「主の代弁者」

  • 2019年9月22日(日)

新城教会牧師 四元雅也
アモス書3章7節(新改訳2017版)

『まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。』

 ハレルヤ!感謝します。今日もこうして皆さんの前でみことばを取り次ぐ恵みの時が与えられて感謝します。
 まだまだ日中、日射しが強く感じられる時もありますが、秋の装いも段々深まってきて、明日は秋分の日ということなので、秋もたけなわ、後半に入っていくと思います。
私は毎日教会に出てきますが、近頃、駐車場に車を停めて教会に歩いて向かう時、秋を感じさせる被造物のささやきを耳にします。皆さんもそれを感じられるかもしれません。何か分かりますか?そうです。「栗」です。

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 いがぐりがぱかっと割れて、豊満でつやつやな実が、とげの中からこちらを垣間見てささやいています。なぞなぞですが、この栗は何をささやいているのでしょうか?え?「びっくり?」惜しい!

 「♡拾ってくり〜♪」でした(笑)。

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 遅刻しないようにと急いでいるときも、栗のささやきに引き寄せられて、つい立ち止まって拾ってしまいます。朝来た時と帰る時に、二、三分、靴でいがぐりをぐっと踏んで広げて、拾うとき指にとげが刺さったりして「いてっ」とか言いながら、中の栗を拾うと、このくらいすぐに集まります。今日も十二個くらい拾いましたが、皆さんも帰りに寄ってみたら、拾えると思います。拾わないと車に潰されるのがオチなので、拾ってくださったら良いと思います。栗拾いしている間にも、木から実がぼとっと落ちたりします。
これからは栗だけじゃなくて、いろいろな食べ物が美味しい季節になってくると思います。

 今日は「主の代弁者」というタイトルでお話していきたいと思います。「預言者」についてです。

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 イスラエルの民の前で神のことばを語った、それが預言者であります。近くで聞いている人も、遠巻きに「なんだろう」と思いながら見ている人も、身分も違う人が、この絵の中には描かれているようですが、イスラエルにはこのような「預言者」と呼ばれる人々が時折現れたわけです。

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 字が小さすぎて見にくいと思いますが、一番上の段が年代です。紀元前九三〇年にイスラエル王国が分裂して、イスラエルにはヤロブアム一世、ユダにはレハブアムという王様が立てられて、南北の国の歴史が始まっていきます。
 表では両国の王様のリストの間に、預言者のリストが記されています。エリヤとかエリシャとか、今日のみことばの聖書書巻を書き記したアモスも、そういった預言者たちが出てくるわけです。
 祭司とか王たちは他の国々にもいたのですが、聖書に出て来るような預言者は、世界的に見ても特別、独特な存在でした。今日はこの「預言者」という人々から学んでいきたいと思います。

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 聖書の「預言」は右側の「予言(予め言う)」とは違うのです。日本人は「予言」の方が馴染みのある言葉だったりします。一九八〇から九十年代でしょうか。「ノストラダムスの大予言」といって、五島勉が書いてセンセーションが起こり、人々が「終末」について意識する、そんな時代がありました。
 聖書の預言は、主に、預言者らが働いていたその時代の国の状況、イスラエルとかユダとか、その国の状況に向かって、神がどのように感じているのか、ということについて発せられた言葉です。
 預言者たちが未来について語ることもあったのですが、ある聖書学者によると、未来のことについて書かれたのは預言全体の三パーセントに止まるのではないか、と言う人もいます。国に対して神が何とおっしゃっているか。叱責だったり、忠告だったり、警告だったり、「神に立ち返りなさい!そうしないと悪いことが起こりますよ!どうか神の元に帰ってください!」その国の現状を憂いて預言者たちは神のことばを語ったわけです。

旧約聖書には多くの預言者たちが出ていますが、先ほどお読みいただいたアモス書には、神さまは預言者を通して語らずには、その計画を行うことはない。ご自分の計画をそのしもべである預言者たちに何も示さずには何事も行われない。とお読みさせていただきましたが、聖書には他にもこんなことが書いてあります。
 エレミヤ書を見ると、七章二十五節、

『あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わしたが、』

そして創世記を見ると、十八章十七節、

『主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』

 イスラエルが誕生するよりも遙か前、アブラハムの時代に神さまはアブラハムを神のしもべとして選ばれました。
あるとき、ソドムとゴモラに神さまは裁きを下そうと考えられた。そして、その街が本当に神から離れて罪に満ち溢れているような状況なのか、ということを主が確認しに行かれたと聖書に書かれています。
 その時に、「自分がしようとしていることをアブラハムに隠しておくことは良くない」と、神さまがそう考えられて、「ソドムとゴモラの罪は非常に大きい」と語られました。そして、アブラハムと神様の押し問答があって、アブラハムが街のためにとりなしたことが、創世記の中で書かれています。

