「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜史上最大の祈りによる勝利〜」

  • 2019年7月7日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
ヨシュア記10章12節〜14節

『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日も共に礼拝が守れますことを、心から感謝します。「数えてみよ、主の恵み」と、聖歌隊のすばらしい賛美をお聴きましたが、今日はお手元に「リバイバル感謝報告書」をお渡ししています。二〇一八年四月から二〇一九年三月まで、主がこの教会にどのようなことをしてくださったのかをまとめて、報告させていただいています。
 私ちょっと用語を間違えましたが、来年は「宣教七十周年」です。「創立」となると去年が六十五年なので、二〇一八年度は六十六年になると思うのですが、何しろ、両親が津具村に入って宣教を開始して、来年は七十年目にあたります。
 七十年も経つのかと、ちょっと感慨深いのですが、ここまで主が守り、導いてくださったことを心から感謝します。
 私たちは神が与えてくださった祝福を忘れがちですが、「数えてみよ、主の恵み」と、一つ一つ数えたいと願っています。

 今日は、教会でごゆっくりお過ごし下さい。午後四時からはインターナショナル礼拝があります。毎週、外国から来てくださった方々が母国語で礼拝を守っています。
 また午後六時からは「ゴスペルサパー」が久しぶりにあります。是非ともお出かけいただきたいと思います。今日は結構、楽しいですよ。今までにない企画です。マルセまゆみさんという方は牧師です。私たちもよくお世話になっているのですが、元吉本系の芸人で、この教会は日本で唯一、芸人たちの集まりです。プロで活躍していた芸人たちが何人も集まって礼拝しています。
 私はいろいろな教会で礼拝を守らせていただいているのですが、日本でカルチャーショックを受けるすごい教会は、この教会です。何しろみんな芸人ですから、いろんなパフォーマンスが出てくるのです。本当に楽しいです。子どもからお年寄りまで、喜んでいただけると思います。
 今日はごゆっくり食事をしていただき、その後、様々なゴスペルパフォーマンスを楽しんで下さい。お友達をお連れいただき、六時から集って下さい。

 また今週は、新城教会七十年の歴史の中で、大きな記念の週となります。思い返せば一九九二年七月九日の朝六時、早天祈祷会で祈っているただ中に聖霊さまが激しく訪れてくださったからです。
 そして町に出て行って、町を覆っている暗闇の力に立ち向かって祈るよう、扉を開いてくださった週だからです。あの日のことを、昨日のように覚えています。

 新城市は因習が大変深い町です。教会を長いことやっても、なかなか人々は受け入れてくれません。なかなか難しいです。両親がここに来た当時は、東郷村と呼ばれていました。新城は新城町でした。やがて町村合併で市になったわけです。
 長いこと新城市の人口は三万数千人でした。しかしこの町に寺は幾つあるのかというと、「七十」あります。神社は大小様々、神道系のものは百二十程あります。よくぞ作ったな!と感心します。こういう中で教会をやっても、なかなかうまくいかないわけです。
 この町からガソリンスタンドがなくなったら、人々は「困ったなぁ・・・」と言うでしょう。しかし教会がなくなったら、たぶん「良かったな!」と喜ぶのではないかと思います。日本全国、同じような環境があります。これは文化だ、習慣だ、どうしようもないと私は思っていました。

 しかし一九九二年七月九日のことでした。みことばと共に、神が私たちに訪れて下さいました。私たちが勇気を失わずに、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を人々に宣べ伝えても、「それでもなお」福音に覆いがかかっているとしたら、どこに原因があるのかについて教えていただきました。
 第二コリント四章三節〜四節、

『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 「この町には覆いがある。」・・・覆いを取らない限り、いくら時間をかけたとしても、福音は伝わりません!と、主が預言的に語りかけて下さいました。あの朝は三十人くらいで祈っていたのですが、そこにいる全員に主が語られた瞬間でした。
 そして、その覆いとは「この世の神」すなわち、「サタンの覆い」があるというのです。だからいくら伝道しても、光が届かないというわけです。
 いつも話していますが、大きな毛布を持って来て会衆の上に広げたら、いくら電球を強いのに変えても、光は届かないです。第一にやらなければならないことは、まず覆いを取ることです。そうしたら、自動的に光は届くのです。町にある、サタンの覆いを取ったら、光が届くようになります!と主が語ってくださったわけです。
 人々の上にもサタンの覆いがあるのです。今まで、そんなこと考えても見なかったけれど、はっきりと教えてくださいました。

