「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

2019年5月19日(日)
香港チャーチ・オン・ザ・ロック主任牧師 野木朗師
イザヤ書43章4節

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!主のみ名を心から感謝したいと思います。私を知らない人?いますね。すぐに覚えられます。私は野木朗と言います。あきら先生。思い出しません?思い出さない人は潜りです。私はこの新城教会に来ると、今回もそうですが、滝元明先生のにおいを感じます。なんか雰囲気を感じます。今日は麻婆豆腐のにおいがしますが。
 私は野木朗、香港のチャーチオンザロックという、「岩の上の教会」と言います。香港は岩の上に建っている国です。ですからどこを掘っても岩です。
 日本みたいになんたらプレートとか、火山プレートとか、そういうのはありません。ですから地震のない国です。ですからわざと、わざとですよ、斜めのビルがあるのです。私が間違っているのかな?と思ってよく見てみると、斜めに建っているのです。
 また、ビルが門の形で、その下に道路が走っている。まぁそれはいろんなビルがあります。
 そして一番香港に行って感じることは、ビルが高いということです。タケノコみたいに、横からちょっと突いたらバタバタッと倒れるのではないかというくらい、香港という地は国土が狭いから上に伸びているのです。ですから世界一人口密度が高いのです。
 気温は最近、だいたい三十八度くらい。夜は三十二度くらい。それ以下にはなりません。そして湿度は八十パーセント。すごいですよ。スコールが一日一回はあります。その後、外へ出たら、むわ〜っとサウナに入ったようです。私はサウナ好きですが、そんなものではありません。汗がいっぺんに噴き出ます。
 ですから、ビルというビル、家という家はクーラーがかかっています。冬でもエアコンがかかっています。なぜかというと湿度が高いからです。冬は寒いです。そして、レストランに行くと、夏でも、最初は涼しいな〜と思うのですが、しばらくすると震えてきます。温かいお茶を飲んでも震えてきます。そういう国です。

 この後昼ご飯を食べる時にアピールタイムがありますので、そこでアピールしたいと思いますが、礼拝ですので、今日のテーマである、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」という、本当に多くの方々がこのメッセージをされています。でも私たちは何度聞いても、この愛に触れられなければならないのです。みなさん愛は知っていると思います。神さまの愛、分かりますか?アーメンって言わないね?うちの教会だったら、「アーメン!」と言いますよ。ちょっと強要しますが、言ってくださいね。イエスさまの愛を知っていますか?「アーメン!」
 そうです。アーメン!と言いましたね。ということは、あなたはイエスさまの愛を知っているということです。その愛は本当に私たちにとって変わらないものです。変わらない愛があるということ、これだけでも信じることは難しい。世の中の人は本当に変わらない愛を求めているのです。
 土曜日、結婚される方がいると聞きました。幸いです。感謝します。ずっとその熱があるといいですね。笑った方、冷めてませんか?私もちょっと冷めているんですがね。私は妻に「結婚して」と言ったほうですから、うちの妻は「じゃぁ結婚してあげるわよ。」なんてね、だから私のほうはいつも愛は燃えているのですが、うちの妻は「ふ〜ん、あ、そう。」と冷めているのです。
 でもみなさん、イエスさまの愛は変わらないのです。どこまで変わらないのですか?永遠までです。永遠までその愛は変わらないと言っています。
 私たちの愛は変わります。しかしイエスさまの愛は永遠なのです。私たちは永遠に生きることはありません。長く生きて百二十歳。その間、その愛は変わらないのです。
 時代は変わってきました。世の中も変わってきました。でもイエスさまの愛は変わっていないのです。どんなに時代が変わっても、この愛は変わっていないのです。その愛が私を救ってくださったのです。

 コックにはスランプが来ます。だいたいスランプは新しい子が入って来て三日目です。私が副料理長をやっていた時に、店は研修場を兼ねていて、新しい子が二十名くらい来ます。三日経って、半数いなくなります。夜逃げするのです。辛くて。
 何が辛いか。立っているだけなのです。壁のほうで。ただ立っているだけなのです。何もしてはいけないのです。一日中、ずっと立っているのです。それはなぜかというと、コックさんって、ずっと立っていなくてはいけないからです。ご飯も食べる時も立っています。一箇所だけ座らないといけない所があります。トイレです。辛くなるとだいたいみんなトイレに行きます。そうすると先輩たちが、「いつまで座ってるんだ!」と怒られるのです。

