HOME > 2010年バックナンバー > カウントダウンメッセージ2010年12月31日

カウントダウン・ワーシップ

2010.12.31(Fri)

上條実 牧師、公畑フェルナンド 副牧師、滝元明 牧師
岡本信弘 牧師、滝元開 副牧師、四元雅也 副牧師

上條実 牧師

DSC_2383.JPG ハレルヤ!いつも私と家族のためにお祈り下さり感謝します。今年一年を振り返って見ると全てが感謝でした。ちょうど昨年の暮れに引っ越しをし、そして2番目の孫、それも待望の女の子が生まれました。また次男も結婚し、祝福された一年でした。
 2010年のために与えられたみことばがローマ書 12章3節~5節でした。特に3節には、

『だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』

とあります。みことばを通して、勘違いするな。錯覚するな。と教えてくださいました。ここまで祝福してくださった恵みは、私たちが何か、祈って祈って主から特別勝ち取ったかのように錯覚してしまい、思うべき限度を超えて思いあがるなと教えられました。今までたしかに多くの祈りがささげられてきました。毎週月曜日の夜愛知県民の森に出かけて行き、日本のリバイバルのために、新城教会のリバイバルのために、熱く祈りがささげられました。また主から霊的戦いを教えて頂き、様々な地域に出かけて祈り、解放の祈りがなされ、多くの集会、祈祷会、セミナーが行われてきました。その結果ここまで祝福されて来た。しかし私たちが祈って勝ち取ったのではない。「思うべき限度を超えて思いあがってはいけません」思いあがるな。と教えてくださいました。また私たちは「キリストの体であって各器官」です。しかし「日本の教会が一致するように」「新城教会が一つになっていくように」といつも祈っているにも関わらず、実は「まだ、あの教会は霊的に開かれていない」「あの人は霊的戦いがわかっていない」とその教会・クリスチャンを非難してしまっている。自分と新城教会が日本のリバイバルの最前線に出ているかのように思っているが、実は妨げているのは自分ではないのかと教えられました。
 さきほど一年を振り返る写真が映し出されていましたが、9月に北海道と東北にてリバイバルミッションを開催しました。特に東北リバイバルミッションを考えると、本当に人が集まるだろうかと心配しました。時々夜中に起きてしまい、目覚めるとすぐにその心配が襲ってきました。だから真剣にお祈りさせて頂きました。また新城教会の皆さんも祈ってくださいました。結果は皆さんがご存じのように、素晴らしい祝福をいただくことができました。11月初旬「東北リバイバルミッション」の感謝会を盛岡と仙台で持たせていただきました。その時ある教会では大会後に五人の方が受洗をしたとか、また決起大会にて行われた伝道会で決心された方が、感謝会の前日受洗したなどの素晴らしい報告を受けました。やはり一つになって祈るという事がどんなに大きな祝福なのかと教えられました。そして自分の中にとりなし、祈りながら不安があって、心配で、大波のように心騒いでしまった。不信仰であったということを悔い改めました。

 つい最近、読んだ本の話の中にこんな話がありました。それは湖畔でピクニックをしていた家族の話です。さっきまで水辺で遊んでいた5才の息子が、突然深みにはまっておぼれそうになってしまいました。家族の大人は誰も泳げません。子どもは沈んだり浮いたりしながら助けを求めて泣き叫びますが、親たちはパニック状態でおろおろと岸を行ったり来たりするだけです。ちょうどその時、偶然通りかかった人が状況を察知し、湖に飛び込みました。そして、男の子を抱きかかえて岸に上がってきました。少年は怯えていましたが、無傷でした。助かったのです。ところが、少年の母親は苛立って尋ねました。「ジョニーの帽子はどこなの!?」私たちは、神が人生に与えてくださったすばらしいことに焦点を合わせず、がっかりさせられた些細なことに目を向けて不平を言ったりしがちです。永遠に尽きない神の愛や永遠の救いには見向きもしない。私たちがちょっとしたことで不平を言ってしまう。自分も同じだなとすごく思わさせられました。神様の救いをいただいていながら、救いは完全です。何にも比べることができない高価なものです。しかし神の目から見たならばちりよりも小さな出来事を、私たちは今まで越えたことのない大きな山以上に見てしまって心配し、不安になって、心を乱しているのです。
 今年の8月にこの地球の反対側で大変な事件がおこりました。それはチリの鉱山の落磐事件です。33名の方が、地下700メートルに閉じこめられてしまい、10月14日。69日ぶりに救出されました。多くの方がそのテレビを見て感動されたことだと思います。私はあの救出劇を見ながら、イエス様の救いと似ていると思いました。33名が地下の暗闇に閉じ込められてしまいました。あれは私であり、全ての人だと思います。どうがんばってみても、地下から地上に出ることはできません。私たちは地のどん底に落ち込んでしまったのです。絶対に自らは助かることはできませんでした。死を待つばかりでした。真っ暗な世界の中で生活していました。しかし地上では、様々な救出のプランを立て、その救いのパイプを掘り、そこまで助けるために降りてくださり、一人一人を救出したのでした。あの様子を見ながら、イエス様が私たちの為に、地のどん底に降りてきてくださり、私たちを助けてくださいました。そしてあの家族と再会した姿を見て、感動しました。ともに喜びました。泣きました。助かった人は勿論素晴らしい喜びだったと思います。しかし今日、自分がイエスさまによって救われていること。イエスさまが私たちのいる地のどん底に来て下さり、救い、解放して下さった事を喜んでいるだろうかと、もう一度考えなければいけないと思わさせられました。
詩篇 51篇10節、
『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』
 私には本物の救いの喜びを持っているでしょうか?私があんなに心配をした東北リバイバルミッション。しかし終わってみれば祝福でした。もう一度イエスキリストが私のためにご自分の命を捨てて下さり、私を救って下さった事、また今もいつもともに生きておられることを再確認しなくてはならないと強く教えられました。
 と言うことで2011年のために、神様が私に与えてくださったみことばは、有名なみことばです。それは
詩篇103篇1節~5節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

