「フェリス・ナビダ 〜幸せな誕生日〜」

2018年12月16(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書 29章11節〜12節

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ハレルヤ!イエスさまの誕生日を、心からお祝いします。今、聖歌隊のすばらしい賛美を聞かせていただき感動しました。何語なのでしょうか?ラテン語でしょうか。イエスさまの誕生を、ストーリー性をもって歌い上げていましたが、人類の歴史の中にイエスさまがお生まれになったのは、事実です。

 なぜ神が人となって来てくださったのでしょうか?人類は神さまの目から見たら、アリンコみたいに見えると思います。アリンコには自由意思が与えられて、隊列を組んで地上を歩んでいます。
 神さまから見たら、人の行く手に「危ない!」という場所も見えるはずです。アリジゴクって知っていますか?一度、陥ったら二度と脱出できなくて食われてしまうわけです。

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 行く手に、アリジゴクがあったらどうでしょう?もしも人が、「アリさん!前方にアリジゴクがあるよ。危ない!」と叫んでもアリには全く通じないと思います。もしもアリを助けたかったら、人がアリになって、アリ語を使い、「!#$%&・・・危ないよ」と告げたら、アリにも分かるはずです。

 人類のただ中に、神が人となって生まれ、私たちに危険を教えてくださり、救いの道も用意してくださったのが、イエスさまです。

 今、世界中でクリスマスがお祝いされています。しかし日本におけるクリスマスのイメージは、あんまり良くないです。キリスト教的なイメージよりも、こんなイメージではないでしょうか。

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 どんちゃん騒ぎをして、一杯飲んで、酔っ払うイメージです。そもそも、「メリー・クリスマス!」って言いますが、意味分からないです。メリーって、メリーさんの羊なのか、マリアさんの誕生日なのか、訳が分りません。
 メリーという言葉の意味を調べてみました。すると、「陽気な、笑いさざめく、愉快な、おもしろい、笑い楽しむ」とか、パーティーみたいな雰囲気の言葉です。

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 「メリークリスマス」という用語を分析しますと、「メリー」は、「お祭り気分、浮かれた」というような意味で、日本人は発音の違いが分かりませんから、マリアと通じるものがあります。
 そして、「クリスマス」の「マス」とは、カトリック教会の「礼拝」を意味します。ですからそもそも、「マス」という用語は、プロテスタント教会では使うべきではありません。「クリスマス」とは「キリストのミサ」という意味です。
 総合すると、「メリー・クリスマス」は、「浮かれたキリストのミサ」みたいな意味になるわけです。言わば、「飲んだくれて、マリアとキリスト崇拝のミサに行く」または、「飲んだくれてカトリック教会のミサに行く」というイメージが「メリー・クリスマス」の意味になるのではないでしょうか。
 ですから、「メリークリスマス!」って簡単に使いますが、あんまり積極的に使わないほうがいいのかな・・・みたいなところもあります。

 「メリー・クリスマス」をスペイン語だと、「フェリス・ナビダ」といいます。「フェリス」は「幸せな」、「ナビダ」は「誕生」という意味です。「幸せな誕生日」です。
 毎回私たちは、クリスマス礼拝に「メリークリスマス!」とお互いに挨拶をしますが、今日は、「フェリス・ナビダ!」とスペイン語でご挨拶をしたいと思います。日本語なら、「イエスさまの誕生日をお祝いします!」と挨拶しましょう。

 初めて、教会に来られた方もおられます。歓迎します。皆さんで、イエスさまの誕生日をお祝いできることを、心から感謝します。今日はスペシャル・ランチも用意されています。お昼ご飯のことは、心配しないでゆっくり過ごしていただきたいと思います。

 また今日は特別、キリスト教書店の移動販売車が来ています。キリスト教書籍やクリスマス・グッズを、わざわざ東京から「いのちのことば社」の方々が運んで来てくださり、華やかに、教育館のホールでお店が出ています。そこにも、立ち寄っていただきたいと思います。