 私自身、見習いの時もそうでしたが、小さい時、私が育ったのは愛知県です。中村区中村町。中村というと秀吉が生まれた所です。本当に貧しい家が多い所でした。私の家もそうです。本当に貧しいのです。
 ですから親父もお袋も毎日遅くまで働いていました。私たちには姉が一人いるのですが、姉はすでに他の所へ洋服屋の修業で出ていました。男三人年子。めっぽう喧嘩が強いんですよ。三つ撚りの糸は切れないと言いますが、三人いたらもうかないません。一人でも喧嘩強いのですが、三人いたら無敵です。それで喧嘩をして、負かすと喝上げするのです。今だったらおまわりさんの所に連れられて行くのですが、当時はそんなことはありませんでした。
 そして、畑に行ってはきゅうりとかスイカを盗んで食べるのです。だからお百姓さんと同じくらい私たちは詳しいのです。「もうあそこのキュウリが…、あそこのとうもろこしが…、あそこのスイカがそろそろ…。」そうすると行っていただくのです。美味しいですよ。特別な味がします。とうもろこしももぎたての物を生で食べるというのは梨を食べているように美味しいのです。
 ですから私は愛というものを知りませんでした。人から愛される、また愛することを知りませんでした。ですからみんなから嫌われ、そしてさげすまれ、そりゃぁそうです、みなさん。そういうふうにやってきたからです。

 その後私はコックになって、また男社会の世界で、厳しい世界です。なぜコックになったかというと、美味しい物を腹いっぱい食べたかったからです。それだけなんです。ですからよく怒られました。
 当時、今はそんなことをしたら暴力で訴えられますが、当時はそんな殴られても文句は言えない。丸坊主で、お玉で叩かれるのです。パッカーン!っと。脳みそがないものですから、よく響くのです。だからもう痛い痛い。そうやって育ったのです。ですから、コックになっても本当の愛というものを知りませんでした。

 そして年頃になると、やっぱり目の色が変わってくるのです。やっぱり好きな人とか、女性がアルバイトでたくさん来ますので、そうするとそういう方々を自分では言えないものですから、洗い場のおばちゃんが紹介してくれるのです。「朗さん、あの子が今度デートしたいって言ってます。」『じゃぁ、休みます。じゃぁ一緒にデートしましょう。』
 そして会ってお話をする時、何の話をするかというと、人生とはなんぞや。みなさん、まだ十六、十七くらいの子に、人生とはなんぞやってお話をする、何者なのか?だからこの洗い場のおばちゃんが私に対して、「朗さん、だめよ。もっとおもしろい話をしなきゃ!でないとモテないから!」でも、どういうふうにおもしろい話をしていいか知らないのです。そしてなにか愛を語るということも知らないのです。
 ですから私は本当にこの神さまの愛に触れるまで、私は本当の愛を知らなかった。ですから私は本当にある時、悩みました。なんで私はこうなんだろう?そうやって悩むと、仕事も手に付かなくなるのです。

 ある時、五年くらい付き合った女性がいたのですが、その方も結局私から去って行きました。年上の方でした。「結婚してください。」と向こうから申し込まれました。でも私はまだ食べさせていけなかった。「だからもう少し待ってくれ。」でも彼女は待つことはできませんでした。だから私は本当に落ち込みました。なんでなんだろう?愛ってなんなんだろう?そうやって考えているうちに、どんどんどんどん自分が惨めになり、そしてその愛というものが分からないゆえに、「私は生きていても仕方がない。」
 私は独身の時に本当に「いつ結婚できるのだろう。」という恐れがありました。でも実際そうなのです。でも私は生きていくことができないから、静岡県の御殿場、富士山の真下にある所ですが、富士山の所には樹海という自殺の名所があります。そこに行きました。そして中を覗いたら真っ暗なのです。私は怖くなってその中に入ることはできませんでした。
 そして帰って来て、生きることも死ぬこともできないのです。生ける屍です。どうしたらいいんだろう。その時、帰り道に私は初めて教会に入りました。それも神さまが本当に導いてくださいました。その教会に入るのには勇気が要りましたが、「でもこれ以上悪くことはないだろう!」そう言って、教会に入りました。

