「ヨナの愛国心と神の愛」 

  • 2019年10月20日(日)

新城教会牧師 四元雅也
ヨナ書1章1〜3節【新改訳2017】

『アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。』

 ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんの前でメッセージをする恵みの時が与えられたことを心から感謝します。今日も順先生ご夫妻は四国で、また、岡本先生も東京においてご奉仕されています。ザワメキは台湾で忙しく奉仕されていますが、ぜひ先生方の奉仕のためにお祈りください。

 秋が深まってきていますね。今日は午後から「ガーデンプレイズ&焼き芋大会」という、この時期らしい企画が予定されています。子どもからお年寄りまでいろんな方々が賛美リードされます。文化の秋、スポーツの秋、ファッションの秋とか、いろいろな言葉がありますが、いろんなバリエーションで賛美が捧げられます。焼き芋も楽しみにしていただきたいと思います。今日は一日ゆっくりお過ごしいただけたらと思います。

 去年もこの時期に話しましたが、私の家内の実家は田んぼを持っておりまして、この時期稲刈りが行われます。家内の両親が長年頑張って米作りをしてくれていたのですが、年を取ったこともあり、昨年から実家の長男夫婦が主になり、私たち夫婦も少しお手伝いして稲刈りをしています。田んぼの一部では、はざ掛けもします。

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 こういったものです。稲穂を物干し竿みたいなものに干して乾燥させて、それから脱穀をするという、こうするとお米がより美味しくいただけるということで、自分たちで食べる分くらいはざ掛けをしています。
 二週間前にはざ掛けをしました。ですが、台風が近づいていたので、去年は台風ではざが倒れてしまって立て直すのに大変な思いをしましたので、倒れないように補強しなくては!と、頑張ったわけですが、先週の台風十九号で今年も見事に倒れてしまいました。
 義父がやると倒れないのですが、どうも、われわれ若い衆は、まだまだはざ掛けの極意がわかっていないみたいです。台風が去って、車でこの辺りを走ると、別の田んぼでもざが掛かっていて、大丈夫だったりします。しっかり研究して来年は台風が来ても負けない、倒れないはざ掛けをしたいと思います。
そんな秋の日々を楽しんで過ごしましょう。

 九月二十二日の日曜日に、「主の代弁者」というタイトルでお話しさせていただきました。今日はその続きになるようなメッセージをさせていただこうと思います。新城教会のホームページをご覧いただきますと、その時のメッセージが文章になって読むことができますので、後でそちらもご覧になったら良いかと思います。

 いきなり私事ですが、先日起こったハプニングをちょっとお話ししようと思います。
私の長男が大学で部活をやっていて、たまに遠征に出かけます。先日、台風十九号の前ですが、福島県で大会があって出かけました。移動をなるべく安くするために高速バスを使い、夜行で向かってきました。その乗り降りする場所が東名高速の本宿バス停、家から車で一時間弱の所でしたので私が送迎しました。
遠征が終わって帰って来る日に、夜通し走って来るので、バス停に到着するのが朝五時だと言われ、朝四時頃に起きて迎えに行きました。私一人でも行けたのですが、家内が、私が居眠りしないようにと付いて来てくれました。
 秋に入って、四時過ぎは夜の帳が開ける前で、まだ暗い中出かけて行きます。四時半頃、ちょうど県道二十一号(千両街道)の途中、信号交差点にさしかかったとき、ふいにその交差点の真ん中に大きな塊があることに気づきました

