HOME > 2010年バックナンバー > 12月 > メッセージ2010年12月26日

「人生は出会いで決まる」

2010.12.26(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

ルカの福音書 2章1節〜11節
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。


 ハレルヤ!みなさん、クリスマスおめでとうございます。今日はすでに26日ですが、クリスマスをみなさんと共にお祝いができますことを、心から感謝しています。
 一年早いものですね。来週はもう新年になってしまうわけですが、今年も一年間、いろんなことがあったかもしれませんが、こうして今年最後の日曜日を、主の誕生を祝いながら締めくくる事ができて感謝します。
 先週も、クリスマス集会があり、みなさんにも参加していただきました。どの集まりも祝福された集会となりました。クリスマスの集まりを通して、人々がイエス様と出会い、新しい人生を歩んでいただきたいとせつに願って行いました。

 キリスト教は、世界の三大宗教だとか四大宗教だとか呼ばれ、その一つに数えられるのですが、決して宗教ではありません。
宗教には「教え」があるのですが、その教えの元となるのは、「神話」です。日本神話なんかを見てみても分かるように、およそ信じることのできない神話が根底にあります。仏教にも経典があるのですが、それも、釈迦が書いた経典ではなく、釈迦が死んでから500年後くらいに、ヒンズーの僧侶たちが瞑想の中ででっち上げたような物ばかりです。しかも、その中身をチェックしようと思っても、全く不可能な代物ばかりです。
 しかし、聖書のストーリーは、ほとんどの部分が検証可能です。キリスト教とは、宗教というよりも、「歴史そのもの」なのです。
 今日読んだ箇所は、ルカ2章の、イエス様の誕生の前後をレポートした箇所ですが、実はこのルカという記者は、どのように断ってルカの福音書を書き始めているかというと、ルカ1章3節、

『私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。』

綿密に調べ、順序立てて書いていると告げています。続いて、1章4節、

『それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。』

 イエス・キリストの誕生は、歴史的事実だと告げているのです。最初に読んでいただきました箇所にも、ルカ2章1節〜2節、

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。』

 ここでも、イエスさまが生まれた、その時代背景をしっかりとレポートしています。実際、イエス様がお生まれになった当時について、他の角度から調べてみると、皇帝アウグストが、14年に一度、人口登録を始めた事が分かっています。ちょうどイエス様がお生まれになった当時、その時期に当たっていました。クレニオという人物がシリヤの総督であったのも事実であり、その時代を背景にして、イエス・キリストがお生まれになった事をルカも記しています。
 最近、エジプトで発見されたパピルスの中に、ローマ政府が納税システムのためにどんな方法を使ったのかが記されていました。そこには、「どんな理由があったとしても、家族の住民登録と人口調査のためには、誰でも、一旦自分の生まれた町に帰ることを要請する」と記されていました。
 イエス様のお生まれは、でっち上げではなく、歴史の中に生まれられたのです。人類の歴史のただ中に、救い主がお生まれになったのは事実です。ゆえに、キリスト教は、宗教というよりも「歴史そのもの」だと言えるのです。

 そんな時代背景の中で、羊飼いたちが夜番をしながら羊たちを見守っている中、救い主のお生まれが告げ知らされたわけです。羊飼い達は、御使いが告げた言葉に従ってベツレヘムへ行ったら、言われた通りの赤ん坊がそこにいました。そして、その方こそ「救い主」であったのです。そして、イエス・キリストと出会い、人生が変わったのです。

 今日のメッセージのタイトルは、「人生は出会いで決まる」というタイトルをつけさせていただきました。聖書の記述は、キリストとの出会により、人生が変わるというストーリーです。
 「人生は出会いで決まる」という言葉は、一般でも有名です。それは、オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者の「マルティン・ブーバー」が「人生は出会いで決まる」という言葉を使って、有名になったからです。

 人生も考えてみれば、やはり、出会いで大きく左右されるのではないでしょうか。みなさんも今までの人生を振り返えれば、すでに結婚されている方も多くおられますが、奥さんなら、ご主人と出会った瞬間があったはずです。それは良かったですか?悪かったですか?今、いろんなことを考えていると思いますけれど。
 「あの出会いの瞬間さえなかったら、私の人生はもっと変わっていたのに!」とか、いろいろあると思います。

