「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜教会とは何でしょう?パート3〜」

2019年5月5日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙2章5〜6節

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐ キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今、すばらしい聖歌隊の賛美を聴かせていただきました。被造物全体と共に、主をほめたたえる賛美でした。
 十連休、大変長い休みですが、どのような過ごし方をされておられるでしょうか?休み疲れた方もおられるかもしれませんが、明後日から、仕事が始まりますから、がんばっていただきたいと思います。

 巷では元号が変わったと騒いでいますが、クリスチャンは元号の意味をよく理解して、使わなければならない時は、祈りながら使ったほうが良いと思います。
 元号を使っているのは、日本だけだと言われます。元号は、天皇の生き死にで時代を区分する方法です。今回は平成天皇が死なずに新しい天皇が即位したわけですが、そもそも元号とは何でしょうか。それはこのような意味です。
 “天地万物を支配する天皇が、「時をも支配する」という意味”
 そのような概念が元号の中に含まれています。天地宇宙を支配するのは誰ですか?天皇ですか?違います。天地宇宙を造られた神である、イエスさまです。しかし天皇が時を支配するというのです。ということは、「国民の時はすべて天皇の手の中にある。」という事になります。元号の意味通りに、日本は日清、日露、日中、太平洋戦争へと進んだわけです。まさしく天皇の手の中で時が支配されたわけです。それで青春を失った方も、この中にもおられます。
 元号を使う時にはしっかり祈って、「万物を支配するのは主である!」と宣言し、「時は主のみ手の中にある!」と宣言して下さい。

 この十連休、教会は結構忙しいのですが、昨日は、素晴らしかったです。遠足に行きました。新城教会のルーツを辿る遠足でした。主が成してくださった跡を、もう一度辿って、主をほめたたえる一時でした。

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 まず最初は浦川という町に行きました。そこには田中政男先生が建てた教会があります。中も見せていただいて、一緒にお祈りすることができました。本当にすばらしい機会でした。
 二台のバスに分乗して行ったのですが、それぞれ新城教会のルーツを語ることができる語りべのような人が乗り込んで、昔話をしてくれて、私は一号車だったのですが、二号車に語りべが集中しておりました。いろんな昔話も聞けました。
 ここは父が生まれ、私も生まれた津具村の実家です。廃屋になっているのですが、そこにも行って、祈っていただきました。

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 津具で一人の男が選ばれて、新城教会ができたみたいに思うのですが、そうではなくて、明治時代、この津具でリバイバルが起きています。その火を受け継がさせていただいていることを、もう一度確認することができました。
 かつて津具村には三十年くらい教会がありました。村井与三吉という牧師が伝道していたのですが、彼の影響によって、賀川豊彦もこの世に出ました。顕彰碑が建っているのですが、そこにも行って祈り、賛美できました。

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 また企画したいと思います。行かれていない方は是非とも一度参加されると、時代を超えて、主が計画を実行されているみ業を見ることが出来ます。信仰の火が燃やされます。
 私がこの場所にいるのも偶然じゃない!と分かります。いろんな偶然が重なってクリスチャンになったように思いますが、そうではなく、永遠の計画の中で救われて、役割、任務に就かされているのです。

 先週は、四十八時間PPHも開かれました。「リバプレ48」という賛美集会でした。大勢の方が集まってくださって、渋滞の中、誰が来るのかと心配していましたが、四十八時間、祈り続け、賛美し続けました。

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 私はちょっと風邪を引いて咳が出て、あまり出られませんでした。若い方々が頑張ってくださって、四十八時間、真剣に賛美しました。何か空間が変えられた感じでした。
 教会とは不思議なところです。特殊なことをやっているように見えます。しかし、見えない世界を変える重要な働きをする場所が教会です。

 最近私は、「教会とは何でしょう?」というテーマでお話しさせていただいているのですが、教会とは、天と地に二つ、同時存在しています。本来、天の勝利の教会が地上の教会にシンクロして、同じ状態でなければいけないわけです。
 最近、ネットでクラウドサービスがありますよね。私もよく使っています。すごく便利です。それは自分のコンピューターとかiPadのファイルをクラウドに上げると、どこからでも引き出せるのです。すべて同期しているからです。自分の持ち物とクラウドという、コンピューターの仮想空間が同期しているから、どこでも使えるのです。
 教会も本来はそういうものです。天の勝利の教会が、地上に同期していれば、神の国で起こっていることは、すべてこの地上に起こるわけです。
 しかしそうならないのです。なぜなら、地上は戦闘の教会であり、戦いがあるからです。同期を阻む暗闇の勢力との戦いがあるのです。教会が目に見えない敵と戦う時に、天にある勝利の教会が、地上にシンクロします。神さまの国で起こっていることが、すべて地上に起こるのです。ということは、教会とは「天が地に侵入する門」なのです。
 教会が天が地に侵入する門として機能すると、天の領域で起こっていることが地上でも起こるようになります。