少し前礼拝等にて、マルコの福音書の4章26節から29節が語られました。特に28節の「地を人手によらずに実をならせる」ということばが強調されて語られました。そして、「実を熟すると人はすぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです」というみことばをいただきました。来年のために、私が神さまから教えていただいたみことばは、まもなく収穫の時が来る。だから、私たちは準備していかなければならない。そのためにも、まず「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とにかく、絶対的な神さまが、私たちの神さまなのですから、神に目を向けて、救われているという喜びを感謝すること。そして何事にでも感謝することです。
 3節は「主は、あなたのすべての咎を赦し」とあります。先ほどもお話ししましたチリの鉱山の落盤事故のように、罪が満ち、地のどん底にいたものが光のある場所、地上である神さまの元に、ただ恵によって助けられました。私たちは全ての罪が赦されました。この2011年は多くの人たちが救われ、人々の罪が赦される年であることを信じて行きましょう。
 そして、「あなたのすべての病をいやし」とあります。私たちはリバイバルを求めています。魂の救いと同時に、多くの方々が病んでいますが、今年は病が癒される年であることを信じていきたいと思います。
 そして、4節には、「あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせる」とあります。めぐみと哀れみの冠、「冠」には2種類あり、一つは王や領主がかぶるもの。もう一つは競技で勝利を得た者が受けるものです。しかしこの詩篇では罪深かったものに、ふさわしくない者に授けられるというのです。
 また五節の最初のところには「あなたの一生を良いもので満たされる。」だから、今年は、良いもので満たしてくださる年です。信じましょう。
 そして、「あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」私たちはさらに聖霊さまに満たされ、鷲は風にのって高く舞い上がっていくのと同じように、今までは低空飛行であつた日本とこの教会、そしてあなたも聖霊に満たされ、聖霊の風に乗って高く上がっていくことができるというのです。最後に
詩篇103篇20節~21節、
『主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。』
 私がよくご紹介しますリビングバイブルでは
『神様の命令を一つとして聞きもらさず、すぐ実行に移す御使いたちよ、神様をほめたたえなさい。四六時中、神様に仕える天使の軍団よ、ほめたたえなさい。』
四六時中、神様に仕える天使とあります。私たちは神さまの命令によって仕える天使の軍団によって教会と皆さんが守られることを信じましょう。霊的戦いが更に進んでいく中、前進していくが、今までは教会や私たちは、戦いによって傷ついてきたところがありました。しかし今年は完璧な守りの中で、戦っていくことができる。収穫していくことができるのです。私たちは感謝しましょう。今年は12月31日になって振り返って見れば、「毎日感謝な事ばかりであった。一日たりとも悲しみ、苦しみを経験せずに過ごすことができた。」と大喜びすることでしょう。今度の2011年には期待しています。最後にお祈りします。

祈り
 愛する天の神さま、今年は祝福の年である事を感謝します。今までも大きな祝福をいただきました。様々なプレゼントをこの教会にくださいました。しかし2011年はそれと比べることもできないほどの、天が開かれた祝福の年になることを信じます。あなたに期待します。また天のみ使いを四六時中私たちを守らせてください。収穫の年となるように、それも人手によらない収穫をいただく時となりますように。信じます。愛するイエスキリストのみ名によって、感謝してお祈りします。アーメン。

公畑フェルナンド副牧師

DSC_2394.JPG ハレルヤ!今回もメッセージはスペイン語でやります。いつもインターナショナルの兄弟姉妹も31日はここに来てくださいますので、彼らのためにスペイン語でメッセージをします。奥さんが日本語を通訳してくれます。
よろしくお願いします。

 短いメッセージですけれども、今晩みなさんと共に分かち合えます事を心から感謝します。そして、皆様の私たちに対する、またインターナショナル部会に対するお祈りを感謝いたします。
 今年ももうすぐ終わるところですが、今年はいろいろな家族が母国に帰って行かれました。経済危機によって職を失って帰られた方もいらっしゃいますし、また、ある家族はこれが神様の時だと信じて帰られた方もいます。
 ですから6月にペルーに行った時にはとても良い時を持ちました。それらの帰られたいくつかの家族と再会しまして、一緒に交わりや祈りの時を持つことができました。それがインターナショナル部会の一つの大きな仕事でもあります。日本に働きに来ている外国人の方々に、メッセージを届けて、弟子訓練をし、そして神の言葉の霊的真実を教えて、それによって新城にずっと居ても、また母国に帰っても、どこにいても心から喜んで主に仕えることができる、そのように彼らを整えること、それが仕事です。そして、みなさん、愛する兄弟姉妹たちも、この働きをお祈りによって支えてくださっています。

 神様が私に来年のために与えてくださった御言葉は、
マルコの福音書 5章21節〜23節、

『イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」』

 そして、続いて、
マルコの福音書 5章38節〜43節

『彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。) すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。』

 私が今晩言いたい事は、「神様は2011年にあなたのために多くの奇跡を準備してくださっています」ということです。
 あなたの持っている可能性が制限を受けていて、問題解決が出来ない時や、払いきれない借金があって助けがみつけられない時とか、お医者様からあなたの病気には治療法も、薬も、手術法もなにも方法はありませんと言われた時も、そして、あなたの子供が、手がつけられないほど、罪に堕ちて、何も手段がない時も、そして、あなたのご家庭が崩壊しているのを見ながら、どうしようもない時にも、そのような不可能が目の前に立ちはだかる時、イエス様こそ答えなのです。そしてあなたに必要なのは、この神様の奇跡なのです。これが出来るのは、ただお一人、神の子、イエス様だけです。
2011年は、あなたの奇跡の年になります。

 この聖書箇所には、奇跡を必要としている男が出て来ます。その娘は瀕死の状態でした。今にも死にそうな状態でしたけれども、誰も助けられる人がいませんでした。この男はもう少しで娘を失いそうで、どうしても奇跡を必要としていました。聖書がこの記事を載せているのは、私たちに奇跡に至る道のりを教えるためです。なぜなら、今まで体験した事のないような奇跡がこの教会に来ようとしているからです。それは、神の恵みの雨です。
 しかしいつも奇跡の前には、立ちはだかる、対抗するものが出て来ます。
しかし、クリスチャンの信仰は臆病者のためではありません。決意と勇敢な人のためにあります。また、奇跡の道のりを止まらずに行く人のためのものです。臆病な人のための信仰ではありません。
 この聖書箇所のとおり、長血を煩っていた女性の後に、ヤイロはやっと約束通りイエス様を自分の家にお連れすることとなりました。しかしそこで彼に娘の死の知らせが届きました。彼は人から「これ以上、先生を煩わせることはない。お嬢さんは亡くなりました」と言われました。その時イエス様が彼に言われたことは、「恐れないで、ただ信じていなさい」ということでした。
しかし、家に着いてみると、全て葬式の準備がされていて人々は泣いていました。外には葬儀に雇われる泣く専門の人たち、「泣き女」がいました。その場所は、死を感じさせるもので満ちていました。そこに命であるイエス様が来られたのです。彼は命でした。そしてイエス様は全ての泣いている人たちを外に出しました。その後、子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言いました。すると、少女が起き上がったのです。ヤイロがどのように外に出て行ったか想像が出来ますでしょうか。きっと、彼は娘を抱きかかえて表に出て行ったことでしょう。「私の娘は生き返った!ハレルヤ!」と叫びながら出て行ったと思います。
 ですから、このようにあなたも恐れを乗り越えなければいけません。なぜなら恐れというのは、私たちを麻痺させて動けなくさせるからです。
しかし、その恐れよりもさらに強力なものがあります。それは泣いている人たちのことです。ではここで言う、泣いている人たちとは誰でしょうか?
この泣いている人たちというのは、不平を言い、気力がなく、悲観的で、人の批判ばかりをする不信仰な人たちのことです。ですからみなさん、よく聞いてください。もし奇跡を受け取りたいのであるのならば、この様な泣き虫には奇跡は起こりません。