 私も考えてみれば、自慢じゃないですが、小学校3年までは勉強が良く出来ました。小学校3年では、全然自慢にもなりませんけれども、朝の漢字の小テストはいつも百点でした。私の母親は父兄会に行って鼻高々でした。うちの母親はああ見えても、昔は大学の先生なんかをやっていましたから、結構、教育ママゴンでして、私は長男ですから、結構勉強を教えてもらいました。だから私も一生懸命、勉強をやっていました。
 しかし、私の人生がおかしくなったのは、小学校4年生からです。なぜなら、この地域に引っ越してきたからです。私は最初、新城の街中に住んでいたシティ・ボーイでしたが、なんとこの田舎に引っ越したからです。それで本当にびっくりしました。
 近くの友達の家に呼ばれて、カレーライスを食べた時、本当にびっくり仰天でした。カレーライスほど、各家で文化の違う食べ物はありません。なんと、カレーライスに、肉の代わりにハンペンが入っていました。我が家は鳥の肝が入っていましたが。「田舎に来ちまったな〜」と思いました。

 また、この辺には、勉強を真剣にするする人があまり多くいませんでした。子ども達は野山を走り回ったり、まるで山猿の集団のようでした。また私は悪い友達と出会ってしまい、そのグループに入ってしまいました。それからは転落の一途でした。全然勉強が出来なくなりました。
 「あの時に、あいつと出会わなかったら!」という感じです。特に、この近くに住む頭文字がOの男と出会ったのがまずかったわけですね。「あのまま新城の街中にいたらよかったのに!」とか、いろいろ考えます。
 みなさんにもいろいろとあったと思います。人生とは、出会いで大きく左右するものです。幸せにもなるし、不幸にもなるのです。

 しかし、幸せになる条件は、「神と出会わなければならない」というのが、聖書の主張です。私たちが天地宇宙を造られた、私たちをも造ってくださった神と出会うなら、必ず、幸せになることが出来るのです。
しかも、その神様と友達になれるのです。教会に来ますと、新しい友人を多く得ることができます。やはり人生の中では、友達も選ばなければなりません。さっきも語ったように、勉強しない友達と出会うと、勉強をしなくなるし、不良少年なんかと出会うと、人生がおかしくなっていくわけです。
 聖書も語っています。第一コリント 15章33節、

『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。』

 ここにも、多くの子供たちが居ますけれど、教会で、まずは神様と出会って、そして、良い友人達をつくって、素晴らしい人生を送って欲しいと思います。
 私たちはイエス様と出会うと、イエス様と友達になれるのです。ヨハネ15章15節、

『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』

 なんとイエス様と私たちと友達関係になるのです。イエス様は、救い主であり、また創造主ですから、その方と友だちになったら、幸せになれないはずはありません。

 そもそも、人類が最初に出会った存在は、天地宇宙を造った神との遭遇でした。それが人類の最初の出会いでした。その出会いは、素晴らしい祝福をもたらしました。そのことが、創世記1章に書かれています。
創世記 1章27節〜31節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。』

 実は、神が造られたものは、全てが「非常に良かった」と言うのです。まず最初に人類が神と出会った時に与えられたものは、「非常に良い」ものでした。これが原点です。
 彼らはどこに置かれたかと言うと、エデンの園という、地上のパラダイスに住処が与えられ、生活が始まりました。
 「神との出会いが、人類に幸せをもたらした」というのが、聖書の最初に述べている出会いです。それは、現代人にも良いものを与えてくださるということを教えています。

 しかし、最初の出会いだけの友人関係で進んで行けば良かったのですが、実は「第二番の出会い」がありました。それが何かというと、創世記3章から記されています。
 これも一つの存在との出会いでした。最初の霊的存在は、神と出会いでした。二番目の出会いも、霊的存在との出会いでした。それは、蛇と表現されていますが、実はサタンでした。この蛇とは、霊的世界に生息する生物でした。創世記 3章1節〜6節、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』

 二番目の出会いは、蛇との出会いでした。これは、普通の蛇と出会ったのではなく、象徴的表現で、目に見えない霊的存在、サタンとの出会いでした。
 実は、人生は出会いによって決まるというのは、目に見えない存在との出会いによって、人生の方向性が変わることを教えています。天地宇宙を造った神と出会うなら、全ての良いものが手渡されるけど、蛇と出会って蛇の言う事を聞くなら、その後、何が起こったのかを聖書はレポートしています。創世記 3章23節、

