「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜満たせみ座を、賛美で満たせ!パート2〜」

  • 2019年6月23日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録 5章13節

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 ハレルヤ!今のピアノ演奏と朗読、素晴らしかったですね。最高でした!ずっと聴いていたいような気分になりました。後藤さん一家は、アメリカに行ってしまうそうですが、毎日、演奏を聴ける方法があります。それはCDを買って、毎日聴くことができます。星野さんの朗読も、ちゃんと入っています。本当に恵まれます。ぜひ、聴いていただきたいと思います。
 このようにして、一人ひとりに賜物を与えて、主がほめたたえられ、み座を賛美で満たすことができて感謝します。

 新城教会はリバイバルミッションと一体となって進んでいます。先週は香港で、リバイバルミッションがありました。
 リバイバルミッションが海外で活動するとき、必ずとは言ってはいけないかもしれませんが、何かが起きます。香港リバイバルミッションを前にして、香港ですごいデモがありました。

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 二百万人の大群衆。もしかしたら空港が閉鎖されるかもしれないという噂もあったりして、どうなるのか心配でした。やはり霊的戦いを感じました。でも、そのような時にこそ、勇気を出して赴くと、天の扉が開かれます。
 午後から香港ミッション報告会があります。是非、出席していただきたいと思います。二十名の方々が香港に行かれたのですが、今からダイジェストで、開先生にお話していただきたいと思います。

【香港報告(滝元開牧師)】

 ハレルヤ!感謝します。無事に二十名、帰ることができて心から感謝します。ツアーを申し込んでくださった方々は十八名だったのですが、昨年の十二月に香港を訪れた時、今回の会場となったサンライズ・ミニストリーという教会の牧師先生から、「何人くらいで来るんですか?」と聞かれて、「できれば二十人くらいで来たい。」とお伝えしました。
 でも十八名だと思っていたのですが、そのサンライズの集会の夜に、突然二人の兄弟姉妹が現れました。それは大林兄弟姉妹でした。今日もいらっしゃいますが、それで二十名になりました。二十人で香港の地に立つことができたこと、それそのものが大きな祝福と勝利であったと心から感謝します。
 皆さまにお祈りいただいて、大変な情勢の中でしたが、危険ではとご心配いただきましたが、香港は表面的には穏やかでした。
 そんな中での働きでしたが、一晩目は早速、祈祷会がありました。アジア・アウトリーチ香港という団体の主催の祈祷会が、野木朗先生の「チャーチオンザロック」でありました。すごく祝福されました。特に日本宣教に関心を持っておられる方々が来られて、熱く一緒に祈りました。アジア・アウトリーチ香港の主催の代表の方が、「一番大変な時に、香港に来てくださったことは、神さまのタイミングです!」とおっしゃってくださって、そんな祈祷会から始まりました。

 そして次の日から、本大会となったのですが、「香港・日本合同リバイバル聖会」という聖会が行われて、大きな祝福でした。会場いっぱいの百名以上の方々が来て下さいました。皆さんと共にザワメキを広東語で、一生懸命歌いました。地元の方々も大きな声で歌ってくださり、平岡修治先生が、素晴らしいリバイバルメッセージを取り次いでくださいました。

