「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜最も大切なことは何でしょう?パート2〜」

  • 2019年8月11日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書10章25節〜28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。和基君の演奏、素晴らしかったですね。人とは成長する動物であることを、彼の演奏を聞くたびに感じます。皆さんも演奏を楽しまれたと思います。
 神が人を造った目的は何であるのかを、最近、学んでいますが、神はご自分が創造された被造物すべてを通して、ご自分を賛美するオーケストラを編成されたわけです。
 彼の演奏を聴いて、私たちの心が洗われるというか、楽しむことができます。神さまも同じです。被造物を動員し、ご自分が楽しむために造られたわけです。その事を知ると、人生は大きく変わります。
 なぜなら、「人は被造物の管理人」だからです。多くの被造物は人を通して、神を賛美するようになるのです。人が被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言すると、一つ一つの被造物は歌い始めるのです。

 皆さんにお祈りしていただき、大変忙しいスケジュールの中にあるのですが、守られています。先週の日曜日は北海道で奉仕させていただいたのですが、北海道から新城に帰って来ずに、そのまま韓国に行き、昨日、帰国しました。

 新城教会の礼拝は、ここに集まっておられる方だけではなくて、今はインターネットの時代で、ネットで礼拝に出ておられる方も少なくありません。
 また礼拝をビデオに撮って、ビデオ礼拝をしておられる教会もあります。
 今回私は、北海道の永易先生、こちらにおられる日吉夫妻のご両親の教会で奉仕をさせていただきました。この教会も本当に素晴らしく、くんねっぷという場所にあります。くんねっぷからさらに南に下って行きますと、標茶という町があり、そこに教会があるのです。

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 綺麗な教会でしょう。教会の土地はどのくらいあるのかというと、十ヘクタールあるそうです。日本一、いや世界一、土地持ちの教会ではないかと思うのですが、この教会の方々、新城教会のビデオで礼拝を守っています。すでに二十年になります。
 今回、久しぶりに訪問させていただいて、お祈りさせていただいたのですが、ビデオ礼拝でも、ちゃんとメッセージを理解しておられました。
 八十歳過ぎのおばあちゃんが私に会うなり、「順先生!ちょっと証しを聞いてほしです!」と言うのです。このおばあちゃん、教会の敷地内で、かぼちゃを作っているというのですが、この頃、農薬とかの影響で蜂が少なくなって、なかなか受粉しないというのです。
 だから、一つ一つのかぼちゃの所に行って「主を賛美しろ!」「賛美しろ!」と命じたそうです。そうしたら今まで全くならなかったかぼちゃがゴロゴロなったというのです。この教会のおばあちゃん方、広大な北海道の大地で、主を賛美しろ!と宣言しながら生き抜いておられます。いや〜、すごいなぁと感動しました。

 人には、大きな目的があるのです。すべての被造物を動員して、神の前に賛美をささげるオーケストラを編成する役割です。その役割を果たしていく時、人生は変わっていくのです。
 何事でも結論がはっきりしないと、様々な議論も無駄になってしまいます。教会もそういうところが多々あります。教会ではいろいろな活動があるのですが、最終的な人の目的、結論が分かっていないので、混乱しています。

 今、世界で最も有名な神学者は、NTライトです。彼は著書の中でそのことを指摘しています。教会は様々な議論をするけれど、ゴールが分かっていないというのです。そのゴールとは何か。「人は被造物の管理人」であると語っています。その事をしっかりと知って信仰生活を送らなければいけないのです。
 ライトは、使徒パウロは、旧約聖書から流れている「人とは何者なのか」という意味をはっきりと知った上で書簡を書いたと語っています。それは、「人とは神が造った被造物を世話する役割」ということを彼は熟知していたというのです。

