「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜クリスマス。それは神がひとり子をお与えになった日〜」

  • 2019年12月15日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書3章16節

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

イザヤ書44章23節

『天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ。』

 ハレルヤ!メリー・クリスマス!クリスマスおめでとうございます。今の聖歌隊のコーラス、すごかったですね。本当に大作でした。このような大作を歌うためには、やはり指導者が大事です。指揮者とか、ピアニストがいて、全体が調和し一つになって、このような素晴らしい賛美が生まれるわけです。

 今、日本中で、世界中で、イエスさまの降誕が祝われています。すばらしいことです。この教会には、いろいろな賜物がありまして、聖歌隊の賛美もありますし、バンドの賛美などいろいろあるのですが、今日はもう一つ、皆さんに特別賛美をお届けしたいと思います。お口直しみたいかもしれませんが、今はフルコースを食べた感じですが、次はHiraku&Norikoに、日本語で分かりやすいクリスマスソングを歌ってもらいます。先ほどは何語でしょうか。イタリア語でしょうか。
 それでは大きな拍手でHiraku & Norikoをお迎えしたいと思います。

<賛美>

 ありがとうございました。温かい、心に光が灯るような賛美でした。

 世界で最初のクリスマスは、どこに現れたのかというと、ルカの福音書二章八節〜十一節に、こんな記録があります。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 世界で最初のクリスマス、誰に知らされたのかと言いますと、羊飼いたちでした。
 昨日、今日発売の絵本を事前に購入しました。「羊飼いのクリスマス」、これは作者が誰であるかというと、どこかで聞いたことがある方です。星野暁美さんです。

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 この教会には童話作家とか、朗読家とか、いろんな方がおられます。これを読みますと、クリスマスの意味の中心的な部分がよく分かります。
 今日発売ですから、ぜひ購入して読んでいただいたらと思うのですが、私はこれを星野さんに是非とも朗読してほしいと思ったのですが、やはりいろいろ整わないと朗読できないみたいで、じゃぁ俺がやってやろう!みたいなところがあって、私がちょっと朗読しますから聞いてくださいね。先ほど義也さんに、BGMも頼んでおきました。では、お願いします。

「今から約二千年前のユダヤの国のベツレヘム。その日、町は人口調査の登録に訪れた、たくさんの人でごった返していました。
 一方、そんな町の賑やかさからかけ離れた寂しい野原では羊飼いたちが、いつものように夜の番をしていました。彼らには人口調査は関係なかったのです。
 当時の羊飼いは政治や経済からほど遠く、数に入れられない差別された人でした。羊飼いの家に生まれたら、羊飼いとして一生を終えるのです。他の仕事を望んでもそれはかなうことではなく、隙間風の入る粗末な小屋に住みながら、貧しさや病気もどうすることもできない、その日暮らしでした。
 彼らの望みはいつかこの苦しい生活から抜け出せる救い主が生まれるという、先祖からの言い伝えだけでした。その日の夜も、暗闇の中で、語り継がれてきた希望について思いをめぐらせていました。
 すると突然、まばゆい光が辺りを照らし、天使たちが現れ、告げたのです。『今日ダビデの町で救い主がお生まれになりました。この方こそ、主なるキリストです。あなたがたは飼い葉桶に寝ているひとり子を見つけます。これがしるしです。』羊飼いはあまりのことに仰天し、腰が抜けそうになりました。それでも今、天使が告げたダビデの町であるベツレヘム、飼い葉桶に寝ているみどりご、これをヒントにすぐさま出かけました。」

 物語は、さらに続くのですが、クリスマスに生まれたイエスさまを見つけるために、羊飼いたちが「すぐさま出かけた」とありました。私たちもすぐさま出かけたいものです。
 今日お読みしましたヨハネの福音書三章十六節は、大変有名なことばです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 このことばは、「聖書中の聖書」と言われまして、世界中のクリスチャンが知っていることばです。ですからクリスチャンならば、このことばくらいは暗唱しておきたいです。皆さんでちょっと読んでみましょうか。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 私たちに御子イエスさまが与えられたのは何のためか、永遠のいのちを与えるためだというのです。人は限りのある存在です。しかしイエス・キリストを信じる時に、永遠のいのちが与えられるというのです。これが聖書が教える救いです。

