「神の備えられた祝福 パート2 あなたの賜物を生かせ」

2019年6月2日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
ペテロの手紙 第一 4章10節〜11節

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から讃美いたします。いつも皆さんにお祈りいただき、こうして健康が支えられ、今日もこの場所に立たせていただけることを心から感謝します。だいぶ暑くなってきましたが、これからさらに暑くなりますので、お互いに健康に気をつけて喜んで主に仕えてまいりたいと思います。

 我が家のために、いつもお祈り感謝いたします。先週報告させていただきましたが、五月二十日に息子の出(いづる)夫婦に第二子(女の子)が誕生しました。名前は「今(いま)」です。今日は出が仕事で来られないので、私が変わって名前の由来を紹介したいと思いますが、聖書に
『今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。』(ヨシュア記二十四章十四節)というみことばがあります。
出(いづる)は、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民を連れ出したモーセに由来し、明先生が付けてくださった名前です。そして初めに生まれた息子の入(いり)は、このモーセから政権を引き継いだヨシュアが民を導いて約束の地カナンに入ったことから、ヨシュアに由来して「入」と付けられました。そして、今(いま)は、カナンの地で誠実と真実をもって、いつも主を恐れ、今、この時を大切に生きてほしい、との意味で名付けたそうです。皆、名前に「い」が付いて同じイニシャルになってしまうので、大丈夫なのかな? と思ったりしますが…(笑)。
皆さんのお祈りによって無事に生まれたことを感謝します。健やかな成長を続けてお祈りいただければと思います。

 また、皆さんに祈っていただいて、プレイズ出版の働きも今日まで守られてきました。プレイズとシャロームの建設工事の件ですが、ここから五百メートルくらい離れた所に土地を購入し、五月の連休明けから工事が始まりました。

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 これはイメージ写真です。二階建てで、一階がシャローム、二階にプレイズが入ることになっています。九月中旬の完成予定で建設中ですので、事故やトラブルがなく建て上げられ、主に用いられる働きがそこで行われていくようにお祈りいただければ感謝です。

 さて、私がこの二〇一九年のみことばとして与えられているのは、第一コリント二章九節です。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 皆さんは、これからの人生において、どんなことが起きるのか期待を持っておられると思います。一方で、私は孫が生まれたことによってこの子の二十歳になる頃の日本はどんなふうになっているかなと心配したりします。
最近では思いもかけない、防ぎようのないような事件が起きたり、注意のしようがないというような事故が起きたりしています。そのような突発的に起こる事件や事故に遭わないよう、お互い守りを祈っていきたいと思います。そして、悪いことではなく、見たことも聞いたことも心に思い浮かんだこともないような、素晴らしい神さまのみわざを体験させていただけるようにと願います。

 先日、マタイの福音書十四章を読んでいる時に一つのことを教えられました。ここには、弟子たちが湖で舟に乗っていた時の出来事が書かれています。弟子たちは、イエスさまが水の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思いおびえて叫び声を上げたとあります。その時、イエスさまは『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われました。その言葉を聞いた時、弟子の一人ペテロは、『あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』と願い出ました。イエスさまはそれを聞いて、『来なさい』と呼んでくださったので、ペテロは信仰を持って、舟から出て水の上を歩いてイエスさまのほうへ行きました。しかし、風を見てこわくなり、不安を持った時に沈みかけ、そしてイエスさまに助けられたのです。
 よくペテロの不信仰がクローズアップされますが、水の上を歩くなど常識的には考えたりしないと思います。私なら初めからそんなことは願いませんが、ペテロは「水の上を歩いて少しでもイエスさまに近づきたい」と願い出て、信仰を持って一歩踏み出してイエスさまに近づこうとしました。イエスさまはその信仰を喜ばれたと思います。
 私たちの人生において、百パーセント安全だと思える万全の準備をすることは必要ですが、時には、この先どうなるかわからないようなことであっても、イエスさまの声に耳を傾け、人が何を言おうとも、「主が語ってくださった」という信仰を持って一歩踏み出すことも必要だと思います。その信仰を主は喜んでくださるということを、この箇所から学びました。

 今日は、第一コリント二章九節のみことばを踏まえて、先ほど読んでいただいたペテロの手紙第一 四章十~十一節を通して、『あなたの賜物を生かせ』とうテーマでお話ししていきたいと思います。

 私たちクリスチャンには、賜物が与えられていることが聖書のいろいろな所に書かれていますが、皆さんはそのみことばを、どのように受け取っているでしょうか。パウロは次のように語っています。