 その教会に入った瞬間、ライトが付いていました。講壇の後ろにはみことばがかかっていました。「神は愛なり。」私はそれを見た瞬間、はっきりと分かりました。私が来る所はここだったんだ!それは誰にも教えられませんでした。私が求めていたのはこの神の愛なんだ!まだ何も知りません。聖書も読んだこともないし、名ばかりのクリスチャンである料理の恩師がいるのですが、イエスさまを信じても一回も教会に行ったことがない、そういう人です。でも「何かあったら教会に行きなさい。」
 私はそこに行った時に、その愛に触れました。私にとって教会が、「あ!私が来る所はここだったんだ。」そして宣教師と牧師とお話をすることができました。そして「また来ます。」
 そして私は次の休みの日に教会に行きました。その時にアルゼンチン宣教をしている在原伝道者がいました。そこで私は彼らと交わりをしました。
 そして帰る時、在原兄弟が、この私に「お祈りしませんか?」そう言ってくれました。でも私は祈ったこともないし、まだイエスさまがどういう方なのかも分からないし、どうやって祈っていいか分からないので、「分かりません。」そうしたら兄弟が言いました。「兄弟、『イエスさま』と言ってみてください。」私は促されるとおりに、「イエスさま」と言いました。
 その瞬間です。みなさん、私の中に、腹の底というのはここまでですが、もっと深い所から神の愛がうわ〜っと湧いてきたのです。初めて会う方です。私は抑えていました。でも抑えきれませんでした。その愛が溢れ出てきました。涙と鼻でその感動を与えられました。
 みなさん、この愛は今も私の中に泉としてあるのです。いつでも溢れます。私たちにとって、私にとって、この愛が私を救ってくれたのです。
 そして誰かに、「あなたは悔い改めなさい。」と言われたのでもありません。もちろんある牧師先生や伝道者から「悔い改めましょう。」と言われる時もあるでしょう。でも私は自分が罪人であるということが、本当に心から分かったのです。誰にもそうやって言われていないのです。でも自分が罪人である。そしてそれが赦されている。それは聖霊が、今思えば教えてくださったのです。
 ですから私は本当に心から「イエスさま、こんな罪人を、」聖書の中の取税人ではないですが、「赦してくださってありがとうございます。」と、次から次へと私はイエスさまに対して悔い改めを言ったのではないのです。本当に心から赦されたその感謝を受け取りました。
 ですから私はこの愛にかけよう!人ではなくて、イエス・キリストの愛だったら絶対に裏切ることはない!また裏切られることはない!
 みなさんイエスさまが「愛する」と言ったら、どこまでも愛してくださるのです。あなたが裏切ろうが、あなたが「もう知らない!」と手を離そうが、しかしみなさん、イエスさまはあなたを見捨てないのです。イエスさまは、なおも真実を尽くしてあなたを愛してくださるのです。私はその真実の愛を受け取りました。あなたはどれだけイエスさまの愛を知っているでしょうか。私は本当にいのちを救われたのです。
 ですからその深い愛、永遠の愛を持って、私はイエスさまを心から愛していこう!仕えていこう!ですから私の大好きな料理も主にささげました。
 私から料理を取ったら、昔の歌じゃないけど、「赤とんぼ♪羽を取ったら唐辛子♪」という、若い人は知らないよね。私から料理を取ったら何もありません。漢字も読めない。簡単な計算もできない。学もない。知っていることも本当にわずかです。そりゃぁ喧嘩する方法とか、盗む方法はいっぱい知っています。でも後の事は何も分かりません。
 主は私にその料理をささげなさいと言われました。私はささげて、神学校に行きました。そこでも、今日はお話しすることができませんが、本当にたくさんの神さまの愛を教えられました。
 私はその愛にかけたのです。そして私のすべてをささげました。主は今も私を裏切ることなく、見捨てることなく、「あなたは高価で尊い!」とおっしゃっていてくださるのです。なんとすばらしい!と思いませんか?アーメンですか?「アーメン!」

 私たちは本当にキリストの愛をどれだけ知っているか。またその愛を知っているとするなら、あなたは本当に主に自らをささげることができるのです。高価で尊いというのは、この世で、あなたは二人といないのです。
 一つの花ですかね。世界中にあなたは二人としていないのです。それは本当に神さまの大きな賜物です。これが賜物でなければなんでしょうか。世界に一つしかないのです。一人しかいないのです。それも神さまがあなたを造ってくださり、そしてあなたにその賜物を与えていてくださる。世界に一人しかいない。私たちはむやみに造られたのではありません。イエスさまにあって造られたのです。
 それは計画なのです。永遠の計画の一部をあなたは担っているのです。私から料理を取ったら何もありません。神学校に行って試験をやっても、〇点ばかりでした。でもみなさん、主は私を捨てないと、「あなたを孤児としない。あなたを用いる。」とおっしゃってくださったのです。

