「壁の向こう側を見る」

  • 2019年7月21日(日)

新城教会牧師 四元雅也
ヘブル人への手紙十一章一節(新改訳2017)

『さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんの前でメッセージを語らせていただく、恵みの時が与えられまして心から感謝いたします。

 先週は感謝なことに、二人の兄弟がバプテスマを受けました。お一人はG兄弟のお父さん、そしてもうお一方はH姉妹のお父さん。ご高齢で入院していらっしゃるのですが、順先生がそちらに向かわれ病床で滴礼を授けました。お二人とも心からイエスさまを受け入れられて、クリスチャンとなられて、本当に心から感謝いたします。

 そして先週はもう一つ、皆さんにも祈っていただいて、レッツプレイズという伝道集会が中高生主催で行われました。

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 オーバーカマーズが賛美しました。ここでは遣徒くんが伝統楽器、ドゥドゥクというそうで、サックスのようなクラリネットのような楽器ですが、おもしろい音がする楽器を使って賛美をしてくれました。八十名くらい集まり、三十四名ノンクリスチャンの方が集って、楽しい素晴らしい集会になることができて、皆さんのお祈りを感謝いたします。

 先ほど岡本先生も仰っていましたが、参議院選挙が行われています。今日、投開票ですが、皆さん、投票に行かれたでしょうか?行ける方は是非、行っていただきたいと思います。
 日本でもどこでもそうなのですが、投票率を見ると、若者の投票率が大変低いようです。だいたい五十代以上は六割から七割くらいの人が投票に行くそうです。十代から三十代においては三割から多くても四割ということです。
 個人的な話ですが、我が家に高校三年生の息子がいるのですが、明日が誕生日で今日まで十七歳なのですが、投票用紙が送られて来ました。翌日誕生日の人は投票権があるようです。でも本人に聞いたら、「絶対に行かん。」と言っていました。「家族で行こうよ」と説得しているのですが・・。こんなグラフがあります。

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 「社会をよりよくするため、私は社会に対する問題に関与したい」に対して、「そう思う」という人は八・一パーセント。個人の力が社会に影響を与えうると考えを持っている日本人はどうも世界的に見て少ないようです。外国のほうが、自分が何かをすることで社会に何か貢献できるという思いを持ってらっしゃる方の割合が大きいということです。

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 「あなたは自国の政治にどれだけ関心がありますか?」に対して、「非常に関心がある」「どちらかといえば関心がある」、これも日本人は「非常に関心がある」と答えた人が少ない。「どちらかといえばある」というところまで入れるとスウェーデンなんかよりは高いのですが、スウェーデンはそれだけ自分の国に対して満足していると言うことができるかもしれません。日本人は国政に対しても関心が低いのではないかと思います。

 最近、ネットの中で一つの動画が話題を呼んでいます。今からその動画を流してみたいと思います。アメリカで作られた動画なのですが、タイトルが「若者よ。投票に行くな。」という動画です。この動画はアメリカで撮られているのですが、ご年配の方たちが何人も出て来て、「若者たちよ。投票に行くな。」と訴える動画なのです。「俺たちの時代は俺たちがうまくやっていた。俺たちは投票に行くけど、若者よ、投票に行くなよ。絶対に行くなよ。」と念を押すのです。そして「おまえらはきっと投票になんか行かない。」と、行って欲しくないことを皮肉たっぷりに上から目線で言っています。



動画を作ったのはどうも反トランプ勢力みたいで、大統領選挙が来年あるのですが、トランプに対抗しうる候補がなかなか出てこないので、焦った陣営が、なんとか若者たちを取り込んで投票させよう、といったことで作られた動画みたいです。どうやらアメリカでも若者は投票に行かないみたいですね。
 教会の中で、「すべてのものに福音を」と語られています。すべてのものに神さまのみ国が訪れることを宣言していくことは大事ですが、それは人が立てた権力とか仕組みとか制度なども、もちろん含まれるわけです。
 私たちは「あんなものは悪だ!」と一掃してしまったら、そこに福音の力が及ぶことはないのですが、この国を愛し、思う者として、第一はやっぱり祈りでありますが、その次は選挙に行くことがあるのではないかと思います。クリスチャンは選挙に行くことを、主にあって大切な行為と位置付けていただきたいと思います。