 最近私はエペソ人への手紙を中心に、学ばせていただいているのですが、エペソ人への手紙は、最終的には、エペソ六章に行き着きます。
 十節で、「終わりに言います。」とパウロは語りました。何事でも、一番大事なことは終わりに出てきます。「先生、ちょっと相談があるんです。こういうことがあってね、こういうことがあって、それで最後にね・・。」と終わりに重要な問題が出てくることが多いです。どこの国でも同じですよね。パウロもそのような手法で手紙を書いています。エペソ人への手紙六章十節〜十二節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 この箇所は、パウロが晩年、牢屋の中にいる時に気づかされた、彼の人生の中で神から受けた最も大きな啓示の一つだと思われます。
 ある有名な神学者が、エペソの六章についてこんなふうに書いていました。

 “六章でパウロが教える霊的戦いを個人主義的な視点から理解してはなりません。それは教会全体が共同体として戦う戦いであり、しかもそれは、一章で語られている、天におけるキリストの戦いの地上におけるカウンターパート(対等の立場にある相手)なのです。
 教会は天と地が出会う場です。地において教会が、歴史の中で展開する神の救いの計画の中で与えられている召しにふさわしく歩むとき、天と地がつながり、キリストのからだとして正しく機能することができます。そしてそのような教会を通して、神の知恵が敵対勢力に対して示されていきます。これこそが、教会のなすべき霊的戦いにほかなりません。”

 “パウロにとって霊的戦いとは何よりも、神とキリストがご自分に敵対する霊的勢力と戦う宇宙規模の闘争であることが分かります。復活して神の右に挙げられたキリストは、天においてすべての敵対勢力よりも優位に立っておられます。これらの敵は世の終わりには滅ぼされる定めになっていますが、現在のところは戦いが継続しています。それは、地上においてキリストのからだとして建て上げられつつある教会を通してなされるのです。”

 これ有名な神学者が書いた文章です。誰かと言うと山崎ランサム先生です。彼は第一線の神学者です。
 エペソ人への手紙は、個人宛てに書かれた書簡ではなくて、「教会に対して」のものです。そして、パウロが示された六章は、ただ単なる戦いに気づかされたのではないのです。

 先日もお話しさせていただきましたが、六章においてパウロは、霊的戦いが「宇宙規模の戦い」であることに気づかされたのです。
 それまで彼は、霊的戦いは人を通して起こると考えていたようです。誰かが悪いことをしたら、そこに悪霊が来て、人を通してさまざまな霊的戦いが展開すると考えていたらしいです。しかしエペソ人への手紙では、「それは血肉に対するものではない」と言い切っています。人なんかいなくたって、悪魔・悪霊どもの組織は宇宙規模に展開し、働いていることに気づかされたのです。

 実はパウロは闘うべき相手に関して、三段階に分けています。「主権、力」、「暗闇の世界の支配者たち」、「天にいる諸々の悪霊」という三つのグループです。他のパウロ書巻には、「暗闇の世界の支配者たち」と、「天にいる諸々の悪霊」は出て来ません。
 エペソ六章にして初めて、この二つの領域が開かれたのです。「主権、力」は、どのような存在かというと、現代の注解者たちは次のように理解しています。

 「主権、力とは、人間社会の『社会政治学的構造』と関わる諸霊」と解説しています。これは人の営みによって働く諸霊という理解です。
 しかしエペソ六章では、それ以上の、「宇宙規模の霊的戦い」があることに気づかされたのです。その点においてエペソ人への手紙は、特殊です。
 エペソ六章十二節で、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、』

ということばが出て来ますが、パウロはコロサイ人への手紙二章十五節で、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の・・』

と語っています。ここは日本語の聖書翻訳の用語が統一されていません。英語の聖書では統一されています。これは両方とも、「主権と力/principalities and powers」です。
 パウロがコロサイ人への手紙を書いた時点では、勝利できる相手は「主権と力」であると理解していたようです。これは社会政治学的な、一般社会と政治権力の中に働く悪霊どもです。それらには勝利できるとパウロは考えていましたが、それ以上の存在については、気づいていなかったのか、もしくは勝てないと考えていたのかもしれません。
 しかしエペソ六章で、「主権と力」という領域だけではなく、さらなる高次元で働く、「暗闇の世界の支配者たち」と「天にいる諸々の悪霊」の存在に気づかされたわけです。
 悪魔の策略は、三段構造のグループを使って、人々を天で訴えていることです。

