「最高の賛美と感謝をささげましょう」

2019年4月7日(日)
新城教会牧師 上條実
詩篇103篇1節~5節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 ハレルヤ!今日こうしてみなさんとともにみことばを学ぶことができます事を心から感謝します。
 皆さんにお祈りしておりました、ネパール宣教へ出かけて行った方々が、先週の日曜日の午後、守られて無事に帰って来ることができました。今日の午後からは、ネパール宣教報告会があります。行かれた兄姉から、素晴らしいお証しを伺うことができますので、是非ご参加ください。しかし都合によって、どうしても出席することができない方もおられると思います。その為今から代表として瀧川充彦スタッフに、写真や映像を見せていただきながら証をお願いしたいと思います。

<ネパール報告>

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。本当に皆さまのお祈りに支えられて無事にネパール宣教に行って、生きて帰って来ることができました。心から感謝します。宣教の働きをしている中も本当に皆さまのお祈りをひしひしと感じながら、この宣教の働きをさせていただきました。早速ですが、写真のほうを見ていきたいと思います。
 今回は日本から二十名、アメリカから二名の先生方、そして韓国から一名の兄弟が参加してくださって、二十三名という宣教チームが与えられて行って来ました。

 今回いろんな事故から、トラブルから守られるようにということで祈っていただいており全てにおいて守られました。ほとんどの方が大韓航空で行ったのですが、実は少し怖い体験をしました。私も何度も飛行機に乗ったことがあるのですが、今までで一番怖い着陸でした。日本からソウル、ソウルからカトマンズ、この二回とも何事が起こったかというような着陸でした。カトマンズに着いて飛行機から降りる時、ファーストクラスの席では酸素マスクが垂れているのを見ましたが、それくらい衝撃があったということですね。恐ろしい思いをしましたが、祈りに支えられて、主に守られました。

 世界の屋根といわれるヒマラヤがあるその地に行き、宣教の働きがなされました。

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 最初はダクシンカリという、ヒンズーの最高神、シヴァ神の妻の一人だと言われるカーリーという偶像が祭られている所へとりなしの祈りへ行きました。偶像の宮までの通りを歩いて行くと、鶏がいる。山羊がいる。そしてナイフが売っている。どういうことでしょうか。カーリーというのは殺戮を好む、血を好む偶像で、その前であれらの動物の首を切って血を流し生け贄としてささげるということがなされている、本当におどろおどろしい所でした。今回初めて参加されてこの場所に行った方々もおられて、本当に衝撃だったという言葉を多く聞いております。

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 そんな敵の面前で、開先生を代表し、私たちも賛美して戦ってきました。賛美する中で、これはヒンズーの僧侶ですが、笑顔になっていく姿を見ました。本当に賛美の力を見させていただくツアーとなりました。

 そしてとりなしを終えて、チトワンという宣教地へ向かいました。山岳民族、チェパン族がいる地に向かうのですが、八時間のバス移動となりました。その道のりは、昨年の一月〜三月まで七十人の死亡事故があったそんな危険な道だったのですが、走り出したらバスが横転していました。
 そんな中でも守られて、ネパールの高速道路を走りながら行きました。いつ土砂崩れが起こってもおかしくないような道でした。そんな中、またバスが側溝にはまっていました。今回は合計三台のバスが横転したりしていて、本当にその危険な道からもみなさんのお祈りに支えられて守られました。

 そしてその宣教地、チトワンにおいてパク先生が指導している宣教チームがありまして、そちらの現地のネパール人の方々と集会の時を持ちました。本当にあちらのクリスチャンの先生方、兄弟姉妹が、熱く燃えていて、熱い祈りと賛美がささげられました。

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 またこの働きが継続的に行われているので、お互いに家族のような関係になっており、再会の喜びを味わうひとときともなりました。

 そしていよいよ宣教地の山へ向かって行きました。今回は二つの村に行きました。一つはポイデパニ村、そしてもう一つはパレワコ村という所です。さぁ、出発ということですが、昨年は道路がよくなったということをお伝えしましたが、昨年の様子はこんな感じで、まだ砂利道だったのですが、今回はアスファルトが敷かれていました。