 実はこのヨハネ三章十六節に到達する前に、一つのストーリーが上げられています。そして十六節につながっていくわけですが、まずは人には誰にでも神から与えられた使命、英語で言うならば「デスティニー」があるのです。
 私たちがここにいるのは、無駄に生まれたのではありません。神から託された大きな目的、使命があるのです。
 使命が与えられて、この地上に生まれるのです。しかし人間には自由意思があって、多くの場合、使命から外れてしまうのです。そうすると人生は狂いだします。おかしな方向に行ってしまいます。現代社会は、まさに神の使命から外れた社会ではないかと思います。しかしイエスさまがこの地上に来られた目的は、私たちの使命をもう一度、回復する為でした。

 聖書の中にこんなことばがあります。三カ所連続して読むと、いや〜聖書の神さまが与える使命はすごいものだ!と思います。今日ここにおられますお一人お一人、すべてここに述べられていることばに、あてはまるのです。
 まず最初に、イザヤ書四十六章三節、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

 実に私たち、この地上に生まれる前から、すでに、神は私たちのことを知っておられたのです。
 さらにエレミヤ書一章五節にいきますと、こんなふうに書かれています。

『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』

 なんと、胎内に形造られる前から、神さまはあなたのことを知っていましたよ!と言うのです。
 さらには、信じることのできない程の、壮大なことが書かれています。エペソ人への手紙一章四節、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

 人って偶然に生まれたように思うかもしれませんが、決してそうではありません。生まれる前から、いや、胎内に形造られる前から、さらには、宇宙が創造される前から、この時代を生きるように神から、定められていたのです。なんとそんな大きな神さまの使命を帯びて、我々は地上に生まれたのです。

 では、究極的に、その使命とは何でしょうか?それはいつも話していますが、人類は、神が造られた被造物全体の管理人として創造されたのです。人類が被造物全体を背中にのせて、創造の目的に向かって進んでいくと、宇宙は調和を保ち、神の国が訪れるというのが聖書のメッセージです。

 しかしながら人が神から託された自由意思を悪用して、堕落したことによって、被造物全体も巻き添えを食らい堕落して、神の創造の目的から外れた方向に向かってしまったわけです。これでは、神の計画はおじゃんになってしまいます。
 それでどうしたのかといったら、神が人となって、このような状況を解決するために、人の住む世界に生まれてくださったのが「クリスマス」です。
 そもそも創造の目的は、みこころゆえに万物は創造され、存在していると聖書は告げています。「みこころのゆえ」とは、「喜びのゆえ」とも訳すことができて、「賛美」に置き換えることができます。
 神さまはなぜ人類を造り、宇宙を造ったのかというと、神はご自分が創造されたすべての被造物を通して、神を賛美するオーケストラを編成されたのです。素晴らしい聖歌隊の賛美と、Hiraku&Norikoの賛美を聞きましたが、これらはすべて、み座におられる神をほめたたえる為のものです。
 しかしそれは人だけでなく、神が造られた被造物全体、動物も植物も、魚たちも微生物も、また、無機質に見えるような物質も、すべて神を賛美する役割として造られたわけです。
 しかしながら人類が堕落したことによって、その目的から外れ、被造物も全て虚無と化してしまったのです。けれどもこのような状況から人類を救うために、神が人となって地上に来てくださったのです。

 私たちが天地宇宙を造った神さまと出会う為には、自由意思が必要です。人それぞれに自由意思が与えられていています。今日この場所に来るのも、自由意思の選択により来られましたよね。「今日はクリスマス礼拝か!美味しいランチが出るかもしれないな・・・。」と思って来られたかもしれません。なにしろ、自由意思でここに来られたと思います。自由意思は、すごく大事です。これは、神ご自身が持っておられる性格を、人に分け与えて下さったものです。

 実は、ヨハネ三章十六節の前に書かれているストーリーは何かというと、ニコデモという人物が出てきます。三個でも四個でもなく、ニコデモですが、どういう人かというと、ヨハネの福音書三章一節、

