「本当の自由Part2」

2018年12月23(日)
新城教会牧師 四元雅也
ガラテヤ人への手紙5章1節

『キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。』

 ハレルヤ!感謝します。今日はこのように皆さんの前でメッセージを取り次ぐ機会が与えられましたことを感謝します。
メッセージの緊張も忘れて後藤姉と星野姉の特別賛美に聞き入ってしまいました。礼拝の後で教育館ロビーにおいてCDは二千円で、絵本は千円で販売されます。お二人が直々に手渡ししてくださいますので、ぜひ買っていただけたらと思います。

 イエスさまのご生誕を心よりお祝い申し上げます。
 昨日は冬至ということで、一年のうちで一番太陽が暗く、また日照時間も短い、そういう時でした。古代から世界的に太陽が力を盛り返すようにと、偶像礼拝の祭りなんかが行われております。
 この時期にクリスマスが設定された中にも、やはり霊的な戦いによってそのような悪しき風習を勝ち取っていくという意味合いがあるのではないか、そういう役割がクリスマスに求められているのではないかなと思います。
 なぜならイエスさまはこの世に与えられた光でありますから、イエスさまご自身が光、太陽も光ですけれども、イエスさまは到底比べることもできない真の光であります。クリスマスに私たちにその光が与えられたことを喜んで、今日は礼拝を献げていきたいと思います。

 お隣近所の方に宣言してあげていただきたいと思います。「今日あなたにイエスさまの光が注がれます!」と言ってあげてください。アーメン!
 今日は主の日ですので、イエスさまの光が私たち一人ひとりに注がれる日であることを信じ、また宣言したいと思います。

 クリスマスの集会が、いくつか先週行われました。先週は水曜日に水曜クリスマス祝会が、土曜日には中高生のレッツプレイズクリスマス、それからインターナショナルの浜松クリスマス集会が行われました。それぞれお祈りいただきまして素晴らしい祝福をいただきました。
 水曜日の礼拝とレツプレクリスマスは、それぞれ七十名ぐらい参加していました。レツプレの方は、中高生の兄弟姉妹が一生懸命にお友達を誘って、クリスチャンの倍以上のノンクリスチャンの方が集まって、中高生たちのエネルギッシュな熱気がムンムンするような集会でありました。本当に祝福されましたことを心から感謝いたします。

 また今日は、インターナショナルクリスマスも午後から予定されています。

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 クリスマスコンサートが火曜日にはいよいよ行われます。これは是非皆さん期待して、まだチケットをお買い上げいただいてない方は、今日買ってお帰りいただきたいと思います。

 今日は「本当の自由パート2」というメッセージタイトルをつけました。順先生の受け売りみたいなタイトルです。いつのメッセージのパート2かと言いますと、三年前、二〇一五年の六月七日です。そのパート2ということで、続きのような話をさせていただきたいと思っています。

 今年の四月から、青年会で月一度、礼拝後に「Aランチ」という集まりを持っているのですが、バイブルスタディーを持たせていただいています。それは一年で聖書を学ぼう、旧・新約聖書全部を一回三十分くらいの講義で、十二回で学ぼうという、ちょっと無謀なことをやっています。先月までで八回目が終わり、旧約聖書を終えました。今月は来週ですけども新約聖書に入って行こうとしているところです。

旧約聖書は大きく分けると四つの分類をすることができます。

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 まず一つが「律法」という分類です。これは創・出・レビ・民・申命記、「モーセ五書」なんていう呼び方もされますが、天地創造からイスラエルの誕生まで。
 歴史書がそれに続くヨシュア記からエステル記までです。ヨシュアから捕囚帰還までのイスラエルの歴史。
 詩歌書がヨブ・詩・箴言・伝道・雅歌の五巻。またこの中から詩歌と知恵文学の二つに分けることができます。
 そして預言書。預言者たちに与えられたことばであります。イザヤ書からマラキ書まで。これも大預言書と小預言書と分かれます。このように四つに分けることができます。

 先月十一月十一日に私はメッセージさせていただいたんですが、その時に、出エジプト記の二十章に、神さまがイスラエルの民と契約を結ばれて、その中でこの十戒を与えられた、という箇所をお話しさせていただきました。
 十戒は、十の戒めというふうに書かれてはあるんですが、でも「戒め」というよりはむしろ「教え」というふうに受け取った方がいいとお話しさせていただきました。
 十戒の原語は、「トーラー」という言葉が使われていますけれども、トーラーというのは戒めではなくて、「教え」という意味があります。