『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。』

 せっかく、神が人間をエデンの園に住まわせてくださったのにも関わらず、そこから追い出されてしまったのです。あの時、蛇と出会わなければ、蛇の言う事を聞いて、善悪を知る木から実を取って食べなければ、人類はずっとエデンの園に住むことが出来たはずです。しかし、そこから追い出されたと言うのです。

 神様は「その実を取ったて食べたら死ぬよ」と言われましたが、蛇は言いました。「いや。死なないですよ。神のようになれるんですよ」と。最初の人類はそっちの言葉を信用しました。
 しかし、アダムとエバが取って食べた時、ころっと死んだかと言うと、死にませんでした。食べた時、何も起こらなかったので、「神様は嘘を言ったのかな」とアダムとエバは思ったかもしれません。けれども、死がどこに出てきたかと言うと、創世記4章を見る、創世記 4章8節〜12節、

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」』

 蛇と出会った後、アダム家は大変なことになりました。不幸のどん底に転げ落ちて行ったからです。何が起こったかと言うと、カインとアベルという二人の息子がいたのですが、兄のカインが、「アベル、ちょっと来い」と言って、弟を呼び出して、人類史上初の殺人事件が起こったのです。なんと、カインによってアベルは殺されてしまったのです。
 「その実を食べたら死ぬよ」と言うテーマが、現実の死となって現れたのは、アダムよりも、自分の子供たちの世代でした。罪の結果が、自分に現れるのならまだしも、子供の世代に現れるのは、本当に、深く考えなければならないテーマです。
 その後もさらに蛇との出会いと罪の結果が、現れています。血が流されたゆえに、土地に呪われたというのです。いくら土地を耕しても、なかなか作物が生じませんでした。
 ある意味、人類の歴史は血を流す歴史の連続です。その結果として、土地が力を失っているし、土地に呪われています。日本人は、そういうところに案外敏感なのかもしれません。「なんか土地に呪われているんじゃないかな〜」と。
 この近所は設楽が原の戦いが、1975年にあり、数時間の戦闘で一万数千人の人たちが殺された、血が流された場所です。ここに住む人たちは「なんか呪われているようだね」と皆、感じています。これは、そもそもアダムの罪の結果であり、その根源に「蛇との遭遇」がありました。
 そればかりか「さすらい人となるのだ」と言われましたが、人類の歴史はさすらいの歴史です。初めはあのエデンの園に住んでいたのが、やがてバベルの塔の事件も重なり、人類は世界中に散らされて行きました。
 私は今年、いろいろな国に行かせていただいたのですが、世界の国々に行くと驚くことがあります。私は、来年の1月、またペルーに行くのですが、ペルーの教会に招かれて、3日間、魔法使いが何百人もいるような街で、霊的戦いの集会を行います。そこに行くと多くのピラミッドがあります。それはエジプトの時代よりも古いピラミッドです。誰が作ったかと言うと、東洋から渡って行った人たちです。「この近所の人」というと、余りにもアバウトかもしれませんが、アジアの人たちが何千年も前に、南米大陸に渡って、そういう建造物を多く作ったのです。「へ〜、こんな所まで来たのか?」と、びっくりします。
 南米の先端はチリですが、向こうは南極しかない場所にまで散らされたのです。そこには今でも、ヤーガン族というアジア系のモンゴロイドと呼ばれる人たちが住んでいます。信じられないですが、人類は「さすらい人」となったのです。
 蛇との出会いが、家の中に争いを起こし、死にまで導き、人々をさすらい人にする、悪い結果をもたらしたわけです。

 誰と出会わなければいけないのか?それは、天地宇宙を造り、私たちを造ってくださった神様と出会えばいいですが、目に見えない悪しき存在、サタンと出会うと、その結末は、大変悲惨な結果であるわけです。
 しかし、クリスマスとは、何を表しているのでしょうか。一度神様と出会って、幸せを頂いた人類が、その後、蛇と出会って幸せを失ったのですが、もう一度、神と出会う道が作られたのがクリスマスです。それは神との遭遇の第2弾というか、回復の時であったのです。
 イエス様の誕生の記事がルカ2章に記されていましたが、それは羊飼いたちが、通常業務のただ中で、救い主の誕生を知らされたというものでした。それは超自然的出会いでした。一般的に言えば「霊体験」のようなものです。普通に仕事をしているただ中に、光がぱーっと照って、天使が現れ、救い主の誕生が告げ知らされたわけですから、それは霊的存在との遭遇です。
 しかし、それは、一度失った神との出会いの回復であり、その瞬間でした。

