「求める者には報いてくださる神」

2019年5月12日(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
ヘブル人への手紙11章6節

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

 ハレルヤ!感謝します。今日の礼拝はちょっとインターナショナルっぽかったですね。ブライティーンズはほとんどインターナショナルのメンバーです。一人は日本人ですが、ちょっと彼も普通の日本人ではない感じがしますから。
 ブライティーンズの賛美もスペイン語でしたし、今日のメッセージもスペイン語です。
もし先ほどの雅也先生のザワメキが日本語とスペイン語であれば完璧だったと思います。
でもしょうがないですね。では、メッセージにいきましょう。

 今日のメッセージのタイトルは、「求める者には報いてくださる神」というタイトルです。
 おそらく、あなたはこう疑問に思ったことがあるでしょう。神を探し求める必要があるのか?と。神は隠れておられるのでしょうか?神を見つけるのは難しいのでしょうか?答えはもちろんノーで、そうではありません。しかしそれはある特質を表します。それは心の状態、神を探し求める心です。そして神が、その神を探し求める心に出会うと、その人たちに報いを与えます。ですから、あなたや私が神さまから報いを得たいのならば、神を探し求めることとは、どのようなことかを知ることが良いのです。

 歴史から見ていきたいと思います。分裂した南の王国であったユダの、王の一人であったアサについての話です。彼は心から神を探し求めた人であったと言われています。とても良い行いをしました。彼の人生は成功の人生でもありました。また栄光の瞬間でもありました。素晴らしい勝利もありました。素晴らしい建物を建築したともあります。また神は、彼に対抗して上ってくる敵から自由にしてくださいました。アサ王は輝いた人生を送りました。
 しかし同時に悲しい最期を迎えます。彼が年をとった時に、白髪になったばかりか、その信仰まで老化してしまったのです。そして聖書には、神に対する彼の態度も変わってしまったと書かれています。彼は神さまを探し求めることをやめてしまいました。そして神を心から探し求めないことが、悲しい結果を招くことになったのです。

 神を探し求めるということはどんなことか、いくつか見ていきたいと思います。

 まず、神を探し求めるとは、決心すること、神のみ言葉により、み心を知り、前に進むことです。ほかの言葉で言い換えるなら、神を探し求める人は人生にはっきりとした決断をし、信仰を後ろ向きにはしません。むしろ神が言われることを知るようになり、神のみ心の道に歩むようになります。
 ですからもしあなたが豊かに祝福されたいと思うなら、すべての力をもって心から神を探し求める、そのような決心をしてください。神を探し求めるということは、毅然(きぜん)と取り組まなければなりません。あなたの人生の過程でしっかりと心を決めなければなりません。それは今年だけの話ではなく、ずっと一生の間です。
 聖書には、アサが強く神を求めたと書かれています。その熱心さは国民にも求めるほどでした。彼は王であったので、そういうことができました。民を町の真ん中に集めたと書かれています。そして彼らと一つの契約を結びました。そしてすべての民が神から離れずにいることと、心から神を探し求めるという契約でした。

 そして、第二歴代誌十五章では、神が彼らにご自身を現わしたと書いてあります。なぜならそれは民が心を決めて、心から神を慕い求めたからです。そこには私たちに対するカギがあります。神を探し求めるとは、心の全てをささげるということです。霊的なものを追い求める時に、世の中の物を見ながらはできません。自分に仕えながら、同時に神に仕えることはできません。自分の肉を喜ばせながら、神さまの霊を喜ばせるということはできません。ですからあなたは決断をして、「神を探し求めます!」と決断しなければなりません。もし神の恵みと祝福を自分の人生の中に見たいと思うのならそうしなければなりません。アサはその例です。

 神を探し求める決断をしたアサのところに、神から遣わされた預言者が来ました。そしてアサを誉め、こう言いました。「あなたがしたことは素晴らしいことです。神を探し求めたからです。神はあなたの治世の間、ずっと平和を与えます。」と言われました。そして聖書には、彼の王国には十年間戦争がなかったと書いてあります。彼の治世の前の時代はとても不安定でした。民は町から町へ移動することができませんでした。危険があったからです。しかし彼の時代には平和がありました。町の中に平安がありました。そして家庭の中に平安がありました。それは王が、民に「あなたも私も心から真の神を探し求めよう」と言ったからです。