 話は変わるのですが、みなさんの中で、今日私がメッセージで立っていることにハラハラされている方もいらっしゃるかもしれないです。なぜかというと、ご存じでない方はびっくりされると思うのですが、ご存じの方が多いかと思うので申し上げます。先週、水曜主日礼拝で、私が司会をしておりまして、そのただ中で、講壇の上で私は意識を失って倒れてしまいました。それで一時大きな騒動になったわけです。びっくりされた方が多かったのではないかと思います。
 インターネット配信もされていましたので、インターネットを見ておられた方にはパソコンの前で「あっ!」叫び声をあげた方もいらっしゃったみたいです。
その日水曜礼拝のメッセージが開先生でしたので、私が講壇に立ったまま、「それでは滝元開先生をおむかえ…」といいながら声がもつれていって、マイクをマイクスタンドに置いたところでフリーズしてそのまま動かなくなったようです。
 開先生方が駆け寄って来て、私を抱きかかえたところで倒れてしまったということでした。
 続いてT兄、N兄が走って来てくれて、あと久しぶりに関東方面から帰省していたI兄ら男性たちが私を介抱してくださいました。
 幸いにして、すぐに目が覚めまして、それからは自分で起き上がって、抱えられながら退室してその後水曜礼拝は無事に最後まで行われました。
 集会に参加しておられた方々も私のため祈ってくださっていたと思います。
意識が戻ってから血圧を測ってみたり、血糖測定器もあったので、それで測定してみたり、熱を計ったりして、部屋に行って、少し横になっておりました。
 すると山口さんが来られたり、享子さんが来られたり、順先生が来られたりして、「大丈夫か?」と声をかけてくださり、お祈りしてくださいました。「とにかく午後は休め」と言われたので、お言葉に甘えて、午後はゆっくり、自宅でできるデスクワークをしながらお休みをさせていただきました。
 夜になると今度は、S先生が来てくれて、診断してくださったのですが、先生の診断は「迷走神経反射」というものでした。あまり聞き慣れないかもしれないですが、要は、皆さん学生時代に全校朝礼で体育館とか校庭に出ているときに、校長先生が長い話なんかすると、一人や二人ぱたんっと倒れる人がいたのではないかと思いますが、それです。
 私は礼拝の中でソングリードをしながら、次第に「お腹痛い」と思い始めました。汚い話で恐縮ですが便意を我慢しながらやっていまして、お祈りの時間が終わって、聖書朗読があって、よしっ!これで開先生と入れ替わって終わりだ!トイレに行こう!と、安心した瞬間に血圧が下がって失神してしまったということであります。
 結局大したことはなく、会場を出た私はトイレに駆け込んで、回復したのです。それから今日までの間、いろいろ考えさせられて一つ思わされたのは、やっぱり、教会の皆さんに愛されている、大切に思われているということです。

 倒れた日以来、こそばゆいくらい、皆さんに大切にしていただいています。朝礼で倒れたくらいのことなのに申し訳ない・・と思います。
今日は礼拝の賛美を滝川充彦兄弟にしていただきましたが、倒れた翌日に開先生が、「雅也先生、今度の日曜日は充彦さんに賛美リードしてもらいなさい。」と言ってもらって、「大丈夫なんですけど…」と思いましたが、これは「雅也に賛美リードとメッセージを任せて途中で倒れられたら困る」ということではなく、昨年から毎週木曜賛美集会が行われるようになって、開先生が不在の時には、私と充彦兄と陽介兄が交代で賛美リードをさせていただいています。もう一年近くなると思いますが、私がメッセージをする時は、他の方に賛美リードをしていただいてもいいのではないかと、そういう時期がきたということで今回から代わりました。私の一件がその引き金を引いたのは間違いないのですが・・。その他「先生!〇〇の奉仕代わります!」とか、いろいろと言ってくださる方がいらっしゃって、申し訳ないような気持ちですが感謝です。

