HOME > 2011年バックナンバー > 2月 > メッセージ2011年2月6日

「この道を歩こう!」

2011.2.6(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は、みなさんと共に礼拝ができますことを心から感謝致します。
 本当に早いもので、もう2月になりました。年度末を迎えているわけですが、将来の道を選択しなければならない方も、多くおられるかと思います。学生の方は試験なんかあって、この季節はなかなか大変な季節です。
 私たちがどんな道を選択するかで、一生の方向性が変わります。選択はたいへん重要です。今日も礼拝の後、婚約式が行われます。ついに、岡本出君が婚約することになりました。石神さんと婚約するわけですが、それも一つの大きな選択です。これからこの道を歩こうと、未知の世界ではありますけれども、決断し、選択するわけです。

 みんな、人生に夢を持って選択するのですが、それが叶うとは限らないわけです。昨日もサラリーマン川柳を読んでいたら、「夢を持て。夢を持ったが夢でした。」なんてのがありました。今は、なんて言うのでしょうか、寂しい社会になってしまいました。愛も失せている時代です。「妻よりも、家電のほうがいい返事。」というのもありました。
 「お風呂が湧きました〜!」とか、家電はいつも元気です。家電のほうが奥さんより・・なんてこともあります。「うちの嫁、国産なのに毒がある」なんていうのもありました。
 「これが最良の道だ!」と選んだはいいけれど、うまくいかなかったということもあるわけです。
 人の将来はわかりません。しかし、決して動じることのない、真理の道がこの世の中にひとつだけあるのです。それが何かと言ったら、「イエス・キリスト道」です。
 今日、読んだ聖書の御言葉は、有名な御言葉です。クリスチャンだったら誰でも知っていて、知らなかったらもぐりです。
 ヨハネの福音書14章6節、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 イエス・キリストというお方は、実は、歴史的に実在した人物なのです。歴史を調べたらよくわかります。これは、架空の人物ではなく、確実に、今から2010年前、この地上におられた方です。
 この方が語った言葉が記されているのが、聖書、とりわけ「福音書」に、イエス・キリスト語録が出ています。これは、イエス・キリストを語った言葉を、誰かが聞いて、記録したわけです。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。』とイエス様は語られたのを、記録したのです。
 私はよく話すのですが、これは大変な言葉です。もしも、今日、出君が、結婚を予定している石神さんに、「私が道であり、真理であり、いのちです。私についてきなさい」と言ったら、婚約を止めたほうがいいですよ。それは、ちょっと狂っています。
 もしも、私が豊橋の駅前で、「私が道であり、真理であり、いのちです!」と大声で叫んだら、「あいつ絶対に狂ってる。春先には、ああいうのが出てくるんだよ」と言われるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、この言葉を世界中に発信し、はばからないお方なのです。ということは、みなさんどうでしょうか。ここに来られている方々は、世界で一番狂っちゃった男に自分の人生を委ねている可哀想な人たち、もしくは、本当の神に人生を委ねていることになります。これを語れるのは人間ではありません。神以外にありません。「道であり、真理であり、いのちなのです!」と語ったのですから。人間は、やがて命を落としますから、「自分が命」なんて絶対に言えません。
 ここまで言い切れるのは、頭が完全に逝っちゃっている人か、神かのどちらかです。みなさんは、どちらだと思いますか?
 二千年の間、この言葉は否定されていないのです。ということは、イエス・キリストは、もしかしたら道で真理で命かもしれないと、全人類は興味を持つべきです。
 二千年の間、イエス・キリストに命を懸け、失敗した人はいません。人々の人生が変えられ続けているわけです。
 イエス・キリストの道を歩くことは、人として絶対に必要なことなのです。