 そしてこれは私たちに対しても真理なのです。あなたが平安で過ごしたいのなら、心から神を探し求めましょう!神を求める人は、恐れる必要がありません。神を求める人は、将来への不安を持つ必要がないのです。どこに行くかわかっており、はっきりと何を手にしているかわかっています。神が目的地であり、天国が目的地であり、また地上に神の国を植えることが最終目的なのです。皆がこうするべきです。
 それで預言者はアサ王を誉めました。そしてアサがその預言者の言葉を聞いた時に、何をしたかご存じですか?彼は奮い立って、彼がもうすでに始めていた宗教改革を続けました。偶像のために建てられた祭壇を壊し、心に決めたことを実行しました。それは彼が神を追い求める一人の人として神のみことばを受け取ったからです。

 第二番目に、神を追い求める心とは、神の訓戒を受ける用意ができている心です。あなたが神を求めると、神の声に従順になります。あなたが毎日神に、「主よ、私に何を望みますか?」と聞くようになります。また何か決断をしなければならないときに、最初に主に相談します。
 例えば、あなたが商売の仕方が分かっていても、「主よ、私はこれの仕方をよくわかっておりますが、しかし初めに私はあなたに相談したいのです。」と言います。「私の人生にとって第一番の存在になってください。」「夫婦にとって第一番の存在となってください。」「勉強やキャリアの一番の存在になってください。」と言います。これが毎日神を探し求めるということです。
 そして神を探し求める時、飢え渇いて聖書を開きます。そして自分が分かったことにメモを取りたくなります。そして神の指示や助言を聞きたいと思います。「ああ、このみ言葉はよく知ってる。6歳の時にもう暗記したものだよ。」というふうにはなりません。もしあなたが神を探し求めるなら、同じみ言葉を六回、あるいは千回聞いても嬉しく思います。それを何回聞いても嬉しくなります。なぜならば、「私はみ言葉を勉強する必要がある!」と言うからです。そして「神さまのみこころの中で気持ちを一新する必要がある!」と言うからです。その心の状態が、神を探し求めるということなのです。

 神がアサに送った強い言葉に注目してください。母親を王母の位から退けたと書いてあります。彼女は恥知らずなことをしたからです。悪いことを行ったからです。想像してみてください。アサは若い王でした。その彼が、自分の母を王母の位から退けたのです。王国の中心にいた彼女を隅に追いやったのです。
 その後、中心の広場でみだらな柱(憎むべき像)を切り倒しました。その柱というのは、女神アシェラ像だったと書かれています。第二歴代誌十五章十六節、

『アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた。』

 このアシェラ像のために行われた礼拝ほどひどいことは、イスラエルの歴史の中でほかにありません。ユダヤ教の信仰をなくした人たちは、アシェラが神の妻だと言っていました。そして性的な思いを誘発させるような描写の像を柱として建立しました。それで、アサ王が神を探し求めることを決心したときに、直ちに責任を感じました。それは個人的なレベルだけでなくて、または自分の家族に秩序をもたらすだけではなくて、王国の自分の民にもそうしたのです。そして民に、「皆さん、一緒に主に仕えましょう!」と言ったのです。

 三番目は、自分だけではなく、自分の家も行うという責任を引き受けることです。私の家、私の家族、私の子どもたちが健康的な場所に住むことができるように、その家庭が敵が簡単に入ってこられない場所になり、そして家族に影響を与える世の中の流れが簡単に入ってこないような場所になるようにすることです。そして自分の家族を、神に仕える家族にすることができるように働くのです。神を心から求める家族となるように責任を持つのです。
 失礼ですけど、ある親御さんの中には、子どもの霊的な教育の責任は教会にあるとお考えの方がいらっしゃいます。しかしそれは違うのです。あなたが責任者なのです。それは父親として、母親としてのあなたの責任です。あなたの人生が手本となるのです。あなたの言葉、また振る舞いが手本となるのです。子どもたちと一緒に座って聖書を開き、それを読み、一緒に祈ることです。なぜしないのでしょうか?なぜなら、自分でもしないからです。
 覚えてください、神は、神を求める者には報いてくださる方です。もし私が神を求めたいのであれば、いろいろ手を尽くします。自分の子どもたちが神を求めることが好きになるようにします。そしてまた主が良い方であることを証明します。そして主に夢中になるよう励まします。また更に、私が神を追い求めるならば、自分の子どもたちが簡単に罪に行くようにはしません。
 私が救われた教会にいた、ある姉妹のことを思い出します。彼女はいつも自分の息子にこう言っていました。少し反抗して、ある日、どこに行っていたか誰も知らない所から彼が帰ってきた時に、その息子に、「見なさい。お母さんはあなたのためにずっと祈ってきたんだよ。あなたが生まれた時、あなたを主にささげたの。そして今日、主にこう祈ったの。もし息子があなたの道に歩まないのなら、この地上から連れて行ってくださいと。」と言いました。その子はびっくりして凍り付いていました。そして彼女は息子にこう言ったのです。「わかった?お母さんが何を祈ったか。神さまは私の祈りを聞いてくれるの。だからちゃんとしなさい!」と言いました。兄弟姉妹、何が言えるでしょうか?私と私の家とは主に仕える!です。

