「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜ひとつになって共に住む幸せ〜 パート2 

  • 2019年11月3日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
詩篇133篇

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日も皆さんと一緒に礼拝を守ることができますことを心から感謝します。
 今日、お読みいただきました聖書の箇所は、『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』
 先週もここから学ばせていただきましたが、「共に一つになる」結果は、『主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられた』とあります。さまざまなことが起こった時は、心を一つにする大チャンスでもあります。

 「協力」という漢字があります。この頃私は、漢字がなかなか書けなくなってしまいました。昔からあまり得意ではないのですが、協力とは、「十字架の元に小さな力を集めると大きな力になる」という漢字です。イエスさまの十字架の元に、小さな力を集めると、大きな力となって、神の業が現れると信じます。
 『兄弟たちが一つになって共に住む』とありますが、教会では、お互い「兄弟姉妹」とも呼びます。それは、大きなファミリーです。「教会に来なければ、こんな悲しいことを聞かされなくても済んだのに・・・」ということも多くあります。しかし逆に、喜びも共有できるのです。
 特に力を合わせる時、『主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられた』とありますから、「永遠のいのち」につながります。永遠の命とは、この地上を貫き、死後の世界も、諸天をも貫く偉大な命です。そこにつながっていくことを教えています。

 今回、神の前に真剣に出て祈っている時、ペテロの手紙第一、五章七節〜十節のことばが与えられています。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

 『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』とあります。問題がある時は、まずはすべてイエスさまに丸投げして、煩いを任せることが最も重要です。
 すべてを委ねた後でしなければならないことは、『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。』とあります。『ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来た』とあります。
 クリスチャンであるから何の問題もないというわけではありません。初代教会から、主を信じる兄弟たちは様々な苦しみにあってきたのです。
 しかしそれは単なる問題ではなく、信仰生活の中で起こる苦しみの背後に、目に見えない暗闇の力が働いているとペテロは告げています。そして「悪魔に立ち向かえ!」と励ましています。
 でもなかなか、立ち向かうことは難しいのですが、「共に」立ち向かって下さる兄弟姉妹によって、大きく勝利できます。

 私たちの神さまは、恵みに満ちた神で、試練があったとしても、最終的には何が起こるのかと言えば、

『あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

とあります。ですから、様々なことがあっても、忍耐して、一切を主に任せると共に、敵に立ち向かう時、やがて、「苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」という事です。ここが私たちクリスチャンのゴールです。本当に感謝なことですよね。
 このみことばは、主を信じる者たちに共通する約束です。この言葉をしっかりと捉えて、同時に、心を一つにして「共に住んでいる」ことを意識することが大切です。その時に、アロンに注がれた油が流れるのです。

 アロンは大祭司でした。「祭司」とは、神さまの前に出て、民が犯した罪を代わりに悔い改める、民族を代表する役割を持っていました。イスラエルにおいては、大祭司、祭司、レビ人と、神の宮で仕える人たちがいたのですが、その中でも「大祭司」とは、イスラエル全体の代表として、神の前に出ることが許されるただ一人の存在でした。
 しかしそのアロンの立場が、心を一つにする時に全員に与えられるという約束です。それは、ひげに流れて、衣に伝わり、ちょうどイスラエルの山々全体に下りる露として表現されています。

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 今週は、イスラエル・ツアーがあるのですが、きっとここにも行かれると思います。手前がガリラヤ湖、後ろにかすんで見える雪を抱いた山がヘルモン山です。あの山に降った雪や雨水は、やがて、ガリラヤ湖を形成するわけです。
 私たちが心を一つにして、主の前に出る時、そのようなことが起きます!と告げています。雨の一粒は小さいかもしれないけれど、それが寄せ集められると、大きな湖となり、全土を潤すのです。ですから、この言葉は本当に希望の言葉です。

 今、読んでいただきました聖書箇所には、「都上りの歌 ダビデによる」とあります。ダビデとは、大ざっぱに言えば、紀元前十世紀、イエスさまが生まれる千年くらい前に出た、イスラエルの王です。詩編の多くは彼が歌った詩です。「都上りの歌」とは、イスラエルの人たちは、年間に何度か、祭りの日にはエルサレムに上って、神殿に礼拝に行ったようです。

