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「奥義に仕える者たち」
~教会の使命~

2011.1.30(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

エペソ人への手紙 3章1節〜11節
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。

 ハレルヤ!おはようございます。今日は、雪が降り、出かけるのがなかなか大変だったと思いますが、みなさんに集まっていただいて、共に主を礼拝できますことを心から感謝いたします。
 また、みなさんに祈っていただき、ペルーに10日間ぐらい行ってきましたが、守られて無事に帰る事ができ、心から感謝します。いつも外に出かける時に祈ってくださるということは、本当に、私たち、前線に出て行く者にとっては励ましです。また、キリストの体の中、お互いを支え合っていることを覚えます。

 今回は、ペルーでいろいろなスケジュールがあったのですが、ワッチョという町では3日間の聖会がありました。私たちをコーディネートしてくださり、案内してくださったのは下田先生です。彼は私たちの、リバイバル聖書神学校を卒業しました。
 ペルーに行く前、彼は私にメールをくれました。「いろいろと戦いがありますから、祈ってください」と書いてありました。彼は、ワッチョの聖会の打ち合わせに車で行ったそうですが、なんと3日間で2回、交通事故に会い、2度とも一方的にぶつけられたというのです。だから、祈ってくださいと言うのです。また彼は、かつて相撲とりだったのですが、昔けがをした膝の古傷が突然痛み出し、3日間くらい歩けなかったと言うのです。それで、「うまく歩くことが出来ないから、日本から杖を持って来て下さい」と頼まれました。出発の前は緊張し、祈りながらペルーに行きました。
 ペルーに行く途中、私がペルーに行っているなんて知らない、普通はあまりメールをくれない人から、「順先生。交通事故にあわないように祈っています」とメールが来ました。
 私はそのことを、下田先生に伝えました。「交通事故にあわないように祈ってると、ある人からメールが来たんだよ」と言うと、「今回はやっぱり戦いですね」と言って、みんなでもう一度、事故に遭わないように祈りました。
 彼はランドクルーザーのような、頑丈な車に乗っていて、高速道路をぶっ飛ばして私たちをいろいろな場所に連れて行ってくれたのですが、最後の夜、高速道路を走って私たちをホテルに降ろし、彼は自宅に戻ったのですが、自宅に着いたとたん、車のタイヤが破裂したというのです。それはタイヤに既に穴があいていて、止まった途端、タイヤは力尽きて爆発し使えなくなってしまったと言うのです。「先生、あれが高速道路だったら、我々、命はなかったですよ」と言われました。
やはり、とりなしの祈りによって支えられました。下田先生が、「メールをくれた人が祈ってくれたから、助かったんじゃないですか」と言われました。お互い、祈りによって支えられているわけです。

 今週も、一人ひとりに主がとりなしの祈りを与えてくださいます。「このテーマを祈りなさい」と、テーマを投げ込まれたら戦って祈りましょう。それらは、重要な祈りの課題ではないかと思います。
 私は帰ってきてから、早速、メールを下さった人に、「なんで私に突然、メールをくれたの?」と聞くと、その人は夜、急に目覚めて、交通事故が起こるのではないかという恐怖が出てきて、真剣に祈ったと言うのです。すると、突然、私の顔が出てきたと言うのです。それでメールをくれたそうです。
 キリストの体というのは、すごいです。教会というのは、イエス様を頭としたキリストの体です。各器官として私たちは体に属しているわけですから、いろいろな器官を通して情報を与えて下さいます。一人ひとりが受け取った情報を、神の前に出して行く時に、体全体で大きな勝利へと繋がるのです。そして、お互いが、お互いを支えているのです。

 さて、伝道者の書11章1節にこんな言葉があります。

『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。』

 私たちの日々の生活は、ある意味において、「水の上にパンを投げる」というような、無駄な働きに見える時があります。「こんなことをして、本当に将来に結びつくのだろうか・・・。」というようなこともたくさんあります。
 ある意味で、教会の働きというのは、水の上にパンを投げるような働きが多いのかもしれません。
 日本で、この言葉を読むと、あんパンやクリームパンを思い浮かべますが、聖書は、イスラエルで書かれましたから、イスラエルの代表的なパンは、「ピタパン」です。ピタパンをちぎって、水の上に投げるイメージです。それは鯉に餌をあげるイメージに似ています。
 水の上にパンを投げたらどうでしょうか?川の魚が来て、食べるかもしれません。海にパンを投げたら、海の魚が食べるかもしれません。魚が、パンを食べて、やがて我々の食卓にのぼることもあるわけです。
 どこからどう巡って、我々に繋がるのかわからないのです。どれがうまくいくかわからないけれど、神の霊によって示されることを行う時に、それが後に大きな祝福となって戻ってくるというのが聖書の原則です。

 今日、始めに読んだ聖書箇所は、パウロが語った言葉ですが、「私たちは神の奥義に仕える者だ」と語っています。
 「奥義」とは、どういう意味かと言うと、「ある時まで、隠されてきたけれども、明らかになった真理」です。隠されてきた真理に仕えるのがクリスチャンなのです。
 それが具体的に何んであるかというと、第1に、エペソ人への手紙3章6節、

