「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜満たせみ座を、賛美で満たせ!!〜」

2019年6月9日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録5章13節

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 ハレルヤ!おはようございます。ご無沙汰しています、みたいなところがありますが、お祈りに支えられ、守られていますことを感謝します。
 今年からリバイバルミッションで、平岡先生が伝道集会というパートを受け持ち、私は家内と共に、日本のいろいろな教会を回って、「聖会」の奉仕をさせていただくようになりました。それで日曜日に空けることが多いのです。
 今日は、教会の誕生日「ペンテコステ」の日です。今から二千年近く前に教会が誕生したわけですが、聖霊が注がれて、聖霊が教会をお立てになりました。教会は聖霊の働きなくして進みません。
 ですから、日本がリバイバルするためには、日本の教会全体に聖霊が注がれなくてはいけません。日本の教会が聖霊によって活性化する働きの一端を担わせていただけて感謝です。

 先々週、金・土・日と、長野県、愛知県、岐阜県の教会を巡回して奉仕させていただきました。
 日本に現在、八千くらいの教会があるのですが、全体が祝福されるよう祈らなければならないと思います。なぜなら今、日本の教会はある意味、危機的な状況で、祈りを要します。

 先週の金曜日は、「日本基督教団」という、日本のプロテスタント教会、最大の会派に属する教会で奉仕しました。日本基督教団は、全国に二千教会を擁しています。なかなか日本基督教団で奉仕できる機会は少ないのですが、招いてくださり、大変すばらしい集会となりました。
 しかし日本最大の団体が二〇三〇年に、どのくらいの教勢かを予測して、発表されています。

 “日本のプロテスタント教会、最大会派であり、二千余りの教会を擁する日本基督教団の発表によると、教勢が現状のまま推移するなら、二〇三〇年には、会員の三分の二が、健康寿命に関わる七十五歳以上となり、奇跡が起こらない限り、教会員数は三分の一、教会数は半数になる可能性がある。”

 これは二〇一四年のデータですが、年代分布はこんな形になっています。

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 日本基督教団だけでなく、福音派と呼ばれる教会も、同じ傾向だと言われます。健康寿命に達しますと、教会に来られる方が減ってしまうわけで、教会員数は現在の三分の一になると言われます。そして教会数は半分になるというわけです。百数十年もの間、日本で伝道が継続されているのに、これは一体どういう事かです。
 「奇跡が起こらない限り」とありますが、要するに、奇跡さえ起こればいいのです。
 そんな中でも、私たちを招いてくださる教会は、まだまだ元気な教会ですが、そこにおられる先生方、兄弟姉妹と共に祈れるのは、すばらしいと思います。
 自分の教会だけの成長を考えていると、教会はうまくいきません。日本の教会全体、いや世界中の教会の祝福を考え、祈らなければいけないのです。

 金曜日にもかかわらず、大勢の方々が集まってくださったのは、大きな希望だと思います。日本基督教団は、国家によって強制的に作られた教団です。戦争が終わって皆、元に戻ったのですが、戻らなかった人たちが今でもグループを作っているわけです。

 土曜日は愛知県の小牧市の教会で、ペンテコステ系の教会で、熱心な教会です。すごく良かったです。

 先週の日曜日は、ある意味で、人数の少ない教会に行かせていただきました。毎週礼拝の人数が一桁だと言われました。多くても九名くらいだと先生は言っておられました。しかし先週は、二十名来られました。先生は、涙を流して喜んでおられました。私のようなものでも、少しは足しになれば感謝です。

 聖会で、私がメッセージをする前に、いつも家内が証しをします。なぜならば、家内がいなかったら、現在の新城教会はない!というくらい、歴史の中の隠れた存在だからです。彼女を通して、霊的戦いが始まり、様々な新しいことが聖霊によって始まりました。
 先週も、信弘先生が語っていました。一人ひとりに賜物がある!って。そして、新城教会の奇跡!それは何か?「滝元順が変わったことだ!」なんて話していました。私はちゃんとネットでメッセージを読んでいますから。
 本当に私は変わったのかな?と思います。変わったのは、ヘアスタイルくらいのものかな?と思っていたけれど、すべてが変わったそうです。しかし、信弘先生も変わりました。なぜ、変わったのかというと、聖霊さまが訪れてくださって、「変えられた」のです。