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 近づいてみると、倒れた人と自転車でした。その交差点の先にはトラックが止まっていました。本当に驚きました。今起こったばかりの交通事故に出くわしたのです。車を出て走り寄ると、倒れていたのは七十、八十歳ほどのおじいさんでした。
 近寄ってみると、おじいさんは頭から血を流し地面には三十センチほどの血だまりがあるのです。おじいさんは意識もなく、呼びかけに反応することもなく、大きないびきをかきながら横たわっていました。いびきをかく場合には危険な時があるので、とっさに「頭部に深刻なダメージを受けた!?」と思い、命に関わる状態だ!一刻も早く病院に連れて行かなくては!、一緒にいる家内に「救急車呼んで!」と頼みました。家内は携帯を取りに車に戻ったのですが、その間に僕はおじいさんに手を置き、「イエスさま。この方の魂を救ってください!この方の傷をいやしてください!」とお祈りしました。
 ほどなく前方に止まっていたトラックから運転手が出てきましたが、こちらが「救急車を呼ぼうとしている」と伝えると、「私も会社に電話します。」と車に戻られました。
 家内は気が動転していたようで、一一九番しなければならなかったのに間違えて一一〇番してしまい、繋がったら警察だったのですが、状況説明していてを切るわけにもいかないので、私が車から携帯を取り出し一一九番しました。しかし、私も気が動転していたのか、かけても呼び出し音が鳴らず、この緊急時にどうしたのかと焦りました。そうこうしていると通りがかった車が止まって何人か降りてきたので、一人の女性の方に頼んで一一九番してもらいました。
 その後は運転手も来られて、おじいさんの様子を見ながらも、うかつに動かすことも介抱することもできず、路上に寝かせたまま、祈りつつ行き交う車の交通整理しながら警察と救急車を待ちました。
 十五分くらいして警察と救急車が来ました。私が気づいたら、その時になっておじいさんは警察の方の呼びかけにわずかに反応を見せ、いびきも止まっていたので、「もしかしたら助かるか?」と期待しつつ、ここから先は専門家にまかせることにし、運転手に断りを入れて五時ころ現場を後にしました。
 走り始めると未だ薄暗いのですが、朝が早い方も多くて、散歩されている方がちらほら見られます。その横を通り抜けながら、自分があと一分早く出かけていたらどうなっていたか考えるとぞっとし、祈りながら車を走らせました。
皆さんの中に朝早く散歩される方がいらっしゃるかもしれませんが、事故が起きやすい時間ではないかと思いますので、ライトを反射するものを身につけたり懐中電灯を持つ等、気を付けていただきたいと思います。

 その日、ずっとそのおじいさんが気がかりでした。正午頃、警察から家内の携帯に電話がかかってきました。事故現場についての状況説明を求められ、私が運転していたので、私が代わってお話ししました。やはり私たちが事故の最初の発見者だったようで、事故の瞬間は見ていないので答えようがないというところもあったのですが、聞かれるがまま答え、「職業は何ですか?」「新城教会の牧師をしております。」と、こちらの素性も聞かれたりしました。
 でも、警察との話しの中で一番良かったのは、おじいさんの命が助かったことを知ることができたことです。それも、奇跡的に軽傷だったというのです。はねた車のフロント硝子には頭の跡がはっきり見て取れるほど激しくぶつかり、地面にも血だまりができるほどだった、にも関わらず、検査の結果頭部にはダメージもなく、鎖骨が折れただけで、運び込まれた病院で集中治療室に入ることもなく、初めから一般病棟で、意識もしっかりしておられたということでした。本当に感謝でした。
 それから三日間、三回に渡り同様の事情聴取があり、警察も大変だなぁと思いましたが、その時たまたま通りがかった見知らぬ方の窮地に際し、牧師としてその方のいやしと救いのためお祈りさせていただいたと説明した時、警察の方が、「それであの方は、あんなに軽傷で済み、命が助かったのですね。私も不思議に思っていました」と仰いました。お世辞もあるかもしれません、でもその言葉を聞いて、心の中で、ハレルヤ!と感謝しました。
 私たち夫婦が事故後最初の通行人だったのですが、今はそれでよかったなと思います。二番目、三番目だと、なかなか直に手を置いて祈るということもできないでしょうし、最初に遭遇したので人目を気にすることなく、直ちにお祈りすることができました。
その場所にいた時は、自分の力が及ばぬ現実に立ちすくみ、人間的には何もできない、ただ神さまに助けを求めて祈るだけという感じです。医学の専門知識があるわけでもなく、その人を治療・介抱するためのスキルや道具があるわけでもなし、何もできない中、祈ることだけはできた、そのことが本当にありがたかったです。
 最初に到着できて良かった、そこに何かしら神さまのタイミングがあるかもしれないなぁと思ったりするわけです。
 もう一つ、その週に、ある家庭集会の中でこの出来事の証しをしました。すると、そこに参加していたある姉妹が仰いました。「その場所は私もよく通ります。あそこはよく事故が起きる所で、私も通るたびに守りのためにとりなしの祈りをしています。」と。その話を聞いて、私ひとりの祈りではなく、その場で幾度となく捧げられた祈りがあったことを知りました。

