「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜教会とは何でしょう?〜」

2019年3月10日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙1章20節〜23節

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

  ハレルヤ!おはようございます。今の菊池さんの歌、なかなか意味深な歌詞でした。人生、思わぬ方向に導かれることが多くあります。そんな中でも支えがあるという歌でしたね。
 人生にはさまざまな出来事がありますが、常に、永遠の腕が下にあることはすばらしいです。

 先週、私は福島に行きました。三日間、福島で霊的戦いセミナーを開催させていただいたのですが、先週の日曜日は福島県のいわき市という街で礼拝奉仕をさせていただきました。
 先ほども祈りの中にありましたが、明日は「東日本大震災」から、九年目に入ります。みなさんもあの日のことをよく覚えておられると思うのですが、本当に大きな災害でした。津波が来て、二万人近い方々が亡くなられました。あっという間に街々が消えました。すごい地震と津波でしたが、それよりも深刻なのが原子力発電所が壊れて、今もなお、戦いの中にあるということです。
 幸いなことに中部地方は、そこから距離もあり、そんなに大きな揺れもなく、守られて、私たちの記憶はだんだんと薄れているのですが、私は福島に行きまして、震災のことにちょっと触れただけで、全員の方にそれぞれの強烈な体験があり、親族とか、友人の中に、確実に被害に遭って命を落とされた方々がおられます。そういう話に触れると、話が止まらなくなります。涙を流しながら話し続けられるのです。

 一人のおじさんと出会ったのですが、その方は大震災の日、なんと福島の原子力発電所に勤務していたそうです。ただ中で原発事故にあったそうです。ものすごい放射線を浴びたそうです。その結果、すぐに肺がんになって大手術をしたそうです。またPTSDといって、あまりにもショックなことがあって精神的にも大きなダメージを受けておられました。
 彼がこう言うのです。「たくさん話したいことがあるけれど、絶対に話してはいけないことがあるのです。それを隠し通さなければならないほど、辛いことはありません。」と言うのです。私は「自由に話してください。」と言ったのですが、「それは絶対に出来ない!」と言われました。政府もいろいろ隠しているというのです。それが苦しくて自殺した人も多くいるというわけです。
 本当に深い傷がある事を、その場所に行って体験し、共に祈ることができました。二度とこういうことが起こらないように、真剣に祈らなければいけないと思いました。

 特に、多くの人が亡くなったのが津波でした。しかし皆さん、口々に言われていましたが、「今くらい、津波に関する情報があったら、誰一人死ななかったと思います。」と言うわけです。当時は津波に対する情報がなかったのです。来ても、せいぜい十センチ、二十センチ、最大でも一メートルくらいかな、、、。大丈夫だと思っていたそうです。だから警報が出ても、家に戻ったり、物を取りに行ったりして逃げ遅れたというのです。十メートルを超えるような津波が来て、あっという間に流されてしまったと話していました。

 一人の若い婦人は、自分の母と叔母さんをなくしたと涙ながらに語られました。「遺体が見つかっただけでも嬉しい・・・」と話していました。今まで元気だったお母さんが津波に流されて、一瞬にして瓦礫に埋まったというのです。それも側溝にはまって遺体がみつかったそうです。そんな生々しい話を聞いて、心がたいへん痛かったです。
 二度と起こらないように、教会は真剣に祈らなくてはいけないと思いました。

 この地域は感謝なことに、災害が少ないです。これがもしかして、祈りの結果として少ないのならば、本当に嬉しいです。聖書は私たち一人ひとりはどういう存在かを告げています。「人は被造物の管理人」だと言うのです。毎回、お話しさせていただいています。
 アダムとエバが造られた時、神はアダムとエバに言いました。創世記一章二十八節、

『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 人とは、神が造った被造物を管理する「管理人」として造られたのです。その中に土地も含まれています。海も含まれるのです。これらすべてに関して、私たちが関心を持ち、正しく運用されるように祈るのが、教会の役割です。