 二番目の勢力として「暗闇の世界の支配者たち」が出てきますが、これは聖書中でただ一回だけ使われている用語です。「コスモクラトール」という言葉が使われていますが、占星術と関わる諸力です。
 前回もお話ししましたが、最近、星占いが流行っています。これは大きな暗闇の世界とのつながりがあります。気を付けなければいけません。案外、私たちは、地上レベルで、地上で起こる様々な現象に関しては霊的戦いを感じるけれど、星の世界と関わりがあるなんて、気にしていません。

 特に日本人が星に支配されるという概念はどこにあるのかというと、「天皇制」にあります。天皇とはどういう存在かというと、「北極星」です。中国では北極星のことを天皇と呼びました。
 北極星とは、ご存じのように地球から見ると、ほとんど動くことがありません。北極星に定点カメラを合わせて写真を撮ると、こういう形になります。

 北極星を中心に、すべてが回っているように写るわけです。古代の人たちは、このことを知っていました。時の権力者たちは北極星と自分を重ね、永遠に万物を支配し、時をも支配できると考えたのでしょう。
 天皇制の中、知らないうちに、北極星が我々の神みたいな位置づけとなります。この国の暗闇をしっかりと見抜いて、とりなして祈るものにならないといけません。我々クリスチャンは、そのことを知ってとりなし祈る必要があります。

 そして一番問題なのは、「天にいる諸々の悪霊」という領域です。初代の教父たちも、これがどういう意味かと悩んだようです。
 なぜなら、「天にいる諸々の悪霊」とは、エペソ二章六節、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 この「天」と「天にいる諸々の悪霊」の天は同じで「複数」です。神が支配している領域です。「神が支配する諸天に、悪霊どもが存在できるのか」が問題となったわけです。果たしてこれはどういう意味だろうか?と悩んだようです。
 しかしパウロは気づいていました。神が支配される諸天において、悪霊どもは神の民を合法的に訴える窓口がある事に気づいていました。

 日本は主権国家ですが、日本国内には多くの外国大使館があります。大使館は治外法権で、その国そのものです。
 しかしアメリカ大使館が日本にあったとしても、大使館があることによって日本の主権が脅かされることはありません。日本の完全支配の中、アメリカが日本に様々な要求を訴える窓口が大使館です。訴える時には必ず、国際法の手順に従う必要があります。
 見えない世界も同じです。神の国には窓口があり、法的手続きを取れば悪魔・悪霊どもは、天の法廷に訴えることができるみたいです。天には法廷があることを、パウロは知らされたわけです。
 天で合法的に訴えられた結果が、地上に現れます。ということは、まず天で訴える諸々の悪霊どもに勝利しなければ、地上ではいつも敗北です。このことに気づかされたわけです。

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 「悪魔の策略」とは何か、それは、三段構えの構造で働く暗闇の法廷システムです。「主権、力」と「暗闇の世界の支配者たち」そして、「天にいる諸々の悪霊ども」という順序で、訴えが天の法廷に上って行くわけです。
 地上からもたらされた不利な債務証書は、「天にいる諸々の悪霊」の手によって緒天の法廷に訴えられ、その結果が地上にもたらされる事実を、パウロは気づかされたのでしょう。
 天の法廷で敗北するならば、敗訴の結果が悲しい結果として、地上に反映されるのです。
 しかしもしも私たちが天の法廷で勝利したら、勝利の結果が地上に現れるのです。クリスチャンはこのような構図がある事を、あまり意識していません。しかし経験的には、どうにもならない問題を主に訴えて、祈りによって勝利したという経験があります。不正な裁判官でも何度も何度も訴えたら、「うるさいな、めんどくさいな。裁判してあげようか!」という話しも出てきます。私たちの父なる神さまは、必ず祈りを聞いて下さるとイエスさまは言われました。
 私たちは知らずして、天の法廷で戦っているのです。それを過去にも多く経験しています。しかしどのような構造をしているのかについては、深く知りません。