 そして、そのためにはどうしたらいいのかを語ってくださいました。それは、町に出て行って、覆いが取られるように、町の為に祈りなさい!と語ってくださいました。
 それから町の覆いが取られるように、福音の光が届くように祈り始めました。そして二十七年が経ちました。
 二十七年前、新城教会で悲しい出来事がありました。その頃教会に集っていた方々が、いなくなる時期もありました。礼拝に三〇〇人近く集まっていたのが、百五十人くらいになり、これから、やっていけるのかなぁと、本当に不安になりました。
 しかし、町の覆いを取って福音を宣言することを実行し続けたら、気がついたら教会が回復していました。
 今日もリバイバル感謝報告書に、現在、新城教会に登録してくださっている方々の人数が発表されています。現在、七百三十名おられます。本当に皆、喜んで教会に来られるようになりました。
 それは町の覆いを取る事から始まりました。一九九二年七月九日の朝六時、早天祈祷会で祈っている時、主がそのことを教えてくださったのです。
 なぜ、七月九日朝六時に、そのような事がなされたのか分からなかったのですが、後から理由が分かり、びっくりしました。
 実はこの日は、設楽原の戦いの開戦日でした。

0003.jpg

 一五七五年七月九日、朝六時から設楽原の戦いは始まりました。その結果、一万六千人の兵士たちが死んだわけです。私の両親がこの地に入って土地を買う時、やたらと土地が安かったのです。坪五百円でした。子どもの小遣いでも一坪くらい買える値段でした。なぜ安いのか、後で分かりました。この近所は血が流された土地で、人々は、あまり好まないのです。父は、「坪五百円じゃぁ、あまりにもかわいそうだから、坪千円で買ってやった」と生涯、自慢していました。なぜかと言ったら、血が流された土地だからです。

 聖書から見ますと、土地の上で罪が犯され、なおかつ、血が流れると、土地から人々は毛嫌いされ、反発をくらうというのです。「土地から」呪われるのです。まさに新城市はそんな町でした。
 でも、今はどうでしょうか。そのことが分かって、とりなし祈る中で、土地の祝福も祈るようになりました。土地は生き物ですから、ここにある命は神が与えた命です。土地の命は悪魔が与えたのではなく、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われたイエス・キリストが与えた命です。すべての被造物の中にある命に向かって、祝福を宣言し、「主を賛美しろ!」と宣言するなら、町全体が喜び叫び出すはずです。
 二十七年かかりましたが、様々な学ぶべき教科があった事に気づかされます。もちろん、これからも学びは続くだろうと思います。

 今日はそんな中、神が人の祈りを聞かれた中、「史上最大の祈りによる勝利」というテーマで、ご一緒に学んでいきたいと思います。
 神が天地宇宙を造られた後、人の祈りを聞かれた場面はいくらでもありました。しかし後にも先にも、こんなことは起こらない!という祈りの実現について聖書はレポートしています。そこから私たちは、「祈りの秘訣」を学ぶことができます。
 十章十四節を先ほど読んでいただきましたが、

『主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。』

と記されているのです。主の戦いのただ中で、先にも後にも一度もなかった、というのです。ということは、「史上最大の祈りによる勝利」となるわけです。
 今週は、設楽原の戦いの記念日であり、霊的戦いの開戦記念日です。聖書を読んでいる中で、ヨシュア記十章が私の心の中に響いてきました。二十八年目を迎えて、史上最大の祈りによる勝利を新城に、神の民に、与えようとされているんじゃないか、というインスピレーションを受け取りました。それで今日、みなさんにお分かちしています。
 ここにレポートされている内容を、しっかりと自分のものとして受け取る時、あなたにとっても、史上最大の勝利がやってくると信じ、期待します。