 今日はみなさんと一緒に、「教会とは何でしょう?」というテーマで聖書から考えてみたいと思います。教会って何?と聞かれたら、漢字で書きますと、「会衆を教える」と書きますから、どのようなイメージを持つでしょうか。「教会」という単語は昔、日本にはありませんでした。キリスト教は入っていませんでしたから。
 キリスト教が入って、誰かが「この集まりは何だろう?単語を作らないといけない」と見に来たと思います。すると学校の教室のように、人々が集まって話を聞いている姿を見て、あぁ!会衆を教えているからと言って、「教会」という単語を作ったと思われます。
 しかし教会とは、聖書から見ると会衆を教える場所という意味もありますが、それ以上に、知らなければならない情報が多くあります。教会とは何かという情報をしっかりと理解し、今からの時代、クリスチャン一人ひとりが行動しなければいないと思います。

 新城教会は、今年で、私の両親が教会を始めて六十九年になると思います。来年は七十周年です。でもあまり記念日づきたくないなと思っています。教会の目標はあくまで、イエスさまが帰られる日ですから、十周年、二十周年、七十周年というより、教会はイエスさまがお帰りになる日を目標として、歩まないといけないと思います。

 以前にもご紹介しましたが、最近、教会に来られた方もおられますので、ちょっとお話ししたいですが、新城教会は、設楽町津具、昔は津具村という、田舎から始まりました。これが父の実家です。

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 最初の新城教会の建物がこれです。

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 これが新城教会一号店です。どうでしょうか、新城教会が今日もこの建物なら、あまり人は来ないと思います。私はここに二年間暮らしたようです。

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 今は設楽ダムの関係で取り壊され、土台しか残っていません。ここまでは水は来ないと聞きましたが。

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 それから新城に移って、新城中学校の隣の長屋で教会が始まりました。だいぶ古い写真です。

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 そうこうしているうちに、この場所に移って来ました。最初にできた教会がこれです。「この教会を知っている!」という方、どのくらいおられますか?いや〜少ないですね。ほとんど、この時代の方々は天に帰って行かれました。その後、教会をちょっと建て増ししました。

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 この教会になると案外、ご存じかと思います。「私はこの時代に教会に来ていました。」という方、どのくらいおられますか?だいぶ増えましたね。この時代の人たちの、懐かしい写真が昨日ありました。

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 この写真の中で、お一人は生きておられます。菅谷さんです。懐かしい写真ですね。

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 そして今は、このような会堂が建ち、礼拝を守っています。

 教会とはどういうものか、それは神の国の文化を世界に広げる役割です。先週、チェ先生が、「私たちは神の大使です!」という話をされましたが、その通りです。神さまの国の大使として、私たちは神の国の文化を世界に広げなければいけません。地上の国の文化に影響を受けて変わるような教会ではいけません。教会に与えられている、神の国の文化を町に広げる役割があります。

 新城市も悲しいことに、あと三十年もしますと、限界集落として消えていく運命にあるそうです。新城よりも奥の町々、村々はだんだん消えています。しかし将来、新城市くらいまで限界集落になるそうです。最近、新城市も街中の商店街はシャッターが下りています。私が小さい頃、新城市の街中、いっぱい人が歩いていました。しかし今は、誰もいないです。お店もだんだん少なくなっています。
 でも不思議なことに、何を考えたのか知りませんが、新東名のインターが新城市にできました。誰が血迷ったのでしょうか。絶対に主が、新城教会のためにプレゼントして下さったと信じています。
 最近、新城の駅前にルートインというホテルまでできました。すごいでしょう。でも泊まられているのは、中国人の方々とか、外国の方々ばかりです。日本を縦断してツアーして、夕方新城インターで下りて、泊まってまた他の場所に行く通過点らしいです。新城市民は、あのホテルには泊まらないでしょう。
 いや〜、本当に、これから教会ががんばらないといけないなと思います。新城市の未来は、教会にかかっていると思います。教会がリバイバルして、神の国の文化が広がったら、新城市の未来は絶対に変わるはずです。でもある意味、新城教会は、新城の文化に結構、寄与していると思われます。いろんなことをやっていますから。プレイズ出版があって、いろんな事業展開しています。
 銀行さんが言っていました。「この頃、新城では新規に事業を起こす人が少ない。頼みは新城教会だけですよ!」みたいな事を話していました。リップサービスだとは思いますが、これから頑張らなくてはいけません。

 実はこの四月から、新城教会発信の新しい文化が、街に発信されます。何かというと、今、ヘブンズカフェがあるでしょう。今日の朝もコーヒーを飲むことができました。今度、このヘブンズカフェが一新して、「ヘブンズ・アイスクリーム&カフェ」になるのです。