 ヤコブの手紙五章十五節〜十六節【新改訳2017】、

『信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。』

 「祈り」は神さまが私たちに与えてくださった、素晴らしい特権であり、武器です。「祈り」を通して私たちはこの世界に神さまのみ手を現し、敵の力を打ち破ることができます。道を走りながらとりなししていた姉妹のように、ここにいらっしゃる皆さんお一人お一人の日常の中に、あなたしかできない祈りの場所があるわけです。神さまが示してくださる、あなたにしかできない祈りを捧げることができるよう主に求めていきましょう。

 そして、今日の本題であるヨナ書は、四章しかない小さい書巻ですけれども、旧約聖書の中でも独特な存在意義を持った書巻です。

 ヨナは紀元前八世紀のイスラエルで活躍していた預言者です。

 紀元前八世紀というと、イスラエルが南北に分裂していた時代です。この時代、前回お話ししましたアモス書が書かれた時代です。治世としては、ヤロブアム二世の時代にヨナは活躍しました。それは聖書の第二列王記十四章十五節に書いてあります。

『彼(ヤロブアム二世)は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。』

 「アミタイの子ヨナ」とういう人はどんな人物か、ヨナ書以外ではここに書かれていることしかわかりませんが、実在した人だということが分かります。

 ヨナ書の物語は劇的です。ほとんどの方がご存じだと思いますが、ざっとヨナ書のあらすじをなぞっていきたいと思います。

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 ある日、神さまはヨナに向かって異邦人の地である、アッシリアの首都二ネベに行くことを命じます。ニネベは地図の上に赤い枠で囲った場所です。このニネベはアッシリア帝国の首都だったのですが、悪に染まったニネベの町を神が滅ぼすことを預言するのが、主からヨナに託された使命でありました。
 ところがヨナはこの命令を拒み、ニネベとは正反対のタルシシュへ行こうとしました。タルシシュは現在のスペインだと言われていますが、イスラエルから見ると、地中海を挟んだ真反対です。ヨーロッパ大陸の西の端になりますが、そこに向かって行く船に乗ったというのです。
 ヨナはヤッフアから船に乗りました。すると神は大風を送って海を荒れさせ、ヨナは海中に投げこまれます。そこで神が差し向けた巨大な魚にのみ込まれてしまう。しかしヨナは、その腹の中で三日三晩を過ごし、その後、主の命によって、魚はヨナを陸地に吐き出しました。
 こうして物語は振り出しに戻り、神さまはもう一度ヨナに、「立ってあの大きな町、ニネベに向かって、これに叫べ!」と命じられるわけです。そして今度はヨナもこれに応じてニネベに行きます。ニネベに着いたヨナは町中を歩き、異邦人たちに向かって「四十日後にはこの町は滅びる」と、短い主のことばを宣言して回ったわけです。
 するとニネベの人々は神を信じ、罪を悔い改めたと書いてあります。ニネベの王は、人間のみならず家畜も断食し粗布をまとって、悔い改めて神に助けを祈り求めるように、とおふれを出しました。そして神は人々が悪から離れたのを見て、ニネベに下そうと決めていた災いを思い直されました。神さまが「裁く!」と決めておられたのに、ニネベの人たちの態度によって、その考えを思い直されたと書かれています。こうしてニネベは救われ、裁きを受けることがありませんでした。

