「あなたは知っていますか?」

  • 2019年8月4日(日)

新城教会牧師 上條実
エペソ人への手紙1章19節

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 ハレルヤ!主の聖名を心の底から賛美いたします。暑い日が続いておりますが、皆さんはいかがでしょうか?

 本日配布されました週報にありますように、先週の水曜日の日にH姉とI姉の祖母さまであるY姉が召され、三十一日に召天式をこの教会で行いました。ご家族の上に慰めがあるように覚えて祈っていただきたいと思います。

 また八月の一・二日の二日間。子どもキャンプが行われました。皆様にお祈りして頂き、大変恵まれた時を持つことができました。二日間ともとても暑い日でしたが、何とか守られて感謝します。五十名くらいの子どもたちが集まってくださいました。またその背後で、三十名くらいの兄姉がスタッフとして働いて下さり感謝でした。特に今回中高生の皆さんが、とてもよくお手伝いして下さり、また姉妹方もキッチンワーカーなどして下さり、本当に助かりました。心から感謝します。
 熱い中でしたが外で流しそうめんをしました。また豊川に出かけ、カヌーもしました。守られて感謝します。夜はみんなで花火をしたり、二日目はプールの中にニジマスを放して、ニジマスのつかみ取りをしました。また本宮山に登って、とりなしの祈りもすることができました。また滝元順先生も夜に「子どもたちは最強だ!」というテーマでメッセージを語って下さり、大変楽しい中で、祝福された時を持つことができました。お祈りとご奉仕を心から感謝いたします。とにかくお互いに熱中症には気を付けて生活していきましょう。

 また八月十三日、十四日と、「リバイバル東京2days」という集会が、リバイバルミッション主催で行われます。新城からも大勢の方が行ってくださる予定となっています。その為に、ぜひお祈り下さい。マイクロバスを二台。後何台かの乗用車で東京に向かいます。今回の集会はただの夏のイベントではなく、どうしてもこの日本がリバイバルされるように、日本に霊的勝利があるように祈る集会です。行かれる方もそうでない方も、ぜひとりなしてお祈り下さい。

 では先ほど読んでいただきましたエペソ人への手紙一章十九節から学んでいきたいと思います。

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 今回このみことばからメッセージをと思い、準備しましたが、少し不安でした。このみことばが、本日新城教会に、与えられたメッセージであるのかと祈っていました。しかし感謝なことに、別に打ち合わせをしたわけでもないのに、ゴスペルクワイヤーの方々が、「神にはできる!」という、今日のメッセージのテーマと同じ賛美をして下さり、また他にも同じようなしるしを主が見せて下さり、本当に感謝いたします。今日は「あなたは知っていますか?」というタイトルでエペソ人への手紙一章十九節

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

というみことばから学んでいきたいと願います。

 六月二十三日の礼拝で滝元順牧師がここでメッセージを語られた時、ある宗教学者の話をされました。皆さん覚えておられますか?その時語られたメッセージで日本のために祈らなかったらいけない、と強く教えられました。それはこんなメッセージでした。

“今日の教会が、最も燃えるのはボランティア活動である。日本の宗教学者の山折哲雄氏は著書『さまよえる日本宗教』の中で、阪神大震災時におけるキリスト教徒や仏教徒の関わり方から、「歴史的宗教」の賞味期限が切れた、との厳しい見方を示した。つまり、ボランティア活動はしているのだが、宗教家としての活動はしておらず、宗教家としての言葉を持っていない、と言うのだ。”

 こんなことを言っているのです。キリスト教会、私たちが、賞味期限がある、「もうおまえらは切れたんだ。」と言っているのです。

“彼は「日本の教会はいつからボランティア団体になったのか」と語っている。最も燃える活動が震災ボランティアだという。もちろん、被災地を助ける働きは重要。しかし、それが最優先順位になると、命を失う羽目になる。災害が起こると、教会は俄然元気になって、ボランティア活動に励む傾向があると言う。しかしボランティア活動は熱心にしても、人の心にはタッチできないのだ。ある意味、日本の教会は、大地震を待ち望んでいるかのようだと批判されている。目の先の活動だけが中心になると、教会は命を失う。本来は地震が起こらないよう、教会は真剣にとりなし、祈らなければならない。大地震がどこで起こってもおかしくない日本列島だから。明日は我が身かも知れない。”

 私は滝元順牧師が語られる以前からもこの記事を読んでいたので、知ってはいたのですが、その礼拝で特別聖霊さまが私に触れてくださいました。さらに日本のために祈らなければいけない!そして教会だけでなく、クリスチャンのために祈らなければならない!心に迫るものがありました。