 そして、主は私に教えてくれました。「このような悲観的な泣き虫たちによって、イスラエルは40年間の間、砂漠を彷徨っていなければならなかったのを知っているか」と。イスラエルの人たちは占領すべき土地に背の高い巨人たちがいるのを見て、悲観的になって泣き出し、神様が彼らと一緒にいてくださるということを忘れてしまい、ずっと泣いていたので砂漠にとどまることになってしまいました。
 その砂漠に、キブロテ・ハタアワと呼ばれる墓がありますが、そこは、神様につぶやいた者たちが14,000人埋められた場所です。その後、また蛇によって、13,000人以上の人たちが砂漠で死にました。なぜなら彼らは神に不平を言ったからです。そして、モーセも、ピスガという所で死に、約束の地に入ることが出来ませんでした。その原因も、水がないということで争った泣き虫たちのせいでした。
 みなさん、神様はみなさんを祝福したいと思っておられます。しかし、悲観的な泣き虫たちがあなたの祝福の道を阻止しようとします。この聖書箇所にはイエス様がその泣いている人たちを外に出されたと書いてあります。そして、ヤイロはその娘の復活というのを、外に泣き虫たちが出されてから手に入れました。ですから、同じようにあなたもまずあなたの中の悲観的な泣き虫達を追い出さなければなりません。そして、神の約束を信じるなら、神様があなたに必要な奇跡を与えてくださいます。

 ある所に、一匹のカエルがおりました。そしてカエルの競技大会に出場しました。そのカエルの競技会というのは、山の頂上を目指すものでした。最初に頂上に着いたものには、山盛りのハエのごちそうが準備されていました。
まあそれがカエルのごちそうですので。ですから、このカエルもそれを目指して、大会に参加しました。「ごちそうを取るぞ!祝福を受けるぞ!」と。
 そして、スタートの笛がなると、一斉にカエルたちが飛び出して行きました。山を登り始めましたけれども、それはとても困難な道でした。しばらくして、岩だらけの場所に差し掛かりました。登っていく間に、何匹かのカエルたちが言い始めました。「これは危ない所だ。落ちて死ぬかもしれない。」そして、他のカエルたちも、「そうだよ、死んでしまうかもしれないよ」と言って、だんだん後退し始めました。こうして、その岩場で多くのカエル達が帰って行きました。その間も、残ったものたちが祝福を目指して一生懸命登っていきました。
 また、しばらくすると、真っ暗な所にさしかかりました。それは真っ暗な森でした。あるカエルが自分の声がエコーして、反響しているのを聞いて、とても恐ろしくなりました。「駄目だ。怖いよ。なんか変。私は帰るよ。」と言いました。そして、他のカエルたちも次々と帰り始めました。このようにして結局、小さな集団だけが残りました。でもその小さな集団は、ごちそうを目指して
一生懸命飛び跳ねて、その行程を続けて行きました。
 しばらくすると、今度はいばら地帯に入っていきました。すると、一匹のカエルが言いました。「やだな。ここを進んで行ったら串刺しになっちゃうよ。私は帰る。」と言いました。するとまたそこから大勢のカエルたちが帰り始めました。
 そして、やがて最初に出て来たカエルちゃんが山頂に到着しました。山頂に着くと、皆がそのカエルを称えて拍手をし祝福しました。そして優勝者であるこのカエルに、夢であったハエ山盛りのお皿が運んで来られました。
みんなこのカエルに質問しました。「ここまでの道は怖くなかったの?みんなが言っていたことを聞かなかったの?」と。するとこのカエルは答えました。「なんのこと?みんなが言っていたことって何?私、何も聞いてなかったよ。だって、イヤホンで最大音量で聞いてたから、何も聞かなかったよ。ただ聞いていたのはざわめきの賛美と新城教会のメッセージだけさ。絶対、神様は私を祝福してくださると信じていたから」と言いました。みなさん、これは教訓です。
 もしあなたが祝福を手に入れたいなら、もし奇跡が欲しいなら、悲観的な泣き虫たちの声を聞かないように、耳に栓をしてください。不平や言う者や、疑い深い者や、臆病者や、そのような人たちに聞かないで、前をただ見ていてください。

 このメッセージを短い言葉でまとめると、奇跡を受け取るための秘訣は、イエス様のところに、ただこの一言を持ってくることです。
それは、「ただ信じなさい。」という御言葉です。勝利の鍵はイエス様だけを見ることです。「ただ、信じなさい。」「ただ、信じなさい。」
この2011年が、あなたの奇跡の年となりますように。ハレルヤ!

滝元明 牧師

DSC_2407.JPG ハレルヤ!フェルナンド先生のメッセージ、恵まれましたね。私は感心して、自分の話す事を忘れて聞いていました。また、奥さんのひかるちゃんは、よくも、あれだけスペイン語が出来ると感心しました。
 私も、私なりに、これから話したいと思います。皆さんに祈っていただき、ここまで健康でこれたことを心から感謝します。今も紹介されましたが、私は81歳ですが、ここまでイエス様が支えてくださり、福音を伝えることが出来て感謝です。
 12月5日のコンサートには、市長さんも来られたり、一杯の人たちが来ている姿を見て、イエス様がここまで導いてくださったこと、本当に感謝でした。今年1年間のことを振り返ってみると、たくさんの恵みを受けたことを、心から感謝します。

 私はかつて夢をみました。夢というのは、普通の夢ではないですけれど、ビリーグラハム伝道団なんかを見ると、素晴らしい音楽のゲストを連れて来て、集会をしているのです。かつて、東京の千駄ヶ谷体育館で、ボブ・ピアスという牧師が一ヶ月間集会をした事があります。その時、すばらしい音楽家たちを連れてきて、集会をしまして、「いつかそういう時代が日本にもくればいいのに・・」と思いましたけれども、不思議と1998から、ロン・ブラウンさんに出会ったことによって、ロン・ブラウンさんと一緒に、多くの集会をするようになりました。
 今年も、彼と一緒に、41の教会を回りました。41の教会を回ったということは、41日間以上、彼と一緒に行動したということです。本当にどこに行っても素晴らしい集会でした。主が日本のために、彼らを備えてくださったと信じて、心から感謝です。
 ロンさんと一緒に回った集会の動員数は、実数で6,749名でした。私は毎回、来た人たちの数を記録していますが、一度に6,000人の人たちを集めるのは大変ですが、あまり金もかからないで、良い集会が出来て本当に感謝します。
 12月だけでも、12月3日に大阪からいろいろな教会を回りました。私の集会に来られるのは、クリスチャンではない人が多いです。だいたい、半分以上がクリスチャンではない人たちです。いつも私は最後に、「これからイエス様を信じたい人」だとか、「求めたい人」、「これからイエス様を知ってみたい」という方々に、「祝福への歩み出し」という本をあげます。「欲しい方は手をあげてください。」と導いているんですが、共に祈ってあげることにしています。
 数日前も、大阪のほうから電話が来まして、「あの時の集会に来られた二人が、バプテスマを受けた」とか、あちらこちらで素晴らしい報告が寄せられています。心から感謝します。
 12月だけでも、「祝福への歩み出し」という本は、1,400百冊出ました。ということは、1,400人の人たちに、私の書いた本を差し上げることができたので、いつか大きな収穫があるに違いないと思っています。

 今年、一年を考えてみると、本当に素晴らしい祝福が与えられました。私はプレイズ出版から、「どうしても知って欲しいこと」と、「天国は本当にあるのか」という本を出版しました。多くの人が読んでくださいまして、とても良い反響があったことを感謝します。私もたくさん買いまして、いろんな人たちに送りました。多くの教会がその本を用いてくださっていることも感謝します。