『私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。』(第一コリント七章七節)

パウロという人には素晴らしい才能があり、たくさんの賜物を持った人でした。皆さんも知っているとおり、新約聖書の多くの書巻を書いた人物であるわけですが、彼の賜物の一つに、独身の賜物があったようです。しかし、パウロは、「みんなが私のようになることを願うけれども、一人ひとりに与えられている賜物は違うから、それぞれの生き方をしなさい」とも教えています。
 聖書には幾つかの賜物が書いてありますが、それはほんの一例で、私たち一人ひとりが自覚していてもいなくても、様々な賜物があることを聖書は教えています。

 素晴らしい才能を持っている人を見て、「すごいなぁ」と思い、自分を見て、「何の才能もないな」と落ち込んだりする人がいるかもしれません。私もその一人です。私はテレビで、ビジネスで成功した人が取り上げられているのを見ると、「いや〜、すごい頭の良い人がいるものだな。どうやったらあんなことを思いつくのかなぁ」と思ったりするわけですが、しかし素晴らしい才能の持ち主が素晴らしい賜物を持った人だとは限りません。

 「賜物」と「才能」とはどこが違うと思いますか? 例えば極端な話、泥棒が巧みな技術をもって何かを盗んだとします。それをある人は「才能」と呼ぶかもしれませんが、だれもその技術を「すごい賜物を持っていますね」とは言わないでしょう。「賜物」というのは神さまから賜ったもの、特別な良いものと考えると思いますが、「才能」と何が違うのでしょう。簡単に言うと、神さまから頂き、神さまのために使う、これが「賜物」です。「才能」は自分のために、広く言えば、人間社会、この社会の中で使われるものが才能だと思います。
また、「才能」は、その人が持っている特技を、努力や長い期間をかけて磨き上げ開花させていくものもあると思いますが、「賜物」というのは、神さまからある日、突然与えられるものもあると思います。もちろん、もともと「これは私に与えられている賜物だ」と認識されている才能も含まれると思います。他のクリスチャンから言われて、「そうかも?」と気づくことも多いと思います。

 私は皆さんに断言できるほどの賜物は持っていませんが、何人かの人に「先生は、ビジネスの賜物を神さまから頂いているんですね」と言われたことがあります。自分ではそう思っていないので、「そうですかね?」と答えますが…。
来月、六月二十一~二十二日に、ビジネスセミナーが行われます。リバイバルミッションでビジネスに関するセミナーを行うのは初めてで、講師として私に依頼が来ました。私は、受講料をもらってセミナーをするような者ではないなぁと思いましたが、やらせていただくことになりました。でも、この礼拝メッセージのプレッシャーと比べたらちょっと気が楽かな?と思う気持ちもあります。ビジネスに興味のある方は、是非ご参加ください。
この企画が決まった時に、「告知したのはいいけれど、だれも集まらなかったらどうしようか」と思いました。そして、今日の礼拝メッセージまでに希望者がだれもいなかったら、「私が補助しますからサクラで出てください」と言おうかとも思ったのですが(笑)、今日までに八名ほどの方が登録してくださったと聞いて一安心しています。
 
ローマ人への手紙十一章二十九節には、
『神の賜物と召命とは変わることがありません。』とあります。

神さまは私に献身の心を与えてくださり、牧師として召してくださいました。牧師としての賜物が与えられていると同時に、ビジネスを通して神さまに使えていくために、神さまの「しるし」として、ビジネスの賜物が与えられていると信じています。
 
 さて、先ほど読んでいただいたペテロの手紙第一 四章十節には、賜物を用いることについて書いてあります。

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』

 私たちクリスチャンに求められていることは、賜物を用いて恵みの良い管理者として働き、お互いに使え合うことです。
 すべての人に賜物が与えられているのですが、平等に与えられている賜物と、特別に与えられている賜物があるのではないかと思います。
 賜物についての幾つかのたとえ話が聖書には出てきます。まず、ルカ十九章十一節〜十三節を見てみましょう。

