「そうだ!主を誇り、主を喜ぼう」 

  • 2019年10月6日(日)

新城教会牧師 滝元開
イザヤ書41章1節〜4節

『島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。』

 前回、私がここでみことばを取り次がせていただいたのが、八月十八日でした。その時は四十章の最後のみことばで、「主を待ち望む者は新しく力を得る」というみことばを分かち合う時を持ちましたが、今日はその続きとなります。

 神さまの恵みの中で、今日こうして皆さんと共に礼拝を守ることができることを心から感謝しています。神さまは私たち一人ひとりのクリスチャン生活、一歩一歩を守り導いてくださっています。それと同時に、リバイバルの働きもここまで主は導いてくださって、神さまのみ手の中で祝福されています。今日はそのことを覚えて、心から感謝する、そんな時になればと、今日このみことばが与えられていると思っています。
 『だれが、これを成し遂げたのか。』『わたしがそれだ。』と、イエスさまご自身が私たち一人ひとりの人生を守ってくださって、導いてくださって、また新城教会の働きも、リバイバルの働きも、ここまで導かれてきたことを覚えて、心から感謝いたします。

 八月十八日ぶりですので、その間にいろいろなことがありましたが、皆さまの祈りに支えられて、ザワメキの働きも祝福されました。北陸地方を巡ったり、韓国ミッションに参加させていただいたり、そして四国に行ったり、岡山に行ったり、また四国に戻ったり、そして先週は富山でした。全ての働きが祝福されて、守られたことを心から感謝しています。背後からの祈りのゆえだなぁとすごく思います。

 今回は四国は四万十市まで行きました。よく四万十のキャンプを私の兄がしておりますが、どこでしているのかは私は知りませんが、今回、四万十市まで行きました。四万十の旧中村市という所で、行かれたことがある場所よりもずっともっと奥なのですが、そこまで行きました。
 いつも車で私たちは行っていますが、四国に行くといつも起こることがあります。何が起こるかというと、台風が来ます。そして、瀬戸大橋だとか鳴門大橋が止まってしまいます。風速二十五メートル以上になると通行止めになるということで、集会終わって渡った途端に通行止めになるということが何度あったか分かりませんが、今回も同じように行った途端に台風が近づいて来て、これまた同じことが起こるかなぁ、一つの教会は毎回行く度に、ザワメキが行く度に、激しい大雨なのです。それでまた週間予報を見たら、その日は絶対に雨でした。「まただ。ザワメキのせいにされるなぁ。」秋の台風シーズンに行くのが悪いのですが、主にあって、主が行きなさいと言われて、いろんな繋がりの中で行くことになったのですが、まただと思って、今回一生懸命祈りました。「イエスさま!なんとか行けますように!」と祈って、そうしたらなんと、台風が少し逸れてくれて行くことができました。
 そしてなおかつ必ず毎回雨という所が、前の日まで天気予報は雨でした。だから、土曜日だったのですが、地域の運動会があって、運動会も校庭でできないから体育館でしたらしいのです。でもその日、朝は晴れていました。運動会は予定通り室内で早く終わったからコンサートに来られた方もおられたのですが、しっかり晴れて、日射しまで射して、今回はなんか現実的な勝利を主がくださったなぁということをすごく思いました。

 そして、四万十市まで行きました。高知県の須崎という所に行って、そこの老人ホームでコンサートをして、そこがかなり遠いのです。私たち的にはかなり遠くて、六百キロくらいあって、その前の日がこの地域の富沢の敬老会があって、そこでコンサートをして、終わってすぐ行きました。
 須崎の働きを午後に終わって、その日のうちに四万十市まで行きました。すっと行けるだろうと思ったら、走れど走れど着かないのです。こんなに遠いんだ!という所まで行って、よく四万十川の沈下橋というのでしょうか。水の中に沈んでしまう橋、有名な橋がありますが、その町までやっと辿り着いて夜が集会でした。
 果たしてここにクリスチャンはいるのかなぁと思って見たら、教会がしっかり二つ、三つあるのです。そして夜、その教会がまた山の上にあって、車がやっと上れるかみたいな所を行って、そしてその茂みの中に教会が建っていたのですが、夜に多くの人が来てくださって、すごく祝福されました。リバイバルを一緒に求めて、イエスさまはこの日本のリバイバルのことをお忘れにならずに、日本中で祈っている祈り、決して多くはないけども燃えている火というのがある。イエスさまだなぁと思いました。
 私は初めて伺ったと思ったのですが、「二十六年前にあなたは来ました!」と言われて、全く忘れておりましたが、また再びその地を訪れることができて感謝でした。