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 なんと新城市にアイスクリーム屋さんができるのです。サーティーワンってあるでしょう。あれと同じような感じです。三十一種類というわけにはいきませんが、二十種類のアイスを、トッピング付きで、新城にはないアイスクリーム屋さんができるのです。コーヒーにアイスクリームを加えるだけですが、店舗を改装したりして、新城にない新しい文化を、神の国の文化として発信します。ぜひとも、みなさん楽しみにしてくださいね。
 四月になりましたらオープンします。その前に、新城教会の方々には試食会みたいなのもやらせていただきます。新城に新しいことが起こっているぞ!という感じです。

 教会とは、そういう側面もありますが、それ以上に、教会を通して、世界に向けて宣教する役割があります。『全世界に出て行きすべての造られたものに福音を伝えなさい。』
 新城教会は田舎の教会ですが、この三月はネパール宣教が待っています。祈っていただきたいと思います。今回私は行きません。ちょっぴり嬉しい、と言ってはいけませんが、なんとなく気が楽です。行かれる方々はちょっと気が重いと思います。しかし良い体験ができます。ネパールに行くと車だって、このくらい荷物を積んでいます。

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 すごいでしょう。荷物の上に人が乗ってもいいのです。怖いですよ。

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 バイクも何人乗ってもいいです。合理的です。アジアの諸国に行きますと、みなさん、たくましく生きておられます。日本人は、びくびくしながら生きていますが、「俺は生きているぞ!」という雰囲気が町に満ちています。
 日本の若者たちをこういう場所に連れて行き、少し鍛えると将来が開かれるのではないかと思います。

 今回の働きのために、ぜひとも祈っていただきたいと思います。今回のツアーリーダーは開先生です。これからは私よりも若い世代に、働きを渡さないといけません。いつも話していますが、私はもう六十八歳ですから。少し楽させてくれよというところがあるのですが、五月には、北インドのミッションがあります。ダラム・サラというもっと厳しい所があるのですが、そこに行ってくれと言うのです。みなさんぜひ一緒に行きましょう。

 教会はどういう所かというと、霊的には二つが連動しています。

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 一つは「天にある教会」です。そしてもう一つは「地上にある教会」です。それはお互いに連動しています。そして、天における教会は、「勝利の教会」です。完全無欠の教会が天にあるのです。そして地上は、その出先機関です。天の教会は勝利の教会ですが、地上の教会は「戦闘の教会」です。
 ということは、教会はどういう所かと言うと、「天が地に侵入する門」です。天が地に侵入してくる門、それが教会です。天にある祝福が、戦いを通して、この地に侵入するのです。
 現にみなさんも、昔は主を信じていませんでしたが、教会に来て、天が地に侵入し、イエス・キリストを主として信じることができたわけです。
 だから教会とは、天にあり、同時に地にあり、地上の教会は、勝利の教会を地に引き下ろす、出先機関なのです。

 イエスさまが与えてくださる「救い」とは何でしょう。それは、「永遠のいのち」です。
 実はキリスト教会の中で、最も誤解されているのは何かというと、「永遠のいのち」の理解です。それを死んだ後に与えられるいのちだと考えているところに、間違いがあると指摘されています。
 今日この礼拝が始まる前に、一月に亡くなられた方の納骨式がありました。死後のいのちは、永遠のいのちではありません。
 死後のいのちによって、人はパラダイスに行くのですが、本物のいのちは、復活によって与えられるいのちです。それは、「死後のいのちの、そのまた後のいのち」です。

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 「死んだら天国に行きますよ。」と、ぺろっと言うのですが、間違いではありませんが、真の永遠のいのちとは、「死後のいのちの、後のいのち」なのです。この地上に、もう一度よみがえるのです。
 それがなければ、イエスさまは十字架で死んで、地上によみがえることもなかったのです。なぜイエスさまは、この地上によみがえられたのかというと、永遠のいのちが、「死後のいのちの後のいのち」である事を証明するためでした。

