「彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート24
  〜聖霊が臨まれる時〜」

2018年12月9(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き1章4節〜9節

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今、ブライティーンズのすばらしい賛美を聴きましたが、新城教会にはいくつバンドがあるのでしょうか。新手のバンドがいくつも出てきますが、多くの口で、楽器で、主を賛美することはすばらしいです。また、さまざまな言語で主がほめたたえられることは、聖書的なことです。特に今の季節は、世界中でイエスさまがほめたたえられています。クリスマスのシーズンに主を賛美し、みことばを学ぶことが出来ますことを感謝します。

 昨日は、子どもクリスマス会がありました。子どもたちが一生懸命祈り、準備しました。一週間、彼らは毎日、集まり、祈祷会を行い、友達を誘って、昨日を迎えました。多くの子どもたちが来て、すごい熱気でした。

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 綿菓子屋さんが出たり、様々な屋台が出て、ヒーローショーもありました。礼拝でも一度、ヒーローショーをやってほしいと願っているのですが、すごいですよ。この集まりは、子どもたちが大人と一緒に作り上げました。本当に恵まれました。

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 また昨日は、島田の大石さんのお宅で、ホーム・コンサートも開かれました。そこには四十名くらいの方々が集まり、開&典子の歌に耳を傾けました。
 クリスマスは伝道の良い機会です。教会の敷居が下がっていますから、多くの方を教会にお連れ下さい。

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 十二月二十五日のコンサートは、かなり話題になっています。すばらしいコンサートになります。お早めに案内して下さい。市長さんも来られるそうです。大勢来られそうで会場は大丈夫かな?と心配しています。すばらしいコンサートになるにちがいありません。

 今、読んでいただきました箇所は、聖霊が注がれた場面を描いているところです。クリスマスは、処女マリアが聖霊によりイエスさまを身ごもったところから始まりました。聖霊さまは、目に見えないお方ですが、聖書全編にわたって働いておられます。今日も礼拝のただ中に働いておられます。
 父なる神さまは、神そのものの性格をお持ちですが、三位一体の中で聖霊さまは助けてくださる神さまです。日々のクリスチャン生活は、聖霊さまの助けがないとやっていけないです。
 やがてイエスさまが帰って来られる日には、聖霊さまがどんな働きをされたのかが、はっきりと分かる事でしょう。「あの時に助けて下さったのは聖霊さまだった!」と、その事実を、はっきり知るのではないかと思います。

 先ほど読んだ箇所は「使徒の働き」でしたが、聖霊が注がれると何が起こるのかが記されています。

『あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 今から二千年くらい前に、エルサレムにおいて聖霊が注がれたのですが、その時は百二十人の上に聖霊が注がれました。しかし今や、世界中でクリスマスが祝われています。これは地の果てにまで、人々が証人となった結果です。それで私たちの所にも福音が届いたのです。それは、他でもない、聖霊さまの働きです。

 「使徒の働き」の著者は誰かというと、「ルカ」です。ですから、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を連続で読むと、そのつながりがよく分かります。
 ルカの福音書の中で、使徒の働き一章へと連なる箇所は、ルカの福音書二十四章四十五節だと思われます。
 ルカの福音書二十四章四十五節〜四十九節、

『そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」』

 このイエスさまの預言が、「使徒の働き一章」で実現するわけです。ここで「世界宣教とは何か」について語られています。
 それは、『その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』とあるように、悔い改めの働きです。
 前回のメッセージでも語らせていただきましたが、人類だけに与えられている強力な賜物、それが「悔い改め」です。
 時々、悔い改めと聞くと、罪人扱いされているイメージがあるのですが、悔い改めは、個人だけでなく、共同体を代表するものであるとお話ししました。
 それは人類だけでなく、被造物全体に解放をもたらす「鍵」であるとお話ししました。
 前回は世界で起こっているリバイバル・レポートで、フィジーと、グアテマラのアロマロンガで起こった奇跡を紹介しました。町の人たちが、共同体の罪を悔い改めた結果、「地がいやされた」のです。
 そこで第二歴代誌七章十四節を引用させていただきました。

