「彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート25
 ~勝利、感謝、主に栄光〜」

2018年12月30(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩編148編

1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。
9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。
14 主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。二〇一八年最後の日曜日になりました。時の経つのは大変早いです。しかし皆さんと共に、今年最後の礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。

 先週はクリスマスの週で二十五日には、小坂忠さんとAsiahさん、そしてバンドのみなさんが来られて、素晴らしいコンサートがありました。忠さんの歌、かなり久しぶりでしたがたいへん素晴らしかったです。彼は昨年、ステージ四の癌を煩い、大変危ないところを通られたのですが、奇跡的に生還し歌ってくれました。前以上に素晴らしい歌声でした。来年もぜひ来てほしいです。

 私たちの教会におきましては、毎年三十一日はカウントダウンワーシップという新しい年に向けて準備する集りがあります。教会には六人の牧師がいるのですが、その中の五人の牧師たちがメッセージを語ります。
 そして新年礼拝では、主任牧師をさせて頂いています、私に与えられたみことばを加えて、主がその年に、どんな方向性を与えてくださるのかを祈り求めます。
 二〇一八年に向けて、主が語ってくださった新年のみことばを、今年の初めに、まとめさせていただきました。
 それを昨日も読み返して、二〇一八年全体に実現していることを感じ、心から主に感謝しました。
 一度、読んでみたいと思います。これは六人の牧師達が語ったメッセージの要約です。

<二〇一八年、預言的メッセージ>

 あなた方は世の光です。どこにも隠れることは出来ません。あなたがたの光を、すべての領域に輝かせなさい。与えられた、霊的戦いの剣を輝かせて戦いなさい。二〇一八年は、全集団が備えをし、世界に攻め上る年となります。
 そのためには、それぞれに与えられた賜物を駆使し、信仰の一致と、知識の一致をめざし、成長しなさい。それはわたしの、壮大なプロジェクトを実現する為に、どうしても必要な事です。
 今年は、教会に川が流れます。その流れは「聖霊の流れ」です。わたしから流れ出る、水の中に常に浸っていなさい。そこにはいやしがあり、成長があり、繁栄があります。
 聖徒達の祈りは、立ち上る香の煙のようです。その祈りとは、あなたがたの願いとは別の、わたしの計画を実現させる為のとりなしの祈りであり、それが聖霊のうめきです。そのうめきに耳を傾け、全被造物と共にとりなし、祈るとき、地にわたしの計画は実現します。
 今まで、不可能だと諦めていた封印を解き、わたしがかつて墓の前で、「ラザロよ。出てきなさい!」と命じたように、不可能に見える領域に対して、宣言しなさい。そのとき、死者が自ら出てくるような、信じられない奇跡が起きます。
 すべての被造物に対し、わたしを賛美するよう命じなさい。それが人類の役割だからです。わたしがゲラサに行った時、レギオンがひれ伏し、わたしを礼拝したように、彼らを捕らえ、武装を解除し、彼らにも、わたしを誉め称えるよう命じなさい。
 経済の領域に、サタンの王座が存在します。あなた方は不正の富を勝ち取り、神の国の為に用いなさい。金の奴隷となってはいけません。そこにはあらゆる悪しき根があるからです。むしろ、金を捕虜とし、彼らを奴隷とし、神の国実現の為に働かせなさい。そのとき、サタンの王国は破壊され、あなた方の戦いも終わるからです。
 二〇一八年、わたしの日はさらに近づくからです。