 私たちも人とは何者なのか、神が造られた被造物を管理する、お世話する役割があることを知ると人生は変わるのです。

 今日読んでいただきました聖書箇所は、マタイの福音書とマルコの福音書にも同じ内容が出てくるのですが、「最も大切なことは何でしょうか?」という問いに対するイエスさまの答えです。
 ルカの福音書では、それを実行したら「いのち」が与えられるというのです。このいのちは永遠のいのちに繋がるのですが、同時に、いのち溢れる生活をしたかったら、二つのことを実行すればいいのです。それは何かというと、一つは「神を愛する」ことと、もう一つは「隣人を愛する」ことです。この二つを実行したら、いのち溢れる生活を送ることができるのです。

 もう一度、この箇所を読んでみたいと思います。ルカの福音書十章二十五節〜二十八節、

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 いのち溢れる生活をしたかったら、条件は二つです。一つは、神を力いっぱい愛することです。日本の神々は、およそ愛する対象ではないです。怖い顔をしている神々ばかりです。千手観音なんて、手が千本くらい生えていて、そんな手で抱きしめられたらおかしくなってしまいますよね。また不動明王にしても怖いし、すべての神々は怖い顔をしています。しかしイエスさまは、私たちを愛してくださっています。私たちがイエスさまを愛する思いを持つようになると、いのちが与えられます。
 そしてもう一つは、隣人を愛したらいのちが与えられるのです。
 しかしこれは切り離すことはできないと前回もお話ししました。コインと同じで、コインの表側に「神さまを愛する」と書かれていたら、その裏側には「隣人を愛する」と書かれているのです。神さまを愛することと、隣人を愛することは、表裏一体です。
 神さまを愛するようになると、隣人を愛するようになり、隣人を愛すれば愛するほど、神さまの愛が分かるようになるのです。
 ここに集っておられるお一人お一人はお互いに隣人です。お互い、教会に来て初めて出会うのですが、大きなファミリーになります。楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、みんなで共有できるのは、本当にすばらしいです。
 ちょっとお隣の方に、「あなたを心から愛します!あなたの祝福をお祈りします!」と、挨拶をしていただきたいと思います。教会に来て、多くの友達を作って下さいね。

 日曜日に教会に集まることには、大きな意味があります。ユダヤ人たちは安息日に神の宮に集まって礼拝をささげました。
 彼らがどのような意識で集まったのかというと、神の宮とは、「天が下りて来て、地に接する場所」という世界観を持っていたというのです。
 聖書が書かれた当時の世界観を、私たちはあまり知りませんが、ユダヤ人は神の宮とは、天と地が交わる空間であることを知っていたのです。
 安息日という「特別な時」に神の宮に行きさえすれば、天が下りて来て、神が人と交わってくれるという、堅い信仰を持っていたのです。
 新約聖書の時代になると、それがさらに発展して、主はどこでも私たちに触れてくださるようになりました。
 しかし今の時代でも、基本的原則は変りません。日曜日に教会に来るのは、教会という場所は、他の場所とは違って、天が地に下りてくる場所なのです。神が人と交わる場所なのです。主を信じる者たちが日曜日に集まって、空間を共にする時、神が人の世界に来てくださるのです。
 教会の空間にいること自体が重要です。

 空間理解に関しても、現代人と古代ユダヤ人とは全く違っていました。現代人は、空間とは何もないと考えますが、ユダヤ人にとって空間とは神が人と交わる、特殊な物質であると考えていたのです。
 日曜日の教会は特殊な空間です。神が人と交わるために用意してくださった、特別な空間です。
 ですからここに来るだけでも、神の祝福を受けることができるのです。ユダヤ人たちはそのように考えていて、神の宮という特殊な場所を作ったわけです。教会に来て居眠りしていてもいいのです。特殊な空間ですから。
 子どもたちのように走り回っていたり、礼拝中に絵を描いていても大丈夫です。時々、礼拝後に子どもたちから絵を渡される時があります。「順先生、これ。」『なに?』「順先生の顔。」とか言って、礼拝中に描いた似顔絵をくれます。
 この空間自体が神が人と交わるために用意された空間です。聖書の世界は、現代人とは全く違った概念です。
 イエスさまによって、その空間が町に出たのです。どこでも、主を信じる者はその空間を共有できるのです。