 ここで物語は終わりません。これを見たヨナは大変不機嫌になりました。ヨナは大いに怒り、神に向かって不満を爆発させます。「先に私が言った通りじゃないですか!神さま。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方じゃないですか!」と言って、神さまの良いことばかり、神さまにぶちまけるわけです。
 本当だったら、「恵みと憐れみの神です。災いをくだそうとしても思い直される方です。」と、神さまをほめたたえる言葉なのですが、ヨナはそれを神さまに対する文句として言ったわけです。この時のヨナは、神さまのそういう良いところが実に気にくわなかったわけです。「本当に気に入らない!なぜなら神さま、あなたが良い方だから!」と言ったわけです。おかしな男ですね。
 神さまは「ニネベに対し『滅びる』と預言せよ!」とヨナを召し、ヨナはすったもんだ大変な目に遭って、ようやくニネベについて主が言われたとおり預言した。それなのに、そのような経緯を経てやっとの事で宣言したヨナの預言を、神さまは簡単に?覆してしまったわけです。彼のメンツが丸つぶれだったのです。「偽預言者!」と言われても仕方がない立場に追いやられたわけです。
 さらに歴史的には、この時に救われた二ネベの人々、すなわちアッシリア帝国こそ、後に北王国(イスラエル王国)を滅ぼすかもしれないことを、ヨナは意識していたに違いないと思われます。ヨナにとっては敵国の人間を救うことになってしまった自分の行いに、行き場のない悔しさを覚えたわけです。「こうなることが分かっていたからこそ、自分は初め逃げたんじゃないですか!」と。こういったヨナに対して神さまは忍耐を持って、その不機嫌を直されようとされます。「あなたは当然のことのように怒るのか。」と。
 怒りまくるヨナは、その問いを無視して、高台に物見の場所を作り、ニネベはどうなるか、火が下るか、今か今かと待ち望んでいたわけです。まるですねた子どものように。でもニネベは何事もなく時間だけが過ぎていくわけです。
 神さまはそんなヨナに対して、唐胡麻を生えさせて機嫌を直そうとされます。ヨナの頭上を覆って日陰を作ってあげる。唐胡麻とはこれです。

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 ヨナはたいそう喜んだが、翌日、神は虫に命じてその唐胡麻を食い荒らさせたので、木は枯れてしまう。そして熱い日差しと焼けつくような東風にさらされ、ヨナは神に向かって「生きているよりも、死ぬ方がましです」と訴えました。

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 神さまは再び「あなたは当然のことのように怒るのか。」と問われます。「私が怒るのは当然だ!死んだほうがマシだ!」とヨナは言ったわけですが、最後に神さまがヨナに対してこう言われました。ヨナ書四章十節、十一節です。

『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。』

 この神さまの問いかけによってヨナ書は終わるのです。この物語の中で、神さまはそのみ手を持ってニネベの町を救い導くという計画を現しました。そのために、様々な方法でヨナを導かれて、嵐に合わせたり、大きな魚にのみこませたり、唐胡麻を生えさせたり、いろんなことを通し、ヨナの手を通して神の業を成し遂げられたわけです。
 私たちの人生の中にも、そのように神さまのみわざが現されます。神の時が現されます。先ほどの証しのように、とんでもなくシリアスな場面に不意に出くわしてしまうこともあるかもしれません。今回の出来事は私も生まれて初めての経験でありましたが、皆さんにも人生の中で起きるかもしれません。そういった中にも神さまのタイミングがあります。事故があって一分後に私が現場に差しかかったのも神さまの時だったかもしれません。

 主は、主に従わずに逃げ出したヨナを嵐の中に、海の中に投げ込んで、魚にのみこませたと書いてあります。「のみこませた」と訳された動詞は、ヘブル語で「バーラ」という言葉が使われています。この言葉は、旧約聖書の中でいくつか使われています。
 創世記四十一章七節では、エジプトのパロが「(七つの)しなびた穂が現れて、・・肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまう」という夢を見ました。その「のみこんだ」もこの言葉です。
 また、出エジプト記七章十二節では、モーセがパロと対峙した時に、手に持っていた杖をパロの前に投げた。するとその杖がヘビのようになった。エジプトの呪法師たちも自分たちの杖を投げてヘビを出した。すると、モーセの杖はその呪法師たちのヘビをのみ込んだと書いてあります。その「のみこんだ」も、「バーラ」という言葉です。
 つまり、「のみこむ」とは、神さまが主権的な力を現して、神さまに従わない者をのみこんでしまうという、そういう意味があって、従わないヨナを主ご自身の主権の中に取り扱われたと考えることができます。