 しかしここに、「先にも後にも、この手の祈りには答えない、これは例外だ。もう再び起こらない!」と言われるかもしれません。しかし、心配しないでください。イエスさまの十字架と復活によって、イエスさまは次のように語られたからです。それが何かというと、マタイの福音書二十八章十八節〜二十節、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 旧約聖書時代には、後にも先にも、一回きりの勝利が、なんと、新約時代になって、日々の勝利へと変えられたのです。そしてこの勝利は、世の終わりまで続くというのです。
 ゆえに旧約聖書に述べられている勝利は、現代を生きる者たちにとっては、「日々の勝利」として受け取ることができるのです。

 では、どんな勝利を神は与えられたのかを、学んでみましょう。
 イスラエルの歴史は、霊的領域に関わり、人類全体にも関わります。
 ご存じのように、ヘブル民族は四百三十年もの間、エジプトで奴隷生活を強いられました。しかし、モーセによってエジプトから解放されて、荒野を四十年間巡るわけです。けれどもエジプトから連れ出された初代の人たちは、ほとんど荒野で死んでしまい、約束の地に入ることができたのは、新しい世代でした。
 しかしその指導者となったのは、モーセと共に働いたヨシュアという人物でした。その後、カナンの地を勝ち取っていくストーリーが、旧約聖書の歴史でもあるわけです。

 イスラエルの民は、荒野を四十年間旅しましたが、それは単なる流浪の民、難民のようではなくて、彼らは十二部族によって編成される、強い軍隊でした。イスラエルはカナンの地の入り口にあたる、エリコという街を不思議な方法で制圧し、その後、アイという街を制圧しました。しかし、主の声に従わずに戦い、問題が起きたのですが、勝利しました。彼らは次から次へと、カナンの町々を征服して行きました。
 カナンの地は、元々、ヘブル民族の祖先、アブラハムが住んでいた地であったのですが、ヘブル民族はエジプトで奴隷となり、自分たちが住んでいた地を四百年以上に渡って留守したわけです。
 どうでしょうか、皆さんの家を四百年以上に渡って留守にして、戻ったら、「ここは私の家です。」と主張しても、誰も認めてくれないと思います。カナンの地はまさにそんな状況でした。祖父たちの地は、すでにカナン人たちが支配していたのです。
 しかしカナンの地に戻って来て、彼らは、どんどんとカナン人達の街を打ち破っていったわけです。ですからカナン人たちは、イスラエルをたいへん恐れました。
 まず最初に、ギブオンという町の人たちは、このままだと自分たちも殺されてしまうと恐れ、うまくイスラエルに取り入って、イスラエルの奴隷のような存在として行動を共にするようになりました。
 それを見ていた近くの王たちは怒ったわけです。「ギブオン人たちはなんだ!本来は仲間じゃないか。しかしイスラエルと一緒になりやがって!」と、近くの五つの町の王たちが結託して、「ギブオン人の町を攻めよう!」と計画しました。
 それでギブオン人たちはびっくりして、同盟を結んだイスラエルに、「私たちを助けてくれ!」と頼みました。その結果、イスラエルは新たなる戦いに巻き込まれていくわけです。
 イスラエルも、五つの街の連合軍を恐れたのです。五つの街の王たちが束になってイスラエルを攻めたら、果たして大丈夫かと心配したようです。その時、ヨシュアが神の前に祈ると、主は次のように語られました。ヨシュア記十章七節〜八節。

『そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った。主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」』

 戦いが始まる前に、神がヨシュアに何と語られたのかというと、「彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」
 ヨシュアはこの言葉に励まされて、五つの街の王たちとの戦いを決断し、全軍を率いて出て行きました。

 これは今日に生きる私たちにも適応できます。時々、私たちは、様々な人生の問題に直面します。ある意味、五つの街の王たちが結託して攻めてくるような、複合的な問題に襲われることもあります。しかし主の民には主が共におられるのです。問題にぶつかり、対処する前に、主は私たちに語ってくださるはずです。「恐れる事はない!」と。戦う前から勝利は決まっているのです。
 今日、様々な戦いがあるかもしれませんが、主に仕える者たちには、戦いに先んじて勝利を与えてくださいます。