『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。』

と記録されています。
 イエスさまの公生涯で、最も大きな戦いは、「パリサイ派」と呼ばれるユダヤ教の派閥との戦いでした。この派閥の人々は、人は、規則を守らなければ救われない、と主張していました。その基本となるのは、十戒ですが、彼らはそれを細分化して、何百にもして、誰にも守ることのできない規則を作りました。ゆえに彼らも守ってはいませんでした。偽善者だったのです。それらによって彼らは国をある意味、牛耳っていたのです。
 イエスさまの時代、ローマ帝国がイスラエルを支配していたのですが、ローマ帝国は、支配している国々に、ある程度自治権を与えました。それでユダヤ人たちは「サンヘドリン」という議会を作り、七十一人の議員がいて自治権を持って、国を支配していたのです。その中心派閥がパリサイ派でした。
 そんな社会に、彗星のようにイエスさまが現れて、奇跡は起こすは、不思議としるしは行うはと、あっという間に、民衆の心はイエスさまのほうになびいたわけです。それでパリサイ派は「これはやばいぞ!イエスを抹殺せよ!」という合議がなされたわけです。
 そんな敵の中心人物の一人がニコデモでした。七十一人の議員の一人でしたから、イエスさまを抹殺しようとしていたグループの一人でした。
 しかしニコデモは、ある時、自由意思を働かせて、「もしかしたら、イエスは、メシア、救い主ではないだろうか・・・」と思い始めました。それで昼間来るとまずいので、夜にこっそり来たのです。彼は歳を取っていました。八十過ぎかもしれません。
 それで、死んだらどこに行くのか解決していなかったのだと思います。「永遠のいのち」という概念が旧約聖書の中にもありますから、永遠のいのちをもらうためにはどうしたら良いだろうか、自分たちが主張している規律を守るだけでは無理じゃないかと思ったようです。
 それでニコデモはイエスさまに、まわりくどく質問をしています。「先生。私は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」と言うわけです。
 こんな質問をした時にイエスさまは、ずばりと、ヨハネ三章三節、

『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』

と言われました。
 私たちが永遠のいのちを得る、神の国に入るためには、「新しく生まれなければならない」というのが聖書のメッセージです。この八十過ぎのニコデモじいさんは、このことを聞いて大ショック。何と答えたかというと、三章四節〜五節、

『ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』

「歳を取ってから、もう一回母の胎に入って生まれるなんて不可能じゃないですか。どうやったら人は救われるんですか?」と質問した時、イエスさまは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と、謎めいたことを語られました。ますます彼は混乱しました。三章九節、

『ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」』

とイエスさまに反論しています。その時、三章十節、

『イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。』

と言っています。ニコデモは八十歳過ぎのおじいさん。当時イエスさまは三十代。三十代の若者から、ニコデモはこけにされているのです。彼は真理を知りたくてイエスさまの所にやってきたのに、なんとイエスさまからこけにされて、けっこう傷ついたと思います。「俺は真理を知りたかったのに、イエスはなんてことを言うんだ。」と、ちょっと憤慨したかもしれません。または、「イエスは何を言っているのか!分からん!」と思ったのかもしれません。

 教会に初めて来ると、ある意味、ニコデモのような心境になるのかもしれません。「教会で語られていることって、何なんだろう。意味が分からない。救われるとか、永遠のいのちとか、本当に意味分からん!」と、ニコデモのような心境が出てくるかもしれません。
 しかし水と御霊によって生まれ変わるとはどういうことでしょうか。一言で言えば、「神の霊が私たちの所に来る時、私たちは知らずして新しい人に生まれ変わる」ということです。
 人生の中で、今まで一度も興味を持っていなかったイエス・キリストに興味を持ち接近すると、ニコデモは敵方の人物でしたが、イエスさまに近づいた時に、なんと彼の人生は変化しているのです。それは神の霊の働きです。

 ヨハネの三章から読み進めて行きますと、ニコデモがまた出てきます。七章にこんなふうに書かれています。七章五十節〜五十一節、

『彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」』

 これは何を言っているのかといったら、当時、イエスさまは命を狙われていました。イエスを抹殺してしまえ!と、サンヘドリンの議会の中では、そのような意見が強く上がっていたわけです。しかし夜中にこっそりイエスさまに会いに行った、サンヘドリンの一員、ニコデモは、この議会の中で、「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決なんか下すことはできない。」と言って、イエスさまを弁護しているのです。
 イエスさまと出会ったことによって、彼の心は、神の霊によって変わって来ています。ニコデモの立場で、このような発言をするのは、なかなか厳しかったと思われます。しかし彼はイエスさまと個人的に出会った時に、勇気が与えられ、彼自身が変化していたことが分かります。

 私たちも同じです。教会に来て初めは訳分からないようなところから、来続けていくうちに、神の霊が働きますから、徐々に徐々に内側が変えられて、新しく生まれ変わっていくのです。新しく生まれ変わるって、脱皮みたいかもしれませんね。セミでも長い間、土の中に住んでいますが、ある時、殻を破って外に出ます。聖霊によって、自分の殻が破れてくるのですね。