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 前回もお話ししましたが、神の宮、神殿とは、イスラエルの人たちにとっては特殊空間でした。それは「天と地が出会う場所」と考えられていて、皆が心を一つにして集まると特殊空間となり、同時に特殊な時間があって、祭りの期間や安息日になると、天が開かれて、地上に神さまが来られると信じていました。特に祭りの期間は、彼らにとっては、最も大きな希望であったわけです。
 このような古代イスラエル人たちが持っていた世界観をよく理解しないと、聖書が示している正しい理解に到達できないと、N.T.ライトという神学者は語っています。先週も、その言葉を紹介したのですが、先週と少し文面を前後関係で変えていますが、

 “神殿は何よりも天と地が出会う場所であり、そこで重要なことが成される場であると考えられていた。ところが現代のクリスチャンの多くは、神殿は壮大な教会のような建造物に過ぎないと考えている。礼拝の場であることは確かであるが、小宇宙、つまり天と地が非常に小さな空間でまとめられた、世界の縮図であるとは理解していない。
 初期のクリスチャンたちは、神殿に集まり、礼拝を続けていたが、自分たちの新しいムーブメント自体が、ある意味、新しい神殿であると考えていた。”

 私たちが毎日曜日に礼拝をささげる基礎となる概念は、ここにあると思われます。なぜ日曜日にこのような限られた空間に皆、集まるのかというと、教会もその概念を基礎としているわけです。
 しかし現代の教会、クリスチャンは、その大切さを理解していないと彼は指摘しています。今でもこの概念は教会の基礎となっているはずですから、我々が心を一つにして、喜びを持って集まると、この事が起こるのです。
 なんとこの小さな空間が「小宇宙」だというのです。そして、非常に小さな空間でまとめられた、「世界の縮図」だというわけです。全世界が、この空間にまとめられていて、全宇宙がこの空間にまとめられているというのですから驚きです。古代のイスラエル人たちは、そのように信じて礼拝をささげていたのです。
 ですから、教会で主を礼拝し賛美する時、宇宙全体が歌うのです。また、世界の縮図でもありますから、ここからの祈りは世界中に届くことになります。
 新城教会も、天と地が出会う場所のはずです。ここに来たら、何かが起こるはずです。日曜日、主がここに来られるのです。今日もそのことが起きているはずです。

 同時に、私たちクリスチャンは、この空間と時間を持ち出すことができる存在です。今日もインターネットで礼拝をささげている方がおられます。その家や場所が同じく神殿となり、神の時を迎えているのです。
 私たちが、会社に行ったり、学校に行ったり、家事をしたり、それらもすべて同じ空間、時間であるはずです。

 そして、心を一つにする時、私たちは「アロン」の立場となるのです。それは最も重要なポジションとしての任命です。
 聖書の中にこんなことばがあります。第一ペテロ二章九節、

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

 このみことばは「新約聖書のことば」です。旧約聖書に述べられている概念が、拡大し、そのまま引き継がれています。
 やはり旧約聖書の概念をしっかりと理解し、それを主イエスさまの十字架によってどのように拡大させていくのかが、クリスチャン生活そのものであると思います。

 アロンの油そそぎは、大きな勝利をもたらす力となります。ここにもう一つ、アロンについて記されているみことばがあります。民数記六章二十二節〜二十七節、

『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』

 聖書には、私たちが祝福を受けとる秘訣、鍵みたいなものが隠されています。『アロンとその子らに告げて言え。』と、主は大祭司の一族にこの言葉を語りました。
 大祭司アロンとその家族に対して、「イスラエルを祝福する言葉を口から発しなさい!宣言しなさい!」と告げられたのです。
 この祈りをイスラエル人に宣言すると、『彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』とあります。「彼ら」とは、アロン一族のことです。
 そしてこの宣言は現代でも有効なはずです。今、お話ししましたように、私たちが心を一つにして、主の前に出るなら、アロンの油そそぎにより、大祭司としての立場が与えられます。そうしたら、次には、イスラエル人に対して、このことばで宣言しなければいけないのです。