 私たちは神さまを信じて生きてく上で、神さまが私たちに与えられた掟を守り、行い、その道から逸れなければ救われる、行いによって救われるのではない、ということが聖書を見ると分かります。
 そして神さまもそのような意味で十戒を与えられたわけではない。「おまえたち、この掟を守れよ!守ったら救ってやるからな!」そういう関係を与えたのではなくて、まず民をこのエジプトの奴隷の中から救い出して解放し、その民と神さまは、「これからわたしとおまえたちは、「神とその民」という契約を結ぶよ。いいですか?」と民に語りかけて、それに応えて、「あなたを私の神とします!」とイスラエル全体が意思を表したところで、神さまが「わたしと付き合うにはこのようなことに気をつけるんだよ!わたし以外に神はいないんだからね。あなたがたを導いたのはこのわたしだから。それ以外の神に膝をかがめ拝んではいけないんだよ」というふうに教えを示された。神さまが嫌われることを教え、神さまと付き合っていくためにはこのようにすべきであるということを教えられたというのがこの十戒だということをお話ししました。
 だから掟ではなくて、むしろこの民の叫びを聞かれて救い出された神さまがこの民に、友好講和条約を結んだような、そのようなものであるということです。

 神さまは、そもそも最初の人間アダムとエバを造られた時に「自由意志」を与えられましたよね。人は神に自らの意思を持って仕えていくことを選ぶこともできるし、そうじゃない道を選ぶこともできる。
 私たちはそのような選択の自由を神さまから与えられて、また私たちの心に神さまは「正しいものが何なのか」という判断力をあらかじめ備えてくださっているのです。そんな思いによって私たちが自分の意思で神に従って、神さまが教えられたことを守っていくことができるようにと備えてくださっているわけです。

 一方預言書とは、このイスラエルの民が神から離れて罪に陥ろうとする時に、神さまが預言者を遣わされて、「危ないよ!そのまま行くとあなたがたに不幸が待ち受けています!罪のためにあなたがたは大変な目に遭うかもしれない。敵が攻めてくる!あなたがたに危険が迫っていますよ!」なんとか罪の道から引き戻そうとして神の民に遣わされたのが、預言者です。
 だから神と共に歩む歩みを教えられたのが律法、そしてその道から離れて逸れていこうとする民に対して神さまが引き戻すために与えられたのが預言であるということができます。

 そして、詩歌と知恵文学があります。青年会では先月学びました。学びながら、改めておもしろいなと思いました。
律法は教え、預言書は警告と受け止めることができるのですが、それだけでは不十分なので、神様は旧約聖書にこの詩歌と知恵文学を与えられているのです。

 詩篇とか雅歌が、詩歌に含まれます。詩歌というのは、人の心の動きに対してケアをする、そんな分類の書巻です。私たちの感情的な部分、信仰を持っていても、生きていくうえである時は喜んだり、悲しや悩みがあったり、苦しみや怒りなど、いろんな感情を持ちながら、起きてくる様々な出来事に対して反応しているわけですが、神さまと人間との関係で、ただ教えや戒めだけでは片付けられない感情的な揺れに対しても、神さまは関わってくださるということを現しているのがこの詩歌です。ですから、詩篇を見ると、人間の感情的な部分がより露わに表現される「詩」という形で書かれています。

 知恵文学は、信仰者としての歩みについて具体的に教えています。伝道者の書を一章一節〜二節と、十二節〜十四節を読んでみます。

『エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。』
‥‥
『伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。』