 私は毎月、「舟の右側」という雑誌に連載中です。「私たちの格闘」という原稿を書いています。その雑誌も、是非とも、買っていただきたいと思います。この十二月号では、「今年、新城教会で起こった神の奇跡」を紹介させていただきました。
 イエスさまが本当の神なのか否かは、信仰生活の中で最も重要です。しかしそれを証明するかのように、今年は、本当にすごいことが起こりました。今までの礼拝の中ですでに話していますが、今日は、初めて教会に来られた方もおられますから、紹介します。二回以上聞かれる方は、寛容な心で聞いて下さい。
 先ほど読んでいただきました聖書箇所は、大好きな箇所です。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 私たちの神さまは、「わざわいの神」ではなくて、「将来と希望を与える神」です。
 日本の神々は、すべて「わざわいの神々」です。なぜ、日本人はいろんな神々を拝むのか、それはわざわいを恐れるからです。
 多くの人が、悪いことが起こると、占い師の所に行きます。そこで言われることはただ一つです。「あんたが拝んでいる神様が祟っている」です。先祖まで祟る神になります。日本人は、わざわいを恐れ、わざわいを引き起こす神々を恐れて、神々を拝むのです。
 ということは、よく考えなければいけないです。自分が拝んでいる神は、「自分にとって有益な神なのか、または、敵なのか」を見極めなければいけないのです。人間には自由意思があります。自己判断によって、将来が変わります。世界には多くの宗教がありますが、「比較宗教」という学問があって、一つ一つの宗教を検証し、比較すると、キリスト教の神さまだけが、わざわいを与える神ではなくて、「将来と希望を与える神」であることが分かります。
 現在の世界宗教地図は、大きく分ければ「キリスト教とイスラムの二大勢力」です。最近、イスラムもかなり増えていて、このままだとキリスト教は追い抜かれる勢いがあります。
 しかしイスラムの神、アラーは怖いです。彼らの教典はコーランですが、もしもあなたがコーランに石油をかけて燃やしたら、翌日には、日本中のイスラム教徒があなたの家を取り囲んでいます。イスラム教徒がクリスチャンになって、コーランを焼いたら、死刑になります。恐ろしいです。
 けれども、聖書に石油をかけて焼いても、誰も文句を言わないです。どちらが寛容な神様でしょうか。聖書の神さまは、わざわいの神ではないのです。聖書の一ページが破れたとしても、「おまえ、俺のことばを破ったな!」なんて、言われる神ではありません。将来と希望を与えてくださる神です。

 神ならば、「過去も、現在も、未来も」、手中に収められているはずです。ということは、神がことばを発せられた時点で、すでに将来という時間軸の上に、良いものは現実として出来上がるのです。私たちは、過去、現在、未来という時間の流れの中で、それも現在だけ、この瞬間しか生きることを許されていません。次の瞬間、何が起こるのか、分かりません。大地震が起こって、死んでしまう可能性だってあるわけです。
 しかし神は、私たちが失った過去も、現在も、未来も、同時刻で握っておられるのです。過去も現在も未来も、時間も空間も、すべて神が造られた「被造物」です。

 二十世紀になって、アインシュタインが「時間と空間は不変ではない」という事実を発見しました。それまで、「時間と空間は絶対的で不変である」と信じられてきました。しかしそうではない事がわかったのです。時間も空間も実は、相対的なもので、伸びたり、縮んだり、前に進んだり、後ろに戻ったりする可能性もあるのです。私たちの住んでいる空間も、広がったり、縮まることさえあるのです。

 物を落とすと落ちるのは、万有引力の法則です。ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て、引力の法則に気づいたわけです。しかし近年になり、重力がなぜ発生するのかがはっきり分かりました。

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 それは空間が地球の重さでたわむからです。空間には何もなく、ただ、地球はそこに浮いていると信じられていたけれど、空間自体が物質なわけです。ゆえにそこに重い地球が乗れば、空間はたわみ、物を落とすとその谷間に落ち込むのです。
 ということは、神が創造された作品の中に、「時間と空間」も含まれているのです。となると、私たちに将来と希望を与えてくださるという約束は、ある一定の時間を経過したら神が重い腰を上げて、やっと良いことをしてくださるように感じるのですが、そうではなく、神を信頼した瞬間に、良いものは実体として、未来という時間軸上に出来上がるのです。