 なぜイスラエルに行くのかというと、聖書の世界はイスラエルから始まっているからです。あの不思議国と民族を祝福することが、なんと、人類全体の祝福につながるのです。どのような立場で祝福を宣言するのか、それはアロンとその一族の立場です。アロンの油そそぎの中、イスラエルを祝福するなら、祝福が世界に、私たちにも流れます。
 今、詩篇百三十三篇を基にして、私たちは共に心合わせ、教会に集まっています。ということは、ここにアロンの油が注がれているはずです。ですから、この言葉を皆さんと共に宣言しようじゃありませんか!
 「あなた」とはイスラエル十二部族のことです。では皆さんで、二十四節〜二十六節までのことばを宣言しましょう。イスラエルに自分も行ったつもりで、皆さんはアロンです。大祭司の油そそぎで、この宣言をしましょう。「彼らが私の名でイスラエル人のために祈るなら、私は彼らを祝福しよう!」とあります。これを信じて、宣言しましょう。
 民数記六章二十四節〜二十六節、

『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

 アーメン!イスラエルに向けて、これらの祝福の言葉を宣言します!

 さて、詩篇百三十三篇、「兄弟たちが一つになって共に住む」とは、根本的には何を意味するのでしょうか。もう一つの理由を考えてみましょう。聖書は、「いつ、どこで、誰に語られた言葉なのか」を、最初にしっかりと捉えておかなければなりません。これはダビデが、彼の治世において詠んだ歌です。しかしこの歌には預言的な意味が含まれていました。
 イスラエルは元々、十二の部族からなる部族国家でした。けれども、紀元前十世紀頃、国家が分裂しました。その結果、「北イスラエルと南ユダ」に分裂して、北イスラエルは十部族、南ユダは二部族で国家を形成する事になりました。そのような悲しい現実が起こったわけです。
 本来は十二部族で一つの国「イスラエル」と呼ばれていましたが、紀元前十世紀頃、様々な問題があって、十部族と二部族とに分かれてしまったのです。
 それはダビデの時代にはまだ起こってはいませんでした。しかし「共に住む幸せ」を神はダビデの口を通して、預言的にイスラエルに語られていたのです。
 これは何を意味するのかというと、十二部族が再び一つになることを主は切に願っておられるという事です。同時に「イスラエル」が一つとなるように祈る必要性を、預言的に告げていると思われます。

 案外、私たちはイスラエル人とユダヤ人の区別をアバウトにとらえています。「ユダヤ人」とは、正確には南ユダの人たちを指します。
 「イスラエル」とは、本来は十部族を含む、十二部族全体を指します。今のイスラエル国家は、どちらかと言えば「南ユダ」を中心とする国家です。北イスラエルは、消えてしまったと言われています。
 しかし、北イスラエルは消えているどころか、現在も共に住んでいるのです。しかしそこには、隔ての壁があるのです。

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 ちょっと見ていただきたいと思いますが、現在のイスラエルは、こんな感じです。古代のイスラエルが分裂した後、南が「ユダ王国」、北が「イスラエル王国」となりました。左側の黄緑の場所が現代のイスラエルです。その中に、「パレスチナ自治区」と呼ばれる地域があります。この「パレスチナ自治区」は、実は、かつての北イスラエル領となるわけです。
 現在、パレスチナ自治区は、どのようになっているのかというと、イスラエルとの間に「分離壁」があって、分離されています。その分離壁は四百五十キロにも渡っています。

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 今回のイスラエル・ツアーで、皆はどこに行くのかというと、この隔ての壁を越えて、パレスチナ自治区内に入り、活動します。
 ちょっと緊張感のある旅です。日本のツアー会社ではやりません。しかし現地のツアー会社に頼めば、簡単に企画出来ます。しかし全て自己責任で、全員、現地集合となっています。メンバーは今週の木曜日に日本を出発し、現地で集合します。全員無事に集まれるか、ちょっと心配です。しかしこの中には簡単に入ることができます。
 この地域は領土的には、かつての北イスラエル領域になります。そこには聖書の世界がそのまま残っています。