 先ほどお話した、先週お父さんがバプテスマを受けられたというGくんですが、新城教会の中で数少ない私の同学年の兄弟でして気の置けない間柄です。何でも言える関係です。
 金曜日のレッツプレイズに彼も来ていて、私の顔を見るなり、「雅也先生。毎日祈っとるよ。みんなの前で醜態をさらしたとか・・大丈夫か!?」と言われてしまいました。
 彼は土建業の社長さんで、新城教会もときどき仕事をお願いしてお世話になることがあります。彼の会社で十五年くらい前に教会の中庭を設計施工して下さったのですが、今年は春になってもなかなか中庭の芝生の元気がないので、彼が自ら芝生再生のための土地改良と肥料やりをやってくれました。それで随分芝生が元気になっています。
 でも、肥料をやると芝生にもご馳走なのですが、雑草にもご馳走で、放っておくと雑草もいっぱい生えてくるわけです。それで彼はそれ以来、毎週のように日曜の午後から中庭の手入れをしてくださいます。

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 芝刈りをしています。彼は仕事柄、屋外で仕事をすることが多い、この暑い中、肉体労働をいつもされているわけなのですが、日曜日もこうやって礼拝の後で奉仕をしてくださっていて、本当に感謝しています。
 このようにして、私を含む教会の働きというのは、皆さんの祈りと賜物に支えられながら保たれているのだろうなぁと、今回もつくづく感じた次第であります。

 また話が変わりますが、皆さん、最近「AI」という言葉をよく耳にされると思います。
このAIが人間以上の知性を身につけようとしていると言われます。僕も以前に話しましたが、囲碁で世界チャンピオンを負かしたとか、将棋やクイズでもそうだということです。また、会話できる人間型ロボットもでてきました。

 ところで脳とコンピュータは何が違うか?というと、話は少し遡るのですが、第二次世界大戦当時、ドイツ軍が用いていた暗号器、「エニグマ」というのがありました。このエニグマ、暗号を解くための鍵が十の二十乗の組み合わせで、暗号解読キーの組み合わせが十の二十乗通り分もあるということです。日本の数字の単位で言うと億・兆・京の上の「亥」の単位です。
 これをイギリス人天才数学者アラン・チューリングが、自分で作った自動計算機、その名も「チューリングマシン」というのですが、このマシンで解読をして、連合軍が勝利するための大きな力となったと知られています。

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 左がエニグマです。タイプライターみたいな物です。それとチューリングマシンです。
 十の二十乗通りの組み合わせの一つが鍵で、これが毎日更新され変えられていきます。それを解くことは不可能だと言われていました。高度な知性が必要ですが、チューリングマシンで成し遂げられ、ドイツ軍の通信が解読されて、結果的に戦争終結を早め、何百万人の命が犠牲になるのを防いだと評価されています。

 その時代から七十年あまり経ち、現在までにコンピュータの性能はめざましく発達したわけです。一方現代のコンピュータはすべてチューリングマシンの域を抜け出していないと言われています。
 人間の脳はコンピュータとは全く違います。例えば、コンピュータにはプログラムがありますが、人間の脳にはプログラムは存在しません。演算装置も、ウィンドウズのようなOSもありません。単体で統合的に働く万能型だというわけです。どんなに精巧で高性能なスーパーコンピュータであっても、現代最先端のAIでも同じだというのです。どう同じかというと、「命令を入力し、演算器で計算し、結果を出力」する。この三つの動作しかないというのです。
 Pepperみたいな人と会話ができるようなAI、SiriやGoogle、Alexaなど、いろいろありますが、それも人の投げかけに対して、あらかじめ蓄えてあるデータベースの中から良さそうなものを引き出して応答するだけなのです。なので、ときどきへんてこな答えがでてきたりするわけです。どこかちぐはぐ。
 それに対して、脳はみずから学習するマシンです。脳はみずからを配線しなおし、働きを最適化するために、日々自分をアップデ-トすることができる。脳はチューリングマシンではないのです。つまり、考えて、行動パターンを後から変更することができるのです。学習によって、自分自身で環境に対して適応することができるのです。

でもAIが人間の知性を超える時が近づいているというのです。

 二〇四五年問題というのがあります。二〇四五年に「シンギュラリティー」が起こると言われています。聞いたことありますか?「技術的特異点」と日本語に訳すと言うそうですが、この現象は、AIが地球上の全人類の知性を超えるということです。