 そんな中で、本当に感じるのは、やっぱり背後の皆さまの祈りなのです。実はこの春から夏くらいまで、私はちょっと体調が良くありませんでした。背中がばりばりになって、亀の甲羅を背負っているようで、家に帰ると廃人のように沈んでいるのです。
 でも奉仕はずっと続いていたので、誰が運転するかというと、家内がするのです。ほとんど家内がして、今回もいっぱいしてくれました。それでその辺からだいぶ元気になって持ち直してきておりますが、運転していて何百キロも行って帰って来て、行って帰るのも千キロ以上になるじゃないですか。そして守られて帰って来る。夜中に帰って来る。そういった中で、いや〜これ、絶対にどなたか祈ってくださっている!感謝しかない!と、いつも思って、そんな思いで帰って来ていますが、本当に支えられていることを心から感謝します。

 またお祈りいただいていますザワメキ十三のレコーディング、十一月に行われることが決定しました。お祈りを本当にありがとうございます。十九日に日本を発って、ロサンジェルスでレコーディングをすることになっていますので、主のみこころが百パーセント現されるようにお祈りいただければと思います。
 今回のレコーディング、ザワメキ十三のレコーディングですが、そのために本当に多くの人たちが献げてくださって、多くの犠牲を、この教会の皆さんから、また遠くの町々からも届けられて、いや〜リバイバルのために賛美の働き、これは主ご自身の働きだなということを思いつつ、皆さんの愛を感じながら今進めています。ぜひ、百パーセント、主のみこころが現されるようにお祈りください。高いところからですが、心から感謝を申し上げます。

今回レコーディングにあたって与えられているテーマがすごく大きいのです。詩篇六十六篇のみことばで、『神への賛美を栄光に輝かせよ。』というみことばが与えられています。神さまの賛美を栄光に輝かす。それは賛美だから当然でしょと思われるのですが、主が私に語ってくださったテーマが、そのみことばなのですが、どのような大きなテーマかというと、そもそも賛美は天使たちがイエスさまのみ顔を見て、イエスさまの近くで心から賛美をしていました。そしてその賛美の長であるルシファーが、もう心から主を崇めて賛美して歌っていたのにもかかわらず、その賛美があまりにも祝福されて、素晴らしくて、麗しくて、美しかったので、その賛美を神さまではなくて自分に向けてしまったその罪のゆえに、神さまのようになりたいというその罪のゆえに、この地に落とされて、琴の音と共に落ちて、サタンと悪霊どもがこの地を支配する、そのような存在になってしまったわけです。しかし、今回のレコーディングでは、「神への賛美を栄光に輝かす」というのは、「そのルシファーがわたしにささげていた、あの時の賛美以上に栄光に輝くものをささげなさい!」と、主が語ってくださったような、そんな気がして、いや〜本当に神さまがここまでリバイバルの働きを一歩一歩導いてくださって、賛美の働きの重要性ということを主が開いてくださる中でのレコーディングです。主のみこころだけがただなるようにお祈りいただければと思います。