 それぞれの人生、いろいろあります。福島でお過ごしの方々、本当に「私の人生最悪!」と口々に言われていました。避難生活で故郷を離れた方も多くおられます。また、原発から二十キロ圏内の人たちは、大金が入ったそうです。だから、その人たちは生活が狂ったと言っていました。何もしなくても生きていけるほどの大金が、流れこんだのです。
 しかし、極端な話し、二十キロから、十センチでも外に出たら、一銭も入らないと言うのです。二十キロプラス一メートルでは、お金は入らないのです。「ひどいもんですよ。」と口々に、政府のやり方を批判していました。この地上は、実際、苦しみ満載という感じです。
 これで人生が終わりなら、ある意味、地上は敗北です。しかし神さまはそんなことはなさいません。苦しみの多かったこの地で、完全勝利を宣言されるのです。
 それはイエスさまが帰って来られる時、この地が天国となるのです。新しい天と新しい地に変えられて、今与えられているいのちよりも、さらに栄光のからだといのちとなって、この地にもう一度戻ってくるのです。その日が来るんだ!と聖書は語っています。それが「永遠のいのち」です。
 イエス・キリストを信じると、死後のいのちだけではなく、「死後のいのちの後のいのち」が与えられるのです。

 イエスさまがこの地上に来られた時、弟子たちに、イエスさまが何者なのかを告白させる機会がありました。信仰告白の日です。弟子たちにイエスさまは、「あなた方は、わたしのことを誰だと言うのですか?」と聞きました。
 イエスさまを生で見て、一緒にお付き合いした弟子たちって、本当に幸せだったな、と思うけれど、逆に言えば、人間になられた神、イエスさまを目の前にすると、我々以上に、複雑な心境があったのかもしれません。
 しかし彼らはイエスさまを、「これこそ旧約聖書の中に預言されていたメシアだ!」と分かって、「あなたこそ神のみ子、キリストです!」と宣言したはずです。

 しかしイエスさまは弟子達に宣言させる時に、どこに連れて行かれたかというと、わざわざ、「ピリポ・カイザリヤ」地方まで連れて行かれました。

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 普段のイエスさまの活動は、ガリラヤ湖付近でした。ピリポ・カイザリヤまでは歩くと一日以上かかります。
 今年は、イスラエル旅行があります。お金と暇がある方は是非、行っていただきたいと思います。イスラエルに行きますと、聖書の世界がよく分かるようになります。十一月にあります。
 イエスさまは、わざわざピリポ・カイザリヤにまで弟子達を連れて行って、このように言われました。マタイ十六章十三節、

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」』

 すると、十六章十六節、

『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」』

と、はっきりと答えたわけです。その後に、イエスさまは何と語られたのかというと十八節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

 ここに「教会とは何か」の意味が出ています。
 ピリポ・カイザリヤはヘルモン山のふもとで、泉が湧き出ている所です。

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 ガリラヤ湖の水源です。ここから水が流れて、ガリラヤ湖ができるのですが、イスラエル旅行に行かれた方は分ると思います。こんな大きな洞穴があります。必ずここには行くと思います。

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 どういう場所かと言いますと、イエスさまの時代には神殿が建っていました。

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 何の神殿かというと、ギリシャ神話の「牧羊神パン」の神殿でした。

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『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。』と、この巨大な岩を見ながらイエスさまは語られたのです。

 当時の人々はこの岩を神だと信じていたわけです。日本ではどうでしょうか、日本には岩を神としている場所が、数多くあります。豊橋に行きますと、大岩があり、それを神として人々は拝んでいます。新城も山の奥に行くと額岩とかがあって、昔はそれを拝んだりしていました。イスラエルも同じ宗教形態を持っていました。古代のカナン人達は、岩を拝んでいたわけです。岩が神で、そこに神殿を建て、やがてヘレニズム時代になって、ギリシャ神話の神々を祀り、「これこそ神だ!」と信じていたわけです。
 しかし、『この岩の上にわたしの教会を建てます。』とは、自然崇拝的な偶像礼拝を、足で踏む形で教会は建てられると言うのです。まさしくこれは、戦いの教会です。
 そして真の救いの岩とは「イエスさまだ!」と教えたかったわけです。