 七章からさらに進んで、やがてサンヘドリンの決議と共に、イエスさまは捕らえられ、十字架につけられるわけです。そして人々の目の前で処刑されたのです。その時にニコデモは、イエスさまの十字架を目撃したのです。その後、ニコデモはどう変わったのかというと、十九章三十八節〜三十九節、

『そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。』

 なんとニコデモはイエスさまの埋葬に関わるまで変えられているのです。イエスさまに興味をもって、自らイエス・キリストに近づいていく時、神の霊が働いて変えられたのです。イエスさまの究極的場面、十字架の後、イエスさまの埋葬を手伝うなんて、サンヘドリン議員としては最も危険が伴う行為でした。しかし彼は、そこにまで踏み込んだのです。
 ということは、彼は新しく生まれ変わったのです。彼はイエスさまの十字架に出会い、目撃したことによって、イエスが救い主であることを確認したのです。「イエスは救い主だ!」と気づき、確信したのです。

 今日、クリスマス集会に初めて来られた方もおられるかもしれません。初期のニコデモのような形で来られたとしても、これからイエスさまに興味をもって近づく時に、二転、三転するかもしれないけれど、やがてイエス・キリストが救い主であることを確認するはずです。
 ニコデモがイエスさまの埋葬にも関わったということは、よみがえりのイエスさまにも出会ったはずです。他の人たちよりも、さらに深くイエスさまのよみがえりを、体験したと思われます。なぜならば彼は埋葬に関わり、イエスさまの遺体に手を添えた人でしたから、イエスさまがよみがえられたことは否定できない事実となったはずです。その後、彼は主のために真剣に働いたと思われます。
 イエスさまが地上に来てくださった目的は、私たちがイエス・キリストと出会い、十字架の勝利を自分のものとして、永遠のいのちを持つためです。しかしニコデモのようなプロセスもありますよ!ということを、教えているわけです。
 先ほど読みましたヨハネの福音書三章十六節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 ここに神が愛されたのは何かというと、『世を愛された。』と書かれています。「ひとり子をお与えになったほどに、人類を愛された」ではなく、世を愛されたのです。人類以上の広い意味の言葉が使われています。「世」とはギリシャ語では、「コスモス」です。直訳ならば、「秩序、調和」という意味になります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、秩序、調和を愛された。」と訳すことができます。
 しかしキリスト教神学において、「コスモス」とは、「神が創造された宇宙全体」を意味しています。と同時に、「生きているものが住んでいる世界」をも指します。ゆえに、「人類」と理解してもいいのですが、私たちを救うために神が人となってこの地上に来てくださったのは、まずは人類の救いにフォーカスがあたるのですが、その前提として、神が愛しているのは人だけでなくて、世とは、「被造物全体」を意味します。

 今日、もう一つみことばを掲げさせていただきました。イザヤ書四十四章の言葉です。ここには難しい言葉で「贖い」という言葉が使われています。「贖い」とは、「買い戻す」という意味です。敵の手から買い戻す。
 ここではイエスさまの十字架が、すでに預言されているのです。イザヤはどのようにして預言しているのかというと、イザヤ書四十四章二十三節、

『天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ。』

と書かれています。神が愛されたのは、世を愛された。コスモス、宇宙全体、被造物全体を愛していると先ほど語りましたが、すでにイザヤ書の中で。その概念が告げられています。「天よ喜べ!地も喜べ!山も木々も歌え!」と、ザワメキの中でこの賛美がありますが、救いとは人だけのものではなくて、人をきっかけとして、全ての被造物に及ぶというメッセージが込められています。

 そのきっかけになったのが、ヤコブ、後に「イスラエル」と名前が変えられるのですが、イザヤが述べているように、「イスラエルの救い」です。イエスさまは、イスラエルに生まれたわけです。イスラエルは神に選ばれた民、「選民」として、神が特別に扱われたのです。
 「イスラエル」という言葉は、よく聞くのですが、ところで、「イスラエル」とは、どういう意味かご存じでしょうか。ヤコブとは、アブラハム、イサク、ヤコブと家系が続いた、一人の人物です。その人がある時、神さまから、「おまえはもうヤコブではない。イスラエルだ。」と名を変えられたのです。
 どうして変わったのか。イスラエルには意外な意味があります。ヤコブには十二人の子どもが存在して、それらの子どもたちが十二部族となったわけですが、こんなふうに書かれています。

“ヤコブによってイスラエルの国名が誕生した。それはイシャラー、「勝つもの」とエル、「神」の二つを合わせて、イスラエルとなった。”
 そして、この意味は、「神に勝つもの」というのです。