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 前にも少しお話ししましたが、新城教会、来年で七十周年です。聖書からいうと、七十年は、バビロンに七十年間捕囚にされていたユダの人たちが解放された年数と重なります。そんなわけで、来年は、ちょっと期待したいなと思うのですが、一九五〇年に父と母が津具村で開拓伝道を始めました。その時はたった二人でした。
 私は一九五一年に生まれたのですが、二人が津具の山の中で祈っている時に、激しく聖霊さまが訪れたというのです。
 救われるのは、ただイエス・キリストを個人的な救い主として信じ受け入れたら、救われるのですが、聖霊に満たされるためには、聖霊さまを求める必要があります。
 新城教会は最初、たった二人でしたが、聖霊さまを求めて祈った時、激しく聖霊さまが訪れてスタートし、前進しました。

 その後、父はスウェーデン宣教師と出会い、開拓伝道者から巡回伝道者になることができました。
 続いて一九六〇年に、新城教会に集まっていた当時の青年たちに聖霊が注がれて、彼らは宣教に出て行きました。その事は後から話します。
 さらに一九七〇年に、子どもたちに聖霊が訪れるのです。信弘先生とか上條先生が子どもの頃です。彼らだけで祈っている中に、聖霊さまが訪れました。あの時の光景、今でも忘れることができません。
 私は高校生だったのですが、土曜日の午後、教会が騒がしいので覗きに行ったら、子どもたちに聖霊が注がれて、涙を流しながら、鼻を流しながら、激しくリバイバルを求めて祈っていました。
 そこにいた子どもたちは後に、ほとんどが献身して、宣教に出て行きました。

 そして忘れることもできない、一九九二年。またしても愛知県民の森で祈っている時に、聖霊さまが訪れてくださり、その時も、本当にすごかったです。甲子園ミッションのただ中でしたが、さらに宣教が進んでいきました。

 そして来年は二〇二〇年で「七十周年」です。
 振り返って教会の歴史を見ると、「聖霊さまが働いてくださった!」と確認できます。
 私たちは、目の先だけでは分からないことがたくさんあります。過去を振り返るのは、ネガティブなイメージがあるのですが、主がどのように働いてくださったのかを知る為にも、時には振り返ることも重要ではないかと思います。

 イエスさまが弟子たちを目の前にして語られました。使徒の働き一章八節、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 当時は、エルサレムが最大の都会でした。ユダヤ、サマリヤ、そして「地の果て」という表現は、都会から郊外に行く事を示していました。当時の人たちは地球が丸いとは知らなかったわけです。地球は平らで、地の果てにまで行ったら、落ちると考えていました。もちろんイエスさまは地球が丸いのをご存じでしたが、最初に話を聞いた弟子たちや、最初に新約聖書を読んだ人たちは、「地の果て」と言われたら、崖っぷちのようなイメージを持ちました。
 「聖霊が注がれたら、あなたがたは崖っぷちまで行って、福音を伝えるのです!」という意味になります。

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 聖霊が注がれると、もう一歩足を踏み出したら落ちる、そんな所まで、あなた方は行って福音を宣べ伝えるようになる!と、イエスさまは語られたのです。

 案外、現代の教会の傾向として、宣教とは、人が大勢いる都会とか、教会形成がしやすい場所に出て行って福音を伝えるのがトレンドです。しかし本来、聖霊が注がれる時、都会に向かうよりも、辺境に向かっていくのです。もう一歩足を踏み外したら落ちる!というような場所に向かっていくのです。

 実は一九六〇年、当時の青年たちに聖霊が注がれました。現在、新城教会が建っている場所は、昔、丸太が置いてある貯木場だったのですが、彼らはその間に入って祈りました。その時、聖霊が注がれたのです。
 田中政男という、父と一緒に働いていた先生がおられましたが、すでに天に帰られました。その先生の年代が青年たちでした。彼らが祈っていた時、聖霊が注がれたのです。
 先週、信弘先生の話にもありましたが、田中先生は、「浦川に行きなさい!」と預言的に語られたのです。浦川ってどこの裏側?という感じで、場所も知らなかったというのです。しかし飯田線を調べたら「浦川」という駅があったので、結婚した翌日に出て行きました。
 聖霊が注がれ、遣わされた場所は、新城市より都会ではないのです。全員、田舎に向かわされました。普通なら、教会形成、教会成長という視点から見たら、ありえない話しです。
 新城市からちょっと足を伸ばせば、豊川市とか豊橋市とか名古屋市とか、都会があります。そちらに行ったほうが、絶対に効率が良いのです。しかしなぜか、聖霊さまは青年たちに、「田舎に向かえ!」と告げられたのです。人があまり住んでいない地域に行け!と。