 この時に、弟子たちはどこに立たされ、信仰告白をさせられたのかというと、こういう具合です。

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 地域の人たちは、みんな大岩を拝んでいたのです。これが自分たちの救いの神だ!と信じていました。しかし弟子達は、その拠点に連れて行かれ、「あなたは、生ける神のみ子キリストです!」と、信仰告白をさせられたのです。
 信仰告白とは、地域の人たちが「これが神だ」と信じている神々の目前で、「救いの神はキリスト以外にない!」と宣言することです。
 教会は、「ハデスの門前に建てられる」とイエスさまは語られました。ハデスとは、「悪魔・悪霊どもの住処」を意味します。そしてハデスはどこにあるのかというと、この門をくぐると、ハデスがあるのです。偶像の神殿の後ろに、悪魔・悪霊どもの住処があるのです。
 地上の教会は、戦いの教会です。異教の神々の面前で、イエスは主です!と宣言することが信仰告白の原点です。

 日本においては、偶像がいっぱいありますから、「イエスは主です!」と宣言するのは、なかなかストレスがあるかもしれません。しかしいろいろストレスを感じることは、それこそ、信仰告白の原点です。また、教会もそのような闘いのただ中に存在していることを、気づかなければなりません。

 パウロは、教会とは「キリストのからだ」であると教えています。エペソ人への手紙五章三十節〜三十二節、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

 何週間か前にお話をしましたが、教会は、夫婦関係のただ中に表されるのです。
 ここには結婚されている方々も多いと思います。結婚されている方々に申し上げたいのですが、夫婦関係はすごく重要です。一人の男性と一人の女性が一つとなって、主を礼拝する、心を一つにすることは、イエスさまと教会が一つになる事につながります。私たち自身が神の宮、教会ですから、イエスさまが私たちのただ中に来てくださるのです。
 家庭にイエスさまをお招きしたかったら、夫婦関係を良くすることです。世界中を見ると、結婚するまでは愛し合うけれど、結婚してから愛が冷える事が多いです。釣った魚には餌はやらんみたいなところがあって、夫婦関係が悪い人たちが多いと思われます。悪魔は神の原理・原則をよく知っています。だから夫婦関係を壊そうとします。夫婦関係を良くすることは、霊的戦いそのものです。そしてイエスさまを家族にお招きする秘訣です。
 結婚していませんという方は、女性の方ならば、イエスさまがご主人になってくださいますから、実際に結婚するよりも容易く、イエスさまと一つになることができると思われます。ですから結婚されていないほうが、ある意味、信仰は持ちやすいのかもしれません。しかし夫婦になると、なかなかたいへんです。戦いもありますが、夫婦関係を良くする努力は、家族の中にイエスさまをお迎えする秘訣です。教会は、そこに存在しているのです。
 さらにこの五章二十三節に、

『なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。』

とありますが、教会とは、頭がイエスさまです。そしてからだが、主を信じた者だというのです。人間の体も頭があって体が存在します。古代の人たちは、「祝福は頭の上に来る」と考えていました。すべての祝福は腹に来るとか、足下に来るのではなく、「頭の上に降る」と考えていました。
 この思想は異教の神々の世界も同じです。その原理を、悪魔はうまく利用しています。そもそも日本の墓は、石塔の上、丸いでしょう。韓国は土饅頭で、すごく大きいです。昔の古墳も丸いです。あれは何かというと、頭蓋骨を表しています。その世界観は、「祝福は頭に降る」です。悪魔はその霊的法則を横取りして、頭の上に悪しき力を置くわけです。
 本来は頭に神の祝福が来て、それが体全体に浸透するのが、聖書の教えるところです。そして頭は誰かといったらイエスさまです。イエスさまのところに祝福が来て、それがからだ全体に流れるのです。
 教会は誰が頭なのかというと、主任牧師ではないです。イエスさまです。イエスさまが頭ならば、イエスさまの祝福が体全体に流れるのです。だから、教会に連なるのは重要です。

 この頃、日本の教会でいろいろ問題があります。それは、「教会に繋がると面倒くさい」と、「教会に繋がらなくてもいいじゃないか。自分だけイエスさまを信じていればいい!」という人たちが結構、増えているからです。だから教会に行かないで、自分で礼拝したりとか、「私はイエスさまを信じていますよ!クリスチャンですよ!」と言うのですが、体につながりません。つながることは、すごく重要です。なぜなら、頭をイエスさまとして、主を信じた者たちの共同体に、神は恵みを与えるからです。もちろん普遍の教会、世界大の教会の中で、イエスさまが頭として来てくださっています。事情で属せないこともあるかと思いますが、可能ならば、キリストのからだに深く根ざすことは重要です。