 また、隣人を愛する時、いのちが湧いてくるのです。隣人を愛するとは、どういうことかということです。
 「愛する」ことの反対語は何なのか?それは憎しみではないというのです。「無関心」だというのです。この言葉を誰が語ったのかというと、マザーテレサというのは嘘です。あれは日本のテレビ番組が、なんちゃって説を流したことによって、マザーテレサの言葉のように広まってしまったそうです。実は、ユダヤ人のある学者が語った言葉です。「愛するの反対語は憎しみではない。無関心だ。」と言うのです。
 隣人を愛する事の反対語は、隣人を憎むことではなく、無関心です。
 ある領域に関心を持つこと自体が、「隣人を愛する」こと、そのものであるのです。

 前回のメッセージの中でもお話をしたのですが、「隣人とは何か?」というテーマで、良きサマリヤ人の例話とは、北イスラエルと南ユダという、二つの国に関わる領域で起こったと話しました。
 エルサレムからエリコに向かう道の途中で起こった出来事が、良きサマリヤ人のストーリーです。それは傷ついている旅人を助ける美談だけでなく、ユダヤ人対サマリヤ人という、隣り合う二つの民族の間に起こったことなのです。そしてこれは、民族問題を取り扱っていると話しました。
 当時、この二つの民族、ユダヤ人とサマリヤ人は対立していましたが、多くの人たちは、お互い無関心でした。一人の旅人が倒れていて、それがサマリヤ人なら、ユダヤ人は、「俺たちには関係ない!」みたいな感じで通り過ぎたわけです。
 しかし対立する民族を越えて助け合うことが、隣人になることであり、同時に神の愛を実現するものであるとお話しさせていただきました。
 隣り合う二つの民族という視点で、身近な所で当てはめると、それは日本と韓国に当てはまるのではないかとも話しました。

 私は先週一週間、韓国で過ごさせていただきました。現在、日韓関係はこじれにこじれて、史上最大の対立関係だと言われます。皆さんは、それをどのように捉えているのか分かりませんが、今日、ここには韓国の方もおられますし、韓国系の方々もおられます。この状況を神さまは喜んでおられないはずです。
 どこでこじれているのかと言ったら、現実には経済的な理由です。それが日本対韓国という、二つの民族の対立関係にまでなっています。今回、一週間、韓国で過ごしましたが、今までにないピリピリ感と言いますか、風当たりが強いのを感じました。
 ソウルには、ユニクロという日本企業のお店が何店舗もあるのですが、一つのユニクロに行ってみましたら、ガラガラでした。日本よりずっと高いので買いませんでしたが、お客さんは全然いませんでした。いや〜徹底しているな〜と思いました。

 この九月に「韓国リバイバルミッション」があります。是非ともお祈りしていただき、時間とお金がある方は行っていただきたいと思います。
 韓国リバイバルミッションが計画されたのは、今年の初めですが、期せずして、この時期になされるのは、大きな意味があると思います。
 私が先週行くことを決めたのは、何週間か前ですが、その時期には、まだ日韓関係はこじれていませんでした。しかし先週なんかは、最悪の雰囲気でした。
 ある教会に行きましたら、「順先生をこの教会に招待したのが、日韓関係が悪くなる前に決めたからしょうがないけれど、今だったら、断ったかもしれない。」なんて言われました。
 でも私は話しました。「暗闇が暗ければ暗いほど、光は輝くのではないですか?」と話して、一緒にお祈りをすることができて、本当に良かったです。
 日本の祝福のためには、隣の民族に関して、無関心ではなく、良き隣人として働くなら、いのちが湧いてくるのです。

 今回、韓国リバイバルミッションがどこで行われるのかというと、ソウルのソンミン教会という教会を会場にして行われます。

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 結構広い教会でしょう。詰めたら千人くらい入ると思います。このように日韓関係が悪い時にこそ、一致が必要です。
しかしソンミン教会に、どうして決まったのかというと、この頃私たちが親しくしている人がいるのですが、その方はどういう人かというと、北朝鮮から脱北した脱北者です。
 日本はあまり報道していないのですが、韓国には北朝鮮から逃げて来た人たちが、三万人以上おられます。
 韓国に来て、クリスチャンになった脱北者の方々は、本当に多くおられます。その中に時々、新城教会にも来てくださる、キムさんと言う方がいます。
 その方が、「私が今仕えている教会で是非とも、韓国リバイバルミッションの集会をやってください!」と言われました。その方はソンミン教会の脱北者の為の伝道師です。「会場に貸してくれるように、主任牧師に頼みますから!」と熱心に勧めてくれました。それで今回、ソンミン教会に決まったのですが、実はこの教会、最初、誰が作ったのかというと、ご存じですか?もう天国に帰りましたが、申賢均という先生が作った教会です。

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 右の二人、どこかで見たことがある人たちですが、、。左の人が申先生です。新城教会には何度も来て、励ましてくれました。
 一九七〇年代、八〇年代、韓国で大きなリバイバルが起こりました。その指導をしていたのが彼でした。本当に有名な牧師だったのですが、よく日本に来て奉仕をしてくれました。
 先生は日本語がぺらぺらで、初め、「韓国に行けば、全員日本語なのか?」と思っていたくらいでした。なぜ申先生が日本語ができたかというと、二十世紀の初頭から、一九四五年まで、日本は朝鮮半島を植民地支配していたのです。そこで日本は何をしたかというと、韓国名を全部、廃止し、全員、日本名にしました。
 それだけでなく、言葉も取ってしまいました。韓国語禁止!ということで、日本語教育を徹底しました。学校で、もしも韓国語をしゃべったら、当時の日本から派遣された先生は怒って、平手打ちをしたりして、罰を与えました。徹底的に言葉を変えようとしました。
 それは日本が「言葉の中に文化がある」と堅く信じて、言葉さえ置き換えれば、日本と同じになるという理論で、言葉を取りました。この先生の世代は、日本語教育を徹底的に受けた世代で、それで日本語ができたわけです。

 しかし一九四五年八月十五日、日本では「終戦」と言いますが、本来は敗戦です。日本は戦争に負けたとは言いたくないから、「終戦」と言っていますが、その日を境に、朝鮮半島は解放されました。自由に韓国語しゃべってもいいですよ!苗字も元に戻していいですよ!となったわけです。
 この先生の世代は、戦争が終わった時、「二度と日本に行きたくない!」と思っただろうし、「日本語なんて聞きたくもない!喋りたくもない!」と考えていたと思います。
 しかし、イエスさまを信じて、神の愛をもらったら、負の遺産である日本語を使って、日本に来て宣教をしてくれたわけです。
 それで私の父の世代と繋がり、日本リバイバルクルセードができ、全日本リバイバルミッション、リバイバルミッションへと、リバイバルの働きが継続されています。
 この先生は、隣人を愛することを実行していたのです。ゆえに私たちにも愛が湧いて、今度は韓国に行って、良きサマリヤ人としての働きをするよう導かれているのです。

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 この集会は北朝鮮のために祈る集会です。この人は、牧師ですが、脱北者です。話を聞いて、たいへん心が痛かったです。「北朝鮮では、どんなでしたか?」と聞くと、彼は軍隊に入っていたというのです。北朝鮮には徴兵制があって、男は絶対に軍隊に行かなければいけないというのです。「何年間軍隊に行くのですか?」と聞くと、「十年です。十年、軍隊で訓練されると、人はロボットになります。」と言っていました。
 十年が終わったら、今度はどうなるのかというと、自由に就職できないそうです。国が指示する場所に遣わされて労働しなければいけないというのです。それでこの国には未来がないと、脱北を決意したというのです。命がけだったというのです。

 今回、いろんな所で奉仕をさせていただいて、脱北者の方々とお交わりをさせていただきました。この方々、皆、脱北者たちです。しかし牧師になったり、神学校に行っている人たちです。その中の一人は日本でも報道された脱北者です。それは非武装地帯を歩いて韓国まで来た人です。地雷原を突破して韓国側まで来て、韓国軍兵舎のドアをノックした人です。よくぞ脱北出来たと思います。彼は現在、神学校に通っています。
 今回の韓国リバイバルミッションには、脱北者の方々も来てくれます。主を信じる時、普通ではありえない人たちと会うことが出来ます。

 どうでしょうか。お隣の国、韓国に、こんな問題があると、どれだけ関心を持っているでしょうか。無関心がすなわち、愛の反対語です。これらに関心を持って、とりなし、祈ることは、いのちに繋がるのです。
 案外私たち、身近なことは祈ります。「神さま、今日はこんなことがありますから助けてください!」とか、身近な祈りはします。しかし自分と離れると、あまり関心を持たなくなります。それではいけないと思います。

 以前にも話しましたが、ある社会学者によると、人は三段階で他人を評価していると言います。家族とか友人は、人として扱います。しかし第二のレベルだと、機械として扱っているというのです。昔、銀行に行きますと、受付にはお姉さん方がずらーっと並んでいて、入出金とかをやっていました。でも、今はどうでしょうか。銀行に行ってもカウンターにお姉さん方が並んでいなくなりました。すべてATMで入出金や振込もできるようになりました。機械に取って変ったのです。第二レベルの評価は、人ではなく「機械」です。その人がいないと、自分の生活が成り立たない。しかし、「機械の一部」みたいな感覚です。
 しかし、さらに遠くなると、「風景」としてしか認識しないというのです。私は礼拝が終わったら東京に行かなければいけません。六時から東京集会があって、明後日から、東京2daysがあります。東京に関心を持って祈ることは重要です。
 東京に行きますと、東京駅は人の洪水です。目的のホームにたどり着くだけでも大変です。これが東京の風景です。しかし逆に、新城に来れば、人がいないという風景があります。人が多いとか、少ないは、風景の一部です。
 人は、常に、この三つの段階で、他人を評価しているというわけです。人なのか、機械なのか、風景なのか。
 しかし機械と風景の領域を、どのように「隣人」として関心を持つことができるか否かが、いのちに関わるのではないかと思います。

 特に、お隣の民族に関心を持ち働きかけなさいと言うのが、聖書が告げる良きサマリヤ人の例えです。ユダヤ人に対して語られたストーリーは、サマリヤ人を隣人として受け入れる事でした。
 国を越え、言葉を越えて、無関心ではなく、機械ではなく、風景ではなく、人として扱って祝福を祈る時、人生にいのちが湧いてくるのです。
 教会に来て人生が変わるのは、お互い風景のような存在が、人となるからではないでしょうか。「教会に来なければ、こんな悲しみは共有しなくても良かったかな、、。」みたいなこともあります。教会である人と友達になって、その方の問題を一緒に悩み苦しむ。別に教会に来なければ、風景の一部だったのが人となっていく・・・。
 教会は、イエスさまがお生まれにならなければ存在しないグループです。しかしそこで、風景が人となり、お互い、祈り支え合う時、いのちが湧いてくるのです。さまざまな問題で苦しんでいる方もおられますが、そのことを耳にしたら、祈り、支えてあげるのが、良きサマリヤ人のための条件です。
韓国に行くと、日本人として全く関心を持っていなかった現実を知らされ、びっくりするけれど、無関心であったことを悔い改めさせられます。

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 九月のリバイバルミッションの決起大会に、この教会には多くの方々が集まって下さいました。韓国と日本が一つとなって、神の国のために働きましょう!という、熱い集会となりました。
 その集会に、パク先生方一家が来てくださいました。この先生方はネパールで働いている宣教師一家です。今年、奥さんがネパールで風土病にかかり、本当に危なかったです。それが抱っこしている赤ちゃんにも移って、家族全員、命を脅かされるほどになりました。しか回復して、集会に来てくださいました。しかし先生一家は、先々週は日本に来られました。
 「なぜ来たのですか?」と聞いたら、私の甥っ子の寛太の為に来たそうです。
 皆さんにも祈って頂いていますが、彼らが寛太のために祈っている時に、「日本に行って、寛太の癒やしのために祈って来い。」と主の声を聞いたというのです。それも一人ではなくて、家族全員で行って来いというみ声を聞いて、わざわざ、民族の大移動、五人の子どもたちを引き連れて、東京に来て、寛太の病院は横浜ですが、なんとか辿り着いて、寛太のために祈って、その後、すぐに韓国に帰ったというのです。
 他の用事で来たのかと思ったら、そうではなくて、寛太の為に来たそうです。寛太も倒れて一年、徐々に回復はしているのですが、是非とも、続けて祈っていただきたいです。
 彼らは本当に愛が深いです。自分たちが病気をして、大変な時に、「寛太の所に行って祈って来い!」と主から語られ、実行されたのです。頭が下がるというか、七人で大きなトランクを持って東京駅に着いたら、日本人が一生懸命助けてくれたというのです。よほど哀れに見えたのでしょう。「いろんな人が助けてくれて、横浜の病院まで行った。」と話していました。
 ちょうどザワメキが、その近所で集会を開催していたので、合流して祈りました。パク先生一家はネパールだけでなく、日本にも良きサマリヤ人となりました。本当に感謝しました。
 しかし、その背景に、私たちも彼らが働いているネパールのチェパン族の所に、七回、八回とツアーを組んで一緒に働いているがゆえでもあります。
 山の子どもたちもだいぶ変わってきたそうです。この頃では勉強嫌いな子どもたちが、聖書を勉強するようになったと聞きました。それが驚くべきことだ!奇跡だ!と言うのです。

 韓国のアグローという団体でも奉仕をさせていただきました。とりなしの女性軍団です。熱い人たちです。この人たちは絶対に祈ってくれます。本当に素晴らしいセミナーとなりました。

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 この方は金斗植先生です。父の時代から、ずっと私たちの働きをサポートしてくださっています。八十歳後半ですが、私が韓国に行くと必ず、「順先生!今どこにいるんですか!食事をしましょう!」と言って、食事に誘ってくださいます。長く生きてほしいなぁと願っています。

 是非とも韓国リバイバルミッションのために、祈っていただき日韓関係が悪い時にこそ、関心を持って、憎しみではなく、愛を持って祈ることが、自分の祝福にもつながります。神さまは案外、問題解決の鍵を近くではなく、遠くに置いておられます。普通ではありえない、関心を持たない場所に関心を持つかどうか、「風景」のように場所に鍵が置かれていて、それを隣人として認めるか否かが、未来につながるか否ではないかと思います。

 日本国内には、韓国と北朝鮮が同時存在しています。
 北朝鮮系の方々は独自の教育機関を持っています。主は 「その場所に行って、彼らの祝福を祈りなさい」と十年くらい前から教えてくださいました。
 初めはちょっと不安でしたが、何度も何度も、学校が終わったくらいの時間に行って祈っていました。
 そうしたら不思議なことが起こって、その学校と交流が始まりました。
そんな中で、働きがどんどん広がりました。実は先週です。