 今週の日曜日は、八尾福音教会に行ったのですが、八尾福音教会の牧師先生に送って差し上げたら、みんなに「この本は素晴らしい本だから、是非とも買いなさい」と宣伝してくださり、大勢の人たちがその本を買って、多く使って下さったと聞きまして、とても感謝でした。
 私がいつも話している伝道メッセージを、短くして書いたことが良かったと思います。

 インドはヒンズー教ですけれども、サンダー・シングという人が、ある時、神を求めて、「神様、本当にいたら私に現れてください」と祈ったら、イエス様が現れたのです。「わたしが神だ」と。
 それから、サンダー・シングという人は、殺されそうになったんですが、生涯、インドにおいて、リバイバルの器として用いられたという事実があります。

 そういうことが日本にも起こる必要があると思います。ローマ帝国は、何百年もの間、弾圧があったのですが、コンスタンチヌスという王様が戦いの時に、西の空に十字架を見て、「この旗の元に戦え」と語られ、改心して、ローマ帝国がキリスト教化されたという歴史があります。日本でも奇跡が起きるように願っております。

 特に、今日は、2011年の御言葉ということですけれど、既に私は、この前もお話ししたんですが、11月18日に、私と家内と朝早く起きて、聖書を読んでいる時、普通は聖書を読んでも普通ですが、聖書の中には、「御言葉が打ち開けると光を放つ」と書いてありますけれど、マルコの福音書四章一節の御言葉を読んだときに、

『イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。』

 不思議と、この言葉がぱっと打ち開かれました。聖霊様が語りかけてくださって、私はこの御言葉を読んだ時、特に「おびただしい数の群衆が集まった」ということが、必ず、この新城の教会に、また日本に起きるという確信が与えられました。それから、さらに続いて、マルコの福音書 4章26節〜29節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 この御言葉が非常に心の中に強く来ました。収穫の時が来たのです。ですから、2011年は、今も話されたように、奇跡の年で、収穫の時が来る、ということを確信しなければなりません。私もどんなことをイエス様が起こしてくださるのか、楽しみにしています。ここに書いてありますけれど、「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます」とあります。
 私たちは、夜は寝て、朝は起きて、リバイバル、リバイバルと、リバイバルを求めながら、今まで来ました。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」とあります。リバイバルというのは、人手によらないで神様からくるものです。どのようにしてか、人間的にはわからないところもあります。「地は人手によらず実をならせるので、初めに苗。次に穂の中に実が入ります。」地は人手によらずに実をならせるということは、リバイバルは人手じゃない、人手によらないで、神様が実をならせてくださり、最後に「収穫の時が来る」とあります。
 ですから、来年は、今もフェルナンド先生、実先生が語ったように、必ず、素晴らしいことが起こると信じましょう。信じたら栄光を見る事ができますから、信じて行きたいと思います。

 特に、来年のためということで、私もお祈りして、どういう御言葉からお話ししようかと思っていた時に、詩篇の言葉がもう一度祈り直した時、心の中に来ました。
 詩篇 126篇1節〜6節、

『主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』

この御言葉が私に来ました。今、フェルナンド先生の話の中には、泣き虫はいけないという話がありましたけれども、この中には、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と書いてあります。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」
 こういう言葉ですけれども、私たちが伝道の中で、「涙を流しながら出て行く」、涙を流しながら種蒔きをするということがあります。私は、あんまり人の前では泣いたりということはしないけれど、今年は一番涙を流した一年だったと思います。
 何で、涙を流したかと言うと、みなさんにも祈ってもらっていますけれども、私の家内が今年で87歳になったわけですが、筋肉無力症という病気になって、痛いところはないけれど、力がなくなりました。炊事も出来ないし、いろいろと弱さを持っています。
 私の家内は、私と60年間、結婚生活をしていますが、弱音をはいたりとか、泣き言を言ったりとか、人の前で泣いたりということは、ほとんどありませんでした。ある意味で、強い女性です。
 しかし、病気になってからは、やはり弱さを感じています。私は今年も、先ほども話したように、41日間も、ロンさんと一緒に集会をすることが決まっていましたし、九州に十何日間行くとか、北海道に行ったり、東北に行ったりと、十何日間も家を空けることは、やはり家内にとっては気の毒なことです。ですから、私の本当の気持ちから言うと、家内の側にいて助けてあげたいと思います。私がいる時は家内もやっぱり嬉しいですから、私も愛しているから側にいてあげたいと思うけれど、イエス様のために生涯を捧げたから、約束した福音を第一にするということで、私も外に出て行くわけです。
 そういうことで、感謝なことに、私の息子夫婦たち、嫁たちが良くしてくれて、私の留守の時には、家内の面倒を見て、食事を作ってくれたり、いろいろと世話をしてくれてるわけです。
 しかし私の家内が、何回も聞くのです。「あんた。今度は何日間行く?何日したら帰ってくる?」と。寂しさがあって、「何日で帰ってくるよ」と話すのですが、私は家内の前では泣いたりしないけれど、今年は随分泣きました。「イエス様。家内が今、弱い状態です。置いていきますけど守ってください。天の使いを遣わせて守ってください」と。
 涙と共に種を蒔くとありますが、今年はある意味で、一番涙をながして祈ったと思います。やはり家内のために祈り、「行くからにはリバイバルが起きますように、人が救われるように」と祈って出かけて行きました。今までの人生の中で、一番涙を流した一年だったと思います。
 涙を流して種を蒔いた時収穫があるというから、この涙もイエス様から与えられたものだと信じます。そういう中で、今の御言葉、詩篇 126篇1節、

『主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。』

 私の家内は、だいたい朝五時半過ぎに私と一緒に起きます。起きている時は、必ず、お祈りするか、賛美をするか、聖書を読むことにしています。そして、心から願っていることは、「日本のリバイバルを見るまでは生きていたい」という願いです。そのような願いを持っていますから、私自身も家内が元気でいてもらいたいと思います。ということで、今の御言葉の中に、「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった」とありましたけれども、私にとっては二つ意味があります。それは、家内が今の状態ではなくて、元通りの健康をイエス様によって与えてもらえるように、ということと、もう一つは、願っているリバイバルが来ますように、ということです。
 その時に、「私たちは夢を見ている者のようであった」とありますけれども、本当におびただしい数の群衆が来た、収穫の時が来た、という姿を見るのです。それは、夢を見ているようだったというのです。
 みなさん、リバイバルを見るとは、夢を見ているような素晴らしいことです。だから、来年は、夢を見ているような喜びに満たされる年になるように、心から願っています。
 そして、詩篇 126篇2節、

『そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。』

とありますから、リバイバルが起きたのを見たら、私たちの口は笑いで満たされ、舌は喜びの叫びで満たされます。素晴らしい栄光を見ることが出来ると信じています。
 そして続いて、『そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」』
 今年、順牧師がニューヨークに行った時、21人の方から「まもなく新城教会にリバイバルが来る」という預言をもらったとメッセージをしていましたけれど、新城教会にリバイバルが来るということは、日本全体にリバイバルが来ることですから、主がどんなことをしてくださるのか、もしこの新城教会にリバイバルが来た時には、ここに書いてあるように、「そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』」