 さらに、現代の教会が見落としているポイントがあります。エペソ人への手紙一章二十二節(口語訳)、

『そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。』

 口語訳聖書だと「万物」と訳されていますが、新改訳だと「いっさいのもの」とありますが、「万物」とは、「すべての被造物」のことです。
 実は、教会とは、イエスさまを頭として、被造物も委ねられているのです。教会とは、主を信じた者たち「プラス、すべての被造物」も、つながっているという認識を、パウロは持っていたのです。
 教会とは人だけだ!と考えやすいですが、すべての被造物もつなげたいと神は願われているのです。人間だけがキリストのからだにつながって終わりではなくて、人を通して管理される、被造物全体も、キリストのからだに属している!と、パウロは語っています。
 最近、賛美が、人だけのものではなく、被造物も一緒に賛美すると主が教えてくださっています。被造物全体が主を賛美するならば、彼らだって、「キリストのからだに属している」ということです。
 パウロはその理解を持っていて、『万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。』と語っています。
 なんとキリストのからだとは、主を信じた人たちプラス、被造物全体も任されていると、パウロは告げています。

 今日読んだのは、エペソ人への手紙ですが、エペソ人への手紙は、「教会に関して」記されている重要な書簡です。ある注解書を読んだら、こう註解されていました。

“エペソ人への手紙では、「体」は一貫して教会を表わし、しかも作者は、この意味の「キリストの体」を宇宙的な広がりへと拡大させている。このように、キリストは、教会という体を通して万物の支配を実現しようとしている。したがって、キリストは現在もなお、この実現に向けて、教会の頭としてこの世の諸力と闘わなければならない。(Best, Ephesians.141)”

 教会とは「宇宙規模」だというのです。目に見える自然界だけではなく、教会とは、宇宙規模の存在だというのです。

 先週は「リバプレセミナー」がありまして、ザワメキの開先生が中心となって、賛美のセミナーがあったのですが、私も一コマ奉仕させていただきました。今回のテーマは「宇宙全体を賛美させよ!」というテーマでした。
 期せずして、そうなったのですが、教会の賛美は、この空間だけで響いているものではなく、宇宙全体とつながりがあるものとして、聖書は語っています。
 実に、エペソ人への手紙においては、教会が宇宙規模として描かれています。パウロはそのように論じているのです。
 しかしそこには、はばむ力も存在するのです。そのため、教会はイエスさまを頭として、はばむ力と戦い続けなければいけないわけです。

 実は二ヶ月くらい前にご紹介したのですが、「創世記一章の再発見」という本を、山崎ランサム先生が新年に紹介して下さったので、私も読んでみました。それは、大きなパラダイムシフトでした。
 神さまが六日間かけて天と地を創造されたのは、物質を一日ごとに創造していったように考えますが、本来、そのようなメッセージを聖書は送っていないというのです。
 一節と二節で、神さまは天と地を創造されたのです。そして「光があれ。」からは、六日間かけて、天と地に機能を与え、初期設定をされたというのです。

 スマートフォンを使っているかと思いますが、iPhoneなんかを買ってきて、そのまま使えるかといったら、使えないです。まずは初期設定しなければなりません。お歳の方はあの設定が難しいんですよね。「買って来た!」と言っても、そのまま使えるわけではなく、一つ一つ機能を設定して、ようやく使いものになるわけです。
 同じように、宇宙も六日間かけて、神は天と地に機能設定をされたというのです。「創造した/バーラー」という言葉は、本来は「機能を与える」という意味だそうです。
 ではなぜ、天と地に機能を与えたのかというと、七日目に神が休まれたところに目的があります。それは「宇宙を神の神殿として機能させるため」だと言うのです。ヘブル民族はカナンの地に入って、神の神殿を作りましたが、ソロモンは、「こんなちっぽけな宮に、あなたをお入れすることはできない。」とまで発言しています。聖書と古代の中東においては、「神殿は小宇宙」と考えられていました。神殿は宇宙を表す図表でデザインされ、宇宙の機能に関係し、神殿建設は宇宙の創造に対応し、聖書においては、「宇宙は神殿」として捉えられていた、というのです。
 神の宮でレビ人たちが二十四時間賛美していたのは、何に対応していたのかというと、宇宙全体も共に賛美するところに対応していたのです。

