「宣教70周年-2020 明日に向かって『将来と希望』パート8 
~主が立ち上がられた日②~聖餐式の神秘」

2020年7月12日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇23篇4節〜6節

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。
 大雨やコロナで大変な中にありますが、皆さんと共に礼拝を持つことができます恵みを、心から感謝します。先週も雨が続きまして、よくぞこれだけ雨雲が停滞するものだと思うのですが、これ以上、雨雲が来ないように祈っていきたいと思います。

 コロナに関しましても、東京のほうで増えているみたいです。しかしPCRの検査の件数も多くなっていて、分母も大きいですから、割り算してみれば率としては低いとは思うのですが、主の守りを日々、祈っていきたいと思います。

 先ほど読んでいただきましたみことばは、大変重要なみことばです。詩篇二十三篇、

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。』

とあります。死の陰の谷のような時期も、主が共におられます。

 今日は礼拝後、三名の方々がバプテスマを受けられます。若い方々が、三名、受けられます。すばらしいですね。これからも多くの方々が、「信じてバプテスマを受ける者は救われます!」とありますから、バプテスマに向かうように願っています。

 プロテスタント教会には、あまり儀式的な要素はありません。なぜなら「神のことば」が中心だからです。しかしカトリック教会に行きますと、儀式だらけです。
 けれどもプロテスタント教会の中でも、一見、儀式のような、サクラメント「神秘」と呼ばれる事柄が二つあります。それが「バプテスマ」と「聖餐式」です。この二つは、どのように説明しようとしても神秘としか言い表せないものです。
 まさに主は、このような領域に真理を隠されています。内に込められている真理を知る時、信仰生活は変わるはずです。
 1992年7月9日。新城教会に宣教に伴う「霊的戦い」が始まりました。そのとき、主から強く教えられたのが、バプテスマと聖餐式の意義でした。先週は霊的戦いが始まって28年の記念日でした。それと前後して、主はもう一度、特に、聖餐式の意義について教えて下さっています。

 世界は「契約」で成り立っていると言えます。契約とは、ただの約束よりも、さらに深い約束を意味します。辞書で調べますと、「契約とは、当事者同士で結ぶ約束のこと。お互いの権利・義務に関して、法的拘束力を持つ。」となっていました。契約が結ばれたら、双方、約束は必ず守らなければならないわけです。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書で構成されています。旧約、新約とは、約束の「約」です。古い約束と、新しい約束の書物。そしてこの「約」は、ただの約束ではなくて、「契約」です。我々が仕える神は、「契約の神」です。

 皆さんも車を買ったり、家を建てる時には契約を結んだはずです。契約が結ばれたら、必ず、双方に義務が生じます。ハンコを押したら、必ず、代金を払わなければなりません。そして車屋は自動車を手渡さなければなりません。その背後に、国が関わる法律があって、履行しなかったら罰則があるわけです。
 それが契約です。聖書の神も、このような契約の中で、私たちと交わりされます。

 旧約聖書はヘブル語で書かれているのですが、「契約」という言葉を、ヘブル語では「ベリート」というそうです。この語原は、「切る」または「食べる」という意味だというのです。
 英語でも、ヘブル語でも、「契約を結ぶ」とは、「契約を切る」と表現されます。英語では、「to cut the covenant」、「cut/切る」と表現します。本日のメッセージを理解するために、これを覚えていただきたいです。
「契約」とは、「切る」、「食べる」という意味から出来ています。その意味について、今日は皆さんと考えたいと思います。

 神が人類を造られた時に、元々、神とは契約の神ですから、人間同士にも「契約概念」を与えられました。
 聖書を「契約」という概念を持って読むと、大変興味深い側面が見えて来ます。神さまが私たちと交わりをされる時には、契約の概念が根底にあります。それを知らないと、神を正しく理解できませんし、良い関係を築くことも出来ません。