 今日のみことば、もう一度お読みしたいと思います。四十一章二節、

『だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。』

 ここまでのリバイバルの働き、誰がさせたのかと言ったら、他でもなく主イエスさまご自身です。そして三節には、

『彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。』

 リバイバルというのは、このみことば通りだと思います。まだ誰も歩いたことのないような所を歩く。誰かが経験したことを、あの人を真似して、このマニュアル通りにこうしてこうしたらここで何かが起こる!というものではなくて、誰も歩いたことのないことを主は進めようとされていると思います。
 イエスさまはまもなく帰って来られますが、イエスさまが帰ってこられるこの時代、人類にとって最後の最後、イエスさまにとってもメインイベントというか、本当に「さぁここだ!」という、イエスさまも最も、「さぁここから私は事を成すぞ!」という、この時に私たちが選ばれて、今ここにいるというのは、神さまからの大きな使命と選びというものがあると思います。
 そのような中で、イエスさまが帰られるその道を備える、やっぱりそれは誰も通ったことのない道であるわけですので、私たちは本当にその道を見極め歩みを続けていかなかったらいけないと思います。

 私の母がよくこのみことばを口にしていました。今、私が家で使っている聖書は実は母の使っていた聖書をあまりにも綺麗だったので母が天に帰ってから拝借して読んでいます。一番裏表紙に「清子」と枯れそうな字で書かれていますが、その聖書の中に棒線が引いてあるのです。所々、それも本当に細い、私では書けないような筆圧の棒線が引かれているのですが、その母がよく言っていたみことばの一つがこれで、「まだ誰も行ったことのない道を安全に通って行く。これがリバイバルだよ」と。でもすごく重みがあるなぁと思います。本当に何もない中で、今から七十数年前に津具村に入って、そして福音宣教の働きが始まって、誰もいないところから始まって今があるというのは、ただ恵みだなぁと思います。
 そんな中でもう一つ、よく母が言っていたみことばは詩篇百三篇、今日礼拝前に、母の聖書を見てみたら、やっぱり母の筆圧の棒線が書かれていました。詩篇百三篇二節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 その時と今を考えると、やっぱり本当に考えられないほどの大きな恵みだと思います。誰もいない、何もない中から始まって、ただイエスさまを伝えるという愛と情熱と、その熱意を持って、福音宣教の働きが始まって、そしてこの新城に導かれて、新城での大きな主の業がなされてきた。本当に主ご自身の働き、「それはわたしだ!」と、イエスさまが今日もおっしゃっておられるので、その主にもう一度、目を向け直して行ければなと思っています。