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 「リバイバル運動」とは何か、それは、言い換えれば「悔い改め運動」です。しかし、ただ罪を悔い改めるだけではなく、罪を悔い改めたら、イエスさまのほうに向きを変えなければいけないわけです。
 人々がイエスさまに向きを変えると、何が起こるのか、それは、永遠の滅びから救われるのはもちろんのこと、家族、地域、町、町々、国、そして世界にまで広がり、地もいやされていくのです。

 「すべての造られたもの」に福音は宣べ伝えられるのですが、今年一年間、「福音とは何か」を強調し、学んでまいりました。マルコの福音書十六章十五節の新改訳聖書の訳はまちがっていると思います。

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』

 ここで「者」という漢字を使うと、人だけを連想します。しかし、ギリシャ語においては「クティシス/被造物」という単語が使われています。
 ですから英語の聖書の多くは「every creature」、「すべての被造物」と訳されています。福音はすべての被造物に対して、宣言されるものです。
 しかし、コロサイ人への手紙一章二十三節は、忠実に訳されています。

『ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』

 パウロは、福音とは、人々が救われるだけにとどまらずに、神が造られた被造物に対するものであると理解し、全被造物に福音を宣言する役割として選ばれた!そのために働いている!という意識を持っていたのです。
 このクリスマス、イエスさまを知らない方々に福音を伝えるだけにとどまらずに、すべての被造物も、主をほめたたえるように働きたいです。

 私は、つい最近までリバイバルとは、「多くの人が救われる事だ」と思っていました。しかし聖書全体から、「すべての被造物」が主を賛美するのが、真のリバイバルである事に気づかされました。
 神が造られた被造物は、神の栄光のためですから、本来は、すべての被造物は主をほめたたえるために造られているはずです。人の罪によって、また、悪魔の働きによって、被造物の口は塞がれ、賛美できなくなっている現実があります。しかし、被造物の管理人たちが、口を塞がれている被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言すると、すべての被造物は主をほめたたえるようになるのです。
 イザヤもそのことを預言しています。イザヤ書五十五章十二節〜十三節、

『まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」』

 山や丘、木々も主を賛美するというのです。私たちが救われたら、山や丘、木々に対して、「主を賛美しなさい!」と命じる時に、木々は手を叩いて喜び、主を賛美するのです。
 すべての命は神から与えられたものです。木の中に宿っているのは、木の精ではありません。木に与えられている命は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われた、イエスさまが与えたものです。彼らに対しても、「主を賛美しなさい!」と命じれば、すべて主を賛美するはずです。
 木を見たら「主を賛美しろ!」と宣言していただきたいです。

 『はじめに神が天と地を創造した。』と聖書の最初に記されています。いつも話しているのですが、日本語は、単数と複数が曖昧です。しかし『はじめに神が天…』という「天」は複数形で述べられています。
 神は私たちが住んでいる空間だけを創造されたのではなく、「高次元」と呼ばれるような見えない世界、諸天をも創造されたのです。ヘブル書の中に、次のようなことばがあります。ヘブル人への手紙四章十四節、

『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。』

 イエスさまは、「もろもろの天を通過された方」だというのです。人類は限られた空間にしか住むことが出来ません。しかし神が天と地を造られた時に、我々が見ることも聞くこともできない、到達できない高次元を、いくつも造られたみたいです。イエスさまはそれら、すべての天を経験されたお方なのです。
 当時、ユダヤ教のラビたちは、各学派によって天の数を、「三つだ、七つだ、いや十ある。」と、いろいろ意見が分かれていたみたいです。

 近代の天文学、宇宙物理学で天について調べると、高次元がある事がわかってきました。最近、こんなニュースが載っていました。日本の研究機関が、宇宙の謎を解き明かすと期待されている、超弦理論に基づく宇宙をスーパーコンピューターを使ってシュミレーションに成功というものでした。超弦理論によると、天は十次元くらいまであるとされ、スーパーコンピューターで計算すると、ある時点から、三つの方向だけが膨張し始めた事が証明されたというのです。それはX・Y・Zという、私たちの住んでいる空間だけが膨張し始め、秩序を失ったというものです。
 諸天の始まりにおいては、どの天も偏っていなかったというのです。しかし、ある時点から、我々が住んでいる空間だけが膨張し始め、今も膨張し続けているというのです。それは何が言えるのでしょうか。この宇宙だけに無秩序が発生していると言う事は、「この世は悪魔の支配下にある」ということではないでしょうか。このまま膨張し続けると、ある時点で宇宙は爆発してしまうのです。いくら永遠にこの地上で生きたとしても、ある時点で私たちの宇宙は爆発しますから、希望がないのです。しかし他の天には秩序があり無秩序は発生していません。それは、神の管理下にあるからです。