 ヨシュアはその言葉に大いに励まされて、戦場に出て行きました。ヨシュア記十章九節〜十一節、

『それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺し、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打った。彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。』

 この戦いにおいて、イスラエルはどのように五つの街の王たちに勝利したのかというと、剣で勝利したのではないのです。神が天から、雹を降らせたのです。
 私たちは、ネパールに行き、雹の恐ろしさに出会いました。大きな氷の塊が天から降って来るのです。すごいですよ。初め粒は小さくても、だんだん大きくなってきて、直撃したら死ぬなと思って隠れました。
 五つの町の軍隊の上に降った雹は、考えられないような大きな塊が降り注いだのです。その結果、イスラエルが剣で打ち殺した数よりも、雹で死んだ兵士たちのほうが多かったのです。
 しかし、イスラエルには一発も当たらなかったのです。これは、何が言えますか?被造物が戦いに参加したということです。
 主の戦いは、私たちだけが戦うのではないのです。甲子園ミッションの時、『主が声を出すと水のざわめきが天に起こる。』というみことばが与えられたように、被造物も共に、戦いに参加するのです。被造物の一つである雹が、五つの街の王たちとの戦いに参加して、イスラエルに勝利を与えたのです。

 最近、私たちは被造物全体の解放、賛美という領域が開かれています。それは、被造物を味方につける重要な働きです。
 雹とは詩篇百四十八篇の中で、主を賛美するように、命じられているリストの中の一つです。「雹よ!主を賛美しろ!」と命じられています。主の戦いには、雹も喜んで参加するのです。
 人生には様々な霊的戦いがありますが、私たちだけでは力不足かもしれないけれど、被造物全体もキリストのからだに繋がると、以前にもお話しさせていただきました。被造物も一緒にとりなし、戦いを勝利に導くのです。

 最近、被造物全体の賛美について語っていますが、これを実行して、様々な不思議な体験をした人たちのレポートが寄せられています。

 今年の二月に私は、群馬県で霊的戦いセミナーを開催させていただき、被造物全体が賛美することをお話しさせていただきました。
 一人の牧師さんがそのセミナーに来てくださいました。その先生の教会は、大家さんから土地と建物を借りて、教会をやっているというのです。
 屋敷内に、一本のびわの木があって、そのびわの木、一度も実をならしたことがないというのです。すると大家さんがやってきて、「このびわの木、一度も実をならしたことがないし邪魔でしょう。切り倒そうと思いますが、どうですか?」と、牧師に聞いたそうです。
 そうしたら、ちょうどセミナーの後だったので、その牧師は、「ちょっと待ってください。最近、おもしろいことを聞いたので、それを実行して、効果がなかったら切り倒してください。」と言ったそうです。
 それで、一度も実を実らせたことのないびわの木に対して、「主を賛美しろ!」と宣言したそうです。「実をならして、主を賛美しろ!」と毎日のように、命じたというのです。
 さて、みなさん、このびわの木は実を実らせたのでしょうか?実らせなかったでしょうか?実らせなかったら、なぜこんな話を、わざわざするのでしょうか。なんと!その写真を送ってくれたのですが、見てください。

0007.jpg

 本当に立派なびわが、たくさん収穫できたというのです。すごいですね。
 すべての被造物は、人に任されています。ですから、人の命令に従うのです。「賛美し、実を実らせよ!」と命じたら、立派な実を実らせました。これはびわの木が主を賛美をした証拠です。実を結んでいないびわの木とか、りんごの木とか、いろいろあったら、命じてみてください。効果は絶大です。

 先週私は、埼玉県の教会に行きました。なぜなら、献堂式があったからです。霊的戦い専門課程にもよく来てくださる鈴木悟先生が、新しい会堂を献堂しました。一階は教会経営のパン屋さんです。