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 これは浦川の写真ですが、こんな所に行って伝道したって、普通は希望はないと思います。しかし皆、主の声に従ったのです。従順に聖霊さまの声に従って、田舎に出て行きました。
 なぜだろうかと考えるのですが、私は最近、福音が人だけに宣べ伝えられるのではなく、被造物全体への福音ですから、人から始まって被造物全体が解放される為に、被造物の多い場所に遣わされたのではないか、と感じています。当時は意味が分からなかったけれど、辺境の地に向かわされたのです。

 二千年のキリスト教の歴史を見ると、宣教は困難な業であることが分かります。日本でも大勢の殉教者が出ています。当時はカトリックの時代だったのですが、本当に多くのキリシタンと呼ばれる人たちが命を失いました。
 名古屋にキリシタン処刑場があったのですが、なんと二千人以上の人たちが処刑されたと記録されています。恐ろしい時代があったのです。しかしそういう困難を乗り越えて、ここまで福音が伝達されてきました。
 パウロもその困難さをよく知っていました。しかし彼は同時に、福音が自動運転で、どんどん広がる体験もしました。そのことをコロサイ人への手紙に記しています。
 コロサイ人への手紙一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 ここで、福音を、「本当に理解」したら、「勢いをもって」世界中で実を結ぶと語っています。
 ということは、逆を言えば、福音を「本当に理解しない」と、なかなか効果的に伝わらないことも告げていると思われます。

 福音がなかなか伝わらない原因について、コリント人への手紙第二、四章一節〜四節で、パウロが次のように指摘しています。
 私たちが一生懸命に、「私はクリスチャンですよ!イエスさまを信じたら、永遠のいのちが与えられますよ!」と福音を伝えたとします。今日もそのような賛美をしましたが、いくら唾を飛ばして伝道しても、人々が救われないのには、原因があるというのです。その根本原因は何かと言えば、第二コリント四章三節、

『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。』

 私が大きな毛布を持ってきて、みなさんの前に広げたら、せっかく電気がついていても下は暗くなります。光を届けたかったら、電球を変えても駄目なのです。まずは、おおいを取らないと光は届きません。
 そして、このおおいとは何かについても指摘しています。それは、「この世の神」が「おおい」となっていると指摘しています。この世の神、すなわち「サタン」が、人々の思いを暗くして、教会に来られなくする力が働いているというわけです。

 そもそも日本でクリスチャンになるのには、二つのハードルを越えなければなりません。
 一つは家族のハードルです。みなさんも体験されたかと思いますが、家族の中で誰か一人がクリスチャンになると、「先祖様に申し訳がたたん!先祖に謝れ!」」とか言って、仏壇の前につれて行かれるわけです。日本の人間関係の難しいところは、死人たちまで、生きている人たちの世界に乱入してくる事です。それでも頑張って、家族全員がクリスチャンになった!やったー!とは言えないわけです。
 次には地域にもハードルがあります。この近所もそうですが、村人一号、村人二号と認めてもらうためには、春祭りと秋祭りの準備に全て関わり、祭りに参加して、初めて村人として認めてもらえる雰囲気があるわけです。最近は、ちょっと良くなってきましたが、昔なんかひどかったです。家族全員がクリスチャンになったら、地域全体から迫害され、村八分みたいになってきます。
 町全体がクリスチャンになったら、必ず、国から迫害されます。