 以前にもお話ししましたように、「天のみ国」の「天」は複数「諸天」ですから、正確に訳すと、「諸天によって構成される、神が支配される王国」となり、王国は「単数」です。
 神が諸天を造られたのですが、私たちが住んでいる空間だけは、敵の手に陥っています。しかし、他はすべて、神の支配下にあるのです。その世界に行けば、すべては神を賛美しているはずです。
 私たちの空間は、神がすべてを支配しているのではなく、悪魔が支配しています。そのために、この世界に属する被造物は、賛美する口を塞がれているわけです。
 しかしイエス・キリストを信じる者たちが立ち上がり、すべての被造物に対して、「主を賛美しろ!」と命じると、主をほめたたえるようになるのです。
 私たち人類は、神が造られた被造物全体を管理する「管理人」です。クリスチャンが正しいポジションに立って、被造物を管理するようになると、神が造られた被造物は、あがなわれた者たち、すなわち、クリスチャンに仕えるようになるのです。現在、人類と被造物は対立していますが、本来、救われた者たちが、被造物に対して正しい位置関係になれば、「被造物は、贖われた者たちに自ら仕えるようになる」はずです。

 先日、興味深いビデオを、ある人が私に送ってくれました。十数年前に新城教会にも来て下さった、「ヘンリー・グルーバー先生」って覚えておられますか。先生は日本中を回って、被造物に対して「主を賛美しろ!」と宣言している方です。日本だけでなく、世界中を回って、祈りの歩行をし、とりなし祈っている先生ですが、彼が不思議な体験をしたというのです。それは、天国に二回も連れて、天国を体験してきたというのです。その様子は、まさに、被造物全体が贖われた者に仕え、すべてが神を賛美する世界であったというのです。
 今からその映像をみなさんにお見せしますが、結構興味深いです。最近、学んでいる知識と共に見れば、「なるほど!」と分かりますが、情報が全然なくてこのビデオを見ても、理解できないかも知れません。彼は本当に天国を体験したのだろうと思います。先生は一九八〇年代に体験して、最近、アメリカの「It’s supernatural!」というテレビ番組で、その体験を熱く語っています。字幕なので、よく読んでみてください。結構おもしろいです。

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 なかなか興味深いですね。天国に行けば、すべての被造物は、贖われた者たちに仕え、すべては賛美となって、主に向かっているのです。
 しかし私たちが住んでいるこの地球では、そうなっていません。賛美を神の元に取り返し、賛美へと導くのが、他でもない私たちクリスチャンです。
 聖霊の働きは、最終的には、クリスチャンの心を、すべての造られたものに向けさせる働きであると信じます。

 新城教会の歴史を振り返る時に、聖霊さまによって導かれた歴史を見ることができます。
 歴史を振り返ると、そこに神のわざを見ることができます。私たちが時のただ中を歩んでいる最中は、神のわざは案外、見えないですが、振り返ると、「本当に主は、私たちのただ中で働いていてくださった!」と分かります。今から話す事柄は、復習も兼ねています。二年くらい前に話したので、覚えておられると思います。

 最初の聖霊の働きは、父が新城に来て、教会を始めた頃に遡ります。当時、父は全く鳴かず飛ばずで、田舎で伝道しても、なかなかうまくいきませんでした。しかし、スウェーデンの宣教師の方々に出会ってから、その働きに大きな変化が起こりました。そこから彼の人生は大きく変わりました。
 それは一九五四年のことです。私が生まれたのは一九五一年ですから、私が三歳くらいの頃に起こったようです。
 父は当時、教会だけでは生活できずに、豊橋の麻工場に勤めていました。仕事中に、彼は不思議な聖霊の声を聞いたと、「我土方なれど」という本に記しています。一九七ページに、

“それから数日後に麻工場の機械を手にしながら働いているとき、実に不思議なみ声を耳にした。確かに、私の耳元で、神の聖霊が語りかけられた。こんな経験は今までに一度もなかった。「今日、あなたが家に帰ると、スウェーデン宣教師のところから、手伝いをしている三輪町子さんがあなたの家に来ます。そして宣教師はあなたに伝道に来てくれるように依頼するでしょう。・・・そしてあなたはついには日本中を回って伝道するようになるでしょう。」”