 私はいつもリバイバルミッションで、「リバイバルミッション二〇一九」の伝道集会や滝元順牧師ご夫妻がご奉仕下さっている「リバイバル聖会」を全国の各教会に、電話やメール等で集会を開催してもらえるように交渉させて頂いていますが、多くの教会に電話していて思うのは、教会に体力がありません。

「伝道集会をしませんか?」とお願いしても、「いや、集まらないから無理です。」と、ほとんど断られてしまいます。また教会に電話しても、なかなかつながらず、留守番電話でも、ほとんどが「後ほどおかけ直しください」というメッセージが流れ、つながりません。もしクリスチャンでない方が主を求めて電話してもつながらないのです。つながっても、開催費用の謝礼、交通費、宿泊代などは全部リバイバルミッションで負担します。集会時の席上献金だけで大丈夫ですとお伝えしても、開催できないと言われてしまいます。普通メッセンジャーと音楽ゲストを呼ぶと、交通費、宿泊、謝礼等多くのお金がかかります。またリバイバルミッションでは立派なチラシも五百枚までは無料で差し上げますなど、提案しているのですが、それでも伝道集会のスケジュールを埋めることが困難です。今日本の教会には元気がありません。でも震災や災害が起きたりすると、キリスト教会が頑張るとありましたが、集会はできませんが、確かにそのような状況は理解できます。ボランティアがいけないわけではない。とっても大切な働きですが、キリスト教会は賞味期限が切れた宗教だと言われてしまう屈辱的な状況が、日本の教会です。

 また何度かここで語られていることですが、日本基督教団では二〇三〇年問題があります。二〇三〇年というのは、十一年後になります。二〇三〇年になると、多くの信徒が健康寿命にさしかかるので、教会員数は三分の一、教会数は半分になるというのです。
真の神であり、全能の神であるにもかかわらず、増加するのではなく、衰退してしまい、人々から賞味期限切れとか、歴史的宗教だと、すでに終わってしまった宗教だとみられているのが、日本のキリスト教です。教会には人が集まらない。魅力がない。霊的力がない。それが今の日本の教会の現状です。

 しかし今日は、私たちの神はどんな方か、なぜ毎週教会に集って礼拝しているのかを、もう一度しっかりと、確認していきたいと思います。

 私の妻の為に、いつもお祈り下さり感謝いたします。病気は一進一退の状態ですが、皆さんのお祈りによって守られていることを感謝いたします。実は明日、家内の誕生日です。家内に今朝、「なんかプレゼントほしいものある?」と聞きました。すると彼女の答えは「健康」でした。私たちの信じている主は、癒やし主だと分かっています。いつも求め続けています。しかしまだ心の底では不信仰があり、日々の症状を見ては、私までもが落ち込んだりしてしまっています。一枚の写真を見てみたいと思います。

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 これは新札の一万円札です。一万円札ほしいですよね。この一万円を持って買い物をすると、皆さんいくら買えると思いますか?当たり前ですよね。一万円の品物と引き換えることができます。ではもう一枚。

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 ぐしゃぐしゃの一万円。このお札はいくらの価値があると思いますか?当たり前です。これも一万円の買い物ができます。新札の一万円でも、しわくちゃな一万円で同じ価値があります。私たち、イエスさまに対して、どんなに希望を持っていますか?イエス様にどんな期待を持っていますか?先ほどのエペソ人への手紙一章十九節のように、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

このようなみことばを読むと、神はすぐれた力があり、偉大な事を私たちに起こしてくださると理解できます。しかし、第二コリント二章十一節に、こんなみことばがあります。

『これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

 またエペソ人への手紙六章十一節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

とあります。
 この二つのみことばには、悪魔・サタンの策略と書かれています。私たちはその策略に、見事にハマっていませんか?聖書の言葉、みことばは理解できます。イエスキリストは全能の主であり、いやし主であり、奇蹟を起こすことのできる方だと信じています。しかし現実の生活。実生活にとなるとそのみことばは、適用しないのです。あきらめてしまっています。
新札の一万円札と、ぐしゃぐしゃな一万円札は同じ価値があるにもかかわらず、悪魔の策略はぐしゃぐしゃになった、しわの部分を見せてきます。「今の時代奇蹟なんか起きない」とか「あなたにはこんな罪がある」とか、「あなたはこんな問題がある」などなど、しわを見せて来て、みことばは理解していても、現実は難しいと不信仰を抱かせてきます。特にサタンの策略というのは、本当に巧みで、私たちの一番弱いところに働いて来ます。そしてイエスさまの力は、「絵にかいた餅」状態で、霊的パワーがなくなり、祈っても無駄など、イエスさまが全能なる方だというのは、聖書の時代だけのように思わせてきます。教会に力がなくなり、祈っても聞かれないとなって、「歴史的宗教」の賞味期限が切れた、となってしまっています。エペソ六章十四節から十七節