『人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。」』

 ここでは、十人のしもべに同じように一ミナずつが与えられました。これは、イエスさまご自身が、十字架につけられることを知りながら都に上られた時の出来事でした。ですから、イエスさまの気持ちは重苦しいものがあったかもしれません。しかし周りの人の感情は違いました。多くの群衆はイエスさまが都に上られることで、今こそイエスさまが王になり国を再興してくださるのではないかと期待していたと思います。また、弟子たちにとっては、漁師だった彼らが三年あまりイエスさまの弟子として、側近としてイエスさまに仕えている間、無学のただびとだと言われ続けていたので、イエスさまが王となったら自分たちはどんな地位につけるのだろうか、どんなに称賛されるだろうかと期待していたと思います。
 そんな彼らの心を見抜いて、イエスさまはこのたとえ話をされたのです。
身分の高い人が出かける時、十人のしもべを呼んで一ミナずつを預けて商売をしなさいと言いました。しもべに預けられたのは、一人一ミナでした。一ミナは百日の給金ですので、一日一万円としたら百万円となります。預けられたしもべは、どうしたでしょうか。
 結果がこのあと書かれています。

『さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。」主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」』(ルカ十九章十五〜十七節)

十ミナ儲けたしもべは、おほめの言葉をもらい、さらに十の町まで得ました。別の人は、一ミナで五ミナを儲けて主人の前に差し出し、その人も主人に喜んでもらいました。しかしある者は一ミナを預かったにもかかわらず、ふろしきに包んでしまっておいたと告げた時、主人に叱られ、一ミナを取り上げられてしまったのです。
 このたとえ話で神さまは、主のしもべである私たちクリスチャン一人ひとりに、平等に一ミナ(賜物)を預けているので、それを使いなさいとおっしゃっています。私たちが預かっているものとは何でしょう。いろいろあると思いますが、時間や財産がそれに当たると思います。時に私たちは、自分で働いて自分で成長してきたかのように錯覚して、自分で稼いだものを自分のためにどう使おうが構わないと考えますが、そうではありません。神さまによって生かされ、動けるからこそ稼ぐこともできているということを忘れてはなりません。

財産に関するたとえがあります。ある金持ちの畑が豊作で、大きな蔵を建て、そこに穀物や財産をしまっておこうとした時のことです。

『そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」 しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」』(ルカ十二章十九〜二十節)

 彼は、神から死を宣告され、自分で得た富を使うことなくその生涯を終えることになってしまいました。そして二十一節を見ますと、
『自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』と結ばれているように、私たちは、神さまから与えられているものを大事にし、自分のためにだけ使うのではなく、神さまに精いっぱい献げ、神さまのために使うことを願っておられるのです。

 また、与えられている時間の使い方も大事です。
若い人たちは、「あと何年生きられるだろうか」などとあまり考えないと思います。でも私のように六十歳を過ぎると、すぐに死ぬとは思わなくても、「あと何年働けるかな?」、「あと何年丈夫でいられるかな」というようなことを考えるようになってきます。しかし、最初にお話ししたように、現代は何が起きるかわかりませんから、若いからといって長生きできるとはかぎりません。何事もなく生きられたとしても、人生長くても百二十年くらいでしょうか。
あと何年生きられるかはわかりませんが、与えられている時間は限られていますから、その時間をいかに有効に使うかが大切です。
神さまから与えられた時間を、どのように使うかはその人次第です。自分のためだけに使うのも自由です。しかしイエスさまが私たちのために犠牲を払ってくださったように、私たちが家族や親族、友人、知人、だれかのために時間を使うことは、神さまのために時間を使うことになります。限られているこの地上での時間を無駄に過ごさないようにしていきたいと願います。そして、人生を終える時、神さまから「よくやった。良いしもべだ」とほめられるように準備しておかなくては、と思います。

 そしてもう一つ、これがいちばん重要なのですが、あなたに預けられた魂があることを知ってください。パウロは、コリント人への手紙第一 九章十九〜二十二節でこのように語っています。

『私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』

パウロは伝道のために、どんな時にもどんな状況下にある人にも寄り添い、奮闘した素晴らしい伝道者であったわけですが、私たち一人ひとりにも家族、親族、職場の人、友人など、預けられている魂、あなたにしか伝道できない魂があることを忘れてはなりません。
 この地上でどれだけ多くの財産を蓄え、人々から称賛され、贅沢三昧楽しい時間を過ごしても、私たちを生かしてくださっている神の前に富まない者は、先ほどのたとえ話にある一ミナをふろしきに包んでおいた者と同じとみなされるのです。私たちも神さまから預かった一ミナを使って、天に五ミナ、十ミナを蓄える者となりましょう。

