「主を待ち望む人」

2020年12月13日(日)
グレース・ライフ・チャーチ主任牧師 田中進
イザヤ 40章28~31節

『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。
 リバイバルミッションで私も何度もこの場所に来させて頂き、今日は新城教会の礼拝でご一緒に共に主を礼拝できる恵みを心から感謝します。順先生から身に余るご紹介をいただき大きなプレッシャーを感じていますけれども、礼拝は神さまにささげるものでありますね。今日のメッセージを評価する時間ではありませんので、皆さん、今日の礼拝を通して主のみ名だけがあがめられるように、そして私たちもキリストに似た者へと作り変えられていくことを思いながら共に主のみ前に出て行きたい、そう願います。一言お祈りをいたします。

 恵み深い天の父なる神さま、尊きみ名をあがめます。あなたは私たちをあわれもうと待っておられる神、私たちを恵もうと立ち上がり、この礼拝に私たちより先に来てくださり迎えてくださる主であることを心から感謝します。いのちのみことばを通して、この朝もあなたのみ前に何を置いても主よ、あなたを求めこの所にやって来られた一人一人に主ご自身がお語りください。良い地に蒔かれる種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと成長を約束しています。今、私たちの心を整え、耕してくださって、主ご自身の栄光のために私たちを遣わしてくださることをお願いいたします。イエス・キリストのみ名を通して、この祈りをみ前におささげいたします。アーメン。

 本来ならば私は五月に、新城教会の礼拝の奉仕に来させていただく予定だったのですが、コロナウイルスの影響で一旦中止になり、内心ホッとしていたんです。しかし十二月にやっぱり来てくださいということで、大切なこの七十周年の節目の年、この最後の月に来させていただくことができました。

 少しだけ私の紹介をさせていただきたいと思います。先ほど順先生が紹介してくださいましたが、私は浜松のグレイスライフチャーチという教会で開拓をはじめ、この十一月で八周年を迎えたばかりの教会を伝道牧会しています。ちょうど今から一ヶ月前、開拓記念礼拝を、コロナということで今私たちも礼拝は一部二部で分かれているんですけども、外で合同礼拝をしました。その写真を用意しましたので出していただけますか。

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 浜松西インターのすぐ近くにある土地で礼拝をしました。これは教会のメンバーの方が、将来、教会を建てるならこの土地にと献げてくださった土地です。その方はこの場所にお墓を建てようと思っていたそうなんですが、四百坪の土地に自分のお墓だけじゃもったいないので、教会を建てるなら納骨室を置いて、その方の家族の骨も入れてくれればいいですよと、献品してくださった土地なんです。でも、そこに入る道幅が狭くて、六メートルの道路がないと建築許可が下りないんです。それで私たちは今そこで神さまの計画がなされるように委ねて祈ってます。
教会というのは、建物ではありませんね。エクレシア、召し出された、呼び出された者たちの集まりですから、すでにここが私たちの教会だと、教会の天井はこの大空であり、壁はあの竹やぶであり、そして風やこの鳥の鳴き声は神さまの賛美だよ、もうここが主の教会であると宣言しつつ八周年記念礼拝をささげました。神さまが造られた被造物のただ中で主を賛美できる、その恵みというのも素晴らしいなと思っています。

 今私たちは、浜松でブラジル人の方たちの教会を間借りして、家賃も払いながら活動しています。百人ぐらい入る会堂です。「主の山に備えあり」とありますが、主の恵みの中でここまで教会の働きが守られていることを感謝いたします。

 また私の家族の写真も、もう一枚だけご紹介したいと思います。

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 九月に私たちは軽井沢に行ってきました。ここはある教団が持っている建物の前で撮った写真ですね。一番下は五歳です。一番上は今十九歳です。リバイバルミッションでもパートタイムで奉仕させていただいております。家族で共に主に仕えることができることを本当に嬉しく思っています。
 また皆さんのお祈りをこれからもお願いしたいと思いますし、また皆さんのお祈りを心から感謝いたします。アーメン。