 北イスラエルは十部族を擁する大きな国でした。この国もまた、大変な歴史を刻んでいます。しかしそれらは歴史から忘れ去られています。
 ここにアッシリアという大国が攻めて来て、「人々はアッシリアに連れ去られてしまった!消えてしまった!」と、一般的には言われています。しかし実は消えてはいなかったのです。
 アッシリア、ギリシャ、ローマ帝国は、占領した国の中心的人物だけを戦利品として自国に連行しました。しかしほとんどの人たちは、その地に残され、植民地支配されたのです。
 アッシリアが攻め込んで来た時、北イスラエルにはどのくらいの人々がいたのか、サマリヤ人によると「三百万人くらい」と聞きました。しかしアッシリアに連れ去られたのは、たったの二万人くらいでした。
 アッシリアはその後、バビロンから五つの民族を連れて来て、残った人たちを植民地支配したのです。しかし、南ユダと北イスラエルは、分裂していましたから、南ユダの人たちは「北イスラエルは消えた!」と言うようになったのです。しかし実際には、この領内に住んでいました。現在では、アラブ系の人たちが住んでいますが、調査によると、その人たちはイスラエル十部族の血を受け継いでいると言われます。
 それと共に、「自分たちは純粋なイスラエル十部族の血筋を受け継いでいる!」という、しっかりとしたアイデンティティーを持った人たちも、そこには存在します。

 イエス時代、北イスラエル領域は、「サマリヤ地方」と呼ばれるようになりました。そして、そこに住む人たちは北イスラエル人ではなく、サマリヤ人と呼ばれていました。イエスさまがサマリヤに行った時、その血筋を受け継ぐ女性と出会いました。その時に、どんな会話がなされたのかというと、ヨハネの福音書四章九節、

『そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」‐‐ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである‐‐』

 イエスさまの時代、両国はこのような冷たい関係になっていました。南ユダ系の人々と、北イスラエル系の人々は付き合いをしなかったのです。お互い、まったく別の民族のように考えていたわけです。
 しかしイエスさまは、サマリヤの女性を救いに導かれ、サマリヤに大リバイバルが起きたのです。それがヨハネの四章に記録されています。またよく読んでみて下さい。
 それは両国の背景と関係を見たら、すごいことです。普通ではありえないことが、イエスさまがサマリヤに行かれた事によって起きました。

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 実は今回、その場所にもツアーメンバーは行きます。以前にもお話ししましたが、「ユダヤ教徒」はよく知られているのですが、「サマリヤ教徒」もいるのです。彼らはゲリジム山で、同じヤーウェーの神、天地宇宙を造られた神を礼拝しています。

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 今もなお、サマリヤ人達はゲリジム山麓に住んでいます。
 彼らはイスラエル十部族の純粋な末裔として、伝統を固く受け継いでいる人たちです。その人たちから、アッシリア捕囚時に、北イスラエルには三百万人くらいの人口があったと聞きました。
 しか現在、北イスラエルの純粋な血筋を受け継ぐ人たちはどのくらいなのかというと、なんと「八百人弱」です。絶滅危惧種と言ってはいけませんが、絶滅の危機にさらされています。

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 この子どもたちは、サマリヤ人の子どもたちです。私は彼らと写真を撮らせてもらいました。

 イスラエルを祝福すると言っても、案外、別の方向を見て祝福の言葉を発している事が多いと思われます。本来は、ユダヤ人と共に、北イスラエルの人たちも含めて、宣言しなければ、何もなりません。彼らを忘れていたら、本当の祝福は来ないと思います。
 今回は、サマリヤ村にも行って、祝福を宣言してもらいます。新城教会からと、他の教会の方々も共に行かれます。ここで祈ってくださることは、大きなことです。