 ところで、この魚の腹の中でヨナは三日三晩過ごすわけですが、「腹」という語彙は、ヘブル語では「メーエ」という言葉だそうです。この言葉は「腹」とも訳すことができるわけですが、同じように母の「胎」という意味を持つ言葉です。だから魚の「腹」を「子宮」と解釈することもできます。
 魚の腹という胎の中で、新しいいのちが宿されているニュアンスになる。つまり、そこから生還したヨナは、新しいヨナになる、新しく生まれたヨナになったということなのです。

 先週、山崎ランサム和彦先生をお迎えし、素晴らしい礼拝メッセージと午後のセミナーの時間を持っていただきました。セミナーの中で、山崎ランサム先生が神さまによる天地創造についてお話しされました。「創造」ということばの意味が、私たち現代人がイメージする「創造」の概念の枠で、無から有を生み出すとか、宇宙が何もないところから始まったのだと、創世記一章が指し示していると捉えるのではなく、むしろ、混沌とした世界、闇や水、そういった中に光を創造し、闇と光、昼と夜の繰り返し、という秩序と機能を生み出された。その混沌とした中から秩序と機能が生まれること、それが聖書に書かれている「創造」の意味なのだ、という解釈をセミナーの中で教えてくださいました。
 そして、創世記一章の神による天地創造のテーマが、実は聖書全体を通して貫かれているテーマだと受け取ることができる、というお話をされていました。
 このセミナーについては、新城教会ホームページの会員専用ページで動画を見ることができます。またご要望に応じてDVDに焼いてお分けすることもできますから、欲しい方は言ってくださればと思います。

 例えば、出エジプトの時に、神さまがモーセを通して紅海の海を分けられ、イスラエルの民を、海の中を通らせてエジプトの追撃から救われたという業です。このみ業も天地創造の中に流れているテーマと同じです。イザヤ書五十一章九節〜十節で、バビロニアの捕囚から帰還したイスラエルの民について、天地創造の物語と、海の中を通ったイスラエルの物語とを結び合わせ、混沌の力を象徴する「ラハブ=海の怪物」を殺し、海の底を通ることによって新しく生まれた民としてイスラエルが創造された、という書き方がされているとお話されていました。
 また、イザヤ書四十三章十五節にも、イスラエルの創造者は、海と荒野という混沌を通して、秩序の地カナンにイスラエルを導き入れた神さまだと紹介されています。新しい創造がそこにあったと山崎ランサム先生は先週おっしゃっておられました。

 新約聖書にも同じテーマが随所に見られます。これは新約聖書、使徒の働き二章、ペンテコステに、二階座敷に集まっている人たちが、聖霊に満たされた。炎のような分かれた舌が一人ひとりの上にとどまった出来事です。
 イエスさまが十字架の贖いを完成され、弟子たちの目の前で天に昇られた後、残された弟子たちはエルサレムで祈り続けていました。十日後、ペンテコステの日に、炎のように聖霊さまの激しい注ぎがありました。その時、弟子たちの舌には、世界の国々の言葉があふれ出たとあります。
 これは、創世記の十一章で、人間の高ぶりをご覧になった神さまが、言葉を混乱させたバベルの呪いの物語、この出来事に対する新しい創造のわざ、混乱したものをもう一度神さまが主権の中で秩序立てられるみ業です。
 その結果教会が立てられて、聖霊によって満たされたクリスチャンたちによって、後の世界の歴史の中で、民族や国々を越えた福音宣教の働きが展開されていくわけです。ペンテコステが、世界がイエスのみ名においてひとつとされていくことへの序章となったわけです。ここにも混沌の世界に秩序と回復のわざが描かれています。

