに組み入れられます。世界中の悪しき影響下に閉じ込められるのです。性的な罪の後ろに、悪しき力が座っています。

 特に人生の中で、「霊、魂、肉体」という、三つの領域から侵入しようとする悪魔の力に対抗し、聖くなる努力は大変重要であると、よく理解しなければいけないです。これは、人生を守るための重要な条件です。

 霊的な領域は偶像礼拝です。ある意味、霊、魂、肉体の三つの罪の中で、鍵を持っている領域です。ローマ書一章を、家に帰ってから読んでいただければ分かりますが、偶像礼拝を中心軸として、さまざまな汚れにつながっていくと語られています。偶像礼拝が性的罪や同性愛、さまざまな不義につながっていくことを論じています。霊的領域の扉をしっかり閉めることが、大変重要です。

 そして魂は、憎しみ、怒りという感情の領域です。この扉をしっかりと閉めましょう。そうでないと、私たちの良きものを抜き取られてしまいます。
 怒るのは当然でしょう、というかもしれませんが、怒りを利用して悪魔は機会を捕らえると聖書は教えています。
 そして肉体の領域は、結婚以外の性的行為です。その罪が悪魔の進入路になってしまうのです。

 「あなたの霊と魂、肉体が完全に守られますように、聖くなりますように」とパウロは十戒ベース上で、三つの領域について語っています。特に、この三つの領域は重要な領域ではないでしょうか。
 この領域がしっかりと聖められる時に、共にある被造物全体も聖められ、神の前に立つことができるのです。人とは大変大きな役割をもった生物であることが分かります。同時に、人間が幸せに生きるためにも、三つの領域の罪を意識して、そこから一線を画していく時、一度しかない人生、幸せに生きることができるわけです。

 今回もペルーに行って、ある方と出会ったのですが、これは何回も話したことのある話ですが、今回もその方とお会いしました。

 この教会に長いこと来ていたエルサさんという方です。彼女はある時、「顔が痛いからお祈りしてください。」と言って来ました。豊川市民病院に行って見てもらったら、顔の後ろ側に、腫瘍ができていて、手術しなければならないことが分かりました。
 もしもその腫瘍が、悪いものだと命に関わるかもしれないという情報もあって、どうしたらいいかと思いました。
 やはり霊、魂、肉体という三つの領域の扉をしっかりと閉めることが、いやしのために第一条件だと思って、祈らせていただきました。
 特に霊的領域、偶像礼拝のことに関して、しっかり祈らなければいけないと感じて、彼女が日本になぜ来たのかを聞くと、占いによって来た事が分かりました。占い師が、「日本に行ったら幸せにしてやる」と告げたので来たというのです。
 彼女は、どこの出身者かというと、他でもない、ワッチョの地域でした。そこは占い師がたくさんいます。日本に来た当初は、お金がいっぱい入って、「霊能者が言う通りだ!」と喜んでいたそうです。しかし、やがて病気になって、命に関わるようなことでした。
 偶像礼拝、オカルト、占いは悪霊との契約ですから、その契約をしっかりと悔い改め、断ち切る宣言して祈ってあげました。「悪魔よ、よく聞け!彼女から手を離せ!」と激しく祈りました。
 その時、彼女の体が震えて、男のような声を出して、「うるさい!うるさい!俺はこの女が嫌いだ!俺はこの女が嫌いだ!俺はこの女を殺してやる!」と叫び始めました。それはまさしく、彼女を殺そうとしている、悪魔の力が暴かれた瞬間でした。犯人が分かったら、こっちのものじゃないですか。
 もちろん、病気は医学的な原因もあります。いろんな原因もあるけれど、最も大きな原因の領域を特定することは、重要だと思います。
 祈った後に、彼女は病院に行って何が起こったのか、何も起こらなかったらこんな話はしません。彼女は、完全にいやされたのです。もう十年以上前の事です。今回もお会いすると、元気で、家族で喜んで帰国者集会に来てくれました。毎回、彼女と出会う時、「良かったな〜」と感謝します。もしも、あの時、霊の扉をしっかりと閉めなかったら、彼女は今頃、生きていなかったと思います。
 何年か前に、彼女がオカルトをやっていた墓場に行ってみました。先祖の霊というのを呼び出していたそうです。それは先祖の霊ではなく、悪霊です。墓場はワッチョの郊外の砂漠の中にありました。そこには家族の墓場が四つあり、すでに三つの墓には親族が葬られていました。一個だけ、墓が開いていました。みんな同じような病気で死んでいました。
 もしも、彼女が新城教会に来て、解放されなかったら、この四つ目の墓は、彼女の墓になっただろうと思いました。その時、心から主に感謝しました。
 霊、魂、肉体の領域を、しっかりと扉を閉めて、悪魔に立ち向かうなら、健康で幸せな生活を送る事が出来ます。

 今日、私たちは「悔い改め」という武器をもらっています。その武器を使って、内側の要塞が砕かれる時、外側も変わっていく、被造物も変わっていくのです。この壮大な福音を理解する時、福音は世界に拡大していきます。福音がいかに優れたものであり、その中で人の存在が、いかに重要であるか理解できるのではないでしょうか。

 今から私たちは聖餐式を持ちます。聖餐式は、イエスさまの十字架を表すものです。十字架は、万物との和解という枠組みの中で、人が神の前に聖く立つことの重要性を確認する瞬間です。
 今日、三つの扉を点検してみましょう。三つの扉の隙間が、ちょっと開いているかもしれないな・・・、と感じたら、扉をしっかりと閉めましょう。
 まずは、私が祈りますから、私の後に付いて、ご一緒に祈ってください。

 父なる神さま、イエスさまの名によって、十字架の勝利を宣言します。私の霊と魂と肉体の三つの領域を、完全に聖めてください。聖いものとして、神の前に立たせてください。霊の領域で犯した、すべての罪を悔い改めます。偶像礼拝に代表される、すべての罪を悔い改め、悪魔との契約を完全に断ち切ります。扉を閉めます。
 魂の領域にも、勝利を与えてください。怒りや憎しみによって結ばれたすべての悪魔との契約と機会を、取り去ります。感情から攻撃を受けることがないようにして下さい。今週は、平和な週でありますように。
 肉体を通して罪を犯すことがないように守ってください。過去も、現在も、未来も、私の体を聖め、守り、特に、性的な領域で誘惑を受けることがないように守って下さい。すべての罪の誘惑と契約を断ち切ります。将来と希望を宣言して、イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。