 誰と出会うべきかと言ったら、救い主と出会うべきであり、もしも蛇との出会があったら、その行く末は、本当に悲しい結末です。
 先週はクリスマスフェスティバルがありましたが、ちょっと怖い話をしました。日本人は、怖い話が案外好きなところがあります。
 私は近ごろ、ある人から本当に怖い話を聞きました。

 今から30年くらい前の話だそうですが、ある場所に遠足に行ったそうです。そこには大きな岩があって、石仏や観音なんかが祭ってある場所でした。学校の遠足で行ったそうです。そして最後に、みんなで記念撮影をしたそうです。「はい、ピース!」なんて言って楽しく写真を撮りました。
 しかしその写真を現像すると、なんと、恐ろしい事に、心霊写真が写っていたと言うのです。みんな学生服で写っていたのに、その人の隣に、戦時中のよれよれの服を着た、ネームプレートを布で縫い付けたような、少年が立っていたと言うのです。それを見て、ぞっとしたと言いました。その後、心霊写真の少年の前に立っていた人が、悲惨な交通事故で死んでしまったそうです。
 そのことが気になって、30年くらい経ってから、もう一度その場所に行ったというのです。「あの時に、あの岩神様をよく拝まなかったから、ああいうことが起こったのかな」と思って、30年以上も経って大人になってから、わざわざその場所に行って、「あの時、拝みが足らなかったかもしれません。すみません」とか言って、拝んできたみたいです。
 それから山を下りてくると、帰り道に、なんと30年前、心霊写真に写っていた少年とすれ違ったというのです。ぞーっとしたそうです。
 まっ、まさかと思って、怖いもの見たさに振り返ったら、なんと少年も振り返って、にやっと笑ったと言うのです。心霊写真の少年と目が合ったと言うのです。こんな話をしたら、今晩、寝れなくなっちゃいますよね。

 しかし、その遭遇の後、その人を不幸が次々と襲ったのです。突然、大きな病になって倒れ、鬱病にもなり、毎日、死にたい思いに支配され、会社の人間関係もぐちゃぐちゃになり、どうにもならなくなったというのです。毎日考えることは、死ぬことばかりだったと言うのです。
 その大岩の前で遭遇した存在は、決して、神ではありません。30年前に、学校の先生が生徒たちを連れて、「ここには神様がいるからちゃんと拝め」と言って拝んだのです。それは神ではなかったのです。実は、それが蛇との出会いでした。蛇との出会いが、アダム家に不幸をもたらしましたが、同じ様な結果が、彼の人生にも現れたのです。

 しかし、その人はつい最近、教会に来られ、なんとイエス様と出会いました。それも、イエス様が目の前に出て来て、「わしはイエスだ」なんて言ったわけではありませんが、教会に来ている内に、イエス様と出会ったのです。
 そして気がついたら、それらの問題は全て解決していたのです。

 アダムとエバが、最初に神と出会い、次にサタンと出会って不幸になりましたけれど、それはアダムとエバの問題ではなく、我々も同じです。
 元々、私たちは神によって造られた存在ですが、どっかで蛇と出会っているのです。知らない内に、蛇と出会っています。霊的存在について気づけば、なんとかなる可能性があるけれど、知らない内に蛇と出会っているものだから、結果だけ人生の中に現れるのです。
 クリスマスは、何かというと、蛇と出会って真っ暗闇の中に落ち込んだ人々を救い出すために、神がこの地上に来てくださった日です。

 もしも蛇と出会って、大変な道を歩んでいたとしても、今日、イエス様と出会うなら、新しい道が用意されます。全員がイエス様と出会って、帰っていただきたいと願います。

 でも、「どうやって神様と出会えばいいの?」というのが、現代人の疑問ではないかと思います。
 先ほど、「人生は出会いで決まる」という言葉は、ブーバーが語った言葉でもあると話ししました。彼はユダヤ人ですから、たぶんユダヤ教徒で、クリスチャンではないと思うのですが、案外鋭いことを語っています。
 彼は、「宗教は、神について語ることではなく、神に語りかけること」と定義し、特に、「聖書の一番中心的なメッセージは、人間と神との対話にある」と語りました。そして、「人間はあらゆる出会いにおいて、神から語りかけられている存在であり、常にこの語りかけに対して自らを開き、自らの全存在を持って応答する用意が出来ていさえされば、そのことに気づくはずだ」と語りました。