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 人間の全ての知性をAIが超える。グラフを見るとAIの紫色のカーブは指数関数的な進歩を現します。直線的ではなくて、ぎゅーんっと上昇カーブが上がって最後にはほぼ垂直になっていく。その分岐点が二〇四五年で、それ以降、この社会には人間でも予測できないような爆発的なスピードで変化が訪れていくのではないかと言われています。
 食糧が全て無料になるとか、私たちの生活もすべてタダという、そんな時代が来るとか、どんなふうになるかは誰も予測できないのです。
 二十六年後ですから、そんなに遠い未来ではありません。私も生きていたら八十七歳になるわけですが、世界に何が起きるのか誰も予想できる人はいないというわけです。
 それまでの期間、コンピュータの世界で最も注目されているのが何かというと、コンピュータがチューリングマシンを脱することができるか、簡単に言うと、コンピュータが「意識・心」を持つことが可能かどうか?だそうです。プログラム通りに動く機械ではなく、コンピュータが「意識を宿す」時代が本当に来るかどうかが、科学者たちの間で議論されています。

 意識がないと私たちは世界を見ることはできません。動物たちは目の前にあるものだけです。カエルだったらハエが飛んでいても「ハエ」と認識しているのではなく飛び回るものは食べ物という反射的な反応をするだけです。「ブーン」と飛んでいる物は全部食べ物だと思って、ぴゅっと舌を伸ばし捕まえようとするわけです。だから時々、毒のあるものを捕まえて、自分で死んでしまうようなカエルもいます・・。
 今だけを生きるのが動物です。でも人間には意識、心があって、目の前にあるものだけじゃなくて、違うものを見ているのが人間だというわけです。

 意識とは何か?最近、この礼拝でも動画が紹介されているアメリカの、ミチオ・カク博士が「意識」について、こう定義しています。「周囲の環境を評価する方法の集合体」と。
 その中で、人間が最も大きく動物と違うのは、「時間を認識する能力」だというのです。人間は時間が分かるというわけです。動物は時間がない。今しか生きられない。
 アメリカでこんな実験があったそうです。小さな子どもたちに、一人ずつ部屋に入ってもらって、そして学者がマシュマロを一個渡して、「このマシュマロはいつ食べてもいいよ。だけど、今から私は用があって外に行くんだけど、十五分後に戻ってくるから、戻ってきた時に食べずに我慢できていたら、もう一個あげる。」と言ったわけです。実験だということは何も言わずに実験をしたそうです。
 隠しカメラを仕掛けておくと、子どもたちの行動がおもしろいようです。マシュマロを見ないように椅子を後ろに向けたり、マシュマロを口元まで持って来て臭いを嗅ぐ子とか、いろいろいたそうです。
 そして学者が戻って来たときに、食べたり食べなかったり、という結果が出たそうですが、それから数十年後、その子どもたちがどんな人生を送っているかを再調査した。その結果、我慢できた子たちの中に社会的に成功している子どもたちが多かったという統計が出たそうです。
 このように考えると、意識とは「満足を先延ばしにできる能力」、と言うことができるかもしれません。今食べてもある程度の満足ができる、でもそれを今我慢したらその先に自分にとってもっと満足のあることが待っている。そのことを知って行うことができる。それが意識、時間という概念を身に着けている人であるということであります。将来を見据える能力、これが人間特有だというわけです。

 信仰もそうだと思います。信仰というの、目に見えるものではありませんが、意識がなければ、信仰も持つことができないと思います。
 信仰とは、神さまから与えられた「みことば」というレンズを通して将来を見透かす、壁の向こう側を見通す、そういったものかもしれません。最初に、ヘブル人への手紙十一章一節、

『さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と申し上げましたが、「壁の向こう側を見る」ということはどういうことかというと、これも少し話が変わるのですが、最近NHKの番組で、「世界の哲学者に人生相談」という番組があります。世界の有名な哲学者に、私たちの日常にありがちな諸問題について聞いてみるという番組です。
 先日その番組で『人生の壁と行き詰まりに向き合うヒント』というテーマで放送されていました。壁に向き合う、「乗り越える」ではないということですね。ここでフィーチャーされていた哲学者は「ヘーゲル」という人なんですが、ヘーゲルは壁に向き合うことにおいて、三つの段階があるというのです。
 第一に「意識」、二番目に「自己意識」、三番目に「理性」です。
 第一段階の「意識」とは何かと言いますと、人間の目の前に大きな壁があって、壁しか目に入らない状態だというのです。壁以外は目に入らない、壁を意識した状態。
 「自己意識」というのは、もう少し目線を引いて、壁とその前にいる自分が見える状態。壁だけでなく、そこにいる自分も見える。その段階で壁というものがどのくらいの厚さで、どのくらいの大きさかということも理解できるようになります。
 そして第三段階に「理性」が出てきます。理性の段階になると、もっと周囲が見えるようになる。壁と自分だけじゃなくて、周りに自分を支える人がいたり、壁の向こうがどんなふうになっているのかとか見えるようになってくるというのです。
 段階ごとに視野が広がっていくように、壁に対して客観的な見方がなされていくわけですね。最終段階では、壁の周りの状況が見えてくると、壁の厚さや高さが分かる。周りにいる人々が分かる。壁の向こう側の状況も見えてくるということで、壁に対して脅威に感じる気持ちが徐々に克服されていくのです。

 もう少し分かりやすくお話しすると、自分がこれまで持っていた正しさに対して、対立するものが出てきた時に、それを突っぱねてしまうのではなく、受け入れることを通して、より高いレベルでの正しさが生まれるということです。
 それが繰り返されることを通して人間は成長し、社会は発展していくのだというのです。

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 例えば、自動車は大変便利なものであります。ですが皆が自走車に乗るようになると、環境汚染が発生して、暮らしにくい社会になってしまう。暮らしにくい社会になるのは嫌だけど自動車には乗りたい。と互いに対立・矛盾します。じゃぁどうするんだ?と考えた時に、どっちかを突っぱねて駄目だ!と言うのではなくて、どちらもカバーできるような他の良い方法がないか?と考え続けて、その結果ハイブリッドカーや電気自動車というような、いわゆるエコカーが誕生したわけですよね。
 自動車が誕生し、自動車社会が世界的に拡大し、対立する環境問題が社会問題として出てきて、エコカーが生まれるまでに何十年間もの長い時間試行錯誤が続けられてきて、現代、相反する両者が同時に納得できるひとつの答えが、この「エコカー」というものにあるのです。

 「アウフヘーベン」という言葉、ご存じでしょうか?聞き慣れない言葉がいっぱい出てきて申し訳ないですが、東京都知事が使って二〇一七年の流行語になりました。「アウフヘーベン」という言葉はヘーゲルが作ったそうです。
 アウフヘーベンの意味は、止揚(しよう)・揚棄(ようき)、持ち帰る、拾い上げる。物事に問題や疑問が出てきたときに、その中の2つの対立・矛盾する概念を、より高みで統合、発展させること。どちらの対立する意見も生かして、新たな道を模索する事。
 相反する物事がでてきた時に、私たちはなんとかそれを逃れたい!この壁がなくなればいいのに!これがなくなったら幸せなのに!と思うわけです。でも考え方を変えて、その壁と自分が向き合うことを通して、より高い回答が得られることがあるということなのです。アウフヘーベン。

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 このように、十年、二十年、一世紀、二世紀と長い年月をかけて、この社会の発展が見られるんだというわけです。私たちの心の中でも、人生の中でも、一生の中でもそういうことが起こりえるわけです。

 山崎ランサム和彦先生が、「鏡を通して」というエッセイを書いているのですが、以前書かれたものの中に、『進化(深化)する信仰』という挑戦的なタイトルのエッセイがあります。「進化:evolution」です。信仰が進化するの?と興味をそそられます。進化の隣には「深化」と書いてありました。
 その中でも同じようなことが書かれていましたので紹介したいと思います。

“すでに自分が正解を知っていると確信している人は、それ以上学ぶことがありません。けれども、疑問を持つ人、問いを発することを恐れない人は、変化と成長の可能性に対してつねにオープンです。そのような人だけが、自らの信仰を深めていくことができるのだと思います。”