 今日は、「主を待ち望む人」というテーマで、イザヤ書のみことばから共に、恵みを分かち合っていきたいと願っています。
イザヤはイエスさまがお生まれになる約七百年前に活躍した預言者ですね。神のことばを預かる者、それが預言者でありますけども、彼が活躍した時代は、ダビデが王として、その後ソロモンが神殿を建て、そして北王国、南王国と、この後、国が分裂して行きます。北王国には十部族、南王国には二部族、十二部族が分かれました。その後北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国もバビロンによって滅ぼされ捕囚とされていく、そのただ中にイザヤは、北王国が滅亡した後に、ユダ王国で神のことばを宣べ伝えた預言者であります。
 イザヤ書は三十九章までと四十章からで、第一イザヤ、第二イザヤと区分できると言われるほど書かれている内容が変わるのですが、一章から三十九章までは、当時のユダ王国の人々に「悔い改めなさい。神の裁きが近づいているよ。」というメッセージが、そして四十章以降は、民に対する慰めのメッセージが語られています。
そして彼の預言の通り、ユダ王国は、バビロンによって滅ぼされ捕囚の民とされます。しかし、そこにも神さまの慰め、約束、回復があるよ。主を待ち望む者は新しい力を得ることができる。そして約束の救い主があなた方に与えられるよ。それがこのイザヤ四十章以降のメッセージなんです。

 先ほど読んでいただいた二十八節の前には、こういうことばがあります。イザヤ四十章二十七節。

『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と。』

 彼らは神さまにつぶやき、そむき、多くの罪を犯しました。「なぜあなたがたは言うのか。私の正しい訴えは見過ごしにされている。私の道は死に隠れている。」
そのような失望の中にあって、イザヤは力強く、『あなたは知らないのか。聞いていないのか。』『あなたは知らないのか。聞いていないのか。』と、イスラエルの民に慰めのメッセージを語り始めます。

 『主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 今日、先ほど皆さんで賛美しました。私も本当に恵みを受けました。
実は、私は新城教会の礼拝に出るのはこれで二回目です。一回目は今から約二十数年前、リバイバルミッションの四方から決起大会と全国各地で毎日のように決起大会が行われた時、日曜日のお昼にこの場所を出発するよということで、賛美チームの一員でありましたからこの礼拝に出させていただきました。当時はコロナの影響もなく、もういっぱいのこの会衆の皆さんと力強く主を礼拝できたこと、それを少し前のことのように思い起こします。

 『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 神さまの約束のメッセージあります。今日、疲れている人がおられるでしょうか。眠いなぁと思って、みことばを聞いている方々もおられるかもしれません。しかし、聖書の神さまは私たちに力を与えてくださる神さまです。鷲のように翼をかって、再び舞い上がらせてくださる神さまです。

 私は少し前から、この礼拝のため、このみことばについて思い巡らしている時に、鷲のように翼をかって舞い上がることができる。そのために必要なものは何かなとも考えました。それはなんだと思いますか。風です。鷲が高い空の上で何も翼をばたつかせず、風に乗って悠々と空を舞い上がっている姿を思い描く時、私たちも聖霊の風なくしては新しい力を得ることはできないということを思わされます。聖霊さまなくして自由に力満たされ、舞い上がることはできないじゃないですか。目の前の問題に振り回され、目先の問題に捕らわれ、この時代の溢れる情報に惑わされているならば、泡の中に溺れてしまうようなクリスチャンになってしまうかもしれません。
 聖霊の風を求め、今、七十年の満ちる頃祈祷会が続けられている。素晴らしいですね。そこに主の風がもう一度、いや、新しい聖霊の風が吹きめぐり、鷲のように、新たな段階へと、この新城教会が、そしてこの国が、またリバイバルミッション、そしてブレイズの働きもそうですね、私たち皆が新しい段階へと主によって導かれていくように、共に主を慕い求めていこうではありませんか。アーメン。