 主が教会に語ってくださったことばを大切にして、これで終わりではなく、二〇一九年も引き続いて、実現し続けてくださると信じて行きたいと思います。

 上條先生だったでしょうか、「今まで、不可能だと諦めていた封印を解き、わたしがかつて墓の前で、「ラザロよ。出てきなさい!」と命じたように、不可能に見える領域に対して、宣言しなさい。そのとき、死者が自ら出てくるような、信じられない奇跡が起きます。」と語りました。
 今年は、公私ともに結構大変な年でもありました。甥っ子の寛太が脳出血で倒れて、瞳孔が両方開いて脳死状態という知らせでした。弟の望は、あんまり落ち込まないタイプの男ですが、さすがに落ち込んで「もう駄目だ」と言うのです。葬式の時はよろしくという感じでした。
 同じ週、岡本正広さんは口が達者な方で、口から先に生まれたんだろうという方でしたが、危篤になりました。その週はダブル葬式だなと思いました。教会のスタッフたちに、「今週はダブル葬式になるかもしれないけれど、よろしく頼む。」と言ったのですが、今年のみことばを思い出しました。
 死んでいるような領域に対して、「ラザロよ!出て来い!」とみんなで命じました。すると二人とも墓の中から出てきたようです。自ら、棺桶の蓋を開けて出てきた感じでした。
 正広さんは、車椅子ではありますけれど、教会にも来られるようになりました。寛太はまだリハビリ中で、完全には意識が戻っていないですが、自分が叩いたドラムの映像を見せると、ニコッと笑ったりするまでなったそうです。脳死だと言われていたのが、そこまで回復しました。主が大きなことをしてくださった事を、心から感謝します。

 人生にはいろんなことがありますが、主に頼り、主に従っていく時、素晴らしい事が起きます。
 2018年は全集団が備えをし、世界に攻め上る年となると語られましたが、今年ほど、新城教会から世界に出て行った年もなかったです。
 私の個人の働き、ざわめきの働き、リバイバルミッションの働きを加えれば、多くの国々で奉仕をさせて頂きました。主の言葉通り、道が開かれたのです。

 そんな中、主が私に中心的に語ってくださったみ言葉が、今日一緒にお読みした「詩篇百四十八篇」でした。詩篇百四十八篇を中心として、今年一年を歩むように語られた気がして、今年のメッセージ題のすべてに、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」という主題を付けさせて頂きました。
 「彼らに主の名をほめたたえさせよ」とは、人の役割と使命です。

 先日ある先生のブログを読んでいましたら、詩篇百四十八篇を解説していました。それを読んで大変感動しました。詩篇百四十八篇をうまくまとめていました。ちょっと紹介したいと思います。

 「詩篇百四十八篇において詩人は、天と地に呼びかけ、被造物と一体となり神に賛美をささげようとしている。まさにこれは究極の救いのイメージであることを思わされる。というのもパウロはローマ書の中で、被造物も切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる(八章十九節)と語っている。
 つまり主にある救いを待ち望んでいるのは人間ばかりでなく被造物もであり、被造物も実は今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみをしている。(ローマ書八章二十一節)
 その被造物が回復され、人間と共に神をほめたたえ、神を礼拝する。これは万物の贖いの最終的な姿である。壮大な神の救いの完成を意味するのである。すべてのみつかいから始まり、日、月、輝く星、天と共に神を拝する。(一節〜六節)
 また地に向かって海の巨獣、淵、雹、雪、煙、あらし、山々、丘、木、鳥。(七節〜十節)
 そしてまだ神を呼び求めようとしない地の王たち、国民、君主たち、若い男、女、年老いた者、幼い者(十一節〜十三節)へと主を褒めたたえるよう呼びかけがなされる。聖書の救いは単なる人間の救いだけを意味しない。神のみ手によって造られたすべての被造物の救いを含むものである。
 となれば私たちが今の世にあっても、いかに被造物全般に配慮せねばならぬかということでもあろう。環境保護の考え方にしても、こうした思想に立つキリスト者であればこそ専心しうる事柄である。神に被造物の管理を託された者として責任ある働きをなせる立場にあることを忘れてはならないのだろう。」

 このようにまとめられていたのですが、詩篇百四十八篇は、究極的な救いの姿を現しているのです。そして、この究極的な救いを実現するために用いられるのが、他でもない、私たち人類なのです。
 この事をしっかりと知って、これからも進んでいきたいものです。

 一年間を振り返ってみると、主が良いことをしてくださったことを感謝するわけです。
 同じ詩篇百三篇一節〜五節に、このようなことばがあります。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

今日は今年最後の礼拝ですから、主が良くしてくださったことを忘れず、同時に私たちに与えられている使命をしっかりと受け止め、二〇一九年に希望を持って進んでいきたいと願います。

