「奇跡の条件」

  • 2019年12月8日(日)

新城教会牧師 公畑フェルナンド
マルコの福音書 11章12~14節

『翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。』

 ハレルヤ!感謝します。いつも私たちのために、インターナショナルミニストリーのために祈ってくださり、本当に感謝します。さっきの菊池さんのオリジナルクリスマスソングはとても素晴らしかったです。本当に感動しました。

 前回、私がここでみことばを語ったのは五月になります。それからインターナショナルではいろいろなイベントがありました。なかなか日本人の礼拝にはインターナショナルのイベントの情報を言うことがありませんので、写真を今からお見せして分かち合いたいと思います。

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 これは七月に行われた特別集会でオーストラリアからエステバン先生をお迎えして行われました。十年ほど前になるのですが、私たちがオーストラリアに行ってメッセージを語った時にこのエステバン先生と知り合いになり、その教会で奉仕をしました。それで今回は来ていただいて、先生にメッセージを取り次いでいただきました。

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 これは八月に行われました。インターナショナル部会では毎年八月にバプテスマをします。その機会を用いて一緒に川に行ってバーベキューをする時にします。しかしこの二年続けて、洗礼式をやると決めた日に限って台風が来てしまいました。それで教会で行うことになったわけです。しかし必ずバーベキューは食べました。

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 八月にはアイスクリームパーティーという伝道集会をしました。これもたぶん十年か十五年くらいやっている伝道集会だと思います。皆、アイスクリームがとっても大好きなので、新しい人を呼ぶにはとても良い手段になっています。

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 これもアイスクリームパーティーの一部で、パントマイムのパフォーマンスがありました。

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 これは九月に行われた集会です。ヒガシ・サトル先生という、ブラジル人の先生ですが、「奇跡の集会」という集会をしました。この姉妹の足が、両足同じ長さではなくて一方の足だけが長いとか短いとかがあった方なのですが、先生が彼女のために祈った時にみんなが見ている前でその足の長さが揃ったという奇跡が起こりました。とても私たちにとって祝福の時となりました。

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 これは十月に行われたカフェコンサートの模様です。このカフェコンサートの伝道会は二十二年間、続けている集会です。この集会によって多くの人たちがイエスさまを救い主として受け入れました。感謝します。

 これらがインターナショナルで行われた大きな集会です。インターナショナル部会のためのお祈りを感謝いたします。それではメッセージに入っていきたいと思います。

 全ての人が人生の中に奇跡を見たいと強く望んでいると思います。苦境に立つ時、がんに対して、さまざまな病気に対して、家族の問題などに対して、奇跡を切望します。なぜなら私たちは、この地上にいる間は困難から逃げることはできないからです。ですから、全ての人が奇跡を見たいと待ち望んでいます。

 先ほど読んでいただいた最初の聖書箇所の前後関係を見ていきましょう。ここで大きなことが起こりました。つまり、マルコ十一章は、イエスがエルサレムへ勝利の入城をされるところから始まっています。これは四つの福音書に見ることができます。
 このマルコ十一章ではイエスは熱狂的に迎えられエルサレムに入城しています。王様のように馬にまたがってではなく、ロバをお選びになりました。そしてここで初めて、人々がいやしのためにイエスさまの元へ走ることをせず、初めて人々が上着を道にカーペット代わりに敷きイエスさまをお迎えしました。またオリーブの木の枝も敷きました。「ホサナ。王にホサナ。祝福あれ。主のみなによって来られる方に。」と叫びました。それは栄光に満ちた光景でした。その後、聖書には、イエスはベタニヤに行かれたと書いてあります。ここから今日私たちが聖書を学ぶお話がスタートします。