 人間とは、人生の全ての状況の中で、神からの語りかけを受けているというのです。我々が準備をして、心を開いたら分かるはずだと、この宗教哲学者は語っているのですが、それは本当だと思います。神の語りかけは、常に人類の上にあるのです。旧約聖書の時代から、今まで見てみても、神は常に人類に語りかけられています。

 しかし、どういう形で語りかけているのかと言うと、それは「愛」という中で語りかけておられるのです。「愛」は、投げかけても、相手に受け取る準備がなかったら成立しません。
 私が結婚する前、家内に愛を投げかけたのですが、始めは全然受け取ってくれませんでした。がっかりしました。もうあきらめようかと思ったそんな中、奇跡が起こりました。彼女が反応してくれたわけです。それで、愛が成り立って、今や結婚して、もう30数年です。私は家内と出会って感謝しています。家内もそう思っていると信じています。
 人生は出会いで決まるのですが、愛は、投げかけても向こうが準備していないと、どんなに大きな愛で愛しても、嫌がるのです。うざいとか、気持ち悪いとか、本当にひどいことを言う人もいます。そんな事は家内から言われなかったと思いますけど、準備ができていないと、全然駄目なわけです。

 神との出会いも同じです。神は私たちに、大きな愛を投げかけてくださっていますが、我々が準備されていないと、その愛を知ることもできないし、神との出会いも不可能です。イザヤ書 43章4節、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 イエス様は、この地上に来て、人類の罪の身代わりとなって、十字架で命を捨てて下さいました。人類というよりも、「私の」罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さり、甦って下さったわけです。
 そんな大きな事をして下さったのにも関わらず、イエス・キリストに全く関心を示さなければ、命を懸けて愛してくださっていても、その愛を知ることが出来ないばかりか、出会うこともできないのです。
 少なくとも、教会に来られたのは、イエス・キリストに少しでも興味がなかったら来なかったと思います。
 今日、初めて教会に来られた方もいるかもしれませんが、それは「おめでとうございます!」ということです。神の愛にあなたが反応さえすれば、神と出会うことができるのです。「この愛は真実かもしれない」と、心を開いたならば、神との対話が始まるのです。
 今日、ここにおらる全ての方が、神と対話できます。そしてイエス様はあなたと友達になりたいと言われていますから、友達になることが出来るのです。

 同時に、クリスマスは、「愛の実践」の日でもありました。なぜならば、父なる神がひとり子イエス様をこの地上に与えたという、愛の実践の日でもあったからです。
 神と出会うのは、どこで出会うのかというと、愛の実践の中で神と出会うことが可能、というのが聖書のメッセージでもあります。マタイ 25章35節〜40節、

『「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」』

 神の愛を受け取る時、自己中心的な人生から、今度は他の人たちを思いやる、「受けるよりも与えるほうが幸い」という、人生に変えられるのです。
 そんな中で、私たちは知らない内に、生活のただ中で、イエス様が語られたように、イエス様と出会うのです。
 空腹の人にご飯をあげたり、渇いた人に飲ませたり、旅人を泊めたり、また牢屋にいる人を見舞ったり、また、病気の人や、苦しんでいる人たちに、イエス・キリストによって愛の手を差し伸べる時、そこでイエス様に出会うのです。

 実はトルストイという有名な作家がいますけれども、彼が大変有名なストーリーを書きました。それは、みなさんよくご存知の「靴屋のマルチン」という話です。2006年のメッセージで私はそれを引用したのですが、2006年だからもう忘れているだろうな〜と期待して、もう一度語るのですが、実は「靴屋のマルチン」は、日本名タイトルであり、本当の題名は、「愛のあるところに神もある」というのが、正しいタイトルだそうです。愛があるところに神様もいますよ、という事です。
 トルストイの靴屋のマルチンとは、先ほど読んだマタイの25章を題材にして、彼は小説を書いたわけです。
 前にも一度朗読したことがあるのですが、神との出会いは、愛の実践の中にある、ということを、クリスマスは知るべきではないかと思います。

 今日は、私が朗読したいと思いますが、クリスマスですから、BGMなんかも付けてもらって、靴屋のマルチンを滝元順の朗読でお届けします。

 靴屋のマルチンじいさんは、一人ぼっちでさびしく住んでいました。最愛の妻は早くに病気のために死にました。それからは残された一人息子と二人で生活をしてきました。ところが、その息子も病気のために死んでしまったのです。