 霊的戦いには、「地上レベルの戦い」と、「宇宙レベルの戦い」、さらには「諸天レベルの霊的戦い」があることに、パウロは気づかされたのです。
 ゆえに霊的戦いは宇宙規模だ!と言うわけです。現代の科学においても、天は複数あることが分かっています。ゆえに、「諸天規模の霊的戦い」が繰り広げられているのです。
 以前にもお話ししましたが、悪魔とはそもそも「告発者」という意味です。「敵である悪魔が」という、「敵」とは、「アンチデコス」、「訴訟を起こす者」という意味があります。悪魔は天で訴訟を起こして、私たちを訴えるわけです。

 人生の中には時々、偶然の出来事があります。「偶然起こった!」と時々言いますよね。みなさんもどうでしょうか。「私はあの偶然で、人生が変わった!」という体験があるかも知れません。「偶然、あの場所に行ったので、あの人と出会って結婚した。」みたいな人もいるかもしれません。「あの時にふらっと出て交通事故を起こした。」とか、「あそこに行かなければ・・。あの偶然さえなければ・・。」という出来事が結構あります。

 聖書の中に「偶然」と思われる事が、背後に天での訴えがあった事を記録している箇所があります。これは以前にも話したので、覚えておられると思うのですが、ヨシャパテという王様と、アハブという王様が結託して戦争に出た時の出来事です。
 ヨシャパテはユダの王でした。アハブは北イスラエルの王でした。アハブがヨシャパテを引き込んで戦争を始めました。アハブは偶像礼拝で有名な王で、戦争を始めたくて仕方ありませんでした。戦争をやりたくてしょうがない王って、歴史の中に多く存在するわけです。アハブ王がそうでした。
 アハブ付きの予言者たちは、「戦争に行ったら勝てます!」という予言をしていました。しかしヨシャパテは神を信じる王で、「ちょっと待てよ。これは本当に神のことばなのか?」と疑いました。
 そうしたらミカヤという預言者が、「予言者たちは偽りの霊によって予言している。」と指摘したのです。アハブはミカヤに怒りましたが、すこし心配がありました。
 当時の戦争は、王は王服を着て戦場に出かけたわけです。お互い、敵の首領を倒したら戦争に勝てるのです。設楽原の戦いも同じでした。
 そこで戦場に行く時に、アハブは、三河弁で言うと「こすい」というか、王服を着ないでヨシャパテだけに王服を着せて、戦場に行ったわけです。やはり戦いになると王服を着たヨシャパテに戦いは集中しました。しかし、第二歴代誌十八章三十二節〜三十三節、

『戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。』

 イスラエルの王とはアハブです。王の服を着ていたのはヨシャパテでした。敵は「これはイスラエルの王じゃない!」と言って追うのを止めました。でも一人の兵士が何気なく、弓矢を放ったらしいです。そうしたら、なんと偶然に放った弓矢が、アハブに命中して、彼は死んだのです。「何気なく放たれた矢」がアハブに命中したのです。それも当たる場所が絶妙でした。致命傷を負う場所に当たったわけです。胸当てと草摺の間、ちょうど、武具の隙間に当たって、死んでしまったわけです。〇・一秒弓矢を放つタイミングが遅れたら、彼は死ななかったと思います。
 人生の中で、こういうことって結構あると思います。しかし背後に、なんと天の法廷が関わっていたのです。第二歴代誌十八章二十節、

『それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。』

 天の法廷の決定が、地上では偶然という形で現れて、イスラエルの王は死んでしまいました。天の法廷での判決が、偶然みたいな形で現されるのです。事故に遭ったり、問題に遭遇したりする事もあり得ます。天にいる諸々の悪霊との戦いについて、強く意識する必要があると思います。

 先週は、三島という街に行って奉仕をしました。二日間、奉仕をさせていただいたのですが、その教会に行くと、いつもある方に出会います。そして感謝します。
 それは何かというと、遡ること、二十年くらい前になるのですが、一人の婦人が新城教会に来られました。「祈ってください」というのです。何を祈ったらいいのですか?と聞くと、「仏壇の過去帳を見たら、長男ばかりが死んでいる。」と言うのです。人はみな死ぬのですが長男が不慮の死を遂げていると言うのです。それも「五月に死ぬ」と言うのです。なぜ長男が五月に死ぬのか疑問に思ったそうです。
 そしてこの二年くらいは五月に、親族内の長男が、交通事故で死んだそうです。今年も交通事故で一人亡くなって、怖くなったというのです。
 その方は浜松の方なのですが、教会に相談に来ました。五月は浜松祭りがあり、それは長男のための祭りです。なにか関わりがあるんじゃないですか?と聞いたら、今年亡くなった人は浜松祭りの帰りに事故で亡くなったというのです。それで訴えがあるような気がして、真剣に祈りました。
 今年亡くなった方は、結婚して子どもが生まれたばかりだったというのです。奧さんはフィリピンの方だったそうです。奥さんはあまりにも悲しくて、葬式の後、子どもと一緒に姿を消してしまったというのです。どこを探しても見つからなかったそうです。たぶん本国に帰ったのかなぁ、と思いました。