 「ユダヤ人によるサマリヤ人に対する迫害の歴史」を調べて見てみると、紀元前二世紀、ハスモン家の祭司、ヨハネ・ヒルカノスが、ゲリジム山にあったサマリヤ人の神殿を破壊しました。同じ神を礼拝しているはずなのに、ゲリジム山のサマリヤ人の神殿を壊し、多くのサマリヤ人を殺害したのです。そしてその事件の百数十年後に、イエスさまは誕生されたわけです。ですから当時の両者の感情は、相当悪かったはずです。
 その後も、東ローマ帝国の皇帝ゼノンが彼らを弾圧して、サマリヤ教徒たちを強制的にキリスト教に改宗させて、今では八百名くらいにまで激減したのです。
 ある意味、この人たちは「残りの民」だと思われます。彼らに対して、アロンの油そそぎを持つ者達が祝福を宣言することは、霊的世界において、たいへん大きなことだと信じています。
 マスコミは危ないから、「入るな!」と言うわけです。しかし実際はパスポートチェックもなく、普通に入って、帰ることができます。
 なぜ、行ってはいけないのかは、霊的な問題と共に、経済的理由です。向こう側に観光客が行くと、アラブ系の人たちにお金が落ちるからです。

 パレスチナ自治区の中心の街は「ナブロス」と言う街です。アラファト議長のことを聞いた事があると思いますが、パレスチナ自治区の政府が置かれているのがナブロスです。
 実はナブロスは、旧約聖書から見て、たいへん重要な場所です。
 イスラエルはアブラハムから始まるわけですが、アブラハムが最初に来たカナンの街が、「シェケム」という街でした。「シェケム」は現在、「ナブロス」と呼ばれています。
 イエスさまが「スカル」という町に行かれたのをご存じかもしれません。「スカル」は、元々は旧約時代の「シェケム」です。そして、今は「ナブロス」です。何か悪魔の大きな策略を感じます。なんとか、この地域が祝福されないように、目を背けさせる力が働いているように感じます。

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 この街に行きますと、アラブの文化があります。生活感が溢れています。そこは、確実にイエスさまが行かれた場所です。

 スカルの井戸も残っています。そして今回のツアーには大きなミッションがあります。実はこの地域には、難民キャンプが「十九箇所」あります。
 パレスチナ自治区のことを別名、「ウエスト・バンク」とも呼ぶのですが、そこには「国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)」が運営・管理する難民キャンプが十九箇所あって、八十万人が難民登録されています。そして四十八の初期的治療のための医療センターかあり、一年間に百万人以上が治療を受けています。

 今回、新城教会医療チームは、「アイーダ・キャンプ」と呼ばれる国連の施設で、医療活動をさせていただけることになっています。ここは国連の施設なので安全です。
 アイーダ・キャンプにどのくらいの難民たちが住んでいるのかというと、「七百メートル四方に六千人」です。一応、ホームページでは三千百五十人となっていますが、実際は、六千人くらいが不衛生な中にひしめいています。私も、アイーダではなく、他のキャンプに行ったことがあります。劣悪な環境で、大変な所です。
 一度難民に生まれると、代々、難民状態が続くのです。今どのくらい続いているのですか?と聞くと、三代、四代目だというのです。
 この人たちは、パレスチナ自治政府にも、イスラエル政府にも受け入れてもらえない、どこにも行く宛てのない人たちです。元々は北イスラエル領内に住んでいた人たちです。一九四八年、イスラエル国家が成立した際に、このような状況が生まれたのです。
 しかし国際社会は彼らに対して、あまり関心を持っていません。彼らに関心を抱き、祝福を祈るのは、アロンの油をいただいた者たちに課せられた、使命ではないかと思います。
 今回、現地に行かれる方も、行かれない方も、心を一つにして祈っていただきたいです。

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 難民キャンプには多くの子どもたちが住んでいます。貧しい地域になります。

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 新城教会に来られているドクターたち、星野先生と岩井先生が行ってくださいます。いままでペルーとネパールで医療活動をさせていただきました。今回は初めて、イエスさまがお生まれになったイスラエルで、このような働きができるのは、すごいと思います。是非とも今週、祈りに加えていただきいと思います。

 イスラエルを祝福したら、私たちにも祝福がきます!しかし、フォーカスが正しく当たっているか否かは別問題です。南ユダのためには祈っているかもしれないけれど、北イスラエルが正しく定義づけられていないのです。

 サマリヤ人達は、「パレスチナ自治区内」に集落を作っています。彼らは平和的な人たちで、アラブ系の人たちとも、ユダヤ人たちとも、自由にアクセスできる人たちです。彼らは、ヨハネ・ヒルカノスによって壊されたゲルジム山の神殿跡地で、今でも礼拝しています。
 アブラハムがかつてこの地に入った時、神がこんなことを告げられました。申命記十一章二十九節、

『あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。』

 神に従う時に祝福、神から離れるとのろいになるという教えです。

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 ここに行きますと、旧約聖書の舞台そのものがあります。手前の遺跡は、古代のカナン人が建てた世界最古の町の一つです。
 アブラハムが同じ光景を見て、『ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを』という祈りをしたのでしょう。今回、そこで祝福の祈りをするのも、重要な使命です。ゲリジム山ではこのような儀式がなされています。

 彼らには集団のリーダー、大祭司がいます。彼らはイエスさまを信じていません。今でも、ゲリジム山にメシヤが来てくれるように祈っている人たちです。私たちの信仰とは違います。私はこの大祭司と一昨年、出会いました。

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 この人、背が高いでしょう。彼が持っているのはヘブル語の新約聖書です。私が贈呈しました。私はこの人に話しました。「新約聖書の中に、あなたたちのことが書いてあるよ!良い人だって書いてあるよ!あなたも良い人ですね。」と話して、「新約聖書をぜひ、読んでください。」と言って大祭司と呼ばれる人に渡しました。読んでくれたかどうかは知りませんが、読んでクリスチャンになったらいいと思います。

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 サマリヤ教徒は、安息日にはモーセ五書を朗読しています。私が一軒の家を覗くと目が合って「入って来い!」と言うので、家に入れてもらい、このおじさんといろいろ話をすることができました。この方々の祝福を祈らなくては!と思っています。

 歴史的に本当に深い流れがある場所に、今回、チームが遣わされます。心を一つにして、「イスラエルのために祝福を祈る時、あなたがたは祝福されます!」と告げています。はっきりとフォーカスをしぼって祈ると、私たちの所にも祝福となって戻って来ると期待しています。

 イエスさまはユダヤ人でしたが、軸足は常にサマリヤ側にありました。良きサマリヤ人の話も、ユダヤ人に対して話したのですが、ユダヤ人が嫌っているサマリヤ人をヒーローにしています。そして、祭司やレビ人を悪役として話しています。イエスさまは、サマリヤ人に対して強い関心を持たれていた方でした。今のパレスチナ自治区内の人々に、強い関心を持っておられたのがイエスさまです。
 ヨハネ四章三節、

『主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。』

 ガリラヤはサマリヤの北に位置し、この地域は南ユダの領域に属していました。ユダヤ人たちがガリラヤに行く時、サマリヤ地方を通らないよう、迂回していました。しかしイエスさまは、「サマリヤを通っていかなければならなかった」というのです。

 なぜ付き合いをしない人々の住む地域を通って行かれたのでしょうか。それは一人の女性を救う為でした。
 イエスさまは真昼頃、喉が渇き、疲れてスカルの井戸のそばに座っておられました。そうしたら、そんなただ中に、女が水汲みに現れたわけです。
 イスラエルに行きますと分かりますが、日中はめちゃくちゃ暑いです。だから昼に水を汲みに来るなんて、普通はありえないです。朝か夕方しか行きません。昼間はみんな家の中で昼寝しています。しかしこの女性、昼に来なければならない事情があったみたいです。あまり人と会いたくなかったのでしょう。彼女の素性に事情があったと思われます。
 そうしたらイエスさまがその女性に、「水を飲ませてくれ」と頼んだわけです。普通、ユダヤ人がサマリヤ人の、さらには諸事情がある女性に、文化的に話しかけるのは絶対にノーだったのです。ありえないことでした。
 その時に、女は何と答えたのかといったら、ヨハネ四章九節、

『そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」‐‐ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである‐‐』

 これは本当に不思議な光景であったわけです。その時に、イエスさまがこの女性に、四章十三節〜十四節、

『イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』

と言われました。「水を飲ませてください。」と女性に言って、「二度と渇かない水をあなたにあげます。」と告げたわけです。
 その女にとっては魅力的な話しですよね。いつも人目を忍んで水を汲みに来ていたのが、渇かない水をもらえるなんて聞いたら、本当に魅力的です。彼女は「その水をください!」と願ったわけです。
 しかしそんな問答の中から、イエスさまは、「渇かない水、永遠のいのち」について語られわけです。
 イエスさまの個人伝道法ってすごいです。その人のニーズをちゃんと掴みながら、それを霊的なところに持っていく方法です。私も見習わなければいけないと思います。四章二十五節〜二十六節、