 例えば、多くの人たちがホラー映画が好きです。そして子どもたちと一緒に見ます。兄弟姉妹、それは悪魔的です。良くありません。敵に扉を開けているのです。今の世代がホラーや暴力的な映画に熱狂するのは健全なことではありません。今の時代、私たちは少しずつそういう事について敏感さを失っていると気づかされました。

 もしあなたの子どもたちが小さければ、子どもが何を見るか何を見ないのかを選別する責任は、あなたにあります。彼らの目を守るのはあなたです。例えば、どんなゲームで遊んでいるかとか、モンスターなのか、暴力的なものかなどです。またその子どもたちが誰と一緒にいるのか、どんな友達がいるのか注意する責任があります。例えば一体誰とチャットのやり取りをしているかもです。それは小さい子どもたちのための責任です。

 もし自分の子どもが成長したら、むちを少し与える必要があります。虐待になってはいけませんが。子どもたちは何時に家に帰って来るべきかを知る必要があります。そして子どもたちがあなたの家の屋根の下で生活する以上は、あなたのやり方で事を行うのであって、彼らの好きにさせてはいけません。家族に訴えかける必要があります。無理強いではなく、操るのでもなく、導くのです。そして子どもたちが神の良さを体験することができるようにするのです。子どもたちが神に夢中になるようにするのです!
 父親母親であるあなたがたが、子どもたちが簡単に罪に落ちないようにしなければなりません。そして、神の道を歩み続けることができるようにしなければなりません。アーメンですか?

 四番目。神を探し求めること、それは必要な時に助けを呼び求めることです。問題があるとき、まず神を求めましょう。心から神を求めましょう。
 エチオピア人がアサ王を攻撃しようとした時、アサが最初にしたことは、主の名を呼び求めることでした。そして神は彼に答えました。そして何千人ものエチオピアの軍勢はお互いに殺し合い、結果、アサ王は何もしなくてよかったのです。なぜでしょうか?神は彼にこう言われました。「よくやった。最初にわたしを探したことが良かったのだ。」と。
 まず神を求めること、神をあなたの相談相手リストの一番上にしてください。神の助言を求めましょう。神のみこころを求め、神の意見を聞きましょう。そうしたら神は必ずあなたを祝福してくださいます。あなたの家庭を祝福してくださいます。あなたの人生を祝福してくださいます。

 五番目、神を探し求めること、それは一生かけて行うことです。アサに何が起きたでしょうか?アサは年老いた時、信仰まで老化してしまいました。その当時彼は有名であり、神は彼を大いに祝福していました。そんな彼に一つの恐ろしい知らせが届きます。それはイスラエルの王(北王国)が彼を攻撃するために上ってくるというものでした。彼は非常に恐れました。
 アサは信仰においてはとても成熟した人で、自分の人生の中で神の働きが力強いのを体験した人でしたが、その時彼は恐れました。そして何をしたでしょう?ダマスコの王と同盟を結ぶということをしました。それはイスラエルの王から守ってもらうためでした。そしてこれが神をすごく怒らせたのです。神は別の預言者を送り、「あなたは愚かなことをした」と言わせました。

 よく聞いてください。一生、生涯をかけて神を探し求めるということは、なぜ重要なのでしょうか?この預言者はアサに言いました。「今、あなたは敵に打ち勝つ機会を失いました」と。あなたの人生でずっと神さまを求めることはできるし、良いクリスチャンでいることもできるでしょう。しかし、あなたの信仰が老化した時に、信仰的に運動しなくなる時、その日からあなたの人生の中で神の栄光を見る機会を失うのです。ここにいるだれもが、それを失いたくないと思います。