 「これは文化だ、習慣だ、どうしようもない」と考えます。皆さんもよくぞ、その二つのハードルを乗り越えて教会に来てくださいました。しかしこれは文化でも、習慣でもないのです。この世の神、サタンが働いて、そのような環境を作っているのです。
 ということは、「神に従い、悪魔に立ち向かえ!」とありますから、おおいを掛けている悪魔・悪霊どもに立ち向かわないと、勝利が来ないのです。
 一九九二年にそのことを主から教えられて、地域に掛かっているおおいが取られるように!と祈るようになりました。初め、それを語られた時、訳が分からなかったです。本当に、町におおいがあるかどうか見てみようと思って、雁峰山の頂上に登って町を眺めたのですが、おおいらしいものも見えないし、なんだか分からなかったです。しかし、みんなで祈るようになったわけです。そういう中で、徐々に、おおいが解かれてきた感じがします。
 家に、地域に、国に、おおいをかける暗闇の力が働いていることを、教会が理解しなければならないのです。

 しかし悪魔の力は、主を信じない人たちだけに働くのではありません。クリスチャンと教会にも、おおいを掛けるのです。福音におおいを掛けるとは、「福音そのものの理解を、間違った理解にしてしまう」事ではないかと思います。

 パウロはどのように福音を理解していたのか。
 コロサイ人への手紙一章で、本当に理解したら福音は前進する!と告げ、自らの福音理解を、コロサイ人への手紙一章十九節〜二十三節で述べています。
 ここで十字架の勝利がどういうものかを教えています。コロサイ人への手紙一章十九節〜二十三節(新改訳2017)、

『なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。』

 これをまとめますと、「福音は人だけの為ではない、万物との和解である」と告げています。
 二番目に、「人と神との和解」を告げ、三番目に、「すでに聞いた福音の望みから外れるな!」と一番に述べられた福音を確認しています。
 四番目に、だめ押しかのように、「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と語っています。これは被造物全体に対する福音の再確認です。そしてパウロは、「それに仕える者となった」というわけです。
 パウロは、「被造物全体への宣教師」だという自覚があったのです。

 現代のキリスト教会の問題は、初代教会の福音理解と変わってしまったと指摘されています。考えてみれば、一番はほとんど語られないです。しかし、二番だけは声高らかに語ります。一番を理解しなければ、三番も消えますし、四番も消えます。当然、五番も消えるのです。現代の教会は、「二番目の概念が福音のすべて」としているのです。これでは、本当に福音を理解していないことになりますから、福音に勢いもなく、自動運転しないはずです。
 「福音とは何か」、それは人類から始まって、被造物全体の回復宣言です。

 ここで、「proclaim」、「宣言」という言葉が使われています。私たちが救われる為には、イエスさまの十字架の贖いを理解する必要があります。イエスさまが私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んでくださった、三日目によみがえってくださったと信じることが重要です。しかし他の被造物は、人の足下にすべて委ねられていますから、他の被造物に対しては、贖われた者達の宣言で回復が始まるのです。被造物に対して「主を賛美しろ!」と宣言したら、被造物は回復していくのです。
 この全幅の福音を理解したら、福音は自動運転する!というのが、パウロの主張です。
 福音は人から始まり、被造物全体に及ぶものであることを教えられたのは、聖霊さまの働き以外、何ものでもないと感謝します。
 私は被造物に対して、たいへん理解が薄いものでした。動物に対しては、申し訳ないのですが、家内は愛情深いのですが、私は昭和二十六年生まれで、食えるか食えないか、うまいかまずいかくらいにしか考えない男でした。しかしこの頃はそうではありません。すべての被造物を賛美させることが使命であると知ってから、大きく変えられました。すべての被造物に「主を賛美しろ!」と宣言するようになりました。最近、「俺って、変わったなぁ」と思うことが多くなりました。

 先日は、ヒマラヤの山々と美しい被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言してきました。
 山に登るにはガイドがいないと危ないです。ヒマラヤの山々は険しいですから、ちょっとした事も事故につながります。今回は山を熟知したガイドさんが、開先生と若い人たちを案内してくれました。今日は午後から報告会がありますから、ぜひ出てください。
 ガイドさんは、クリスチャンではないです。トリウンドという山に登ったのですが、ガイドのソノさんが、後にジョイフルカフェに来て、以下のように言ったそうです。

