「宣教70周年-2020 明日に向かって「将来と希望」パート14 
 ~主よ。祈りを教えてください!❹ 被造物と共にうめく~」

2020年10月18日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ローマ人への手紙8章18〜22節

『今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

 ハレルヤ!おはようございます。素晴らしい演奏を心から感謝します。

 今読んでいただきました聖書の箇所に、『今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。』とありました。現在、世界は苦難の中にあります。しかしやがて「夜明け」が来ます。夜明けとは何か、それはイエスさまが地上に帰られる「再臨」を意味します。

 コロナがヨーロッパのほうで再拡大していて、大変心配されます。新城教会もいろいろとご提言をいただ、感染対策を見直しております。皆さんが安全に礼拝を守ることができるよう、知恵が与えられるよう、是非ともお祈りいただきたいと思います。
 このような制限が加えられているただ中にありましても、神が教会の働きを前進させてくださっていることを心から感謝しています。
 「家で是非、聖餐式を行ってください。」と前にもお話しさせていただきましたが、忘れずに行っていただきたいです。クリスチャン一人一人に、聖餐を祝福する権限が与えられています。今の時代は、すべての人たちが祭司としての勤めをすることができます。聖さん式を通して、「主の再臨を待ち望む」と共に、「沈黙の宣教である。」であると学びました。主、自ら働いてくださるのです。

 先週は一人の方がバプテスマを受けられました。本当に感謝です。Cさんという方が洗礼を受けられました。二〇二〇年は、今までにないほど、多くの方々が受洗されています。

 今こそ人類にとって、祈りが必要です。「主よ。祈りを教えてください。」と弟子たちがイエスさまに頼みましたが、私たちもどう祈ったらいいのか、主に聞く必要があります。効果的に主の前に届く祈りとは、どのような祈りなのかを、聖書の中から真剣に探らなければいけないと思います。
 私にとって祈りとは、ただ、むしゃらに祈ればいいとしか考えていなかったのですが、聖書はしっかりとした、祈りには道筋があることを教えています。
 私たちの神は「三位一体なる神」です。子なるイエスさまも、聖霊さまも神さまです。そして父なる神さまも神さまです。しかしながら神としてのご性格を表しておられるのは、父なる神さまです。それぞれご自分のパートがあって、何でもおできになるの神ですが、自らの権限を制限しながら、お互い、完全なコミュニケーションの中で三位一体を保っておられるのです。

 祈りとはどのように機能するのでしょうか。それはイエスさまの名前を通して、聖霊の助けによって、「アバ父なる神よ」と父なる神に呼びかけることです。
 私たちはみ子イエスさまの十字架の血潮によって、み座に出ることができます。イエスさまは大祭司として、ご自分の血潮を父なる神さまにお渡しくださいました。ゆえに私たちは、憚らずにみ座の前に出ることができるのです。
 それと同時に、聖霊さまは、父なる神を、「アバ!、お父ちゃん!」と呼び、駆け込むことができるように働いて下さいます。。三位一体なる神のそれぞれの役割です。そのような助けと共に、私たちは父なる神さまに祈りをささげる事が出来ます。
 祈りのメカニズムをみことばから学び、理解して祈る時に、祈りは正確に神の元に届き、答えがやってくるのではないでしょうか。

 そして今日、一つの祈りの領域を皆さんと共に学ぼうと願っています。今日の主題は、「主よ。祈りを教えてください!」と共に、「被造物と共にうめく」という副題を付けさせていただきました。
 先ほど読んでいただきましたローマ書八章は、大変有名な箇所です。しかしながら、正確に理解され、適用されているかというと、それは別の話です。理解はするとしても、ほとんど適用されていない領域です。
 ここでは、祈りとは、人だけのものではなく、被造物全体のものであるとパウロは語っています。
 イエスさま時代や初代教会の人たちと現代を比べると、その意識には大きな差があります。特に、被造物世界に対しての考え方は、大きく異なっています。その背景に、ギリシャ哲学が影響しています。

 ある本に「西洋人の思考」について書かれていたのですが、西洋人どころか、東洋人にも当てはまります。それはアリストテレスが「息のないものには命が宿らない。」と言った時から、「無生物は霊も感情も願望も持ちえず、自然界の物質は、私たちにとってただの物となった」とありました。神とコミュニケーションできるのは、人だけだという考え方が、ギリシャ哲学の影響で世界に定着したというのです。特に、キリスト教神学の中に、強く定着した悲しい歴史があります。