 有名なことばです。伝道者の書の冒頭に、『エルサレムのダビデの子、伝道者のことば』と書かれていますが、ダビデの次の王様ソロモンが書いた書簡であると言われています。
 ソロモンはイスラエルの王の中でも最も有名な王の一人、そしてイスラエルが最も隆盛を誇った、栄華を極めた時代の王だったと言われています。
 そのソロモンが、伝道者の書の書き始めに、『すべては空。』と言うわけです。ソロモンも、神さまをよく知っていたのです。神さまを知っている者、今でいったらクリスチャンですが、クリスチャンが『すべては空。』と言ったら、「あんたそれでもクリスチャン?」と言われそうな言葉であります。仏教の神髄は「空」だとよく言われます。
ソロモンは得たいものはすべて手に入れ、手に入れられないものは何もなかったんです。贅沢三昧、奥さんもたくさんもらい、事業も拡張して、国は敵なしで周りの国々からは毎年大量の貢物が入ってくるという、そういう状況の中で、ソロモンは「空しい」と言った。
 人生の虚しさというのは、人類の歴史の中で絶対に切り離すことができない大きなテーマではないかと思います。いつの時代であっても神さまとの関係が、日ごとに深まっていくのでなければ、その人生は空しいのです。
 ここでソロモンが「天の下ではすべてが空しい。日の下ではすべてが空しい。」と言いましたが、それはどういう意味かというと、神さまを除外した、神さまのない、この地上での営みというのは、どれほど金を儲けても、成功しても、物事がうまくいっても、健康でも、家族に恵まれても、「虚しいんだ」ということです。

 そして最後に、十二章の十三節、十四節を見ると、ソロモンはこんなふうに、伝道者の書を結論付けています。

『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』

「始めからわかっていたんだけど、いろいろやってみて試して結局帰るところは同じだった。神を恐れて生きることが人間にとってすべてである。」ということですね。
 このように私たちの生活に関わる事柄について様々な示唆を与えているのが、詩歌と知恵文学というところであります。そんな学びを先月は青年会でしました。

 話が変わるんですけど、「今年の漢字」というのが毎年年末に発表されますが、今年は「災」という字でありました。二〇一八年は、自然災害をはじめとする様々な災いがこの日本を襲いました。

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 記憶にも新しいですが、北海道の北海道胆振東部地震、大阪府北部地震、西日本豪雨、ここに挙げられているのはごく一部ですが、台風被害も全国的に数多くありました。この地域でも百十九万戸が停電するという被害がありました。私も十月のメッセージで、台風で田んぼのはざ掛けが倒れてえらい目に遭ったという話をさせていただきました。
 こういったことが起きると、私たちは心揺さぶられます。当事者になったらなおさらのことだと思いますけど、そういった感情的な部分も私たちは時々神さまにそのままぶつけます。「神さま、こんなことが起こってしまいました!何故ですか?どうしたらいいんでしょうか?神さま助けてください!」と祈ります。
 よく考えてみると、これはすごいことだなぁと思います。相手は天地を造られた王の王であられる神さまですよね。その神さまに相対して、一対一で、「神さま!どうしてこんなことがあるんですか?もう私はこんなに心が乱れています!」と、ありのままの自分を出せるというのは、普通のことではないんじゃないかなと思うんです。

 旧約聖書ネヘミヤ記の中で、ネヘミヤという人物、彼は当時の大国ペルシャ王アルタクセルクセスの献酌官を任命された、側近でありました。
 王と家来の関係であったら、普通、王様に対して自分の感情を開けっ広げにするなんてことはできないです。ネヘミヤ記にも、イスラエルの窮乏した状況の報告を受けたネヘミヤが、心を悲しみに満たされて王様の前で暗い顔をしてしまった。それを王様に気取られて、「どうした?何かあったのか?」と聞かれた時に、「しまった!」と、ひどく恐れたということが書かれています。
 王様と僕の関係とか、主人と奴隷の関係だったら、普通はそういう関係です。奴隷は主人に対しては感情抜きに言われたことをロボットのように行うということが求められる、そんな関係でしかないのですが、私たちと神さまとの関係は、神と被造物であるにも関わらず、感情をぶつけちゃっても神さまは怒らない、むしろ感情をまともに受け止めて、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい!休ませてあげます!」とまで言ってくださって、そして祈りを受け取ってくださる。そのことが具体的に書かれているのが、詩歌と知恵文学といえます。
 神さまは偉大な神さまですけど、愛の深い神さまで、私たちに愛を注いでくださっている。そして私たちがその神さまの愛を認めて、そしてそれを受け入れて、神さまへの固い信頼と愛を自分で選んで行く。神さま!私もあなたを愛します!あなたを信頼します!」と決断していくことによって、神さまと私たちの関係は支えられているんです。そのように神さまが私たちを造られたわけです。

 私たちが自由に神さまを選ぶ、神さまを自由に愛することができるというのは、たとえ神さまであってもそこには介入することができないということなんです。そのように神さまがご自分で決められたということでありますけど、神さまの支配でさえも、自由の前には及ばないということなんです。神さまが私たち個人の自由を犯さないと決められたのです。
 「自由」は、近代から現代に至る社会の中で全世界的に重要な言葉として社会の中で大切にされている言葉です。