 イエスはマリヤとマルタの家に行かれました。そしてマルコ十一章十二節には、イエスは空腹を覚えられたとあります。そして遠くにいちじくの木を見つけ、いちじくの実を見つけに近づきました。時々、聖書に出てくる話には矛盾に見えるものがあります。イエスはそのいちじくの木に捜しに行かれたのですが、すごく葉が茂っていて緑でした。そこにいちじくの実を探しに行かれました。少し皮肉なことですが、聖書には「いちじくの実のなる季節ではなかった」と書いてあります。言い換えるなら、収穫の時期ではなかったのです。しかしイエスは実を探しに行かれたのでした。
 もし神さまが、私たちに持っていないものを要求されたらどうでしょうか?また時期ではないものを神さまは要求されるでしょうか?
 しかしイスラエルのいちじくの木について調べると、それがイスラエルの国を象徴する三つの木のうちの一つであることがわかります。その三つの木とは、いちじく、オリーブ、そしてブドウの木です。
 いちじくのことを調べると、いちじくは実をつける前、まず成熟前の実をつけます。収穫時のような大きさではありませんが、成熟前の実をつけるのです。それでイエスは、いちじくの木に行かれた時に、何か食べられるものがないかと、その成熟前の実を探しに行ったわけです。
 神はいつも、私たちが実を結ぶことを期待されています。神さまはあなたにできないことを要求しません。しかし、あなたにできることは求められます。神はいつも私たちが実を結ぶことを期待されています。そして神さまが来るときに、いつも私たちの中に実を結んでいることを期待されておられるのです。それが私たちの人生です。
 ですから、ヨハネ十五章には、父は私たちが実を結ぶように期待しておられることと、さらにもっと実をつけて、たくさんの実を結ぶようになることを期待していることが書かれています。これが、神があなたの人生に、また私の人生に期待しておられることです。
 ですから、イエスがいちじくの木に近寄られた時、この未熟な実を期待されたのです。収穫の時期ではなかったですが、しかしそのいちじくの木は実を結んでいなければならない時でした。神さまはあなたや私がささげることのできないことを決して要求されません。

 例えばタラントのたとえを見ますと、神さまは、一人に一つのタラントを与えました。別の人に二つ、またもう一人には五つのタラントを渡しました。聖書には、おのおのその能力に応じて預けたと書いてあります。
 ですから、神さまがあなたに与えられた賜物というのは、あなたの能力に応じて与えられているということになるのです。礼拝の時、人々の前で歌う人には、その能力に応じて賜物が与えられているのです。そしてここでメッセージをする人も、その能力に応じて与えられたものです。そして神さまが私たちに求められるのは、ご自身が私たちに与えた賜物に対応しているのです。

 それでは、いちじくの木の話に戻ります。ですから、イエスがいちじくの木に実を見つけられなかった時、とても興味深いことですが、イエスさまはその木をのろわれました。実がないためにです。そして、こう言われました。「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」そのようにのろいました。
 そして一行はベタニヤから出かけていき、次の日もう一度、そこの場所を通りかかりました。マルコ十一章二十~二十一節、

『朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」』

 彼らは非常に驚きました。イエスが前の日にのろったいちじくの木が、枯れていたからです。次の日にはいちじくには命がありませんでした。主はこれを、弟子たちの信仰を強固にする訓練に用いました。それは山を打ち砕くこと、人生に起こる様々な問題に立ち向かうための訓練です。イエスは私たちに素晴らしい教えを与えてくださいました。
 そしてここには三つの条件が必要であると言っています。それは山を打ち砕くためでの条件です。その条件を見る前に、何が「山」であるのか説明したいと思います。

 聖書が「山」というとき、神さまと密接な関係を作り、また交流する場として、山がでてきます。いつも聖書の中に「山」という言葉を見る時、それが神と出会う場として出てきます。
 例えばホレブの山のことです。そこは神がモーセと出会った場所です。またエリヤがイゼベルから逃げていた時、神と会った所です。神さまは彼に「荒野を出て、ホレブの山へ行き、そこで会いましょう」と告げられました。
 ですから聖書が「山」というときに、神との出会いの場を意味します。そしてまた聖書には、イエスさまはよく群衆を残したまま、山に登ったと書いてあります。そしてその山で、夜通し父である神さまとの密接な時間を過ごしたと書かれています。

 しかしまた聖書が「山」というとき、問題を意味することがあります。難しい状況や、試練、長い人生の中で皆が直面する様々な問題のことを指します。そしてこれはイエスが与えてくださるレッスンであり、それは、あなたや私がどのように山を打ち砕くことができるのかというレッスンなのです。その問題の山がどのようにしたらなくなるのかと教えてくださるレッスンなのです。
 どのようにしたら病気などの問題に対して神の奇跡を見ることができるのでしょうか?夫婦問題という山や、子供の問題という山や、簡単ではないミニストリーという、私たちが立ち向かわなくてはならない山に対する奇跡です。私たちの目の前にくる難しい人生のいろいろな状況に対しての奇跡です。どのようにすれば、そこから脱出できるのでしょうか?どのようにしたら、難しい状況の山の中で神さまを見ることができるのでしょうか?イエスは今日、弟子たちに教えたように私たちにも教えたいと願っておられます。

 イエスはそのような山々を動かすための三つの条件について話をされます。それではその三つの条件とは何でしょうか?