 しかし、人の幸せを妬み、人を苦しめる悪魔や悪霊どもも存在します。彼らは時間の外で活動できる存在として、創造された生物です。
 彼らは神が未来に創造された良きものを阻む働きをしているのです。神の創造された「将来と希望」の途中に、わざわいを置くのではないかと思われます。
 なにか将来にわざわいがナビ設定されていて、影響を受けているような人生って多いと思います。
 みなさんの人生はいかがですか。わざわいがナビ設定されているように感じている方はいませんか。わざわいに引き寄せられていくような人生も、ある気がします。

 しかし私たちがイエス・キリストを信じれば、わざわいではなくて、神の計画に直結するのです。
 私たちの神さまは、過去も、現在も、未来も、すべて管理してくださり、過去も祝福し、現在も祝福し、将来も祝福してくださるお方です。

 普通、過去は取り戻すことは出来ません。一度失った時間は、取り戻すことができません。
 私も今年で六十七才になりますが、最近よく思うのは、「俺は人生損したな・・・」ということです。若い頃なんて、ほとんど将来のことは考えなくて、ただ無駄に時間を過ごしていたような気がします。雑に生きてきたなぁ、もう少し将来設計を立てて、思慮深く生きてきたら、人生は変わっただろうと思います。今になってはもう遅い、という感じです。
 若いみなさんにおすすめいたします。一日、一日、毎日を大切に歩んでいただきたいと思います。

 しかし、聖書を見ると、神は時間軸を越えて働く方であることが分かります。そういう視点で聖書を読みますと、興味深いです。時間が未来に進んだり、時間が止まったり、さらには過去に戻ったという記録さえ、聖書にはあります。
 ということは、私たちの主は、時間さえも手中に収められているお方なのです。

 第二列王記二十章九節〜十一節の記録はたいへん興味深いです。ヒゼキヤというユダの王様が病気になりました。余命幾ばくも残っていないほどでした。彼は癌になったようです。するとイザヤという当時最も強力な神の人がやってきて、ヒゼキヤ王に告げました。「あなたはまもなく死にます!」と宣言したのです。
 その時、ヒゼキヤはどうしたのかというと、地位とか名誉とかを、かなぐり捨てて、ただ壁に顔を向けて、「主よ。助けてください!」と真剣に、神に叫んで祈ったのです。
 すると神は何と告げられたかというと、「わかった。おまえの祈りを聞いてやる。あと十五年、寿命を延ばしてやる。」と、彼は十五年命を延ばしてもらったのです。

 現代も同じです。総合病院などに行けば、毎週、どのくらいの人たちが余命宣告を受けるのでしょうか。「あなたの命は何か月です。」
 家族、親族の、余命宣告の現場に立ち会ったことがあるかもしれません。私はあります。親父が病気になった時、医者に呼ばれて、「あと何か月ですね。」と言われました。そして、言われた通りになりました。医者のだいたいの経験で、分かるのでしょうね。
 現代世界にヒゼキヤ王が住んでいて、病院に行ったら、「あと六ヶ月です。」とか言われたはずです。しかし、彼が真剣に神の前に出て祈った時、十五年寿命を付け加えてもらったのです。
 ということは、クリスチャンには希望があります。「もう駄目だ!」というような場面でも、主に叫んで祈ったら、まだまだ、希望があるということです。

 それと共に、神は証拠としての奇跡を行われました。それは何かと言うと、影が十度前に進むか、後ろに戻るかの、どちらか選べと言われたからです。ヒゼキヤは、影が後ろに十度、バックする選択をしました。
 以前も話しましたが、「十度」と訳されていますが、原語におきましては、「十段」となっています。当時の日時計は階段でした。「十段バックする」とは、瞬間的に時間が過去に戻る事を意味しています。
 これをある方が分析して、十段とは、地球の自転の四分の一くらいが瞬間的にバックする距離になり、赤道付近ではほぼ、一万キロメートルくらいバックした計算になるというのです。