 四十章には、神さまの素晴らしさについて、三つのことが記されていると私は教えられました。六節には、「神さまは変わらない主である。神のことばは永遠に立つ。」ということが語られていますね。四十章六節の後半から八節まで読ませていただきます。

『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』

 『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』アーメンでしょうか。決して変わることのない神のことば、私たちの主は、初めであり終わりである方、最初から最後まで存在している唯一なる神が、私たちの信じてる神だよとイザヤは語っていますね。
 そして人を草のように例えています。この後、起こされてくる多くの帝国がありますね。また旧約から新約には四百年間の中間時代がありますけれども、その建てられた巨大な帝国も、草のように枯れ、しぼみ、もう今は見る影もない。けれども神のことばはとこしえに立つ。そこに信頼を置く。私たちの神さまに目を向けましょう。イザヤはそのように、「変わらない神に目を向けなさい。その主を待ち望みなさい。」と語っています。

 二つ目、それは四十章の十一節、

『主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。』

 私たちの神さまは導いてくださる神さまだよ。優しい神さまですよ。「アバ、父よ」「お父さん」と呼ぶことができる優しい神さまですよ。その主を待ち望みなさい。
 この七十年間、滝元明先生、清子先生が教会を始められ、色々なことがあったと思います。私もまだ四十八ですが、教会を開拓していろんなことがありました。それ以上、いや、もう比べることはできない数々の困難を通ってきた中にあって、でも羊飼いなる主がここまでこの教会また先生方を、愛する皆さんを導いて下さったんですね。エベン・エゼルなる神さまに、これからも目を向け優しく導いてくださる主をこれからも求め続けようではありませんか。アーメンですか?アーメン。
 主は、私たち、この群れを飼ってくださる。御腕に子羊を引き寄せてくださる。懐に抱いてくださる。乳を飲ませる羊を優しく導いてくださる。

 以前、私はこんなお話を聞きました。羊飼いが、羊が悪さをして崖に落ちた時、しばらく放っておくのだと。なぜそうするかというと、少し力が残ったものを助けると暴れて落ちて、もっと大変な所に行ってしまうから、しばらく放っておくと飲まず食わずで弱るそうです。その後、羊を助けるとうまくいくんですね。
 私たちも先ほど読んだ二十七節にあったように、なぜ神さま隠れてるの?私の正しい訴えは見過ごされてるの?と思うことがあるかもしれません。けれども、その時私たちはまだ自分の力に頼り、自分の考えで、もう自分の答え先行で求めている時があるのかもしれません。「もう降参します。神さま助けてください。」と、私たちが放蕩息子のように「父のもとにはたくさんの食事がある。雇い人も満足している。雇い人の一人としてでもいい。私をもう一度、神さまの元に、悔い改め、お父さんにごめんなさいと言おう。」と向きを変えた時、お父さんは優しく彼を迎えてくれたじゃないですか。雇い人としてでなく息子としてもう一度迎えてくださったじゃないですか。私たちの主は導いてくださる主である。その主を待ち望みなさい。イザヤはそう語りました。

 そして三つ目、四十章二十六節ですね。私たちの神さまは創造主なる神さま、回復してくださる神さま。力で満ちている神さまだよとイザヤは語っています。

『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。』

 滝元順先生も最近、星々について神さまからの素晴らしいご計画と、またその星を通して悪魔がどのように私たちに働いているかということを語っておられます。主はその星にも名前を付け、私たちが目を高く上げ、天地万物を造られた、神さまを知り、被造物を通しても私たちは神さまの存在を知ることができます。彼らに弁解の余地はないほど私たちは目を高く上げる時、創造主なる神さまを、いつでもどこでも見ることができます。そして主を待ち望むことができますね。
 今週も遣わされているその場所で、共に主を待ち望みましょう。そして主が造られたこの被造物とともに主を賛美していこうではありませんか。アーメンですか?アーメン。