 どうでしょうか、仕事中にこういう具体的な声を聞いたらどうしますか?
「・・・俺ちょっと危ないな、疲れているかもしれない」という感じじゃないでしょうか。ひょっとしたら病院に行った方がいいかもしれません。父の聞いた声は、まさにそんな感じです。
 しかし、その日のうちに、この声が実現したのです。スウェーデンの宣教師の秘書の三輪さんが本当に家に来て、麻工場で聞いた声と同じ事を伝えたのです。ということは、これが聖霊さまの声だったことが分かります。

 しかし、どうしてこんな田舎に、スウェーデンからの宣教師たちが来ていたのでしょうか。その事に関しても、二年ほど前にお話ししました。
 私の父を初めて伝道会に招いてくださったのは、当時豊川で働いておられた、オーケ・レナンデル宣教師夫妻でした。

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 豊川はご存じのように、海軍工廠があって、一九四五年八月に大爆撃を受けて、二千数百人の死者を出しました。そして一万人以上が傷つきました。そんな町に、戦後即、宣教師達が入って来ているのです。

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 これは海軍工廠が爆撃された後の写真ですが、当時はまだこんな感じだったと思われます。海軍工廠は夏に爆撃されたので、町の北側に大きな穴を掘って、死んだ人たちをとりあえず埋めました。豊川市において埋められた人たちの発掘と、身元確認作業が始まったのは、一九五一年だと言われます。ということは、発掘作業のただ中、この先生方は、伝道を開始されたわけです。本当にすごいです。
 そして一九五四年には、父を伝道者として引き出してくれたのです。それはまさしく聖霊の働きです。エルサレムで二千年ほど前に始まった聖霊の働きは、世界をめぐり、東三河にも流れてきたのです。

 二十世紀になって、世界における最初の聖霊の大きな働きは、ロサンジェルスの、アズサ・ストリートから始まりました。
 エルサレムで始まった世界を巡る聖霊の働きは、西回りで、ヨーロッパを巡り、一九〇六年、アメリカのロサンジェルスに到達したのです。
 アズサ・ストリートで起こったリバイバルは、初めは貧しい黒人たちの小さな集まりから始まったのですが、大きく広がっていきました。それが世界中に噂となって届き、ノルウェーからT・B・バレットという牧師がリバイバルを見に来たそうです。そこで、まさに聖書の世界が実現しているのを見、自分も聖霊の力がいただきたいと願って、黒人の方々に混じって祈っている時、聖霊の火を受けたのです。

 そして彼が国に帰った時、ノルウェーに聖霊の火が付くわけです。ノルウェーの隣はスウェーデンですが、聖霊の火はスウェーデンにも飛び火し、そこで何が起こったのかというと、「悔い改めのリバイバル」が起こったのです。当時のスウェーデンは国教会といって、キリスト教ではあっても、人々は勝手な生活をしていたわけです。しかし聖霊が注がれた時に、森で仕事をしていたきこりたちが、突然、自分の罪が示されて、村の教会にやってきて悔い改めをし始めたそうです。

 当時、豊川にもう一組のスウェーデン宣教師一家が来られていたのですが、それはリンデン先生一家です。私もよく存じ上げていた先生ですが、その先生はクリスチャンになる前は、悪いことばかりしていたそうです。しかし彼に悔い改めの霊が臨んで、森の中にある小さな教会に行ったそうです。そこで彼は悔い改め、聖霊を受けて、やがて日本にまで来たのです。
 当時、スウェーデンは生ぬるいクリスチャンばかりだったのですが、聖霊を受けた若者たちが二十世紀の初頭、モンゴル、中国にまで伝道に来たわけです。
 モンゴル、中国は広大で厳寒の地です。言葉も全く違う国に青年たちが遣わされたのです。