 マルチンは何のために生きているのか、今は生きる望みもありませんでした。
 ある日、いつものようにマルチンが仕事をしていると、入口から見かけたことがない人が入って来ました。その人は旅を続けている老人でした。どうしたことか、マルチンはこの老人に自分の受けた不幸を話し、自分は何のために生きているのか分からない、神さまなんかいない、と語りました。老人は、マルチンの話を泣きながら聞いてくれました。老人は「それでも神さまはあなたのことをご存じですよ」と言いながら、聖書を一冊残して、これを毎日読み、神さまにお祈りをすると、きっと幸せになると言い残して去っていきました。

 マルチンはそれから一生懸命に神さまのことを考えました。それから聖書を、毎日一生懸命読んで、神さまがもし本当におられるのでしたら、わたしの所に来てくださるように、と祈るようになりました。

 ある晩のこと、遅くまで聖書を読んでいると、たしかに誰かの声を聞いたように思いました。
「マルチン、マルチン、あした、通りをよく見ていなさい。お前の所に行くからね!」
 マルチンは目をこすると、驚いて立ち上がりました。これは夢だろうか。それとも本当に神さまのお告げなのだあろうか。

 翌朝、マルチンは昨晩の夢を思い出しながら、神さまを迎えるために、ストーブに火をつけ、お揚をわかし、部屋を温かくしました。それから、仕事を始めました。しかし、夢のことが気になって、なかなか仕事に身が入りません。目が通りの方ばかり見ています。いつもはあまり通りを見ていませんでしたが、こうして通りをよく見ていると、いろいろな人たちがいます。

 その日は特に寒い日でした。やがて通りの雪かきをするステパノおじいさんが、寒そうに歩いて来ました。マルチンは、久しぶりにステパノじいさんに、温かい紅茶でもご馳走しようと思いました。ステパノじいさんは、うれしそうに、マルチンの家に入ってきました。それで、温かい紅茶とクッキーとを出してあげました。

 しばらくすると、赤ちゃんを抱いた女の人が、この寒さの中オーバーも着ないで通りを歩き、マルチンじいさんの窓の側に来て、うずくまってしまいました。知らない女の人でした。それを見て、マルチンは、大急ぎで声をかけ、二人を家の中へ入れて、暖炉の側に座らせました。「暖まったら、赤ちゃんにお乳を飲ませなさい」と声をかけ、台所に行って、朝からお客さん用に準備をしたパンとシチュウを食べさせました。

 そしてマルチンは、自分の持っているオーバーをその女の人にそっと着せてあげました。

 夕方近くになりました。マルチンの店の前を、いろいろな人が忙しそうに通り過ぎていきます。しかし、天使らしいもの、神さまらしい人は通りません。じいさんは、昨晩の出来事はやっぱり夢だったんだ、と思い始めていました。

 あたりが暗くなりかけた頃、一人のおばあさんが、マルチンの窓の前に、「どっこいしょ」という声を出し、重そうな籠を肩から下ろして、座り込んでしまいました。籠にはいくつかのリンゴが入っていました。すると向こうの方から、みすぼらしい姿をして少年が歩いてきました。少年はリンゴ売りのおばさんの前に来ると、突然素早く、手を伸ばし、籠からリンゴを一つ取るとさっと逃げ出しました。リンゴ売りのおばさんは、どこからそんなに大きな声が出るのか不思議なくらい大きな声で、「泥棒、泥棒、早く捕まえて」という叫びました。マルチンは大急ぎで通りに出て、少年を捕まえました。

 そして、マルチンは、二人の間に入り、おばあさんには「許してあげなさいよ。もう二度としないだろうから。イエスさまのために離してあげなさいよ」と言いました。また、少年には、「おばあさんにちゃんと謝りなさい。もう二度とこんなことをしてはいけません」と話しました。少年は泣き出して、素直におばあさんに謝りました。
 マルチンは籠の中からリンゴを一つ取り出し、この代金はわたしが払うから、お食べ」と少年に差し出しました。