 この間、水曜日の主日礼拝で、順先生が「新城教会には二つの奇跡がある」と言いました。何のことを言うのかなと思ったら、一つ目、ザワメキだというのです。ザワメキが与えられているというのは奇跡以外のなにものでもない。近くで見ていて、これは主の働き、奇跡としか言いようがないと言っていました。アーメンです。
 以前、順先生と望先生と私と三人で、幻のゴスペルグループ・グロリアシンガーズというバンドをしていました。そこで私はベースを弾いていました。何せベースに取りつかれてしまったのが中学校三年生の時で、もうベースが好きで好きでたまらなくなってしまって、ベースのブーンッ!という音で、「かっこいい!僕これやろう!」と思って、こっそり人のベースを弾き始めました。その内、友達がベースを貸してくれて、ベースをやるようになって、そのブーンブブーン、ブーンブブーン、超地味ですよ。これ以上地味な楽器はないと思うのですが、基礎練習ってすごく大事なのですが、基礎練習だけで三十分とかやるのです。ボーンボーンボーンボーンボボボボーン、これだけを三十分間ですよ。本当に地味な楽器なのですが、本当にあれにしびれてしまって、わくわくしてしまって、そしてやっていく内に「おまえ、グロリアシンガーズに来い。」と言われて、気づいたらグロリアシンガーズで歌っていました。
 そして、グロリアシンガーズでカセット、今ではCDですが、カセットテープを出したのですが、「ひとつの道」というカセットテープを出しました。私が高校三年生の時です。東京に行って、今度十二月に来られる小坂忠先生のスタジオで、一週間こもってレコーディングをしました。実は本当に大変でした。
 吉野家の牛丼が流行り出したばかりの頃で、食べる物は牛丼。そして後はずっとレコーディングしているという繰り返しで、本当に大変で、疲れ切った思い出しかないのですが、それでその時に、その時のリードボーカルが喉をちょっと壊してしまいました。今、静岡のほうで牧師をしている先生ですが、喉を壊して歌えなくなって、その時、高校生で私はベースだけ、後ろで引いていたのですが、「ひとつの道」のタイトル曲を、忠先生がこう言いました。「開ちゃん、歌ってみな。」と言われました。歌も何も、今も変わらないですが、このチリメンボイスと言われる私が、「この世の中に〜♪」と一生懸命歌いました。緊張しまくって、マイク一つで緊張しまくって、「ただひとつのつくられた〜♪」と、一生懸命歌ったのが、なんとカセットになりました。
 それから始まって、カセット三本くらい出ました。三本目くらいの時に、グロリアシンガーズ、みんなオリジナル曲を作ることになりました。順先生も望先生も私も。そして、「さぁ作ろう!」と、一生懸命ひねり出したような曲をカセット化したわけですが、その時のことを順先生は全て知っているので、「どんぐりの背くらべだ」とおっしゃっていました。本当に一緒でした。というよりも、私はその中でも一番音楽から遠い人間でした。そもそもここでギターを持ち出したのは順先生ですし、望先生はそれをもっと極めておりましたし、最も音楽に遠い私にある時、賛美が降り出して、ザワメキのCDが与えられた。今回、CDとしたら十五枚、これは奇跡としか言いようがない!と言っておられたのです。本当に奇跡だなぁと思っています。
 そしてもう一つの奇跡が何かということを語っておられて、それはプレイズ出版。今回、プレイズ出版、名前が変わりました。「株式会社プレイズ」になりました。いいですね。今日は新社屋の内覧会と賛美集会がありますので、是非お越しになってくださればと思います。
 先週の月曜日にその落成式がありました。これがプレイズ出版の外装です。

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 実はこの落成式、本当に恵まれました。私たち、落成式でこんなに恵まれるかと夫婦で座りながらなんというか涙が出てしまうのです。なにせ、落成式でこんなに恵まれていいのかというくらい、聖会に出た感じでした。
 岡本先生が開口一番、何とおっしゃったかと言うと、「岡本君、岡本君は持ってるね。」と言われるというのです。「岡本さんは持ってる。持ってるからここまで事業を拡大して、この時代にそのお歳でここまで成されている。すごい!」ということを皆さんに言われるけど、「そうではないです。」と言われました。ここでスーツ着ておられる皆さん、営業マン、クリスチャンでない方ばかりなのです。全部で百名来られた内の六十名がノンクリスチャンだったのです。その方々の前で、「持ってるねと言われるけども、そうじゃなくてイエスさまです!」ということを言い切って始まりました。そしてイエスさまがどんなにすばらしいお方か、その方が何をしてくださったかということをずっと語ってくださいました。
 最初に順先生がメッセージをしてくださって、順先生は被造物の話もされて、「人とは何者でしょう」、そして「プレイズ」、プレイズとは「主を賛美する」、そこにつなげておられましたが、素晴らしいメッセージが語られました。
 本当に恵まれて、私はちょっと目から涙が出るか出ないかくらいになった時に、岡本先生とちょっと目が合っちゃったのです。これは絶対にまずい!先生もそういった方だから、合っちゃうと…と、目をそらしました。その時は、それで良かったかなぁと思ったのですが、終わった後に、岡本先生に感謝を伝えに行ったら、そうしたら、「あんたな!あんたがうるうるするもんで泣けちゃったじゃないか!」と言うのです。本当にでも涙が出るほどの祝福の注がれた落成式でした。三十年前に小さなプリンターから始まったところから、今ここまで導かれて、本当にその事業が拡大されているのはすごいですね。
 一人の方が祝辞を述べられました。リョービという会社の営業マン、三十年前に来られて、この新城の教会でなんか印刷を始められたという噂を聞いて、その足で営業に来て、プロの使う機械を営業に来たら、「買います。」と言ってくださったと。岡本先生のすごいところは、即決なんですって。普通は何日も、何週間も、何か月も会議を重ねて、どうしようかなと何年か後に入れるところを、「買います!」と言って即決なんですって。すごい!「でも売ったはいいものの、素人に売ってしまって果たして大丈夫だろうか。」と、眠れぬ夜を何日か過ごしたとおっしゃっていたのですが、ただその方が三十年間のことを裏付けするかのように、祝辞と言うよりも、私は聞いているうちに証しかなと思いました。途中、「アーメン!」と言いたくなるような、そんな時でした。神さまがしてくださったことってすごいなということを、今回は強く強く感じさせられて感謝でした。