0001.jpg

 ベツレヘムという名前のお店です。「ベツレヘム」という意味は、「パンの家」という意味です。このパン屋さん、すごく評判が良くて売れるのです。二階が牧師の住居で、三階が会堂です。本当にすばらしい会堂ができて、有賀先生も来られて、八十六歳ですがお元気でした。
 鈴木先生の娘が、あるミッションスクールに通っているそうです。四月に入学式があったそうですが、入学式の時に学校の桜が、きれいに咲いていたそうです。なぜなら、ミッションスクールの校長先生が桜に、「主を賛美しろ!」ではなくて、「入学式まで散るな!」と毎日、宣言したからだと話したそうです。
 そのミッションスクールの桜は、一ヶ月半散らなかったそうです。信じられますか?桜は、「すぐ咲くら〜」と言うのですが、「すぐ散るら〜」という感じで、本当にすぐに散るイメージです。しかし一ヶ月半、花が落ちなかったというのですから驚きです。いや〜、被造物は人の命令に従うんですね。

 また、この教会に来られているある方の家に、レモンの木があったというのです。「主を賛美しろ!」と命じていたのですが、どうもその家のレモンの木、へそ曲がりで、実をみのらせてくれなかったそうです。
 「主を賛美しろ!」と言っても、実を結ばないので、その家の奧さんが、「もう切り倒すわよ!」とレモンの木に言ったそうです。そうしたら今年は、いっぱい実を結んだというのです。いろんな手を使ってみるもんですね。
 いずれにしても、すべての被造物は、人に従属します。ということは、被造物を味方につけないといけないわけです。なぜなら、「人は被造物の管理人」ですから。被造物のうめきを聞き、主に叫んでいる被造物を味方につけると、今度は被造物が一緒になって、管理人を応援するようになるのです。

 イスラエル最大のピンチみたいな戦いの時に、助けてくれたのは、もちろん主が助けたわけですが、天から雹が降って、雹が敵の勢力のほとんどをやっつけたわけです。

 そしてもう一つ、この時ヨシュアはすごい祈りをしています。その祈りが、「史上最大の祈りの勝利の鍵」となっています。ヨシュアは何と祈っているのかというと、十章十二節、

『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」』

 ここに祈りの鍵というか、秘訣が出ています。この時、ヨシュアがどんな祈りをしたのかというと、「二つの方向性の祈り」をしています。『ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。』と記されているように、ここに祈りの二つの方向性を見いだすことができます。
 『ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。』
 「言った」という言葉は、ヘブル語では、「宣言した」とか「命じた」とも訳すことができます。ヨシュアは軍隊の隊長でしたから、部下たちに「言った」というよりも、「命じた」「宣言した」という強い言葉を使ったはずです。
 ヨシュアはどういう祈りをしたのか、「主に語る」ことと、「命じる」という、二つの方向性を持って祈ったのです。ここに祈りの鍵があります。
 祈りを神に聞いていただくためには、どうしたらいいのか。まず、「主に語る」ことです。まず主との交わりをしっかりと保ち、イエスの名によって、聖霊さまの助けにより、父なる神さまに祈るのです。主と語りあう祈りが必要です。

 しかし多くの場合、「主に語る」だけで止まってしまいます。けれども、ヨシュアが行ったように、主に語ったら、今度は、命じないといけないのです。この「命ずる!」宣言があった時、何が起こったのか。
 『「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」』という宣言は、信じられないくらい大胆な宣言です。太陽と月に「動くな!」と命じたのですから。
 そうしたら何が起こったのか、太陽と月が天で止まったのです。なんと一日、日が暮れないで、太陽が動かなかったというわけです。信じられますか。これは物理学的に言ったら、ありえないことです。
 地球が急停止して、自転も、公転も止めて、太陽と一日中向き合ったことになるからです。地球が自転、公転を中止して、急ブレーキをかけたらどうなりますか?慣性の法則で、すべて地球にあるものは、宇宙に放り出されます。地球の裏側は冷やされて、凍え死んでしまうかもしれません。

 この記述って、なかなか信じられません。だからなんとかこの箇所の、合理的な説明も考案されています。
 一つは「日が出てこなかった」というのを、「日食」と考えて、「この日に日食が起こった。」という説もあります。
 またもう一つは、「雹が降った」とあるから、雹が降る時は、雲がかかって太陽が隠れます。だから曇りの天候で、太陽がなかなか出て来なかったんだ。太陽が天空に止まったなんて、ありえない!という説です。
 しかし、太陽が止まったという表現は、すべてが宇宙に放り出されなかったならば、「時間が止まった」ことになります。「太陽よ!月よ!動くな!」と命じたら、時間が止まったということです。普通では、絶対にありえないです。
 だから、これをどう理解したらいいのか?皆さんは、どの説を信じますか?日食なのか、それとも雲がかかっていたのか、本当に、時間が止まったのか。信じるも信じないも、あなた次第!ということですが…。