 そして新約の時代、神の宮がなんと「聖霊が住まわれる私たち一人ひとり」になるわけです。ということは、私たち一人の賛美は、宇宙とシンクロしているのです。信じられますか?
 それが教会の機能だというのです。教会に属すると、私たち一人ひとりが神の宮となり、主を賛美すると、一緒にすべての被造物、宇宙も賛美しちゃうのです。
 今日ここで主を賛美しましたが、それにシンクロして、宇宙も一緒に主をほめたたえているって、すごいことです。
 なんと教会は、宇宙規模です。新城教会とは、ここに集まっておられる方だけとか、ネット礼拝に出ておられる方だけ、名簿に載っている方だけではなくて、被造物も加わり、なんと、宇宙全体であるのです。
 そしてその頭として、イエスさまがおられるのです。

 エペソ人への手紙は「教会」をテーマとしている重要な書簡で、短いですから簡単に読めます。是非、教会を意識して読んでいただきたいと思います。そして、その中には、「キーワード」があります。
 それはギリシャ語で、とても長ったらしいワードです。「アナケファライオーサスタイ」という言葉が、エペソ人への手紙の鍵の言葉だというのです。
 その単語は何を意味しているのかというと、「キリストにあって総括する/統合する」「すべてをまとめる」という意味だそうです。
 イエスさまがかしらとなって、すべての被造物がまとめられ、統括され、教会は形成されるということを、この長ったらしいギリシャ語の中に込めているというのです。
 そしてこの語は、悪の力の関連性で見ると、「統括とは悪の敗北に繋がる」というのです。時間がないのであまり深くお話しできませんが、教会とは、「過去の事柄を取り上げるという時間的な側面だけでなく、それまで分かれていた諸分野を秩序づけて統合するという、空間的な側面も併せ持つ」というのです。

 前回、時空についてお話ししましたが、イエスさまは過去・現在・未来を「今」として扱っておられるとお話ししました。実に教会とは、過去も、現在も、未来も、空間的側面、時間的側面も含めて統括する存在なのです。
 いや〜こうなると、本当に目が回りそうな概念です。私たちは何気なく教会に属していますが、教会とは、宇宙を包み込み、時空を包み込み、イエスさまが頭となってすべてを統括するすごい意味を持った存在であるということです。
 だから教会の権威を使うならば、過去に起こった様々な悲しい出来事だって、罪だって、汚れだって、全て整理できるはずです。その結果、未来も変わるはずです。教会とは、それほどパワフルな存在であると、聖書は教えています。

 しかし教会が機能しないように働く諸力、すなわち悪魔・悪霊どもがいるのです。「それらと戦え!」と、エペソ書六章では命令しています。悪魔の事をギリシャ語では「ディアボロス」というのですが、意味的には、「中傷者、告発者」です。

 悪魔・悪霊どもは、どういう仕事をしているのかというと、常に、神の前で中傷したり、告発する仕事です。そしてペテロの手紙第一、五章八節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

 悪魔は我々の「敵」です。彼は獅子のように食い尽くすべきものを探し求めながら、日夜歩き回っているのです。ヨブ記を見たら、それがよく分かります。ヨブにサタンが何をしたのかと言ったら、第一に、天の神さまの会議に入り込み、告発しました。
 サタンは告発者です。「あなたがたの敵である悪魔が、」の「敵」という言葉はギリシャ語では、「アンチ・デコス」です。これは「訴訟を起こす者」という意味だそうです。

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敵とは、「訴訟を起こす、告発者」です。
 教会のあらを見つけて、天の神さまの所に行って、「あいつクリスチャンだけど、こんなことしてまっせ!」と訴訟を起こすのです。目に見えない世界はすべて「法的手続きの世界」だというのです。悪魔は我々のあらを見つけ、神に告発するわけです。そして有罪判決が天で出されると、地上にもそれが実現してしまう悲しさがあるのです。

 しかし教会とは、どういう存在でしょうか。エペソ人への手紙二章五節〜六節、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 私たちは天の所、神さまの存在する天と、立場的には同じ天に存在しているというのです。私たちクリスチャンは、地上の教会に属していますが、実は、天の勝利の教会のメンバーです。そして、復活のイエスさまのポジションの隣に、私たちは座っているのです。