 二階が新社屋の事務所になっていますが、一階がB型支援のシャロームとなったのですが、それはやっぱり岡本家の正広さんや鶴田けい子さんが、そういった働きをずっと進めて来られる中での働きが拡大しているということで、すごく感動しました。
 また、正広さんも証しをしてくださったのですが、どうしてこういった働きをしているのかというのは、自分の兄がダウン症であったというところから始まって、お兄さんがダウン症で一つの施設に小学生の時に入っている時に、兄弟でみんなでそこに行ったんですって。そうしたら、同じダウン症の子たちがいっぱいいて、一緒に食事したりすると、すごく温かくて、こういった子たちは心が綺麗で素晴らしい子たちだな!と思って感動して、いつかはこういった子たちと共に生活できればと、そんなことを幼心に思ったという、そこから始まったというのです。いや〜、神さまが一人ひとりの心の中に与えておられるその働きって、すごく大きな祝福だなと、神さまのご計画だということを強く感じました。
 また岡本家のお母様、この新城教会で最初に救われた岡本キヨさんですね。キヨさんがその働きをずっと支えて来られたことも話されました。ある時、スーパーマルイチに、初めて、少し障害のある子に入社してもらう時に、岡本正弘さんはどうしようかと迷ったそうです。「きゅうりを三本入れて。」と言っても、四本入れるし、数は数えられないし、この子を入れたらどうなるかなと思った時に、キヨさんがこう言ったというのです。「あんたは損得で物事を考える。それでは駄目だ。そうではなくて善悪でものを考えなさい。愛は犠牲だ。」と言ったというのです。「愛は犠牲。」重いですね。私たち、愛とか言っていますが、犠牲、それが本当にイエスさまご自身は私たちに愛を注いでくださったわけですが、その大きな愛の犠牲のゆえに、私たちがあるわけですが、それを実践して来られ本当にすばらしいなということを今回強く教えられて、本当に感謝した次第でございます。

 さらにみことばを見ていきたいと思いますが、イザヤ書四十一章八節からの所をお読みします。

『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

 神さまご自身の守りのゆえに、私たちはここまで導かれてきているのですが、この中に、八節に、『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。』と書かれていますが、信仰の父アブラハムのすえの私たち、イエスさまを信じてアブラハムのすえとなっているわけですが、「アブラハムのすえであるあなたがたをわたしは守るよ!」というのがイエスさまのみことばです。

 さらにイザヤ書五十一章一節を見ると、

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。』

 アブラハムがたった一人、そして奧さんのサラと選び出されて、その二人が選ばれただけで、数え切れない星のような大きな祝福というのが、今全世界に広がっているわけですが、『切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』
 私たち一人ひとりもそうだと思います。特に、来年は新城教会の宣教七十周年ですね。そしてリバイバルミッションが始まって五十周年、そういった特別な年なので、もうあと三ヶ月で今年も終わろうとしていますが、その特別な年に向かって私たちは本当に良き備えをしなければいけないと思います。それと共に、ここまでの恵みがいかに主からのものかということを、もう一度しっかりと受け止めておかなかったらいけないのかなと思います。

