「働きをあくまでも続けなさい」

2019年3月17日(日)
新城教会牧師 四元雅也
テモテへの手紙 第一 4章16節

『自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。』

 ハレルヤ!感謝します。こうしてみなさんの前に立って礼拝でお話しする機会が与えられましたことを心から感謝しております。
 今日の聖歌隊の賛美、聴いていてすごく感動いたしました。今日はなんか賛美に十字架がよく出てくるなぁなんて思ったのですが、プレイズタイムの賛美の中でも「丘に立てる荒削りの」を歌いましたが、一見みすぼらしく、敗北のような惨めな十字架であったのですが、それが私たちに罪の赦しと神との和解、ひいては永遠にいたる勝利をもたらす唯一の道になったということであります。聖歌隊の「見よや十字架」を聴きながら、十字架をあおぐことができる恵みをもう一度感謝しました。

 今日、メッセージの掴みに花粉症のことを話そうと思ったのですが、十字架の勝利があまりにも大きいので、花粉症はちょっと敗北かなぁとか思って止めにしようかなぁと思ったくらいです。まぁ、今ピークですよね。
 新城市は他の市町村よりも花粉症の割合が多いかもしれないです。僕も実はそうなのですが、告白したいと思います。僕はこの二年間くらい、花粉症がそれほどひどくなっていません。なぜかというと、これは被造物のいやし効果なのです。
 自家培養でヨーグルトを作っておりまして、ヨーグルト菌をある人からいただいて、毎日牛乳を足すと一日でヨーグルトができるものですから、それで菌だけ移してできたヨーグルトをフルーツなどと一緒に食べているのです。二年前くらいから始めているのですが、この二年くらいちょっと楽なような気がします。
 みなさんもお試し頂ければと思いますが、ヨーグルト菌というのは神さまが造られたすばらしい被造物であります。作っているとだんだん増えていきます。増えていくとだんだん量も増えるので、しょうがないから捨てたりするのですが、もし欲しいという方がいらっしゃいましたら、私に声をかけていただければ、増えた時に分けて差し上げることができると思います。また試していただければと思います。

 また先ほど司会者の方からもお話がありましたが、先週はK兄が天に召されて、今日はこのように美しい花も飾られております。
 九十三歳で召されたということでありますが、亡くなる当日まで意識があって呼びかけにも応え、手も握り返したりしていたということで、最後は安らかに天に帰って行かれました。
 送り出すご家族のみなさんにも、寂しくはあっても、神さまの栄光が輝くすばらしい時であったそうです。また親戚の方々も遠くから来られて召天式に参列されましたが、クリスチャンでない方々が来られて、召天式に感動されて、神さまの回復のわざが現されたそうです。また一人天国に新城教会のメンバーが増えたことでありますが、天で私たちのために祈っていてくださることを信じて、また神さまに感謝をささげていきたいと思います。

 話は変わりますが、この地域でこの時期、春祭りのシーズンであります。先週もそうでしたが、昨日も今日も近所で花火が鳴ったり、ハッピを着た子どもたちがたむろしたりしていました。
 クリスチャンとしては偶像礼拝の祭りがささげられているのは気持ちの良いものではありません。本当は神ではない偶像、人間が手で作ったものを祭っているということであります。
 この国の多くの人々は、「神様」という名前がついていれば、その実態について深く考えることをしないで何にでも頭をさげる、祭りをするという現実があります。
 子どもたちがハッピを着てたむろしている姿を見て、「どんな気持ちで祭りをしているのかな?」「周りにいる大人達のなかに、祭られている存在がどんなものであるのか子どもたちに正しく説明できる人が、果たして何人いるのだろうか?ほとんどいないであろう」と思います。
 日本でよく言われている言葉ですが、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という言葉があります。これは日本人の霊的な価値観をよく表している言葉だと思います。何がいるか分からないけどなんだかありがたいね。涙がこぼれてくるよ。
 日本人は神々しさ、なにか神様みたいな存在がいることを、自然現象の中に見いだすのです。そして祭り立てています。自然に神々しさが認められるということは、山だったり川だったり、また生き物だったり、そういうものが、神としての属性を備えていると受け止めるのです。しかし、本当は決してそうではありません。自然は神の創造の作品であるのです。それゆえ自然というよりも「被造物」と言うべきなのですが、神によって造られたすべてのものはその存在を通して、神さまのすばらしさ、偉大さを精一杯表現しているわけで、それを私たちは感じているのです。私たちが被造物を見る時に、それらを造られた唯一の神さまを感じ、その偉大さ賢さにただただ圧倒され感激する。そして、被造物を造られた神様をほめたたえ礼拝する。これが本来の姿であります。
 多くの人たちがそのことに気づいていません。そして神の栄光を表している被造物をかたどって偶像を作り、自然現象をモチーフにして様々な祭りを考え出して、この時期行われているわけです。これは自然を造られた神さまに対しての反逆行為であり、また被造物そのものにとっては、神の栄光ある姿に泥を塗られるような行為であるわけです。