 しかし、去年から主がこの教会に、「時間」という領域に対して、とりなし祈るように導かれています。聖書を見ますと、時間を超えた記述がなされています。
 聖書に記録されている時間の奇跡は、「時間が瞬間的に未来に進んだ」とか、「時間が止まった」とか、「時間が瞬間的に過去に戻った」こともレポートされています。
 そしてイエスさまの時間的感覚は、過去、現在、未来を、すべて「現在」として扱われたという、「全時的今」という言葉を紹介しましたが、そのような時間的感覚を持っておられたというのです。イエスさまは、時空を超えた方だったのです。
 先ほど、イエスさまがよみがえられた時に語られた、「わたしは天においても、地においても、一切の権威を持っている。」という言葉を紹介しました。
 天とは上空のことではなくて、今や、科学の世界でも、天は十一次元くらいまであると言われます。神は我々が存在する時空以上の高次元を、いくつも創造されたようです。
 ゆえに高次元をも支配しておられる神が働けば、私たちにとっての合理的な理解を越えて、超自然的な、時間を止める奇跡だって可能なはずだ!と信じたほうがよさそうです。

 去年、私は「時間が戻る」という話をしました。アハズの日時計が十度後に戻ったというストーリーです。その結果として、ヒゼキヤ王は癌で死にかけていたけれど、十五年寿命が戻った話をしました。
 去年のちょうど今頃です。その時、私たちの教会に、信じられない奇跡が起こったという話、覚えていますか?その時に、腕時計の文字盤ガラスが割れていた男性が礼拝に出席していました。その時計は、十年以上使われていて、そろそろ新しいのが欲しいなと思っていた頃、ちょうど都合よくガラスが割れたというのです。トラックの荷台にぶつけて割れたそうです。割れて良かった!みたいなところもあって、奧さんに、「新しいの買って。」と言ったら、奧さんが、「今、お金がないから駄目。」と言われて、ちょっとショックだったそうです。しかし、彼は何も期待していなかったのですが、礼拝から帰ろうと駐車場に行って、三つに割れていた時計を見たら、綺麗にガラスが直っていたと言うのです。
 これも、「信じるも信じないもあなた次第!」と話しましたが、先週、この方と出会って、「あの時計、どうしました?」と聞くと、「これは家宝です。」と、その時計を使っておられました。割れていない状態にまで、主は戻して下さったのです。昨年、「時間をも支配しておられる神」について教えられました。

 何回かお話ししましたが、アインシュタインが、「時間と空間は不変ではない」という事実を、相対性理論から導き出したのです。空間は曲がるのです。重力とは、地球の重さで空間が曲がっているから発生し、その隙間に物は落ち込んでいくのです。
 時間も空間も、神が創造された被造物です。私たちが住んでいる空間も時間も、神が造られた被造物です。
 人は時刻は分かっても、時間とは、一体、どういうものか分かっていないのです。時刻は知っても、時間という物質については、分からないのです。
 時間は時刻ではなく、「神の被造物」です。ということは、時間も空間も、神の被造物なら、神はその領域にタッチできるのです。
 また、我々が被造物の管理人ならば、時間と空間に関しても、管理し、命じる権限があるはずです。ヨシュアに当時、どこまでの知識があったのか分かりませんが、太陽に向かって、「止まれ!」月に向かって、「止まれ!」と命じたのです。すると止まったのです。
 これが神から人への「最大の祈りの答え」だったというわけです。後にも、先にも、神は、こんな祈りに答えられたことはない、というのです。
 時間も空間も、神の被造物なら、私たちもヨシュアと同じように、太陽に向かって、止まれ!月に向かって、止まれ!という、こんな大胆な宣言までできるはずです。