 父がよくメッセージの中で言っていたことがあるのですが、ダンスホールを教会にして、設楽教会というのが始まった時に、その時に教会員がまだ二人だったそうです。そして二人だったんだけど、その時に一人の方が父を慰めるつもりで、「先生!この教会は必ず祝福されて、やがて大きくなりますよ。」と言ったというのです。そうしたら父は何と言ったかと言ったら、「はい!必ず大きくなります!将来はここから五十名以上の宣教師が世界に飛び立って行きます!」と、そう言ったというのです。たった二人しかいない、その実情を見て、幻で今のこの姿を見ていたらそれを言えるのも当然かと思うのですが、何も見ていない中で、たった二人を目の前にその信仰を持ったビジョンってすごいなぁと思います。
 私たち、そういったビジョンというか、イエスさまは生きていて、イエスさまなら何でもできる!という、そういった信仰って、すごく必要だと思います。その信仰の一番の原動力というのは、何と言ってもやっぱりイエスさまに対する愛だと思います。イエスさまは私たちを愛してくださって、十字架で死んでくださるほどに苦しんでくださるほどに大きな犠牲を払って愛してくださった。この愛は、本当に深い愛なので、この愛に応えて、イエスさまのために働く!イエスさまのために戦う!という、そのポジションで歩んでいきたいと心から思います。

 この夏、中高生のキャンプがありました。中高生のキャンプは、だいたいいつもどこかに出て行って、一泊して帰って来ます。でも今回、みんなのスケジュールが合わなかったので、でも一人でも多くの子たちに出てほしかったので、「じゃぁ泊まるのを教会にしよう!」「それがいい!」ということで、教会に泊まることにして、一人でも多くのみんなが参加できるようにということで、夕方からみんなで集まって、食事をして、そして夜は、「歌って踊ってビクトリー!」という集会をしました。
 これは随分久しぶりだったのですが、今から十年前に中高生で始まった集会で、歌って踊ってビクトリー!その時間、以前は五時間とかやっていましたが、今回二時間でしたが行うことができました。二時間、ずっと躍るという集会なのです。一人、踊リーダーというリーダーが出て、その子が躍り、そうすると会衆のみんなも同じことをする。彼がこういうふうにしたら、みんなも同じことをしないといけないという、そういうルールがあるのですが、それをするのです。私たちにとっては久しぶりなのですが、今時の中高生にとっては初めての体験なのですが、そこで聖霊さまの新しい風がふわーっと吹いた感じでした。今時の子たちが、本当に喜んで、わーっと踊り回って、本当に皆さんにも参加していただきたかったですが、本当に祝福されました。
 聖書の中には、踊って歌うことを進めていますので、また新城教会全員で歌って踊ったらいいんじゃないかなと思いました。

 そういえば、十一月十六日土曜日ですが、七時間の賛美集会が開かれます。是非ご参加ください。これ、リバプレセミナーというのが去年ありましたが、「今年はどうしますか?」と聞かれて、一年間のセミナー、全然セミナーとは遠い人間がなんとかセミナーを絞り出してしました。そして、二年目は、実践に移すことにしました。七時間歌い続ける。そこでまた一緒に踊ったりしたらいいのではないかと思うのですが、余談でしたが、中高生キャンプの中で、歌って踊ってビクトリー、本当に大きな祝福でした。