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 普通、時間が後ろに戻るなんてありえません。地球が自転しているのが止まって後ろに戻るなんてありえません。また、どのようにしてこの奇跡が起きたのかと言うと、神の一方的な奇跡ではなく、「イザヤが主に祈ると、」と記されています。イザヤの祈りによってなされたのです。
 クリスチャンに与えられている、祈りの武器は強力です。祈りは時間軸にも影響を与える武器である事がわかります。時間が前に進むのは簡単だと言われています。しかし、後ろに戻ることは、物理学的にも難しいです。しかし、イザヤの祈りによって、時間さえも取り戻したのです。影が十段後に戻った事は、十五年、寿命を取り戻したことを意味しています。
 私たちクリスチャンは、どんな時にも、希望を捨てないで歩むことができるのです。

 私はこのメッセージを今年の六月の水曜主日礼拝で語りました。その時、信じられない奇跡が起こりました。
 「舟の右側」にも紹介したのですが、そこに一人の男性が来ておられました。その方はベテランのトラックの運転手ですが、最近トラックが変わったというのです。新しいトラックに変わり、荷物の積み卸しの時に時計のガラス部分を荷物に当てて割ってしまったというのです。ガラス面が三つに分割されて割れたそうです。
 奧さんに、「割れちゃったから、新しいのを買って。」と言って時計を見せると、「あー、これは駄目だね。でも今、お金がないから一年後。」と言われて、ショックだったそうです。その時計はすでに、十年以上使っていて、新しい時計になるからちょっと楽しみだったそうです。
 私が日時計の話をしたから、彼は新しい時計が欲しいと思いながら、割れている表面を触りながら、メッセージを聞いていたそうです。でこぼこと三段に割れていたそうです。
 礼拝が終わって、家に帰ろうとした時の事です。ここからは、信じる信じないは、みなさん次第!ですが、割れていたガラスが元通りに直っていたのです。

 彼は別にガラスを直して欲しいとは思っていませんでした。新しいのが欲しいと思っていましたから。しかし直っていたのです。
 こんなすごい奇跡が起きても、彼はあまり感動しなかったそうです。「あ・・、直っている。」と思ったそうです。ちょっと、がっかりしたところもあったそうです。「新しい時計が買えたのに…。」と、まじまじと、直った時計のガラスを見たそうです。

 すると神さまに対して不満が出てきたというのです。どういう不満かというと、ガラスだけは直っていますが、金属部分には細かい傷がいっぱいあります。だから、「ガラスだけを直すのではなく、周りの傷も治して新品にしてくれても良かったのに・・・」と思ったというのです。「どうせ直すことができる神さまなら、細かい傷だって取って欲しかったな」と思ったそうです。
 その時、彼は神さまからの語りかけを受けたのです。なんと言われたのかというと、「ガラスが割れる前の状態にまで、戻しておきました。」という声を聞いたそうです。それで、はっ!としたというのです。

 人生で、「あの時点から割れちまった!」ということ、あるじゃないですか。多少の細かい傷はともかくとして、「あの時点から割れた!」と、覆水盆に戻らずみたいな感じで、「あの失敗が私の人生を支配している」みたいなところがあるのではないでしょうか。
 しかし神さまは、時間さえもバックさせ、割れる前の状態にまで戻すことができる方なのです。その奇跡は、預言的にこの教会に与えて下さったと信じます。
 彼は直してほしいと、別に思っていませんでした。この奇跡が起こったのは、個人のためというよりも、「すべての人のため」なのです。主を信じる者たちへの励ましです。
 人生の中で問題があったとしても、割れる以前まで主は戻すことがお出来になるのです。そのことを信じましょう。

 今まで、なんとなく漠然的に、「どうか私の過去の傷を癒やしてください・・・」みたいな、願望的に祈ることはあっても、割れる以前の状態にまで、主は戻すことができるという信仰で祈った事がありませんでした。そこまで出来るとは、考えてもみませんでした。しかし私はこの奇跡を通して、すでに聖書の中に記録がある事ですから、時間さえも支配される神に対して、信仰を持って歩みたいと強く願わされています。

 「フェリス・ナビダ、幸せな誕生日」、イエスさまは神の国から、時間も空間も押し曲げて、すべての天を通過して地上に来てくださったお方です。
 今話したのは、「過去に関する奇跡」です。