『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

神の武具のことが書かれているところですが、私たちは何度も読み、理解しているところです。策略により、現実の世界ではその武具を全部脱ぎ捨ててしまい、みことばの剣も、鋭い大きな剣ばかりなのに、あえて裁縫をするときに使う針のような、落としたら見つけるに苦労するような剣を、自ら選び、さまざまな人生の問題が訪れると針のような剣で、大きな問題。悪魔に対抗して、いとも簡単にみじめな敗北を味わっているような状態です。悪魔の策略に惑わされ、超不信仰になってしまっています。

 余談ですが、私は今日、一億円を持っています。と言うと、全員の方が嘘だと思います。しかし本当に一億円を持っています。

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 これはただ一万円を折りたたんで一億円に見せているだけです。しかし経済的に困っているときに、次の写真、本物の一億円があなたに与えられたらどうします?

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 それはもう嬉しいと思います。家のローンを全部支払って、そしてこれとこれを買ってなど、私たちは本当に当たったらとよく妄想して、宝くじでも当たらないかなあと夢を膨らませたりします。イエスさまの力によって、一万円が一億円になったらすごいことです。しかし私たちの信じている主の力は、次の写真です。

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 これは、どういう記号か分かりますか?これはご存じのように「無限」です。

『無限(むげん、∞)とは、限りの無いことである。「限界を持たない」というだけの単純に理解できそうな概念である一方で、有限な世界しか知りえないと思われる人間にとって、無限というものが一体どういうことであるのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでいる。』と辞書に書かれていました。聖書のエレミヤ書二十九章十一節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 このみことばを信じますか?「アーメン!」信じています。主が私に立ててくださっている計画は、決して災いではなく、将来と希望を与えて下さる。という素敵なみことばです。しかし心の奥底では、「でも・・・・・」と、悪魔の策略に陥り、不信仰を抱いてしまいます。

 また第一コリント二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 ここで、目が見たことのない、耳が聞いたことのない、人の心に思い浮かんだことのないものを、主はあなたのために備えていてくださる。与えて下さるとの約束です。今まで見たことも、聞いたことも、思い浮かべたこともない事を、備えていてくださって、必ず与えて下さる。無限なる神さまです。しかしこのみことばも「でも・・・・・」と悪魔の策略に陥って不信仰を抱いてしまいます。

 私たちは聖書の六十六巻には嘘偽りはなく、ヘブル人への手紙四章十二節、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

 みことばは両刃の剣で、今まで刺し通すことさえ無理だと思っていたところも、刺し通し、素晴らしい勝利を与えてくださると理解しています。しかし悪魔の策略によって、みことばの権威がなくなり、不信仰になってしまっています。

 今日のみことばの、エペソ人への手紙一章十九節、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 あなたはどのくらい神のすぐれた力。偉大な力を知っていますか?私は全部みことばを理解していますよ!と言うと思いますが、今日はイエス・キリストを体験させて頂きましょう。私は先々週イザヤ書五十五章を読ませていただきました。その中で、恵まれたみことばがありましたのでご紹介させて頂きたいと思います。リビングバイブルで読ませていただきます。まずイザヤ書五十五章六節(リビングバイブル)、

『尋ねることのできる間に神様を探し求めなさい。近くにおられる間に呼び求めなさい。』

 「尋ねることのできる間に神様を探し求めなさい。』とあります。神には時があります。「尋ねることのできる時があります。」尋ねられる時に、主を呼び求めなさい。時にかなって美しい事をして下さる主に、今日求めて祈りましょう。

 今日は主の日です。私たちは今日主を賛美するために集いました。主はともにいてくださいます。ここに主は「インマヌエル」ともにいてくださいます。今日私たちはみことばの世界だけではなく、現実の私たちの生活に「無限の力」で働いて下さる事を期待して、主を求めましょう。

 そしてイザヤ書五十五章七節(リビングバイブル)には、

『悪事を捨て、悪いことをしようとする思いすら、きっぱり捨てなさい。愛していただくために、主のもとへ帰りなさい。私たちの神様のところへ帰りなさい。何もかも赦してくださいます。』

 ここに、『悪事を捨て、悪いことをしようとする思いすら、きっぱり捨てなさい。』とあります。私たちの主であるイエス・キリストは、どんな神かというと、私の身代わりになって十字架にかかってくださった神です。そして、私の罪を全部赦してくださり、永遠の命を与えてくださいました。