 木曜日の午後に一つのプログラムが突然与えられました。それはサンライズ・ミニストリーの代表の先生が「ぜひ一緒に祈りに行きましょう!」ということになりました。「日本人が戦争中に香港を占領して、様々な破壊行為をしました。破壊の扉が開かれているので、それを閉じる祈りをしましょう。それに対して香港人は恨みの扉が開いているので、恨みの扉を閉じます。そして、新しいリバイバルの扉が開かれるように一緒に祈りましょう。」と、大型観光バスをチャーターして、日本からのメンバーと地元のとりなしの人たち、二十名くらい来られて、四十名くらいでぐるっと回りました。それは本当に祝福の時で、それぞれの場所に立って賛美し、祈って、聖餐式をして、主の勝利を宣言できました。
 最後の集会は祝福されて、ある意味、香港と日本の大きな壁が崩されて一つになる、そんな集会でした。
 そもそも、サンライズチャペルの代表の先生に、一晩目にすごいことが起こったというのです。何が起こったのかというと、一晩目、先生は白いフレームの眼鏡をはめておられたのですが、次に現れた時には黒いフレームになっていました。どうしてかと思ったら、集会中になんと眼鏡のフレームが突然、壊れたそうです。しかも半年前に買ったのが突然壊れて、眼鏡のレンズが壊れるならまだしも、フレームが突然壊れた!これは何かすごく大きな戦いだ!と感じて、働きを受け止めてくださったのです。最後の最後に、その先生がおっしゃっていたことは、「今回この事を通して、香港と日本に一つの大きな愛と友情、絆が生まれました。これから新しいリバイバルのための働きのために、一つとなって戦っていきましょう!」と宣言をしてくださって、本当に感謝でした。
 とりなしの様子がダイジェストで映像になっていますので、最後にそれをご覧いただきたいと思います。
<ビデオ>
 行った場所はすべて日本軍が様々な残虐行為をした場所です。そこで賛美をして勝利を宣言して、勝利の宣言のしるしとして、あちらの人たちは角笛を吹き鳴らしていました。そして聖霊さまの訪れを歓迎して、旗をはためかせ、一つ一つの場所での祈りと賛美が、壁を崩すものであることを強く感じました。
 そしてこの後、聖餐式も行うことができ、イエスさまの血潮によって私たちは一つだという宣言と共に、涙・涙の悔い改めと回復ととりなしの働きでした。
 ここは山の上ですが、日本軍の重要な基地があった場所だそうです。水色のシャツを着ておられる先生がサンライズチャペルの代表の方です。悔い改めから和解、そして癒やしをそれぞれ宣言して、大きな恵みと感動の時でした。
 ここでも賛美をしたのですが、この働きを終えて、それぞれを祝福して、それぞれの油そそぎを祈りあっています。
 その後、共に賛美をしたのですが、そうしたら三羽の鷲が上空に現れて旋回して、本当に共に歌っているようでとても感動的でした。
 そして最後の場所、これは香港島の南のほうの場所ですが、ここで日本軍が行った心傷むことを聞き、それに対して悔い改めをしました。最後はみなさん、こんな笑顔で共に過ごしてくださいました。
 ということで、皆さんのお祈りを本当に感謝します。主に栄光をお返しします。ありがとうございました。

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 ありがとうございました。一九九二年に、この教会に激しく聖霊さまが訪れてくださったのですが、その時、シンディ・ジェイコブスという先生が一つの預言を語ってくれました。
 日本列島は正面から見ると、飛んでいる龍のように見える。しかしひっくり返すと北海道を柄として、剣のような形になるというのです。日本はかつては破壊の剣を持ってアジアの諸国を傷つけたのです。日本にいては気づかないのですが、一歩アジアの諸国に出て行けば、日本人って恨まれているなと感じます。
 日本の歴史教育は近代史をほとんど教えません。韓国、中国、アジアの諸国に行けば、日本が戦争中にどんなことをしたのか、痛いように分かってきます。それが今でも、大きな影響を与えていることに気づかされ唖然とします。
 昔、日本は悪い破壊の剣で多くの国々を傷つける存在でした。ある意味、龍のような存在でした。
 しかし、「今度はあなた方をみことばの剣と共に、アジアの諸国を解放するために遣わします!」と聖霊によって、語って下さいました。それは一九九二年のことで、私はその意味について、よく分かりませんでした。なぜなら私は歴史が大嫌い、アジアのことなんか、全く関心のないものであったからです。
 しかしこの二十数年を振り返ると、まさに主が、私たちが意図したわけでもないのに、世界の国々に遣わしてくださいました。特にアジアの諸国の傷ついた方々の所に遣わして、和解し、憎しみの扉を閉め、祝福の扉を開く、そんな働きに導いてくださいました。本当に感謝に堪えないです。歴史を振り返ると、神のみ手を見ることができます。