 日本人の宗教観はアニミズムだと言われます。それはある意味においては、聖書的な世界観に近い部分もあります。しかしながら、アニミズムは創造主を認めませんから、正しい理解には至らず、間違った理解に結びついています。
 聖書が告げる、被造物に対する理解は、「すべては神の被造物である。その中の命は、全て創造主が与えた命である。」という理解です。
 かつて旧約聖書の時代、動物が人間の罪の身代わりに用いられました。どうしてそんなことができるのだろうかと、私は疑問でした。
 しかし当時のユダヤ人たちはこう考えていたというのです。「動物の中に宿っている命も、人の中に宿っている命も、出所は同じだ。」神が与えた命ならば、動物は人の代わりになれる、と考えていたというのです。
 高い山を見れば、なんらかの命が雇っていると感じます。太い木があれば命が宿っている、土地にも、それらはすべて、創造主が与えた命です。
 しかし残念ながら日本人は「地球は進化してできた。」という進化論を前提にしています。ゆえに、なんらかの躍動感を感じる物体は、「それ自体が神々」と考えてしまうわけです。そのため、太い木があればしめ縄を張って、拝んでしまうわけです。木自体が神ではなく、創造主が与えた命であるということです。
 私たちは知らないうちにアニミズム的な世界観で養われてしまっています。クリスチャンになったら、世界観を置き換えなければなりません。それは大変重要なことです。

 聖書的な世界観でローマ人への手紙の八章を読みますと、被造物はすべて創造主とチャンネルを持っており、彼らは意志を持っていることに気づかされます。もう一度読んでみたいと思います。ローマ人への手紙八章十八〜二十二節、

『今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

 ここで述べられている「被造物」とは、「人間以外」の被造物のことを意味します。人間には意志があって、神に対する祈りや神へのチャンネルがあるのですが、神が造られた被造物はすべて、神との関わりがあるとパウロは語っています。

 特に十九節を見ますと、『被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。』とあります。
 以前に、お話しさせていただきましたが、「切実な思い」とはギリシャ語で「アポカラドキア」という合成語が使われています。それは、「頭をまっすぐに伸ばして観察する」という意味になります。人間以外の身のまわりの被造物は何を願っているのかというと、神の子どもたち、すなわち主を信じた者たちが側に来て、関心を持って、共に祈り、賛美してくれることを心の底から望んでいるというわけです。

 そして二十二節は、『私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』と述べています。
 ここでパウロは、「私たちは知っています。」と言い切っています。ということは、当時の人たちは被造物は全て、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしているという事を、当然と考えていたのです。人類と被造物のシンクロ関係を、当然としていたのです。「そんなのあたりまえだ、」ということです。
 どうでしょうか。現代人は、「えっ?そんなことあるの?」とびっくりします。初代教会とは、かなり乖離していることが分かります。「ともにうめき、」という言葉は、「システナージョ」という言葉が使われています。意味は、「表現されない内なる悲しみ」です。被造物は、自由には表現できないけれど、内なる悲しみを抱いているというわけです。感情があるわけです。
 「ともに産みの苦しみ」とは、一語で「スノディノ」という言葉ですが、「一緒に痛み苦しむ」という意味です。「ともに」とは、私たち人類と共に痛み苦しんでいるというのです。そんなこと考えたことがあるでしょうか。
 神が造られた被造物は、神の子どもたち、クリスチャンと「一緒に祈りたい、一緒に賛美したい。」と願っているのです。
 「主よ。祈りを教えてください。」という中に、祈りとは人だけではなく、神が造られた被造物全体を巻き込むものであると言うことです。それらを理解し、被造物と共に祈り始めると、神のみ手は動くのではないかと思います。

 ある資料に、“使徒パウロは、地球が無生物の土、石、水、及び植物からなるただの物質だとは考えていなかった。彼は地球には記憶があり、選択する意志に近いなんらかの能力があることを信じていた。おそらくその意志は現在私たちが信じている意志とは違う。しかしローマ人への手紙八章は地球が期待したり、虚無に服したり、うめいたり、その完成を切実に待ち望んでいるということを明確に示唆している。”

とありました。被造物には意志があって、私たちと共にうめく生命体なのです。祈りの輪に被造物が加えられたら、さらにパワフルな祈りが神の前に届くのではないでしょうか。私はそれを期待します。

 “地球にパウロが考えていたような能力があるとしたら、土地はいつ誰にどのようにその作物を生じるかを自ら決定したりするのでしょうか。もしアダムやカインに起こったように、人間の不義によって、土地がその力を生じなくなるとすれば、逆に人間の義が増すことによって、被造物が人間に力を貸してくれるということもあるのではないでしょうか。”

 そのように最近読んだ本の中に書かれていました。クリスチャンがなぜ正しい歩みをする必要があるのか、それは我々が正しい歩みをすることによって、被造物全体が癒やされるからです。人の罪は被造物に大きなダメージを与えるのです。なぜなら人は被造物の管理人だからです。
 人が正しい方向に被造物を乗せて向かっていくならば、神が造られた生態系すべてが、正しい方向に向かっていきます。しかし人が罪を犯すことによって、親亀がこけたら、子亀もこけるのです。巻き添えをくらって、被造物全体が虚無に服してしまったわけです。それは被造物のせいではなく、人の罪のせいです。
 彼らは何を望んでいるのかといったら、早く、贖われた人類、主を信じた者たちが自分たちの所に来てほしい。親亀が立ちあがれば、子亀も一緒に立ちあがるからです。その事実に気づいてほしい、と強く願っています。