 さて、私たちの人生の中で最も問題となるのは、やはり「現在」です。現在、どうしても解決を必要とする様々な課題があり、その祈りが答えられるか否かが、大きな課題であるわけです。私たちの神は、今も、この時点でも働いておられるお方です。聖霊さまは、私たちのただ中に今も働いておられるはずです。

 クリスマスにはいつも、赤子のイエスさまが出てきますが、それはおかしいと思います。クリスマスは、よみがえりのイエスさま、今現在、働いておられるイエスさまを讃え、礼拝しなければならないはずです。
 みなさんの誕生会もそうですよね。誕生会に、生まれた日の裸の写真を持って来て、「あんたはこうだったんだよ。」みたいなことを、毎回言われたら、「もうやめてくれ!今の俺を見てくれ!」と言うはずです。
 イエスさまだって同じではないでしょうか。赤子のイエスさまではなくて、現在働いておられる、現在進行形の神であるイエスさまを礼拝すべきです。

 「舟の右側」の十二月号に、もう一つ、この教会の小学一年生の少年に起こった奇跡を紹介させていただきました。少年Eとでもしておきましょう。
 その少年は今年の夏休み、一つのものが欲しかったみたいです。ホサナクラブという子ども集会に行ってみことばを聞いたそうです。「神にとってできないことはない!信じて祈ったら与えられる!」ということばを聞いたそうです。そういうみ言葉を聞くと、子どもたちは期待をして、「俺は信じて祈るんだ!」とちょっと自己実現的に祈りますからやっかいです。
 彼が欲しかったのは、リバイバルに関わることとは全く関係ない、ただカブトムシが欲しかっただけです。それもアトラス・オオカブトがほしい!

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 このカブトムシ、ネットで見ると三万、四万円の世界です。彼は一年生で、買えっこないわけです。でも「信じて祈ったら与えられる!」と聞いたものだから、「俺は祈る!」と言って、祈り始めました。そして彼は今年、バプテスマを受ける決心をしていました。バプテスマを控えての学び会で、「信じて祈ったら祈りが聞かれる」なんて教えてもらって、毎日のように、「アトラス・オオカブトをください!信じます!」と祈っていたみたいです。
 そうしたらお母さんが、彼の祈りを利用して、「お手伝いをしたら、イエスさまはアトラス・オオカブトをくれるかもよ・・・。」みたいなことを言ったわけです。
 なぜ、お母さんはそんなことを言ったのかというと、すでに情報を持っていたからです。近くのホームセンター「カーマ」で、アトラス・オオカブトの安売りをやっている情報をゲットしていたわけです。普通、三万円くらいするものが二千円くらいで買えるということを知っていました。お母さんは、それをうまく利用して、「ちょっと手伝え」みたいな感じで、彼は単純なので一生懸命手伝ったそうです。
 その途中も、「イエスさま、信じます。アトラス・オオカブトを感謝します。」みたいに祈っていたそうです。手伝いが終わってから、お母さんと一緒に、新城のカーマに行きました。
 そして、「アトラス・オオカブトください!」と言ったら、「すべて売り切れてしまいましたよ。」と言われたそうです。しかしチェーン店ですから、「全国のお店を調べてみますね。」と、調べてもらったら、残念ながら全国どこにも残っていないという結果でした。彼は大きく期待していただけに、天国から地獄に落とされたようでした。そこで泣きじゃくって、大変な世界になってしまったそうです。