「今回は特別だった!テレビでしか見たことのない本物の日本人のギターと歌で、周りにいた人たちは惹き付けられ、鳥や山が反応してキラキラしていた。すばらしい経験だった。自分もギターを習いたい。」
 彼はどうも、ギターに魔力があると思ったみたいです。
 開先生たちが賛美をした時、彼は傍観者でした。「やりたかったらやって・・・。」みたいなところがあったのですが、「周りにいた登山者たちも惹き付けられただけでなくて、鳥や山が反応してキラキラしていた。」というのです。
 彼は何十回とその山に登っていますから、山の状態を熟知しているのです。そのガイドが感じたことって、すごいと思います。
 被造物全体の福音を理解して、山に登る時、山は喜び主を賛美します。今まで山々自体が礼拝の対象とされ、悪霊を引き下ろす台座のような山々が、贖われた者たちがやって来て、「主を賛美しろ!」と宣言したわけですから、こんなすごいことはヒマラヤの山々にとってもないわけです。この働きは贖われた者たちにしかできない、重要な仕事です。

 ではなぜ、神は被造物を造られたのか。前回もお話しさせていただいたのですが、黙示録四章十一節に、

『「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 』

 「みこころゆえ」と言うと、神さまは何を考えているのだろうか?と、幅広さを感じるのですが、ギリシャ語だと「喜びのゆえ」と訳すことができます。
 聖書全体から見ると創造の目的は、すべての被造物を通して、主を賛美させるためです。
 どれだけ多くの物質を主は造られたのか、分からないけれど、すべての被造物を歌わせて、ご自分を賛美させる為です。
 神は、すべての被造物を通して、ご自分を賛美させるオーケストラを編成されたわけです。

 人間でも物を作る時は、自分のために作ります。例えばCDプレーヤーをなぜ買うのかというと、音楽を楽しむためです。CDを聴きながら音楽を楽しむのです。人間でもこういうことをするわけです。
 神さまは、宇宙規模でなさったのです。すべての被造物を賛美のために造られて、何一つ賛美していない被造物は宇宙には存在しない!神を礼拝し、賛美するオーケストラとして造られたのです。これが創造の目的です。
 そして人類は、賛美していない被造物をけしかけて、「さぁ!みんなで主をほめたたえよう!」と宣言する役割です。
 日本においては人口の九十九パーセント以上がイエスさまを知らないで、賛美していないです。しかしその人々が救われたら、主を賛美をし始めます。
 続いて、その人たちが被造世界に出て行って、宇宙のすべての要素に、「主を賛美しなさい!」と宣言する必要があるわけです。

 神さまは、どこに住んでおられるのかに関して、前回お話しさせていただきました。主が住んでおられる場所は、「み座」です。
 今日も最初にお読みした聖書の箇所、

「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

を引用させていただいたのですが、「神さまはどこに住んでおられるのですか。」『私たちの内側に住んでおられます。ここにおられますよ。』と言うのですが、主はみ座、王座に座っておられるというのが、聖書が教えるところです。

 「み座」とは、「王座」とも訳すことができるのですが、ギリシャ語では「スロノス」です。

“この言葉は、黙示録の中で四十回以上も用いられている。四章、五章だけでも十七回ある。聖書では天のみ座、神のみ座、栄光のみ座、恵みのみ座、大能者の座、ケルビムの上の座、大きな白いみ座、あるいは王座、玉座とも訳されている。詩篇には「天のみ座についておられる方」とある。み座は、黙示録の中心であり、宇宙の中心である。”

と、ある神学者が解説していました。神が創造の業を始められた原点はどこか。それは神が住んでおられる「座」、「み座」から声を出されたのです。
 そのことが黙示録四章と五章に記されています。家に帰ったらみ座を意識して、読んでいただきたいと思います。

 み座のまわりには、四つの生き物と、二十四人の長老たちと、無数のみ使いたちが一緒にいます。同時にみ座は、「あらゆる被造物」が賛美を集結させる場所でもあるのです。
 賛美は、どこに届くのか、それは神の王座、み座に届きます。
そもそも、神がすべての被造物を造られた目的が、すべての被造物を動員して、神を賛美するオーケストラを編成したいという願いです。