 すぐれた芸術作品があっても、作品そのものよりそれを創作した人がより多くの称賛を受けるのと同じように、私たちは自然よりも、この自然を生み出された、すべての父なる神さまをほめたたえるべきであります。
 またすべての被造物もそのことを願っているのです。「人間よ、私たちを祀りたてないでくれよ!」と被造物も嘆いていると思います。「創造者なる父なる神をあがめてくれ!」と、被造物も悲痛な思いでうめいているというみことばがありますが、巷で偶像の祭りが行われているようなこの時こそ、私たちはより一層、創造者なる神さまをほめたたえていきたい、そのような必要がある時ではないかと感じるわけであります。

 三月の初めに、韓国のチェ先生一行が来られて、五日間滞在されました。そして先々週の礼拝でも私たちと一緒に神さまをほめたたえました。大きな恵みでありました。私も滞在中の働きを一緒にさせていただきました。

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 とりなしの祈りに行った写真です。これは長野県の平岡町という所です。天竜峡にある町です。ここに建っている石塔は記念碑です。この地は戦時中に、朝鮮人や中国人、また戦争で捕えた捕虜を連れてきて、当時平岡ダムという水力発電をするダムを建設するため、そういった方々を従事させた場所であります。
 集められた方々は劣悪な環境下で、過酷な労働を強いられました。大勢いた外国人の方々が健康を害され、失明したり、命を落としたりという方が大勢出たそうです。その記念碑の前で、韓国から来られた先生方と一緒にお祈りしました。

 この出来事を現在まで伝えている方がいらっしゃいます。平岡町に住んでおられる方で、この教会に最近来られている方なのですが、H姉妹のお父さんのMさんであります。この方は先生をなさっていまして、すごい博学で、いろんな事に通じておられます。
 Mさんは当時は子どもでしたが、ダム建設に登用されている多くの外国人の方をその目で見て、子ども心に「かわいそうだなぁ」と感じられたそうです。
 外国人の方を無理矢理連れて来て苦しめて、多くの方が亡くなったなんて、日本にとって恥ずかしい汚点であるわけですが、この歴史を決してすたらせてはいけない!そのまま忘れ去られてはいけない!と、Mさんは大人になってから後世に正しく伝え教訓とすることを町に訴え、このような記念碑を建てることに尽力なさったのです。
 これがモデルケースになって、真似したいという町も現れている昨今だそうです。これは大切なことだなぁと祈りながら実感しました。

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 順先生の左側におられるのがMさんです。ご自宅に伺って、当時の話などゆっくり聞くことができました。今日もここに座っておられます。

 今日は多くお話しすることはできないのですが、在日の方々の暮らしは現在に至るまで決して楽なものではありません。日本人の先祖は朝鮮半島から渡来した人々も大勢おられて、元々民族的には日本と韓半島、朝鮮半島の方々とは兄弟みたいなものであるわけです。
 歴史の中である時は喧嘩をし、ある時は交流をし、そんなことをしながらずっとお互いに影響し合ってきているわけです。
 そして特に近代では日本の支配の元に韓半島が置かれて、半島が蹂躙された歴史があるわけです。この平岡町で起きたような悲劇的な出来事が日本の国内各地で起こりました。
 日本の敗戦によって韓半島は独立したわけですが、その後も世界を二分した冷戦のあおりをもろに受けて国が南北に分裂するということが起きました。そういう世界情勢の影響を在日の方たちも受けて、日本での生活もさまざまな苦労を強いられながら奮闘して生きてこられました。
 私たちはずっとそのことに対して無知でした。でも韓国ミッションをきっかけに、韓国の教会の方々との行き来が盛んになって、そして私たちの身近で、この日本の国で起きていた国際問題であるこれらの問題についても正しく判断をして、悔い改め祈ることを学ばされて、キリストにある兄弟愛、和解を持って互いに仕え合うことを実践することができるようになってきているわけです。