 みなさん、みなさんがこの世に来たのは神の計画であって、神さまの働きをするためにその愛が与えられたのです。救いが与えられたのです。永遠のいのちが与えられたのです。それは私たちにとって本当に大きな恵みです。
 「いや〜先生、私は何もできないんです。私は年寄りです。」あるおばあちゃんが言いました。そのおばあちゃんは車椅子で嫁さんと一緒に来るのです。教会に入ると、彼女が来た!というのがすぐ分かります。なぜか?大きな声で、「ハレルヤ!」と来るからです。もう自分でも歩けない、そのおばあちゃんが来ると、教会がぱぁ〜っと明るくなるのです。そういう人いません?
 「私は何もできません。」ではないのです。そして帰る時、そのおばあちゃん、チラシを持って帰るのです。そして車椅子で少し寄って行くのです。「あそこのポストに入れてらっしゃい。」十枚くらい、嫁さんが行ってポストに入れてきます。本当にみなさん、その存在、このたくさんの兄弟姉妹がここにいます。でもあなたがいなければ、このみ体ではないのです。あなたがいるという存在が、それが主の働きであり、主の祝福なのです。
 誰一人、このみ体からなくなってはならないのです。なくなってしまうなら、その働きを誰も変わることができないからです。あなたが顔を出す時に、多くの方々が励まされます。

 天国に行った方は感謝です。私も早く行きたいのですが、個人的にもまだやることがあるから。イエスさまが言っているわけではなくて、個人的に七十になったら牧師をやめてコックになるぞ!と思ってはいるのですが、実現するかどうかは分かりません。でもみなさん、あなたが賜物なのです。
 「私なんか。」「私は何もできません。だからいてもいなくても同じです!」そうやって自分を裁いている方、いませんか。自分で自分を裁く権利なんて、誰も持っていないのです。
 もし裁くことのできる方がいるとするなら、イエス・キリストだけです。私は何度もそれが分からずに自分を卑下し、そして多くの方々を恨みました。私は中学校卒で、私がいた団体の伝道者の方々、中見先生、在原先生、横山先生、みんな大卒です。中退の方もいましたけど、でもみんな学がある。中卒は私だけです。だから比べるのです。みなさん、比べたらキリがありません。私は比べて、自分が惨めな人間だと自分自身を裁き、「私はもう伝道者をやめます!」そういう時もありました。
 でも主は「わたしはあなたを愛している。」あのペテロに言われた「あなたはわたしを愛しますか?」『はい!愛します!それはあなたがご存じです。』そしてまた、「愛しますか?」と、三度聞かれるのです。そして「わたしの羊を飼いなさい。」このみことばが出て来ると、私はもうどんなに辛くてもどんな問題であっても、みことばに涙し、そして神さまの愛によってひれ伏すしかないのです。
 あなたは自分自身を裁いてはいけないのです。そんな権限はあなたにはありません。人を許したり、私たちは人に愛を伝えることはできても、人を裁く、また自分自身を裁く権利なんて持っていないのです。にも関わらず、あなたが「私は駄目だ!」と裁くなら、あなたは神以上になっているのです。それこそが傲慢なのです。
 そうやって、「私なんか駄目です。」と言いながら、そこでぐずぐずしているのです。そこは居心地がいいのです。私にも経験がありますからわかります。そしてなかなかそこから出ないのです。
でも、「いや〜朗君、あんたはそんな人じゃないわよ!」ここに私の過去を知っている人が三名くらいいますが、この三名の方は私に、「朗君、がんばってね!良いメッセージだったわよ!」と言ってよく励ましてくれました。
 本当に私たちは自分で自分を裁く権利なんてないのです。だからもし私たちがそのように思う時、主の前に出て行ってください。そして私たちは主に聞くのです。祈るのです。私はそのことを本当に祈りました。「こんな者を、主よ、なんであなたはこんな者を選んだのですか。こんな取るに足りない者、それでも主よ、あなたは『わたしはあなたを愛している。』と言ってくださいました。」
 そして罪に対しても、「わたしはあなたを赦している。」とおっしゃってくださったのです。私自身、本当に主の前に行く時に、主はそうやって目くじらを立てて、「悔い改めなさい!」と言うのでしょうか?その悔い改めは必要ですが、でも主は私に言ってくださったことは、「あの十字架を見なさい。あそこにはもうすでにあなたのために、わたしのこの釘が打たれた痕があるでしょう。」そしてそれは復活の傷となって私を赦してくださっているのです。主は、「赦したよ。」私は本当に心から主をまた愛し、そして従ったのです。