しかし今日あなたは悔い改めていない罪を持ち続けてはいませんか?主は聖さを求めています。
聖さの中に働かれる神です。今は簡単に、携帯で淫乱的な画像や動画を見ることができます。また出会い系のサイトなどを通して、超えてはいけない淫乱的な罪を行ったりします。多くの人々が、悪魔の策略に陥り、性的な罪を犯してしまいます。また主が喜ばないこと、罪を軽く考え、主を信じたクリスチャンが罪を持ったまま生活してしまっています。今日も聖餐式が持たれます。新城教会は毎週聖餐式を行っていますが、このことはとても恵みです。しかし知らない間に、悪魔の策略に陥り、この聖餐式を軽んじてしまうときがあります。神の前に聖さを持つことができるように、自分を吟味して頂きたいと思います。

 第一ヨハネ一章五節~十節、

『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』

 「自分が罪を言い表したら赦してくださる」とあります。まだ持ち続けている罪があるならば、罪を主の前に告白して赦して頂きましょう。神の時を掴まえて聖さを求めましょう。

イザヤ書五十五章八節~九節(リビングバイブル)、

『わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、わたしの思いはおまえたちの思いと同じではない。天が地より高いように、わたしの道はおまえたちの道より高く、わたしの思いはおまえたちの思いより高い。』

 私たちの考えている以上に、主は大きい方、思いは高いと書いてあります。天が地より高いように、わたしの道はおまえたちの道より高く、わたしの思いはおまえたちの思いより高い。とあります。主は無限の神です。
 先ほど、エレミヤの二十九章十一節で、「将来と希望を与えてくださる」と読みました。また第一コリント二章九節「見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのないものを主が私たちの為に備えてくださっている」と学びました。

今日イエスさまは無限の神。イエス・キリストを信じたら、必ず私たちに最高の祝福をくださると信じましょう。
今日私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますようにとあるように、私たちは神の偉大な、すぐれた力を知ることできるように期待しましょう。

 イザヤ書五十五章十節~十一節(リビングバイブル)、

『雨や雪は天から降って来て地をうるおし、穀物を成長させ、農夫には種を、空腹な人にはパンを与える。わたしのことばも、同じだ。送り出せば必ず実を結ぶ。わたしの望みどおりのことをし、送られた先々で大きな影響を及ぼす。』

とあります。当たり前のことですが、雨や雪は天から降って来て地をうるおし、穀物を成長させます・・・。それが私たちの現実の世界では当たり前のように神の偉大な力が、あなたに現されます。

また農夫が種をまけば、必ず実を結ぶ。わたしの望みどおりのことをし、送られた先々で大きな影響を及ぼすとあります。みことばの種を良く耕された地に蒔きましょう。必ず成長し、収穫の時が来ます。

 イザヤ五十五章十二節(リビングバイブル)、

『おまえは喜びと平安に包まれて生活し、山も丘も野の木々も、周囲のものはみな、こおどりして喜ぶ。』

 これは主を賛美することが書かれています。私たちも被造物も主にあって喜びと平安に包まれ、被造物すべてが主を賛美する時が来ます。またイザヤ五十五章十三節(リビングバイブル)、

『いばらの生えていた所には、糸杉が茂り、いらくさが、所狭しと生えていた所には、ミルトスの木が芽を出す。 この奇蹟はわたしの名を偉大にし、わたしの力と愛を証明する永遠のしるしとなる。』

とあります。始めこの個所の意味が理解できませんでした。その為この十三節にかかれてあります「いばら」「糸杉」「いらくさ」「ミルトス」を調べてみました。まず「いばら」は皆さんご存じですよね?

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いばらを調べると、「バラ・カラタチなど、とげのある低木の総称。人里近くに多いバラ科バラ属の低木の総称。」とありました。また「身に受ける苦難のたとえ。」ともありました。私たちの人生には、いばらが生えて、人生苦難だらけのようです。しかし次に「糸杉」が書かれています。


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 この糸杉を調べると、「イトスギは、ヒノキ科イトスギ属の総称。世界中で公園樹や造園樹として重用される。イトスギは、生命や豊穣のシンボルでもある。 」ありました。有名な画家ゴッホが「糸杉と星の見える道」という絵も描かれていていますので、ご存じの方もおられると思います。

次に「いらくさ」とあります。

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 「いらくさ」はパッと見ると紫蘇の様な葉をしています。いらくさを調べると「イラクサ科の多年草。日陰地に自生。高さ80センチメートル内外。葉は心臓形で粗い縁にある、ぎざぎざの切れ込みがある。秋,葉腋に緑白色の雄花穂と雌花穂をつける。葉・茎にあるとげはギ酸を含み,触れると痛く,水疱ができる。という厄介な植物です。そしてさいごは「ミルトス」とは