 神はアサに言われました。「過去にわたしがあなたの敵にしたことを見たのなら、なぜ今疑うのか?」と。「主を求めた時に、神が働くのを見たのではないのか?なぜそうせずに、わたしを知らない他国の王により頼むのか?」と。

 私たちに対するメッセージははっきりしています。心から神を探し求めることから一度も離れてはいけません。もしかするとあなたは教会で生まれ育ったかもしれません。とても良いことです!
 しかし、教会で生まれ育ったからといって、あなたがクリスチャンであるとは言えないのです。ちょっと難しいので例を言いますと、例えばマクドナルドで偶然生まれたからといって、あなたがハンバーガーになるわけではありません。
 ですから教会で生まれたからと言って、自動的にクリスチャンになるということはないのです。あなたの人生の間、神を心から探し求めなくてはならないのです。なぜならクリスチャンとは、いろいろな人生の時期において継続して決断をする人だからです。そして心から神に栄光をお返しするのです。そして神を信じるようになるのです。

 アサの話はとても悲しいものです。なぜなら最後、アサは病気にかかり死ぬからです。この病気が痛風であったと考える人もいるようです。尿酸値が深刻な問題を引き起こします。そしてその病気は彼の足から全身に巡っていきました。アサがこの恐ろしい病気にかかった時、彼は神を求めることはしなかったと聖書に書かれています。しかし彼は医者を求め、もっぱら自分の医者たちだけに頼りました。
 ここでちょっと説明したいと思います。医者の診察を受けたり、検査をすることを、聖書は一度も悪いと言ってはいません。個人的に私は二十一世紀に生きられることを喜んでいます。この時代には、素晴らしい医師たちがいて、良い病院や進んだ技術があります。それらの故に神に感謝します。またそれによって私たちは長生きすることができます。ですから聖書は、病気の時に治療を行ってくださる医者を求めることは罪だとは言いません。
 アサの場合、彼の問題は何だったのでしょうか?アサが頼りにしていた医者たちというのは、おそらくエジプト人だったと推測されます。その時代に医療が一番発展していた国だからです。しかしその時代、実は彼らは魔術師でした。魔術使いであって、煎じた薬を用いる癒しを信じていた人たちでした。そして悪霊を呼び出す儀式をしていました。
 あなたが神を求める時に、神があなたに一番良いものを与えてくださいます。あなたが神を第一とするなら、神はあなたを祝福します。悲しいことにこのアサは死にました。病気によって死んだのです。彼の多くの計画が完了するのを見ることができませんでした。なぜなら、彼の人生の最後に神を求めることをやめたからです。第二歴代誌十六章九節前半、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』

 神は神を求める人たちを探し、彼らを助けるのです。神はだれが明白に神を求めているかというのを見られます。そして特にその人が試練にあっているときにそこから助け出すために、神さまは探してくださいます。それこそ祝福です。

 一つのみことばを読んで終わりにしたいと思います。詩篇三十四篇四節〜五節、

『私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」』

 今日お聞きしたいと思います。心から神を求めたいと思う方はどれくらいいますか?たぶんあなたは決めかねているかもしれません。よく分かります。たぶんあなたは、祈りはしたけど答えをもらえなかった経験があるかもしれません。またあなたが計画したようにはいかなかった経験があるのかもしれません。たぶんあなたは信仰を落としてしまったのかもしれません。
 しかし神は今日、あなたにこう言われます。第二歴代誌十六章で読んだとおりに、『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』
 神さまは自分を探す、その心がご自分と全く一つになっている人々に、み力をあらわしてくださるのです。ですから何が起ころうと私は気にしません。何が来ようと私は気にしません。私は生きている神をあがめます。そして私は神とそのみことばに誠実を尽くします。そして私の人生の限り、神について行きます。
 このみことばは、今朝あなたに与えられたものです。それではお祈りしましょう。

 主よ、今日、あなたの前に私たちは約束します。心からあなたを求めます。父親、母親として、自分だけでなく、私のすべての家族とともに毎日あなたを求めます。そしてあなたを私たちの人生の中の第一とします。もう一度お願いします。私の人生をあなたにささげます。私の一歩一歩を、あなたが導いてください。この地上に生きているその最後の日まで導いてください。大人も、そして子どもも、若者も、心からあなたを求めます。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。