 主が人類に、最も願っておられることは何かと言いますと、詩篇百四十八篇に描かれていることです。
 特に詩篇百四十八篇五節と十三節に、『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』ということばが出てきます。他はすべて、『主をほめたたえよ。』という命令形ですが、五節と十三節は、使役形で、『彼らに主の名をほめたたえさせる』と記されています。
 五節と十三節が、他でもなく、人の役割です。
 聖書も、「第何版」「第何版」と新しい訳が出版されますが、売るためにちょっとずつ変えているのですが、新改訳二〇一七年バージョンは、全て命令形になっています。ほんとに残念です。

 ヘブル語の原文を見れば、五節と十三節はピエル態という、他の動詞とは違った動詞が使われています。ピエル態は「激しい動作や反復動作を表す自動詞、他動詞、使役」です。今はコンピューターで簡単に調べることができますので、ご自分でも調べていただきたいと思います。
 この箇所はピエル態、未完了、三人称、男性・複数ですから、まだ主をほめたたえていない未完了の被造物の所に行って、激しい動作で反復して、何度も何度も「主をほめたたえよ!主をほめたたえよ!」と宣言しなければいけないのです。
 そして複数ですから、神さまが造られた被造物すべてに関心を持ち、そこに行って、何度も何度も、彼らが主の名をほめたたえるよう、宣言しなければいけないのです。
 私たちが全世界に出て行って、造られたすべてのもの、すなわち、神が造られた全被造物を含んだ領域で奉仕しなければいけないのです。

 私たちの身の回りには、被造物が溢れています。動物・植物などが溢れていますが、それらは何のために造られているのか、一言でいえば「神のため」です。人間が物を作る時に、必ず自分のために作ります。目的を持って作ります。神さまが被造物を造ったのは、ご自分のためであり、ご自分の栄光のため、言い換えれば「神を賛美させるため」なのです。
 私たちが住んでいるこの地球、宇宙は、悪魔によって口を塞がれ、被造物は賛美していないのです。私たちは口を塞がれているすべての領域に出て行って、主を賛美するよう、促かさなければならないのです。

 詩篇百四十八篇を最初から見ると、二節から四節までは、天における領域に関して主をほめたたるように命じています。

『主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。』

 冬になりますと美しい星々を見ることができます。ただ、「美しいね!」で終わってはいけないです。天を見上げて、太陽を見たり、月を見たり、星々を見るならば、それらに向かって「主を賛美しろ」と宣言しなければならないのです。
 今晩、夜空を見上げたら、「主を賛美しろ!」と宣言してください。それも一回やればいいのではないのです。何度も繰り返して、「主を賛美しろ!」と宣言していただきたいと思います。これが人の使命です。

 そして七節〜十節までは、『地において主をほめたたえよ。』と命じられています。

『地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。』

 身の回りに見る植物や動物たち、自然界に関して、「主を賛美しろ!」と宣言すると、彼らは主を賛美するようになるのです。
 日本人が嫌っている自然現象と呼ばれる、『火よ。雹よ。雪よ。煙よ。あらしよ。』というような、気象変化も被造物ですから、「主を賛美せよ!」と命じたら変わるのです。

 毎年、日本に繰り返しやってくるのが、あらし、台風です。しかし台風には唯一、目的が記されています。それは何かと言うと、「みことばを行うため」に来るわけです。
 今年、日本には二十五回、台風がやってきました。二十五回もやってきたのですから、これは大変です。台風シーズンになると日本人は緊張します。
 しかし二年ぐらい前から、教会では、台風が来た時、「あっちに行け!」と言うのではなく、彼らと共に主を賛美しようと考えを変えました。そこで、彼らに「主の名を賛美せよ!」と宣言するようになったのです。すると大分変化が訪れました。今年も大きな台風が何回もきましたけれど、神の守りがありました。停電などはありましたが、大きな被害で苦しめられることもなかったです。

 思えば、今から二年前に、大きな台風が日本全土を直撃しました。それは台風二十一号でした。全土に暴風警報が出たのですが、暴風警報が出なかった唯一の町があったのです。「超大型で広い暴風域を持つ台風二十一号によって、経路上の各県において全域にわたる暴風警報が発令された。ただし暴風警報が発令されなかった地域は以下の二つのエリアのみ。東三河北東部、東三河北部、ともに愛知県。」
 これは新城市です。新城市には風が吹きませんでした。この時から、台風に対して、「主を賛美しろ!」と命じると振る舞いが変わる!という信仰が芽生えました。
 二〇一九年、どんな台風が来ても、恐れるのではなく、「主を賛美しなさい!」命じたらいいですね。