 新約聖書に入りますと、今度はイエスさまが十二弟子に対してこう仰せられました。ヨハネの福音書十五章十五節、

『わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。』

 そして聖書の最後、黙示録にもこうあります。十章七節、

『第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」』

 このように見ると、聖書の創世記から黙示録まで「預言者」という存在は、神さまが持っておられる計画、思いを代弁する者として、地に対して、人々に対して語り継げる存在であったことを見ることができます。

 先ほど申し上げたように、預言者による働きは、当時の聖書の時代、他にこれに比類するような存在がない、独特なものです。
 何が独特なのかというと、世界に対して真の神さまへの理解を助け、それに基づく預言、神さまが感じてらっしゃることを告げることを通して、その世界観や歴史観というものを民にもたらした人でした。

 旧約学者のマルティン・ノートという人は、預言者の特質を次のように述べています。

『預言者は自分たちの時代の出来事を、全世界の歴史として“神の側から理解した”最初の人々である。』

 人間から出たものではなくて、神の側からこの世界、また歴史というものを見た、そういう人々だというのです。

 「神様」について考えると、世界中同じなのですが、神様が民を守ったり、国を守ったり、また自分の村とか民族を守る、「おらが村の神」、「私の国の神」というイメージを持つのは、一般的に簡単なことです。聖書の時代、古代の世界においても、「神様」と言うと、自分たちの国とか、自分たちの民族だけをかわいがって利益を与えてくれる存在、そういう観念が一般的でした。
 日本でも同様に、つい七十年くらい前、太平洋戦争の時代にも「日本の神は世界一だ!」「日本人は神から選ばれ、他の民族よりも特別に優れた民だ!」という考え方を持って、アジアの諸国に侵略していった歴史があります。そんな考え方は、こうした一般的な神観から生まれています。
 でも預言者が民に紹介した神観はそういうものではない。そういう「民族神」「守護神」という考え方ではなくて、国や民族を超えた「天地の創造主」だと言うわけです。
 そして、全世界の歴史を導いておられる存在としての「神」だというのです。

 旧約聖書には、「イスラエル」という神さまから「選ばれた民」と、「そうではない民」というくくりがあるように見えるのですが、本来神さまは、どのような民族であるか、どこから出たのか、そういったことによって人を偏り見ることがない、そういう神さまです。聖書の神さまというのは、人を偏って見るということがない。聖書全体・歴史全体においてそうなのです。

 それが顕著に表れているのがヨナ書であります。ヨナ書一章一節〜二節、

『アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』

 ヨナはイスラエルの預言者でありましたが、ニネベは世界を席巻するような強大な帝国、今でいうとイラク北部の辺りですが、その首都がニネベですね。そのニネベの民に対して、「叫べ!」とヨナに命じたわけです。「彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」と。
 ヨナは神さまに背いて逃げ出し、逃げた先で嵐がきて海に投げ出されたりして、魚にのみ込まれて、また戻ってきてというすったもんだがあったわけですが、最終的に神さまの導きに従ってニネベに行り、「あと四十日するとニネベは滅ぼされる!」と、一日中ニネベを巡り叫んだわけです。すると、ニネベは悔い改めたと書いてあります。王様から庶民、そして家畜に至るまで、粗布をかぶって灰に座り神の前に赦しを請い求めた。その姿を見て、神さまは下そうと思った災いを思い直されたと書いてあります。
 結論として、ヨナ書の最後に書かれていることは、神さまがヨナに対して、「この大きな街、ニネベを惜しまずにはいられない」とおっしゃいました。「そこには十二万以上の右も左も分からない子どもたちや、数多くの家畜たちがいる」そのようにヨナ書は結論づけられていくわけです。
 このみことばを見るにつけても、当時のイスラエルから見たら、異教の敵国、滅びても仕方がないと思われるようなアッシリア、ニネベに対しても、神様は愛を示されたことが分かります。ある国だけ、その民の利益のためだけに働かれる神さまではないということです。旧約の時代にも、世界の国々に対して神さまは目を注ぎ、心を配っておられた。そしてすべての民が神を信じることを願っておられた。