 時間とは、運動や重力によって相対的に変化する存在です。東京スカイツリーの頂上では、四十五万年で一秒ほど、時間が早く進むそうです。歳を取ったら、あんまり高い所に上らないほうがいいことになるわけですが、相対性理論はカーナビの時間補正でも使われています。
 カーナビは人工衛星からの電波を受信して位置を特定しています。人工衛星ってすごく高い宇宙を飛んでいるので、地上と人工衛星間では、時間の進み方が違い、人工衛星のほうが時間が早く進みます。だからその時間差を、相対性理論を使って補正して、位置が正しく表示されるらしいです。ということは、時間とは不変のものではないのです。今日も時間の補正をしながら、教会に来られたかもしれません。
 このように科学の世界でも、だんだんと時間の領域に関して、誰かが造った被造物であると分かっている時代ですから、ヨシュアが太陽に、また月に命じて止まったという事柄も、昔以上に、信じやすくなっているのではないでしょうか。本来は、そんな科学の情報がなくても、聖書のことばをそのまま信じればいいわけです。しかしそれが不得意なのが現代人です。だから、神が信仰補助のために、私たちに様々な情報を与えて下さっていると思います。

 ともかく、ヨシュアは時間が止まるように命じたわけです。その間に何が起こったのかと言うと、「主が戦われた」のです。そして気がついた時には、大きな勝利を勝ち取っていたわけです。
 今、様々な問題の中におられたら、今日は、悪い時間が止まるように宣言することだってできるはずです。
 時々、病気の方々のためにお祈りさせていただくのですが、病気は進行していきます。祈りが先なのか、病の進行が早いのか、競争になる事があります。そういう時、私たちが病に対して、「悪い時間よ!止まれ!」と、「病の進行の時間よ!止まれ!」と命じることだって可能じゃないですか。
 割れたガラスが直ったくらいですから、時間もバックさせて、そこで止めて、主の名があがめられる奇跡につながったら、最高じゃないでしょうか。

 私が小さい頃、ちょうど家々にテレビが入った時代でした。テレビが自分の家に来た日のことって忘れられないです。もうわくわくしました。この近所で最初にテレビを入れたのは、すぐ近くの菅谷床屋さんでした。菅谷さんのご主人とおばあちゃん、この教会に来て、おばあちゃんは、今でも生きておられます。そこが最初にテレビを入れたものだから、クリスチャンホームの子どもたちは、当時、人数が多くて、相撲の放映になるといつも、十両から見に行っていました。だから床屋さんには大迷惑をかけました。何時間もテレビの前に、クリスチャンホームの子どもたちが居座っていました。「これじゃいかん!」ということで、家にテレビが入った日は嬉しかったですね。
 あの頃、テレビを設置する電気屋さんも、時代の最先端の仕事をしているという自負と誇りを持って仕事をされていました。
 学校から帰って来たら、電気屋さんの軽四輪トラックが家の前に停まっていて、電気屋のおじさんたちが屋根に上って、「もう少し、右!もう少し左!ちょっと行きすぎ!」とか言って、モニターを見ながら、なんか砂の嵐みたいな画面を調整して、テレビが設置された日、忘れることができません。
 当時のドラマ、「鉄人二十八号」とか、「月光仮面」とか、いつも見ていました。ところで、「不思議な少年」というドラマを、「私は見たことがある。」という人、スイッチオン!おられますね!
 「不思議な少年」、「時間よ!止まれ!」です。知っていますか?これは手塚治虫の漫画です。少年が時間を止めるのです。「時間よ!止まれ!」。
 例えば、子どもが崖に、落ちる!!という場面で、時間が止まるわけです。その時に少年が行って助け出す。犯罪でまさしく人が殺されそうな時、その少年が時間を止めてナイフを奪うとか、何しろ事件が起きる寸前に不思議な少年は、時間を止めて、事件にならないように助けるわけです。
 あの番組、私はあまり見た記憶がありませんが、家内は毎週、見ていたそうです。昔は特撮ができなかったから、「時間よ!止まれ!」と言うと、俳優さんは、みんな動きを止めたそうです。ぴくっと動く俳優を見つけるのが楽しい!ということが、どこかに書かれていましたが、いずれにしても、時間が止まったらどうですか?事件が起きる寸前に時間が止まって、回避されたら、そんな素晴らしいことはありません。