『女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」』

 ユダヤ教徒もサマリヤ教徒も、メシヤ、すなわち救い主を待ち望んでいたのです。ユダヤ教徒はシオンの丘、エルサレムで、サマリヤ教徒はゲリジム山で、「メシヤが来ますように!」と祈っていたわけです。
 サマリヤ地方に住んでいた人たちは、迫害され、希望を失っていました。この女性は、全く希望がない女性に化していました。

 実はスカルという町は、旧約聖書に登場する「逃れの町」と呼ばれる街でした。故意にではなく殺人を犯した人たちが、逃げ込む町を「逃れの町」と呼んで、神は六箇所を作るように指示されました。

 今回、アイーダ・キャンプに行きますが、逃れの町とは、「Cities of Refuge」というのですが、難民キャンプを「Refugee camp」って呼ぶのは意味深ですね。昔から難民たちがいたような地域です。
 スカルの井戸側で出会った女性は、ある意味、難民でした。逃れの町とは、いわくのある人たちが十二部族を越えて集まりました。故意にではなく人を殺した人が逃げ込んだとか、家族の中で問題があって逃げてきたとか、問題を抱えた人たちが住みやすい環境だったのでしょう。そんな街に住んでも、なお大変であったのが、この女性だったと思われます。それでも生きにくくて、昼に水を汲みに来ていたわけです。ある意味、最悪の状況だったのでしょう。

 しかし、メシヤであるイエスさまが、この一人の女性を助けるために、普通では通過しないサマリヤの町にあえて入り、この女性を救い出しました。
 ここからイエスさまという方が、どういうお方であるのかが分かります。いろんな問題が起きると、神に見捨て去られたような気持ちになります。大丈夫かなぁ?とね。
 しかし、このサマリヤの女のストーリーを見る時、最も苦しんでいる女性の所に、イエスさま自ら近づき、声をかけてくれたのを見る時、イエスさまが必ず来て下さると信じています。

 今回、難民キャンプで兄弟姉妹が祈って下さると、何か、すごいことが起こるような気がしています。皆さん、期待してください!
 心を一つにして、神の宮で、真剣にイスラエルのため、パレスチナ自治区に住んでいる人たちのために祈ることは、アロンの祈りにつながり、神の祝福が流れる秘訣ではないでしょうか。

 イエス・キリストを信じる時に、決して渇くことのない泉が私たちの内側から流れて来ます。
 話は別ですけれど、先週は嬉しいことがありました。信弘先生の最愛の娘、泉ちゃんの所に、泉が湧き出ました。女の子が生まれ、先生も本当に嬉しそうですね。是非、おめでとうと言ってあげてほしいと思います。
 今回のツアー、泉ちゃんが全て現地の旅行会社と交渉して作ってくれました。私は企画しただけで、後は泉が大きな腹をかかえながら連絡を取ってくれました。一個くらいお土産を買って来てあげるといいのではないかと思います。
 イエス・キリストを信じると、内側から泉が沸き上がります。

 女性は「私はキリストと出会った!」と言って皆に知らせたのです。ユダヤ人の中からキリストが出るなんて、サマリヤ人たちは考えてもみなかったと思います。しかし彼女は体験したのです。その結果、サマリヤ人たちが続々とイエスさまの所に来て、イエスさまをメシヤとして信じたのです。そしてイエスさまのことばによって信じた人たちが、最終的には自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと告白したのは、文化的、宗教的背景を見る時、ありえないことです。
 「リバイバル」と軽く呼びますが、サマリヤに起きたリバイバルほど、すごいリバイバルはないと思います。神道の人たちが変わるとか、仏教徒がクリスチャンになるということを遙かに越えているのです。このような大きな業が起こった場所に目をつけるのはすごいと思います。