 でもそういう時には、やっぱり、お母さんも祈らなければいけないのです。お母さんも「はまってしまいました・・・」みたいな感じで、真剣に祈ったそうです。「神さま、どうしたらいいでしょう。」と祈った時に、「もう一度お店に行って在庫を調べてもらえ。」という思いが与えられたそうです。
 彼は一晩泣いていたそうです。もう一度、お母さんはカーマに行って、「すいません、もう一度調べてくれますか?」と頼んだそうです。すると、なんと、「在庫一匹」と表示されたのです。彼は本当に喜びました。それも、豊橋の新しくできたカーマに一匹残っているという事でした。
 早速、店員さんが電話してくださったそうです。「そのカブトムシを送ってください。」と電話すると、なんかやりとりの雰囲気がおかしいと言うのです。「そうですか・・そうですか・・」みたいな感じで、後から結果を聞いたら、オオカブト、いるにはいるけど、脚六本の内、三本が取れていて、弱りきって死にかけているという答えでした。受け取るのは明日だから、それまで生きている保証はないという答えでした。
 彼は期待したのが、それを聞いてがっかりです。親子ともども、またまたショックで、彼はまた大泣きです。
 しかしお母さんが、「死にかけていて、脚が三本取れているけど、どうする?」と聞いたそうです。すると彼はしばらく考えて後、「僕、その脚が三本取れているカブトでいいから受け取る」と答えたそうです。

 なぜ彼がそう答えたのかというと、本当に私たちの神さまはやさしい神さまです。彼がお店に来る前に、ユーチューブで「パラリンピック」の映像を見たらしいのです。パラリンピックの選手たちが、脚がなくても、手がなくても、すごくかっこよかったというのです。選手達が活躍している映像を見て感動し、このカブトだって、三本脚がなくたって、パラリンピックの選手たちのようにかっこいいに違いない!と言ったそうです。パラリンピックの選手と、カブトムシを結びつけるのは、あまりにも飛躍だと思うのですが、彼はそう考えたらしいのです。
 「僕はそのカブトを受け取る。」と言って、次の日まで真剣に祈ったそうです。「神さま、明日まで生きていますように!」と、真剣に祈って、次の日にお店に行ったら、生きていました。彼の祈りが聞かれた!のです。

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 これはその時の写真です。三本脚がないですが、これで彼は大満足です。ハレルヤ!という感じです。
 でも、ストーリーはここで終わりませんでした。

 ここは豊橋の新しいお店だったので、カブトムシをレジに預けて、店内をお母さんと散策したそうです。あるコーナーに行ったら、「夏休みスクラッチくじ大会」みたいなコーナーがあったそうです。
 少年がどうしてもやりたい!と言うものだから、「少し苦労したから、やらせてやるか・・・」ということで、お母さんはクジを引かせてあげたそうです。すると彼は大量のスクラッチくじの中から、一枚を引いたそうです。
 さすが神さま、なぐさめの神さまですね。引いたら、「一等賞!」となれば良かったのですが、一等ではありませんでした。四等だったそうです。「なんだ〜四等か!」という感じだったようです。
 すると店員さんが、「四等ですね。では、四等の賞品を持って来ます。」と、奥のほうに入って、「はい!これが四等の景品です。」と、彼に箱を手渡しました。それで彼はその箱を開けました。開けたら何が入っていたのか。なんと!脚がちゃんと六本ついた、元気なアトラス・オオカブトが入っていたのです!!これは在庫とは違う、コンピューター上の在庫には載らない特別なカブトムシでした。それも、四等賞の中に、彼が最もほしがっていたものが入っていたわけです。

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 彼はその日、二匹のアトラス・オオカブトのオーナーになったのです。小一の少年に起こった奇跡ですが、神が祈りに答えられるプロセスが理解できます。

 時々、祈っても期待通りの答えが来ないことがあります。「なんだ。神さま生きているなんて、嘘じゃないか!」と、天国から地獄に突き落とされるような、答えもあるかもしれません。また、答えが二転三転する事もあります。けれども、最終的には、神は必ず良い着地を与えて下さるのです。