 チェ先生一行は決して経済的に余裕があって、時間的に余裕があって、日本でも行ってみようか、という気持ちで来られたわけではありません。神さまが愛を与えて、祈りの中で押し出されて、教会から遣わされ、渡航費を払い、時間と労力、祈りがささげられて、このような働きがずっと継続されてきています。南北朝鮮と日本を交えた和解と一致の働きが、この訪問を通して霊的な世界で実現しているわけです。
 そんな中で今回も交わりがなされ、僕も参加させていただいて、本当にあたたかいすばらしい交わりがなされました。神さまのわざに心から感謝しました。
 この九年間、シャローム教会のみなさんがチェ先生を毎回送り出して継続されてきた、そしてこのような形で教会のメンバーの兄姉も一緒に参加されて交わりを持つことができたのだなぁと思わされて、大変感動いたしました。

 第一コリント九章十六節、このみことばは、私がこの二〇一九年に向けてカウントダウンの時にメッセージさせていただいたみことばです。

『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(新改訳2017)』

 「福音を伝せずにはいられない。」と書いてありますが、私たちクリスチャンは、福音を宣べ伝えることはどうにも止まらない、そうせずにはいられないことだというのです。本当にその通りに、この働きが犠牲とともに、しかし喜びの中でなされてきていることを心から感謝するわけです。

 リバイバルの働きはいつもそうです。人間的な力ではなくて、神さまが思いを強く与えられて、押し出されて進み出て働きがなされていくものであります。そして福音を宣べ伝えない安楽に埋没するよりは、宣べ伝える困難を選択する方が、クリスチャンとしての幸福を得る道なのです。なぜならそこに神さまが共に働いてすばらしいみわざを現してくださるからであります。
 このリバイバルの働きがリバイバルクルセードから始まり、今年で四十九年、来年五十年ということになりますが、多くの人たちの手によって支えられて導かれているということも、本当に神さまご自身の成せるわざであります。

ガラテヤ人への手紙六章七節〜九節(新改訳2017)、

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。』


 これも、善いわざをあくまで続けていく時に、時が来て刈り取ることになる。刈り取られる実は蒔いたものによって決まるわけです。ここにも、『肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』
 ちょうど私たちの心の中に、良い畑と悪い畑、聖霊に属する畑、肉に属する畑の二つがあって、私たちはどちらに蒔くかということが委ねられていて、罪の誘惑、罪の力に従って罪を受け入れようとする自分があって、またその一方で聖霊さまに喜ばれることをしたい!という、そのことを願う自分もある。そういう戦いの中で私たちは信仰の歩みをしているわけですね。
 そしてクリスチャンである私たちの歩みは、そのどちらかに蒔く働きだというのです。真ん中はないということであります。灰色がない。白か黒。聖霊につくか、世につくか。永遠のいのちにつくか、滅びにつくか。このようにはっきりしているわけであります。私たちは聖霊につく畑に蒔きたいものだなぁと心から願います。

 最近の礼拝で、特に順先生を通して語られるメッセージ、聞いていてすごいなぁ!と思います。後からホームページでも読み返したりするのですが、すごいことが語られています。
 先週は天の法廷についてお話されていました。


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教会には天上の教会という側面と、地上の教会という側面があります。天上の教会は勝利の教会であり、地上の教会は戦闘の教会である。この両者が互いに連動し合っているというわけです。
 そして私たちは教会を通して、地上での働きをするよりも先に、天上において、天の法廷において私たちを罪に定めようとする悪魔の訴えを退け、天上の裁判で勝訴する必要がある。そのようにして天の勝利の教会の勝利が地上にもたらされ、悪魔の支配に対して神の国の勝利が拡大されていくということが起きるのです。この天上の勝利を地にもたらす門のようなものが教会だと先週語っておられました。そのことをしっかりと私たちの中で意識し、福音の戦いを戦っていく必要があります。

 そのために聖めを求めて祈る必要があります。このことについては二月十七日の礼拝の中で順先生が語っておられました。私たちの信じている神さまが、父・子・聖霊の三位一体なる神さまであって、この神さまが被造物を、また私たちを造られたわけですが、人間を造られた時に、神さまは三つの領域からなるものとして創造されました。

 霊、魂、肉体です。そして悪魔が私たちを天で訴える罪状、罪に定めるために、この三つの領域にそれぞれ策略をめぐらし誘惑を与える、そのような存在であるというわけです。

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 三つが一つになって人間です。
 そして罪を犯した人間を訴えて、自らの主張によって合法的に支配を及ぼそうとしていくわけです。
 悪魔たちは借金取りのように、またやくざのように私たちの人生に侵入してきて、力を奪って、良いものを奪っていくわけですね。

 三つの領域とは、すなわち霊においては偶像礼拝、魂においては憎しみ、そして肉体においては不品行(性的な罪)であります。三つの策略を持って私たちを罪に定めて、私たちの人生に対して罪を通して侵入してくる、そして天の法廷で私たちを敗訴させようとするわけです。