 しかし、太平洋戦争が終わり、中国で共産革命が起こり、一九四九年でしたでしょうか、宣教師たちは全員、国外追放されたのです。
 どうでしょうか、例えばモンゴルとか中国に宣教師として遣わされ、困難な中働いていたけれども、追い出されたらどうしますか?きっと自分の国に帰ると思います。
 しかしこの先生方は、自国に帰らないで日本に来たのです。それも、東三河地方に来たのです。
 彼らは中国語はできたけれど、日本語なんて覚える暇もなく来たわけです。伝道したいけれど、どうしたらよいのか?と祈っていると、豊川の隣町、新城に日本語ができるクリスチャンがいる、という噂を聞いたのです。それが父だったわけです。ただ日本語ができるというだけで、宣教師に招かれて、そこから働きが広がったわけです。
 海軍工廠が爆撃され、地獄の火が燃えたような豊川で、聖霊の火が燃え始めたのです。

 新城教会に、何度か聖霊さまの強い働きがあったと、以前にも話しましたが、その後、一九六〇年、当時の新城教会の青年たちにも聖霊が注がれたのです。
 この近所は製材所で、太い丸太がごろごろしていました。製材所で働いていた青年たちが救われて、彼らは休憩時間になると、丸太の間に入り込んで祈るようになりました。そこで突然、天が開かれ、聖霊さまが来られ、製材所で働いていた青年達に、「あなた方は自分の持っている夢を捨てなさい!そして、わたしの示す地に行きなさい!」と告げられたのです。
 それで彼らはどこに行ったのかというと、その方面から来ている方もおられるので、言いにくいですが、日本のモンゴル、チベットみたいな、奥地に入って行きました。普通では考えられません。新城からさらに山奥の、設楽町、東栄町、静岡県佐久間町浦川とか、ど田舎に入って行ったからです。

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 田中政男先生は、結婚した翌日に浦川に宣教に行きました。田中先生一家の写真ですが、懐かしいですね。
 鳳来町大野にも、見城寛治さんという方が教会を建てました。また、設楽町田口では、河合さんという方が伝道を始めました。
 そして東栄町では中村一夫さんが入っていきました。中村さんは新城教会のすぐ北側の夏目という地域の出身ですが、さらに田舎に行ってしまったわけです。ここで長く伝道しましたが、あまり実は残らなかったです。しかしそこから、「リバイバルミッション」が始まりました。その村であまりにも、伝道がうまくいかないので、私の父と田中先生が助けに行った中で、ビジョンをいただいたわけです。

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 これは私と田中先生のツーショット写真です。田中先生のネクタイ、かっこいいといつも思っています。さらに短くしたら、もっとかっこいいかもしれません。

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 やがて東栄町の東栄チキンに働いていたホルヘが牧師になって、彼のおかげで、私は毎年スペインのテレビ局で、テレビ伝道をするようになりました。これらの田舎宣教から、やがて甲子園ミッションにまでつながりました。それは、聖霊さまの働きでした。

 新城教会としての第一次聖霊運動というか、聖霊降臨は、一九六〇年でしたが、第二回目は一九七〇年に、子どもたちに聖霊が注がれた事です。
 その頃、子どもだったのが、先ほど司会をしてくれた岡本信弘先生とか、上條実先生とか、滝元開先生とか、私よりもちょっと若い年代でした。
 あの日のことを忘れることができません。私は高校生でしたが、学校から帰ると、教会が騒がしいので覗きに行きました。すると子どもたちだけで、祈祷会をやっていました。そこに聖霊が注がれて、子ども達は、畳を叩きながらリバイバルのために激しく祈っていました。ある者は異言を語り、ある者は霊の歌を歌い、ある人は泣きながら、ある者は笑いながら、主をほめたたえていました。
 そこで注がれた聖霊の火は、甲子園ミッションの原動力になりました。

 そして一九九二年二月に、愛知県民の森でさらなる聖霊の火と油が注がれて、霊的戦いが始まり、日本全土、世界に広がって行きました。今年は、甲子園ミッションが終わって二十五周年です。

 こうして歴史を振り返ると、まさしくエルサレムで始まった聖霊の働きが、私たちの所にも来られたことが分かります。
 ということは、次にも何かが起こるのです。必ず、何か起こります。
 それぞれの時代の人たちが、いかに主に忠実であるのかが問われるのではないでしょうか。今日、私たちがここにいることは、本当に大きな意味があると思います。
 あの頃福音は、魂の救いに限定される理解でした。しかしそれがさらに聖書から解き明かされて、福音は被造物全体のものである事に気づかされて、今や、世界に広がろうとしているのです。これは新しい段階です。主がもう一度、聖霊を注ごうとされている証拠です。