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 そして今回、待っていたらやってきたのがトゥクトゥクです。三輪自動車。これに乗って一気に山をかけあがって、そして宣教地に簡単に楽に向かうことができ、本当に感謝でした。

 中間の地では賛美して祈る時も持たれました。道路ができ便利になりましたが、貨幣経済というものも入って来ていて、今までなかったネパールのコンビニと言っていいか分かりませんが、お店ができていました。今まで全くそういったお店などはなかった所なのですが、素晴らしい道ができて良くなった部分もあれば、悪いものも入ってくる可能性も出てきてしまいました。また覚えてお祈りください。
 そして最初の宣教地、ポイデパニ村ですが、そちらには教会があります。以前にもこの宣教の働きで伺ったことがあるということですが、死人がよみがえったと言われる教会で、インマヌエル教会という名前です。
 二十六年間、この地で伝道し、最初はクリスチャン一人だったのですが、今は村中でクリスチャンの人たちがいるということで、山奥で戦っておられる姿に心熱く燃やされました。

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 そして今回はこの教会から歯科衛生士をしておられる姉妹が行って、デンタルミッションということで歯の調査をしました。また午後から報告が聞けるかと思います。

 そしてランチタイムです。多くの方々がもうすでに集まっておられたので、のびきったインスタントラーメンをみんなで一緒に美味しく食べました。
 今回もクリスチャンの若い青年が手伝ってくださって、英語からネパール語に通訳してくださり助けてくださいました。

 今回は医療ミッションがないということで、今回は「とりなし賛美ミッション」ということに力を入れることができ、各村の家々をめぐって賛美をささげて祈るという働きをさせていただきました。
 三チームで巡ったので、今までに行ったことのない地域に行って賛美をささげることができました。特にポイデパニ村は初めてなのですが、広範囲に渡って、そのような賛美の働きをすることができました。
 そしてゆっくり腰を据えてお話を伺ってお祈りの時を持ちました。また被造物に対しても、「主をほめたたえよ!」と宣言してきました。

 そしてフードミッションということなのですが、今回も昨年に続き、アメリカのタコマで牧会されている元シェフの佐藤先生が参加してくださり、助けてくださいました。
 今回は水牛のカレー、山羊のバーベキューというメニューでした。山羊の肉はどこかでさばいて持ってきてくれるかと思ったら、目の前で首を切るということがなされまして、また希望者の方にはビデオがありますのでお見せしますので言ってください。

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 こんな感じで肉にされて、バーベキューにされました。あちらは本当に暑かったので、パク先生、鈴木さん、石塚くんは、熱中症ぎりぎりで頑張ってくださっていました。

 そして集会もとても祝福されました。ハワイの冬木先生もメッセージしてくださいました。そして集会中、食事を準備していき、夜暗くなってしまいましたが、こんな形でフードミッションがなされました。

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 そして息つく間もなく、ホームステイミッションということで、それぞれの家庭に泊まらせていただいて、良い交わりを持つことができました。

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 そして次の日はパレワコ村、もう少し上に上がるのですが、いつも行っている宣教地へ向かいました。こちらで奉仕をさせていただきました。フードミッションということで早々と準備に取りかかりました。ガスも電気もない所ですので、薪割りをしたりしました。
 そして食事の準備をして、パレワコ村ではトマトパスタと山羊のバーベキューというメニューでした。このナイフで山羊の首が切られました。

 そしてとりなし賛美ミッションということですが、本当に良い賛美と祈りの時でした。集会もとても恵まれた時となりました。

 こういった形で、イエスさまを知らない方々のために祈ってあげましょうということで、今回中学生も行ったのですが、中学生も本当に燃えて按手して祈っておられました。

 そしてフードミッションですね。山羊は現地の方にとっては本当に高級で、お祝い事で一年に一回食べられるか食べられないかというもので、それをタダで差し上げるということは本当にありえないようなことなのです。本当に喜んでたくさんの方々が来てくださいました。

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 ネパールの平均月収は五十ドルと言われるのですが、この山羊が二百ドル〜二百五十ドルくらい、半年分くらいの収入の価値があるものだということですね。骨までしゃぶって、喜んでおられました。とても現地の方々と良い交わりを持つこともできました。