 そもそも世界のすべての文化の中に、「契約」という概念が存在します。数年前、リバイバルミッションで、タイ、ミャンマーの国境地帯に分布するカレン族の村々で集会をしたことがあります。カレン族の人々は、大変可憐(カレン)な人たちで、日本人のルーツのような方々です。稲作はこの付近から始まっています。

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 このような山岳民族の人たちは、日本で言えば、縄文時代くらいの古い文化を現代にまで保っています。ということは、アダムとエバが暮らしていた頃の文化・習慣を、今でもキープしているわけです。

 民俗学的調査によると、彼らは三段階の契約レベルを持っていると言われます。それはある意味、神が人を創造した時に与えた、神と人との関係、また人同士の約束の手法を引き継いでいます。

 彼らは敵と和平条約を結ぶ時、第一段階においては、「共に食事をする」そうです。
 私たちも時々、会食をしますよね。共に食する。何気なく、お腹が空いたから食事をするように考えるのですが、実は、食事とは大変重要な意味を含んでいます。先ほどヘブル後の契約の語源に「食べる」という意味があると言いました。これは契約を表す行為です。
 食事とは、元々、「神、神々の前で食する」行為です。家を建てる時など、神道では、参加したことがあるかもしれませんが、建物を建てる予定の土地の上で業者の人たちと共に食事会をします。現代においては「ご苦労さん食事会」としか捉えていませんが、実は神道においては、「直会(なおらい)」と言って、日本の神々の前で共に食事をする、契約行為です。
 本来は、天地宇宙を造られた神のみ前で食して契約を結ぶ重要な行為を、日本においては悪魔に取られています。
 食べるとは、お腹が空いたから食べるというよりも、元々は、神との契約関係に入る為の行為を原点に持ちます。クリスチャンは食前の祈りをしますよね。
 食前の感謝の祈りは、短ければ短いほど喜んでいただけます。あまり長くしてはいけないです。今までで一番長い食前の祈りを体験したのは、「三十分」という祈りに立ち会ったことがあります。祈った牧師に対して、一同、思いっきりブーイングでした。何を考えているんだ!こいつは。空気読め!という感じでした。食事はすべて冷えてしまいました。
 食事には、「神の前で契約を結ぶ」という意味があるのです。ですから、ご飯を食べる前には、天地宇宙を造られた神と契約を結ぶ、そんな気持ちで祈って、食べてくださいね。
 私は友人のジョー先生と食事をする時、よく茶化すのですが、あるとき、スターバックスに行ってコーヒーを飲みました。すると彼は祈りもせずに食べ、飲み始めました。私は、「先生!食べる前にはちゃんとお祈りしないと駄目だよ!」と言ったら、彼が「五ドル以下のものは祈らなくてもいい。」と言っていました。もちろんそれはジョークですが、どんなものでも神に感謝をして、いただくのはいい事です。食べる行為は契約なのです。

 そしてカレン族は、さらに強力な効力を持つ第二段階のレベルを持っています。それは「共に木を植える」そうです。「木が生きている間は平和が保たれる」という、意味だそうです。
 戦後天皇が、「全国植樹祭」と言って、全国を廻って木を植えまくりました。現人神だという存在から、人間天皇をアピールするために、GHQが関わり実現しました。あれをただの緑化運動のように国民は捉えていますが、そうではありません。全国植樹祭は日本の神々の前に平和を誓う、契約行為でした。今の天皇も植樹祭をやっています。

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 木を植えるのにスーツ姿はないでしょう。本当に緑化したければ、作業服を着るべきです。植樹祭は儀式なのです。これは日本の神々との契約です。
 本来は、天地宇宙を造り、すべての被造物を創造された神の前で木を植え、人が被造物を管理する、管理人である宣言としての契約を立てるべきです。

 さて、カレン族にとって最も深い第三段階の契約は、「血の契約」だというのです。

“族長が部族の代表として立ち、契約を結ぶ当事者、それぞれの太ももを切って血を流し、互いの血を混ぜる。次に指を血に浸して唇に塗る。この契約は最大限の効力を持ち、平和や停戦に同意するだけでなく、平和な時も、戦いの最中でも助け合う約束を含む。もし契約当事者が部族長なら契約の効力は、部族全員に及ぶ。もし契約当事者が一個人なら、その契約の効力は彼の近親と直系の子孫に及ぶ。”