 その時、イエスさまは女にこう話しました。「生ける水が欲しかったら一つ条件がある。あんたの夫を連れて来なさい。」
 すると、彼女はちょっと顔を曇らせて、「私には夫がありません。」と答えました。そうしたらイエスさまが、四章十七節〜十八節、

『イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」』

 彼女の人生、どのようであったのか、これで大体分かります。本当に大変な人生が展開していた事でしょう。
 ここを見ると、「サマリヤの女とは、相当、したたかな女性だったのかな・・・」みたいなイメージを持ちます。
 しかしいつも話しているように、新約聖書は、必ず旧約聖書をベースとしています。これらの記事には、必ず、隠された理由があります。
 第二列王記十七章三十節〜三十一節(リビングバイブル)

『バビロンから来た人々はスコテ・ベノテ神、クテから来た人々はネレガル神、ハマテから来た人々はアシマ神というぐあいにです。アワ人はニブハズ神とタルタク神の像を拝み、セファルワイムから来た人々は、アデラメレク神とアナメレク神の祭壇に、わが子を火で焼いてささげました。』

 北イスラエルが、どうしてこんな状況になったのかの真の理由は、「五人の主人」にあります。五人の主人とは、五つの民族を表しているのです。アッシリアが北イスラエルを征服した後、バビロンから五つの民族を連れてきました。五つの民族は、バビロンから来た人々は「スコテ・ベノテ神」、クテから来た人々は「ネレガル神」、ハマテから来た人々は「アシマ神」、そしてアワ人は「ニブハズ神とタルタク神」を、そして、セファルワイムから来た人々は、「アデラメレク神とアナメレク神」を持ち込んだのです。
 これは、何を告げているのかというと、北イスラエルの人たちが五つの民族によって持ち込まれた「偶像の神々を主人としていた」と言うことです。
 「偶像の神々を主人としていたら救われません!本物の神を信じなさい!」というメッセージを含んでいるのです。
 サマリヤの女とは、北イスラエルを象徴していたのです。サマリヤ地方は、五つの民族によってもたらされた神々によって、霊的に征服されている!そこから離れなければならないということです。

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 カナンの神々とは、土偶でした。土偶が拝まれていました。人々はこれらの神々を主人としていました。そのような主人を捨てろと言うのです。命の水がほしいなら、主人を変えないといけません。日本人は五人どころか、八百万の主人を持っています。それを捨てて、イエス・キリストだけを、救い主として信じろ!ということです。そうしたら命の水が流れますよ!

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 右側がイスラエルの偶像です。左は長野県で出土した縄文のビーナスです。ほとんど同じです。世界にはバベルの塔から同じ偶像が流れています。イスラエルも日本も、悪しき主人によって捕まえられているということです。
 「主人を変えろ!」と主は言われます。霊的な主人を変える時、私たちの所に命の水が流れます。
 すでにここに来られている方々は、主人が変わっています。日本の偶像の神々ではなく、イエス・キリストを主としています。それはいのちの水が流れている証拠です。

 最後に皆さんと一緒にお祈りをしたいと思います。今日はアロンの油注ぎからお話をさせていただきました。神が与えてくださっている祝福を受け取る秘訣をお話しさせていただきました。私たちは心を一つにして、イスラエルのために祈りたいと思います。特に壁の内側にいる人たちのためにお祈りしましょう!そんな気持ちで、聖餐式を行いたいと思います。
 一言お祈りします。

 ハレルヤ、父なる神さま、み名をあがめて心から感謝をいたします。今日、私たちは、サマリヤツアーを前にして、イスラエルを祝福する祈りができますことを、心から感謝します。イエスさま、あなたが十字架にかかって命を捨ててくださったのは、私たちだけでなくて、世界中の人たち、いや、被造物全体のためであったことを心から感謝します。
 今日は特に、イスラエルの中でも壁の内側に住んでいる人たちの祝福をお祈りします。主よ、アロンの油注ぎと共に、祈る事が出来ますように。主が大きな勝利を与えてくださいますように。
 様々な問題の中にもありますが、アロンの油注ぎによって、栄光を見ることができますように。今からの聖餐式を祝福してください。イエスさまのみ名によって、お祈り致します。アーメン。