 しかし地球は、主を賛美しているかというと、賛美していないです。これは大きな問題だ、と以前にもお話ししました。
 『はじめに神が天と地を創造した。』という「天」は複数形です。神さまは天を、私たちが住んでいる時空だけでなく、さらなる高次元をも造られました。
 実際、今の科学でも、「十一次元」を設定しないと、宇宙を解き明かすことができないと言われます。
 十一次元も存在したらすごいです。私たちは四次元に住んでいます。それよりも上の次元があったとしたら、ドラえもんの「どこでもドア」と同じ状態になります。距離も空間も時間も飛び越えます。ついて行けないです。想像できません。神さまはさらに多くの天を造られているかもしれないのです。
 聖書は「諸々の天」と告げています。具体的に、「第三の天」までは記されていますが、それ以上の天があることを示唆しています。イエスさま時代のラビたちは、各学派によって、七つあるとか、十あるとか、様々な意見がありました。

 去年、ホーキングという宇宙物理学者が死んだのですが、彼は初めはクリスチャンだったらしいですが、途中で無神論者になりました。最近、彼が晩年に書いた本が出版されました。
 その中で彼は「俺は無神論者だ。」と語っています。そして「神はいない。神とは宇宙の法則だ。」と言っています。「宇宙の法則そのものが神だ。」と言っているそうです。しかし法則とは秩序ですから、法則を造られた神がおられるのは、当然のことです。
 でも最後に、その本の中でこう語っているそうです。「私は神を信じない。しかしもしも神がいて、神に会うことができたら、一つのことを聞きたい。」と言うのです。何を聞きたいのかといったら、「神さま、あなたはなぜ、十一次元という複雑な天を造ったのですか?その意味を教えてくれ、と聞きたいものだ。」と結んでいるそうです。
 なぜ神は、そんな高次元まで駆使して、創造のみ業を行ったのかと言えば、その目的はただ一つだけです。それは、「すべてが神を賛美する」ために造られたのです。

 幾つ天があるのか分かりませんが、私たちの住んでいる人の世界と、第二の天、悪魔の支配している天は、主を賛美していないです。「第三の天」とは、たぶん死後の世界だと思われます。人が死ぬと第三の天に行くわけです。
 前回、ヘンリー・グルーバー先生のビデオをお見せしましたが、「天国に行ったら、そこではすべてが賛美していた」と語っていました。三から上の諸天は、幾つあっても、すべて、主を賛美しています。

 第二の天と第一の天は、神を賛美していないのです。どうしたらいいのでしょうか。
 しかしここに人が創造された意味があるのです。人を通して、第一と第二の天をおおっている暗闇の力は打ち破られ、神が造られたすべての被造物を賛美させるのです。すべての賛美を王座に向けていくために、人は創造されたのです。それが分かったら、我々の生き様も変わるはずです。
 私たちは何のために存在しているのか、すべての被造物を神に向かわせ、主をほめたたえさせるため!という一語に集約されます。

 しかし王座は、同時に、悪魔が訴える「裁判所」も兼ねています。悪魔は「ディアボロス」といって、「中傷者、告発者」という意味です。
 そして、「あなた方の敵である悪魔が」という「敵」とは、「アンチデコス」、「訴訟を起こす者」という意味です。悪魔はみ座に行って、いろいろケチを付けるらしいです。その判決が地上に下りてくるわけです。
 どうして、このようなシステムがあるのか。これが昼も夜も、繰り返されているのが見えない世界です。黙示録十二章を見ますと、黙示録十二章十節、

『私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』

ということばがあります。日夜、み座の前で訴えている連中がいるわけです。
 神の前に行って、あーでもない、こうでもないと、ヨブのように訴えるわけです。

 しかし、なぜ、訴えられるのかに関しても、何回かに分けてお話をさせていただきました。その例として、ヨブとダビデの違いについてもお話ししました。
 二人とも「人とは何者なのか」という、問いを持っていました。しかしダビデは「人とは被造物の管理人」ということに気づいていました。
 けれどもヨブは、人に与えられた使命を放棄しました。そこに問題があったと話しました。しかし、最終的にヨブは、「人は被造物の管理人!」と知らされて、回復が訪れたのです。