 そして夜は教会で泊まりました。男の子たちはスタジオで、女の子たちは和室で泊まりました。女の子たち、すごく楽しかったそうです。私の家内が泊まったのですが、「ねぇ、のりちゃん!恋バナしよ!」という話になったそうです。彼女は永遠の十七歳なので、その話には付いていける人なのですが、「ところで開先生とどうだったの?」と、「それは置いておいて…」ということで、でもそんな話で盛り上がって、でも十二時には寝たそうです。
 でも私たち、男の子たちも、いろんな話をしていました。私はとっとと寝たくて、その頃、まだ背中に甲羅が付いているバリバリの状態だったので、「おぉ主よ!」みたいな感じで、「寝るぞ!寝るぞ!」と、「十一時半だ!もうみんな寝なきゃいけない!普段何時に寝てる?」とか聞くと、「九時です。」とか言っているので、「九時なら寝なきゃ!」と思って、でもみんないろいろと話し出したら楽しいのです。「もっと語り合いたい。」とか言っているのです。
 それで十二時くらいになったら電気を切って、さぁ寝るぞと、私は寝ました。それでもふっと目を開けると、もう一時過ぎなのですが、暗闇の中に二人くらい立っているかなと思ったら、何と二人、逆立ちしているのです。真夜中に逆立ちですよ!若いっていいですね。それで彼らは眠れなくて逆立ちを繰り返すという、そういった少年たちだったのですが、ただ彼らと話している中で、すごく恵まれたことがありました。
 彼ら「曲を作りたい。曲、どうしたらいいですかね?」『それは天から降って来るものをキャッチするんだ。』「そう思って祈っているんですけどね。」『でもイエスさまが何か、ひとつのテーマというのを与えてくださるから、そういったのをキャッチすればいいんだよ!』と私は言いました。
 そうしたら一人の子が、ぽろっと、こう言いました。「そうですか。それじゃぁテーマ…。あ、僕はイエスさまに恋してるんだ。」と言いました。『え?何と言った?』「僕はイエスさまに恋してるんだ。」『えっ!?』すごいじゃないですか。「僕はイエスさまに恋してるんだ。」僕は○○ちゃんのことが大好きで眠れないだったら分かる年代ですが、「僕はイエスさまに恋してるんだ。」いや〜、なんか久しぶりに心が熱くなりました。私も最近その言葉、言ってないなと、イエスさまが大好きで一生懸命働いてきたつもりですが、イエスさまに恋するほど。十数年前に「Falling in love with Jesus」というアメリカの曲が流行ってましたが、そのことを知らない世代ですよ。その彼が、「僕はイエスさまに恋してるんだ。」いや〜本当にイエスさまに恋して、イエスさまを愛して、もうイエスさま大好きだから、イエスさまのために働きたい!そこが原動力でなきゃいけないな!と、すごく今回教えられました。
 そしてその彼が、彼に了承を得ていますが、彼がこう言いました。「開先生、僕、まだお父さんにも言っていないんだけどさ。」と言いました。何を言うのかな、え、罪の告白?大変なことになるな、がんばんなきゃなと思って聞いていました。そうしたら彼が何と言ったかというと、「僕ね、将来、伝道者になりたいんですね。」と言いました。おぉー!ハレルヤ!いや〜嬉しいですね。伝道者になりたい。イエスさまのことを伝える働きをしたいと。いや〜、イエスさまに恋して、将来、イエスさまのために働く。その思い、逆立ちする兄弟たちだけじゃなくて、私たちすべてが持たなきゃいけない思いじゃないかなと思います。
 イエスさまがここまで、リバイバルの働きを「わたしがそれだ!」と、イエスさまご自身がここまで導いてくださって、考えられないような奇跡、賛美が与えられたのも奇跡ですし、プレイズの働きがここまで拡大して、祝福されて、この世の中的に見ても、そこまでやる!?というほどの祝福が広がっている姿を見ても、やっぱりイエスさまご自身がイエスさまのご計画、主の帰られる道を備えるためにわたしの夢を叶えてくれ!」と言って、託された働きが、この新城教会に託されているわけで、さぁこれからどうしよう!来年はもう七十周年だし、そしてリバイバルミッションが始まって五十周年、おまけに私は六十歳なんですよ。どうでもいいことなんですが、六十歳からこれ、どうしたら、何をしたらいいかなと、人間的に考える必要は全くないなということを、今回すごく感じました。
 ここまで導いてくださったのはイエスさまご自身で、そしてそれを勝利のうちに成し遂げてくださった。「わたしがそれだ!」いや〜イエスさまって素晴らしいお方なので、その主に目を向けて歩んでいきたいと心から願います。