 詩篇の中に、こういうことばがあります。都上りの歌の中の一つですけども、詩篇百三十篇の五〜六節です。

『私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。』

 この短い聖句の箇所に、何度も「私は待つ。待ち望む。私は待つんだ。」と。
私たちはこのみことばを思い巡らす時に、主を待ち望むことをどれくらいしていたでしょうか。七十年の終わる頃、私たちは新たなステージへと入っていきますね。さらにさらに主を待ち望んでまいりましょう。そして主がしてくださる新しいみわざに期待しようではありませんか。ただ待つだけではないのです。待ち望むのです。主がしてくださる良きことに、新たな神さまがしてくださる素晴らしいご計画を心から期待して待ち望んでいこうではありませんか。アーメン。

 私たちは天国行きのチケットをもらって待合室で待っている人ではありませんよね。残された地上の生涯、それはおまけのようなものかもしれません。けれども私たちは生かされている以上、神さまからの使命をいただいています。神さまの夢を、私の夢と思い、また主が帰って来られるその道を備えていくお互いとして、共に前進し続けようではありませんか。

 話は変わりますけれども、旧約聖書の最後、それは小預言書のマラキ書です。マラキの三章一節には、こういうことばがあります。

『「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。』


 このマラキは、『わたしの使者を遣わす。』と、「神の使者を遣わすよ。あなたが尋ね求めている、その主、救い主が来られる前に、主の前に道を整える者として一人の使者を遣わす。」これは広い意味で言えば預言者であります。また限定的な意味で言うならば、皆さんご存じの通り、バプテスマのヨハネです。
 彼がこの預言を語った後、四百年間の時が流れました。ある人はこれを「沈黙の時代」と言います。また「中間時代」とも言います。その時、神さまは黙っていたのでしょうか。多くの人たちが主を待ち望んでいました。もちろんこの約束のみことばを信じて。エリヤをもう一度遣わす、父の心を子に向け、子の心を父に向けさせる、そのような回復の時がやってくると、旧約聖書の最後のことばは、このことばで結ばれています。
 どれほどの長い期間、イスラエルの民は主を待ち望んだことでしょうか。けれども四百年後、約束通り、バプテスマのヨハネ、主の道を整える者が現れました。そしてその後、預言の通り、神のひとり子、イエス・キリストが与えられました。

 この四百年の間に、多くの帝国が立ち、また滅ぼされ、その後ギリシャ帝国を通して言葉を統一し、また巨大帝国ローマが、「すべての道はローマに続く。」と言われているように、道を整備したわけです。その事を通して、神のことばが新約時代にあって福音が世界に宣べ伝えられるための道が整えられました。沈黙の期間にあっても、神さまは黙っておられません。すべてのことを働かせ、益としてくださる神さまですね。
 私たちの地上の生涯は百年、そんなに生きられないかもしれません。私たちの目では直接見ることができないご計画の中を、この二〇二〇年を生きています。けれどもこの時でなければできない仕事を神さまは教会に、私たちに委ねておられますね。主がしてくださる良きことに目を向け、共に主を待ち望んでいこうではありませんか。

 さぁ、もう少しだけメッセージを語らせていただき、まとめに入っていきたいと思います。

 今、クリスマスですね。アドベント。待降節(たいこうせつ)、救い主を待ち望む、そのような期間を、礼拝を、私たちはささげています。もちろん十二月二十五日はイエスさまが生まれた日ではありませんが、その日を覚え、記念して、私たちはクリスマスのイベントを行っていますね。