 あたりは、もう暗くなりました。マルチンはランプをともし、仕事場の後片づけをして、いつものように棚から聖書を取り出しました。

「彼は、突然、後ろに誰かが近づいてくるような気配を感じ、振り返ってみると、どうやら人影らしいものが立っています。そして、彼の耳には、こういう声が聞こえました。

「マルチン、マルチン、お前にはわたしがわからないのかね?」
「どなたですか」とマルチンは聞きました。
「わしだよ」と声が言った。「ほら、これがわしだよ」・・・暗い片隅から、雪かきのステパノじいさんが出てきて、にっこり微笑み、雲のようにもやもやとなって、消えました。
「これも、わしだよ」・・・また暗いか片隅から、赤ちゃんを抱いた女の人が出てきて、にっこりすると、赤ちゃんも笑いだし、これもじきに消えてしまいました。
「これも、わしだよ」・・・と、ばあさんとリンゴを手にした男の子が出てきて、二人はにっこりしたと思うと、同じように消えてしまいました。
マルチンの心は喜びでいっぱいになりました。

 このようなストーリーです。マルチンは、いつも靴に関心がありました。でも、神様が「通りを見なさい」と言われました。それで、いつもはあんまり通りを見ていなかったけれど、通りを見るといろんな人たちがそこにはいたのです。彼は靴には興味あったけど、靴を履いている「人」には興味がありませんでした。
 でも、人を見ているうちに、自然に苦しんでいる人、悲しんでいる人たちが、目の前に来てその人たちを助けてあげました。しかもそれが、イエス様と出会っていた瞬間だったのです。
 実は、私たちが愛を実践する時、神と出会うことを教えているわけです。
 人生は出会いで決まるということなのですが、私たちを造ってくださった神と出会うならば、幸せになることができます。けれども、蛇と出会ったまま人生が推移して行くなら、大変なことになるわけです。
 しかし、クリスマスは、神が人類と出会う道を準備してくださった、瞬間です。それも、修行したり、努力したりではなく、一般生活のただ中で、救い主と出会うことができるのです。

 羊飼いたちは通常業務の一環で、救い主がお生まれになった事実を知らされました。同じように、私たちも通常の生活のただ中で、誰かに愛を表している時、神の愛を感じる時、気づかないうちに蛇との出会いがキャンセルされ、神と共に歩む人生に変えられるのです。
 ルカの2章に、御使いたちが羊飼いたちに語った言葉があります。ルカ 2章10節、

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」』

そして、ルカ 2章20節、

『羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。』

 暗闇の中に座っていた羊飼いたちが、イエス様と出会った時、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったと記されています。
 私たちの人生も、神を崇め、賛美しながら歩みたいものです。
 一度は蛇と出会って、大変な方向に行った人類を救い出すため、神が人となって地上に生まれてくださったのがクリスマスです。それは今日も有効です。

 最後に一言お祈りします。
 イエス様に出会うお祈りをしたいと思います。ご一緒にお祈りしましょう。
 今、私が祈りますから、私の後について祈っていただきたいと思います。今日、神様の愛を感じますように。イエス様に関心を持つことができるように。そして、周りで悲しんでいる人や苦しんでいる人たちを、イエス様の名によってお助けすることができるように。そんな中でイエス様と出会う事が出来るようにお祈りしますので、私の後について、どうぞお祈りをしていただきたいと思います。

 イエス様、今日、私は、イエス様と出会いたいと願っています。イエス様が私の友人となって、人生を導いてください。
 もしも蛇と出会っていたなら、全ての契約を断ち切ってください。今日からは、イエス様と出会って、新しい人生を与えてください。神様の愛をもっと身近に感じさせてください。その愛を心から感謝します。
 周りの人たちに愛を与える者として、私の人生を作り替えてください。イエス様と出会う事ができますように。クリスマスを心から感謝します。イエス様の御名によって、祈りを捧げます。アーメン。

 私が最後に祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。御名を崇めて、心から感謝を致します。今日、このクリスマスの良い日に、イエス様との出会いについて話すことが出来たことを、心から感謝します。イエス様の出会いが何よりも重要であることをお話しました。
 この中に目には見えないけれども、イエス様がおられることを、心から感謝します。
 今日はイエス様と出会って帰ることができますように。あなたの愛を感じて、この場所を去ることができますように。羊飼いたちと同じように、神を崇め、賛美しながら帰ることができますように。
 また、この素晴らしいイエス様の愛を、周りの人たちに伝えることができるようにしてください。
 主がここにおられることを、心から感謝します。それは決して赤子のイエス様ではなく、甦って今も生きておられる、力強いお方であることを心から感謝します。
 感謝して、あなたに捧げものをします。どうぞ受け取ってください。
 イエス様の御名を通して祝福して祈ります。アーメン。