 先ほど、近代においては、一九〇六年にアズサ・ストリートでリバイバルが始まったと話しました。アズサの火が、多くの国々を経由して、私たちの所にも流れて来たとお話ししました。
 ということは、新城において教会が偶然に始まったように思うのですが、そうではなく、聖書の世界に直結しながら、今があるということです。

 以前もお見せしましたが、アズサ・ストリートで起こったリバイバルの映像があります。それは、「ウィリアム・シーモア」という牧師によって導かれたリバイバルでした。先日、再度、見て恵まれました。私たちも、こうなりたいと願いました。やはり聖霊さまの働きのために必要なのは、皆が心合わせて祈る事です。

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 アズサで起こったリバイバルが、世界中に広がり、日本、新城にも到達したということです。
 私たちには責任があります。受け継がれてきた聖霊の火を、消してしまうのか、さらに燃え上がらせるのかは、私たち一人ひとりに任されているのではないかと思います。

 アズサのリバイバルの中でも語られていましたが、普通の教会では、子どもたちは通路を走り回っているものだが、聖霊が注がれた時には、子どもたちは母親が静かにさせるのではなく、聖霊が静かにさせて、子ども達も共に賛美していたというのです。なんと、赤ちゃんさえも、天に手を上げて賛美していたというのです。いや〜、そんな光景、見たいですね。

 毎週木曜日、賛美集会がこの教会で開かれていて、大変恵まれています。是非ともお越しいただきたいと思います。
 毎回、子どもたちも多く来るのですが、賛美に合わせて走りっこしているのです。それを見ながら、「まだまだだな・・・。」と思っているのですが、先週、子ども達に変化が起きました。進君がやっぱり鍵でした。彼が前に出て突然、歌い始めました。そうしたら、走り回っていた子どもたちが寄って来て、一緒に、真剣に歌うようになりました。アズサで起こったことが、新城で起こったか・・・と一瞬思ったら、昨日のザワメキでは崩れていましたが、でも、ちょっと近づいてきたかなと楽しみにしています。

 アズサ・ストリートのリバイバルも、ロサンジェルスの大変貧しい、黒人の方々の地域に起こりました。歴史を見るとリバイバルは裕福な場所ではなく、貧しい地域で起こっています。
 なぜなら、そもそも福音とは、「主の恵みの年」、すなわち、「ヨベルの年」との関わりがあるからです。

 イザヤが預言した、「貧しい人々への福音」とは、「打ち砕かれ差し迫った窮乏にある人を救い出す」という意味です。
 最初のクリスマスに、どんなことが起こったのでしょうか。救い主誕生の知らせが最初に届いたのは、最も貧しく、将来を案じられていた羊飼いたちでした。彼らは将来を全く保証されていない、「ベドウィン」と呼ばれる遊牧民たちでした。

 彼らに救い主誕生の知らせが届いたのです。私たちも同じです。心貧しくなる時に、聖霊さまは来てくださいます。イエスさまは、エルサレムが富裕層と貧困層に分かれて、神の宮が貧困層から金を吸い上げる場に化しているような、時代に誕生され、やがて聖霊が注がれました。
 今、世界を見る時、貧困層と富裕層がくっきり分かれています。世界の問題を解決するためには、主が訪れてくださる以外に、解決の方法はないです。その為の鍵を持っているのが、他でもないクリスチャンです。
 クリスマスの時期、さらに聖霊を求めて、新しい扉を開いていただきたいと心から祈りましょう。

 新城に、今まで、何度も聖霊さまが訪れてくださったのは、次にも何かをして下さるからだと信じます。主は私たちに、何かをさせたいと願っておられるのではないでしょうか。
 最後に一言お祈りして、聖餐式にあずかりたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝をいたします。二千年ほど前に、エルサレムから始まった聖霊さまの働きが、今日もこの地にあることを感謝します。
 新城において、あなたは度々働いてくださっていますが、主よ、もう一度私たちは心を貧しくして、主の前に出ます。どうか私たちの所に来てください。このクリスマスの時、あなたが力強く働いて、ただ中に訪れてください。
 備えられたパンとぶどうのジュース、みことばと聖霊によって、あなたとひとつとなる機会として用いて下さい。聖霊さまが強く働いてください。今からの時を祝福し、主のみ名によって祈ります。アーメン。