 ルカの福音書では、ルカがテオピロという閣下、当時の偉い人に手紙を書き送りました。私は最近、クリスマスを思い巡らしながら、ルカの福音書を読む時に、ルカさんは本当にすごい人というか、愛のある人だなぁということを教えられています。
 なぜですか?ルカの福音書は、たった一人の人に宛てた手紙です。テオピロ。もちろん彼はイエスさまのことを知っていました。けれどもまだ救いの確信には至っていなかったんですね。ですからルカは、テオピロのために綿密にイエス・キリストのことを調べ、それを記録し、いろんな人から調査して、イエスさまの救いについて、また神さまの計画について手紙を書き送りました。

 ルカの福音書、その最初はクリスマスのストーリーから始まります。その中から少しだけかいつまんで、二人の人物を紹介したいと思います。今日のテーマは「主を待ち望む人」でありますから、主を待ち望んだ人たちが、このルカにも多く出てきます。シメオン、そしてアンナという年を召された方に目を向け、そしてメッセージをまとめさせていただきたいと思います。
 イエスさまがお生まれになって四十日後、その聖めの期間が終わり、両親は男子の初子としてのイエスさまをおささげするために、、宮に行きました。その時、シメオンという男性に出会う場面がルカの二章に出てきます。
 もう二十年以上前でしょうか。以前、上條実先生が、私もミッションの奉仕として行った決起集会で、この箇所からメッセージをされたことを覚えています。実先生、覚えていますか?覚えていませんか。私も内容は覚えていませんが、ここから話したということだけは覚えています。感動は少しよみがえっていますけれども、今日は私の教えられたことを分かち合いたいと思います。

 ルカ二章二十五〜三十節まで、まず読みます。

『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。』

 彼のプロフィールはそんなに書いてありません。けれども、彼は正しい敬虔な人だったと。イスラエルの慰められることを待ち望んでいた人だったということが分かります。
 けれども、マラキの預言が語られてから四百年間、沈黙の期間がありました。しかし、当時のイスラエルにも、エルサレムの回復、イスラエルの慰め、この地の救い、リバイバルを待ち望んでいる人たちが何人か、いやたくさんいたのではないでしょうか。その中の一人がシメオンという男性でした。イスラエルの慰めを待ち望んでいた彼には、聖霊がとどまっていたのです。
 皆さん、知ってください。主を待ち望む者には聖霊が臨むのです。そうですよね。初代教会、集まっていた所に、聖霊の圧倒的な訪れがあったように、またあの一九九二年でしょうか、愛知県民の森で、あの小屋で、甲子園を前にして、順先生、また数人のスタッフの方々が祈っていた時に、圧倒的に聖霊が臨んでくださったように。
実は私も最初の一日、二日くらい参加していました。でも脱落組で、その後、その恵みに与ることはできませんでした。けれどもそのおこぼれにあずかって、今もなお信仰が守られて、このように奉仕できることは本当に感謝します。
 超自然的な形で、ある時には分かる形で、神さまは「わたしはある」者だよ、「わたしは生きているよ」と教えてくださいます。
 彼には聖霊が臨んでいました。聖霊の助けをいただき、イスラエルの慰めを求めていた。また二十六節、

『また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。』

 聖霊さまの語りかけを聞いていたんですね。そして二十七〜二十八節、

『彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。』

 マリヤとヨセフが律法の慣習を守るために、幼子イエスさまを抱いて入って来ました。なぜ彼は分かったのでしょうか。それは聖霊のささやき、いや聖霊の導きがあったからに他ありませんよね。「私は救い主」という名札があったわけではありませんから、多くの人たちがそこにいた中、シメオンはそのことを聖霊によって悟っていたわけですね。二十九〜三十節、

『すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」』

 シメオンは主を待ち望む人でした。イスラエルの慰めを、イスラエルの回復を、イスラエルの救いを祈っている人でした。そして「あなたのみことばどおり、私を安らかに去らせてくださる。」彼は神のみことばに生きる人だったんですね。年老いていても、年齢は関係ないです。誰でも主を待ち望むことができます。そしてどんな人でも主を待ち望む者は新しい力を得ることができる。年老いていたとしても、新しい聖霊の油そそぎの中で、主のみ声を聞き分けることができる。
 今日は時間の関係で割愛しますけれども、この救い主に対してシメオンは預言をするのです。「彼はこのイスラエルだけでなく、異邦人の光となる。そして彼は本当に大変な道を通るよ。」マリヤはその言葉を聞いて、とても胸が痛んだかもしれません。けれども真っ直ぐに神さまの預言を彼は語った主を待ち望む一人であったわけですね。

 もう一人、それは三十六節から出てきますね。少し読んでみます。ルカによる福音書二章三十六〜三十七節、

『また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。』

 彼女は非常に歳を取っていました。八十四歳。当時の寿命はある人によれば五十歳位と言われていましたから超高齢者ですよ。その人がなんと宮を離れず、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていた。聖霊の油注ぎの中で、またこのエルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に、イエスさまとの出会いについて証ししたと、この後出てくるように、彼女もエルサレム、イスラエルのリバイバルを、その国の回復を、自分の祈りでなく、自分の願いでなく、神のみこころを受け取って祈っていた人だったんですね。
 八十四歳、結婚して七年で夫を失った。再婚することはできたかもしれない。きっとその生活も貧しかったでしょう。またその当時、多くのやもめがいたでしょう。その方たちに寄り添い、彼女は励ましと慰めのメッセージ、回復のメッセージを語っていた。そのアンナという女性がここにいました。

 三十八節、『ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、』とありましたから、聖霊の導きで、シメオンと、マリヤ、ヨセフ、イエスさまとの出会いのシーンに出くわしていたんでしょうね。彼女もそこにいて、神に感謝をささげていた。約束の救い主がいよいよ与えられた。
 彼女は何をしましたか。出て行ってエルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に、この幼子のことを語った。救い主を待ち望んでいる人たちにその喜びの訪れを告げ知らせたわけですね。

 さぁ、もうメッセージをまとめなければなりませんけども、主とはどんな方かを私たちが知る時に私たちが主を待ち望むことができますよね。イザヤはそのことを四十章で伝えています。
 そして主を待ち望む者には聖霊の力が注がれるということを覚えたいと思います。また主を待ち望む者には聖霊の風に乗って鷲のように高く高く舞い上がることができるんですよ。おじいちゃんでも、おばあちゃんでも、幼子であっても。
 そして彼女はエルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に、この幼子のことを語ったとありますから、主を待ち望む私たちは大胆に神さまの福音を宣べ伝えていく。その力が主にあって与えられるということ覚えたいと思いますね。

 このスクリーンには出ませんけども、コロサイ人への手紙の中に、こういうことばがあります。一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 穐近祐という先生が、日本に来て、そこから滝元明先生との出会いを通して、新城教会が始まりました。けれどもその中には色々な混ざりものがあって、私たちは今三位一体という、しっかりとした聖書の価値観をもって祈っています。福音はこのようにして私たちの所に届けられました。「世界中で実を結び広がり続けています」とありますけれども、順先生が昨年、私たちの教会に来て、本当の意味で福音を理解しなかったならば根を下ろし実を結ぶということはないんだよということを教えてくださいました。
 私はこの新城教会の皆さんを本当に愛しますし、また尊敬します。今回この礼拝の準備のためにテキストで新城のメッセージがたくさん出てるのを拝見しました。『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。』とあるように、いろいろな先生方がそれぞれの賜物を生かして、それぞれの視点で福音を説き明かし、神さまのメッセージを取り次いでくださっている。いや〜、うらやましいなぁと思いました。
 幸い、私の教会にも伝道師の女性の方が一人おられるので、今日は彼女に任せてここに来ることができたのですが、皆さん、日本の教会は本当に超高齢化で、一人の牧師しかいないんですよ。その方がインフルエンザになったらどうなりますか。昨年も、ある牧師先生ががインフルエンザになって、メッセージを収録して、それを流して礼拝を守ったということを聞いて、まさに牧師というのは命がけで風邪も引けないな、大変だなということを思わされました。なんて贅沢な教会ですか、皆さん。