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 ミルトスは、パレスチナ地方の川辺によく見られる常緑の灌木で、高さは数メートルに及びます。葉や花が、芳香を放つことでも有名。たくさんの黄色い雄しべが目立つ花をつけた後、青黒色の果実を結びます。この果実には、鎮痛効果があります。その芳香性や鎮痛効果のために、ミルトスは「祝いの木」として、祭りやめでたい行事の際の装飾品として用いられるとあります。切られた後でも生命力がすごく強くて刈りにくい所から干ばつ面を耐える強い木として、不死の象徴となり、それゆえ成功とか繁栄の象徴ともなった木だと言われています。もう一度イザヤ書五十五章十三節を読みます、

『いばらの生えていた所には、糸杉が茂り、いらくさが、所狭しと生えていた所には、ミルトスの木が芽を出す。この奇蹟はわたしの名を偉大にし、わたしの力と愛を証明する永遠のしるしとなる。』

と書いてあります。

 今まで邪魔者であった「いばら」や「いらくさ」が生えていた所が、祝福の木である「糸杉」「ミルトス」が生え、この奇蹟はわたしの名を偉大にし、わたしの力と愛を証明する永遠のしるしとなるとあります。これは、バビロン捕囚からの解放を指すと同時に、終末的な意味での祝福の描写となっています。つまり、のろいに代って祝福が臨むという意味があります。

最後にエペソ一章十九節をしっかりと学んでいきたいと思います。

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 あなたはイエスさまがどんな方か知っていますか?全能の神です。今日本の教会の現状は、いくら「歴史的宗教」の賞味期限が切れていると言われたとしても、私たちの神は全能です。無限の力を持っています。いくら悪魔の策略に陥っている日本であっても、今まで邪魔者であった「いばら」や「いらくさ」が生えていた所が、祝福の木である「糸杉」「ミルトス」が生え、この奇蹟はわたしの名を偉大にし、わたしの力と愛を証明する永遠のしるしとなると、先ほども学びました。これは、バビロン捕囚からの解放を指すと同時に、終末的な意味での祝福の描写となっています。つまり、のろいに代って祝福が臨むという意味があります。

 今日、ヘブル人への手紙十一章一節、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

私たちは、今日悪魔の策略に対して立ち向かいましょう。主を見えなくさせ、いばらやいらくさばかりを見せて、全能の神である主は、聖書の世界だけ。今は何の力もあらわされないと、騙されて、信仰を失ってしまっています。しかし一点一画変わらないみことばを剣として持ちましょう。第一コリント二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 目が見たことのない、耳が聞いたことのない、人の心に思い浮かんだことのないものを、主はあなたのために備えていてくださるという約束です。今日備えられたものを頂きたいと求めましょう。無限の神。全能の神です。私たちが、日本の教会が圧倒的な勝利を頂くことができるように。「いばら」や「いらくさ」が生えていた所が、祝福の木である「糸杉」「ミルトス」が生え、この奇蹟はわたしの名を偉大にし、わたしの力と愛を証明する永遠のしるしとなるように祈りましょう。ヘブル人への手紙四章十二節、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

今まで持っていた針のような、小さな剣ではなく、大きなみことばの剣。鋭い剣を持ち直して戦いましょう。無から有を生み出す、全能の主に期待して祈りましょう。将来と希望を与える約束です。また見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともないもの。それを主は備えていてくださいます。イエスさまに期待して祈りましょう。また今日も聖餐を頂きますが、自分を吟味して、罪を悔い改めて、主に期待して祈りましょう。

『この奇蹟はわたし(イエス)の名を偉大にし、わたし(イエス)の力と愛を証明する永遠のしるしとなる。』

と学びました。今日、諦めないでください。日本のリバイバル。またあなたにとって圧倒的な祝福が始まる、スタートであると信じて進んで行きましょう。お祈りします。

『愛する天のお父さま、今日あなたは生きて今も働く全能の神であることを信じます。今日本の教会とクリスチャン一人ひとりが、今悪魔の策略に陥っています。
リバイバルを諦めてしまい、主に賛美することができなくなってしまっています。主よ赦して下さい。
 今から聖餐を頂きます。この聖餐を通して罪が聖められ、見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのない、主が備えてくださっているものを頂くことができますように。
 そして一人一人がみことばの剣をもって、大胆に悪魔に立ち向かって行くことができますように。
 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私たちが知ることができますように。
この聖餐式を祝福してください。主イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。』