 そして、ヨナ書の中にも、神さまの召しに逆らい反抗するという罪によって、荒海に投げ込まれ、魚の腹の中という暗闇・混沌の中で三日三晩過ごしたヨナは、そこで神さまに取り扱われて悔い改め、信仰の告白をして、三日後に新しく生まれたヨナになって、預言者として神の使命に生きるようになる、神の新しい創造が描かれていることに気づかされます。

 「腹の中」は暗やみの象徴です。しかし、「胎」であるならば、そこに新しいいのちの希望があります。ヨナ書において「大きな魚の腹の中」に三日三晩いたというのは、そのような状態です。そこには神さまの救いが象徴されています。それは、福音書の中で主イエスさまが言われた「ヨナのしるし」です。イエスさまは十字架という苦難を通られ、三日間墓の中におられた。そして復活された。そのことを通して、すべての人の贖いが成し遂げられ被造物の贖いが成し遂げられたということであります。
 ここまで見ると、ヨナの姿とは、イエスさまの救いを受け入れて新しくされた、私たちクリスチャンの姿でもあるわけです。

 第二コリント人への手紙五章十七節には、キリストのうちにあるものは新しく造られたもの。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった、と書かれていますが、この「新しく造られたもの」とは、「そこに新しい創造がある」と読み替えることができると言われていました。
 聖書は不思議です。創世記から始まって、旧約聖書全体、そして新約聖書を見て、イエスさまの生涯を通して、また教会の成り立ちを見ても、そこに神さまの創造物語が一貫して表されているわけです。

 そしてヨナ書には、イスラエルの民の選民思想や、「我々は神に選ばれているんだ!」という特権意識を否定し、すべての国民を神さまが愛しておられ、悔い改めと共に、救いの道を神さまが備えられることが描かれています。これは当時のユダヤ人の中にはない概念でした。驚くべき内容でした。これが旧約聖書の中に含まれていることは、大変重要なことです。

 自分を滅ぼし、自分たちの国を滅ぼしに来るかもしれないニネベ、このニネベには救われてほしくない、自分がへたに預言して、もしニネベが悔い改めでもされたら困る、ヨナはそういう思いを持っていました。そこにはヨナの愛国心があったわけです。それは裏返すと、イスラエル民族以外の民は顧みない。むしろ、神の呪いを受け、滅びてもかまわないという、独りよがりな愛国心、差別的な民族主義を彼は持っていました。それはそのまま、ほとんどのユダヤ人たちのマインドに刻まれていたものでした。
 これに対して、神さまはご自身が世界の民を偏ることなく愛しておられることを悟らせようとされます。神さまに背いたり、従ったと思ったらまた文句を言ったり、そういう不完全なヨナに対しても、神様は忍耐強く説得しようとされたのです。
新約の時代になって、主イエスさまの十字架の贖いと、聖霊のそそぎによって、はっきりとすべての人に分け隔てなく与えられる恵み。この恵みが十二使徒を始めとし、教会を通して、現代に至るまで世界中に届けられることになったわけですよね。時代を越えて現される神様の愛は、今まさに私たちにも注がれているわけです。

 さて、このヨナ書の最後、先ほどの四章十節、十一節、もう一度読んでみたいと思います。ここを読んでみますと、

『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。』

と、神さまが問いかけてヨナ書は閉じられます。ヨナが何と返答したかは書かれていません。あくまでもヨナが自分の考えに固執して、それまでのヨナのあり方を捨てずに押し通したかもしれないですし、そこまで言われてやっと気がついて、「神さま、そうですね。あなたは本当に恵み深い方です。ニネベ、異邦人の町の人たちもあなたの愛の中にあるのでしたね。」と彼が受け入れ、その生涯をニネベの人と一緒に過ごしたかもしれません。
ここでヨナのリアクションが伏せられているのはどういうことかというと、最後の節の神様のことばは、私たち読者への問いかけなのです。ヨナ書を読む私たちがその答えを自分で決めるため。
 この物語は、ただ「ヨナという人がいました。ニネベに行きました。預言をしてニネベが助かりました。めでたしめでたし。終わり。」というものではないのです。「あなたはどう感じ、神さまにどう返答しますか?」と、私たちに投げかけられているものがある、ということなのです。ヨナ書は、私たちに神さまの前でどのように生きるかということを問いかけているわけです。