『その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。』

 実は、旧約聖書から新約聖書に至って見渡すと、旧約聖書は、大変民族性の強い宗教のように感じるのかもしれません。神は初めユダヤ人と交わりを始められたからです。今でも、イスラエルに行くと、ユダヤ人は、本当に民族性の強い人々です。
 あのユダヤ人の中に起こった出来事が、まさか、異邦人と呼ばれる人々に分け与えられるなんて、予想だにしない状況が旧約聖書にはあるわけです。
 しかし、あの民族性の強い宗教のように見える旧約聖書の世界が、やがて世界の国々に向けて発信されていくというのは、本当にミステリーだと思います。

 人間というのは、一つの枠組みの中に固まりたい性格があります。
 昨晩も、サッカーがあったみたいです。サッカーは民族主義、国家主義に繋がりやすいスポーツであると言われます。みなさん、どうでしょうか?日本人ならば日本のチームを応援するじゃないですか。なんで、応援するんですか。応援した人には、1万円ずつお小遣いをくれますか。別に何をくれるわけでもないのですが、日本が勝ったら、「日本万歳!」と大興奮するのです。今日は、昨日の試合を見すぎて眠たいという人もいるのではないでしょうか。勝ったら大喜びをして、川に飛び込むような人もいます。
 ある意味で、人間は一つの集団に固まっていると、なにか安心する動物なのかもしれません。

 しかし、聖書の奥義は、ただ単に、ユダヤ人たちの中だけの救いではなく、やがてそれが世界に向けて発信されていくというものでした。それは奥義であり、ミステリーです。
 どうしてそんなことが起こったのかというと、イエス様はイスラエルに生まれましたが、ユダヤ人たちがイエス様を放り出してしまったのです。「こんな人いらない」と言って、すばらしい真理を捨ててしまったのです。それで異邦人と呼ばれる私たちのところに、救いが転がりこんで来たのです。それは世界中を巡って、やがてイスラエルに戻るというのが、これまた一つのミステリーであり奥義です。

 クリスチャンになったら、自分だけのことを考えるのではなく、視野を広げるべきです。日本教会も、ただ日本だけを見るのではなくて、世界を見据えていくと、神の奥義がよく理解できるはずです。
 先ほども、「水の上にパンを投げよ。後になってそれを見出す」とありましたけれど、「日本人は日本人だけに伝道するんだ」とか、「新城教会は新城市だけだ!」と一つの所だけに固まってしまうと、奥義を知ることができません。
 私たちが、広い視野で福音を述べ伝えて行く時、水の上にパンを投げるようでも、後の日にそれを見出すことができると聖書は教えています。
 人生も、自分さえ良ければ良いというのではなく、得にならないように見えても、誰かのために祈り、とりなしていく時、後の日になって、意味がわかるのだと思います。

 今回、ペルーで写真を撮って来ましたので、少し、みなさんにお見せしたいと思います。午後から「ペルー宣教報告会」があります。四元雅也先生が同行し、彼がたくさんの写真を撮ってくれましたので、彼が詳しく説明してくれます。今からは私の撮った写真ですので、あまり上手じゃありませんが、少しお見せしたいと思います。

スライド1.JPG 先週の日曜日は、リマにある「日秘文化会館」で礼拝を持ちました。ペルーと日本は100年以上の移民の歴史を持っています。かつて大勢の日本人たちが、ペルーに移民しました。ですので、このように日本の施設があります。そのビルの一室を借りて、新城教会においてクリスチャンになり、ペルーに帰った方々の集会を行いました。
 前回もお話ししましたが、今から20年ほど前、この教会に二人のペルー人の方が来られるようになって、それからインターナショナルの働きが始まりました。私たちは、この田舎で、世界に向けて情報を発信するなんて、考えてもみませんでした。しかしその働きを通して、主が私たちの目を、世界に向けてくださるようになりました。
 ペルー人の方々のために働くようになって、20年ぐらい経ちました。今では、午後からインターナショナル集会があって、本当に祝福されています。
 今回は、私たちがペルーに行くということで、いろいろと帰国者に連絡をとって、「日秘文化会館に10時半に集まってください」と案内しました。
スライド2.JPG
 すると、こんなに大勢の方々が集まりました。だいたい50名近くおられました。

スライド3.JPG 集会が終わってから、記念撮影をしました。本当に嬉しかったです。水の上にパンを投げるような働きにも関わらず、こうして、新城教会で救われた方々が、信仰を守っておられるのです。ペルーに新城教会が出来ているようなものです。連絡がとれても来ることが出来ない方々もおられましたので、これでも少ない方です。少なく見積もって、リマの市内に、現在、百名以上の新城教会で救われ、今も信仰を持っている方々がいます。