 みなさん、この愛は決して裏切ることはないのです。そして真実な愛なのです。ですから、あなたの足りないところ、奧さんや夫やお友達よりも、この方は知っています。あなたの足りないところ、良いところ、すべてを知っています。
 そして今、あなたが今いる所に置いていてくださるのです。新しい領域に入っている人もいるかもしれません。また入ろうとしている方もいるかもしれません。またそういう最中の方、偶然はありません。主の計画です。そしてあなたが足りないことも、すべて知っています。ですからそこに置いていてくださっているのです。
 できないこともあります。私もそうです。パソコンもできません。携帯も持っていますけど、携帯だけです。あんなにいろんな分からないたくさんの機能があっても、私はメールを取ることと電話をかけるだけで、あとは何も使っていません。もったいない。
 私たちは本当に主にあって神さまは私たちに本当に、あなたを用いるために、あなたを愛し、そして足りない所を、多くの方々を通して、そしてまたあなたにアイディアを与え、あなたを支える人を与えてくださるのです。「先生、もういいから、私が変わってあげるから。」みんなやってくれます。
 ある時、計算をしなければならない、会計の人と二人でやりました。何回やっても私は合いません。計算機を使っているのにです。やればやるほど、数字が違ってくるのです。「先生、もういいです。私がやりますから。」と諦めました。ちゃんと私の代わりがいるのです。

 香港に行く時にも、「香港に行きなさい!」と主に言われました。「そんなことはできません。」なぜか?広東語を知らない。英語もしゃべれない。日本語だってままならない。そういう者が香港に行くのです。どうやって生活するのですか?どうやって話をするのですか?
 そして何も持っていません。でも教会から、「是非来てください。」私は行きました。そうしたらなんと、私のためにコニーさんという通訳がいました。本当に日本語がよく分かる方です。もう私がしゃべっている間に同時通訳で訳してくださる。メッセージに対しては何も不便はありません。
 ただ買い物に行く時は大変です。ボディーアクションしなければいけないですからね。でも私は何でも買って来ます。身振り手振り日本語で、「焼売の皮をください!焼売の皮、どこに売ってるんですか?」『こっちに行くんだ!』と言われて行って、そして豆腐屋さんみたいな所では「ワンタンの皮ください。」『これか?』「はい。」広東語で、「何グラムほしいんだ?」なんて言われて、何言ってるんだろう?この人。「このくらい。」万事そうです。
 ですから今、不便さは何もありません。神さまが助けてくださるのです。