 特に一九九二年、甲子園ミッションを目前にして、聖霊が注がれた時、幾つかの新しいことが始まりました。そこで最初に起こったのが、「霊的戦いととりなしの祈り」という働きでした。それも町に出て行って、とりなして祈ることを教えてくださいました。
 同時に、新しい賛美が多く与えられるようになりました。昔私はグロリアシンガーズというバンドを弟たちと一緒にやっていました。滝元開はベースを弾いていたのですが、一緒に曲を作ったりしていました。でもみんな、そんなに大差なかったのですが、一九九二年に聖霊が注がれてから、滝元開ばかりに曲が与えられるようになりました。天から賛美が降ってくるというのです。天から降ってくるのは雨くらいしか、私は体験したことがないですが、賛美が降ってくるというのです。それがザワメキになっています。
 また、もっと聖書を深く学びなさいということで、「リバイバル聖書神学校」が生まれました。現在、神学校は少し形を変えて、セミナー形式で継続中です。
 そしてもう一つ「世界宣教」が、自動運転であるかのように開かれました。

 この四つが開かれたのですが、もう一つ、突然開かれたものがありました。それが「プレイズ出版」です。甲子園ミッションの時に、大量の印刷物が必要でした。印刷所に頼んでいる暇がなく、自分たちでやるようになりました。
 岡本信弘先生が中古の印刷機を買って来て、夏目洋平さんと一緒に印刷を始めました。二人とも、ずぶの素人でした。しかし素人ほど怖いものはありません。一色機の印刷機でなんと、カラー印刷をやるようになったのです。それは一般の業界ではありえないことらしいのです。甲子園ミッションの時、あまりにも印刷物が多かったから、素人でも、下手な鉄砲、数打ちゃ当たる!と、どんどん刷りまくって、自然とうまくなりました。
 今ではプレイズ出版は日本中の教会の印刷を受け持っていますし、大手の企業の印刷までもこなすようになりました。
 現在、プレイズ出版に四十四名が働いています。全員クリスチャンで、全員、最初は素人でした。しかし聖霊が注がれる時、普段では絶対にできないことができるようになったのです。聖霊が注がれた時、信弘先生は、ビジネスでリバイバルを支える働きを始めました。
 先週は「教会連携型ビジネスセミナー」というセミナーが行われました。このセミナーの講師は誰かといったら、他でもなく岡本信弘先生でした。私も少し、セミナーに出させていただいたのですが、一九九二年前後から主が何をしてくださったのかの証しを聞いて、本当に感動しました。主が新しい扉を開いてくださったことを、もう一度確認し、心から主のみ名をあがめました。

 神が業を行われる時、必ず、確固たる目的があります。初め私たちはその目的がはっきり分かりませんでした。しかし、その道を歩んでいく時、それが何であるのかが徐々に見えて来ます。最近、みこころが少し分かってきたような気がします。

 今日、読んでいただいた聖書箇所は、黙示録五章ですが、目的が何であるかが示されています。それは、「すべての被造物を動員し、宇宙規模の賛美をさせること」です。それが、神が意図しておられることです。
 黙示録四章十一節に、創造の目的が記されています。

『あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』

とありますが、神が人間だけでなく、すべての被造物を造られた目的は何かというと、「神のみこころのゆえ」だというのです。
 しかし「神のみこころ」というと、結構、幅が広く感じます。何がみこころなのか分からないですが、「みこころ」という言葉は、「喜び」とも訳すことができます。それは突き詰めれば、「賛美」です。
 神さまは多くの被造物を造られて、何をされたいのか。人間が物を造る時は、自分の喜びのゆえと言ってもいいと思います。音楽をなぜ作曲したり、演奏したりするのか・・。それは人が楽しむためです。人が作るものにも、そのような意味があるわけで、神さまも同じです。すべての被造物を動員して、神が住んでおられる場所、それを「み座」と呼びますが、み座を賛美で満たすためなのです。
 全被造物を動員して、主をほめたたえさせることを目的に、被造世界を造られたのです。
 そんな中、人間はどういう役割かと言えば、すべての被造物に、「主をほめたたえろ!賛美しろ!」と命令を下し、指揮者のように、すべての被造物の賛美を統一し、調和させ、美しいハーモニーをみ座に届ける役割です。
 先ほども賛美と共に、詩篇百四十八篇が朗読されましたが、それは人の役割を現しています。天の天にある被造物から、地のどん底に存在する被造物まで、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と言うのです。
 私たちの存在目的は、一言で言えば、「すべての被造物を動員し、主の名をほめたたえさせる」ためです。もちろん、私たち自身もその輪に加わり、主を賛美するのです。
 ですからリバイバルは何のために必要か。大勢の人たちが救われて、教会が盛んになるとか、そういうものではないのです。すべての造られたものが主を賛美する為です。
 神さまが住んでおられる場所は、あらゆる被造物たちの賛美が集結する場所です。すでにみ座の周りは、四つの生き物と、二十四人の長老たち、また、無数の天使たちが賛美をささげているのですが、「それと共に」あらゆる被造物も、み座に向かってほめたたえるのです。本来み座は、神への賛美だけが届かなければならない場所です。

 しかし残念ながら、私たちが住んでいる宇宙からは、すべての被造物が賛美しているわけではありません。地上から立ち上る音楽は、不協和音とアンチ賛美というか、サタンを礼拝したり、人を礼拝したり、そんな悪音が神の前に響いています。これでは、神さまは居心地が悪いですね。それを変えるために、どうしたらいいのか。そこで用いられるのが、「人類という存在」です。
 クリスチャンと教会の究極的な目的は何か。それは、み座を賛美で満たすために存在するのです。時々、「私って何のために生まれたのかな?何の能力もないし、私は駄目だ…」と考えてしまう時ってあります。しかし皆さん、人に生まれたら、絶対に、自分は駄目だって考えてはいけないです。すべての人には目的があります。それは「神のみ座を賛美で満たす」存在だからです。
 すべての人には権限があります。それは被造物に対して、「主を賛美しろ!」と命じると、被造物は賛美を始めるのです。この働きは、非常に大きな働きです。私たちはあまり気づいていないのですが、本来、「最も重要な働き」です。
 今週、いろいろな場所に行かれると思いますが、すべての被造物に「主を賛美しろ!」と宣言していただきたいです。これが「人の真の目的」です。この働きをし始めると、心は自然に燃えてきます。
 私もこの頃、ウォーキングをしながら、様々な場所で、「主を賛美しろ!」と宣言しています。カラスを見たら、「あっちに行け!」じゃなくて「主を賛美しろ!」と言うようになりました。山を見たら、「山よ。主を賛美しろ!」と宣言するようになりました。なんか心がとても豊かになった感じがします。人の価値観とは全く違った、神のみこころがそこにはあるのです。そのためにクリスチャンを、教会を、地上に造られました。

 黙示録を一章から読みますと、誰に宛てられた手紙なのかが分かります。家に帰ったら読んでいただきたいと思います。それは「使徒ヨハネ」という人物に対して、よみがえりのイエスさまが語られた「個人宛ての手紙」です。
 しかし、それはただ個人だけでなく、「教会に対する書巻」であることも分かります。当時の小アジア、今のトルコに当たるのですが、そこに七つの教会があり、「七つの教会に対して書き送れ!」と告げられ、七つの教会宛でもあります。
 しかし聖書で、「七」という数字は「完全数」ですから、七つの教会とは、世界にあるキリストを頭とする、すべての教会をも表しています。
 ということは、七つの教会に対するメッセージは、言い換えれば、新城教会宛てのメッセージでもあります。同時に、私たち個人宛でもあります。
 黙示録四章には、創造の目的が記されています。やがて全ての被造物が主をほめたたえる日が来ることを預言しています。
 そして教会が何のために存在するのか。それは未だ、主を賛美していない人々と、すべての被造物に主を賛美させる、すなわち、み座を賛美で満たすために存在することが分かります。
 ヨハネの黙示録一章を見ますと、小アジアにあった七つの教会が出てきます。

『エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。』

 この七つの教会に対して、主がメッセージを送られたのです。これを読んでいきますと、七つの教会のほとんどがイエスさまから小言を言われています。しかしただ一つ、フィラデルフィヤという教会は、文句を言われずに賞賛されました。
 しかし重要なのは七つの教会が、「七つの燭台」として表されている事です。七つの燭台とはこれです。

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 燭台の幹は一本で、そこから七つに枝分かれしているのです。ということは、七つの教会に語られた事柄は、裏返せば、連帯責任です。すべての教会が、心しなければならないメッセージなのです。
 しかし、七つの教会に対する最後のパートで主は、勝利を勝ち取るならば、教会に、大きな祝福を与えると告げています。黙示録三章二十一節、

『勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。』

 七つの教会に語られたメッセージを真摯に受け取り、勝利を得るならば、私たちはイエスさまと一緒に、座に着くことができるのです。
イエスさまは父なる神さまのみ座に一緒に座っておられるのですが、そこに私たちも連なることができるのです。それは、何を意味するのか。
 「み座」とは、裁判官が座る席でもあると以前にお話ししました。悪魔は私たちを、日夜訴える存在です。しかし私たちが勝利を得ると、イエスさまと一緒に、最高裁判所の裁判官の席を共有できるわけです。ですから、サタンがどんなに訴えたとしても、訴状を却下できるのです。
 七つの教会に語られたメッセージをよく理解し、忠実に歩むならば、個人も祝福され、教会も祝福され、悪魔に訴えられることはないということです。

 前回も少しお話ししましたが、今日本の教会は危機的な状態です。日本基督教団の年代分布はこんなふうになっています。

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 二〇三〇年になりますと、多くの信徒が健康寿命にさしかかるので、教会員数は三分の一、教会数は半分になるというのです。しかし日本の福音派と呼ばれる教会も、同じ傾向にあるというのです。
 私たちはこれを見て、「日本基督教団の事だからね。うちは大丈夫!」というような過信があるのですが、七つの教会は一本の幹から生えているのです。だからこの現実をも、共有しなければならないのです。
 日本を勝ち取るために、日本教会のすべてが祝福されるように祈らないと、連帯責任を問われます。責任を感じ、その為に祈る教会がないと日本の教会に未来はないのです。
 各教会それぞれみたいに考えますが、イエスさまの教会はただ一つです。すべての教会を統括されている主に、もっと近づかなければいけないのです。

 先週、私は一冊の本を読んだのですが、それはジャック・ヘイフォード先生が書いた、日本語のタイトルは「地震」です。この本は黙示録を注解している本です。興味があったら読んでいただきたいと思います。
 ジャック・ヘイフォード先生は聖書学者でもあり、七つの教会に対して語られているメッセージを分析して、その現代的な意義について記しています。
 七つの教会に語られている事柄は、凝縮すると、四つにまとめることができるというのです。それを、「教会の命を奪う四つの要素」としてまとめて指摘しています。
 これは、個人にもあてはまる指針です。

 第一に、「活動や働きが優先順位の第一になると教会は命を失う」と指摘しています。時々、教会は何をしていいのか分からなくなることがあります。ある意味、日本の教会は現在、何をしていいのか分からない状態です。
 今、リバイバルミッションで平岡先生が伝道集会を各地で開催しているのですが、事務局から、「伝道集会をやりたいのですが。」と申し込むと、「伝道集会って何ですか?」と聞かれる教会もあるというのです。私が若い頃には、教会は伝道するものだ!という意識がありました。しかしいつしか、伝道の情熱をなくしてしまっています。
 今日の教会が、最も燃えるのはボランティア活動であるそうです。日本の宗教学者、山折哲夫が、日本の教会と仏教界を批判しているのですが、「日本の教会はいつからボランティア団体になったのか」と語っています。最も燃える活動が震災ボランティアだというのです。もちろん、被災地を助ける働きは重要です。しかし、それが最優先順位になると、命を失う羽目になります。災害が起こると、教会は俄然元気になって、ボランティア活動に励む傾向があると言います。しかしボランティア活動は熱心にしても、人の心にはタッチできていないというのです。
 ある意味、日本の教会は、大地震を待ち望んでいるかのようだと批判されています。目の先の活動だけが中心になると、教会は命を失います。本来は地震が起こらないよう、教会は真剣にとりなし、祈らなければなりません。大地震がどこで起こってもおかしくない日本列島ですから。明日は我が身かも知れないです。
 教会は、「み座を賛美で満たすため」という、確固たるゴールを見据えておかなければならないのです。
 私たちの人生も同様です。歳を取ると生活も変わってきます。若い時にできたことができなくなります。人生の目的って何なんだろうと考えます。
 私も今年で六十八歳、ほとんどの同級生は引退しています。その多くがやることがない…と言っています。人は老いには逆らうことができません。
 でもどうでしょう。すべての被造物に主の名をほめたたえさせることが人生の中心だと分かったら、若くても、歳を取っても、死ぬ間際だって、生きる目的には変わりありません。目的を失うことはないのです。
 新城教会も、来年で七十周年ですが、目的を失ったら滅びますから注意が必要です。

 第二に、ジャック・ヘイフォードが指摘しているのは、バラムとイゼベルの教えについてです。この二人は旧約聖書に出てくる人物ですが、この教えに関連する「サタンの深いところ」とは、どちらも「人々を性的な不品行へと誘う影響」であると指摘しています。
 今の時代、性的な罪が溢れています。それがサタンの深いところの策略だというのです。教会の中にも性的罪や不品行が深く潜入しているというのです。そうすると人生の土台を壊されますから、教会も壊れていくわけです。
 どんなにマスコミが、「今は性が自由化されました!」とか、「同性婚は当然のことだ!」と言ったとしても、それらの情報に誘われてはいけません。聖く歩まなければいけないのです。特に性的聖さは、神の前に重要なポイントです。
 なぜなら、それはキリストと教会の一体をシンボルしているからです。一人の男性と一人の女性が聖く結婚する時、キリストと教会が一つになります。悪魔は霊的法則をよく知っています。どうしたら自分たちに対抗する、クリスチャンと教会を滅ぼすことができるのかを知っています。それが性的罪の誘いです。
 私たちが常に聖く歩んでいくことは、重要なポイントです。

 そして次に、「金銭的な成功が神の祝福に等しいとする誤信」というのです。黙示録三章十七節に、

『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』

と書かれていますが、物質的な祝福が、神の祝福そのものであると思い込ませることが、サタンの惑わしであると指摘しています。

 今回、ビジネスセミナーがありました。この世の中は、金を多く儲けたか否かで一喜一憂しています。多く金銭を得た人が成功者だと呼ばれます。しかしながら、経済の世界ほど、悪魔・悪霊どもが強く働いている領域は他にはありません。
 前にも一度お話しさせていただきましたが、世界の経済システムはマネーの流通によって成り立っています。私たちは毎日、金を使わなければ生活できません。そもそも金の流通ってどういうものなのか、世界規模で動いていますから、気づかないのですが、世界を小さくしてみると、金の流通システムがどのようなものか、分かってきます。
 前にも触れたのですが、例えば十人しかいない世界があったとします。しかしそこには銀行もあって、融資もしてくれるのです。それで銀行は一人につき、百万円ずつ貸し出したとします。しかし銀行で金を借りたら、必ず利息を取られます。「一年後、あなたは百十万円にして返してくださいね。」と言われ、借主は一生懸命働いて、百十万円を返そうとします。
 しかしそもそも、この国には、市場に一千万円しかないのです。もしも九人が百十万円返済したらどうでしょう?すでに九百九十万円が銀行に返済されたことになります。ゆえに市場に残っている金は、「たったの十万円」しかないことになります。
 ということは、誰かが倒れないと銀行への返済は成立しないことになります。金が儲かるということは、どこかで倒れている人がいる事を意味します。経済の世界は、誰かが儲かれば誰かが倒れる仕組みです。
 金が儲かった!これは祝福だ!と結構思いがちですが、経済の世界は、悪が牛耳っている世界だということを、よく理解しなければなりません。

 そもそも聖書の救いとは、どのようにシンボルされているのかというと、イザヤ書六十一章にあります。イザヤ書六十一章一節、二節に、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、』

 「良い知らせ」が「福音」と訳されるわけです。これは「主の恵みの年」を指しています。この点についても以前にお話しさせていただきました。
 「主の恵みの年」とは何か、それはヨベルの年です。先ほども、香港のクリスチャンたちが角笛を吹いていましたが、ヨベルの年を宣言するシンボルです。