スライド4.JPG 彼はカルロスという男ですが、ご存じの方もいるとは思います。今から20年ほど前、ちょうどこの辺に外国の方々が入って来た、最初の頃でした。彼は当時18歳でした。彼は日系人で、この地域で働いていました。でも、日本語も出来ず、友達もいなくてノイローゼになってしまいました。それでせっかく稼いだ金に、室で火をつけて燃やしてしまいました。
 それで彼は寮から追い出されてしまいました。言葉も出来ないし、身寄りもない、その上、頭が混乱していました。どこにも行く当てがありませんでした。20年前のことですが、私たちはそれを聞いて、彼を教会に連れて来ました。良きサマリヤ人みたいに連れてきたのです。手当てをしても、かなり精神的に混乱していました。教会に泊めたのですが、一人で泊めることができなくて、我が家に連れてきて私は彼の見張りをしながら、同じ部屋で一緒に寝ました。夜中に彼は裸になって、外に出て行ってしまったり、とても大変でした。それで、ある精神病院に行って、「なんとか彼を入院させてください」と頼み込みましたが、「外国人だから」と言って、当時はなかなか受け付けてくれませんでした。しかし、やっと入院でき、少し治療をしてもらい、落ち着いたところで、ペルーに帰してあげました。本当に大変でした。
 だから彼は本当に印象が強い人です。それから20年経ちました。
「あいつ、どうなっちゃったかな・・・」と思っていましたら、なんと今回、20年ぶりにこんなおっさんになって、カルロスが現れました。彼は家族を連れてきました。私は本当に嬉しかったです。水の上にパンを投げるもんだなと思いました。
 彼は、当時のことをよく覚えていて、「順先生。本当に、ありがとうございました。ありがとうございました!」と、何度も家族一同でお礼を言ってくれました。彼がペルーでがんばっている姿を見て、本当に私は幸せでした。神様は素晴らしいお方だと感謝しました。
 20年前、私たちは霊的戦いなんて、全くわかりませんでした。ですから、ただ出来るのは人道的支援だけでした。彼の背後には霊的なものが多くあったかと思いますが、全然、そんなことには気づかず、扱いませんでした。でも今回は、彼に解放の祈りもしてあげました。
今朝、彼からメールが来て、「先週、祈ってもらって、本当に楽になりました!」とありました。神様は、継続的に守り、支えてくださるお方です。

スライド5.JPG 今回も貧しい地域で伝道させていただきました。リマから郊外に出ますと、大変貧しい地域が広がっています。これらは倉庫ではなく、人が住んでいます。この地域に下田先生は教会を建てようとしています。私も奉仕をさせていただきました。

スライド7.JPG 夜、その地域で集会を行ったのですが、フラッシュを焚いて、明るくなっていますが、実はここには電気もないし、水もないのです。ロウソクの明かりで集会を行いました。
 集まってきた方々は、ほとんどインディオの方々ばかりで、黒い顔をしているので、全く、誰がどこにいるのかわかりません。しかし本当に良い集会でした。ここに来ているほとんどの人は、クリスチャンではありません。
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 「日本人が来たよ。集会をやるよ〜」と言うと、暗闇の中、ぞろぞろと人々が集まってきて、このように集会ができます。
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 その後、子供たちのために祈ってあげました。

スライド10.JPG ワッチョという街に行って、3日間の聖会をしたのですが、この集会は、大変祝福されました。みんな聖霊に燃えて、街を主の元に勝ち取るという集会でした。街全体が主を賛美するような街となりますようにと、皆で祈りました。
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 皆、熱心に主を誉めたたえ、主に叫んで祈っている姿です。

 これは、ヌエボ・パライソというリマの郊外にある地域です。私は今回で3回目なんですが、大変貧しい地域です。実は、3年前に初めてここに行ったんですが、ちょっとショックを受けました。
 これは、小高い丘に登っているところですが、実は、エジプトのピラミッドよりも古い時代に造られた、煉瓦造りのピラミッドです。それはかつて、頂上で悪霊を呼ぶ場所でした。3年前、私たちがこの場所に行った時、この村の人たちは、この場所を恐れていました。なぜならば、夜な夜な、このピラミッドの頂上から、白い馬に乗ったお化けが降りてきて、村中を徘徊するというのです。ある時刻になると、みんな家に閉じこもっていると言うのです。
2011-0202水曜礼拝.jpg 私は、3年前にその場所に行きました。村には、子供たちが多いのですが、そこで生まれた子供たちは、そこで生まれ、その村で死んでいくそうです。だいたい10代で妊娠して子供を産むものだから、本当に子供たちが多いのです。昔の日本のように、子供たちが道ばたに大勢出ています。
スライド13.JPG私はこの村の未来を背負っている子供たちを、ピラミッドの頂上に連れて行き、みんなで叫んで祈りました。「この村から、悪霊どもよ、出て行け!この村が変わるように!」と宣言しました。
それから毎回、私たちは子供たちを呼んで、その地域のクリスチャンも一緒に行ってピラミッドの頂上で戦い祈りました。また、下田先生は毎週、この地域に行って伝道しました。3年間で村はだいぶ様子が変わってきました。
 今回、行きましたら、今まで本当に埃っぽい所だったんですが、道がきれいに舗装されて、上下水道が村に引かれ、皆の服装もだいぶ明るく変わってきました。
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 毎回、子供たちが、御言葉の剣を主からいただき、村に投げ込む祈りをしています。長く祈ったので、あたりは暗くなってしまいました。
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 私は新城の百円ショップから、飴玉をたくさん買って持って行きます。日本の飴をあげるというと大勢の子供たちが集まるからです。今回は、雅也先生も飴を持って行ってくれたので、結構、分け前が多くて、彼らは大変喜んでいました。