 私はこの話を先日の礼拝でもお話しました。このストーリーを聞いて、希望を持った人がいました。その方はあるアーティストの大ファンで、コンサートに行きたかったそうです。でもチケットは全て売り切れていて、チケットを手に入れるのは不可能でした。当日券販売はなく、当日、会場に行って誰かからチケットを譲ってもらわないとコンサートには入れません。コンサートを観たい人にとっては、例えば、五千円のチケットでも、十万とか二十万とか、高く取引されるので、最近は横流しが規制されています。それでも横行しています。有名なアーティストのコンサートに行きますと、大勢の人たちが、「チケットを譲ってください!」というプラカードを持って、会場前に立っています。彼女はその為に行ったそうです。最近はほとんど手に入らないそうです。しかし万が一、譲ってもらえたとしても、規制されていますから、結構手続きが難しいらしいです。入場できる希望はほとんどありませんでした。
 しかし彼女は、「あの少年にアトラス・オオカブトをくれた神さまは、私にもチケットを用意できる!」と信じて祈ったというのです。
 何が起こったと思いますか?会場の前で立っていると、全然、知らないお姉さんが来て、「私と一緒に入りませんか?今、二枚のチケットを持っています。私はあなたにこのチケットをあげたいと思います。私に付いて来なさい。」と言って、全然知らない女性が現れて、一緒に会場に入れてくれたというのです。
 中まで連れて行た女性はたいへん綺麗な人で、天使のようだったというのです。いや〜、ストーリーはカブトムシだけで終わっていないですね。奇跡は続いています。

 私たちの信じる神さまは、今も働く神さまです。今年主は、新城教会にいくつかの奇跡を起こしてくださいました。
 病の癒やしを祈るとき、時には癒やされることもあるし、癒やされないこともあるかもしれません。しかし主の手にゆだねて、いやしを祈るべきだと思います。

 私は病気をしたことがあまりないのですが、二十代後半に一度あります。それはどんな病気かというと、「顔面神経麻痺」って知っていますか?朝起きた途端に、目がおかしいなと感じて、歯磨きすると口の筋肉が麻痺していて漏れるんです。その頃暇で、釣りにばっかり行っていて、一日中、冷たい風を顔半分に受けていたら、麻痺したようでした。あの時から顔が悪くなったのですが、本当にひどかったです。治るまでに三ヶ月くらいかかりました。私は病院に行きませんでした。馬鹿ですね。すぐに行けば良かったのですが、その後、忙しくなってマスクや眼帯をして過ごして、三ヶ月くらいしてやっと直りました。でも、あれはきついです。本当に嫌な病気です。その辛さはよく分かっています。

 先日、ほとんど電話なんかない方から電話がありました。「順先生、今どこにいますか?」『今、教会にいます。』と答えると、「そこから動かないで!」という感じなのです。『なぜ?』と聞くと、「今、病院で二週間の入院を言い渡されたけれど、まずは祈ってもらってからと思って。」と言って、病院から直接その方は教会に来られました。
 どうしたのかと聞くと、顔面神経麻痺でした。本当に惨めでした。私もよく分かっているから、真剣に祈ってあげました。私は病院に行かなくてもいやされたので、「女性の方ですからかわいそうです。癒やしてあげてください!」と真剣に祈りました。また病気の背後に悪魔が働いている時があります。その暗闇にも立ち向かって祈りました。今日、移動販売が来ている場所で祈りました。
 祈っている途中で、彼女が「熱い、熱い!」と言って、汗をだらだら流し始めました。翌日、病院に行きました。何が起こったかと思いますか?何も起こっていなかったら、こんな話をするわけがありません。完全に良くなっていました。神経に電極をつけて調べると、すべて動いていたのです。「あなた正常ですよ!」と、何も悪くなく、入院は中止になりました。主の名を賛美します!ハレルヤ!

 先日ペルーに行きましたが、帰国した次の日曜日、私はインターナショナルの集会で奉仕をしました。メッセージの少し前に、「順先生、一人祈ってほしい人がいます。緊急だから来て下さい!」と呼び出されました。そこにはペルー人の女性がおられて、顔面神経麻痺でした。
 私が麻痺しても顔が平たいから、目立ちませんが、その方はくっきりした顔立ちの方で、見た目もかなり大変な感じになっていました。一見して、これは大変だなと思いましたが、真剣に祈りました。
 先週、「順先生!私を覚えていますか?治りました!」と言われました。これで二連勝です!これからも、いやしが頻繁に起きると信じます。