 私の祈りの一つに、こういう祈りがあります。「イエス様、どうかお願いです。辱めを栄光に変えてください」という祈りがあります。
 1992年の9月に、新城教会から霊的戦いが始まって、教会から出て行ってしまった人たちがいました。しかし、息子が主任牧師になってからは恵まれて、今、礼拝は三百数十人が集まっています。多くの方から、「もうこの教会堂は小さすぎる」と言われるようになりました。
 この間も、ロンさんのコンサートの最中に、イボンヌさんが来て、「この教会は小さすぎるから、早く新しく建てなきゃいけない」と言ったそうですが、そこまでに回復してくださったことは、本当に感謝です。ましてリバイバルが来たら、主が新城教会を省みてくださったら、「主は彼らのために大いなることをなされた」と言われる日が来るに違いないと思います。「主は私たちに大いなることをなされ、私たちは喜んだ。」
 ですから、大いなることを来年、期待しましょう。必ず、大いなることが新城教会に来ます。

 そして、4節に、「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。」とあります。
 時々、台風が来たりして、大雨が降った時なんかに、堤防が決壊します。堤防が決壊したら、すごい被害が出ます。
 ちょうどリバイバルというのは、そういうところがあると思います。今まで、サタンが日本のリバイバルを妨げていました。しかし、霊的戦いで戦ってきました。昨日もスタッフたちが、あちこちに出て行って祈りました。いつもとりなし、祈ってやっていますから、また、日本中に祈りのグループが出来て、祈っていますから、やがて堤防が決壊するように、すごいリバイバルが日本に到来すると、この御言葉を通して信じます。
 新しい年は、堤防が決壊するような、素晴らしい年になるように期待しています。
 「私たちの繁栄を元通りにしてください」とあるけれども、奇跡が起きる年と今も話をしましたから、家内も元通りに元気になるように願っているし、この教会が、素晴らしい主の栄光で喜びに満ちた教会になるように、祈っています。

 「涙と共に種を蒔く者は喜びの叫びながら刈り取る。」
 本当に、涙を多く流した年でもあったけれど、今度は大きな喜びの叫びの年となるようにと願っております。一つ、皆様方もまた、覚えて祈ってください。

 私も、来年は1月9日、10日と九州の方で集会が決まっていますし、また、北海道にも行くことが決まっています。また、3月になると、韓国に行ったり、4月にはイスラエルにも行くことになっています。健康が支えられて、イエス様の前に良い働きが出来るように覚えてください。
 また、来年は、韓国の春川でも、ソウルでもミッションがあるし、九州でもありますから、忙しい年になるかと思います。私もイエス様に祈っていることは、モーセが80歳から油注ぎをいただいたように、私にもどうかもう一度、新しい油注ぎをくださるようにと祈っています。覚えて祈ってくだされば感謝です。
 喜びの叫びの年となると宣言します。アーメン!

岡本信弘 牧師

DSC_2411.JPG ハレルヤ、主の御名を賛美します。
1年間守られて、2010年の最後の日を迎えることができましたことを、神様に感謝するとともに皆さんのお祈りを感謝いたします。
さっそく、2011年のために私に与えられた御言葉をお読みします。

『私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」』(申命記1章6~8節)

一年が経つのは本当に早いもので、あっと言う間に過ぎてしまったなぁと思います。今年、これをやろうと思っていたことを、やらずに過ごしてしまったと後悔している方も多くおられるのではないでしょうか。年の初めに、毎日続けようと決心したことも、すぐに挫折してしまった、また、そんな決心をしたことすらも忘れてしまっている方もおられるかもしれません。
私にとっての2010年は、どんな年だったのかを振り返ってみる時、個人的には結婚30年の年であり、仕事の面においては、プレイズ出版が始まって20年の節目の年でした。そんななかで私の中に飛び込んできた御言葉は、ローマ人への手紙12章2節でした。
『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
自分を変えるのは大変難しいことです。ある本に「自分を変えることは、年をとると容易ではないが、子どもたちは、それに順応している」と書いてありました。
子どもたちの環境の変化は、日々激しいものです。自分が望むと、望まざるとにかかわらず、2、3歳になると、保育園や幼稚園に入れられます。子どもたちにとっては、牢獄に入れられたような気持ちなのでしょうか、毎朝泣いている子がいます。しかし、すぐに、友達も大勢いて案外楽しいところだと気がつき、順応します。次に小学校にあがり、勉強しなさいと強要され、「何で勉強しなくてはいけないの?」と思いながらも、その変化に適応していきます。
大人は、一度身につけた習慣は、そう簡単には変えることができませんし、環境の変化にもすぐには適応できません。私も若い時には、新しいことに挑戦してきましたし、そうすることに魅力に感じていました。甲子園ミッションの財務を任せられた時も、心配はありましたが、がむしゃらに「やるしかない」という気持ちで挑戦してきました。もちろんその大役を果たせたのは私の力ではなく、多くの方のお祈りによる支えと、神さまの恵み以外にはありませんが・・・。とにかく、あの頃は、無我夢中でした。
しかし、私も年を重ね50歳を過ぎた最近では、新しいことに挑戦するというより、今の状態を守りたいと考え、より安全な選択をしてしまうことが多々あります。時には変えたいと思いながらも、「まあ、このままでいいか・・・」と楽な選択をして、その場に立ち止まってしまうことがあります。しかし、先ほどの御言葉を与えられ、「あなたは、今の環境や時代に安住してしまっていないのか? このままでいいのか?」と声を掛けられたような気がしました。
初めに読ませていただいた御言葉に出てくるイスラエルの民も、同じではなかったかと思います。イスラエルの民は、モーセとともにエジプトを出発し、約束の地を目指して意気揚々と進んでいきました。しかし、景色の変化の少ない荒れ地が続き、だんだんと不信仰に陥り、不平不満を募らせ、疲れ果て、ホレブ(シナイ山のふもとの村)という場所に住み始めました。そこにとどまり、生活にも慣れ、「約束の地に導く」という神さまの約束を忘れ、「このままでもいい」と思ってしまったのかもしれません。
そんな時に、『あなたがたはこの山に長くとどまっていた。 向きを変えて、出発せよ。』と声がかかったのです。このことばを受け、民が旅立ってカデシュ・バルネアまで来た時、攻め上るべき地を前に不安を覚え、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう」と提案し、12人の斥候を遣わしました。
『彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。そして、あなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。」』(申命記1章24~27節) 
戻ってきた斥候たちは、その土地が素晴らしい所であると報告しましたが、12人のうち10人は、そこに住む人を恐れて、登っていかないようにと民の心をくじき、「主の命令に逆らった」のです。その結果、エジプトを出てきたイスラエルの民は、ヨシュアとカレブ以外、約束の地に入ることができませんでした。