 それから数年後、私は三島の教会に行きました。集会後に、一人ひとりのためにお祈りしてくださいと頼まれました。「今日は長期戦になるぞ!」という感じで、帰る新幹線の時間を決めて、教会の先生に告げておきました。「この新幹線に乗らないと家に帰れないので、申し訳ありませんが、それまでには祈りを終えさせてください。」と頼むと、「自由にしてください。」と言われました。
 でも、もしも遅れた場合のために、もう一つ新幹線のスケジュールを押さえておきました。それは浜松止まりの最終列車でした。そこから東海道線に乗り換えると、豊橋に夜中の一時くらいに着くのです。新城まで早く帰りたいので、それに向けて祈りを進めて行きました。大勢の方がおられましたが、なんとか、終わりまでこぎつけました。
 やっと終わった!帰ろうとした時、後ろの扉が開いて、目の大きな婦人が子どもを連れて出て来て、「私のために祈ってください。」と言われました。私はちょっと迷ったのですが、その時に主がこう語られた気がしました。
 「電車が一本遅れたって、おまえの人生には大きな変化はない。しかしおまえがこの人のために祈ったら、人生に大きな変化が起こるかもしれないぞ。どっちを選ぶ?」という思いが来ました。
 「明日忙しいんですけど〜」と思ったけれど、夜中の一時に豊橋に着く最終列車を選びました。家内に頼めば迎えに来てくれるから、がんばってやるか!と決断して、「わかりました!お祈りします!」と言って、その女性の話を聞きました。
 そうしたら、「私はかつては結婚していました。でも、主人が交通事故で死にました。あまりにも悲しくて、私は姿を消したんです。日本中、いろんな所で生活をしました。最近、この街に来たのです。」と言いました。
 三島市に着いたとき、駅前で青年たちが賛美していたというのです。賛美を聴いたことがあったから、話しかけると、「教会は近いですから、ぜひ来てください。」と勧められて、教会に来たというのです。教会に来てしばらくしたら、私がその教会に行ったのです。

 彼女の話しを聞きながら、どこかで聞いた話に似ているなぁと思いました。「僕はね、あなたの話とそっくりな話を知っていますよ。あなたはどこから来たんですか?」と聞いたら、「私はフィリピンから来ました。」と言うのです。そして日本人と結婚していたというのです。「どの街で生活していたのですか?」と聞くと、「浜松」というのです。
 なんと、その女性が行方不明になっていた人でした。私が発見したのです。信じられないでしょう!

 今は、みんな幸せに生活しています。あの時、私が帰りの時間をずらさなかったら、この女性を発見できなかったのです。
 彼女のご主人は偶然のような交通事故で亡くなられたわけです。しかしそれはすべて偶然でしょうか。
 神さまの働きって、ちょっと大変だな、もうやめようかなと思う瀬戸際に、みこころがあるように思います。
 私たちは、ちょっとでも楽をしようとするのですが、そうではなくて、ちょっと無理して、一歩前に進んだところに勝利があるのです。
 その夜、私が家に着いたのは、夜中の二時くらいでした。でも、この証しができることは、本当に嬉しいです。

 毎年五月に事故が起こるとか、過去に長男が五月に亡くなるとか、偶然のようですが、偶然ではないわけです。天の法廷で訴えられていたということです。
 もしかしたら、浜松祭りなどの繋がりが深かったのかもしれません。しかし私たちの主は愛の神さまです。行方不明になった人も、ちゃんと見つけ出し、助けてくださるわけですから。
 祈りは時間・空間を超えます。二年に一度くらい、この教会に招かれるのですが、この方々とお会いしていつも感謝するのです。
 偶然のように見える事柄でさえ、天の法廷において支配されているとするならば、やはり天にいる諸々の悪霊どもと、しっかりと対峙して戦うことが重要です。