 ヨベルの年とは、七年ごとの休耕安息年を七倍して、第五十年目に訪れる特別な年です。四十九年目と五〇年目は、二年の休耕がなされて、土地と被造物全体に休息を与えるものでした。そもそも救いとは、人だけではなく、土地も被造物も含むものです。
 手放された土地は、元の所有者に戻され、奴隷も解放されたのです。ヨベルの年の目的は、富の偏りをリセットして、公平な社会を造る事でした。誰も困っている人がいない、公平な社会を造るのが、神が意図するところでした。
 そもそも聖霊が注がれる直前のエルサレムには、ひどい経済格差が広がっていました。エルサレムは貧困層と富裕層とにくっきり分かれていて、神殿の祭司たちは富裕層と手を結び、神殿は、貧困層から有り金を搾り取る場所に化していました。そこにイエスさまは来られて、「宮聖め」をなされたわけです。
 その後、イエスさまは十字架につき、三日目によみがえり、聖霊さまが来られて教会が出現しました。その時、エルサレムに何が起こったのかというと、『信じた者の群れは心と思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分の物と言わず、すべてを共有していた。』というのです。
 エルサレムで、三千人、五千人となぜ、短い期間に救われたのかというと、これはただ単に、「奇跡が起こった!」、「病人が癒やされた!」「足なえが立ちあがった!」「聖霊の火が下った!」という理由はもちろんですが、それだけでは、そんなに大勢の人たちは救われません。
 聖霊を受けて、救われた人たちが、心と思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分の物と言わず、すべてを共有し、「その中に経済的に困っている人は誰もいなかった」からです。
 極度の格差が広がっている中に、突如、何の乏しさもなく、格差のない公平なコミュニティが生まれたとしたら、人はどちらを選びますか?必ず、格差のないコミュニティを選ぶに違いないです。それは何を現しているのかと言えば、「ヨベルの年の実現」です。
 私たちが経済と金の流れの領域に関して、正しい理解を持たなければなりません。今回私も、セミナーの一コマを担当させていただいで、このテーマでお話しさせていただきました。金が儲かったのは神の祝福だ!と思い込みやすいのですが、もちろん神の祝福の領域もありますが、それ自体が同義語であると考えてはいけないというのです。

 そして四番目に、「恵みと栄光を取り除く宗教的な組織」であると指摘しています。教会も知らない内に形式化して、組織化するものです。あくまでも聖霊によって導かれる群れでなかったらいけないのです。
 私たちにも聖霊が注がれて、二十数年を振り返ると、本当に主は組織によらず、聖霊によって導かれたな!と実感します。リバイバルミッションの働きも、新城教会の働きも、一九九二年に聖霊がそそがれ、人間の知恵とか能力ではなく、素人の集団でしたが今まで導かれました。
 しかし今後、新しい世代がこれらを維持するためには組織が必要だ!と「人間的に」組織化すると、教会は命を失うのです。

 この四つの指摘は、教会に関しても、個人に関しても重要なメッセージだと思われます。命溢れる人生を歩みたかったら、この四つを心を留めなければならないですね。

 最後にもう一つだけ学んで、終わりにしたいと思います。実は七つの教会の中で、ペルガモという町には「サタンの王座」があると語られています。
 このサタンの「王座」という言葉は、「み座」という言葉と同じ「スロノス」が使われています。神さまも「み座」を持っておられるけれど、悪魔も「王座」を持っているのです。
 悪魔は、自分の王座に人々の関心を集めます。そうすれば、神のみ座は賛美で満たされません。結局のところ、イエスさまもこの地上に帰ることができないでしょう。ゆえに悪魔・悪霊どもは、継続してこの地を支配するためにも、サタンは彼らの王座を町々に作っている!のです。
 サタンの王座が何であるのかを調べると、様々な事が分かって来ます。サタンの王座、特に、ペルガモにあったサタンの王座は、「ギリシャ神話の神々の神殿」でした。
 基本的にギリシャはアクロポリスと呼ばれる自然の丘に城壁を作り、神殿を始め様々な建物を建てました。