スライド16.JPG 救援物資の古服なんかも配っています。私たちは今回、服は持っていかなかったんですが、他の団体が持ってきた古着を我々が配りました。どんな服でも喜んで、多少大きくても、小さくても、喜んで着てくれます。日本で古着をあげても、誰も喜んでくれませんけれど、この村の子供たちはちがいます。

スライド17.JPG 写真を見ても、道路なんか整然としてきたでしょ。昔を知らないと何とも言えないかもしれませんが、かなり整ってきました。祈り始めると、最悪な場所も奇跡を見ることができます。だから、日本でも、原則は同じだと思います。
 この後は、午後からお見せします。

 ある意味、20年間、水の上にパンを投げるような働きだったかもしれませんが、このように見い出すことが出来て心から感謝しています。
 私たちが海外のために働く時に、その結果がどこに現れるかというと、教会の中に現されると思います。

 今年も、私たちは韓国でリバイバルミッションを行うことにしていますけれど、是非とも、みなさん、韓国リバイバルミッションのためにも祈っていただきたいと思います。自分のことよりも、他人のために祈り、働くと、気がつくと、自分も祝福されているというのが、聖書のミステリーであり、「奥義」に属することであります。

 先ほども申しましたように、パウロは、「奥義に仕える者となった」と語っています。一つは、この奥義を「異邦人に宣べ伝えるようになった」ことでした。それは、ユダヤ人だけでなくて、「他の国々にも宣べ伝える」という役割でした。
 「この計りがたい富を異邦人に宣べ伝える」という世界宣教が、そもそも、神の奥義に属すると教えています。
 私たちが誰かに、イエス・キリストの救いを告げ知らせることは、実は奥義に仕えることです。まさか、救いが、ユダヤ人の手を離れて、異邦人と呼ばれる者たちの手に届くとは、誰も予想していませんでした。しかし、今では、この計りがたい富である福音を、誰にでも、自由に伝えることができるようになりました。それはミステリーであり、奥義に仕える証拠です。
誰かに伝道することは、聖書の中でも、奥義に属する領域を実行しているのです。

 先日、リバイバルミッションニュースがみなさんの手元に渡ったと思いますが、そこに有賀先生の巻頭文が掲載されていました。今回の有賀先生の文章、なかなか良かったです。私は大変恵まれました。今回の先生の文章はわかりやすかったです。素晴らしいメッセージだと思って、読みました。
 それによると、「世界宣教会議」という世界会議が、今まで何度か開催されたと書かれています。
福音派と呼ばれる世界の教会が一同に集まり、1966年、初めて、ベルリンで世界宣教会議が開催されました。その時、「福音とは何か」が論議され、聖書の中から定義づけたのが、「福音とは、魂の救い」でした。
福音とは何か。それは、魂の救いです。私たちがイエス・キリストを信じるならば、魂が救われて、やがて死んでも天国に行くことができる、魂が救われるということは、一番大切なことです。
今日、イエス・キリストを信じているならば、「魂に救いを得ている」のです。肉体はやがて滅びるかもしれないけれど、魂は救われていますから、永遠の天国で、死も苦しみも悲しみもないところで、神と共に過ごすことができるのです。地上では、悲しい別れがあるかもしれないけれど、私たちは永遠の世界で、もう一度再会できるのです。この教会で、一緒に礼拝を守ってきた兄弟姉妹が、だいぶ天国にお帰りになりました。しかし、やがて彼らとも再会できるのです。

 しかし、1974年にスイスのローザンヌで、宣教会議が開かれた時、聖書をよく調べてみると、福音とは、ただ単に魂の救いだけでなく、飢えている人たちを助ける、社会的適用も含まれるという結論を得ました。世界の教会も、徐々に御言葉の奥義に気づいたわけです。福音が、ただ単に魂の救いだけでなく、現実的に困っている人たちを助けることも、福音の中に含まれるのです。それから教会は、さらに積極的に、貧しい人々に愛の手を差し伸べるようになったのです。
ですから、アフリカの貧しい地域で働いている宣教師たちも多くいますし、ペルーなど行きますと、貧しい地域もまだまだありますので、そこに愛の手を差し伸べるような働きもあるわけです。
 「福音」とは、ただ単に「魂の救い」だけの理解は片手落ちです。社会にも愛の手を差し伸ばすことが大切です。
 先ほど、一人のペルー人の少年が精神的に混乱した時、我が家に連れて来て泊めた思い出があるのですが、大変だったけれど、あれも神の奥義に仕えることだったんだな、と今では本当に感謝しています。