 今年、思い出深い台風が十二号でした。これは新手の台風で、逆走してきたのですが、この近所を直撃しました。

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 しかしあの時も守られました。新城市だけがぽっかりと空が開いて、他の地域に申し訳ないくらいでした。
 その時、動画を撮りました。

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 これを見てください。「主を賛美しろ!」とみんなで命じたら、台風が避けました。神が台風に対しても人間に権限を与えてくださっている証拠です。

 だから地震も恐れてはいけないです。地震がいつ来るかわからないと、びくびくするのではなくて、地に向かって、「主を賛美しなさい!」と宣言したら、地震からも守られると信じます。

 二〇一九年も、これらをしっかりと覚えておきたいです。ちまたでは、「愛知県最強説」というのが出ています。「台風が来ても愛知県に来る台風は直前で避けていく。直前で消滅する。夜に通過していく。」という、愛知県最強説まで流れるようになりました。なぜなら、祈っているからです。
 しかし人は「愛知県には魔界があるようだ。」みたいなことを言っていますけれども、魔界じゃないです。神の恵みです。

『獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。』

とありますが、先日面白い話しを聞きました。礼拝の時にここでドラムを叩いていました。そうしたら外にカラスが来ていたらしいです。そうしたら、カラスがドラムに合わせて、カーカーじゃなくて、カッカッカッカッカッ!と、一緒に合わせて歌っていたというのです。それを見た人たちは感動したそうです。新城教会の礼拝にカラスまで来ている!と。鳥にも主を賛美しろ!と言うと、日曜日には新城中の獣や鳥が集まって手をあげて賛美するようになったら、素晴らしいじゃないでしょうか。
 ローマ書八章を見れば、被造物はうめいていると述べられています。本当にうめいていると思います。

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 何度も何度も使っている写真で恐縮ですが、動物園なんかに行きますと、動物ってお疲れで、がっかりしていますよね。
 こういう所に行ったらどうでしょうか。「おい動け!動け動け!」とか言って、動かそうとするじゃないですか。でも逆に私たちが檻に入れられ、熊が見に来たらやっぱり落ち込むだろうなと思います。
 そういう視点で動物園の動物を見ると、みんなお疲れです。がっかりしているし、もじもじしているし、開き直っているし、でもたまには主を賛美しているのもいるわけです。
 私たちは被造物に対して責任があるわけです。彼らに主の名をほめたたえさせることをしっかりと心に留めて毎日を過ごすことは、大事です。

 そしてこの百四十八篇の十一節〜十二節は、

『地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。』

とあるのですが、この箇所は、人類全体について語っているところですが、このパートは、まだ神を呼び求めようとしない地の王たち、国民、君主たち、若い男、女、年老いた者、幼い者など、「主を信じない人たち」に対する呼びかけだと言うのです。

 今年も、主を信じようとしない人たちの所に行って、福音宣教をしましたけれど、何度やればいいのだろう?と、時々思います。
 クリスマスにも多くの伝道集会を持たせていただきました。そして多くの方が来てくださいました。
 「クリスマスだけしか来ないね、この人は。」みたいな人もいます。しかしそれでいいのです。「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」というのは未完了の部分に繰り返し、力強くやらなければならない働きです。地位の高い人たちから一般的にいわれる地位のない、子どもたちや貧しい方々、すべてを含んで差別なく主の名をほめたたえさせる使命があるのです。
 なぜ人が救われなければならないのか、それは、主を賛美していなかった人々が、主を賛美し始めるためです。
 今年もこの教会で救われた方々がおられます。その方々は、去年までは賛美していなかったと思います。しかし、今年からはこの教会に加わって、主を賛美するようになったのです。それは詩篇百四十八篇の実現です。

 ここにあるように、世界の国々の人たちが主を賛美するように働くのです。日本人だけが主を賛美するという視点ではいけないのです。「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を伝えなさい。」とは、神はすべての人たちが主を賛美することを望んでおられるという事です。

 今年ネパールに行きましたが、大変貴重な体験をさせていただきました。日本では、雹が降るというのは、あまり体験できないですが、ネパールの山の中で奉仕をしている時、突然、このように大きな雹が降ってきました。