 デボラとバラクが士師記に出て来ます。彼らがカナンの王たちと戦った時、その戦いに被造物も参加したというのです。旧約の時代の人たちも、そのことをよく理解していました。
 士師記五章十九〜二十二節、

『王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬はけりまくる。』

 こんな記述があります。イスラエルがカナンの王たちと戦った時、被造物が一緒に加勢して、敵を打ち破ったというわけです。
 困難なこの時代、被造物が一緒に戦ってくれたら、もっと早く勝利につながるのではないのかと私は期待します。

 キリスト教宣教は、困難の中を進んで来ました。パウロも多くの困難を体験しました。しかし同時に、福音が勢いを持って世界中で実を結び、広がり続ける光景も目にしています。そのことがコロサイ一章で述べられています。コロサイ人への手紙一章二十〜二十三節まで読んでいただきますと、パウロの福音理解について知る事が出来ます。今日はちょっと時間がないので、家に帰ってから読んでいただくと良いのですが、以前にも話したので覚えておられると思います。これをまとめるとこうなります。
1.十字架の贖いは人だけのものではない。万物との和解であった。
2.その結果として、人類も神と和解させていただいた。
3.「上記の、既に聞いた福音の望みから外れることなく、信仰に踏みとどまれ」
4.「福音は、天の下のすべての造られたものに対するものである。」
5.「私パウロは上記の福音に仕える者である。」

 彼は被造物全体の宣教師として働いていたのです。現代の教会の福音理解とは、大きく異なっています。現代の教会が意識しているのは「2番目」だけではないでしょうか。
 人の罪が、被造物に大きな悪影響を与えています。被造物全体との和解という理解が大きく欠如してしまっている故です。
 それがいつから始まったのかというと、「宗教改革を機に福音が矮小化した」と指摘されています。その背景には、長いカトリック支配があります。その結果、福音が縮小されて、四つのポイントにまとめられてしまったというのです。
 「神はあなたを愛している。あなたは罪を犯した。イエスはあなたのために死なれた。イエスを受け入れるならば、あなたは何をしていても天国に行ける。」

 このような福音理解だと、聖書一冊の中で、ヨハネ三章十六節くらいしか、必要がなくなります。旧約の歴史も、新約の歴史も、他の書簡もいらなくなるわけです。
 宗教改革を機に、縮小された福音が世界中に流れてきています。聖書全体の中の、「福音とは何か。救いとは何か。」の定義とは、かなり違ってしまっています。 祈りの概念の中にも、被造物も一緒にうめき祈っている、叫んでいるという理解はありません。みこころに沿った祈りができない現実がそこにはあります。

 祈りとは被造物も巻き込んで一緒に祈ることであると、気づかされました。それを主が強く願っておられると思います。我々がそのことを理解して、被造物と共に、祈り始めるならば、神は我々の祈りに心をとめて、答えてくださると信じます。

 神は被造物全体を通して主を賛美するオーケストラを編成されたのです。そしてそれを指揮する役割が、主を信じる者たちです。人は被造物オーケストラを指揮する指揮者です。
 神さまが被造物を創造された目的は、「みこころのゆえに万物は存在し、また創造された。」とあります。これは「喜びのゆえ」と訳すことができると以前にお話ししました。やがてイエスさまが帰って来られた時、黙示録五章十三節に、

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 主が帰られる日、創世の初めから終わりまで、宇宙に現れたすべての被造物が神の前に出て主をほめたたえる賛美大会が行われます。その時、それらを指揮するのが、主を信じる者たちであるのです。
 
 詩篇百四十八篇を以前、よく学ばせていただきましたが、詩篇百四十八篇を、もう一度家に帰ってから読んでいただきたいと思います。そこではすべての被造物に対して「主を賛美しなさい!」と命令が下されています。
 詩篇百四十八篇の中で五節と十三節は、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と述べられています。残念ながら、新改訳2017におきましては、全て命令形表記になっています。翻訳者によって訳は変わってしまうのです。
 ヘブル語の動詞には態(たい)と言いまして、性格があります。7つくらいあって、使われている動詞が、どの性格に当てはまるのかを注意して訳すと、訳が変わります。本来はこの箇所は、ピエル態で、使役形です。そうすると「彼らに主の名をほめたたえさせよ。」となります。これは重要なことなのに、今回欠けているのは本当に残念です。聖書は書かれた原点においては神のことばですが、翻訳されると人が関わりますから、間違う部分もあります。それらを調べるツールも多くありますから、しっかりとチェックしながら、み言葉の真意を聖霊によって理解させていただきたいと思います。
 ある注解者が詩篇百四十八篇に関して、このように解説していました。