 また、特別な賜物のことについては、第一コリント十二章三十一節にこのように書いてあります。

『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』

より優れた賜物とは何でしょう。
来年は、東京オリンピックが開催されますが、今からチケットを買うのにネットがパンクするくらい、手に入れるのが大変な状況のようです。
 様々な競技に出る人たちを見て、なんであんなに速く走れるのかな、なんであんなに高く跳べるのかなぁ、同じ人間なのにすごいなぁと驚きます。陸上競技を見ると、百メートル走で九秒台を出せる人はほんの一握りです。百メートルを九秒台で走れる人も同じ人間だからといって、努力したら私でも九秒台で走れるようになれると言える方はいますか? ほとんどの人が「無理です」と言うでしょう。もちろん努力なしには得られませんが、体のバネであったり、身体能力であったりと、それは、その人に与えられた天性のものであり、優れた才能あってのことだと思います。
しかし、たとえ九秒台で走れるような人であったとしても、走る当日、足はなんともないが、ちょっと手が痛いとなったらどうでしょう。〇・一秒を争う世界においては、少しのことで勝者にはなれないのです。
第一コリント人十二章十一~十二節には、こんなみことばがあります。

『しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』

飛び抜けて足が速い人がいたとしても、他のところが万全でなかったらその力を発揮できないと同じように、キリストの体の一部分である私たち一人ひとりが、ある人は手を担い、ある人は足を担い、それぞれの人がそれぞれの部分を担っていますから、それぞれがしっかりと機能してこそ、神さまの働きが完全なものとなるのです。

 マタイ二十五章には、お金にかかわるもう一つのタラントのたとえ話があります。『天のみ国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。』(十四節)とあります。そして、その人は、おのおのの能力に応じて、ある人に五タラント、ある人に二タラント、ある人に一タラント渡して旅に出かけたのです。一タラントは六千日分の給与ですから、一日一万円としたら六千万円ということになります。ということは、五タラントは三億円ですよね。ここで五タラント預かった者は、もう五タラント儲けて主人の前に差し出しました。私は、「三億円預かって、どんな商売をしたら三億円儲かるのだろう」と考えます。皆さんだったらどうしますか? 

 話が少しそれますが、五月には教会で「新城教会のルーツをたどる」という企画で遠足があり、行った方たちは恵まれたのですが、行く前、私には不安なことがありました。というのは、雅也先生から、「今回は二台のマイクロバスで行きますが、新城教会の昔をよく知る二人の人に、昔話を語っていただきます。一台は順先生、もう一台は岡本先生にお願いします」と言われたからです。「困ったなぁ~」というのが本音でした。私は、頭がよくないこともありますが、昔のことをあまり覚えていないのです。そこで、兄に話を聞こうと思い電話をしました。すると、「俺が行って話してやるわ!」と言ったのです。兄も私と一緒で頭はよくないですが、なぜか昔のことを本当によく覚えています。これは助かると思いましたが、兄には、話し始めると止まらない、余分な話をする、というところがあって心配でしたが、背に腹は代えられないと思って一緒に行くことになりました。兄は、バスの中で、私が今まで聞いたことがないようなこともたくさんしゃべっていました。あれがどこまで真実かは私も知りませんが…(笑)。でも、とても楽しい時でした。

 最初に行ったのは、北遠教会でした。そこは、田中先生が主から、「浦川に伝道に行け!」と言われ出て行ったところでした。昔、何度も行ったことがあり、久しぶりに行って、昔のことを思い出して恵まれました。
 そして山の上から東栄教会を見ながら祈り、順先生が生まれた津具の家にも行きました。津具は明先生の実家ですが、そこには神さまの大きなご計画があり、神さまが明先生に伝道の賜物を与えられたということをあらためて感じ、感動しました。