 天でサタンに訴えられ、地に悲惨なことが起こった最たる人物が「ヨブ」です。ヨブ記を読んで解せないところは、ヨブという人物は神の前に「完璧な人」だったわけです。天で訴えられるような理由はありえないというか、神も語っているけれど、ヨブは当時地球に生きている人類の中で、最も正しい人であり、神に受け入れられている人物だったわけです。
 にも関わらず、サタンに訴えられているのです。原因があるとすれば、なんとしても、突き止めないといけません。ヨブにも、偶然のように、様々なことが起こっています。彼に起こったくらいだから、我々に問題が起きるのは、仕方ないと思います。
 ヨブ記一章一節、

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。』

 「新城市に滝元順という名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とは、まず無理だなと思います。みなさんも無理かもしれませんよね。ヨブは史上最大の義人と言われるほどの人物でした。

 彼は祝宴が一巡すると聖別するために、全焼の生け贄をささげていました。なぜならば、自分の家族、息子たちが、心の中でもしかして、神を呪ったかもしれないと心配したからです。ある意味、余計なお世話というところもありますが、家族の安全を考えていたのでしょう。家族の安全と祝福のためには、時間もお金もいとわず、神の前に完璧にしておきたい!と願っていたのがヨブでした。

 しかし、ある日のこと、サタンが来て、彼を天の法廷に訴えたのです。何を訴状としたのか、サタンは神の手からヨブを苦しめる判決を受け取ったみたいです。
 その後、ヨブに何が起こったのかと言えば、彼は財産も子どもたちも、すべて失いました。その後、さらにサタンは天の法廷でヨブを訴えて、健康も奪われてしまいました。何もかも奪われました。彼は神の前で完璧なはずでしたが、すべてを失ったのです。健康を奪われた後、ついに彼はたまらなくなりました。
 彼がその後、どのような発言をし始めたのかというと、ヨブ記全体を読んでいただくと分かりますが、ヨブ記三章一節〜四節、

『その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。』

 自分はなぜ生まれてきたんだ!と神に文句を言い、悔やんでいるのです。そして、三章八節はその極みです。

『日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。』

 レビヤタンとはサタンのことです。彼は、サタンを呼んでいるのです。サタンを呼んで、呪ってくれ!という、信じられない発言までしているのです。

 今日は時間がないので詳しく見ることはできませんが、結論から申しますと、彼は自分と自分の家族のためには神の前に完璧でしたが、まだ、天の法廷に訴えられる隙間があつたのです。
 前回、ヘンダーソン先生が、サタンに訴えられる最大の原因は、神が一人ひとりに与えた使命、英語でいうと「destiny」にあると語っていました。与えられているdestinyからずれると、ずれた分だけ攻撃されると語っていました。
 天の法廷について最初に知らされたとき、主が最も基本的なこととして教えられた事柄だと語っていました。人として生まれたならば、全員、destiny、使命が与えられているのです。
 destinyとは日本語で、「運命、宿命、神意、定め、天命、摂理」というような意味があります。日本語になると、なんとなく異教チックな響きになるのですが、何しろここにおられる全員に、destinyがあるのです。それを絶対に放棄してはいけないということです。

 ヨブを見ますと、彼の発言は、「なんで俺は生まれたんだよ!」と、自分が生まれたことを呪っています。時々私たちも、「私はなぜこんな人生なんだ!」と、「生まれなかったほうが良かったのに!」とか、文句を言うことがあります。しかし人として生まれたならば、確実な使命、destinyがあります。だからそれを絶対に放棄してはいけないのです。
 先日、ある方の相談にのったらこう言われました。「私は誰にも望まれずに生まれた者です。」そして、様々な人生の苦しみについて話されました。本当にかわいそうだと思いました。私の出生を父親は望まなかった、母親も望まなかった、人の手に委ねられ、大変な人生だったというのです。私はそれを聞きながら、なんとアドバイスして差し上げようかと、語る言葉がありませんでした。
 しかし、そういう時は祈らないといけないです。「神さま、何とアドバイスしたらいいのでしょう?」変なことを発言したら、さらに傷つけてしまうことになるので、「イエスさま、何か良い言葉をください。」と祈ると、ふっと、私に語ってくれたと思うのですが、「わたしも望まれずに生まれてきた。」という思いが来ました。
 イエスさまは望まれずに生まれたお方です。なぜならばマリヤは処女でした。処女マリヤが妊娠したわけです。どうでしょうか、こんなことが起きたら、早めになんとかしたい!と思うはずです。現代だったら堕胎したりするかもしれないです。許嫁のヨセフも、これはまずいぞ!と、「密かにマリヤを去らせようとした」とあります。イエスさまは父親も母親も望まず、生まれたのです。
 しかし、イエスさまは人には望まれなかったけれど、使命がありました。神からの大きな使命を背負って生まれたわけです。人には望まれなかったけれど、使命を持って生まれ、使命に生きたのです。私たちのために贖いを成し遂げ、被造物全体に勝利を宣言してくださったのです。