 なんと、血の契約が結ばれると、ある意味、永遠に破られない契約となるのです。カレン族の人たちは、今でもこのような契約文化を保っています。しかしこれは、カレン族に限ったことではなくて、世界共通の文化です。
 その根源にあるのが、神が天地を創造し、人を創造した時に、神が人と結んだ契約に原点があるのです。
 聖書を契約という視点で読んでみますと、「あっ!まさに神は人と、揺るがない契約を結んでおられる!」と気づかされます。

 信仰者の根源はアブラハムです。はじめはアブラムと呼ばれました。アブラムが神の声を聞いたところからストーリーが始まるのですが、アブラムという一人の人物が神から声をかけられて、最終的には神と永遠の契約を結んでいただきました。そのプロセスと神との関わり合いを見ていくと、どのような形で神がアブラムと関係を築かれたのかを知ることができます。
 アブラムは、古代バビロニア帝国のウルに住んでいました。そこは偶像で満ちていて、悪しき神々の巣窟みたいな所でした。
 しかしある日彼は、不思議な声を聞くわけです。創世記十二章一節、

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』

 これはある意味、霊体験ですよね。どうですか、生活のただ中で、このような不思議な声を聞いたら、びっくりします。彼は日本と同じような偶像文化のただ中で生活していました。そこで突然、「この声は日本の神々じゃない。バビロンの神々の声ではないぞ。」というような不思議な声を聞くわけです。なぜなら、「あなたの父の家から出ろ。」と言われたからです。父の家とは、すなわち家系、偶像礼拝が連綿と続く家の束縛から離れる事を意味します。そこから「出ろ」と言われたからです。
 出たらどうなるのか、十二章二節、

『そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』

 脱出したら「あなたの名前を祝福という名前に変えてあげる!」と約束されました。人類に名前を付けるとしたら、一言で言えば、「呪い」と付くのではないでしょうか。実際、人生には悲しいことが多すぎます。今回の大雨で、いろいろ悲しいレポートが寄せられています。一瞬にして長い間、愛し合っていた夫婦が引き裂かれ、帰らぬ人になったり、あまりにもひどすぎると思います。人類には呪いのタイトルが付けられているような気がします。しかしそれを「祝福」に変えてくださるというのです。
 そして十二章三節、

『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 彼は「アブラハム」という名に変えられ、一人から、地上のすべての民族が祝福されるという、ものすごく大きな祝福をいただいたわけです。それがどのような形で約束されたのでしょうか。まず第一に、彼は神の声を聞いたのです。
 神の声を聞いたことはありますか?私は神の声を聞きたいと、日々、願っています。しかし、なかなか自分の思いなのか、神さまの声なのか分かりません。
 けれども幸いなことに、現代では聖書があります。聖書は神のことばそのものです。聖書を読むことは、アブラムが直接神からことばをかけていただいたのと同じ意味があるわけです。私たちにも、神からの声が届けられています。

 しかしアブラムは、ただ神の声を聞いただけで終わっていないのです。創世記十五章六節、

『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

とあります。神がせっかく声をかけてくれても、信じなければ約束はアブラムのものにはなりませんでした。私たちは聖書のみことばを読んで、それを信じなければいけないですね。信じるって、どこまで信じればいいのか?という疑問も残りますが、神のことばを信用することです。
 アブラムは、「あなたから地にあるすべての民族が祝福されます。」と祝福のことばをかけられたわけですが、それを「信じた」時、「彼は義と認められた」のです。信じることは大事ですね。