 津具に入る手前に清崎という村があります。兄によると、明先生は毎週、清崎に「ノーパン自転車」で伝道に行っていたそうです。「ノーパン自転車」と聞いてわかる人はあまりいないと思います。私も乗ったことはありませんが、空気の全く入ってないゴムだけのタイヤの自転車ことです。今のようにアスファルトではありませんから、砂利道を自転車で衝撃をもろに受けて、どれだけの時間がかかったかわかりませんが、津具から毎週清崎まで伝道に行ったのです。行きは下り坂ですからまだ楽だとは思いますが、帰る時には何時間もかかったと思います。私は「なぜこの地に何時間もかけて先生は伝道に来たのかな?」と思いました。もちろん、魂の救いのためではあるのですが、後に、先生がなぜ清崎に導かれたのかというのがわかります。というのも、清崎には、この新城教会クリスチャン第一号の見城しずえさんがいました。明先生と出合い見城しずえ姉が救われたことにより、その友であった私の母が救われ、初代のクリスチャンと共に、この新城教会の礎を築いたのです。
その清崎の地にも行き、新城教会の元となる救いの話も聞くことができ、大変恵まれました。そのような話からも、まさしく明先生には確かに伝道者の五タラントの賜物が与えられていた、ということを知りました。
 また、後に私の家族がクリスチャンホームとなり、滝元家、見城家とともに働き多くの若者が献身するなか、「伝道するにもお金が必要だから、自分は伝道する人を支えよう。神さまに献げよう」と決めて商売人になった兄には、確かにビジネスの賜物が与えられたと私は思っています。それは、初めから持っていたものではなかったと思いますが、神さまのために、という思いで忠実に働き仕えて行った時、「これは賜物だ」とわかったいい例だと思います。
 一人ひとりに平等に与えられた賜物の上に、さらにそれぞれ違った賜物が与えられています。しかし、それを神さまのために使わなかったら意味がありませんし、神さまに用いられることはないということです。

 もう一つ、その遠足で兄が話したなかで印象に残ったことがあります。兄は、バスの中で皆さんに「来年で七十年になるこの新城教会の歴史の中で、いちばん奇跡は、何かわかりますか」と言って(私は、兄が変なこと言わないといいけど、と心配しました)、「それは、順先生が変わったことです。今は、霊的戦いの指導者であり、素晴らしい牧会者だけど、昔はこんなだった・・・」と話し出しました。ここには順先生の昔を知っている人はほとんどいないと思いますが、兄からすると、「これほど変わった人はいない」らしいです(笑)。
ということは、若い時には現されていなかった、隠されていた賜物によって、順先生が今用いられているということです。順先生に牧会の賜物が与えられ、牧師として用いられ、一九九二年の聖霊の注ぎを受けた時に霊的戦いの賜物が加えられ、今に至っていると思います。まさしく順先生にも五タラントの賜物が与えられていると感じています。
 新城教会に仕える牧師やスタッフも、初めから自分の賜物を用いて働こう、と思っていた人はいなかったのではないでしょうか。ただ、「何でもいいから神さまのために仕えたい!」と願い献身したことによって、賜物が増し加えられ、主のために用いられているのだと思います。
 また、プレイズ出版には、神さまのために何かをしたいと入社してくださった四十名ほどのスタッフがいますが、それぞれの役割が違います。一人ひとりに主がふさわしい賜物を与えてくださり、それを用いて働きをしてくださっています。
 
皆さんも、会社や学校、家庭、それぞれの場所において、まずあなたができることを神さまのためにしてみてください。そうしていくなかで、自分では気づかなかった賜物を知り、さらに特別な賜物を受け取ることができるでしょう。
 「自分には何の賜物もない。自分には何の取り柄もない」と思って何もしない、そんな状況でずっと過ぎていってしまったら、いつか神の前に出た時に、一タラントを持っていたのにもかかわらず、土の中に隠しておいて叱られたしもべと同じように扱われてしまいます。
特に、ここにいる若者に私は言いたいのですが、力いっぱい主に仕えていっていただきたいと思います。たとえ行き詰っても、神さまのためにしたことには必ず報いてくださいますし、失敗をしても、神さまはその失敗さえも益としてくださる方ですから。
 
 初めのみことば、第一ペテロ四章十節〜十一節に戻ります。

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。』

ここにあるように、恵みの良き管理者としてそれぞれに与えられた賜物を用いて、ある人は伝道師・宣教師、ある人は賛美を通して、ある人はビジネスを通して、それぞれが与えられた賜物を生かして、主のために全力で仕えていただきたいのです。賜物も使わなければすたれると聖書には書かれていますから、私たちクリスチャンには、賜物を用いるという使命があることを覚えて、大いに使っていきましょう。
 私たちは足らない者です。時には迷うことも不安になることもあると思いますが、ペテロが信仰をもって「神に近づきたい!」という思いだけで舟から一歩を踏み出したように、私たちも神さまが助けてくださる、神さまは私に賜物を与えてくださっているという信仰を持って一歩踏み出しましょう。また、一ミナをふろしきに包むような者ではなく、一タラントを土の中に隠すような者ではなく、与えられた賜物を使って、喜んで主にささげてまいりましょう。そして、主の前にたくさんの宝を積む者になっていきたいと願います。
 お祈りします。