 そして、昨年、私がホームステイさせていただいたおうちに今年もホームステイさせていただきました。この方は、足が悪くて、開先生、星野先生、岩井先生がいろいろ治療にあたったり、祈って賛美したりしました。昨年はずっと寝たきりだったのですが、今回はご自分で立ちあがっておられて、とても良い笑顔を見せくださいました。

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主の回復のみわざの一端を担わせていただいたことを覚えて感謝でしました。
 そして、次の日は山を下りて、カトマンズに戻り、翌日の土曜日、現地の礼拝で奉仕させていただきました。歓迎のしるしにネパールの民族衣装のマフラーみたいなものを宣教チームにくださり、開先生は帽子ももらっていました。開先生は、頂いた手前、帽子を取ることはできず、このまま賛美とメッセージをされておりました。

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 どの集会も開先生がメッセージをされて、「賛美は剣だ!そしてその剣を持って敵の前で賛美をしてください!」ということで、賛美の剣を手渡す祈りのときが持たれました。今回はヒマラヤミッションということで、新しい主の働きにさらに展開しているのですが、そのヒマラヤに対して賛美をささげていくことは、世界の屋根と呼ばれるヒマラヤを通して世界を覆う闇が打ち破られていくことであって、ネパールでの戦いは、ネパールのリバイバルだけではなくて、世界のリバイバルに通じるんだということを語っておられました。本当にみなさん喜んで、そのメッセージを受け取っておられる姿を見ました。

 そして最後にチベット仏教寺院のボダナートという所でとりなし祈りました。密教と呼ばれるものですね。チベット仏教の聖地であります。

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チベット仏教はこのネパールにおいて始まりました。仏教もヒンズー教もこのネパールの地で始まりましたが、そのような流れの中でチベット仏教が起こってきました。この寺院自身が曼荼羅を表しています。

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右手が先ほどお見せしましたボダナートという建物を上から見た写真で、左がチベット仏教徒が修業するために用いたりする曼荼羅です。こういった形に作られております。
 旗が見えますが、それぞれに意味があり、宇宙を構成する五大要素だということが言われています。ここで「主の回復の時が」を賛美して、本当にこの全宇宙の被造物が回復するように、全宇宙に賛美が響き渡るように賛美をささげることができました。

 そして忘れてはいけないのはパク先生の助けですね。今回、宣教が始まる前、奥様が病気になられて、入院されたり、そして韓国に帰られたりと大変な状況だったのですが、この主の働きを受け取ってくださって、本当に全力でサポートしてくださいました。いつも陰で祈りの手をあげてこの働きを支えてくださっておりました。

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 また日本語からネパール語にしてくださるアシシュさんという現地の方が、昨年から通訳として手伝ってくださるようになり、今年も手伝ってくださり、ずっと行動を共にしてくださり、私たちは何のストレスもなく、日本語で祈ったり、賛美したり、メッセージをすることができるという、そんな大きな助けもあり、本当に主が建て上げてくださった素晴らしい宣教チームでありました。

 しかし、これはこの宣教の前線に出ていったチームだけの働きではなくて、新城教会において、また全日本の教会、全世界で祈ってくださった皆の勝利であったなぁということを感じます。

 そして新しい戦いが開かれた!という印象がありました。最後のチベット仏教の聖地であるボダナートでとりなし祈りましたが、この五月末に行われるヒマラヤミッションの北インドでの働きにつながる祈りともなりました。この働きのためにもみなさん覚えて祈り続けてください。本当に神さまが新しいわざを起こそうとされている、そんな期待感をいただいて帰って来ました。本当にお祈りをありがとうございました。以上で報告を終わらせていただきます。

 すばらしい報告を感謝します。主に栄光をお返ししたいと思います。午後からは参加された方々が素晴らしいお証を聞かせてくださいます。みなさん是非お出かけになってください。