 先日私はネットで、CGNTVという韓国オンヌリ教会がやっているプログラムを見ていました。すると、ある日本人の神学者が、「神との戦い」というタイトルでメッセージを語っていました。私たちは悪魔・悪霊との戦いは知っていますが、「神との戦い」、それはなんだろう?と思って聞いてみました。

 「イスラエル」とはどういう意味か、それは「神と戦い、神に勝った者たち」という意味があるのです。神さまとの戦いなんて信じられますか。神さまは愛の神さまで、「神が人類と戦うのか?」と、ちょっと混乱しませんか?しかし「イスラエル」という意味には、「神と戦い、神に勝った存在」という意味があるわけです。
 これはどういうことなのか。今日は時間がないので詳しく扱えませんが、ヤコブには双子の「エサウ」という兄さんがいました。ヤコブは兄さんとトラブって命を狙われ、絶体絶命という時に出会いました。どうしても、兄貴と出会わなければならない。でも出会ったら、多分、殺されるという危機に、彼は何をしたのかというと、自分の持っている財産を先に進ませて、兄に対する「贈り物」としたのですが、最後に、ヤボクという川の渡しの所で、彼は必死に祈るのです。
 その時にある人物が出て来て、ヤコブと戦うのです。それはどういう存在かというと、神を象徴する、天使が出て来たと思われます。するとヤコブは天使を捕まえて、「私を祝福してくれなければ、私はあなたを放すことはできません!」と言って、夜明けまで戦ったのです。そしてヤコブは天使との戦いに勝ったというのです。
 その時、天使が神のことばを告げるのです。創世記三十二章二十八節、

『その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』

 人生の中には様々な問題が起こってきます。予期しない問題が、突然起こってきます。
 多くの場合、信仰とは、待ち望むものだと考えます。「神さま、みこころならば私を助けてください。」という、主を信じて待ち望む信仰もありますが、同時に、神と戦うような、ヤコブと同じような信仰を持たなければならないと、語られていました。
 後に引けない、まさに背水の陣だ!これに負けたら死ぬかもしれない!そんな時は、ヤコブと同じように、神と取り組んで、「絶対にこの戦いには勝利しなければあなたを去らせません!」と、ヤコブのように戦わなければいけない!と、「信仰には待ち望む信仰と、もう一つ、神と戦う信仰の側面もある」と語られていました。イスラエルは、そもそも、ヤコブが「神と戦い勝利した」というところから生まれた国なのです。
 聖書理解は、なかなか難しいところがあるのですが、ヤコブが天使と戦って、「私を祝福してくれなかったら、絶対あなたを去らせません!」と祝福を受けたことによって、彼はエサウと出会った時、殺されることもありませんでした。それで「イスラエル」という国ができました。

 旧約聖書の神さまはある意味で、ちょっと怖いところがあります。しかし、クリスマスにイエスさまが来られて、イエスさまの十字架と復活によって、十字架を中心軸に、「神と戦うイスラエル」から、神を「アバ父」と呼ぶイスラエルに変えられていくのです。
 「アバ」という言葉は、「お父ちゃん!」という意味です。イスラエル旅行に行きますと、現地の子どもたちが、父親を追っかけながら「アバ!」と言っている様子を見たことがあります。「アバ父よ!」とは、こういう感じなんだ!とね。
 なんと戦い、勝ち取っていかなければならない神さまから、イエスさまが十字架にかかって肉体を裂いてくださったことによって、聖所と至聖所の真ん中の仕切り幕が破れて、誰でも父なる神さまを、「アバ父」と呼ぶことができるようになったのです。大祭司しか入ることのできない至聖所に、誰でも、いつでも入ることができるようになったのです。
 ローマ書八章十四節〜十五節、

『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 水と御霊によってしか、人は新しく生まれることはできません!と、イエスさまは言われましたが、神とも戦わなければならなかった人類が、イエスさまがこの地上に来られたことによって、聖霊により、今度は「アバ父よ!」と、「お父ちゃーん!」と叫んで、かけこんでいくような存在に変えられたのです。
 私たちは旧約聖書をベースにしながら、新約で与えられた恵みを、しっかりと受け止めたいものです。
 しかしその根源には、旧約聖書の概念があることも忘れてはならないのです。信仰生活の中で、前にも後にも引けないような場面には、神の前に出て、神と戦い、真剣に祈ることが重要です。ある意味、私もそのような戦いの中にあります。
 しかし、忘れてはいけないのは、イエスさまがクリスマスに来られた事によって、旧約聖書の神さまを「アバ父よ!」と呼ぶことができるのです!そのように関係を人類と構築する為に、父なる神さまは、ご自分のひとり子、イエスさまを地上に遣わしてくださったのです。