 必ず町にはギリシャ神話の神殿がありました。特にペルガモには、巨大なサタンの王座と呼ばれる場所がありました。それはゼウスというギリシャ神話の最高神を祭る「ゼウスの大祭壇」でした。
 イエスさまは、「あなたの町を知っていますよ!あなたの町にはサタンの王座がありますよ!」とペルガモ教会に警告されています。この異教の祭壇こそが、み座の賛美を阻害する、最も大きな要素であったわけです。
 この町は十九世紀に、ドイツによって発掘されて、他にもどんな神殿があったのか分かっています。「アテナ神殿」とか「ディオニュソス神殿」、「アスクレピオス神殿」、そして「トラヤヌス神殿」(これは皇帝で、人が拝まれていました)。このような環境が、ペルガモにはありました。それがすなわち「サタンの王座」であったのです。
 今日は時間がないので、十分に学ぶことはできませんが、日本も同じことが言えます。ギリシャ人が持っていた価値観が、現代人にも大きな影響を与えています。

 ゼウスは最高神で、アテナは知恵の女神でした。日本人の関心事は、もっと頭が良くなること、良い学校入学のためには神頼みです。ギリシャ人と同じです。
 ディオニュソスは、ぶどう酒を作る、「酒神」でした。
 日本の社会も、酒で成り立っています。しかし酒は本当にやばいです。実はパウロが、エペソ五章十八節で、

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 』

と語った背景に、ディオニュソス神殿が関わっていました。これは「バッカス」という読み方もあります。そこではぶどう酒に麻薬を混ぜて、人々を恍惚状態にさせて、性的な罪を犯させていました。
 今、全世界で麻薬が問題視されていますが、最も依存度の強い物質は何かと言えば、覚醒剤ではないのです。実はアルコールです。アルコールは、依存度トップ三に入ります。その背後には、悪霊が働いています。
 日本の酒作りもすべて、この酒神を祀って行われます。クリスチャンが酒を飲めば、そこに悪魔の深い策略があるのです。

 そしてもう一つ、ギリシャ系の町々の人たちの強い関心事が「健康」でした。日本人もそうです。当時の人たちは、医療や健康に異常なまでに、こだわっていたそうです。
 そして当時の医療センターとなっていたのが、アスクレピオスという医療神の神殿でした。アスクレピオスには娘たちがいて、拝まれていました。彼女らは「潔癖と食事への強い執着」がある娘たちとして、神話では描かれています。同時に「美と外見への強い執着」があったというのです。そんなの関係ない、と言うかもしれないけれど、日本人にも異様なまでの健康に対する恐れがあります。医療関係の方もおられますので恐縮ですが、ちょっとしたことですぐに「病院!病院!」というところも、考えなければいけないと思います。
 また日本人は他の国々の人たちと比べると潔癖症です。外国に行くと、ここはトイレなのか、キッチンなのか、どちらか分からないような場所はいくらでもあります。日本は清潔かもしれないけれど、霊的影響を受けているのかもしれません。
 また、美と外見への強いこだわりもあります。私は素顔で勝負をしていますが、歳を取ってくると、本当に悲しいところもあります。しかし外見も限度もんですよね。
 実は、アスクレピオスとはこのマークです。

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 見たことありませんか?救急車は全てアスクレピオスを付けて走っています。現代医療の根源に、ギリシャ神話が関わっています。
 健康に関して、必要以上に恐れることがないように、医療機関が適正に用いられるように祈りましょう。
 またあまりにも綺麗ずきがこうじたり、食が偏ったり、外見にこだわりすぎるのも問題ですから、それらも適正に導かれるように祈ることが必要ではないでしょうか。

 神のみ前に聖く歩むことは、み座に対する賛美が大きくなることです。
 悪魔の置いたこの世の価値観で歩むと、み座への賛美は弱くなります。しかし神のみことばに従って歩むことは、イコール、み座の賛美の増大に繋がります。み座を賛美で満たす、重要な働きを全うしたいです。
 イエスさまと一緒に、み座にまで進み出るのです。「勝利を得るものには、わたしと一緒にみ座に座らせてあげますよ!」と語られています。その祝福を共有させていただきたいと願います。

 み座を賛美で満たすために、歩みましょう!一言お祈りして、聖餐に預かりたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。私たちはみ座を賛美で満たすために、この地に存在しています。聖い歩みをし、み座を賛美で満たすことができますように。今からの聖餐式において、深いところに触れて聖めを与えてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。