 続いて1989年、フィリピンのマニラで、世界宣教会議が開かれた時、世界の教会は、さらに「福音」に対する理解が深まりました。
 1966年は、福音は、「魂の救い」だけに限定していたのが、1974年には「社会的適用」も加えられ、今度はどのような宣言をしたかと言うと、「福音とは魂の救いだけでなく、社会的適応、及び、内的、肉的な癒し、そして、霊的解放をも含む」という定義され、宣言されました。
 実は、福音が、ただ単に、魂の救いだけではなく、一般的に困っている人たちを助けるだけではなく、心の癒し、また病人のいやし、さらには、悪霊からの解放であると定義づけました。
 世界の教会は、すでに、「福音とは悪霊からの解放である」と、はっきりと宣言しているのです。
 しかし、このマニラの宣教会議の時、共同宣言を採択しようとしたとき、クレームをつけた国がありました。いちゃもんを付けた国が2国あったと言うのです。それが、「ドイツと日本」だったそうです。そんなこともあって、日本教会は、福音理解が世界の教会と比べて、狭い所があるのです。
 しかし、世界教会の福音理解のスタンダードは何かというと、福音とは、魂の救いだけでなく、内的、肉体的な癒し、また、霊的な解放も含むという理解です。そして、それを「全福音」と呼びます。
 私たちの教会は、全幅の福音を受け入れ、活動できるのは幸せなことです。それは何を意味するかというと、「神の奥義に仕える」ことなのです。それは重要な理解であると思います。

 昨年、もう一度、「世界宣教会議」が南アフリカで開催されました。福音とは、魂の救いだけでなくて、社会的適応。内的、肉体的な癒し。そして、霊的解放という理解を「全福音」と呼ぶのですが、昨年の宣教会議で世界の教会が宣言したのは、「この全福音を、全教会で、全世界に」という宣言でした。全福音を世界中の教会が、自主的に全世界に持ち運ぶ役割を負っているのです。特定の団体とか、特定の人たちがやる仕事ではなく、全ての教会が、お互い、国を超え、言葉を越え、全福音を世界中に持ち運ぶなら、やがて世界は主の元に帰るのです。また、イエス様もこの地上に帰ってこられるという理解です。
 これから重要なのは、各教会が世界を見据え、主に仕えていくことが重要です。そして今やそのような福音理解が、世界教会のスタンダードになったのです。
 それは言い換えれば、「神の奥義に仕える者」ということです。

 実は、イエス様が弟子を集めた時、どのような考えで、弟子たちを集めたかが、マルコの福音書3章13節〜15節に記されています。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 今日は、感謝なことに、礼拝の後、3名の方々がバプテスマを受けられます。私たちがイエス様を信じ、バプテスマを受けるならば、イエス様の弟子に加えられるのです。
 今日、ここにおられる方々は、皆、「イエス様の弟子」です。イエス様は当時は、12名の弟子たちから、働きを始められました。しかし今では、世界中に弟子を持っておられます。イエス・キリストを主として信じるクリスチャンは皆、イエス様の弟子なのです。

 しかし、「イエス様の弟子ってなんですか?」と聞いたら、定義は様々だと思います。
 私はいろんな所で奉仕する時に、「みなさんはイエス様の弟子ですか?」と聞くと、みんな、「アーメン!」と答えます。今回もペルーに行って、セミナーを行ったのですが、「みなさんはイエス様の弟子ですか?」と聞くと、ペルー人のみなさんは、「アーメン!」と大きな声で答えました。
 だから、私は聞きました。「さて、イエス様の弟子というのは、どのような存在でしょうか?」すると、様々な答えが返ってきました。「イエス様の弟子というのは、御言葉をよく理解して、人々に伝えることが出来る人」、「忠実に奉仕できる人」とか、いろんな定義がありました。

 しかし、私たちは「イエス様の弟子」というのを、聖書から、イエス様がどのような理解で、弟子達を集めたかを基準にしなければならないと話しました。そしてマルコ3章の13節、今、読んだ御言葉を紹介しました。
 イエス様の弟子というのは、どういう存在かというと、『それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ』、そして、15節、『悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』というのです。
 神の奥義が、福音を宣べ伝えさせることだと、パウロも聖霊から教えられました。イエス様も弟子達を集めたのは、福音を宣べ伝えさせるためであったのです。これは、奥義に仕えさせるためであったのです。
 しかし、何を訓練したかというと、「悪霊を追い出す権利を持たせるためであった」というのです。
 実は、このイエス様が弟子を集めたコンセプトからいきますと、イエス様の弟子の定義は、「悪霊を追い出す権威を持った専門集団」それが、イエス様の弟子でした。
 このような定義づけの中で、「さて、みなさんはイエス様の弟子ですか?」と聞くと、だいたい、「アーメン・・」が弱くなります。
 自分はイエス様の弟子だと思っているのですが、まさかイエス様の弟子の定義が、悪霊を追い出す専門家集団とは、あまり考えていないかもしれません。しかしイエス様の弟子というのは、悪霊を追い出す権威を持たせていただいて、福音宣教に出て行ったのです。
 実は、私たちも、このような権威を持たせていただかなければならないのです。