 それではみことばを学んでいきたいと思います。先ほど読んでいただきました詩篇百三篇一節〜五節のみことばから、「最高の賛美と感謝をささげましょう」というタイトルでみことばをいただきたいと思います。
 私はいつもこの百三篇を読むと感動します。三節〜五節を読んでみますと、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 これは本当にクリスチャンにとって、喜びと希望に満たされる聖書箇所です。主を信じるとき、罪と咎が赦され、病が癒され、裁きの場所から救われ、恵みとあわれみとの冠が与えられ、一生良いもので満たしてくださる。そして若さは鷲のように新しくしてくださる、私たちクリスチャンはみことば通り、主から祝福を頂ける。何と素晴らしいみことばです。
 しかし今回教えられたのは、一節、二節の所でした。今まではその一節、二節はあまり気にかけずに、三節〜五節を読んで恵まれていました。しかし今回「一節、二節を読みなさい。」と語られたように気がしました。

 この百三篇というのは、主題は「主の大いなるあわれみへの賛美」だそうです。私たちは詩篇を読むと、多くの詩篇の記者は、人生の様々な苦しみの中より、神の恵みを体験する証しとして作られているそうです。しかしこの百三篇だけは違って、百三篇は人生の陰があまり感じられない、ある資料によると「純粋な賛美だ」と書かれていました。
 その賛美の対象は、大いなる憐れみを持って私たちを包んでくださる主に向けられており、ある注解書は「この詩篇には地平線まで見渡しても、何一つの雲も見えず、曲の中にも悲しみの響きすら聞こえない。」そんな特別な素晴らしい百三篇。私たちの主を焦点とした賛美が書かれている詩篇だとありました。

 その一節を読みますと、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。』

 ここに、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』とありますが、これはどういう意味かというと、『わがたましいよ。』とは、自分のたましいに向かって語っています。『わがたましいよ、主をほめたたえよ。』ということは、自分で自分に言い聞かせて言っている言葉です。私ならば「上條実よ!主をほめたたえなさい!」と語っています。自分に向かってもっと「主をほめたたえなさい」と促しています。あなたはどれだけ主をほめたたえていますか?

今回ネパール宣教旅行に行っている方々の勝利と祝福、そして守りの為に、日に七回、主を賛美しましょうと言われていました。皆さんはどのくらい賛美しましたか?私もはじめは賛美していましたが、次第に忘れてしまいました。私は生活の中でどれだけ賛美しているだろうかと考えてみると、すごく少なく感じました。しかし今日のみことばは『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』自分に言い聞かせて、「主を賛美しなさい!」と語っています。もっと生活の中で、賛美を意識していかなければいけないと思います。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』だから私たちは時間がある限り、主を賛美していきたいと思います。

 そして『私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ』とあります。『私のうちにあるすべてのものよ。』ということはどのような意味であるかを学びました。いろいろ調べていくとき、ある先生方のメッセージを読みました。するとそこには

『私のうちにあるすべてのものよ。』とは、「私のうちにあるすべてのものよ」とは“「心から讃美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美する”こと。

 とありました。みなさん、これはどういう意味か分かりますか?「心から讃美する」と言う、そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美するということ”というのは、全身全霊で、私たちの表現ではできないほどの思いを持って、主に賛美しなさいということです。

 先週の金曜日の夜にテレビで放映していた番組で、娘からのサプライズ妊娠報告で、孫ができる事を喜んでいる母親の映像が流れていました。テレビで見られた方もあるかと思いますが、娘の妊娠を願って願って、待っていた母親に、父親の誕生日に娘がサプライズ妊娠したことを伝え、母親は娘が妊娠したということを聞いて、ことばの表現は悪いのですが、発狂するように叫んで、喜んだ姿を放映していました。ものすごい喜び方でした。私たちは、主からこの上ない喜びをいただきました。それはイエスキリストが十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえったこと、そして被造物の管理人として任命され、被造物に主をほめたたえろ!と宣言する者とさせて頂いたことです。何物にも代えることのできない最大の奇蹟、喜びです。「心から賛美する」と言う、そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美しなさいと詩篇で言っています。あなたの賛美はいかがでしょうか?