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 この子も雹のような顔つきをしていますけれど、彼がくわえているのは、飴玉ではありません。天から降ってきた雹です。これが無数に降ってきました。初めは小さかったので楽しんでいたのですが、だんだん大きくなって、これはヒマラヤの山の方から降ってくる雹で頭に当たったら下手すると死にます。
 でもみんなでこの雹に向かって、「主を賛美しろ!」と宣言しました。この雹、今まで一度も主を賛美しろ!なんて人から命じられたことはなかったと思います。そのように宣言してもらいたいから、私たちのところに来たんだろうなぁと思いました。

 この山の人々が一番大事にしているのが、土地です。先祖から受け継いできた土地は、自分たちにとって、なくてはならないもので、絶対に手放してはならないと考えています。
 山の土地を管理しているのが、村の酋長です。酋長は、ほとんどの場合、霊媒師です。悪霊と取引をしながら、土地に悪霊を招いて、土地を守ってくださいと拝んでいるわけです。
 しかし今回は、この教会から遣わされた宣教チームによって、チェパン族の酋長がクリスチャンになりました。村人を集めて、すべての被造物に対して主を賛美するように宣言してくださいとお話をしました。
 この話って日本で話をしても分からない人も結構いるのですが、チェパンの人たちは自然と一体となって住んでいるから、すぐに理解しました。
 私は村の酋長に聞きました。「酋長さん、あなたはどこに向かって主を賛美しろと宣言しますか?」と聞くと、「そりゃ土地さ。」と、「まず最初に土地に主を賛美しろと言いたい!」と言いました。それがその写真です。

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 土地に指を指して、「主を賛美しろ!」と宣言しているのです。これは本当に感動でした。

 私たちが住んでいる土地に対して、主を賛美するように命じたら、土地とお友達になりますから一緒に賛美するようになります。日本に地震など来なくなるのではないかと私は期待しています。
 この周辺は多くの血が流されて、土地はうめいていると思います。しかし私たちクリスチャンが主を賛美するように命じたら変わるのです。

 また植物、フルーツ、食べ物すべては主が与えてくださったものであり、贖われた者たちに仕えるために造られているわけです。私たちは、彼らにも、主を賛美しろと宣言することができます。

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 このぶどうは、親父が育てたぶどうです。左は、親父が生きていた時代にできたぶどうです。このぶどうで聖餐式をしたことがあります。その後、親父が死んだので、誰も世話をしなくなりました。

 しかし私も手入れはしないのですが、ぶどう達に「主を賛美しろ!」と宣言していました。見てください。これ。親父が死んだ後の方が、色艶いいじゃないですか。何もやっていないですが、結構きれいなぶどうが育ちました。

 何年か前に、日本のテレビ番組でやっていましたが、親切な言葉をかけて水を凍らせると、ちゃんとした結晶になるけれど、汚い言葉をかけると、水は結晶にならないと言うのです。

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 水を飲む時に悪口を言うと、水はやっぱりひねくれます。なぜなら、水には命があるからです。
 この命はどこから来ているのでしょうか。水の精ではないです。命はイエスさまから与えられたものです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」と言われたイエスさまから与えられているのが、命です。水に対して、主を賛美しろ!と宣言して試してみてくださいね。

 日本の実験を韓国のテレビ番組が取り上げていました。日本が言っていることは本当だろうか?ということで韓国語で「カムサハムニダ」と言うのと、悪口を言うのと、両方やったら、同じ結果だったですよ。人間に権限があるわけですね。

 沖縄の牧師が私の話を聞いて、「順先生の言う通り。私は実験してみた!」と言うのです。何を実験したのかと聞くと、生米を三つに分けて、悪口を言う米と、感謝の言葉を述べる米と、もう一つは「主の名によって祝福します!」と、イエスさまの名前を使って祝福する米と、三つに分けて、三つの部屋に置いて、六ヶ月間試したそうです。

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 六ヶ月間、一つの米には、「おまえ安い米だろう。」とか、「俺おまえのおかげでこんなに太っちまったよ。」とか、悪口ばっかり言ったそうです。
 もう一つは「ありがとうございます。いつもお世話になっています。いつも美味しく頂いています。ありがとう。」とか言って、もう一つは、「イエスさまの名によって祝福します!主を賛美しろ!」と言ったわけです。そして六ヶ月間。結果は歴然だったそうです。