 話が変わるんですけど、「資本主義」というと、最近礼拝の中でも度々出てくるワードです。私たちが経済的な分野で霊的戦いを戦っていくフィールド、そういった意味合いを持ったキーワードになってきています。この「資本主義」にも自由が大きく関わっているんです。「自由な市場」とか「自由な競争」とか「自由な貿易」「自由な経済」が資本主義には不可欠なんです。
 歴史を紐解いていくと、以前にも話したんですが、世界の歴史が中世から現代に移り変わっていく中で、資本主義の高まりをもたらしていくターニングポイントになったような出来事があったんですが、それが十五世紀から十六世紀に起きた「宗教改革」だと言われています。
 宗教改革はカトリックが支配していた当時の社会の中で、ルターとかカルヴァンらが声を出して起こされたキリスト教の改革運動です。
 それがキリスト教という枠組みの中だけではなく、現代の社会の仕組みを生み出していくような、世界的な社会構造をひっくり返すような出来事になったわけです。
 それは一言でいうと「全体主義から個人主義への転換」ということができます。
 中世までは個人の権利とか自由というものは認められていませんでした。封建的な社会の中で王様が統治し、貴族が領土を持ち、そこにカトリックも加わって支配していました。そして一般大衆の中にも様々な階級があって、その階級の中で生まれたらその階級の中で一生を過ごす。
 良い家柄に生まれれば、あまり苦労せずに生きることができるかもしれないですが、卑しい身分に生まれたら一生苦労して行けなければいけない、先ほどの特別賛美の中にあった羊飼いのような、そういった人たちですよね。
 それが宗教改革を通して打破されたわけです。カトリックと封建制度は壊されて、様々な改革が生まれて民主化が起こって、その後、啓蒙主義とか産業革命とか起こってくるのですが、そんな中で民主化の流れも大きくなり、「個人の権利」が高められて、そして「自由」が大切なものとして社会の中に取り込まれるようになっていったのです。

 先月の十一日に私がここでメッセージさせていただいた時、日本国憲法の前文から、日本国憲法の掲げる理想についてお話しさせていただきました。ここに大きく五つのことが挙げられています。

•すべての人が自由である
•すべての人が平等である
•国家の主権者が国民である
•政治は国民が選ぶ代表者に任される
•戦争を放棄し平和を守る

この理想が憲法全体に浸透しているわけです。ここでも「自由」、「平等」という言葉が使われています。平等という言葉も宗教改革によって民主化運動がなされ、すべての人々が自分の努力で自分の価値を決めることができる社会になり、それまでの階級で固まって仕事を自由に決めることができない、身動きが取れない社会ではなくて、それぞれが努力することで成功することができる、社会的立場も、この仕事は卑しいとか尊いとかではなくて平等、聖職者だから尊いとか、貴族だから尊い、一般庶民だから卑しいということではないということを民衆が勝ち取っていったわけです。
 これは中世以前には全くない概念でした。宗教改革が後の民主化運動につながって多くの人々に自由と平等をもたらしたということができるわけです。

 しかし現代社会において、国家ということを考える時に、自由と平等というのは実はトレードオフの関係にあることが言われます。「自由」「平等」とは、互いが緊張関係にある、そういったものです。

 二〇一八年に流行語大賞にノミネートされた「GAFA」とい言葉があります。スコット・ギャロウェイという経済学者が書いた本の日本語版が今年の八月に出版されました。
 GAFAという言葉をこの礼拝の中で初めて聞いた方もおられるかもしれません。実は私もそうなんですが、アメリカや世界を今牛耳っている四つの会社Google、Apple、Facebook、Amazon、この四つの会社を、ヨハネの黙示録の預言にでてくる、終末期に現れると預言されている四人の破壊者に例えて四騎士と呼んで、この本では紹介されています。
 これらの会社が台頭したことによって世界にもたらされた変革と影響を綴った本で、僕も読ませていただいたんですけど、立て板に水のような明快な論調で、世界のこれからのことがちょっと怖くなりました。
 この本によると四騎士によって世界にもたらされるのは、「少数の支配者と大多数の農奴が生きる世界」という経済的な変革だというわけです。
 ごく限られた勝者が経済のゲームをリードしてルールも決めて、そして富を独占し、納税からは逃れて、社会的責任も果たさない世界、恐ろしい世界、非民主的な世界です。
 その結果として、卓越した能力を持たない大多数の凡人、私もその中に含まれるんですけど、その凡人たちがわずかな残り物を奪い合うような、そういう世界がこれから起きてくるというわけです。なんか希望がなくなっちゃうような話です。