アメリカで去年、メガミリオンズという六つ数字を合わせる宝くじで、なんと史上最高額に迫る十五億三七〇〇万ドルの大当たりが出たそうです。日本の金額に換算すると、約一七二〇億円だそうです。もし自分が当選したらどんなだろうと想像してみました。でもあまり想像できませんが、いつもは眉間にしわを寄せている私でも、大爆発の喜びで満ち溢れると思います。私なんかは近くの薬局で六千円分の商品券が当たったことがありました。その金額でも一日中ウキウキしていました。しかし桁がいくつも違います。一七二〇億円が自分のものに入るとしたら、毎日が爆発的な喜びがあるんじゃないかと想像しました。しかしそんなことよりも比べることのできない喜びをイエスキリストは与えてくださいました。また兄姉の結婚が決まるように祈っていただきたいのですが、ずっと祈り続けてきた方と結婚が決まったとなると、これもまた最高の幸せだと思います。
 またワールドカップなどで、日本が勝利した時、東京渋谷のスクランブル交差点で馬鹿騒ぎをして、喜んでいる若者たちを、テレビで見たことがあると思いますが、日本が勝ったということで、警察も総動員で警備しても抑えることのできないほどに、喜んでいる姿。しかし

“「心から賛美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美するということ”

 すべての営みを動員して。大金が当たったとか、日本が勝利したとか、そんなことよりも喜びを持って、「心から賛美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的な表現と喜び以上に、主を感謝し、賛美することを主は望んでいますし、それに値する主です。そのことを今回学び、今までの賛美が主に大変申し訳なく思いました。

ヨハネ十五章十六節

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 私がイエスさまを選んだのではない、イエスさまがこの日本では一億三千万人の中から世界では七五億三千万人の中から、私を、あなたを、選んでくださった。名を呼んで救いに入れてくださったことを喜びましょう。

ガラテヤ人への手紙二章二十節、

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』

 イエス・キリストの十字架によって、私たちは今生かされている。永遠に生きることができる。永遠に私たちは主と共に交わり、この地上で交わることができる。こんなすばらしい祝福を賛美しましょう。

 イエス・キリストが私のために、またみなさん一人ひとりのために罰を受けてくださった。殴られ、馬鹿にされ、むち打たれました。以前パッションという映画が上映されました。イエスキリストの十字架を忠実に再現したいということで、目を背けたいような画像が多く、むちに打たれ時、肉片が飛んだりして、生々しい場面が多く衝撃を受けました。どんなにイエスさまが苦しみを受けてくださったか。それが私のためであったことを考えるとき、改めて感謝したことを覚えています。

“「心から賛美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美するということ”ということを読んで、あまりにも喜びがない、賛美がないこと今回教えられました。超最高の祝福を頂いていながら、私たちは問題や悲しみを目にとめて、喜びが失われています。その為賛美もできません。私を選んでくださった事や、神の子どもとなる特権を与えていただきながら、喜べず、逆に不平不満を主に訴えています。自分の性格が嫌だと訴えます。その性格も主が造ってくださったのにも拘わらず主に訴えます。また、「自分はなんでこんな体型で・・」とか、「自分はなんでこの家に生まれたんだろうか?」「なんでこんな国籍に生まれたんだろう?」とか、さまざまな不平不満を覚え、知らず知らずのうちに、喜びどころか、問題で押しつぶされてしまいます。しかし詩篇は

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』

自分のたましいに向かって語っています。『わがたましいよ、主をほめたたえよ。』ということは、自分で自分に言い聞かせて言っている言葉です。自分に向かって「主をほめたたえなさい」と促しています。問題などではなく、問題を持ったままでも、今日は主をほめたたえよと言っています。

何億当たったとか、何に勝利したとか、そんなものでもない、すべてを超越して、私たちは主を賛美していかなくてはいけません。“「心から賛美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美する”、その賛美を私たちはしていきたいと思います。

 それと同時に、そのすばらしい賛美を、今度は被造物に向かって、「主を賛美しなさい!」と私たちはもっともっと、主が造られた被造物に対しても、私たちは賛美をささげていき、宣言していきたいと思います。

 そしてもう一つは、詩篇百三篇二節です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 ここに、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』と、もう一度 自分で自分に言い聞かせて言っている言葉です。自分に向かってもっと「主をほめたたえなさい」と促しています。そして『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』とあります。