 先ほどの、エペソの3章に戻りますと、パウロが奥義として聖霊によって教えてもらったのは、『測りがたい富を異邦人に宣べ伝える。』ことと、エペソ人への手紙3章9節〜11節、

『また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 奥義には、いくつかあるけれど、そんな中でも、最も深い部分に位置する神の奥義は何かというと、ここに記されています。
 神様は、天地宇宙を造られた方ですから、どれだけのものを造られたかわかりません。地球だけでも、何品目造られたかわかりません。動物だけでも、本当に多くの種類がいるし、また、微生物まで含めたら、本当に数えきれないアイテムを創造されました。また、宇宙も造られましたので、数えきれない品目を神様は創造しました。
そんな中、神が一番造りたかったものは、何か?創造の中の奥義とはなんでしょうか。それをみなさん、ご存知ですか?
 最も神が造りたかったものは何かというと、「教会」だというのです。みなさん、今、私たちはどこに属しているかというと、教会ですね。教会というのは、なんと、神が一番造りたかったもの、創造したかった存在なのです。
 では、教会を、なぜ造ったかという理由が、ここに記されています。エペソ人への手紙3章10節、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためである』

 実は、神は教会を造って、何をしたかったかというと、「天にある支配と権威に対して、神の知恵を示す」というのです。
 聖書の中には、「天」という言葉がよく出てきますが、「天」という言葉が出てきたら、読み飛ばさないで、「この天ってどこだろう?」と考えたほうがいいと思います。
 「天」というと、まずは、「空」。私たちの頭の上にある空も天です。
 また、もうひとつは、「天」というのは、「天国」とか、「神の国」とか、神様が支配している場所を指します。これも「天」と言います。やがて私たちは「天」に行きます。そこは、どういう場所かというと、神が全てを支配されている場所なのです。それが天の御国です。
 この地球はどうでしょうか。もちろん神の支配もあるけれど、人間的支配もあるし、また暗闇の支配もある、いろいろな支配が入り混ざっている場所ではないでしょうか?しかし、神の国というのは、神の支配が百パーセント及んでいる場所です。
 ここに、『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵を示す』とありますが、もしもこの天が、神様の天ならば、どうでしょうか?そこは、神の知恵が百パーセント支配している場所ですから、ことさら、神の知恵は必要ありません。すでに神の知恵が百パーセント満ちていますから、それ以上、神の知恵は必要ないのです。
 ということは、神の知恵が宣言されなければならない「天」というのは、どこでしょうか。「天にある支配と権威」というのが、何を指すかと言うと、エペソ人への手紙 6章10節〜12節です。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 実は、天にある支配と権威というのは、6章10節後半の、「主権、力、この暗闇の世界の支配者たち。天にいるもろもろの悪霊」すなわち、悪魔を首領として、そこに連なる悪霊たちの王国、組織を意味しているのです。
 教会とは、なんのためにあるかというと、悪魔を親分とする悪霊どもによって構成された、霊的暗闇の組織に対抗する為の神の組織です。神の知恵によって、彼らに勝利を宣言する場所が教会なのです。
 教会は神の創造の奥義の中でも、最も深い奥義に属する存在です。教会は目に見えない敵の力を打ち破るために、神が造られたのです。
 ということは、教会がそのことに気づいたなら、悪魔と悪霊どもの組織にダメージを与えることができるのです。
 それは、世界のどの組織にも出来ない事ですが、教会だけが、その偉大な働きを担うことができるのです。

 実は、今回もペルーの貧しい地域に行って、気づくことは、これはただ単なる経済的問題ではないということです。その背後に、霊的な力が関わっているということでした。教会が、ただ社会的援助だけの視点で働いても、社会は何も変わらないのです。そこに働いている悪魔の組織に立ち向かう時、その場所は変わっていきます。
 今、日本になぜ、多くの問題があるのか?それは、背後に、悪魔とその組織が、組織的、策略的に働いているからです。
 この暗闇の組織を打ち破るために、神は、奥義の中の奥義、教会を創造し、教会を通して、天にある支配と権利に対して、神の知恵を示すと告げています。

 教会とは、新約聖書の時代になってから、突然出現する奥義ですが、旧約聖書にも教会の同一概念の言葉があります。それはヘブル語で「カーハール」という言葉です。そして、その意味するところは、「呼び集める」という意味があります。
やがて、新約聖書になって、「教会」が出てくるのですが、それを「エクレーシア」と言います。その単語を日本において誰かが「教会」と訳したのです。誰かがキリスト教の集まりに出席して、「キリスト教の集まりとはこれか。どのような単語で表現しようか?牧師が会衆の前に立って、教えているから、会衆を教える・・そうだ、『教会』がいい!」となったわけです。
 それは必ずしも、元の意味を正しく伝えているわけではないのです。