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 悪口言った米は、黒く腐っちゃったそうです。感謝の言葉を人間的にかけた米は同じだったそうです。「主の名によって」と、主のみ名を使った時には、何と光り輝いていたと言うのです。
 人間ならば、左から二つ目まではできる。しかし、イエス・キリストを信じると、もう一つ付け加えられわけです。

 人の体は、水と食べ物でできていますから、祝福の言葉をかけた方がいいです。悪口とか言ってはいけないです。自分の奥さんに対して、「太っている」とか言っちゃ駄目ですよ。奧さんもご主人に対して、「汚い、臭い」とか言うと、どんどん悪くなりますから。
 しかし普通に感謝しているだけだと、あんまり変わらないかもしれないけれど、「主の名によって主人を祝福します!」とか、「奧さんを祝福します!」というと、肌も若返ってくるのではないでしょうか。私も家内から祝福されすぎて、頭が光っちゃったようです。お互いに祝福しあうことは、本当に素晴らしいです。
 これ来年も是非とも続けていきたいものですね。
 このような領域を開いていただいたことを、心から感謝するとともに、来年も継続したいです。

 日本人の自然に対する考え方についても、お話しさせていただきました。一般には「地球は進化してできた」と考えています。土地とか、山とか、木とか、川には、緒霊が住んでいるという考え方です。
 イエス・キリストを信じる前は、このような考え方だったのではないでしょうか。すべては進化してできた。しかし山には山神様、土地には地の神様、木には木の精とか、川には龍が住んでいるという考え方です。これは間違いです。
 日本人が自然界になんらかの命を感じるのは正解ですが、命そのものを神としてしまえば、残念な結果となってしまいます。
 聖書的な概念はどうかと言えば、「すべては神の被造物、命はすべて創造主から。」という考えが正解です。
 木に生命の息吹を感じたら、その中に住んでいるのは木の精ではなくて、「わたしは道であり、真理であり、いのち」と言われたイエスさまが与えた命です。この命に対して「主を賛美しろ!」と宣言したらいいですね。
 山に雄大な躍動感を感じたら、「主を賛美しろ!」と、川に対しても、土地に対しても、「主を賛美しろ!」と宣言したら、すべての被造物が賛美するようになるはずです。

 今年、もう一つ、主を賛美するように宣言しなければならない領域として教えられたのは、世界に住んでいる生物の中で最も多い、微生物に対してでした。
 私たちの腸の中には「一千兆個」ぐらいの腸内細菌が住んでいます。私達の内側には、信じられないほどの細菌が住んでいて、それらが出す物質によって人は生きていると言われます。

 最近、へんな病気がいっぱい出てきているのはどうしてかと言うと、初め神が人のために、人に仕えるように創造された細菌類のコロニーが変化したからではないかと言われます。ある細菌は絶滅し、増えてはいけない細菌が増えたりして、バランスが狂っているのです。

 ネパール山中のチェパン族に、アルツハイマーの人は一人もいないです。うつ病の人もいません。花粉症とか、アレルギーの人も一人もいないのです。なぜかといったら、彼らはいつも土を食べ、おなかの中に寄生虫がいるから、うまくバランスが保たれているのです。
 しかし現代の日本人って、どうでしょうか。綺麗好きで、トイレに入る時も便座を磨き上げ、ウォシュレットは必需品です。それが本当にいいのかどうかわかりません。

 今、良い細菌と悪い細菌がいて、それで病気になると言われます。でも本来、悪いバクテリアはいないはずです。それらを、誰が造ったか、それは神が造られた被造物です。人間が、「これは良い、これは悪い」と言うけれど、本来は全て良いものです。でも知らないうちに、細菌類は人間と敵対関係になってしまったのです。
 私たちは、これらすべてが調和して主を賛美するように、微生物に対しても宣言する必要があるのではないでしょうか。
 腸の中に住んでいる腸内細菌に対して、「主を賛美しなさい」と宣言すると、お腹の調子も良くなるのではないかと思います。
 見えるものから見えないものまで、神の知恵は深くて、私達には計り知れないのです。
 しかしそれら全ては、主をほめたたえるために存在しているのです。