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 ということは、「教会は悪魔の訴えを取り下げる」場所です。悪魔は私たちにいろんな訴えをしますが、「悪魔が訴える訴えを取り下げる場所」、それが教会です。

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 私たちは、第一に、天の法廷で戦わなければなりません。悪魔が私たちを天の法廷で訴えても、天の勝利の教会に属しているゆえに、「おまえは天の法廷で訴えることはできない!」と宣言できるのです。その権限を神は教会に与えておられるのです。
 悪魔は常に、訴訟を起こしてくるのですが、教会は、「異議あり!」と申し立てて、勝訴を勝ち取る場所です。

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 神さまから教会に与えられているこれらの権限をしっかりと認識し、受け取り、働きを進めなければなりません。
 今日、悪魔に訴えられている領域があったら、「私は勝利の教会に属しているものだ!悪魔よ、よく聞け!教会を通して、おまえは訴訟を取り下げなければならない!有罪なのはおまえらだ!」と宣言できるのです。天の法廷で勝利する時、地上においても勝利が与えられます。
 常に悪魔は天で訴訟を起こしますが、私たちはイエスさまと一緒に座っているがゆえに、イエスさまが弁護人となり、教会は悪魔の訴えを取り下げる事が出来るのです。
 キリストのからだが一致し、悪魔の訴えを取り下げる働きをしたいですね。

 今日は、教会についてお話をさせていただきました。さまざまな機能が教会に与えられていることが分かります。なぜなら、天にある教会は「勝利の教会」だからです。完全無欠の教会です。それを地上に与えたいと主は願っておられます。地上における教会は「戦闘の教会」です。天が地に侵入するゲートです。

 私たちがキリストのからだに属し、被造物もすべて巻き込み、宇宙全体を主にささげ、賛美させ、天で訴訟を起こす悪魔の訴えをキャンセルして、地上に勝利の教会を打ち立てていく役割、それが教会に与えられた使命です。
 今日、このような壮大なスケールの教会に属していることを確認して、心を合わせて、日本のリバイバルのために祈っていきたいです。

 日本にさまざまな災害が起こらないように、教会が立ちあがって祈らなければいけないと思います。
 私は今回、福島に行って、そのことをお話しさせていただきました。「これから福島の教会には重要な使命があります!なぜならば、教会は被造物を管理する管理人たちの集団だからです。荒れ果てた地に建てられている教会が、すべての被造物を巻き込んで、それらが回復するよう戦いながら祈っていく時、福島から日本の未来が始まるのではないでしょうか」と話しました。
 今でも放射線量が高いホット・スポットがいっぱいあって、危ないというのです。子どもの癌がすごく増えているというのです。ある方が、「私は病院に勤めているんですが、今まではほとんどいなかった子どもたちの癌が、今、県内で二百名くらい治療を受けているんですよ。」と言われました。そのデータは、どうなのか私には分かりませんが、どんどん増えているそうです。政府はそういうことを発表しないように押さえているそうです。
 放射線は、人間が造り出したようだけれど、元は神さまのものですから、それらを無害にすることだって、教会の手の中に与えられているのではないでしょうか。

 今から聖餐式を行いますが、聖餐式は「主が来られるその日まで行え」と命令されています。イエスさまが帰って来られる日まで行うのです。
 先ほども話しましたが、「死後のいのちの後のいのち」が与えられる日までです。永遠のいのちが始まる日まで、戦い続けろという意味です。
 私たちはイエスさまをかしらとする宇宙規模の教会に属し、戦い続けていきます!という宣言、それが聖餐式に表わされています。
 聖書が教える教会の機能についてよく理解し、歩んでいきたいと願います。一言お祈りをして、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あなたは教会というすごい機関を、地上に下ろしてくださり、ありがとうございます。
 天が地に侵入する門として、私たちは機能を果たすことができますように。今から聖餐式を行います。祝福してください。
 あなたをかしらとする宇宙規模の、時空を超えた教会に属していることを確認し、聖餐式を行います。
 天の法廷で悪魔が訴えている、すべての訴えを却下します。今日、悪魔に訴えられている人は誰一人いません。今からの時をすべてお委ねし、イエスさまのみ名を通して、祈りを天の父なる神さまにおささげします。アーメン。