 新約聖書において、教会を表すギリシャ語は「エクレーシア」です。でに聞いたことがあるかと思いますが、実は、「エクレーシア」というのは、元々、ギリシャ社会の「議会」を表す言葉です。
しかし、この議会には大きな目的があって、主に、この議会は、「種々の軍事行動に対する作戦と、宣戦布告の決定機関」であったのです。「種々の軍事行動に対する作戦と、宣戦布告の機関」・・・それが、「エクレーシア」すなわち、「教会」だと言うのです。
 旧約の「カーハール」と、ギリシャ語の「エクレーシア」の意味をドッキングして、元々「教会」という単語にある概念を構築する時、どのようになるのでしょうか。それは、「戦いのために、呼び出された者たちの群れ」と訳すことができると思います。

 教会に与えられた使命とは、福音を宣べ伝え、悪魔と悪霊どもの組織を打ち破る働きです。それが、最も深い奥義に属する事柄だというのです。
 これは、イエス様が弟子を取られた時の概念とも重なります。イエス様は弟子達を遣わし「福音を宣べさせ」、「悪霊を追い出す権威を持たせた」からです。それはイエス様が教会を意識しておられた証拠です。
 やがて、パウロに、聖霊によって啓示されたことも、同じでした。それは、異邦人に福音を宣べ伝えると共に、もう一つは、「天にある支配と権威に教会を通して対抗させる」それが、最も深い奥義に属すると彼は語りました。そして、彼はエペソ書3章11節において、

『私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 これは、神が永遠の中で計画されたことであり、教会を創造し、福音を宣べさせ、同時に、天にある支配と権威を打ち破るために弟子たちを遣わされたのです。
 私たち、クリスチャンとは、ただ単に、社会的責任を果たすだけでなく、遣わされたその場で、目に見えない敵を打ち破るという、奥義に属する使命が与えられているのです。
 みなさんは会社、学校、家庭、様々な場所に遣わされていますが、その背後には、霊的組織が関わっていて、隠れて策略を持って働いているのです。しかし主の民には、その策略を見抜き、打ち破る権威が与えられています。それが出来るのは、クリスチャン以外にないのです。みなさんが遣わされた場所で、祈りによって見えない敵と戦う時に、その場所は変えられていきます。イエス・キリストの御名によって立ち向かう時、悪しき力は打ち砕かれるのです。それは神の計画の中で、神が最も実行したいことですから、神も共に働き、勝利を与えてくださるはずです。
 我々が遣わされた場所で霊的戦いを意識することは、神の計画の中で、永遠に属し、奥義に属する事柄であると告げています。

 是非とも、遣わされた場所で、「福音を宣べ伝え」、同時に、「背後に働いている敵の力に立ち向かう祈り」をしていただきたいと思います。
 その時、家庭は変えられ、会社も変えられ、学校も変えられ、ひいては社会も国も変わっていくに違いないと信じます。一人ひとりがそのような役割を持ち、遣わされるならば、必ず、日本も変えられる日が来ると私は信じています。

 マタイ16に教会に関してイエス様が語られています。
マタイ16章18節〜19節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

 教会は、「ハデスの門もそれには打ち勝てません」とあります。「ハデス」というのは、「悪魔と悪霊どもの住処」を意味します。教会とは、ハデスの門前に建てられているのです。
 あなたが遣わされている場所は、言い換えれば、「ハデスの門前」です。悪魔と悪霊どもの組織の面前に遣わされているのです。
 しかし、恐れなくてもいいのです。あなたには権威が与えられています。「ハデスの門もそれには打ち勝つことができない」と、約束されているからです。

 そのような使命と共に遣わされていることを意識すると、「天の御国の鍵をあげる」というのです。この地上で解いたら、天においても解かれて、地においてつなぐなら、天でも結ばれるような、天と地が連動する御国の鍵を授けて下さるのです。
 この御国の鍵をいただくために必要な条件は、教会の使命と、どのような場所に置かれているかを理解する事です。

 今週も新しい週が始まりますが、神の国鍵を受け取って、最前線に出て、福音を宣べ伝え、悪魔と悪霊どもの組織に立ち向いましょう。
 それは具体的には祈りです。祈りによって、敵の力は打ち砕かれていきます。