 しかし、よく見ていきますと、まず第一に神はアブラムと口頭で約束をされました。そしてそのことばを、アブラムが信じたことによって、義と認められました。

 プロテスタント教会は、「信じることによって義と認められる」という「信仰義認」が強調されています。なぜなら、それがルターによる宗教改革の争点であり、原点であるからです。とにかく、「信じたら義と認められる。救われる。」これは正しい理解です。しかし、ここで止まっている事が多いのです。その後のアブラムの神との契約を見ると、その次もあることを知らなければなりません。次は何かというと、創世記十五章九節、

『「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」』

と神は言われました。それらを切り裂き、血を流して、生け贄としてささげることを要求されたのです。それでアブラムは神から言われた通りに、生け贄を用意して、血を流したら何が起こったのでしょうか。十五章十七節を見ると、

『さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。』

 「あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とありますが、何者かが血が流れている生け贄の間を通り過ぎたのです。これは神が通り過ぎられたのです。そして十五章十八節から、

『その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。』

とあります。アブラムと神との約束は、最初は「口約束」から始まり、最終的には「血を流す」事によって成立しているのです。案外、私たちは神さまのことばを「信じる」という場面で止まっています。しかし次の段階、生け贄をささげて、血が流された事によって契約が成立しているという、ゴールを見落としています。

 旧約聖書中の契約で最も有名なのが、モーセがシナイ山で神と結んだ「シナイ契約」です。それが聖書の重要な契約概念となっています。今日は時間がないので、ご自分で勉強していただくとよく分かると思うのですが、まとめると、

 “シナイ山における神との契約は、「血の儀式」と、「神の前での食事」によって結ばれた。”

 ある神学者がこのように解説していたのですが、アロンとその子らは会見の天幕の入口で、「食べろ!」と命じられています。それは「生け贄に使った動物など、もったいないから食べろ。パンももったいないから食べろ。」という、残り物を食べる印象で現代人は受け取ってしまうのですが、そうではありません。
 先ほど、「ベリート」が、「切る」という意味と「食べる」という意味が根底にあると申しましたが、まさに、生け贄を切って血を流す、神の前で食事をするという、二つの行為が、神と契約を結ぶ条件として、大変重要であった事が理解できます。
 神と結ぶ契約は、壮大な神の前での食事を伴う、生け贄儀式と共にあったわけです。

 今でもイスラエルに行きますと、彼らは旧約の概念に生きていて、このような儀式を見ることができます。ユダヤ人たちは生け贄をささげたりはしません。「なぜささげないんですか?旧約聖書にささげるように言われているじゃないですか。」と聞くと、「生け贄の儀式は神殿がないとできない。今、神殿がないから生け贄の儀式はやらない。」と答えました。
 しかし、以前にもお話ししましたが、イスラエルにはサマリヤ人という人たちがいます。サマリヤ人は、イスラエル十部族の子孫です。私はそこに二回ほど訪問しました。彼らはゲリジム山の山麓に住んでいて、今でも、生け贄儀式をやっています。

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 祭りの時には世界中から見学者が来るのですが、私はサマリヤ人のおじさんと仲良くなり、いろいろ教えてもらいました。彼らは、彼らの神殿跡地で儀式を行っています。
 私たちクリスチャンは、こんなことはしませんよね。もしもキリスト教がこれを受け継いで、毎週、血の儀式をやっていたら誰も教会には来ないと思います。
 しかしネパールに行きますと、彼らはヒンズーですが、必ず、血の儀式を行います。毎日のように、羊や山羊の首を切り、ヒンズーの神々にささげるのです。そして生け贄を食するのです。本来は神と結ぶ契約を悪魔に取られているわけです。

 クリスチャンは、このような儀式は必要ないように考えるのですが、旧約聖書をベースにして考え、私たち自身が神の神殿ならば、何らかの契約儀式が必要となるわけです。このように話すと「えぇっ?」みたいなところがあります。