 「自分が正解だ!」そういうふうに思い込んでいる人は、それ以上前進することはない。でも、自分の信仰というものに対しても常に疑問を持ち、問いを発することを恐れない、そういう人は変化と成長の可能性に対して、つねにオープンだというわけです。変化と成長というのは、時としてストレスを覚えるような、壁にぶち当たるようなことがあったりするわけですが、そのような人こそ、自分の信仰をより深めていくことができると、山崎ランサム先生はおっしゃっています。
 第一コリント十三章十二節、

『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』

 また、ピリピ人への手紙三章十二節、

『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。』

 私たちは、長年に渡ってリバイバルを求めて祈り、走り続けております。でも、リバイバルのために新城教会が走り始めた当初は、リバイバルに対する視野は狭かったのではないかと思います。
 でも、さまざまな壁にぶち当たりながら今日まで歩んで来た私たちは、聖霊さまによって練られ磨がれ、より広い視野でリバイバルを見つめることができるようになったのではないかと思います。
 特に最近、私たちの中でいろいろな領域に回復が起こされています。賛美でも「主の回復の時」と毎週歌われるようになっておりますし、また先週の礼拝で開先生もお話されていましたが、新城教会のたどってきたリバイバルの働きの歴史の中で起きた、過去の分裂問題にも回復の時が現され始めました。
 九二年に霊的戦いが開かれた当初、目の前には本当に大きく分厚い壁があったわけですが、その壁も徐々に比較的小さくなってきているのではないかと思います。当時は大きな問題だと思っていたことも、リバイバルが広がっていく時に、だんだんと周りが見えるようになっていく。その壁の向こう側も見えるようになってきていると思わされる今日この頃ではないかと思います。

 先月、六月二十四日、二十五日に、毎月行われている「霊的戦い専門課程」が行われました。このセミナー、二日目はとりなしに行きます。マイクロバスで行くので、教会スタッフが交代でバスを運転するのですが、先回は私が当番でした。
 その日は、一つの山の中腹にある岩に行きました。

 セミナーに来ておられる生徒さんですが、牧師先生方が多いのですが、だいたい私よりも少し年齢が上の方がほとんどの二十人くらいが、山を車が一台通れるくらいの林道を行ったその脇、車を降りて山を五分くらい歩いて入って行くとその岩があります。
最近この教会でよく言われているように、「主をほめたたえるように、私たちは被造物に対して命じる!」と宣言する働きが必要ですが、参加されている方々も、山の中に入ると、木に向かって「主をほめたたえろ!」とか、水が流れていると水に「ほめたたえろ!」とか、鳥が歌っていると、「主をほめたたえろ!」とみんなして言うわけです。さすが専門課程の生徒さんたちは訓練されているなぁと思いました。
 その岩がどのくらいの岩かというと、高さが五、六メートルくらい、幅が十メートルくらいの丸い巨石であります。その岩の前で祈ったり賛美したりします。十分、十五分くらい賛美した後に、自由に各自で祈る時間が持たれました。
 すると、みなさんすごいですね。私よりも年配の方々が大勢、子どものように岩の上によじ登って行って、岩の上に立って、「ハレルヤ〜!」「すべてのものよ!主をほめたたえよ!」と大声で言うのです。私は岩の下で「すごいなぁ、さすが専門課程の生徒さんたちは実践されているなあ!」と関心したわけです。

 山を下りて歩きながら、順先生が僕に、「以前山にとりなしに行ったときに『鳥が導くって』いったのも、被造物の回復だったよね。」と仰いました。皆さんもご存じのエピソードかもしれませんが、一九九二年に新城教会にこの地を牛耳る悪しき霊的な力に対して戦いを挑んでいくことが始まりました。
 その戦いのが始まった当初、神社にはどういった神さまが祭られているとか、どこから来て、どんな歴史があるのかとか、そんなことを調べていくことは後々とても重要になってくるわけですが、私たちは全く無知だったわけです。しかし当時は神さまによって超自然的な導きをいただいて戦いが前進していきました。