いかがでしょうか。すでに救われている皆さんは、永遠のいのちを獲得しています。しかし、今のままで大丈夫ですか? 主があなたに望んでおられることを、果たしておられますか?
『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(ローマ人への手紙12章1節)
神は、私たちができないようなこと、無理なことは望まれません。神が私とあなたに望んでいることは、どれだけ献金するか、どれだけ祈るか、どれだけ奉仕をするかではなく、私たち自身を「生きた供え物として神にささげなさい」と言っておられるのです。そして、続く2節には、『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』とあります。
「この世と調子を合わせる」とはどういうことでしょうか。流行のファッションを着ることも、海外旅行を楽しむことも、おいしいものを食べたいと願うことも悪いことではありません。そういうことをしてはいけないと言っているのではありません。しかし、それだけを求めていては、神に喜ばれることはできません。
聖書は、いつの時代でも変わらない、神のことばです。イスラエルの民が斥候に行った人のことばを聞き、神のことばに聞き従わなかったために、神に退けられたことを忘れてはなりません。この世がどんなに移り変わろうとも、私たちは、御言葉に立ち、神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられかを悟り、心の一新によって自分を変えていかなければなりません。
イスラエルの民は、その後、反省してのぼって行こうとしました。
『「私たちは主に向かって罪を犯しました。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」・・・・それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』私が、あなたがたにこう告げたのに、あなた方は聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。』(申命記1章41~43節)
彼らは、神さまの時を逃したために、祝福を失ってしまいました。いつの時代にも神の時があります。その時を逃してはなりません。過ぎ去ったこの年をやり直すことはできませんし、やり残したこともあったかもしれません。しかし2011年こそ、語られる神の御言葉をしっかりと受け止め、自分自身を神さまにおささげするために、今の場所、悪しき習慣や従えない心にとどまり続けるのではなく、向きを変えて出発しましょう。心の一心によって、自分を変えていきましょう。険しい道かもしれませんが、主が共にいてくだされば、必ず勝利を勝ち取ることができます。

滝元開 副牧師

DSC_2422.JPG ハレルヤ!感謝します。今日こうして、健康でこの2010年の終わりの日を迎えられることを心から感謝いたします。みなさんの背後のお祈りによって支えられていますことを本当に感謝しています。この教会における働き、中高生の働き、また、Zawamekiの働きや、刑務所伝道等、みなさんが祈ってくださったゆえに、今日があることを思って心から感謝しています。

 昨年のここで、「あなたのパンを水の上に投げよ」という御言葉を紹介させていただきましたが「この一年間は毎日水の上にパンを投げるような働きをさせていただこう」と思い、日々、そんな気持ちで来ました。
 そんな中で、神様は、投げるパンに対して、すぐにその実を見出す事を見せてくださった、そんな年だったと思います。そして、この一年間を振り返って、あの事、この事、大きな事、小さな事、いろんな事を神様が祝福を与えてくださったのですが、何が一番大きな祝福かなと思い返してみたのですが、その度、その度、神様が必要に応じて「御言葉」をくださったことだと思います。神様が御言葉をくださる。この時にこの御言葉。この時にはこの御言葉で行け。と、ことある毎に御言葉をくださったというのは、すごく大きな恵みだったと、今になって思っています。
 ここまでのリバイバルの戦いも、御言葉によって導かれてきました。また、今晩も、既に語られた先生方の御言葉で、もう十分なほどの大きな恵みを、2011年に対して与えられていますけれども、これほどまでに主が私たちに御言葉を持って、今、迫ってくださっているので、さらに御言葉に立って、その御言葉を信じて、前進して行きたいと本当に心から願っています。
 また、この年の1月1日には詩篇26篇12節が与えられました。

『私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。』

 この御言葉が与えられ、今年は、数々の場所で賛美をするそんな機会が与えられるんだと期待し一年が始まりました。神様は本当にいろんな場所で、賛美の機会を与えてくださいました。この教会では、青空賛美集会でこの地域において賛美をしましたし、中高生と共にあちらこちらで歌ったり、また、韓国の子たちと一緒に歌ったり、また、ザワメキも色々な所で歌わせていただいたり、また、刑務所では、今まで開かれなかったような所にも行かせていただいて賛美できました。
そんな中でも、今年は思いもよらずイスラエルに行かせていただき、そこでも、多くの場所で多くの賛美をさせていただくことができました。賛美に溢れた、神様の恵みの一年であったことを感謝しています。

 イスラエル旅行を通して「主は激しい流れのように来られる」という御言葉が与えられました。その旅行はまさしくリバイバルの目次を見たような旅行で、「イエス様はこれからこんなにすごいことをされようとしておられるんだ!」と感じさせられたツアーとなりました。ですから、これから神様は激しい流れのように、そして、主の息が吹きまくる御業を起こしてくださるんだという、そのような気持ちで、日本に帰ったわけですけれども、そして、その後、2011年に対する御言葉を神様がくださったのは私の誕生日の日でした。11月27日生まれなんですけれども、その日に与えられました。神様今日は何を与えてくださるのかという気持ちで、その朝を迎えたんですけれども、その日、与えられた御言葉は、エゼキエル書37章1節〜10節でした。

『主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

 本当に素晴らしい御言葉です。これが2011年に対して与えられた御言葉であると信じています。御言葉が与えられた次の日がZawameki Church Liveでした。次の朝、チャーチライブに向かうため、車を教会まで取りに行きました。教会に向かい途中、そういえば昨日この御言葉が与えられたな、と思って、朝早く走りながら宣言しました。「息よ四方から吹いてこい」と、しかも4回宣言しました。そしてZawameki Church Liveに行った教会で、集会が始まる前のことでした。その教会の先生が集会前の祈りをされたのですが、その日はノンクリスチャンのための集会だったんですが、その祈りで、こういう祈りをされました。「今日、この集会に、息よ、四方から吹いて来い!」とお祈りをしてくださいました。いや〜、神様だな〜と思いました。
 実は、その教会はすごく小さな教会なのですが、Zawamekiの集会は4回目でした。毎回、その教会では、チラシを2万枚くらい作って、しかもそれを手配りで配布されるのです。2万枚ですから、毎回「あと何千枚ありますので懸命に配っています」という、そんなメールをいただいたりしながら、当日を迎えるんですけれども、過去3回は、当日はノンクリスチャンが一人も来られないんですね。集会のあとから、そのチラシを見ましたっていう方はおられたのですが、いつも来ないのにも関わらず今回もまた配っておられました。でも、その日の集会は、初めてノンクリスチャンの方が3名来てくださって、本当に神様の御業を4年目にして見た、そういった集会でした。
 その時に祈られた祈りと私が与えられた御言葉が一つになったので、神様が新しいことをしてくださるという、これは約束の御言葉だな、と思って信じました。

 2節に、『主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。』と書かれています。
 今の時代というのは、本当にひどく干からびてしまったような時代で、ただ骨が満ちているだけではなく、「ひどく干からびてどうにもならない」という時代の中に私たちは生かされています。さて、このひどく干からびた骨も生き返るのかと、神様はエゼキエルに言ったわけですけれども、エゼキエルは「神、主よ。あなたはご存知です」と言いました。
 その時に、神様が言ったことの一つは、四節にあるように、「これらの骨に預言して言え」というのです。私たちは、「骨」に預言する、そういった働きをこれからしていかなければならないと思います。ですから、まだ息もない、形もない、死にきってしまったような状況に対しても、預言する。これが福音宣教の働きであるわけですけれども、そのことをして行っていく時に、神様が御業を成してくださると堅く信じています。