 出エジプト記に、『あなたがたの中にいる在留異国人を虐げてはならない。』ということばがありますが、神さまは民族とか、国、国語、文化、そういったものによって人を偏って見ることがないということを、預言を通して人々に伝えた。「神さまはこのように見ておられますよ!」ということを伝えたのが預言者です。他の国々にはない「神のことば」を取り次いだわけですね。

 ところで、預言者という者の中にも二種類あります。一つは本物の預言者、もう一つは偽物の預言者です。偽物のことを「偽預言者」と言っています。
 イスラエルには聖書に登場しない預言者もいたようですが、どのくらいいたのかは分かりません。その中には偽預言者も相当数いたみたいです。聖書は「我が民を惑わす預言者」とか、「自分の霊の赴くままに預言する者」といって批判しています。

 預言者が本物か、偽物か、どうやって判別するかというと、聖書の中に書かれています。預言の言葉が実現するかどうかにかかっている。神の名によって預言したことが本当に実現したら、その預言者は本物であって、実現しなければ偽預言者だということであります。簡単に判断できそうなのですが、そう一筋縄には行かないのです。
 というのは、預言者が主のみ名によって語った預言が、いつ実現するかというのは分からないからです。実現するまでに時間がかかったり、あるいは、預言者が死んでから実現するような預言もあるわけです。
 それだけではなく、主のみ名によって預言者は、しばしば民衆に対して、あるいは支配者に対して耳の痛い、聞きたくない言葉を語りました。
 だから民からも、支配者たちからも、「おまえは偽預言者だ!」と指さされたのです。誹謗中傷、迫害が預言者にはつきものでした。
 エレミヤも預言者として苦難を味わった人でありますが、『わたしは一日中笑いものにされ/人が皆、私をあざけります。(中略)主の言葉のゆえに、私は一日中/恥とそしりを受けねばなりません。』と嘆いています。
 このように預言者というのは往々にして、辛い立場に耐えながら、神の召しによって、報酬なしに、しかも、しばしば命がけで主の名によって語らざるをえなかった、そういう人たちなのです。

 そして、先ほども言ったように、神さまは人を偏って見ることがない。それは選びの民であるイスラエルであっても同じでした。イスラエルといえども、神の目にかなわない不正、不義を行うならば、厳しく裁かれると、預言者は語っていたわけです。
 いや、むしろ選ばれた民であるからこそ、より厳しい目で見られるところもあったのではないかと思います。その選びと期待に背いた時、神さまの落胆、神さまの怒りはより激しくなったわけです。

 そして神さまは、先ほどの年表にも書かれていましたが、北イスラエルに対してはアッシリアを起こし、南ユダに対してはバビロニアを起こして、その裁きをイスラエルに下されました。
 イスラエルは強大な大国に敗北して滅ぼされたと見えますが、実は聖書を見ると、そこに神の裁きがあったことを見ることができるわけです。

 ところで、アモス書で神がイスラエルの民に求められたことは何でしょうか。
イスラエルが北と南に分かれてから様々な預言者が出て、聖書の書巻を書き記しましたが、その中で、アモスは一番先に出た預言者でした。
 旧約聖書の「預言書」というと、最初の預言書はイザヤ書です。イザヤ書はまた、預言書の中で最も大きな書巻であるわけですが、イザヤがイザヤ書を記した時代よりも、アモス書は古い時代に書かれています。これはアモス書の一章に、北イスラエルではヤロブアム二世の時代。南ユダではウジヤの時代と書かれており、これは預言者イザヤよりも先の時代です。
 その時代、北イスラエル王国は、どんな状態だったかというと、南北に分かれて後、国家として最も栄えた時代、領土は拡大し、経済的にも繁栄しました。

 しかし、アモス書を見てみると、その時代は国が神と共に歩む生き方を見失い、神が与えられた教えを民が捨て去っていたことを見ることができます。
 繁栄が極まった時代というのは、一方では貧富の差が激しくなった時代であることをアモス書から読み取ることができます。身分の高い者が民を抑圧していた。神への信仰も形骸化していた。
 そういう中で、アモスは民が神に立ち返り「社会正義」を行うことを説いたのです。
「社会正義」とは、貧富の差とか、強い者が弱い者を抑圧するとか、そういう理不尽さを解消して、すべての人々が公平に虐げられることなく生きられることをいいます。
 「社会正義を回復するように」ということが、アモスのメッセージの中心的テーマでした。