 “詩篇百四十八篇の作者は被造物が聞き従うことを期待し、ほとんどすべての神の被造物に対して直接語りかけ、すべての被造物が主をほめたたえることができると考えていた。生物にも無生物にも同じように語りかけ、それらが同じように主をほめたたえるようにと勧めている。同じ一文の中で彼は人間、海の巨獣、そして火、雹に語りかけている。また同じ一文の中で彼は飼い慣らされた動物と、野生の動物、耕作地とそうでない土地を区別することなく語りかけている。”

 詩篇百四十八篇は、人は被造物の管理人であり、人は被造物に直接命令を下すことができる存在であると解説しています。主を賛美しなさい!一緒に祈りなさい!と命令を下すことができるのです。我々にとって無生物のように見えるものに対してさえも、主をほめたたえよ!と命じているのです。
 私たちも、すべての被造物に対して、彼らのうめきを聞いて、神の前に祈ることができるならば、現在、人類が抱えている多くの問題も、解決に向かっていくのではないか期待します。
 聖書を読む時に、偏見を捨てなければいけないです。ある本にこう書かれていました。

 “被造物の回復を理解する上で重要な条件として、正当な聖書の教えの確信に堅く踏みとどまるということと共に、一方では「聖書的」と信じて、今まで考え行動してきたやり方が、実は間違えだったということを認める謙虚さが必要。”

というのです。現代人は被造物に対して、煮て食っても、焼いて食ってもいい、自由に扱うことができる!というような高ぶった思いのゆえに、被造物が一緒に祈るという、重要な条件を失っていると思います。

 ローマ書八章が「今の時の苦難は」と述べているように、苦難のただ中で、被造物を巻き込んで共に祈る時、神の栄光が、この地に現れると信じます。

 先週、チェ先生の息子のイレ君が、私の所に一つの動画を送ってくれました。彼は鳥が好きでインコを飼っています。そして彼はいつも一緒に賛美しています。するとインコが一緒に賛美するようになったというのです。ザワメキの曲が大好きで、一緒に歌っている光景を私の所に送ってくれました。
 世界宣教の歌がこのインコは好きだというのです。皆さんが飼っておられるペットとも一緒に賛美をして、早く夜明けが来るように!と祈ることは大事ではないかと思います。
 詩篇百四十八篇の記者は直接呼びかけることができる、語りかけることができると、人にはそのような権限があることを理解した上で、百四十八篇が書かれているというのです。

 先日、またもう一人の人がおもしろい動画を送ってくれました。教会の前に栗の木があるのですが、その前で一人の少年が「風よ吹け!」と宣言したら、突然風が吹いてきたというのを、たまたま動画におさめたというのです。私は「風を呼ぶ少年」と名付けました。
 この少年の呼びかけに答えて、風が吹いたのです。被造物は人の言うことに従うわけですね。「なぜ風よ吹けと言ったの?」と聞いたら、栗を拾い来たというのです。「でも高い所に栗があって取るのが難しかったから、風を吹かして落とそうとした。」と言っていました。賛美しろ!というわけではなかったようです。被造物は主を信じる者たちが目の前に現れて、一緒にうめいて、とりなし、神の前に出ることを願っています。

 家内のために祈っていただいて、心から感謝します。三ヶ月、四ヶ月の命と言われましたが、一年が経つことを、本当に感謝しています。十月で一年を迎えるのですが、ここまでは確実に奇跡です。その中で効果的な祈りの一つが聖餐式です。聖餐式で主のみ前に出て、新しい契約をいただいたのが祝福となりました。そして多くの兄弟姉妹が、教会あげて祈ってくださいました。
 それと共に、被造物全体を巻き込んでの祈りが与えられた事です。家内の回復に、被造物全体が動いてくれている気がしてなりません。
 「主よ。祈りを教えてください。」という中で、私たちにこのような領域を開いてくださったことを、心から感謝をしています。

 今週、被造物を味方にして下さい。デボラとバラクが戦いの時に被造物を味方にして勝利を得た週になることを、心から願っています。祈りの中に被造物を巻き込んで、主をほめたたえ、賛美させ、とりなしうめく存在として、共に神の前に出たいと願っています。
 一言、お祈り、私のメッセージと代えさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝します。今週、私たちのうめきや、叫びの中に、被造物も一緒に加わることを宣言します。
 私たちに任されている神が造られたすべての被造物よ、この宣言を聞け。私たちのうめきと共に、一緒になって、主がこの地に帰って来られる夜明けを求めます。
 聖霊さま。私たちを助けてください。今週は聖霊さまのうめきを持って、被造物と共に祈ることができますように。尊いイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。