 第一に、「信仰を持つこと」です。ここでイエスはその信仰の特徴について話されています。マルコの福音書十一章二十二節、

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。』

 いつこれを言われたのでしょうか?ペテロが、「主よ。のろわれたいちじくの木が根まで枯れました」と言った時です。これを読んだ時、私は、ペテロが前日に聞いた、イエスののろわれた言葉を信じていなかったのだなと思いました。そして次の日、彼は実際にそのいちじくの木が枯れたのを見てとても驚いたのです。しかしあなたもですが、驚く必要はなかったのです。もし主が、「こうなる。」「何かが起きる。」と言われたのであれば、必ず起こるのです。私たちも、難しい状況を前に驚いていてはいけません。なぜなら神はいつも、あなたが海を通らなくてはならない時や、山を横切らなくてはならない時に、先にみことばを与えてくださるからです。私たちが困難の中で耐えるためのみことばです。
 例えば、イエスがゲラサ人の所に行かれた時、その前にイエスは、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われました。これから嵐に遭遇しなければならない時に、向こう岸へ行こうと言われたのです。弟子たちは、行くときは不安を抱えていました。しかしそこに一つのみことばがありました。「向こう岸へ行こう。」というみことばです。
 私たちは時々、奇跡を求め始めるのですが、それが実際に起こるととても驚きます。えー奇跡が起こった!と。もちろん起こります。なぜなら神さまがその奇跡が起こるためにあなたにみことばを与えたからです。

 ですから最初に必要な要素は信仰です。この信仰についていくつかの特徴を説明したいと思います。
 このみことばには、「神を信じなさい。」とあります。ですから、神を信じることです。奇跡を見るのに必要な信仰とは、神の中にある信仰です。なぜなら多くの方々は人間に信仰を置いているからです。神にではなく。
 例えば「もし説教者があなたに直接触れないなら、何も起こらない。」と言う人がいます。しかし私はこう言います。もしあなたが一番後の列に座っていても、またインターネットでメッセージを聞いていても、そこに神さまはあなたと共におられるのです。そしてあなたの必要をご存じで、あなたの祈りを聞かれます。それが神にある信仰です。説教者にある信仰ではありません。神にある信仰です。全てをご存知の神にある信仰です。全ておできになる神にある信仰です。私の信仰は神にあるということができます。

 ある人が私の所にきてこう言いました。「牧師さん、私のために祈ってくれませんか。あなたの祈りなら神さまは聞いてくださると思いますので。」それを言う人は神にではなく、私に信仰を持っているのです。
 しかしそれではいけません。私が牧師だから、説教者だから祈りが聞かれるのではありません。私は神の子供であるので、神さまは私の祈りを聞いてくださるのです。私が神の子でいる限りは聞いてくださるのです。そして、あなたが神の子であるなら、神が祈りを聞いてくださることに確信を持たなければいけません。私の祈りを聞いてくださるのと同じように、自分の祈りも聞かれるという確信を持たなければいけません。それこそ神にある信仰なのです。

 次のみことばをお読みしたいと思います。マルコ十一章二十三節の前半です。

『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、』

 ここでいう、「だれでも」というのは、どんな人でも、という意味です。金持ちであろうと、貧しい人であろうと、教会のリーダーであろうと、なかろうと、白人であろうと、黒人であろうと、黄色人種であろうと、だれでもです。これから何が言えるかと言えば、あなたも私も、山が打ち砕かれるのを見ることができるということなのです。ただ神を信じるのみです。 
 この聖書のみことばには「あるひと」とは書いてありません。「だれでも」と言っているのです。神はえこひいきをする方ではありません。「だれでも」とは、私たち一人一人を示すものなのです。同じみことばの後半をお読みしたいと思います。

『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。』

 「動いて、海に入れ」 ここでのレッスンは、信仰というのが、信じることを表現することだと教えています。信仰を持つなら、それを口で表現します。ネガティブにはなりません。例えばこのように言いません。「そんなことは起こらない。不可能だ。どうかな。」とは言いません。もしあなたがみことばに立つなら、不可能なことが起こるのを見ることができます。なぜなら私たちに不可能なことは、神にとって可能なことだからです。そしてそれはとても素晴らしいことです。
 今私が言うのは、どこかの教会の教義である、「宣言すれば与えられる。」ということを言っているのではありません。そうではなくて、あなたが話す時、あなたが信じたことを宣言するのです。そしてそれは神さまがあなたに与えたみことばによって宣言するのです。そしてその言葉は心に届き、そこで形成され、そしてあなたは困難の中にあっても宣言できるようになるのです。そしてそれを信じ、そして日を決めます。なぜなら聖霊さまが個人の必要に合わせて与えてくださるからです。