 本に書かれていたのは、GAFA四社の会社としての価値を示す「時価総額」は、足すと二兆三千億ドルになる。この「二兆三千億ドル」というのは、フランス一国の国民総生産に匹敵するというわけです。ところが、フランスの人口は六千七百万人いるのに対し、GAFAの社員の合計数はわずか四十一万人しかないというのです。GAFA四十一万人分の価値と、フランス一国六千七百万人の経済力が等しいということです。そのぐらいこのGAFAは経済力を持っているわけです。

 この本の日本語版が出版された八月には、GAFAのうちの一つ、アップルの時価総額が1兆ドルを超えたというニュースも流れておりました。アメリカの国の近未来を見ると、三百万人の億万長者と、三億人の奴隷が暮らす国になっていると、この本の中には書かれています。中産階級がどんどん少なくなって経済格差が広がって、わずかな超金持ちと大多数の貧乏人の社会になるということであります。

 GAFAの躍進を支えているものが何かというと、実は「自由」なんです。「自由」がこのGAFAの躍進を支えています。

 リバタリアニズムという言葉を皆さんご存知でしょうか。今日は時間の都合で詳しく話すことができませんけど、日本語に訳すと「完全自由主義」「自由至上主義」なんていうふうに呼ばれています。
 個人の自由と経済上の自由の両方を重んじる考え方。この思想により、政治と経済の両面における自由を重んじる立場をもち、より完全な自由を主張する人々のことを「リバタリアン」と呼ぶ。
 ちょっと難しいですが、リバタリアニズムというのは、アメリカのビジネス界に強い影響を与えている思想であります。政治の世界にも大きな影響力を与えています。
 具体的にいうと、リバタリアンは、稼いだ金を全額、自分が自由に使えることを理想とします。税金で取られることは拒否します。自分で稼いだんだから自分が使えて当然じゃないか、そういった考え方です。
 リバタリアンにとって、稼いだ金が税金で取られるのは、自分が努力した結果が無駄になることを意味します。自分がした価値のある労働に対する報酬が、第三者に不当に奪われること、それは不平等だというのです。
 税金を納める義務をリバタリアンは「統治権力による泥棒だ」と言います。権力による納税の強制ではなくて、自発的な分配でなければ本当の意味で社会のためにはならないとリバタリアンは考えます。

 皆さんどう思われますか。良い悪いはここで申し上げることはしないんですが、とにかくリバタリアンはそういう考え方だということです。
 リバタリアンが目指すのは、政府にあれこれ介入されたり、操作されたりしない完全に自由な資本主義です。政府が経済市場に介入するのに対しては非常に否定的です。政府主導で税金などの公金を取り立てられて、それによって政府が福祉、年金、社会保険とか、経済市場に対する規制をすることには一切反対する。一方減税とか規制緩和には賛成する。
 ちょっと前に話題になったTPPも自由貿易という、リバタリアン的な考え方なのかなと思います。

 GAFAを産み育て、世界規模にまで上り詰めさせたのは、リバタリアンの精神なんです。卓越した商品やサービスを生み出す企業家こそ、大きな価値を見出し、ふさわしい見返りを得ることができるということであります。
 だからGAFAは巨額の利益を上げているのにもかかわらず、皆さんも聞いたことがあるかもしれませんけど、タックスヘイブンを駆使して税金逃れをしています。今年になってそれは駄目だと、各国が規制に乗り出したりしています。

 こんなふうに「個人の自由」が、「公共の平等」よりも大きく幅をきかせているのが、アメリカの資本主義経済なんです。
 これに対して対極的な概念が社会主義であります。社会主義では、皆さんが稼いだお金は、皆さん個人のものではなくて国のものということになります。

 「自由と平等」という、この二つの価値のうち、どちらを優先させるかで、二つの主要な政治のイデオロギーが生まれるわけですね。
 個人の自由を優先させれば、自由市場主義、資本主義になりますし、公共の平等を優先させて、平等のために自由を制限すれば社会主義ということになります。これが二十世紀に冷戦を生み出した力であります。