 私は香港に来て間もない時に出歩きました。そして駅をぐるっと一周して帰って来ます。そうしたら帰って来られるのです。一画曲がり、そして今度はちょっと広い一画をまた回って一画の所に来るのです。ところが分からなくなりました。それで歩いても歩いてもその地下鉄がないのです。それで困りました。聞く事もできませんので、私は本当にその時に、「どうしたらいいんですか!主よ!」
 そうしたら向こうから私の教会員のお母さんがやってきました。「野木先生!なんでここにいるの?」『自分も分かりません。』ねぇ、みなさん、そしておばあちゃん天使が来ましたから案内します。」なんて言われて、駅まで行きました。
 本当にたくさんの助けを得て、私はこの香港で九年目になります。足りないのをご存じなのです。だから私たちは「できない」とか、「従えません」とか、「やれません」ではないのです。主はちゃんとすべてを整えてくださる方です。そしてあなたにしかできないことを導いてくださるのです。あの人ではなくて、あなた自身しかできないことを主は用意していてくださるのです。そのために主はあなたをこの世に送り出してくださいました。若い子であろうが、赤ちゃんであろうが、お年寄りであろうが、誰であっても、目的を持ってこの世に送られたのです。それは主に献身するからです。その愛に献身するのです。私たちは働き人として献身します。
 でもみなさん、みなさんの奉仕もそうなんです。「時間があったらやる」とか、「私にはそれはできません。」そうではないのです。私たちは本当に神さまの愛を知っているとするなら、その愛は私たちにとって本当に大きな愛であり、私たちを絶えず導く愛なのです。
 ですから私たちはその愛に応える。ですからあなたがどれだけの愛を知っているかなのです。どうぞ愛を求めてください。愛はこの私たちに力を与えます。アイディアを与えます。様々な働きができるようになるのです。それは主の働きだからです。
 主が私たちを導いてくださる。聖霊はそのためにあなたの中にいるのです。あなたをキリストの身丈にまで成長させるために。聖霊は助け主です。この方に従って、その愛に満たされていくなら、私たちはどんな働きであろうが、人からどんなつまらないものであっても、それは天にあっては尊い、またみ体にとっては尊い働きなのです。そうやってこのみ体が立ち上げられていくのです。
 格好の良い所はそんなに必要ありません。でもイエスさまが言っておられることは、格好の悪い所、足りない所、そこを省みていてくださるのです。私たちは本当に何かできるものではありません。もしできるとあなたが思っているとするならば、それはあなたは傲慢です。でも私たちは何もできない。でもイエスさまがいるなら、聖書が言っているように何でもできるのです。主は私たちと共にいてくださるのです。あなたをどれだけ助けてくださるか。私はその生涯で、今もこれからも、その体験をすることでしょう。
 主はあなたを愛しておられます。それはあの十字架の愛なのです。痛みを伴った愛。その痛みを知っているから、あなたの痛みも知っているのです。どれだけあなたが痛みを覚えているのでしょうか。誰も私のことなんて…、と思うかもしれません。
 みなさん、人の同情を買うのではなくて、私たちは主から慰められ、励まされていくなら、あなたは立ちあがることができます。そしてその傷は癒やされます。ある方は本当に深い傷を負います。ここでは言えませんが、ある女性は本当に深い傷を負いました。しかしみなさん、神さまはその深い傷に末端まで愛を注いで満たしてくださったのです。深い傷が深い愛を知ったのです。あなたはそれを知ることができるのです。
 ですから自分自身で、「いや、私はこんな者だから…。誰も私なんて…。」と思わないでください。あなたの傷を癒やすことができるのは、人ではありません。イエス・キリストだけなのです。
 まず主の所に行ってください。私は何度も主の所に行きました。そして励まされ、今もこうやって立っています。それは本当に取るに足りない者ですが、今日麻婆豆腐を食べてみてください。私の全てです。辛いですよ。激辛というのもあるのですが、それが一番美味しいのです。私の代表作です。でも心配しないでください。全く辛くない豆腐料理もあります。そちらも食べてみてください。私の人生そのものです。「たかが麻婆豆腐、されど麻婆豆腐」なのです。
 私たちはある人にとったら取るに足りないかもしれません。でも私たちにとったら、それは大きな力であり祝福です。そしてそれだけではなくて、口がひん曲がるほど辛いでしょう。その後、杏仁豆腐が待っています。杏仁豆腐を食べると、口の中が春の風が来たみたいに涼しくなります。そうするとまた辛い麻婆豆腐が食べたくなるのです。エンドレスです。
 食べる時に思ってください。「あぁ、野木先生って麻婆豆腐を作ってくれた。メッセージは忘れたけど。あの辛い麻婆豆腐は忘れないわよ!」昔ここで杏仁豆腐を作って、そして食べてもらいました。「先生、今でもあの味は忘れません!」今日、ぜひ杏仁豆腐を食べていただいて、私を思い出していただき、香港に来てください。お待ちしています。午後、そのお話もしたいと思います。お祈りします。


 愛する天のお父さま、人とはいったい何者なのでしょうかとみことばにあるように、こんなにも愛し、こんなにも私たちを祝福してくださっている。「あなたは高価で尊い」とおっしゃってくださっている。値しないような者であるにも関わらず、あなたのその愛は私を立ち上げ、そして神の働きのためにあなたは用いてくださることを感謝します。ここに集われた愛する兄弟姉妹が、あなたのその愛に応えることができるように、もっと深い愛、広い愛、高い愛を教えてくださいますように。日々の生活の中で、「わたしが神である」と教えてくださいますように。その愛によって、私たちはあなたに仕えて参ります。
 そしてあなたのその計画が実現するために、この小さき者を用いてくださって、そしてあなたの大いなるその計画を実現していくことができるように導いてください。弱き者です。でも主よ、私は弱いとは言いません。あなたにあって強い!と告白します。あなたに従います。
 そしてあなたが行け!と言うなら、やれ!と言うなら、それを行います。どうぞ今日、今兄弟姉妹が立っています。あなたの前に自らをささげます。アーメンですか?そうです。今みなさん、アーメンと言いました。主がそのアーメンを、今聞いてくださったことを感謝いたします。応えてください。そのすべてにおいて。私たちの経済的なものにおいても、また一日の、またこれからの守りも、あなたが導いてください。あなたに従います。どこまでも従ってまいります。イエス・キリストのお名前を通して祝福して祈ります。アーメン。