 人が被造物の管理人であると理解するのは、み座で訴えられないために、最も重要な理解と条件ではないかと思います。
 悪魔は、「あの人は被造物を管理していませんよ!」と、み座に訴えるわけです。
 そうすると、神の創造の目的は、すべての被造物を賛美させるためですから、神は管理人を問われるわけです。悪魔は常に、「役割を果たしていませんよ!」と訴えます。その、訴えがあれば、神は管理人を変えないといけないのです。ゆえに、人を変えるための判決が下るわけです。

 しかし人とは被造物の管理人であることが分かって、福音とは何かという枠組みがはっきりしたら、パウロが語っているように、福音は勢いを持って、自動的に広がる可能性があります。

 今、第一の天と第二の天から上がってくる音楽は、すべてブーイングというか、神を呪うような音ばかりです。
 しかし私たちがすべての被造物を賛美させ、み座に集中させるために働くならば、神は大きな勝利を与えてくださると信じます。

 最後に一つ、みなさんに動画をお見せしたいと思います。今までにお見せした動画を少し編集しました。
 物質の最小単位は素粒子だと言われていますが、最近では、振動する弦ではないかと言われるようになりました。それを超弦理論と言います。以前、カク・ミチオという物理学者がNHKでこの理論について話していました。すべての物質は振動する弦だと、それは全て音楽に置き換えられるというのです。そのビデオを紹介します。
 もう一つはヘンリー・グルーバー先生が天国に行ったら、天国の被造物がすべて賛美していて、贖われた者たちに仕えていたという証です。
 そして最近、もう一つのビデオクリップを紹介してもらいました。宇宙には星が無数にありますが、すべての星は歌っているというのです。音を出しているというのです。宇宙には「パルサー」と呼ばれる、音を出す星が無数にあるけれど、それらはドラムみたいに正確なリズムを響かせているというのです。また、他の星はストリングスのような、バイオリンのような音色を出しているというのです。そして鯨とか、海の生物も、本当に美しい声を出して歌っているのです。
 しかし個々では歌っているけれど、指揮者は誰かといったら、人間です。人類によってすべての音楽は統合されて、み座に賛美が上るようになるのです。それこそが人の大きな役割です。
 今、説明したことを頭に入れながら、十分くらいの動画ですが、見ていただきたいと思います。最初は超弦理論から始まり、天国の賛美につながり、最後に宇宙が歌っているところで集結します。訳が分からないかもしれませんが、分からなかったら、何しろ「すべての被造物は賛美している」ことを覚えていただきたいと思います。それではよろしくお願いします。

<ビデオ>

 どうですか。すばらしいじゃないですか。すべての被造物は主を賛美しています。これをまとめあげるのが人の役割です。今日、私たちは何のために集っているのでしょうか。救われてただ地獄に行かないで天国に行く、それだけじゃないです。すべての被造物に、主をほめたたえさせ、み座を賛美で満たすためであるのです。
 私たちの役割は何か。霊的戦い、とりなし、究極的な目的は何かといったら、み座を賛美で満たすために、他ならないのです。
 病気ならばみ座を賛美で満たすことはできないです。癒やされて、すべての臓器が主を賛美しますように。
 さまざまな問題があったら、賛美の声が小さくなってしまいます。問題が解決することは、み座の賛美の増大につながります。
 日々の働きは、少しでもみ座の賛美を増やす働きです。やがては、み座が完璧な被造物の賛美で満たされるために、祈り、働いていくことが大切ではないでしょうか。
 そのためにイエスさまは、十字架にかかり死んでくださり、よみがえってくださいました。この十字架の福音を携えて、全被造物の所に行って、すべての被造物を賛美させる、み座を賛美で満たすために働いていきたいと心から願っています。

 最後に一言祈ります。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あらゆる造られたものが、み座におられる方に賛美をささげる、その日を目標として私たちは働きます。そのために、あなたは十字架で血を流してくださり、よみがえってくださったことを心から感謝します。
 私たちはみ座を賛美で満たすために造られたことをもう一度確認し、聖餐式を行います。今からの聖餐式を祝福してください。イエスさまのみ名によって、ここに備えられたパンとぶどうのジュースを祝福します。これらも主が造られた被造物です。主をほめたたえることを宣言します。私たちはイエスさまとひとつとなって、み座を賛美で満たします。主のみ名によって祈ります。アーメン。