 私たちは主イエスキリストを信じていながら、問題や、病気、また様々な出来事で、主が見えなくなってしまいます。悪魔の訴えを聞き入って、捕まえてしまい暗い日々を送っています。自由だと言われているのにも関わらず、問題や暗い所を握って、感謝のできない日々を送ってしまっています。そして辛い、苦しい、悲しい、日々。また人と比較してしまい、感謝とほど遠い生活を送ってしまっています。

 しかし聖書は『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』と語っています。人生には様々なことが起きます。実際、考えもしなかったような病気、問題にぶち当たったりします。しかし私たちの主は、感謝しなさいと語っています。有名なみことばの中に、第一テサロニケ五章十六節~十八節、

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 特に十八節、『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 今日、主が望んでおられることは、感謝することです。それもすべてのことに対して感謝しなさいとあります。問題などが起こるとまず祈ります。これはとても重要なことです。しかし神が望んでいることは、祈りとともに十八節にあるように、『すべての事について、感謝しなさい。』感謝。この感謝は、とても大きな力があります。

 今日はあまり話せませんが、今から三十三年前のことですが、私は病名がわからない病気にかかりました。血液検査をしてみると、数値はとても悪い状況でした。当時脇腹が痛くて、痛みが出てくると三十九度ほどの高熱が出たりしました。始め新城市のある病院では心臓が悪いと疑われ、よくならないので義理の妹が勤務していた東京の病院で入院して、検査をして、肺が悪いのではないか?またさまざまな検査をしましたが、何の病気かわかりませんでした。その為痛みが出てきたときに処方された薬は痛み止めだけでした。痛みが治まらず、痛み止めばかりを飲み続けた為胃が荒れて、座薬の痛み止めを毎日二・三本打ち続けていました。様々な検査を受けましたが、結局何の病気なのか分かりませんでした。そんな時でした。私は『すべての事について、感謝しなさい。』というみことばに出会いました。ある本から賛美や感謝はとても大切だということが書かれていました。その本にはアメリカの青年が麻薬中毒になり、刑務所に入れられ、様々なトラブルに出会い、廃人のような状態だった。彼の父はその息子のことを牧師に相談すると、先ほどご紹介し
第一テサロニケ五章十八節、

『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

というみことばを引用して、すべての事とは良いことばかりではない。悪いことも入る。だから悪いことまですべて主に感謝しなさいと教えてくださったそうです。そしてその父親は、息子が麻薬中毒になったことを感謝しますなど、悪いことまでもすべて感謝し始めたそうです。するとその息子が癒されたということが、その本に書いてありました。
それを読んだ私は、ただ安静にしていただけなので、時間がたっぷりあるので一度試してみようと思いました。すべて感謝しようと思い、実行し始めました。痛みがあることを感謝します。熱が出ることを感謝します。私の為に検査してくださる医師、看護師などがいることを感謝します。などなどこれ以上ないと思うほど感謝しました。しかしその間もつぶやいたりしてしまいましたが、とにかく感謝しました。すると私に、主が触れてくださいました。検査したが何の病気だったかわからず、「今のところ検査することはありません」と言われてしまいました。私は「では、検査することがないならば家に帰らせてください。」と言って許可をもらって帰りました。その後も感謝し続けた時、不思議ですが、熱が出ることが少なくなり、痛みの間隔も長くなって、知らないうちに癒やされてしまいました。その後血液検査しても正常に戻り、医師からも何の病気だったんですかね?と不思議がられてしまうほどでした。また何か症状が出てきたらすぐ来てくださいとは言われましたが、あれから三十三年間過ぎました。今もこうして主のために奉仕することができています。本当に何だっただろうと思いますが、私からしたら「感謝しない病」だったので、主が感謝を教えて下さり、主にあって感謝することはとてつもない、大きな主の力があるということを、自分に教えてくれたと思います。私の体験から言える事は、「主が望んでいることは感謝」です。あなたも感謝し始めて見てください。祈りとともに、感謝も大きな力があります。

 最近、詩篇百三十六篇を読みました。この百三十六篇は二十六節まであるのですが、一節にこのように書かれてあります。詩篇百三十六篇一節、

『主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』

 そして、詩篇百三十六篇の最後の節二十六節には、

『天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』

 この百三十六篇は、感謝で始まり感謝で終わる詩です。

 そして四節を見ると、詩篇百三十六篇四節、

『ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。』

 ここに『大いなる不思議を行われる方』とあります。私たちの主は、大いなる不思議を起こしてくださる主です。私の病気も、私に感謝が足りなかったので感謝をすることを教えて下さり、何の病気かわからない病をいやしてくださいました。問題や病を解決し、私たち人を造り、またすべの被造物を造られ、様々なものを見ても大いなる不思議を行われる方です。