 話を戻さなければいけませんけれども、この恵みの福音を聞いて、本当に理解した時以来、私たちの間でも見られるほどの勢いを持って世界中で実を結び広がり続けている。
 今回、その先生方のメッセージを聞いた中で、今年もたくさんの方々がバプテスマを受けられたそうですよね。ですからはじめましてという方もおられると思いますが、福音理解というのは本当に大事なことだと思います。私たちは生涯、学び続けなければいけません。神、罪、救いだけ知っていて、それを語っているだけではなかなか魂は救われませんよ。福音に覆いが掛けられています。人々が何に関心を持っているか。そして悪魔の策略がどこにあるのか。私たちは出て行き、それを知ることは大事ですね。愛するとは関心を持つことですね。愛することは知ることです。愛することは信じることです。まさにイエスさまは、そのことをしてくださいました。

 新しい一週間が始まります。また慌ただしいこの十二月、師走の中にあっても、主に与えられた一日一日、神さまの恵みは、あわれみは尽きない。「主のあわれみと恵みは朝ごとに新しい」とありますから、毎日毎日してくださる主の新しいみわざに期待し、「この日は主が造られた。」別の訳では、「今日こそ主のみわざの日」とありますから、与えられた一日一日を感謝し、期待して、このシメオンやアンナのように、救い主を待ち望んでいた。またやがて、主が帰って来られるその道を備えていく。
 また長年祈り続けてきた日本のリバイバル、また世界宣教のために、これからも共に霊に燃え、主に仕えていこうではありませんか。アーメン。

 最後に一つのみことばを読んでお祈りしたいと思います。イザヤ書のみことばです。イザヤ五十一章三節、

『まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。』

 私たちの神さまは、回復の神さまです。エデンのように、私たちは今、荒れ果てたこの国にあって、コロナ禍の中にあって、しかし主は再び私たちを回復してくださる。建て直してくださる主であることを覚えましょう。皆さんの祈りを通し、またこのキリストのからだである一人一人が各器官として結び目によって愛の結び目によって結び合わされる時、神の国がますます拡大し、前進していくことを信じます。一言お祈りいたします。


『若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 天の父なる神さま、この朝、この礼拝を通し、主ご自身がお一人お一人にみことばを語ってくださった、与えてくださったことを信じ、心から感謝します。この教会がスタートし七十年という節目の時を迎えております。しかし主は言われます。「先のことを思うな、昔のことを思うな。見よ、わたしは新しいことをする。」主よ、あなたがしてくださる新しいみわざに期待します。新しく始まる一週間、またこれからの季節、主ご自身が用意しておられるそのご計画を見させてください。主よ、あなたのみ声を聞かせてください。救い主を長年待ち望み、あなたと出会ったあのシメオンやアンナのように、主よ、あなたご自身をこれからもいつもいつまでも慕い求め、あなたと共に歩み続けることができますように。
 主よ、あなただけが答えです。あなただけが私の誇りです。あなただけが私の命ですから、主よ、これからも共に歩んでください。特に今、病の中にあり、また問題のただ中にある方々と共にあってください。主があなたのみ腕を持って、あなたが下から支えてください。もう一度、主を見上げ、再びあなたの聖霊の風に乗って、翼を広げ、舞い上がることができますように。主よ、一人一人に触れてください。すべてを感謝します。み手に委ねます。イエス・キリストのみ名によって、この祈り、み前におささげいたします。アーメン。

 ハレルヤ!私たちの主に大きな拍手をささげましょう。主は良いお方です。これからも主だけを待ち望みます。主に期待します。ありがとうございました。