 この12月に、一つの老人ホームでコンサートをさせていただく時間がありました。50名くらいのお年寄りの方々だったんですけれども、コンサートをする前に、職員の方に、「この中に、認知症の方はいらっしゃいますか?」と聞くと、「ほとんどそういった方です。だから、何言ってもほとんど分からないと思います・・・」的な感じで始まりました。
 ですから、座っておられる方は、なんとなく目も虚ろで、そして、見ているか見ていないかわからないような感じの方とか、歌っている時に、ずっと手を振っておられたり、いろいろと自分勝手にお話されているような感じの方がたくさんおられて、見た感じ、ある意味「干からびてしまった?」という感じを受けていました。
でも、そんな中で、実は私は今年で50歳なったものですが、そのおじいちゃん、おばあちゃんの前で、「では、質問です。私は何歳でしょう?」と言った途端でした。あるお婆ちゃんが、「25歳!」と言ってくれたのです。やったーっと思いきや、ボーっとしてたはずのお爺ちゃん、お婆ちゃん達が、ふっと生き返ったようにして、「そんなはずはない!」という感じで、みなさんざわざわし始めました。
 なんと、その後、歌にも、話すことにも、ボーっとしていたはずの方々が、よく聞いてくれて、すごくうなづいてくれて、文字通り息が入っていく姿を見ました。
 神様は「骨に向かって預言しなさい」と言われましたけれども、私たちの目から見て、「こりゃだめだな。この人たちはわからない。昔のことしかわからない人たちで、ボケちゃったんだから駄目なんだよ」というような人に対しても、預言しなさい!と神様はおっしゃっているんだな、ということを、一つの型として見させていただいたような、そんな気がしました。
 ですから、本当にこの年、私たちは骨に対しても預言するというような、そんな働きをしていきたいと心から願っています。そして、もちろん、それがお年寄りのみならず、今日も既に多くのメッセージを通して語られていますけれども、多くの苦しみ、悲しみ、病の中にあったり、また、どうにもならない経済的な中にある人に対しても、さらに、どうにもならない人生の道を歩んでいる方々に対しても、私たちはそこに対して預言する働きをし続けていかないといけないと思っています。

 そして、今日の一番に私に与えられている御言葉はこれですけれども、エゼキエル書 三十七章九節、

『そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」』

 神様ご自身が、私たちが「息」に預言する時に、死んだ者たちを生き返らせる業をなすのが2011年であると、信じています。
エゼキエル書 37章10節、

『私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

この年、非常に多くの集団が主の御名によって与えられると信じましょう。
また、この集団とは、大きな軍隊とも訳されているとも聞いたことがありますけれども、非常に大きな軍隊が立ち上がって、日本の宣教と世界のリバイバルのために、ここから遣わされていく、そのような教会になっていくと信じています。神様の御業を信じます。
では、最後に、「息よ四方から吹いてこい!」と、みなさんで4回宣言して終わりにしたいと思います。「息よ四方から吹いてこい!」「息よ四方から吹いてこい!」「息よ四方から吹いてこい!」「息よ四方から吹いてこい!」聖霊様を歓迎します。ハレルヤ〜!!

四元雅也 副牧師

DSC_2429.JPG ハレルヤ!私、副牧師になって以来、この集会の中で、メッセージの順番が一番最後になったのは今回が初めてです。こういう緊張するものは初めに終わってしまっておいて、あとは「あー終わった終わった」と、ゆっくり御言葉を聞ければ良いと思うんですけど、今回は最終バッターになってしまい、初めは「大変なことになったな」と思ったんですけれども、集会が始まって先生方がお話されているのを聞きながら感じたことは、最終バッターもいいもんだなと思いました。というのは、先に終わって「よし、後はゆっくり聞こうかな」となると、聞いているうちに、主の平安によって攻撃をされるというか、あまりにも御言葉が素晴らしいので、ときどき気持ちよくなったすることがあるわけです。でも、今回はパッチリと今まで御言葉を聞くことができました。

 こうして6名の先生方と一緒に説教するという中では、与えられた御言葉に対して確信を持つということがすごく大事だと思うんですけれども、他の先生方がどんな御言葉を与えられているかわかりませんので、自分のメッセージが大丈夫か、他の先生方とうまくマッチするのかと、正直なところ不安なところがあります。しかし、順番が最後だと、御言葉を聞きながら、「なるほどなるほど。そう繋がっていくのか」みたいな感じで、自分の御言葉に対して確認することができ、また聞きながらメッセージを練り直せるというところもあり、「いいな〜、最終バッターも」と思いました。でも来年は、また早いほうがいいかな、とも思うんですけれども(笑)。

 私も、この2011年に向けて、神様の前に祈りまして、そして、神様が応えてくださって、与えられた御言葉をお読みしたいと思います。本当に、六人の先生方がそれぞれに取り組んで御言葉を語るというのを、今回、最終バッターになってみて、改めて素晴らしいと思ったわけです。いつもは自分のメッセージのことしか考えず、それだけで精一杯というところもあるのですが、今回は、それぞれに語られている御言葉を聞きながら、本当に自分も恵まれて、「自分の与えられている御言葉が、その中の一つのパートとして組み込まれているんだな」というのを確認できました。みなさんにも、是非そういう思いで、よく聞いていただきたいと思います。

 私が与えられたと信じている御言葉は、単純な御言葉です。

第一コリント人への手紙 10章12節、
『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

 この「立っている」という言葉を、みなさんはどのようにお考えになられるでしょうか。「立つ」という言葉は、ただ、地面に足をついて、そこに対して垂直になっている状態だけではありません。「立つ」というこの言葉一つだけで、たくさんの意味があります。

 今回、辞書で調べてみました。いろんな表現で「立つ」ということを言います。 
 「立つ」という言葉は、煙や蒸気が空中に舞い上がる「もくもくと煙が立つ」とか、鳥や虫が飛び上がっていく時も「飛び立つ」と言います。また、ある場所から離れて行くという時、「その場所から立つ」とか、「席を立つ」と言います。また、自然現象の中でも「虹が立つ」とか、「波が立つ」とか、そういう言い方をします。
 それ以外にも、まだまだたくさんあります。ある立場やポジションに置かれることも「立つ」と言います。「先頭に立つ」、「逆境に立たされる」とか、そういう風にいいます。また、重要な役目につくという時も「立つ」と言います。「教壇に立つ」とか、「裁判で証人に立つ」とか言います。また、目的を持ってある場所に身をおくという意味もあるそうです。例えば、「政治家として立つ」とか、「医者を志して立つ」とか、そういったことを言います。

 「立つ」というのは、まだまだたくさん意味合いがあります。
 感情が激することを「腹が立つ」と言ったり、優れていることも「話が立つ」とか、「腕が立つ」とか言い、その他にもいろんな意味で立つを使います。

 いずれにしても、「立つ」という言葉から、なんとなくニュアンスとして、前向きで、なんとなく上り調子とか、停滞していなくて、動いている状態というか、建設的なイメージがあったり、また逆には、守られているという意味があったりします。「面目が立つ」、「暮らしが立つ」とか、それは保たれ守られている状態というか、外からの圧力に対して動じない意メージというか、そういうのが「立つ」という言葉の中に含まれています。

 この冒頭の御言葉ですが、これは、ただ座っていない状態、寝ていない状態として、立っているというものではなくて、私たちの人生の中にある立ち位置、足の置き場というようなことについて語っているのです。

 私たちは何の上に立っているのでしょうか。どこに足を置いて立っているのでしょうか。いや、立っていると自負をしているのでしょうか?