 また話が変わるんですけど、二〇一五年に少し話したんですが、イマヌエル・カントという人が、「純粋理性批判」という出版の中で、自由について述べています。
 「自由」とは、個人がその欲望のままに生きることではないと、彼は言いました。むしろカントが言ったことは「義務に従って生きる時、我々は自由である」。私たちが義務に従って生きる時に、我々は本当に自由であると。これはちょっと逆説的な意見であるように思えます。
 「自由」は、普通イメージするのは、個人が欲することをその思うがままに行うことができるというものです。自由は権利である。一方「義務」というのは、個人の意思は関係なく、その人に課せられる重荷です。私たちを縛るものとして「義務」はイメージされるわけです。でも義務に従う時に本当に自由だとカントは言ったわけです。

 カントいわく、「人間が真に自由である状態とは、義務という名で何かを遂行しているときだけである」というのです。その義務とは、何かというと、「自分の個人的な利益のためではなく、道徳的に良いこと」。私たちが、道徳的に正しいと判断することを行おうと選択し、義務という名でそれを実行していく時に、私たちは、本当の意味で自由だというのです。

 私たちが欲望によって生きている時には、実は私たちは自由に生きているのではなくて、欲望の奴隷として、本当はやりたくないことをやっているに過ぎず、欲望の命じるままに「動かされている」状態だというのです。

 イエスさまもヨハネの福音書の中で、「罪のうちにあるなら、あなたは罪の奴隷である」とおっしゃいました。また、パウロもローマ人への手紙で、「わたしの内に真理を憎む悪が同居していて、そのため私は自分がしたい善をおこなうことができず、かえってしたくない悪を行ってしまう。私はみじめだ」と告白しています。
 このように、私たちが、私たちの中にある肉の欲望、分かりやすく言えば罪でありますが、この肉の欲望によって突き動かされている時には、私たちは自分の思いによって自由に生きているのではなくて、その肉の欲の奴隷になって、そしてその肉の欲という「主人」の命じることを行っているのだから、それは自由ではないのです。
 しかし正しいと判断することを自ら選んで、自分に課して行なっていく、これは正しいんだから!と。
正しいことは概して私たちに義務感を与え、本当はやらなくても過ごせるけれどもやらなくちゃいけないんだ!というような思いにさせられるわけです。そして行うときに、私たちは平安な実を結ぶことができるのです。
 自分が信じる正しいことを行うことができとき充実感を持つことができる。満足を得ることができるということであります。
 そのようにカントは自由というものを定義しました。それは、私たちが神を愛して、神に信頼する、そして神と同じように、隣人を愛して、隣人に善を行っていくという、聖書の教えに沿ったものであるということができると思います。
 今フランスを見ますとデモで大変そうでありますけど、フランスは元々自由の国だと言われています。宗教改革が始まった近代化の中で、フランスが中心になって、民主化の世界的なうねりが起きて、革命が起き、そして人権宣言が出されて、建国が成されたわけです。
 フランスの建国理念は有名でありますので皆さんご存知だと思いますが、「自由」「平等」そして「愛」です。コロサイ人への手紙には、三章十四節、

『そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。』

というみことばがあります。
リバタリアニズムの建前もそこにあるんです。政府とか権力によって統制されて奪われるのではなくて、自分から進んで、自分の意志で自発的に他人の益を追求し始めることで、自由主義というのは正しく機能するんだと、彼らは言います。自由と平等の間に愛があることによって完成するんだと、こういうわけです。

 しかし一番の問題は何かと言うと、資本主義とか、社会主義とか、自由主義とか、色々ありますけど、そういった主義とか思想の中に、神を認めようとしないで、人間の知恵や力によってそれを追求していこうとするところが一番大きな問題であるわけです。
 世界はそれに気づかないといけないんです。やはり神さまによるのでなければ、資本主義であっても、社会主義であっても、自由至上主義であっても、それが本当の意味で世界のためになる、機能するということはないのです。
 現代社会は、日本もだんだんそうなってきていますが、個人主義とか自由主義が行きすぎてしまっているかもしれないです。個人の自由が謳われすぎて、社会を分断するような超格差が生まれる悪になってしまっている節もあるんじゃないかと思います。
 アメリカの偉い人が、「アメリカ・ファースト」と言っています。個人主義とか自由主義も行き過ぎると社会を荒廃させてく悪になっていくのではないかと思います。自分のことだけ考えて、自分の損得勘定だけで行動がなされていたら世界は危険な方向に向かってしまいます。