 先ほど、和基君の素晴らしい演奏を聞きました。あのように素晴らしい音色を聞いたらどうですか?心が安らかになりますよね。でも初めはあんなじゃなかったです。ギーギーギーと、すごい不協和音を出していました。昔の和基がバイオリンを弾くと、「聞きたくない。もっと練習してこいよ」みたいなところがあったのですが、今ではどうでしょうか。一曲では物足りない。もっとやってほしいと思うじゃないですか。なぜなら綺麗なハーモニーと共に演奏してくれるからです。
 同じです。細菌類だって、良いものと悪いものに分かれ、人は自然を破壊し、本来のハーモニーが不協和音となっています。神の前に全く調和がないのです。
 それらをうまく調整し、彼らに主の名をほめたたえさせる役割を持っているのが、他でもない、人類の役割です。すごい役割です。

 実は今年、私はいろんなことを主から教えられて、興味を持ったのですが、私たちが住んでいる世界は、神の不思議な知恵の中にあります。
 今日は十二月三十日で、明日は三十一日。月日の経つのは早いです。「光陰矢のごとし」とか言われます。私たちは時の中に生きているのですが、みなさん時間って、そもそも何なのか、考えたことがありますか?
 一日二十四時間と言いますけれど、イスラエルにおいては夕方からまた次の日の夕方までを一日といいます。地球が一回転すると二十四時間です。しかし二十四等分したのは神ではなく、人が等分したのです。
 私たちは常に時計に縛られています。時間の最小単位は一秒です。「一秒」ってなんなのか考えたことありますか?私はあんまり、考えたことがありませんでした。
 それで一秒って、そもそも何なのか?と調べてみました。そうしたら、こういうことらしいのです。「セシウム原子の出す電磁波の波一回分の時間の九十一億九千二百六十三万一千七百七十倍」だそうです。これが一秒と決められたというのです。一秒を六十回で一分、六十分で一時間、二十四時間という分割を人が決めたわけです。
 私たちは普通に「何年生きた」とか、「何時間仕事をした」と言い、それが時間そのものだと考えていますが、違うのです。物理学で時間ほど、神秘に溢れたものはないそうです。
 便宜上、人間が地球が一回転するサイクルを、二十四等分して目安にしていますが、それは時間そのものではないのです。
 一日を二十四等分するとき、一秒はセシウム原子の振動数の九十二億倍になるのです。しかし、実際は時間そのものについては、分からないのです。

 二十世紀まで、時間と空間は不変であると考えられていました。しかし二十世紀に大発見がありました。アインシュタインが時間と空間は普遍ではなく、一定のものではない事に気づいたのです。それらは伸びたり縮んだり、可変する物質であることを発見したのです。
 最近、「時空」という言葉を聞くかもしれません。「時空」とは、「時間+空間」のことです。
 空間は何もないように見えるけれど、空間と時間は切り離されたものではなく、絡んでいるというのです。
 お互いに止まっているときは、同じ時の中に過ごしているのですが、空間の中を動けば、お互いが過ごす時間はもはや同じではないのです。
 極端に、物理学的に言えば、私は十時半に生きていても、あなたは私にとって未来の、十時三十一分に生きているかもしれないのです。または、過去の十時二十九分に生きているのかもしれないのです。一人一人に独自の時間があるのです。全員に時間のずれがあるのです。
 本当に時間ほど不思議なものはないのです。
 詩篇の記者がこう語っています。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。』

 まさに空間とは、「幕」だというのです。幕の上に、地球が乗っているのです。膜の上に重いボールを載せたら膜はたわみます。そもそも地球の周りに、月がうまくお付き合いするのは、どうしてかと言うと、空間がたわんでいるから、そこにボールを投げ入れればぐるぐる回るのです。聖書にあるように、幕の上に地球も乗っているというわけです。そしてこの幕に時間が絡んでいて、一人ひとりが違った時間を生きているというのです。時間も空間も神の作品です。
 私は来年に向けて、神さまが造られた時間とか空間について、考えさせられています。それらにも、主を賛美させなければならない気がしています。