 ある方は、家庭の中で、夫として、また妻、という立場もあるし、親だったり、子だったりという立場もありますし、また、家から外に出れば、会社員としての立場があり、その中でもどこそこの部署の役目があったり、肩書きがあったり、学生としての立場でも、何学課の何年生かなど、いろんな立場や人間関係が私たちにはあります。

 私たちは、どこに居ても同じことをします。その場所に自分の居場所というのを作ろうとします。自分の居場所というものがあって、そこが安定して確保されていると、私たちは安心します。「自分の居場所があるな」と。それが問題があって、不安定になると、私たちの中に、不安感が募ります。ある意味で、不安になる要素が多いのが現代社会ではないかと思います。雇用の不安があったり、経済的な不安があったり、家庭の中で、親子関係の問題、夫婦関係の問題があったり、健康状態の問題があったりと、そういう中で揺さぶられる、そのような状況が、時として私たちの人生にはあるわけです。

 冒頭にお読みした御言葉は、『あなたがたは「立ちなさいよ」』と言っているのではなく、立っている人たちに対して、『あなたが「立っている」と思っている場所は、本当に大丈夫なのですか?今、あなたはどこに立っているのですか?立っている場所を確認してください』という、そういう御言葉であるわけです。

 この「立つ」という言葉を考えているうちに、おもしろいと思った聖書箇所があったので、そこをお読みしたいと思います。

ルカの福音書 14章28節〜30節、
『塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。』

 これはイエス様がお話しされた言葉です。

 北朝鮮の主都平壌には、世界最大級のホテルになるはずだった、105階建てのビルがあります。このビルは、骨格だけ出来上がった状態で、20年近くも放置されているそうです。
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 こういう巨大な建物です。
800px-Pyongyang-May-2005.JPG
 この写真の中心部にあるのは、「金日成広場」と言って、金日成とか、金正日の誕生日とかに国民がマスゲームをしたり、軍事パレードが行われている広大な広場ですけれども、この写真の一番右端に三角に建っているのが、あの建物です。いかに大きいかが分かるかと思うんですけれども、このビルは、1987年に、ソウルオリンピックに対抗するために、北朝鮮が国家プロジェクトとして、建て始めたものです。
 建設は、スタートはしたんですけれども、資金と資材が不足し、1992年頃、先ほどの写真の骨格が出来上がってから今日に至るまで放置されており、コンクリートがむき出しです。外壁材が全く張られておらず、その建物に内装は全くされていませんし、また、窓ガラスすらも付けられていないそうです。
 そして、コンクリートも、経年劣化が進んで来て、今ではところどころヒビが入って、その上設計の問題で基礎が傾いてしまっているとも言われています。ですので、今は、倒壊の危険性がある非常に危ない建物であると言われています。
 今、この建物は世界中から、「現代のバベルの塔」とか、「傾いた北朝鮮式シンデレラ城」とか、そんな風に揶揄嘲弄されているようです。この、何百メートルもある、もちろん平壌で最高の高さのビルでありますし、世界的にも、トップクラスの建物でもありますので、ピョンヤンのどこからでも目につくものであります。けれども、それが完成できずに放置されているということは、国家としても非常に恥ずかしい事だと思います。世界の中での、北朝鮮の立場を、ある意味で象徴しているような、そういう建物でもあるかと思いますけれども、今のお読みした御言葉が現実にあるようなものであります。

 このルカの福音書の塔のお話ですが、この御言葉では、イエスさまは何を私たちに教えようとしているのでしょうか。実は、塔のお話の直前に、イエス様は、この話から切り出されています。

ルカの福音書 14章25〜27節、
『さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』

 ここで最初に、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていた。その群衆に対してイエス様は何を言われたかと言うと、「あなたがたが、もしわたしについて来たいと思うなら、わたしの弟子になりたいともし願うなら、自分の父、母、家族、そのうえ自分さえも憎みなさい。そして、自分が十字架を背負われたように、あなたの人生のために神が用意しておられる『十字架』を背負いなさい」とおっしゃいました。
 「十字架を背負って、全てを捨ててついて来なさいよ」と、まずイエス様がおっしゃって、そして続いて、「塔」の話をされました。少し、ミスマッチな感じがするのではないかと思います。塔を築こうとする時、まず座って、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者があなた方のうちに一人でもあるでしょうか」と、「十字架を負ってついて来なさい」と言われた後に、塔の話をイエス様はされました。

 そして、「塔」のお話の後に、イエス様は、ルカの福音書 14章33節〜35節、

『そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」』

 と話されました。この全体の話の中で、イエス様がおっしゃっているのは、私たちがイエス様の弟子になるということ、クリスチャンがイエス様の本当の弟子になっていくということについて話しています。それが塔を建てることと一緒ですよ、ということを言っています。そして、

ルカの福音書 14章33節〜35節、
『あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。』

と、イエス様はおっしゃっているわけですけれども、ここで私が、「イエス様がこうおっしゃっているので、みなさん、この神の宮である教会のために、全財産を捧げて献金してください」とでも言ったら、みなさん、この教会から逃げて行ってしまうと思うんですけれども、実はそういうことを言っているのではありません。

 ここで言う「財産」とは、文字通りの経済的なものもあるかもしれないのですが、そうではなくて、26節の最初のところでイエス様がお話しされているように、家族や自分自身のこと、まとめて言うなら、冒頭で、「立っている」という、あなたが立っている場所、すなわち「あなたの立場・あなたの居場所」それを捨てる、すなわち主に捧げること、それをイエス様がおっしゃっているのだと思います。

 あなたがもし主婦として立っているなら、その場所を主に捧げ、会社員として立っているなら、その場所を主に捧げなさい。学生として立っているなら、その場所を主に捧げなさい。教会にいる時だけではなくて、私たちひとりひとりが置かれているその場所を、主に捧げきってしまわないならば、あなたは弟子となることはできませんよ、という風に、ここでイエス様がおっしゃっているのではないかと思います。

 あなたが立っていると思っている所は大丈夫でしょうか?

 先ほど、僕の前で五名の牧師先生が、素晴らしい御言葉を語ってくださって、みなさんは来年に対して希望を持たれたのではないかと思います。「来年は素晴らしい年になるんじゃないかな?」と。
 神様が働いてくださる。癒しの御業が起こる。来年はリバイバルの始まりを見る事ができる!と、思ったのではないかと思いますが、その一番始めは、やはり私たちの側から、私たちの置かれている場所から私たちが見直して、そこを神様にささげて行く時に、リバイバルは、力強く進んで行くのではないかと思います。

 それが、私が来たるべき2011年に、神様から与えられていると信じている御言葉です。
 立っている所、立っていると思っているその思いは本当に大丈夫なのですか?という問いかけをこの機会にお互いにして、そして、リバイバルのために前進して行きたいと思います。

 最後にこの御言葉を読んで終わりにしたいと思います。

ユダの手紙 1章20節、
『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、』

 「信仰の塔を建て上げよう」というのが、私のメッセージのテーマであります。中途半端にならないように、最後までしっかり建て上げられるように、お互いに励んで行きたいと思います。