 私たちも地上に生まれたならば、確実にdestinyがあります。使命があります。だからそれを絶対に放棄してはいけない!ということです。何も問題がない時には神さまを誉め称えるけれど、問題がある時には、なんでだろう?と文句を言ってしまいます。
 ヨブが人生の中で「最も良い時期であった」と位置づけていたのは、ヨブ記二十九章一節〜五節、

『ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。全能者がまだ私とともにおられたとき、私の子どもたちは、私の回りにいた。』

 何の問題もなく、家族みんなが揃っていた時、それが「神が共におられた時」と信じていました。でも、いろんな問題が起こったら、「神は私から去ってしまった!私はなぜ生まれたんだ!」と文句を言っています。彼は完璧のように見えたけれど、まだまだ、天の法廷に訴えられる隙間があったのです。
 それが何かといったら、彼の人生は自分中心の生活であったということが言えるかもしれません。しかしそれでもヨブは完璧でした。にもかかわらず、訴えられたのです。困ったことだなぁ、という感じですが、最終的に神は「ヨブがサタンに訴えられた原因」について語っています。
 今回私はヨブ記を学んで、「これは意識しないといけないな」と思ったのですが、ある神学者が、神のヨブに対する問いかけの要点をまとめていました。

 “三十八〜三十九章に見られる第一回目の主の「あらしの中から」の問いかけのキーワードは「知」。「・・を知っているか」という表現が繰り返されているのが特徴。
 自然の営み、動物たち、天体が登場するが、その主眼点はそれらの不思議な営み、生態、運行などを知っているかというもの。神の創造の世界には人の知らないことが多くあることを主はヨブに問いかけた。”

 最終的に神が口を開いて語られた事は、「ヨブは被造物に対して関心がなく配慮がなかった」という事です。これは本当に大きなポイントだと思います。天にいる諸々の悪霊が人を訴える「最大のポイント」かもしれないです。
 なぜならば、「人は被造物の管理人」であるからです。しかし管理することを忘れて、自分中心に生きる時、天で訴えられる可能性があるということです。
 そしてまた、

 “四十章、四十一章に見られる第二回目の「あらしの中から」の問いかけのキーワードは「さばき」。原語では「ミシュパート」。それは「統治力」「支配力」「制御力」を意味する。”

 神はヨブに、カバとかレビヤタンを支配できるか?できないだろう!と語られ、「あなたは勇士のように腰に帯をして立ちあがれ!」と語られました。
 ここで神は「人が戦いの勇士」である事に言及されているのです。ヨブがサタンから訴えられていた原因は、「人とは被造物の管理人」であることに気づかなかった事と、もう一つは、「人は戦いの勇士」であり、「制御できない生物を制御するために、腰に帯を締めて立ちあがらないといけない」のに、それを怠っていた事でした。

 そのことを知って、ヨブは「本当に私は何も知りませんでした。」と悔い改めた時に、四十二章十節、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。』

 彼は個人的な領域においては、完璧でしたが、人の使命という究極的な目的については気づいていなかったのです。しかし最後に神から指摘されて、使命に気づき、悔い改めた時、失ったものを二倍にして回復されたのです。
 ヨブのように、自分の周りだけが安定していればいいという、考えでは不十分です。これも人にとっては大事ですが、これだけだと訴えられるということです。被造物の管理人であることに気づき、勇士のように立ちあがらなければならない。これらが一つになる時、天で訴えられることはなく、天の法廷で勝利が与えられるということではないでしょうか。

 神が語りかけられた二回目のテーマは「さばき」というテーマですが、「さばき」とは、「訴訟を起こす」とか、「判決を執行する」とか、「訴える」という意味です。
 悪魔は私たちを天で訴える存在です。そして訴える材料となっている基本は、個人的な罪と汚れです。それは確実にクリアしなければいけません。しかしそれ以上に、それと同じように、人類の目的、人類の立場について、しっかりと知らなければならないのです。人はすべての被造物の管理人で、すべての暗闇を打ち破り、全宇宙に存在するすべての被造物に対して、「主を賛美せよ!」と宣言する存在であるということです。