 神さまとの口約束のレベルでは、完全な契約は成立していないのです。本当の契約は、「食事と生け贄」がささげられて、初めて成立し、発効されるわけです。
 たとえば私の場合、「家内をいやしてください!」と毎日祈っています。神さまの声が聞こえたらいいな、と期待しています。「順、おまえの妻の病気をいやしてやるぞ!」と語られたら最高です。それを私が信じたら、義と認められるわけです。
 でも、旧約聖書的に言うと、まだ契約書は出来上がっていないのです。契約書が発行されるまでは、油断できないですよね。

 新約時代ではどのようにして、具体的な契約書にまで持ち込むことができるのでしょうか。その方法が示されたのが、イエスさまが十字架にかけられる前に行われた「最後の晩餐」と呼ばれる食事会でした。そこでイエス様は、神との契約の結び方を、弟子たちに教えられました。
 最後の晩餐の中に、同席している気持ちで、聖書を読んでみたいと思います。まずはそれに先立ち、ヨハネの福音書六章五十一節、

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」』

 このことばをイエスさまから聞いたら、どうですか?受け入れることができますか?「そうだ!イエスさまがいのちのパンだ!」と信じることができると思います。しかしイエスさまは続けて、こう話されました。六章五十三節、

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』

六章五十六節、
『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。』

 どうでしょうか。「俺の肉を食って、俺の血を飲まないとおまえらに命はないぞ。」と言われたら、絶対に引くと思います。
 実際、イエスさまの十二弟子以外の多くの弟子たちが、この発言を聞いて離れていきました。我々もそこに居たらきっと、「この人やばいぜ。何を言うんだ?」みたいなところがあると思います。
 しかし、旧約聖書の時代の契約文化を知っていたら、少しは違うと思います。
 その後、イエスさまは何と言われたのかというと、ルカの福音書二十二章十九〜二十節、

『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

と言われました。旧約時代、大規模な生け贄儀式が行われないと、神との正式な契約には至らなかったのですが、イエスさまが十字架で血を流し、ご自分を神の前に、生け贄としてささげてくださることによって、古い契約が、新しい契約と置き換えられたのです。大規模な生け贄儀式は、「聖餐式」に置き換えられたのです。

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「パンはわたしのからだです。ぶどうのジュースはわたしの血です。パンを食べたら、わたしの肉を食べるのと同じです。ぶどうのジュースを飲んだら、わたしの血を飲むのと同じです。」と、今は聖餐式という形で、血の契約が結ばれるのです。
 私が現在祈っている事柄を神から、正式な契約書にしていただくには、何が必要なのか。それは「聖餐式」が必要ということです。神の言葉の約束を信じることはとても大切です。しかしもう一歩進むと言うか、旧約聖書を土台にして新約の契約に目を向ける時、案外、軽く考えられている聖餐式が、神との契約を交わす為の、重要な働きであることが分かります。
 案外、プロテスタント教会、特に聖霊派は、この真理を見落としているのではないかと思われます。信仰を確立するために、一歩進んで、新しい契約が「聖餐式という形で与えられている」ことに気づかなければいけないですね。

 私はクリスチャンホームに生まれて、小さい頃から聖餐式を見て育ちました。洗礼を受けてからは自分も参加してきました。しかしあまり良いイメージを持っていませんでした。なぜならば父は聖餐式の時に、第一コリントの十一章を必ず読みました。その中でも特に強調したのが、第一コリント十一章二十九節〜三十節、

『みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。』

 「聖餐式に与ると、弱くなったり、病気になったり、最悪の場合、死んでしまう?!教会で毒入りのパンと、毒入りの飲み物を提供するような聖餐式は、やらないほうがいい!」と私は考えていました。自分を振り返れば、悪いことばかりしていましたから、やらないほうがいいと考えていました。
 しかし聖書のみことばは、コンテキスト、文脈をしっかりと抑えないと意味を曲解してしまいます。第一コリント十章、十一章でパウロは何を警告しているのかと言ったら、コリントのクリスチャンたちはクリスチャンと言っても、コリントの文化、習慣の中にどっぷり浸かっていました。彼らは、アブラハムのように、父の家から出ることをしませんでした。

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 コリントにはギリシャ神話の神々が至る所に祀ってあって、毎日のように動物の生け贄が悪霊にささげられていたわけです。彼らはその肉を無批判に食べていたし、神殿には神殿娼婦がいて、悪い習慣が数多くありました。
 クリスチャンといいながら、特に偶像礼拝にまつわる行為を平気で行いながら、同時に、聖餐式にも参加していたのです。彼らは聖餐式ならぬ、悪餐式のような行為に日々、関わっていたのです。
 パウロは「偶像にささげた肉は、あなたがたに被害を及ぼす。ゆえに病気になったり弱くなったり、死んだ者も大勢いる。悪しき文化をかなぐり捨てて、真の神と血の契約を結んでください!」と呼びかけているのです。それが第一コリント十章、十一章に述べられている全体の文脈です。聖餐式は本来、大きな祝福であるわけです。

 今日、皆さんと共に、詩篇二十三篇四節~六節をお読みしました。今、お話したような契約と聖餐式の概念を加えて読むと、普段では見えないものが見えて来ます。詩篇二十三篇五節、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

 「敵の前で食事」、敵である悪魔・悪霊どもの前で、本物の神と共に食事をするのです。
 そして「杯は、あふれています。」真の神との血の契約が結ばれます。ゆえに、敵は、私たちに手出しできない!のです。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 コロナ禍の中、家で聖餐式を行うようになりました。そんな中で私自身、大きな恵みをいただきました。家内のことで皆さんにいつも祈っていただいて、本当に感謝いたします。家内の病を通して、主が私に、いろいろなことを教えてくださいました。その一つが聖餐式の神秘です。そこには大変重要な意味があることを教えられて、同時に、食事も神との契約であることを教えられて、家内は聖餐式と共に服薬することにしました。
 そして先週は大きな山場で、医師からの現状説明がありました。これは現時点での話で、完治したという話ではないので、是非、続けて祈っていただきたいです。
 先週、医者が語った言葉を書き留めたのですが、「これを見る限りは何もない。組織を取ってみないと分からないけれど、病気自体は消えているというか、どこかに残っているかもしれませんが、ほとんどなくなっていると思います。」と言うことでした。
 信じられないことが起こっているのです。しかし今の医学では、ミクロの世界ではあるかもしれない、だから、そこを切り取らなければいけないと言われます。これから手術があるということですが、今週は、そのことを聞きに行くので、ちょっと心が重いです。
 しかしここまでは確実に奇跡であり、皆さんの熱い祈りと共に、神との約束を具現化する、聖餐式をコロナ禍の中で教えてくださったゆえであると信じています。

 神さまは、口約束で終わる方ではありません。ちゃんと契約書を作ってくださいます。それも、血の契約書です。
 どんなふうに作るのですか?それは簡単です。聖餐式の中で契約が結ばれるのです。また、それに伴う食事の中で結ばれます。我々の生活のただ中で、イエス様の十字架と復活を通して、神は私たちと血の契約書を交わしてくださるのです。ハレルヤ!!

 一言お祈りさせていただきます。
 ハレルヤ、父なる神さま、み名をあがめて心から感謝をいたします。旧約に述べられている壮大な儀式が、聖餐式という形で、新しく契約化されていることを心から感謝します。大変厳しい中にありますが、家でパンを裂くことを教えてくださいました。様々な問題で私たちは苦しんでいます。主よ、血の契約書によって、問題を解決してください。私の家内にも完全勝利を与えてくださり、感謝します。イエスさまのみ名によって祈りを、父なる神様におささげします。アーメン。

 聖書の中に、『ですから神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』とあります。詩篇二十三篇、「敵の前で食事を整える」これはまさに神に従い、悪魔に立ち向かうみことばそのものです。
 家内はこのみことばの約束を主からいただいて、毎日のように立ち向かって祈るようになり、聖餐式と共に、大きな祝福をいただいています。本当に感謝します。続けてとりなしの祈りをよろしくお願いいたします。