 ある時、先ほど話した石の更に上にある岩にチームでとりなしに行きましょう!という導きを受け取りました。同時に町の周りにある他の山にも行って、それぞれの山の上で町を見下ろしながら、みんなでリバイバルのために祈る。同じ時刻に別々の場所で祈ることになりました。
 私がその岩に行くチームになったのですが、まだ小学生くらいの子どもたちを四人引き連れて山に向かって行きました。当時はスマホのGoogleMapもありませんし、その岩があることは資料本に記されているのですが、どうやって上って行くか全く分からない。とにかく祈りながらあまり人が通ったような感じもない獣道みたいな道を登りはじめたのですが、歩いて行くと意図していなかった分かれ道が現れました。どっちに行ったらいいのか分からない。何の情報もありません。でも「全チームこの時間に一緒に祈りましょう!」ということになっていたので、なんとかして間に合いたい。そこで当然ですが「祈ろう!」となりました。祈ってイエスさまに聞いて、「イエスさま、今私たちの前に分かれ道がありますが、右でしょうか。左でしょうか。どっちに行ったらいいか教えてください。アーメン!」と言って、それから「こっちだと思う。」「いやあっちだと思う。」と意見が分かれると、「もう一回祈ろう!」というふうに、最終的にみんなの意見が一つにまとまるまで何回でも祈ったわけです。
 そして、まとまって「じゃぁ進んで行こうか!」と進んで行くと、また分かれ道が現れます。そこでまた祈って、また「あーでもないこーでもない」を経て、一方にまとまってそっちに行く、となったわけです。でも三回、四回分かれ道が来るわけです。
 だんだん不安になって、「もう帰ったほうがいいじゃない?」と言い出す子が出てきました。僕ものど元まで「帰ろうかな?」という思いが出てくるわけですが、「いや!大丈夫!イエスさまが付いている!」「祈ろう!」とか言います。
 そして最後に歴史的な名言が出ました。最後に「こっちに行こう!」と、みんなの意見がまとまってきたなという時に、ひとりの男の子が「鳥が導くって。」と言うのです。鳥が導く?なんかみことばでそんなのあったかな?なんか霊的な解釈があるのかな?いったいどうすりゃいいんだ?わかりません。わかりませんが、とにかくこっちの道でよさそうなので、鳥のことは分からないけど行こう!となりました。
 私たちは進み始めました。進み始めて三十秒くらい、足下がバサバサバサッといって、一羽の鳥がぴゅーっと飛び出しました。そして獣道みたいな私たちの進路に沿って低空をその鳥が羽ばたいて飛んで行ったわけです。私はもう嬉しくなって、「さぁ、鳥だ!みんな走れ!」「鳥を追いかけろ!」と走って行きました。
 一分くらい追いかけたでしょうか?鳥が横道に逸れていなくなり、我々はそのまま道を走って行ったのですが、すぐに森が開けて、太陽の光が道に届く場所に出ました。
 私たちは走るのをやめて、山側の斜面をぱっと見ました。そこに、でーんっと、高さ20メートルくらいのでっかい岩がありました。それで「これがその岩か!?」と思ったのですが、それも定かではない、分からないので例のごとく「イエスさま、これがそうでしょうか。違うでしょうか?」と祈ったら、子どもたちの中から、「どうもそうらしい。」という声が聞こえて、「よし!じゃぁ上ろう!」ということで、時間も間に合って、他のチームとの全体で祈る時を持つことができました。
 お祈りが終わって、岩の上から下りて道に戻った所でふっと横を見たら、小さな看板に岩の名前が書いてありました。「やったー!」本当にイエスさまのみわざを心から感謝した次第であります。
 その当時は、とりなしに行ったら鳥が導いてくれた!イエスさまはすごい奇跡を起こしてくれた!それで終わってしまったわけですが、でも今思うと、そのとりなしを通して、今私たちが理解している被造物の回復がその時も訪れていたんだと感じます。当時、私たちが知る由もなかったことですが、今考えるとより広い視野で「全部の被造物に福音を」、という概念の中で捉えると、そこにもイエスさまの勝利が現されたと見ることができます。