 今年の私のメッセージのテーマは、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」です。人とは、被造物全体に対して、「主をほめたたえよ!」と宣言する役割であり、それが究極の管理の姿です。敵の力を打ち破り、被造物を解放して、すべてに主を誉め称えさせる働きは、私たちが考える以上に「重要な働き」であるのです。

 被造物はすべて、人間の罪の巻き添えとなって、共にうめいているのです。ある人がこのように書いていました。

 “いわば被造物全体が人間の罪過の巻き添えを食って、今に至るまで、共にうめき、ともに産みの苦しみを味わっている。”

 人類が被造物を背中に乗せて、正しい神のみこころの方向に行くのであれば、すべて正しい方向に進みます。しかし人類が神の前に罪を犯したことによって、親亀がこけた時、子亀もこけてしまったわけですね。

 しかし私たちが起き上がる時に、被造物も一緒に救われるのです。そしてローマ人への手紙8章にあるように、被造物全体が今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみをしている。私たちもうめき苦しむような時があるのですが、被造物も一緒にうめき、シンクロしているのです。
 そのことに気づいて私たちが被造物全体の救いのために働くのです。被造物の救いとは、彼らに主を賛美しろ!と宣言することです。その時に悪魔は天の法廷で訴えるきっかけを失うのです。

 天はいくつあるのかはっきり分かりません。第三の天までは聖書は具体的に書かれていますが、イエスさまは「諸々の天」を通られたとありますから、ユダヤ教では七つあるとか十あるとか、もっとあるとか、学派によっていろんな考え方があるようです。多くの天がある事は確かです。

 第三の天とは、たぶん死後の世界だと思われます。パウロが行った所です。それ以上の天もあるでしょう。いくつあったとしても、三以上の天は、みな神の支配下にあるわけです。
 しかし第二の天は悪魔が支配していて、第一の天は人の世界を表していると思います。ここには神の完全支配はなく、悪魔の支配があるわけです。もちろん全体的には神が所有しておられます。しかし三から上は、すべて主を賛美していると思います。それ以下の天は、悪魔の支配下にあって、賛美するのをやめています。
 しかし救われた者たちが、イエスさまと共によみがえらされて、共に天の所に座らされ、天が幾つあったとしても、いくら悪魔が窓口に訴えたとしても、「それは無効だ!」と宣言できるのです。そのような権限があるのです。

 そして一番大事なことは、第二の天と第一天の悪魔の支配を打ち破り、すべての領域が神の手に陥り、主をほめたたえること、そのために働くのが人類の最も重要な「destiny」役割です。その点について理解し、日々の生活を送るならば、すべての訴えがはね除けられて、失ったものを二倍にして取り戻すことができるはずです。
 今回の主題の聖書のみことばとして、エペソ人への手紙二章五節〜六節、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐ キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 イエスさまはよみがえって、すべての天を支配されているお方ですが、私たちも、天に座が与えられているのです。
 悪魔がどんなに「おまえは罪があるだろう!」と訴えても、「私たちは恵みによって救われたんだから、おまえたちは私たちを訴えることができない!」と言うことができます。
 しかし私たちが人間としての究極的な使命を忘れると、ヨブのように訴えられる可能性もあるのです。すべての被造物の管理人として、彼らに主の名をほめたたえさせる、そのような働きをしなければいけません。

 「教会とは何でしょうか?」それは天の訴えを取り下げる場所であり、すべての被造物を賛美させ、敵と戦う場所です。
 今から聖餐のひとときを持ちます。天の緒法廷に訴えをキャンセルできるのです。そのような権限があることをもう一度確認しましょう。そして、神が造られた被造物全体に配慮し、それらに対して主を賛美しろ!と宣言する大きな役割があることを確認し、聖餐式に預かりたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神さま、み名をあがめて心から感謝いたします。私たちは恵みによって救われ、共に天の所に座らせていただいていることを心から感謝します。今日は悪魔が私たちに訴える、すべての訴えを取りのけ、完全な勝利を宣言する日です。
 家族、親族のすべての罪を赦してください。個人の罪も赦してください。同時に、被造物の管理人という領域で訴えられているならば、それらの訴状をすべて却下します。教会は、すべての被造物の解放に関わり、勝利に導くためにあることを宣言します。
 勇士として、腰に帯を締めて立ちあがります。ここに備えられたパンとぶどうのジュース、聖霊と、みことばによって、イエスさまと一つになる重要な機会です。天が地上に降りて来る場として、聖餐を用いてください。イエスさまのみ名を通してお祈りします。アーメン。