 聖書には、時間が止まった奇跡が記してあって、それが史上最大の祈りの答えだと言っているわけです。
 私たちが、これを使わない手はないのではないでしょうか。過去に時間を戻すことも聖書から学びましたが、「太陽よ、月よ、動くな!」と、ヨシュアは大胆に宣言し、その間に神が働いてくださり、イスラエルを勝利に導いてくださったのです。

 なぜ神が、日と月を止めたのかには、理由があるのです。太陽と月が止められたのは、「エモリ人が頼りにしていた、太陽神と月神の敗北を意味する」というのです。
 当時、五つの街の王たちの民族は、「太陽神と月神」を自分たちの神としていました。その動きが止められたのは、彼らの神々の敗北を意味したわけです。
 神は、私たちにどのように勝利を与えてくださるのかと、それは様々な問題の背後の、暗闇の力を打ち破る「霊的戦い」と共に勝利を与えてくださるのです。
 一九九二年にこの地域で霊的戦いが始まりました。それは、設楽原の戦いと共に入り込んできた、死の霊との戦いでした。あの時、私たちはあまり意味も分からずに戦い始めましたが、今日は時間を戻して、太陽と月に対して、「止まれ!」と宣言して、二十七年という年月の中で、主、自ら戦ってくださり、気がついた時には勝利が与えられていたら、嬉しいです。

 イエスさまは「天においても地においても、一切の権威が与えられている」と言われました。そして私たちはイエスさまと共に、一切の権威の中で生きることが許されています。旧約時代では、後にも先にも、人に対してこんな祈りを聞いたのは初めで最後だ!と言われましたが、それが「日常として」実現する時代に生かされているのです。
 主の戦いに、なんと「雹」という被造物も参加しました。太陽も月も主が造られた被造物ですが、戦いに加わって、イスラエルに勝利を与えたのです。
 主の戦いは、人だけが参加するものではありません。主から命令を受けた、被造物も共に参加し、やがて大勝利が現されるということではないでしょうか。

 今日、問題で苦しんでおられたら、是非とも、時間を止める祈り、大胆にヨシュアのように命じてください。「すべての病よ!聞け!時間よ、止まれ!悪しき時間よ、止まってしまえ!病は進行することはできない!」と。
 その中で主が働いてくださるように、「主に語り、宣言する」祈りを実践していきたいと願います。
 この地で霊的戦いが始まって二十七年が経過しましたが、ヨシュア記十章のみことばを、主は与えてくださっている気がします。「史上最大の祈りの勝利を、あなた方に見せてあげます!」と。「ヨシュアが行ったように、同じように、命じてみてください。」と主は言われます。
 私たちも、はばからずに、時間に対して、被造物ですから、「主に聞き、宣言し」、勝利を見させて頂きたいです。

 今から聖餐式を持ちますが、聖餐式の中で、ご一緒に祈りたいと思います。様々な現在進行中の問題があったら、時間を止める祈りをしたいです。悪しき時間が止まった中で、「神が働かれる」ように、主が、戦いを進められるように、祈ろうじゃありませんか。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あなたはヨシュアの祈りに答えて、史上最大の祈りの勝利を与えてくださいました。その秘訣を私たちは今日学びました。私たちは、時間も空間もあなたの被造物であることを知っています。
 私たちは管理人として、時間にも空間にも、勝利を宣言できることを感謝します。イエスさま、あなたの十字架の血潮によって、旧約時代にはただ一回しか起こらなかったような奇跡が、今は日常として起こる時代に生かされていることを、心から感謝します。
 今、日と月に命じます。動きを止めろ!日本を支配している太陽神や、様々な悪霊どもが天から落ちますように!悪しき時間が止められて、勝利を勝ち取る週とさせてください。
 今、進行中の問題に命じます!悪しき時間よ。止まってしまえ!その中で被造物全体が共に戦い、勝利を与えてくださいますように。
 その勝利のしるしとして、聖餐を受け取ります。聖餐式の中で働いてください。イエスさまのみ名を通して、み座に賛美をさらに大きくささげ、聖餐式を受け取ります。アーメン。