 また詩篇百三十六篇五節~九節を見ると、天地を造られたことがここに書かれています。

『英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。』

 この天地を造られた主だと言っています。

 そしてその後、詩篇百三十六篇十節〜二十五節まで読むと、出エジプトのことが書かれています。
『エジプトの初子を打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルをエジプトの真ん中から連れ出された。その恵みはとこしえまで。力強い手と差し伸ばされた腕をもって。その恵みはとこしえまで。葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで。主はイスラエルにその中を通らせられた。その恵みはとこしえまで。パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。その恵みはとこしえまで。荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで。主は彼らの地を、相続の地として与えられた。その恵みはとこしえまで。主のしもべイスラエルに相続の地として。その恵みはとこしえまで。主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。主は私たちを敵から救い出された。その恵みはとこしえまで。主はすべての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。』

 エジプトに奴隷とされたイスラエルの民が出エジプトをし、紅海を目の前にして大変なことが起きました。それは出エジプト記十四章五節~七節を見てみますと。

『民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。』

 エジプトの王がイスラエル人を解放したことを悔やみ、自ら戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけてイスラエルの民を追跡しました。そして出エジプト十四章十節~十四節、

『パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」』

 イスラエルの民はエジプトの兵隊を見て、泣き叫びました。自分たちの前は紅海。絶対に渡ることができない、後ろからはエジプトの兵隊。それも恐れていた王パロが大軍勢を率いて、イスラエルの民を追ってくる。挟み撃ちです。その時イスラエルの民は「あのエジプトに墓がないからと、ここで殺す気か!」とモーセに訴えています。私たちも、「もうこれで終わりだ!どうすることもできない!」と、お手上げ状態。恐怖の只中にある時があります。しかしそんな中で主はなんと言っているでしょうか?出エジプト十四章十三節〜十四節を読んでみます。

『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』

 モーセが紅海を指した時、紅海が真っ二つに分かれ、海の真ん中の渇いた地をイスラエルの民は進みました。そしてイスラエルの民が渡り切った時、紅海が元通りになり、エジプト兵たち全ては海にのみ込まれたのです。イスラエルは完全な勝利を持つことができました。

『主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』

 主が責任をもってあなたを助ける。主が戦って下さる。あなたがたは黙っていなければならない。とあります。「黙っていろ」ということは、何を意味するかというと「主を信頼しなさい」ということです。あなたが戦うのではなく、主が戦ってくださるから、主に任せなさい。そんな詩篇百三十六篇のはじめと終わりに、主に感謝せよとあります。感謝するとき主が戦って下さるのです。

 さあ今日、私たちは賛美と感謝ということを学びました。「心から賛美する」そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美する事と、どんなことでも感謝する。今日のタイトル「最高の賛美と感謝をささげましょう」と付けましたが、今日から思い切って賛美しすべてに感謝しましょう。そうしたら、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

このみことばが成就します。今から聖餐式を行います。聖餐は私のため、あなたのためにイエスキリストは十字架にかかって下さり、葬られ、三日目によみがえってくださったとても大切な福音です。心から賛美し、感謝していただきましょう。「主が戦ってくださる」ことを信じて、問題も、暗闇も全て、主の前に出して手放して、私たちの役割である主を賛美し、感謝をささげていきたいと願います。お祈りします。

 愛する天のお父さま、今日賛美と感謝について学ぶことができました。今まで「心から主を賛美する」と言いながら、いい加減な賛美であったことをお許しください。主を賛美するという、そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美する事ができますように、またどんなことでも感謝する事が出来すように。今からの聖餐式は今までにない主を賛美して、今までにない十字架を心から感謝していただきますから、大いなる祝福を与えてください。あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。というみことばが成就する聖餐式となりますように。心の底から感謝し聖餐をお受けいたします。主イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。