 ここに罪がもたらす二つの状況があります。罪の二つの状況とは、神に対する反逆と悪魔に対する契約ということであります。
 神と敵対して関係を断絶させる、そして悪魔が私たちに関わる窓口をこの罪を通して見いだして支配をおくということであります。
 しかし神さまはそんな悪魔の策略に対して私たちが打ち勝つことができる道を造ってくださったわけです。それが先ほど賛美の中でも力強く歌われていましたが、イエス・キリストの十字架です。神のみ子イエス・キリストが、ただ一度私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださり、罪の刑罰を代わりに受けて、三日目によみがえってくださった。私たちは神の前で悔い改めることを通して救われて、神の子としての立場を受け取ることができるようになったわけです。
 そしてさらに私たちに追いすがろうとする悪魔に対しても、その関係を断ち切ることができるわけです。

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 罪からの解放にはこの二つの側面があるのです。すなわち、父なる神に対しては悔い改めとそれによる神との和解です。そして悪魔に対しては罪によって結ばれてしまった悪い契約が破棄されて、悪魔と決別されていくこと。これが罪からの解放であります。

ガラテヤ人への手紙六章十四節〜十五節、

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』

 このみことばの中には、先ほど同じガラテヤ人への手紙の中でお読みした良い種と悪い種との間の戦い、その戦いに私たちが勝つために大事なことは、私たちが世に対して死ぬこと、イエス・キリストが十字架の中で死なれたように、私たちも罪に対して、世に対して死ぬということ、そして肉の欲が招く罪の契約を破棄して神さまと結ばれることです。
 それは割礼を受けるか受けないかという外見的なものではなくて、新しい創造があるかどうかだと、この箇所では語っています。
 この新しい創造は、前にもお話しさせていただきましたが、第二コリント人への手紙五章十七節に、

『ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(新改訳2017)』

 このみことばからも最近、順先生がメッセージを語られていますが、キリストの十字架にあるものは新しい創造を受けたものである。全く新しくされたものであると、チェ先生もこのみことばから語っておられましたね。
 イエスさまによる新しい創造がある時、私たちは聖霊の畑に蒔き続けていくことも可能になっていくのです。

 「創造」については、最近のメッセージでも繰り返し語られておりますが、神さまが天地を創造された時、元々あった被造物の中に機能が与えられて、そして被造物全体が最終的に神の神殿となって神をほめたたえるようになるということが語られています。イザヤ書六十六章一節〜二節(新改訳2017)、

『主はこう言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。』

 このことばも一月二十七日の礼拝で聖餐式の時に順先生が開かれたことばであります。私も二月三日の礼拝の時にこのことばを引用させていただきましたが、このことばの前半部分は、神によって造られた被造物が主をほめたたえる神殿であることを物語っています。
 人間が手で作ったような宮、それがいかに荘厳で、豪華絢爛、壮大な宮で、どれだけ人間の目にすばらしいものであったとしても、神様の前ですばらしいのではない。神さまが安息する場所は、創世記一章の創造物語の中で、完成した被造物をご覧になり、七日目に神さまが安息されたと記されていることから、全宇宙・全被造物が、神を迎え、神をほめたたえる神殿だというわけです。

 このメッセージの冒頭に、巷で行われているような祭りが神をほめたたえているのではなく、神が造られた被造物はそのすばらしさを通して神をほめたたえているんだとお話ししました。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。』と書かれていますように、被造物全体が神さまを迎える王座であり足台である。そして主が安息される場所というのは、その全宇宙を通して神さまが礼拝されるときに、主が安息されるのだということです。

 そしてイザヤ書六十六章二節の後半に、被造物から人間に焦点が移ります。

『わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。』

と書かれています。全宇宙から視点が人間に移されて、神様が目を留められる者とはこのような者だとおっしゃった、とはどういうことかというと、第一コリント六章十九節にこういうことばがあります。

『あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。』

 新約の時代になると、私たち一人ひとりに聖霊が宿ってくださって、私たち自身が神をあがめるための神殿としての機能を持つ者となった、ということを教えているわけです。
これこそが私たちに十字架によってもたらされた新しい創造なのです。私たちが聖霊に満たされて主をほめたたえる時に、全宇宙が主をほめたたえるということとつながるということになります。
 だから私たちが賛美する時に、私たちが一人で賛美しているわけではないのです。私たちが聖くなって、聖霊の宮として主をほめたたえる時に、かつて神の宮というのは宇宙全体と関わりがあって、神の宮で主が賛美されるというのは宇宙全体が主をほめたたえる。と旧約聖書には書かれているわけですが、それと同じように、私たちが歌う時に、全宇宙・全被造物も歌うことになるということであります。そのような重要な役割が、私たち一人ひとりに与えられているということなんですね。
 ですから私たちは聖霊に満たされなくてはいけないのです。そのために先ほどお読みしたイザヤ書六十六章二節に、『わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。』と書かれているわけです。
 私たちが良いわざに励み続け、また聖められた者になることが本当に重要なことであります。