 私たちは「アバ父」と呼ぶことができるという記述の後に、八章二十一節〜二十二節、

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』

 人だけの救いではなく、被造物全体の救いが告げられています。我々クリスチャンが、「アバ父よ!」と、父なる神さまのみ前に出て行く時、被造物も一緒に、神の前に出て、神を礼拝するようになるのです。
 なぜならばイエスさまの十字架は、コロサイ一章二十節、

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 イエスさまの十字架テーマは「和解」です。それは神と人との和解だけにとどまらず、被造物全体と、神との和解まで含んでいるからです。ローマ人への手紙八章のテーマは、そこまで進んでいるのです。

 イエスさまが地上に来られた目的は何であったのか、「主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現される」と預言されていました。まずはイスラエルを選んで、その後、イスラエルが福音を拒否し、福音は異邦人に転がっていって、聖霊によって、私たちは神さまを「アバ父よ!」と呼びながら、やがてイスラエルも救われ、被造物全体が神の栄光の中に入れられるという、プロセスです。「天よ喜び歌え!地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。」と、神が造られたもの、すべての贖いにつながるのです。

 イエスさまが地上に来てくださった目的は、「クリスマス。それは神が被造物全体を救うために、ひとり子イエスさまをお与えになった日」と定義づけることができます。
 そのために必要なのが、管理人である私たちがまず、イエス・キリストと出会うことです。

 今日、初めて教会に来られた方もおられるかもしれませんが、教会に来て、その全容は分からなくても、ニコデモのように興味を持って、イエスさまと関わり続ける時に、神の霊が働いて、知らないうちに、新しい人に生まれ変わっていくのです。水と御霊によってとありますが、「水」とは、水のバプテスマをも表しています。
 私たちが変えられたら、今度は決断の時が来ます。それは水のバプテスマを受けて、「私はイエスさまの弟子となります。」という宣言です。その過程の中で、常に神の霊である聖霊さまは、働き続けてくださっているのです。
 以前は神と取り組んで、神と戦わなければならなかった人類が、イエスさまの十字架と復活によって、「アバ父」と呼び、被造物全体も回復していくのがクリスマスに込められているメッセージです。
 そのためにイエスさまは地上に来てくださったことをよく理解する時、信仰の世界は大きく広がっていくのです。
 クリスマスの良き日に、共に礼拝を守ることができたことを感謝します。最後に一言お祈りして、クリスマスの礼拝を終わりにしたいと思います。

 まずは救われるためには、イエスさまに興味を持って、「イエスさま、私の所に来てください。」と祈るところから始まります。今日は皆さんでお祈りの時を持ちたいと思います。最後にお立ち上がりできる方は、お立ち上がりください。イエスさまをお招きする祈りが必要です。私の祈りに合わせて、心から祈っていただきたいと思います。

 父なる神さま、今私は、み子イエスさまが地上に人となって来てくださったことを信じます。ニコデモのように、イエスさまと出会わせてください。私はイエスさまの十字架が、私の罪を赦し、癒やし、解放するためであったことを、高らかに宣言します。
 イエスさま、私の所に来てください。聖霊さま、助けてください。私を新しく生まれ変わらせてください。主の勇士として、被造物全体の救いのために、解放のために、私を用いてください。このクリスマス、心から父なる神さまに、イエスさまに、聖霊さまに、感謝をおささげします。アーメン。

 では、私が皆さんの祝福を祈ります。

 ハレルヤ、感謝します。今、イエスさまをお招きする祈りをしました。今ここに聖霊さまが働いておられます。一人ひとりの所に来てくださって、ふれてください。ニコデモのように、主と出会った時に変えられていくことを感謝します。あなたの十字架が、被造物全体の和解であったことを理解し、「アバ父」と呼んで、あなたに仕えて行きます。
 父なる神さま、私たちの祈りを受け取ってください。イエスさまが共におられ、聖霊さまも共におられることを感謝いたします。一人ひとりの人生の中に、新しい扉が開かれ、新しい生まれ変わりが起こりますように。すべての栄光をお返しして、イエスさまのみ名によって、祈りをおささげいたします。アーメン。