 イザヤ書四十一章十三節〜十六節、

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』

と、このみことばにあります。
 私たち一人ひとりは、虫けらのような者だと。先ほどの賛美の中でも、「虫けらのヤコブよ。」と歌いましたが、そのような者にイエスさまが目を留めてくださった。虫けらですよ。ちょこちょこ歩いている虫けら。こうやって潰したら潰れて、この世から消え去るような、そんな存在にイエスさまは、「わたしがあなたを守る!わたしがあなたを助ける!」と言ってくださっていることをイエスさま言ってくださっていることを心から感謝します。
 そしてこの十六節には、『あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』と書かれていますが、やっぱり私たちが誇るのは、イエスさま以外に誇るものは何もないと思います。

 エレミヤ書九章二十四節に、

『誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。』

 イエスさまを知っていること。イエスさまを知って、イエスさまと共に歩ませていただいていること、このことを誇って、そしてその主を喜ぶ、そのような歩みをしていきたいと心から願っています。

 最後にもう一箇所開きます。ヨハネの福音書十五章一節、

『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。』

 そして二節〜四節、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』

 私たちはイエスさまに止まる。そのことによって多くの実を結ぶことができる。イエスさまがぶどうの木で、私たちはその枝ですが、枝についているだけで実を結ぶことができる。イエスさまに止まることのできる恵み、これはどんなに大きなことで、大きな主のご栄光を現すことかということをもう一度知り、歩んでいきたいと思います。

 同じ十五章七節〜八節、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』

 私たちはイエスさまの名前によって求めたら、イエスさまは何でも与えてくださるというのがこのみことばですし、多くの実を結ぶこと、そしてイエスさまの弟子となることによって、天の神さまが栄光をお受けくださるというのが、このみことばですので、私たちは本当にイエスさまに止まって、歩んでいきたいと心から願います。そうした時に、多くの実を結びます。
 そしてまた『わたしの弟子となる。』よくキリスト教会の中で、「弟子化訓練」という言葉があって、私はあまりその言葉はあんまり得意な分野ではありません。「弟子化」、なんかどこかの組織のロボットになるような、そんなイメージがすごく強かったのです。でもイエスさまのおっしゃっている弟子、イエスさまの愛された弟子たちというのは、ただイエスさまと共にいて、共にイエスさまと寝起きを共にして、寝食を共にして、イエスさまのなさる業というのを間近で見ていたというのが弟子たちなのです。
 私たちの信仰生活、別に献身してもしなくても、それぞれの生活の中にイエスさまが一緒にいてくださって、朝起きても、食べるのも、飲むのも、何をするのもイエスさまで、どこに居てもイエスさまと共にいたら、私たちはイエスさまの弟子ですので、そのことによって天の父なる神さまは栄光をお受けくださる。これがみことばですので、ただただ私たち、イエスさまの愛の中に止まって歩んでいきたいと思います。そうだ!私たちは主をほこり、そして主を喜ぶ。そのような歩みをさせていただきたいと心から願います。

 一言お祈りさせていただきます。ハレルヤ、天のお父さま。あなたの素晴らしいみ名をあがめて、心から感謝します。あなたのくださった数え切れない、計り知れない恵みと愛のゆえに心から感謝します。この二〇一九年もここまで守られて導かれてきたこと、心から感謝します。残されたこの三ヶ月、主よ、あなたご自身のみこころを百パーセント成し遂げることができるように助けてください。私たちはただもう一度、あなたに栄光をお返しし、ただあなたを誇り、あなたを喜ぶ、そのような歩みをすることができるように、助け守り導いてください。
 ここまで支えてくださった主が、なおも支えてくださるお方であることを信じて、心から感謝します。来年は宣教七十周年、そしてまたリバイバルミッションの働きが始まって五十周年という、大きな節目の年です。その年を始める前のこの時、私たちもう一度、あなたに目を向けて、あなたご自身にしっかりと結びついて、あなたご自身のしようとされていることが成し遂げられていくことができるように助け守り導いてください。
 主よ、今日の時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返しし、尊き主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン