「主の恵み」

2020年7月19日(日)
新城教会牧師 滝元開
第二コリント12章9節~10節

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

 久しぶりの賛美礼拝となりましたが、こうして皆さんと共に主に賛美をおささげできた大きな恵みを心から感謝します。今から聖書のみことばを学ぶ時間を持ちたいと思いますが、今日は「主の恵み」というタイトルで、みことばを学んでいきたいと思います。第二コリント十二章九節~十節をもう一度、お読みします。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

 これは使徒パウロが言ったことばですが、神さまはどのような中に働いてくださるかというと、弱さの内に働いてくださるというのです。人はそれぞれ弱さを持っています。パウロも弱さを持っていて、自分の病気のために、「この弱さを取りのけてください。」と三度にわたって祈ったとみことばにありますが、しかしその時に、神さまからのことばは、「わたしの恵みは、もうあなたには十分ですよ!あなたのその弱い所に私は働くんだ。」と、そのように神さまがおっしゃったことが、このみことばです。

 新城教会にとって、七十周年という記念の年を私たちは今迎えて過ごしていますが、そんな中でさまざまな神さまのみわざを振り返ることができたことを心から感謝します。主は様々な弱さの中に働いてくださって、恵みが十分に溢れた七十年であったことを、もう一度振り返ることができればと思います。

 私たちのザワメキ十三のCDも、本当にただただ神さまのあわれみによって、弱さの内に主の力があらわされ、あのような素晴らしいCDになったと思っています。
 今回一人の方がCDを購入してくださったのですが、人生で初購入だったんですって。「CDというものを六十七年生きてきて、私は初めて買った!」と、そうおっしゃってくださって、それがザワメキ十三だったということで、そして私が産まれる前から知っている方なので、「開、買ったぞ!それで聞いた!」というのです。そもそもCDの入れ方が分からないということで、なんかみんな大きな車に乗っていて、「どこにどうやって入れるんだ?」と、みんなでわいわい言いながら入れたんですって。そうして聴きいてみたら、「開、すごいな。」と言うのです。「歌もいい。演奏もいい。おまえ、天才か。」と言ったというのです。天才じゃないことはよくご存じなので、ただただ主のあわれみによって、弱さのうちに主のみ力が現された結果だと思わされておりますが、本当に私たち神さまの愛の中で生かされてここまで生きていることを本当に心から感謝をしたいと思います。

 今週は、東三河地区の牧師会というのがありました。一昨年くらいから、この東三河の牧師会の中に私も連ねさせていただいて、この地域のいろんな牧師先生方とお交わりをさせていただくようになりました。
 それは今回はネットでありました。いつあったかというと、火曜日にありました。火曜日は教会のお休みの日なので、よりによって火曜日で、「せっかくのお休みなのにな。」と、ちょっとだけ気が乗らないところがなかったわけではないですが、でも神さまはその中で、「本当にこの地を愛しているなぁ。」とすごく強く感じました。
 コロナのことで、それぞれの先生方が自分の教会の現状を話しておられて、すごく小さな教会で、「本当に大変だった。そして今も大変だ。」とおっしゃっておられました。礼拝をネット配信に変えて、誰も来なくなって、何が起こるかというと、「やっぱり経済的に本当に大変です。ぜひ祈ってください。」とおっしゃっていました。
 またそれからネットで皆さん礼拝を守るようになって、皆さんにまた戻って来ていただくように変えたのですが、そうしたら教会まで来なくても礼拝に出られるということを味わってしまったばっかりに、「帰って来てくれない。」と嘆いておられた先生方もいらっしゃいました。
 でもそんないろんな交わりの中で、お互いに祈り合うことができたのですが、その中で最後に一人の先生がこうおっしゃいました。「私たちは教団教派も違うし、もしかしたら聖書の解釈も違う所もあるかもしれない。でも私たち、キリストのからだとして愛し合っていきましょうね。」と、一言そうおっしゃったのですが、その時に本当に神さまの愛がこの東三河の教会そのものに注がれているんだなぁとすごく深く感じて、イエスさまの愛に心がジーン時たのです。いや〜、今日牧師会に参加できて良かったなぁと、すごく思いました。神さまはこの東三河の教会、一つ一つを愛してくださっています。

 世界宣教のLINEのメールに順先生が送ってくださっているみことばの一つが、ゼカリヤ書二章五節が最近よく流されていますが、

『しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。--主の御告げ--わたしがその中の栄光となる。』

という、このみことばが語られています。神さまご自身が、それぞれの町の火の城壁となってくださって、悪いものが入り込まないように祈り続けていかなかったらいけないと思います。新城は幸いにして守られていますが近隣の街々にコロナ感染者が出始めてしまっているという、そのような現状がありますので、この時、もう一度、私たちは祈りの手をあげて、この町の守りのために、それぞれの町に、それぞれが遣わされ、それぞれの場所に神さまがおいてくださっているので、その町において「火の城壁となってください!」という祈りをさらにささげ続けていただければと思います。

 さらにみことばを学んでいきたいと思いますが、詩篇百三篇一節~五節のみことばをお読みします。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 新城教会が宣教七十周年。もう何度も語られて、何度もこの礼拝の中で、過去を切り刻むようにして、過去行われた一つ一つを振り返ることができましたが、その中で神さまが私たちに今日教えてくださっている一つのことは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」です。今日のメッセージのタイトルは、「主の恵み」というのがタイトルなのですが、神さまがくださっている恵みというものがどんなに大きなものかということを、もう一度この七十周年の時に、そして次に向かうにあたって、この七十年間に与えられた恵みをもう一度感謝するという時を持つことができたら、どんなにすばらしいことかと、そのように思っています。
 最近すごく思うのですが、七十周年のいろんなメッセージがなされて、また証しがなされて、「あの時は良かったなぁ、あの時はすごかったなぁ。」いや、本当にすごかった、神さまのしてくださったみわざは、やっぱりすばらしいと思います。だからそこで私たちは、『誇る者は主にあって主を誇れ。』というみことばがあるので、イエスさまがしてくださったみわざ、人間的な力ではなくて聖霊さまの働きで主がしてくださったことはすごいなぁと思うのですが、そういった中でちょっとだけ思うのは、「いやぁ僕のお父さん、僕のお母さんたち、頑張ったなぁ。すごいなぁ。」と、若い人たち、若い世代の人たちが、ちょっと一歩下がって、「七十周年、昔の人がんばってください。」みたいな、的な、位置に立っていないかな?と、ちょこっとだけ心配していています。だからすべてのお年寄りから若者まで、もう一度、主がくださった七十年を感謝して、次に進むためには、若者に対する神さまの計画って絶対にあるなと思います。

 明牧師がこの教会の創設者ですが、郷里伝道に入ったのは、二十歳の時なのです。二十歳で、「この郷里の人々がイエスさまを信じるように!」と命がけで戦ったと、そのことが何度も語られていますが、やっぱり主がそれぞれの世代に対してもっておられる計画というのがあると思います。エレミヤ書一章七節、八節、

『すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」』

と書かれています。「まだ若い、と言うな。」本当にすべての世代が、まだ若いと言わずに、主が命じることを語り続けよと語っていますので、若者、頑張っていただければと思います。

 それと共に、昔若かったお一人お一人も、主のために立ちあがる時が来るべきかなと思っています。主の恵みですので、今までのことは主の恵みの中で、一方的な主の恵みの中の祝福であるわけですが、その主の恵みが溢れるためには、神さまは私たち一人一人を通して働いてくださるので、私たちの人生のすべてを主におささげして歩んでいきたいと思います。

 この八月はこの教会の創設者の滝元明と滝元清子が天に帰った月です。

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八月一日に父が天に帰りました。そして母は八月九日に天に帰りました。天国へと凱旋しました。「凱旋」とは、戦いに勝って帰ることです。主の勝利の内に天のみ国、天の父なる神さまの元に帰って行ったという、それがこの夏の五年前と四年前に起こりました。
 ですからやっぱり、個人的には私の父と母ですので、その頃のことを思い出します。この頃、こうだったな、ああだったなと。でもちょっと思い出して父母のことを見ると、「天に帰るまですごくパワフルだったな。」と思います。「このパワフルさ、すごいな。」と。やっぱりこれは神さまがくださった一つの使命と情熱のゆえに、「俺たち頑張るぞ!」というのではなくて、内側に燃えていたもののゆえならば、それはもう聖霊さまの働きだなということをすごく感じました。

 父が二〇一五年七月五日、九州の伝道を終えて帰って来ました。

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 これは豊橋駅に母と共に迎えに行きました。そして帰りの車の中での父と母の姿ですね。

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手なんか繋いじゃって、最後まで本当に仲良かったです。何せ仲良く手を繋ぐのです。だから牧師館で二人でいる時に、こうやって手を繋いでいるんですって。そういう中に孫が入って来て、「おじいちゃん!」とかって来ると、手を離すんですって。「離されると逆に恥ずかしい。」と言っていましたが、この時は繋いでいますね。

 そして七月七日、伝道旅行から帰って二日後ですが、大きな病院で精密検査を受けたら、なんとこの時、癌宣告、余命宣告を受けました。「あなたは癌です。余命、半年から一年です。」と言われました。半年から一年と言われましたが、結果としては三週間で天に帰りましたが、余命宣告を受けて最初に父が言った言葉は、「すばらしいなぁ。」でした。

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頭おかしくなっちゃったかなぁと思って、「何がすばらしいの?」と聞くと、「いやぁ、クリスチャンってすばらしいなぁ。永遠のいのちが与えられているってすばらしい!」と、そういうふうに父が言い放ちました。最後の最後まで、本当にイエスさまと共に歩んでいました。

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 そしてそのまた二日後、二〇一五年の七月九日。七月九日と言うと、最近よく言われていますが、この地域に霊的戦いが始まったその時、父は県民の森に行って祈りたいと、そう言って、私とYさんと、三人で、小雨の降る中、県民の森に入りました。そして県民の森の広場で祈りました。



 そしてその時ですが、これから祈るという時に、父が何と言ったかといったら、私に向かってこう言いました。「自分があとどれだけ生きるか分からないから、イエスさまに自分があとどれだけ生きるか聞いてくれ。」と、私に向かって言いました。それで私は何と言ったかというと、「いや、それは自分で聞いてください。私はとりなししてますから、おやじさん、自分で聞いて。」と言いました。そうしたら、「よし、分かった。」と言って、それで父は小屋の中で祈って、私たちは小雨の中、外で走り回って、叫んで祈って、「癒やされるように!」と祈っていましたが、その時に父が主によって語られたことばが、このことばでした。

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「命はわたしに任せなさい。永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」これが主からの言葉です。イエスさまは命の期限を知っておられるので、あと三週間という人に向かって言ったイエスさまのことばが、「永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」というのが、すごいですね、最後の最後、炎が燃え尽きる瞬間まで、イエスさまの永遠のいのちを宣べ伝えるために働きなさいとそう言いました。
 私は父が天に帰った八月一日の時は、ちょうどネパールに居たので、父の天に帰る姿はスマホ越しで見たのですが、ネパールに行く少し前に父と一緒に過ごした時に、父が私に言った言葉は「リバイバルは人間の常識を超えた所にある。開、がんばれ。」と、そう言われました。
 私たちが求めている、神さまがこの世界に対して起こそうとしておられることというのは、やっぱり人間の常識を超えた働きだと思います。
 ですから私たち、本当に、神さまがしようとされていることを受け止めて、次に進むべき時があるかなと思います。まさしくリバイバルは、人間の常識を超えた所にあるなぁと本当に思っています。

 それから、父が天に帰り一年後、母は父居ない中、一年頑張って、八月九日に天に帰りました。母語録、いろいろと探そうと思ってもなかなかなくて、いつも言っていたのは、「感謝だねぇ」と、そればかり言っていたので、本当に感謝に絶やさない母でした。

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でも母が天に帰る時に私に与えられたみことばが、このみことばでした。伝道者の書七章一節のみことばで、

『死の日は生まれる日にまさる。』

 人間的に考えたら、死んでしまって悲しい。もう絶望!というその日が、生まれる日にまさる大きな祝福だというのです。
 そんなことで神さまがくださっている恵みというのは本当に大きなもので、この七十周年に起こった出来事も主の恵みの中に握りしめられると、死の日にまさる大きな祝福が注がれると信じています。

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 もう一枚の写真ですが、これは父と母が確かハワイに行った時の写真ではないかと思うのですが、二人のこんなツーショットがあるのですが、きっと天国から今言っている言葉は、この言葉かなぁと思います。「リバイバルはもうすぐだから頑張ってください。」と、そんなことを言っているのではないかと思います。
 いろんなことがありますが、でも神さまが訪れようとしているリバイバルの働きというのは、もうまもなく、すぐそこまで来ていると信じて励んでいきたいと思います。

 そんな中で、私たち、主がくださっている恵みというのはどんなに大きなものかということをもう一度覚えていきたいと思います。
 ヨハネの福音書三章十六節は、世界中のクリスチャンが、覚えていることばの一つで、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 永遠のいのちを伝えるために働きなさい!最後まで主が明牧師に語ったように、私たちもこの永遠のいのちを宣べ伝えるための歩みをし続けていきたいと思います。また第二テモテ四章二節には、

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

とありますので、みことばを宣べ伝える。これはクリスチャンでなかったらできないことなので、イエスさまがどんなにすばらしいお方で、私たちの救い主で、永遠のいのちを与えてくださったすばらしいお方であるということを時が良くても悪くても語れというのが主のみことばなのです。
 どうして今のこのみことばを開いたかというと、実は先週でしたでしょうか。お電話がありました。平岡修治先生でした。めったなことがない方から電話なので、「あ、平岡先生だ。」と思って出ると、「お、開、元気か?」とか言っていろんな話をしました。そして、「今、本当に大変だ。伝道者が伝道できないというのは、翼をもぎ取られたようなものだ。」と、そういうふうにおっしゃっていて、「でもみことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもする。これが聖書のみことばだからな!」とおっしゃってくださって、時は悪いような状況の中に今私たちは生かされていますが、でもその中でみことばを宣べ伝え続けるそのような歩みをしていきたいと思っております。

 今日の主題のみことばをもう一度見たいと思いますが、第二コリント十二章九節、

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

 私にとっての弱さ、それぞれにとっての弱さというのは、それを神さまの手に握りしめていただく時に、神さまご自身がみ力を現してくださるので、弱さそのものも主の恵みとして受け止めつつ、そしてその中に主が働いてくださることを期待していきたいと思います。

 この新城教会、七十周年の歩みの中で、時々に主が訪れてくださった、聖霊さまの介入というのがあります。七十年前、伝道に入って、最初、津具村で聖霊がガッと注がれて、そのしいたけ小屋というのが揺れるようなことが起こったというのです。そしてまたその後、私も子どもの時にまだ小学校一、二年生だったと思うのですが、子どもたちだけで祈祷会をしている時に、聖霊がガッと注がれました。子どもたちが叫んで祈って、母子室だったと思うのですが、私は母子室の中をくるくるくるくる回っていたそんな思い出がありますが、そこにはその時の神さまの祝福、あと年代ごとに神さまの訪れ、そして一九九二年二月十三日の時に主が来てくださったという、そのようなことがありましたが、それらはすべて神さま側からの、主が訪れてくださるということなので、一方的な主の恵みです。

 ヨエル書二章二十八節、二十九節、

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。』

 神さまが若者からお年寄りまですべての人に主の霊を注ぐという、今がその時であると思います。

 でもパウロがエペソという町に行った時に、エペソの人たちに聞きました。「信じたとき、聖霊を受けましたか」と聞いたんですね。「聖霊を受けた?私はバプテスマは受けたけど聖霊を受けるなんて、そんなことは聞いたこともない。」と、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えたんですけど、やはり、神さまご自身が今終わりの時代に神さまの霊を注ぎ始めておられる結果としてのことが、これからもっともっと皆さんを通して、私たちの周りに現されていくと信じています。

 イザヤ書五十五章六節~九節、

『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。』

と書かれています。だから一方的な主の恵みなんですが、でも聖霊さまの訪れを私たちは求めて、今日も聖霊さま来てください!と、そして聖霊さまが私たちの人生にどかんっと訪れてくださることを求めていかなかったらいけないと思います。もう一度お読みします。


『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』

 主を求めていく時に主がくださるものは、天が高いようにイエスさまご自身のみ思いは高くて、地も深いように、主の思いというのは限りなく深いものが与えられるというのが神さまの計画ですので、その祝福が注がれることを求めていきたいと思っています。それも本当に主の恵みの中で生きる時に現されることであると信じています。
 だから何かができるから、何かが起こるのではなくて、私たちは主の恵みのうちにとどまる時に主の恵みが、み力が現されるので、信じていきたいと思います。

 今日はこの礼拝後にバプテスマがあります。本当に嬉しいバプテスマなのですが、私は十二、三年前から一つの美容院に行くようになりました。どうしてそこの美容院に行くようになったかと言ったら、チェーン店だったのですが、そこの割引きチケットがあったので、これを使おうということで、そこの美容院に行きました。それで私は行って髪の毛を切ってもらいました。大きなチェーン店なので、いろんな人が髪の毛をちょきちょきしてくれるのですが、一人の人が担当してくれて、とっても良かったのです。切り様も良かったですが、その方がとっても良い方だったんです。それでたまに違う人になると、やっぱり違うもんだなぁと思いながら、でも私はその人に毎回のように切ってもらっていました。
 そうしたらその内、そこの美容院からいなくなっちゃったんですよ。あれ?いなくなっちゃった!と思って、私は別にその方、まだ二十代の男性で、でも名前は知っていたので、その名前で、インターネットで検索しました。どっかでなんかやってないかな?と、調べるんですが上がってこないのです。駄目だなと思って、まぁしょうがないかと思って諦めていました。
 そうしたらある日、一枚のハガキが我が家に届きました。なんと彼からのハガキで、「開業しました。」という、自分でお店を始められました。それで、やった!と思って、早速行きました。
 そしてそこからかれこれ十一年、ずっとお世話になっているのですが、何と今日バプテスマを受けられる彼と、彼の奥さんなのです。すばらしいでしょう。本当にイエスさまってすばらしいなぁと思います。
 私はあまり遠慮なしにいろんなお話をさせていただきました。「イエスさま信じてください!イエスさまは救い主でイエスさまを信じないとあなた地獄に行きますよ!」という、そういうアプローチではなくて、今の自分に与えられているというか、今どんなことがあるかということを行く度にお話しさせていただいて、霊的戦いの話をして、「イエスさまは生きているけど悪魔も生きている。悪魔に拝むと大変なことが人生に起こる。この辺の神社仏閣において拝まれている神様とされている神は神ではない!偽りの神で、ほとんどがヒンズー神だ!」とか、ネパールに行ってとりなして祈るとか、いろんな話をさせていただきました。「初詣行くの?」『うん、行きます。』「どこ行くの?」『どこどこ。』「あぁそれはヒンズー神ですね。破壊神ですね。危ないよ!」『あ、そうっすか。』なんていう、そんな話を、ずっと行く度に、別にそんな話ばっかじゃないですよ。「今回はザワメキのレコーディングで、こうこうこうして、こんな人が…、神さますごいでしょう。」とか、神さまがくださった恵みをずっとお話しさせていただいて、それをずっと聞いてくださっていました。
 私が美容院に行って帰って来ると、いつも必ず家内がこう言うのです。「どう?彼は元気だった?」という、必ずその会話なのです。「元気だった。今回、こんな感じだった!」と言って、私たち、本当にずっとお祈りさせていただいていました。結婚されてお子さんがお腹に与えられた時は、「本当に守られるように!」とずっと祈って、無事出産するように、今日はお子さんも一緒に来てくださっていますが、そんな中で神さまが今日の日を与えてくださったのですが、何と、今年になって、一月二十八日、火曜日の出来事でした。
 また休みだったので、私は彼の美容院に行って、チョキチョキしてもらっていました。そうするとチョキチョキしながら、いろいろとお話をするのですが、こう言いました。「滝元さん、最近ずっと心から離れないことがあるんですよ。」と言うのです。結構真剣な顔をしていたので、これまじだなと思って、何かなと思ったら、「キリスト」というのがずっと心から離れないと言うのです。それでキリストが離れなくて、そしていろんなことを調べていくと、いろんな事の最後に辿り着くのがキリストになる。「そいじゃぁもうイエスさま信じたら?」と、そう言いました。
 それで私はちょうど髪の毛を染めていて、ぺたんっとなったこの状況だったのですが、座っていて、「それじゃぁ、今この場所でいいから、『イエスさま信じます。』という祈りしようか?」と言ったら、何と言ったかと言ったら、「いや、今じゃなくて家内と一緒に。」と言ったのです。えっ?と思って、それで「そういうことなら。」ということで、「奧さんは何と言ったの?」と聞くと、「いいんじゃないの?」と言ってくださったと。しかも奥様は海外で住んでおられた経験があって、クリスチャンの家庭にホームステイして、礼拝にも行ったりされていて、よくそのことは理解されていて。
 その週の内に一緒に食事をする時間を持ちました。そしてその時に、「イエスさまを信じてください!」というアプローチではなかったのですが、お二人が「イエスさまを信じたい」と、そうおっしゃって、二人でイエスさまを受け入れる祈りをしてくださいました。受け入れるということはどういうことかということを、よく理解してくださっていて、それぞれのご家族に、「私はクリスチャンになる。」と、「もう先祖を拝むことができないし、線香を焼香することもしない」ということもはっきり言ってくださって、そしていよいよ今日という日を迎えることができて、本当に心から感謝しています。

 第一コリント十二章三節の後半に、

『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

 聖霊さまご自身の働きが、私たちの人間的な働き、力ではなくて、主の恵みの中で動き始める時に、覆いが取りのけられて、「イエスさまが主です。」と、そのようなことがなされるという、その恵みを本当に心から感謝していきたいと思います。

 もう一箇所だけ聖書をお読みしたいと思います。詩篇五十七篇ですが、この五十七篇の表題をまずお読みします。

『指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに』

 サウル王様から逃れて洞窟で隠れていた時があるのです。ある意味、今は、世界中が洞窟に隠れるような環境の中に生きています。ダビデがいた場所に、私たち、二〇一六年に行きました。エンゲディという所なのですが、これはKさんのお写真ですが、こんな所です。

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 多くの動物がいて、こういうただ中でダビデはその洞窟の中でじっと身を潜めてサウルから避けていたのですが、その時のみことばが、こんなみことばです。

『神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。 セラ 神は恵みとまことを送られるのです。』

 その苦しみのまっただ中で、ダビデが語ったみことばなのです。そして先にもう一つお読みしたいと思いますが、四節、五節、六節、

『私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。 セラ』

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と書かれています。ダビデが洞窟の中で苦しんでいるのです。外には獅子がいるし、そして敵どもが網を張っている。でもそんな中で、今お読みした五節で、苦しみのまっただ中でダビデが叫んで、何を叫ぶかというと、五節は、『神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。』神さまを賛美しているのです。すごいですね。

 そしてまた先ほどの二節に戻るのですが、

『私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。』

と言っています。神さまご自身はすべてのことを成し遂げてくださるお方です。私たちの様々な願いがありますが、それを成し遂げてくださる方が神さまなのです。この「すべてを成し遂げる」というのをヘブル語では「ガーマル」というのですが、ガーマルの原義は、「終わる、終わらせる、後がない、永久に立つ」という意味だというのです。もう後がない。これ以上進むことができない。また断崖絶壁で今にも突き落とされそうであったり、今にも押しつぶされそうな時に、しかし恩寵的な意味で用いられる場合、恩寵というのはキリスト教用語の一つだと思うのですが、神さまの恵みの中にそれが握りしめられると、神が一度約束されたことは必ず実現してくださるという意味に変わるというのです。
 本当に私たちがいろんな苦しみ、悲しみ、戦いありますが、洞窟の中にいるような、敵から逃げ回っているような中においても、神さまを賛美していく時に、主のわざは進むのです。

 そしてダビデは結局、八節で、

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

と、もうリバイバルを叫ぶに至っているわけですが、神さまの恵みが私たちの中に訪れる時に、たとえ大変なただ中にあっても、すべてが成し遂げられるという祝福に変わるというのが、今日のみことばであります。

 最後に、一つ新しい賛美をご紹介させていただきたいと思います。今回のこのコロナ渦の中で、私にいつしか与えられた歌なのですが、いろんな大変な中で、ふと気づくと、私の中にこの歌がめぐっているというか、私の中で歌っている自分がいます。本当に現状としては、大変な現状が覆っている中で主が与えてくださった歌はこんな歌でした。一度歌いますので、どうぞお聞きになってください。主の恵みという歌です。


♪主の恵み

主イエスの愛があなたの すべての罪を赦す
主イエスの十字架の あがないのゆえに
主イエスの愛があなたの すべての病癒す
主イエスの十字架の 苦しみのゆえに

※主の恵み 主の恵み 今ここに溢れてる
主の恵み 主の恵み 今ここに溢れてる


 イエスさまに拍手の賛美をおささげします。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父さま。あなたのすばらしいみ名をあがめて心から感謝します。あなたの恵みが今日も私たちに溢れていることを心から感謝します。様々な試練、戦いの中にある現代を私たちは生きていますが、あなたの恵みは尽きることなく、あなたの恵みは十分であると、今日も私たち一人一人に語ってくださっていることを心から感謝します。
 あなたの恵みによってこの七十年間、主がここまで導いてくださったことを心から感謝します。これからも主よ、あなたの恵みの中に生き続けることができるように助け導いてください。今日の時を感謝し、尊き主イエスさまのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。