 ヨナは、その人生を通して、彼の人生の最も重要な部分で、自分の願い感じたことを行うことができませんでした。むしろ彼は、神さまによって望まない仕事に就かされたわけです。これをやれ!と命じられて、最初は拒絶して逃げた。でも最後に引き受けた。だけど、引き受けて現れた結果がまたヨナが望んだものではなかった。彼は神さまから使命を受けて、その使命に従って、それを全うしたわけですが、それが自分の思い描いたことではありませんでした。思い描いた業績、実が結ばれたわけではない。言ってみればヨナの人生、彼の仕事はかわいそうな役回りでした。
 この地上に生きる多くの人たち、私を含めたここにいる皆さんも、時としてそうだと思います。やりたくないのにやらざるを得ない。必ずしも自分がそうありたいと願う人間になれるわけではない。理想と現実が違っていたり、自分がこのように生きたいという人生を送れる人ばかりではないわけです。
 たとえそうであったとしでも、嵐のような人生、腹の中に閉じ込められるような、暗い状況の中でも、ヨナを愛して導かれる神さまの導きがあったことを見ることができます。どこにヨナがいたとしても、神さまはその場所でヨナと一緒におられました。ヨナは気づかなかったかもしれませんが、神さまはどこでもヨナと一緒におられた。船の底でふて寝している時も、腹の中で悔い改めている時も、神さまはヨナを導こうとされていたわけです。彼の預言の仕事が彼の思うようにいかなくても、神さまに憤りや不満をぶちまけた時も、神さまはヨナを見続けておられました。

 私たちもヨナです。私たちヨナを、神さまは見ておられます。周りを取り巻く様々な状況によらずに、神さまはここにおられる皆さん一人ひとり、ヨナ男、ヨナ子さんを見ておられるのです。
 そのことが前提にある。そういう人生を私たちは神さまにあって送ることが大切です。私たちの人生の中で、決定的に大事なことであります。神さまの臨在を私たちは受け入れて、神さまに信頼して、神さまが現される時に敏感に、神さまのみこころに対して忠実に歩むことを心に願いながら、これからの人生も歩み続け、神さまの働きをなしていきたいと願わされます。

 今日は特にヨナ書の中から、神さまの愛について学びました。そして私たちの人生の中に起こる様々な思いがけない事柄に対しても、神さまのみ手があり、神さまの前に信仰を持って、信頼を持って歩んでいく時に、神さまはそこにみ手を伸べ、みわざを現してくださることを学びました。私たちの中で進められている神さまのわざがさらに前進していくことができるように、聖霊さまを心から歓迎して、お祈りする時をもっていきたいと思います。

 一言お祈りします。
 ハレルヤ、イエスさま。こうして今日もあなたの前で礼拝をささげることのできる恵みを心から感謝します。今日はヨナ書の中から学びました。主よ、『誰でもキリストの内にあるなら新しく造られたもの、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくされました。』とあります。ここにおられるお一人お一人、人生の中で置かれた状況は違いますが、あなたが私たちと共におられる時に、そこには新しい命が、新しい創造があると、今日学びました。どうか今日、問題の中や苦しみの中を歩んでいる方がいらっしゃったとしても、どうかその人生の中に主を迎え、また主が私たちに与えてくださる一つ一つの課題、またあなたが私たちに望んでおられることを実行していくことができますように、お一人お一人を祝福してください。
 また私たちには祈る力が与えられていることも心から感謝いたします。どうかあなたに信頼して、あなたの前に祈り続け、リバイバルを求めて働いていくことができるように、お一人お一人を祝福してください。イエスさまのみ名によって、感謝してお祈りします。アーメン。