 聖書の中には、現代社会に至るまで、歴史上実現したことのない、公平で平等な思想が描かれています。まさに社会正義をうたった律法です。それが聖書の中には書き記されています。それは何かというと、礼拝メッセージの中にもたびたび出てきますが、「ヨベルの年」です。レビ記の二十五章十節を見ると、こんなことばがあります。

『あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。』

 これはレビ記に記されたヨベルの年の記述ですが、ヨベルの年とは、安息日の法則から出ている考え方です。七日に一日は安息日として仕事をせず神にささげられた日として主への礼拝を捧げ過ごす。安息年というのが七年に一度。六年間は地を耕して、畑から収穫しても良い。けれども七年目は安息年として、土地を休ませなければいけない。そして、安息年が七回繰り返された四十九年目。七度目の安息年の、第七月の十日に角笛が吹き鳴らされ「来年は、五十年に一度のヨベルの年です!」という宣言がなされたわけです。

 ヨベルの年には、大きく三つのことがなされます。

 一つ目は「畑の休耕」土地の回復がなされました。二つ目は売却されていた土地の返還。経済的に苦しくなって、生きるために自分の土地を手放した人でも、ヨベルの年には土地を返還されました。そして、三つ目は、奴隷の解放です。自分の身を売って生計を立てなければならなかった人がいても、五十年目が来ると、奴隷の身から解放され、立場が回復される。基本理念は「原状回復」です。
 今も礼拝の中で、「主の回復の時」が言われていますが、ヨベルの年も原状回復というテーマがあります。富の偏在が是正され、土地も人も神の所有であることが確認されて、一部の金持ちが土地をあさって強大な力を持ってしまうことがないように、富が一極集中して起こった格差が再分配によって復旧される、ということが「ヨベルの年」の律法システムによって計られたわけです。

 しかし、「ヨベルの年」は、実は、旧約聖書の中で実際に実行された記録がないのです。イスラエルで、あるいは世界の歴史で現代に至るまで、実際にそのような形で富が返還された事実はないわけです。

 アモス書の中で問題提起されていたのは、実にそのような貧富の問題です。アモス書二章六節、

『主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。』

 アモス書を初めから見ると、まずイスラエルの周りにある国々の罪について神さまが叱責されました。ダマスコの犯した罪とか、ツロの犯した罪とか、モアブの犯した罪とか、そんなふうに遠くから段々と近づいて来るのですが、さらにユダの罪を、そして最後にイスラエルの罪を神さまは示されるのです。慎重に慎重を重ねるように、周りから始めて、最後に、「イスラエルよ、あなたもですよ」と神さまが言われます。そして神さまが、イスラエルの罪を指摘されたその中に、「彼らが金と引き換えに正しい者を売った」「履き物一足のために貧しい者を売った」と、責められたのです。

 ミカ書を見ても、こんなことが書いてあります。ミカ書六章六節〜八節、

『私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』

 ここで、『幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。』と言われています。ここで神さまは高価なささげものよりも、むしろ正義と公義を求める営みの方を喜ばれることを見ることができます。
 イエスさまが献金箱の前に立たれると、大勢の金持ちたちが大金を投げ入れていた。しかし、主はひとりの貧しいやもめが小銭を献げたことに目を留められ称賛された、というエピソードがあります。順先生がよくお話しされますが、イエスさまの時代の、イスラエルの中でも社会に蔓延していたのは貧富の格差でした。それに目を留めようとしない金持ち、金が好きな宗教家、そういった人たちが力を持つ社会をイエスさまは悲しんで、正義について語っておられたわけです。

 神さまの前で正義と公義を持って生きる、神と共に歩むということは、神さまの助けの中で、真の神さまの中で生きるということでしか実現できません。そのことを、預言者たちは民に対して、真剣に、命がけで語り続けたのです。これは、神様が預言者の頭の中にメッセージのテキストを送り込み、預言者が神様の道具として、ただその言葉をスピーカーのように機械的に語ったのではなく、預言者たちは、神さまが持っているのと同じように民を憂い、また愛して語っていたことを見ることができます。

 マイケル・ロダール著『神の物語』にこんなことが書かれています。

“二〇世紀の哲学者であり六〇年代の多くの公民権デモを導いたアブラハム・へツシェル、は、預言者の力は「神の熱情(パトス)」、神の痛みを共有することだと説いた。
 預言者とは神の熱情、苦しむ者への神のあわれみ(Compassion:「他者の痛みを共に味わう」の意)を共有することができるようにされた者だ。これは単なる人間愛によってではなく、神ご自身のあわれみが、預言者を社会的、経済的な正義に駆り立てるのである。この神の熱情を共有したために、預言者たちはイスラエルの宗教・政治・社会の問題に取り組んだ。彼らは単に神に似た視点をもっただけではなく、神の心をもってこの取り組みに臨んだのである。
 …現代ドイツの神学者ユルゲン・モルトマンは、へツシェルを引用して以下のように記している。
「預言はそれゆえ、その本質においては変わることがない運命として、何が未来に予定されているかや、救済に関わる神の「予定」を覗き見ることではない。預言の本質は現在における神の熱情、イスラエルの不服従によって引き起こされた神の苦悩、そしてこの世界における「正義と誉れ」に対する神の情熱である…預言の中心にあるのは、神は苦しむことをいとわないほどに、この世界に関心を持っているという確信である」。”

 「苦しむ神」と、ここに書かれています。神さまは苦しまれることがあるのでしょうか。
神さまは、ある意味で感情的なお方。我々は、怒ったり、悲しんだり、哀れんだり、そういった感情を持っていますが、私たちの信じている神さまも同様であるということです。
 神さまの熱情は、聖書のいろんな所に出てくるのですが、ホセア書に、ホセアの人生と重なる形で、イスラエルに対する神さまの熱情が示されています。
 ホセアは、姦淫の女をめとった。今で言ったら不倫するような女性と結婚したのです。妻ゴメルは恋多き女性でありました。一章から見ていくと、結婚してから、三人子どもが生まれましたが、どうも二番目からの子どもは不倫によって身ごもり生まれた子どものようでした。三番目の子に、ホセアは「私の民ではない」という名を付けたと書かれています。ホセアは奧さんによって苦しめられ、悲しい人生を歩んでいたのです。
そのホセアの苦しみと、神さまがイスラエルの民を見て、「こんなにも愛しているのに、簡単に裏切って罪に向かっていく」、という苦しみが重ね合わされた中でホセア書が書かれました。ホセア書三章一節、

『主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」』

 この時、ホセアは奧さんに逃げられて、一人で暮らしていました。「その妻の所に行って連れ戻しなさい。妻に優しく語りかけて、あなたの元に再び迎えてあげなさい」と神さまが言われたのです。それはちょうど「イスラエルの民を愛していながら裏切られている私と同じだ。」と、神さまはホセアに示されました。
 ここにも、民に向けて正義を語りかける預言者の呼びかけ、そして異なった神々への礼拝の断罪を見ることができます。そして、その非難は、どうしようもなく民を愛しているという、神の愛から出てきていることを、私たちは窺い知ることができます。
 ホセアはそのような神さまの思いを自分の人生と重ね合わせて共有したのです。それは彼の妻ゴメルに対するホセア自身の愛の苦しみゆえであったのです。
 ホセア書十一章八節〜九節、

『エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。』

 ホセア書の最後には、神さまがイスラエルに対する求愛の言葉で結ばれます。ホセア書十四章八節、

『エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。』

 簡単に道から逸れていってしまうイスラエルの民を、神さまはこんなにも諦め見捨てることができなくて、そして情熱を持って語り続けられています。そういう神さまの心の内を自分のものであるかのようにして、預言者は語ったわけです。

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 アモスの後、ホセアは生涯を通じてイスラエルに語りました。その後、紀元前七二二年、北イスラエル王国は滅亡しました。
ホセアの時代と重なって、イザヤという預言者は、南ユダにおいて預言しました。ホセアの預言の後に、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされるのを、イザヤは見ながら、彼も南王国ユダに対して神のことばを語り続けたわけです。
 その後もユダ王国には預言者が出てきますが、エレミヤはイザヤからだいたい百年後の預言者です。エレミヤはバビロン捕囚の最中、第一回捕囚、第二回捕囚、第三回捕囚、そして紀元前五八七年、エルサレム陥落のまっただ中で、エレミヤは語ったわけです。
 エゼキエル、またダニエルも、その時代、捕囚になったイスラエルの民に対して立てられた預言者です。彼らは神によって捕囚からの解放を期待させ、民を励ましました。
 神さまは、ユダの国をその罪によって滅ぼされましたが、先に預言者を送り、「わたしに帰りなさい。立ち返りなさい」と語り続けられたのです。そして、エレミヤに至るまで何度も繰り返し警告を発せられて、ついに捕囚となったわけですが、捕囚となった後には、エレミヤも、またエゼキエルとかダニエルらが出て、今度は捕囚になった民に「神さまが立ち直らせてあげるよ」と、捕囚になった鼻から、回復の約束をイスラエルの民に語られるわけです。ご自分が何度も裏切られて、その罪によって裁かれたにもかかわらず、今度は「帰らせてあげる。」と、イスラエルの民を励まし続ける、そのような歴史の中にある神さまの愛を私たちは見ることができます。
 どこまで行っても神さまは民の側に立ち、ご自分が裏切られて傷つかれたことを民に印象付けることはせず、愛し続けられたのが神さま。そしてその神さまのことばをその情熱をも一緒に預かったのが、預言者なのです。

 このように旧約聖書の歴史を見ると、私たちは、歴史が単なる偶然の積み重ねで成り立っているものではなく、そこに神さまの意思があって、愛があって、私たちはそれをイスラエルの民に見ることができます。それだけではなくて、その愛は全世界のすべての民に向けられていることを私たちは知らなければなりません。
 ですから、聖書を見る時、その歴史の中に神さまの目的があるということを、私たちは明確に知ることができます。その中で預言者は、神さまからの愛をいただいて語り続けたのです。

 神の国のための戦いを、私たちは今この教会の中で、いろんなビジョンを受け取り戦っていますが、その働きは世界を正しく知って見ていく、それもヒューマニズム的な感覚によってではなくて、神さまの愛によって見ていく。そして身近なところから私たちも正義と愛を実践し、また祈りを通して、この世界に対して神の国の正義と愛を宣言していくことが重要だと、今回、学んできたことを通して感じました。

 隣人への愛の実践は、この二ヶ月くらい、順先生のメッセージの中でも繰り返し語られていますが、つい先々週なされた韓国ミッションの働きにおいても実践された働きですね。

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 先週の礼拝メッセージでは、川の両岸に家族が離れ離れに断絶されて何十年も会うことができない、そういった状況を思い浮かべながら、自分のことのように、南北の統一のために祈りましょう、という勧めが礼拝の最後になされていました。

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 また今はヨーロッパでの奉仕もされています。

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 先週写真が送られてきていましたが、スペインに行くと毎回行われるテレビ番組での働きです。

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 今回はベルギーにも行かれて、霊的戦いセミナーが行われました。

先月の礼拝では、私もインターナショナルの働きについて掘り下げてお話させていただきました。この奉仕は、始めは私たちの日常の片隅で、見逃しても心の中に何も残らないような出来事でしたが、神さまによって私たちが目を留めさせていただき、教会の使命として受け止めて今日まで継続している、そういった中で開かれた働きであります。
 それが、ベルギーにも広がって、そして、来年はスペインでリバイバルミッションができないかと、ホルヘ先生と打合せしたと言われておりましたが、神さまの働きというのは、最初は小さくても大きく広がっていく、そういうものであります。

 もう一つ、動画をお見せしたいと思います。



 この風景、この椅子、見覚えがあるなぁと思われる方もいらっしゃると思いますが、ネパールで私たちが毎年山の上の少数民族の所に宣教に訪れている、まさにその場所です。そこで、私たちと一緒に活動してくださっている現地のクリスチャンの方が、ザワメキをネパール語に訳して、動画にして、その山から全世界にYoutubeに載せて発信しておられます。「主の愛が今」もネパール語になって発信されておりました。これは、私たちから頼んだことではなくて、現地にいらっしゃる方たちが、毎年一回だけ、数日間だけ滞在して宣教している若者たちの、愛の奉仕を受け取って、動画を世界中に配信してくださっている。心が結びつくような、本当に感動する動画であります。
このような素晴らしい働きを、毎年、この教会を通して、神さまが世界中で成してくださっているのは、本当に感謝なことだ思います。

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 今日は「主の代弁者」というテーマでお話させていただきましたが、現代を生きる私たちも、預言者たちと同じ立場です。それぞれが神さまの思いを受け取って、またこの地にあって神さまの心を心として、神さまの目で世界を見つめて、そして神さまが成されようとされることを成し、語れと言われることを語る。そのような働きを、今生きる私たちもさせていただいています。そのことを神さまの前に感謝すると共に、私たち自身を神さまの前におささげし、また正しく歩んでいくこと、神と共に歩むことを通して、そのような働きもさらに前進していくことであると思います。
 ですから、今日は私たち一人ひとりが神の前にもう一度出て、そして主の代弁者として歩む、そのような者として、堅く立つことができるようにと主に求めて、祈っていきたいと思います。
 さらに、この教会を通して神の業が現されていくように、預言者たちの働きを心に思い浮かべながら、主の前に進み出ていく者となっていきたいと思います。