 そんなことが世界で注目されはじめて、人によっては資本主義と共産主義がミックスした中国の国家運営システムがいいんじゃないの?なんて言う人もいるわけですよね。そんなに単純じゃないんじゃないかなと思いますが。

 古き良き人の繋がりこそ大切だと、日本では言われますよね。日本的なお互い様の精神とかです。それがもっと発展して、先祖崇拝は大事だとか、地域の祭りが大事だとか、そういった宗教的な行為まで含まれてきてしまっているのは問題だと思います。そういった考え方は全体主義を強化して個人の権利より上に持って行こうという考え方です。日本がそういった日本的な人々のつながりを持って世界の道徳をリードしましょう!なんて言ったりするわけです。それが自民党の掲げる憲法改正の理念に現れています。これはプロテスタントの宗教改革から始まった民主化運動に対する反動で、「日本にはもっと素晴らしいものがあるんですよ!」といった考え方もあるかもしれないです。

 そもそも近代資本主義の発展の元になった概念は、宗教改革から生まれた聖書的な職業観から来ています。
 神さまによってそれぞれの仕事が与えられているという考え方です。分かりやすく言うと、それぞれに与えられた神からの使命。使命とは、「神さまからの愛によって隣人のために仕える」という精神です。
 聖書的な共同体の精神はそういったものによって支えられています。自分の賜物を通して周りが生きていくという精神です。初代教会の中に見られた、共同体的な意識です。これこそ社会の中で見直されなければいけない大切な価値観ではないかなと思います。

 多くの場合、クリスチャンが歩む人生は、神さまと人との間の個人的な関係の中で与えられます。しかし多くの場合、聖書の中では共同体という意識もあって、例えば使徒の働きの十六章三十一節を見ると、

『「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」』

 主イエスを信じることによって、あなただけではなくて家族という共同体に救いが及んでいきますよ!と教えています。
神の国を地上にもたらすための戦いが教会という共同体を通して表されていくということを教えている聖書のことばもあります。エペソ人への手紙三章十節、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、』

 また、クリスチャンが、個として存在していくだけではなく、共同体として存在していくことが現されている聖書のみことばもあります。第一コリント人への手紙十二章二十七節、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 このようにイエス・キリストにあるクリスチャンの共同体は、大きな意味を持つものだと聖書は言っています。我々の救いが家族に及ぶ、その神の業が現されていく器官として「教会」という交わりがある。その中に属する我々ひとりひとりは、その各器官を構成しているということであります。そういう共同体の中で、私たちクリスチャンの営みというのはなされていくことになります。

 私たちは、社会生活を営むうえで、何をするのにも、「これをするといくらかかるかなぁ?」「お金が足りるかなぁ?」と考えながら物事を決断します。何をするにもお金がかかる。お金勘定が関わってくるということが自然の営みになっているので、ある意味で、当たり前だと思ってしまうのですが、でも、初代教会では違いました。
 よく開かれる箇所ですが、使徒の働き二章四十四節〜四十五節、

『信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。』

 また第一テサロニケ二章九節を見ても、これはパウロが言っていますが、

『兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。』

 パウロは、ご存じの通り、使徒として偉大な働きをしたわけですが、その一方で、彼は、テント職人として働いて生活の糧を得、働いて稼ぎながら伝道していたのです。現代的に言うと二刀流です。

 ネパール宣教が来年も行われますが、まさにそういう働きですよね。その必要な経費は自分で出して、自分で伝道の地に出向いていく。手弁当で何の報酬も支払えない人々のために仕える。また、海外ミッションもそうですし、四十七都道府県巡回リバイバルミッションも、地域の開催教会に対しては、経済的負担をかけないように、席上献金のみで活動がされ、足りない分はリバイバルミッションの献金でまかなわれています。
教会の運営も毎週行われています礼拝の中で、みなさんにいろいろな形で奉仕をお願いしています。受付、聖餐式、警備とか。また子ども礼拝での奉仕、映像とか昼食接待、掃除とか、また音楽の奉仕。聖歌隊や、バンドのみなさんの活動とか、みんなそうです。
 そういった中で一人ひとりが神さまのために、そして兄妹姉妹のために、働いていく時に、この教会の働きが円滑に運営されていくわけなのですが、それは自分ですすんで、自分の中から湧き上がってくる使命感が元にあるわけですね。
 この世的にはお金の価値観でやることが左右されるように考えますけど、実は神さまの働きは、すべてお金の損得には関係なく自発的な神さまに対する愛、人々に仕えていく愛によって前進することができるのです。
 この世のもの(お金)によって、神の国は左右もされないし、影響もされない。縛られることもないということです。