 過去、現在、未来という中に、私たちは生きていますが、物理学的な時間と空間の概念からいくと、過去も、現在も、未来も、一つの入れ物の中に入っているというのです。
 だから、過去は消えているようだけど消えていないのです。私と皆さんの時間が違いますから、私は皆さんの過去を見ているかもしれないし、未来を見ているのかもしれないからです。相対性理論によれば、距離が近ければ問題はないのですが、何百万光年も離れて、しかも地球から離れながら見れば、ある人の過去、百年後とか二百年後を現在として見ることになるそうです。逆に地球に近づきながら見れば、未来を見ることになるというのです。
 ということは、神は「時空」という過去、現在、未来の入れ物を創造し、その中のすべてを入れて、人に管理させようとされているのではないでしょうか。

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 時空という入れ物の中では、絶滅しとたと言われる恐竜たちにも、「主を賛美しろ」と宣言できるのではないかと思います。そもそも人間のせいで、神さまの作品が地上から全く消え、再生不能なら、神は全能ではなく、有限と言うことになります。しかし、時空の中に過去も、現在も、未来もすべて含まれているとしたら、神にとって失っているものは何もないことになります。また、過去から現在、未来まで、全て中に残っていて、管理人の働きによって、回復の道のりを歩みだすとしたら、そんなすごいことはありません。

 仮に、時空の中に全てが残っていているとするなら、十字架の血潮によって、聖められ、罪が赦されるという事は、凄いことです。時空には悪いものが詰まっています。人間側から見る、過去、現在、未来という入れ物の中には、罪だらけ、汚れだらけです。
 しかし私たちがイエスさまを信じて、罪を悔い改めるなら、過去に厳然として罪の行為がなされている部分も、削除され、主を賛美するように変えられるはずです。それが事実なら、そんな素晴らしいことはありません。
 イエスさまの十字架は全宇宙に対する勝利ですから、過去にどんな罪があっても、汚れがあっても、さらには、今の時点で存在し続けているかもしれない、悪しき部分を切り取ることができるのが、十字架の勝利となります。

 そしてその背後で働く悪魔・悪霊どもも捕虜とされ、彼らを凱旋の行列に引きずりだし、彼らに対して主を賛美しろ!と宣言できるのなら、最高です。このことも今年学びましたが、捕虜は、捕虜になった軍隊の言いなりになるのです。悪霊どもは私たち人類の捕虜となり、凱旋の行列に引き出されるなら同様です。
 コロサイ書二章十五節、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 凱旋の行列に加えた捕虜ども、悪魔・悪霊どもに対して、主を賛美しろと宣言しなければなりません。
 なぜなら、彼らはもともと主を賛美していた者たちですから。彼らが主を賛美することが、神にとっては最も大きな回復になるに違いないです。
 やがてイエスさまが帰って来られた時、黙示録の五章十三節には次のように記されています。

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 イエスさまが帰って来られた時には、なんと「あらゆる造られたもの」、すなわち、これは創世の初めから、世の終わりまでの、すべての造られたものたちが、子羊イエスさまを賛美するのです。
 恐竜たちは、滅びてしまったから、被造物大賛美大会のために、神は創世の初めに終えられたはずの創造を、もう一度、繰り返さなければならないとなると、神の全知全能性に矛盾が生じます。
 すべての被造物は、時空という入れ物の中に神の知恵の中、今も厳然と保たれていて、十字架の血潮によってすべての悪しきものは取り払われ、すべての被造物が子羊イエスさまを崇める日が来るのです。
 そして、被造物大賛美集会をセットアップし、お膳立てする係が、他でもない、私たちクリスチャンであり、教会の役割であることを忘れてはならないのです。

 このような働きに召してくださったことを心から感謝し、二〇一八年、最後の日曜日に、主を心から賛美して、礼拝を終えたいと願っています。
 その前に、祈りと共に聖餐式を行いたいと思います。イエスさまの十字架の血潮が、時空の中に今も残っている悪しき罪を消し去る、大きな勝利であることを覚えて、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ、父なる神さま。み名をあがめて心から感謝します。今日は二〇一八年の最後の日曜日に、聖餐式を持つことができますことを心から感謝いたします。
 イエスさまの十字架は過去も現在も未来もすべてを包括して、悪しきものを消し去る勝利である事を心から感謝します。
 今からの聖餐式を祝福してください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。