 するとこう言う人を見るでしょう。「医者が私にこう言いました。しかし神さまは、私に任せなさいと言われました。」それが神にある信仰なのです。その信仰はだれにでも持てるものです。信仰を口で言い表さなければなりません。表現しなければなりません。その信仰は祈りの中に現れます。またその信仰はすべてが真っ暗闇に思える時に現れます。「しかし神が私に言われたのだから、神がしてくださるのを信じます。」と言えます。周りの人がそれとは反対のことを言っても、あなたは神さまのみことばにつながっているので、またそのみことばは、あなたが神さまから与えられたものであるので、そして神さまを信じてそれを宣言するのです。ですから信仰とは、神にある信仰、そしてこの信仰とは「だれでも」のためであり、それ言葉で言い表すものです。

 マルコ十一章二十三節後半、

『動いて、海に入れ』

 そしてこの信仰は権威をもって現されるものです。私たちがそれを口で言い表すとき、恐れながら言ってはいけません。確信をもって言わなければなりません。なぜならその確信は権威につながります。その権威とは神さまがあなたに与えたものです。イエスが一人ひとりにお与えになった権威です。
 イエスは「わたしにはすべての権威が与えられています。それゆえ、それらをあなたがたに委ねます。」と言われました。イエスは死に打ち勝ちました。病気に打ち勝ちました。今、栄光の御座についておられます。そしてイエスは教会の頭として私たちに与えられました。イエスにあって、あなたも私も勝利するのです。

 そしてまた信仰は疑いません。ヤコブ一章五節~七節、

『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』

 ここでヤコブは疑うことの大きさについて言及しています。あなたが何かを望むときは、信じて願う必要があります。疑ってはいけません。これが「山」を崩すための、第一条件です。

 第二番目の条件は、ただ信じているので終わらないで、祈ることです。もう一つ付け加えます。マルコ十一章二十四節、

『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

 ただ信じて終わるのはいけません。山を打ち砕くためにもう一つの要素が必要です。それは、信じて祈ることです。この二つが一緒になっています。なぜなら、この信仰というのは、いつも祈りと共にあるからです。山を打ち砕くためには祈りが必要です。

 ピリピ四章六節~七節、

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 スペイン語と日本語の聖書というのは順番が逆なのですが、スペイン語の順番から話します。まずここに、「何も思い煩わないで」とあります。そしてその後には、「効果的に祈りなさい」と書いてあります。そして「感謝しなさい」とあります。
 それは「わたしがあなたに行うと信じていることについて先に感謝しなさい」という意味です。そのあと神さまはあなたの心と思いに平安を与えてくださるのです。なぜなら苦悩の戦いにあるものとは、悪魔が投げる矢であるからです。その矢というのは「お前の家族には救いがない。」という言葉であったり、「この病気には治療法がないと医者たちも言っているだろう。」という声なのです。
 しかし思い出してください。ヨハネ十章十節に書いてあるみことばですが、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。』と書いてあります。それは本当です。もちろん、そのお医者さんの診断結果をなかったことにはできないし、それを受けとらなかったことにもできません。それは事実なのです。しかしその事実の上に、もっと大きな事実があります。
 イエスは、このみことばを付け加えています。『しかし私が来たのはあなたがたが命を持つためであり、豊かさの中で命を持つためである。』と言われました。神には不可能なことは何一つありません。神にとって難しいことがあるでしょうか?何もないのです。
 それでこう言っています。「祈りなさい」と。そして祈るときは、信頼して祈るべきなのだと。説明したいと思いますが、信じること、信仰、そしてそれは祈りで補うのです。これは信頼の祈りです。
 ヘブル書に書いてある通りです。あなたも私も、信頼をもって恵みの御座に近づくことができると書いてあります。それは憐れみを受けるためであり、適切な助けという恵みを受けるためです。神さまは今日、あなたを待っておられます。また明日の朝もあなたを待っておられることでしょう。あなた神の臨在の中に入るように。すると、どうなるか分かりますか?そうすると、あなたの信仰は成長するのです。あなたの祈りが天において聞かれるようになるからです。そしてその祈りの答えが地上に現れます。そしてあなたは自分の祈りがきかれたことを見ることができます。またそれによってあなたの信仰が成長します。
 今こそ、私が信じていることは、神さまは神の教会に対して、このように働くように呼びかけているのではないかと、今がその時だと信じています。祈りによって動く時だと。
 しかし特に、神さまはあなたの中に働きたいと願っておられます。ですから祈り続けてください。なぜならあなたがもっと祈るとき、奇跡がもっと早くやってくるのです。