 今回、私たちは、ワッチョという、リマから3時間くらい北に上った町に行って、3日間の聖会を持ちました。私にとっては、その街は3回目ですが、昨年、「どうしても来年の一月に来てください」と要請されて行ったのですが、その街は魔法使いが多く住んでいて、魔術が頻繁になされています。
 街外れの小高い場所に、「魔法使いの泉」と呼ばれる湖があります。夜になると魔術師たちは小動物を抱えて来て、悪魔に生け贄として捧げ、魔術を行っています。だから、最初に行った時には、すごい重い感じがする街でした。でも、私が、「街の背後に働いている敵に勝利できるのは、教会だけだ」と話しました。それは小さな教会でしたが、牧師と会衆は霊的戦いに燃えました。
 なぜなら、彼は働きに圧迫を受けて、もう辞めたいと思っていたからです。しかしある時、神様から夢を見せられたというのです。「苦労しているでしょう。わたしが助けてあげますよ。助っ人として、アジアから一人の男を派遣してあげます」と神が言われる夢を見たそうです。そしたら、下田先生と私が来たそうです。
 その街では、毎年、ペルー全土から、魔法使いたちがスタジアムに集まり、「魔法使い全国大会」を開き、魔法比べをやるそうです。その街は魔法使いで有名なのです。今回、その街に行ったら、教会が聖霊の炎で燃えていました。今年は昨年より拡大して、幾つかの教会が集まって聖会を開きました。そして、「順先生。来年、もう一度来てください!来年は、魔法使いたちが全国大会を行う、スタジアムを借りて、街にあるすべての教会に呼びかけて、街を勝ち取る働きをしたいので、是非、来てください!」と頼まれました。「みなさんが1年間、街のためにとりなし、戦う決意があるのなら、来てもいいですよ」と答えたのですが、必ず、街は変わると信じます。

 あのヌエボ・パライソという村には、毎晩、白い馬を乗ったお化けが出て、みんな怖がっていました。しかし今回村の人々に、「この頃、お化けは出ますか?」と聞くと、「この頃は出ませんね。村が明るくなりました」と答えてくれました。それは、教会が奥義を実践したからです。

 本当に、日本中、世界中の教会が、この奥義に気づき、福音を宣べ伝えると共に、敵に立ち向かうなら、必ず勝利が訪れると私は信じています。今年、主は、新城教会に、そのことをさらに押し進めようとされていると信じます。
 教会に属するすべての兄弟姉妹が、役割を意識し、最前線に出て行って戦い、祈る時、大きなリバイバルが起きると主が語っておられるような気がしてなりません。

 最後に一つの御言葉を読んで、終わりにしたいと思います。
イザヤ書54章2節、

『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。』

 「天幕」というのは、「教会」を意味していると言われます。「場所を広げなさい。綱を長くし、鉄のくいを強固にしなさい」と告げられています。
 キャンプをやったことのある方ならわかるかと思うのですが、大きなテントを立てれば立てるほど、それを支えるためのロープと、地面に打ち込む杭が強固でないと、テントは風が吹いたら吹っ飛んでしまいます。
 私たちが、神の領域を広げるためには、「綱を長くする」、神様との関係をさらに強固にすることと、もう一つは、「鉄の杭を強固にする」必要があるのです。それは教会を地面に固定する、霊的戦いです。
同時に、鉄の杭は武器でもあります。かつて、イスラエルにおいて、デボラとバラクが協力して戦争をした時、ヤイルという女性が、敵の首領のシセラを鉄の杭で仕留めたことが記録されています。
鉄の杭を皆が持ち、敵の脳天を打ち砕く時、天幕は大きく広がり、神の国は広がっていきます。

 今年は日本に、神の国の天幕が大きく広がるように、そのためにも、私たちは綱を長くし、鉄の杭を強固にして、主の奥義に仕える者にさせていただきたいと願います。それが、また、教会の使命であることを、今日はみなさんと一緒にお分ちしました。

 いつも祈ってくださっていることによって、新城教会の働きが新城だけでなく、世界の国々にまで及んでいます。やはり鉄の杭が強固になったゆえに、神様がそのような働きを任せてくださったと感謝しています。時には、水の上にパンを投げるような働きかもしれませんが、それはやがて実を結ぶのです。なぜなら、そのパンは「いのちのパン」だからです。
今回も、本当に素晴らしい経験をペルーでさせていただきました。昼から報告会の中で、続けて証しをさせていただきたいと願っています。

心から感謝して、本日のメッセージに変えさせていただきます。一言、祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝致します。
 あなたが私たちに、奥義に仕えることを許してくださり、感謝致します。主よ、ここに属するすべての兄弟姉妹が、神の奥義に仕え、奥義を実践する者とならせてくださいますよう、お願い致します。
 福音を宣べ伝え、敵の組織を打ち破るために、遣わしてください。今週もひとりひとりが綱を長くし、鉄の杭を強固にして、遣わされている場所に、鉄の杭を打ち込むことができますように。
 十字架の血潮を仰ぎ、聖くなって一週間を始めていきたいと願いますから、どうぞ聖さん式を祝福してください。
 ここにおられる一人ひとり、また、インターネットで礼拝に出ておられる方々、世界のどの場所においても、同じ、祝福がありますように。
 今日のこの時を、心から感謝します。イエス・キリストの御名によって、祝福と勝利を宣言して、祈りを御前にお捧げ致します。アーメン。