 「一つの夢の旅」という企画がなされました。この子たちは誰かというと、現役の朝鮮学校の子どもたちです。どうしてこの旅が実現したのかというと、一人の韓国人宣教師に、「朝鮮学校に一緒に行きませんか?」と誘いました。すると「関心は無い。」と言っていましたが、無理に一緒に行ってもらいました。すると彼はすごく感動したらしいのです。そして「私は命をかけて、この人たちのために働きます!」と言って、大阪に引っ越しして、その方々のための宣教師となりました。
 今回、その宣教師が企画して、こんなに大勢の朝鮮学校の生徒たちや父兄たちが韓国に来ました。今日はある町の教会の礼拝に出席しています。普通ではありえません、それが十年くらい前から始まった、一つの祈りを通して始まり、大きく拡大しました。
 私はただ「一緒に行こう」とその宣教師を誘っただけです。しかし、神さまが持っていたみこころは幅広いです。
 この働きは今や、北朝鮮にも知られ、感謝されているというのです。
 いずれにしても、良きサマリヤ人としての働きは、目の前では小さく見えるけれど、どんどん大きくなります。

 隣人を愛することが、レビ記十九章に記されているとお話ししました。レビ記十九章を見ますと、その中に含まれているのがなんと、人だけでなく、被造物も含まれていることが分かります。レビ記十九章十九節、

『あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。』

十九章全体が隣人を愛する細則です。その中に、被造物も入っています。「すべての被造物は愛する隣人である」ということです。
 人とは何者なのか、それは神が造った被造物の管理人です。

 ここに、『あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。』とあります。二種類の種を蒔いてはいけないとは、どういうことか。
ガーデニングとか、家庭菜園をやっている人はわかると思いますが、ホームセンターとかで種を買ってきて、蒔いて収穫し、収穫物の中からさらに種を取って、次の年に蒔いたら何が起きるのか、作物は実りません。
 実は、販売されている種は、「タネも仕掛けもございません。」なんていうのは大嘘です。種の中には仕掛けだらけです。
 この頃では強制的に遺伝子をいじっている種がいっぱいあります。日本で「遺伝子組み換えではありません。」と言っているけれど、実際は大豆だとかトウモロコシなどは皆、遺伝子組み換えです。
 これは大豆を蒔いているのですが、草が生えるから除草剤をかけています。しかし左のほうは青々していますが、真ん中は枯れています。どういうことかというと、枯れたのは普通の大豆です。左側の大豆は遺伝子組み換え大豆です。除草剤に対して耐性を持たされているのです。
 二種類の種を蒔くなというのは、人間が神が造られた被造物に、勝手に手を加えるな!ということです。作為的に交配させたりすることを禁じているのです。
 これはどういうことかといったら、人だけではなく、被造物も隣人としているからです。

 もしも地球に宇宙人が来て、人間を捕まえて、「俺たちに都合の良い人類を作る!」と言って、遺伝子に変なものを組み込んだらどうですか?「やめろー!」と、人なら絶対に抵抗すると思います。
 他の被造物だって同じです。すべての命は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」とあるように、主が与えられたいのちです。しかし人類は、自分の都合で被造物を変えてしまっているのです。これって、結構大きな罪です。
 それらに関して関心を持たないといけないですね。

 最後に、良きサマリヤ人の例えは、ユダヤ人とサマリヤ人との間に起こった事件ですが、彼らは気づいてはいませんでしたが、共通の敵がいました。
 いくらユダヤ人、サマリヤ人がお互いに傷ついた旅人を助けても、強盗がいました。強盗がいたから、犠牲者は絶えません。強盗をやっつけなければ平和は来ないのです。
 韓国と日本の間にも強盗がいます。さまざまな領域に強盗がいるのです。強盗とは何か、それは悪魔・悪霊どもです。
 実は悪魔・悪霊どもは目に見えないけれど、実際に存在します。透明人間みたいなものです。では、どこから入ってくるのかということです。それは人が招くから来るのです。人が招かなかったら、彼らは来ないのです。「来てください〜」と言うから来てしまうのです。
 「いや〜、悪霊なんか呼んだ覚えはないよ。」と言うかもしれません。しかし悪霊が招かれる一番大きな原因は祖先崇拝です。
 日本人は先祖を一生懸命、礼拝していますが、先祖は神にはなれません。また、死ぬと霊魂は地上には残りません。先祖を呼んだ時に出てくる霊は、先祖じゃなくて、オレオレ先祖です。先祖のふりをした悪霊です。
 問題が家族の中に起こって、その原因を霊能者に聞けば、言われることはただ一つ、 「先祖が祟っている。」と言われます。先祖が祟るとはおかしいです。死んだら命を神が管理してくれます。先祖のふりをして出て来る連中は、先祖ではなく、先祖のふりをした強盗どもです。
 今週は祖先崇拝が強くなされる週です。
 墓参りとは何か。墓参りとは、「儒教の降霊儀式」です。今月号の教会ニュースを、読んでいただきたいと思いますが、日本人の死後の世界観について書きました。墓参りは大事だと言うかもしれませんが、仏教の儀式ではありません。仏教ならば「墓もいらないし、先祖の霊もいない」はずです。墓参りは仏教行事ではありません。儒教行事なのです。日本の仏教は百済からやってきました。箱には仏教と書いてありましたが、中身は儒教だったのです。
 墓参りとは何か。墓に行って、線香を焚いて、水をかけますがどういう意味を持っているのか知っていますか。

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 人が死ぬと、命は陰陽に分かれて、一つは雲の中に入り、もう一つは骨の中に入ると儒教は言います。それで先祖を拝む為に、雲の中に入っている霊と、骨の中に入っている霊を呼び戻して合体させる儀式が「先祖崇拝」です。陰陽は石塔で合体するので、そこに向かって手を合わせるわけです。雲の中から呼ぶ儀式が、線香を焚くことです。骨の中から霊を引き出す儀式には水を使います。韓国に行きますと、水ではなくて酒を使います。日本は酒はもったいないから、水にしたのか知りませんが、調べると、それらは儒教の降霊術です。悪霊を招く儀式なのです。
 その行為により、先祖ではなく、先祖のふりをした悪霊が招かれます。それ故に問題が生じるのです。
 今週は墓参りが盛んに行われるかもしれませんが、儒教の降霊の儀式である事をよく知って、このような儀式に参加しては駄目です。強盗となって、攻撃を仕掛けられるのです。
 イエスさまの時代のユダヤ人とサマリヤ人は、ギリシャの影響を強く受けて、結構、祖先崇拝が盛んでした。祖先崇拝は、悪魔が世界で最も成功している方法だと思われます。

 最後にご一緒にお祈りしたいと思います。神を心から愛することと、隣人を愛することがいのちを得る秘訣です。
 もしも家に問題があったら、そこに招かれている悪霊の力が打ち破られるようにお祈りたいと思います。

 今から聖餐式を行いますが、聖餐式に関してイエスさまは、「これを覚えて行いなさい」と言われました。イエスさまが帰って来られる日まで、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と。
 「覚える」というギリシャ語は「イエスさまをお招きする」という意味です。
 イエスさまがまだお帰りになる前に、前もって、イエスさまをお招きするのが、聖餐式です。
 今日、悪魔を呼ぶのではなくて、イエスさまを人生に呼んで聖餐式を行いたいと思います。
 今、私がお祈りしますから、私の後に付いてお祈りしてください。

 イエスさま、私は、イエスさまを私の神としてお迎えします。私を良きサマリヤ人として、多くの領域に愛を現す人に変えてください。聖餐式を通してイエスさまをお迎えします。私の所に来てください。すべての問題が消えますように。イエスさまを私の主として告白し、聖餐式を受け取ります。アーメン。