 最後にもう一つだけ短い証しをさせていただきたいと思います。

 ある家庭集会の中である兄弟が話していた証しで、その兄弟は運送関係の、いくつかの店舗にトラックで物を配送する仕事をしています。

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会社の中ではいくつか違うルートがあって、ある日はこっち、次の日は別のルートと行くわけです。その兄弟は配送をしながらいつもお祈りしているのです。最近は雨が多いので、雨粒に向かっても、「雨よ!主をほめたたえろ!」とか、そういうことを祈りながら運転しているそうです。周りの同僚にも自分がクリスチャンであること、いつも祈っていることを証ししています。賛美したり祈ったりしながら仕事できるのは良いですね。
 そうこうしているうちに、最近周りの同僚からこんなふうに言われるようになったそうです。「あんたのおかげで私たちは雨に呪われている」と。なぜかというと、その会社のルートには、荷物の上げ下げするときに屋根がついていたりして、雨が降っても濡れないルートもあれば、びしょぬれになるルートもあるそうなのです。最近、どうもその兄弟が回る時に、雨が降っている日は濡れないルートの担当になるというのです。そして他の人が濡れるルートに行く羽目になるというわけです。週に一日休みがあり、その兄弟が休みの日になると雨が降ったり、その兄弟が雨に濡れなくて配送ができるように、雨の降る時間帯がプログラムされているようだというわけです。それで、「あんたの呪いで俺はいつもびしょ濡れだ」と言われるようになったそうです。
 そうこうしているうちに、うわさが広まって、周りの人が缶コーヒーを持って来るようになって、なんだろう?と思ったら、「お供えものだ」と言うのです。「あんたにお供え物をすれば雨の呪いを免れるかもしれない」というのです!クリスチャンじゃない人たちからそういわれていると、証しをして、みんなで笑ったわけです。祈りを通して雨まで回復されているということだと思います。

 私たちはまだ見ていない事実を、壁を通して、壁を透かして、信仰によって見ていかなければいけないわけですが、リバイバルの働きはまだまだ先があります。壁を目の前にして途方にくれていた状態から、一歩引いた広い視野で全体を見る、壁と向き合うことで、より高いレベルで自分がすべきことが見えてくるということが、信仰の世界の中でも言えるのではないかと思います。
 これまで建て上げられてきた自分の正しさ、自分の信仰というもの、それを権利のように振りかざすのではなくて、隣人とか社会とか、引いては被造物全体、この国のため、その中にあって自分が信仰者としてどうあるべきかを理解して、優先順位を置いていく。
 ぶち当たる問題や課題とか、それは時として行く手を阻む敵のように感じることがあるかもしれませんが、それを通して自分自身も成長して、神の国もまた前進できることを信じていきたいと思います。
 個人の人生も「これさえなければ私の人生は幸せなのに・・」と思われることがあるかもしれませんが、信仰の目で、広い目で向こう側を見て、また周りを見られるようになると、自分の周りに神さまの助けがあることとを見いだしていくのではないかと思います。
 そうこうしているうちに、時間がかかるかもしれませんが、問題を通して自分がさらに高みへ移されていくということに気づくことがあると思います。
 今日は「壁の向こう側を見る」というタイトルでお話しさせていただきましたが、私たちの信仰を今一度見直して、神さまの前に進み出て、また主のために歩む者になっていきたいと思います。皆でお祈りしていきたいと思います。

今日のメッセージで受け取ったものを私たちは神さまの前に出てお祈りしましょう。それでは一言お祈りします。

 ハレルヤ、イエスさま。今日素晴らしい礼拝の時が与えられ、あなたのみ前に出て賛美をささげる時が与えられたことを心から感謝いたします。
 「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。私たちの目の前に、それぞれ、さまざまな問題を意識したり、壁を感じたり、そのような方がいらっしゃるかもしれません。どうかイエスさま、今日は、「信仰」というあなたが与えてくださった目で、その向こう側を見透かして見ることができるように、どうか主よ、あなたがお一人お一人を祝福し、また守ってください。
 あなたが私たちに与えてくださっている権威を感謝します。そして神の国のために私たちが働いていく、その賜物を生かしていく者となっていくことができますように。今日のこの恵みの時を心から感謝し、すべてのことをみ手におゆだねし、イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。