 一九九二年当時、甲子園ミッションのリバイバルの時に激しい聖霊の注ぎがあって、また霊的戦いが始まって、その中で大勢の人が献身しました。何人ぐらい献身していたのか数えてみると、三十人くらいいたと思います。
 当時はプレイズ出版も小さな印刷会社でしたので、今みたく新規事業で大勢雇用されているわけではありませんでしたので、新城教会のスタッフ、また準スタッフやボランティアスタッフと呼ばれる人がいたかもしれません。あとはリバイバルミッションの方で奉仕する方たちがいました。
本当に激しい戦いでありましたが、当時の若者たちが必死になってリバイバルの働きを盛り立てて奉仕しておられました。無給で奉仕をしてくださった方もおられたと思います。
 本当に聖霊さまの促しによって、誰声かけて誰誘うわけでもなく集められた。リバイバルのために私も働きたい!という人が、甲子園に関わって大勢いらしたわけです。
 神の召命というのは変わることがありません。あれから二十五年以上経っておりますけど、みなおじさんおばさんになって、子どもたちも大きくなって成人しているような方ばかりですけど、見るとやっぱりそれぞれ教会の中で、ミッションで、プレイズで、様々な中で働きを担ってくださっている方が多いです。
 家庭が与えられて、子どもが与えられて、社会で働き生活しておられる方も大勢おられますが、そんな中でも何かしら教会の奉仕に関わる方を見ると、僕も励まされます。あぁ神さまの召しは変わらないなぁと。
 もうすぐどりあ山崎ランサムさんの本が出ますが、甲子園当時に献身していた方々の証しが書かれています。僕も楽しみにしているのですが、当時の生きた証しも見ることができるのではないかと思います。

 私達一人ひとり、本当の自由を求めて生きています。ソロモンのようにやりたいことを思いのまますることができたとしても、そこには虚しさが残るのです。
 この世の主義主張、思想を頼りにしても駄目です。神の聖霊によって、神さまが与えてくださる導きの中で義を追い求めて、自分の意志で、自分に義務を課して生きていく。そこには神を愛する愛と、隣人を愛する愛が必要です。神さまの愛を受けて、神さまの前でへりくだって、神さまのために人生を献げていく。そういう中にこそ、私たちには喜びがあり自由を実感することができるのです。
 私たちが神さまに日々近づいていく、一歩一歩神さまに近づいていくということを実感できている時は、私たちの心には充実感があり喜びがあり平和があるのです。そこを失ってしまうと、だんだん心が怪しくなってきます。神さまから離れていくと私たちの心には、どうやっても平和はないということであります。
 神さまの前に一歩一歩でも、少しずつでも近づいていこう!そういった気持ちを持って毎日を歩む中に、神さまの業はそれぞれの働きを通して大きく前進していくのではないかなということを思います。

 この時、私たちはもう一度神さまの前に思いを新たに、神様の前に自分自身を献げて歩んでいくものとしていただきたいと思います。
 私のメッセージは以上にさせていただきます。それでは最後にお祈りをして終わりにしたいと思います。

今日、私たちがもう一度、神さまの前に献身の思いをもって、神さまに仕えていこう。これは決して私たちを縛るものではない、「真理はあなたがたを自由にします」とイエスさまはおっしゃいましたが、神によって与えられた自由を肉の働く機会としないで、神のために自ら捧げていく。自分の意志で神の前に出て行く。そのことが大切なことではないかと思います。

 ハレルヤ、天のお父さま、ここにいらっしゃるお一人お一人が、肉の奴隷ではなくて、み霊によって歩むことができるように、そしてみ霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を本当に豊かに実らせる者となっていくことができますように。
 この世の大きな力によって押し流されるのではなく、神の国の価値観をもってこの世に対して働いていく者となっていくことができますように。その中にこそ、私たちに本当の自由が与えられていることを、もう一度心から信じます。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。