 そして第三番目の条件は、赦すことです。信じて、祈って、赦すことです!マルコ十一章二十五節〜二十六節、

『また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。しかしもし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません。』

 もしあなたが赦さないなら、あなたの目の前にある山は崩れることはありません。たとえ四十日の断食をして祈っても、そして信じていることを宣言しても、何も起こらないのです。苦い思いや恨みがあるなら、赦さないなら、天は開かないのです。祈りの答えは届かないのです。

 ですから、これらの三つの条件は、とてもはっきりしています。忘れようがありません。赦しなさい!この赦すということは、充実した人生を送るための特別な必要条件です。
 では私たちの赦しはどのようなものであるべきしょうか?このみことばには、「あなたが祈っているときに自分の心を調べなさい」と言っています。心の中に赦せない気持ちが、あなたの子供に対して、夫に対して、妻に対して、両親に対して、兄弟に対して、教会員に対して、あなたをだました相手に対して、あなたを裏切った人に対して、苦痛を与えた人に対して、あなたの尊厳を奪った人に対して。ここで何千もの例を並べることはできますが、あなた自身が誰が自分を傷つけたか分かっていると思います。
 私たちが赦さないのに、「神さま、なぜ私の祈りに答えてくださらないのですか?」と言う時があります。このみことばで終わりたいと思います。ミカ書七章十八節〜十九節、

『あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。』

 スペイン語や英語の聖書の訳では、「神は私のすべての罪を海の深みに投げ入れる」と書いてあります。日本語だと、「お願いします。入れてください。」という感じで書いてありますが、神さまはすべての罪を海の底に入れます。そして神はそこに一つの看板をつけます。「ここでの釣り禁止」という看板です。これは神さまが海の深みに入れたものを、あなたが取り出すことはできない、ということを意味します。
 そして私たちにもう一度憐れみをかけてくださると書いてあります。誰もキリストに従うようになった日から、罪を犯すことに戻る人はいないと思います。全ての人は罪を犯しましたが、しかし私たちが罪を犯すたび、神さまは私に憐れみをかけてくださいます。毎回、神さまの憐れみに驚かされるのです。それと同じように、神はあなたが赦すことを望まれます。それでは立ち上がってお祈りしましょう。

 主よ、このみことばを感謝します。主よ、私たちには奇跡が必要です。私たちの目の前にある数々の山が、崩れ去る必要があるのを、あなたはご存知です。あなたは私たちのことをご存知です。私たちは苦しんでおり、悲しみをかかえています。おそらく希望を失っている方もいるかもしれません。気が落ち込み、信仰を無くしそうで、時々すべてを投げ出したくなります。
 しかしみことばを感謝します。なぜなら一番目の条件は神に信仰を持つことだからです。人にではなく、状況にではなく、私の能力にではなく、あなたにある信仰をもつことだからです。たとえ私の周りがすべて反対のことを言っても、診断結果が反対のことを示しても、銀行口座の残高が反対なことを示していても、家庭内の状況が反対であっても、仕事の状況が反対なことを示していても、あなたが私に言ってくださったことを宣言します。勝利をくださり、祝福をくださり、私に良いものを与えてくださると宣言します!宣言できるように助けてください。
 そしてまた、私が赦すことができるよう助けてください。いったい何人の人が、家族の中に、友人の中に、会社の同僚の中に、またたぶん教会の中にまで、私を傷つけた人がいるでしょうか。私たちの悪口や、でたらめや、誹謗中傷を言ったでしょうか。彼らを赦すことができるように助けてください。それらの人々を、あなたの御手にお委ねいたします。なぜなら聖書には、私たちがあなたに赦されたように、私たちも赦さなくてはならないと言っています。それは山々が崩れ去るため、私たちが奇跡に届くためです!これらの条件を実践できるように助けてください!
 神さま、ここには奇跡が必要な人がいます。問題の山よ!海に入れ!と言う必要がある人がいます。父なる神さま、これからの数日、数週間の中に、奇跡が起こったということを聞くことができますように。問題や難しい局面が消えてなくなりますように。あなたを信じたからです。あなたの御手を伸ばしてください。
 今、皆に触れてください。インターネットで見ている方々にも触れてください。そして自分のところに奇跡が起こることを信じられるようにしてください。人生に新しい歴史が始まることを信じられるようにしてください。私たちはあなたに信じ信頼できることを感謝します。イエスさまの名前によって祈ります!アーメン。