 このみことばを読んだ時に、心に留まったのは『わたしのことばにおののく者だ。』ということばです。
「おののく」はどういう意味かというと、インターネットで見ると、「おびえる/わななく」などという意味があります。語られた言葉に対して、わなわなとおびえる、ということです。
 私には四人子どもがいますが、子どもが小さい時、ときに悪さをしたり、言う事を聞かなかったりすると私が雷を落としたりすることがありました。時にはゲンコツをお見舞いしたりもしました。そんなことをすると子どもたちも泣きだして、「ごめんなさい」となったりするわけです。
 でも四人の中には強情な子もいて、怒られたことに納得できないと、ぷんっ!と顔をこわばらせ、絶対に謝らない!という態度をしました。そういう時はやっぱり私も父親としての威厳を持って、そして子どもが納得するまで付き合いました。時には二時間くらい手をかえ角度をかえ納得させるために努力することもありました。そしてついに「ごめんなさい」と言わせたことがありました。「ごめんなさい」と言ったら、受け入れて甘えさせてあげてということをした経験があります。
 今はみんな大学や高校・中学に行くようになって、父親の威厳もどこへやら、ということが多いです。「駄目じゃないか」と言っても、「うるせぇ!わかっとるわ!」と、巻き舌で言われたりします。こどもとの接し方も随分変わって、あまり権威を振りかざしても良くないかな、ということも多くなっています。
 「おののく」という言葉を考えた時に、自分自身反省させられるところがあります。果たして自分は神さまの言葉に対して、どのくらい「おののいて」いるだろうか、と。「うるせぇ!わかっとるわ!」と神さまに言っているようなことがないかなと。
 私たちは、みことばに親しむことはとっても大事なことだと分かっています。このように礼拝に毎週来たり、自分でも聖書を読み、家庭集会に出て、みことばに親しむわけですが、逆に親しみすぎというと語弊がありますが、「このみことばは前にも聞いたな」とか、「そんなこと知ってる。」そういう感じで、自分で勝手にルールを作って、自分でできる範囲はここまでだと、メッセージで「こうしなくちゃだめですよ」と言われても、「うるせぇ!」と思ったりすることはないでしょうか。僕自身反省させられます。神さまのみことばに対しておそれおののくのは重要なことです。
 霊が砕かれて神さまの前にへりくだった者、みことばにおそれおののく者として、神に目を留められて、また神に礼拝をささげる者として、天の法廷においても責められるところのない者として歩んでいくことを、神さまの前に求めていかなければなりません。

 リバイバルの働きは忍耐の中で続けられておりますが、最初に読んだみことばのように、働きをあくまで続けなさい!働きをあくまで続けなさい!良いわざをあきらめないでし続けなさい!と、神さまはみことばを通して私たちに語っておられます。これは私たちにとって大きなチャレンジであります。しかし私たちが聖められた者として神の前に出ていく時に、私たちが被造物に対して宣言して、賛美せよ!と命じるとき、神さまの生ける神殿として、神さまをほめたたえていく中で、世界が神さまのもとに勝ち取られていくことを思わされております。
 この教会がそのような働きを担わされたものとして、教会とリバイバルミッションとプレイズ出版にはさまざまな働きがゆだねられておりますが、働きをなしていく上でもそうですし、個人個人が神さまの前に救われた者として、その置かれた場所にあって良いわざに励み続け、神のわざをこの地に宣言する者とならせていただきたいです。お互いに励まし合いながら、前進し続けていきたいと思います。
最後にお祈りします。

イエスさま。私たちは今日も神さまの前に心貧しく、霊の砕かれた者として、神さまを心から求めて、み前に出ていきます。なれ合いになったり、みことばに対してもいつしか自分自身が鈍感で、響かない者になっていたとしたら、今日悔い改めます。霊的戦い、天における法廷において勝利し、神につく者として、聖霊さまに満たされていくことができますように。イエスさまあなたの十字架の勝利の中で、悪魔との決別、そして父なる神さまとの和解と、そして回復がお一人お一人の中に現されますように。
イエスさまのみ名によって心から信じ感謝してお祈りします。アーメン。