 私たちの神さまは現在を支配しておられる神さまです。過去も取り戻し、現在も助け、将来に向かっても希望を与えてくださる神さまです。

 親父が二〇一五年に亡くなって、母が二〇一六年に亡くなり、死ぬことなんてあまり考えませんでしたが、ちょっぴり考えるようになりました。滝元家で親父が死んで、母が死んで、次の葬式誰かな?と考えると、「次は俺か!」と気づき、死ぬ時って、どうなるのかなって、時々考えるようになりました。
 私は予言します。それは、「百年経ったら、ここにはだれもいません!」という予言です。百年後に新城教会に来ても、今いる人は誰一人いません。全員、総入れ替えです。百年も経ったら、地球は総入れ替えになります。
 死ぬ瞬間って、たぶん海外旅行の出国の列につくような感じではないかと思います。
 死んだ時って、結構、変に感動すると思います。「いや〜、世界では一度に大勢死ぬものだなぁ。」みたいで、周りといろいろ会話をすると思います。「あなたはなぜ死んだのですか?」「私は突然の交通事故です。」とか、「私は癌で死にました。長い闘病生活でした。」とか、「私は老衰です。」とか、いろいろ死亡原因はありますが、全員、出国の列に付くのです。
 出国したら、他の国に入国です。地球から出国したら、、新しい国に入国です。
 日本のパスポートって、いろんな国に入れます。しかし死後、入国できる国は、たった「二国だけ」です。
 日本人ってそれを本能的に気づいています。なぜなら、「お迎えが来る。」と言うからです。本当に来るわけです。

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 光の国から一名、闇の国から一名、お迎えの係が来て、どちらかに引き取られていくわけです。それは死んだ時のお楽しみです。「クリスマス集会で聞いたとおりだ・・・」と思い出すでしょう。
 もしも地上でイエス・キリストを救い主と信じていたら、天使が、「よくいらっしゃいました!あなたは永遠の国に入ることができます!」と、神の国に連れて行ってくれます。
 しかし、地上でイエスさまを救い主と信じることができなかったら、暗闇の世界に引き取られるでしょう。そもそも、救われるとはどういう意味があるのかというと、「暗やみから光に、サタンの支配下から神の支配下に移される」と記されています。
 この世は悪魔の支配下にあり、生まれながらの人間は悪魔の支配の中にあります。そのまま出国すると、悪魔の支配下ならば悪魔の国に行くわけです。
 しかしイエス・キリストを信じれば、神さまの国のパスポートがもらえます。そして神の国入国ビザを発行してもらえるわけです。そうすると、出国後は、光の天使が迎え、永遠の国、天国に入ることができるのです。

 「将来と希望」とは、過去にも、現在にも、将来にも、いや、永遠においても有効であることが分かります。
 信じるか信じないかは、それぞれの自己判断ですが、こんなすごい神さまを信じないわけにはいきません。
 パスポートをもらうのは簡単です。『イエス・キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われる。』とありますから、「イエスさまを救い主としてお迎えします」という祈りをしておくことは重要です。その時、神の国、入国の許可が下りるのです。

 今日はみなさんとご一緒に、お祈りをしたいと思います。神の国に入るパスポートをいただくと共に、過去、現在、将来にわたって、すべて勝ち取ってくださるイエスさまに期待したいと思います。
 ではみなさん、私の後についてお祈りしてください。

父なる神さま、今私は、イエスさまの名前によって高らかに宣言します。
私の救い主はイエス・キリストです。
私の人生に来てください。
私のパスポートを神の国のパスポートに変えてください。
過去も、現在も、未来も、永遠も保証してくださることを心から感謝します。
イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

 続けて一言お祈りします。

 ハレルヤ、主よ、感謝します。今日は、あなたの幸せな誕生日を祝うことができて心から感謝します。イエスさまは今も生きておられます。主よ、一人ひとりの過去の割れてしまった部分を、割れる前の状態に戻してください。
 また現在持っている、さまざまな問題や苦しみ・病も、癒やしてください。将来にはわざわいは決して存在しないことを宣言します。そして、永遠の国まで、私たちを導いてください。
 今、私たちは共に聖餐に預かります。ここに備えられました、パンとぶどうのジュースを祝福してください。みことばと聖霊によって、聖餐式にあずかります。過去も現在も将来も貫いて、主が触れて下さいますように。イエスさまのみ名を通して、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。