 私は生まれて気がつきましたら、牧師の息子に生まれており、今年で六十歳になります。いつからか知らないうちに、この道に入ったのですが、本当に良かったと思っています。私なんぞ、牧師の息子に生まれなかったら、今頃、何してるかわかりません。牧師の息子に生まれた故に、半ば強制的にイエス様と出会ったのは、良かったと思います。
 でも、高校生ぐらいから、私もはっきりとわかりました。「あっ、この道だ」と。この道を歩んで行こうと決断しました。
 私は、今年で60と言いましたが、みなさん、30数年前、何をやっていましたか?生まれていない人もいますが、いろんなことをやっていたかもしれません。
 私は、30数年前、グロリアシンガースというバンドをやっていました。こんな話をするなんて、「俺もついに歳とっちまったな〜」と思います。昔、私の親父のメッセージを聞きながら、「昔話が多いな〜」と批判していたんですが、ついに自分もその域に入ってしまったか、という感じなのですが。
 私は、グロリアシンガースというバンドでアルバム・カセットをいくつか出しました。昔は、レコードからカセットの時代が来て、MD、CD、DVDとなりました。私はカセット時代です。いくつかのアルバムを出しまして、2枚目のアルバムが「ひとつの道」というタイトルでした。
 私は、自分の作品は手元に何ひとつありません。過去の栄光なのです。そんなものがあったな〜と思い出しました。けれども、「この道を歩こう」という題名をつけてメッセージを考えていた時、昔、「ひとつの道」というアルバムを作ったけれど、誰か持っていないかなと思って、物持ちのいい方々に電話してみました。
 すると一人居ました。すぐ近くの田んぼの真ん中に住んでいる、伊藤家の長男であるよしやさん、彼は素晴らしいです。彼は「ひとつの道」というアルバムを持っていました。それで音源を送ってもらって、さっそく聞いてみました。なんとそこには30数年前の僕がいるじゃないですか。そこでメインボーカルをしているのが、現在ざわめき代表の滝元開です。やつが高校生の時代です。その声を聞いて、なんと幼稚な声というか、かわいいと言うか笑えました。あっ、みなさん、聞きたいですか?
 今日は、それを用意してきました。「ひとつの道」、私たちが演奏もしています。30数年前によくぞやったなという、けっこうかっこいいサウンドです。

LinkIconひとつの道

「ひとつの道」
この世の中にただひとつだけ作られた
光の道を あなたに伝えよう
イエス・キリスト この世の光
約束の国へ 僕らを導く
大きな主の愛は悩みを吹き飛ばす
大空見上げれば 心が踊るよ

この世の中にただひとつの真実は
神の御言葉 あなたに教えよう
イエス・キリスト 僕の友達
光の道を共に分かち合おう
大きな主の愛は悩みを吹き飛ばす
大空見上げれば 心が踊るよ
心が躍るよ 心が踊るよ

 さわやかですね、なかなか。30数年前ですから、皆、若かったです。でも、30数年前から、この道を歩くことができて、本当に嬉しく思います。
 この教会は、一昨日、クリスチャンになった方。昨日、今日、クリスチャンになった方。いやいや、60年前にクリスチャンになった方。70年前にクリスチャンになったと、70年物、60年物、50年モノ、10年、1日、今日、という、いろいろなタイプがそろっています。この道を歩いてきた人たちが、ずらっと並んでいるわけです。
 一人一人の人生を見ると、本当に、イエス様の道を歩のは、間違いがないとわかります。
 イエス様はこんな言葉も語られています。ヨハネによる福音書 15章7節〜8節、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』

 『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら』とありますが、これは言い換えるならば、「あなたが、イエス・キリストの道を歩むなら」という意味です。
 イエス・キリストの道に歩むならば、『何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』と。いや〜、魅力的な言葉ですね。
 叶えて欲しい事柄は、たくさんあると思いますが、「イエス・キリストの道を歩むならば」、「欲しいものを求めたら、それがかなえられます」と言うのです。イエス様の道を歩んでいるのなら、はばかることなく、イエス様にお願いをすることができます。「こんな願い事は祈ってはいけないかな、こんな願い事したら失礼かな。」そんなこと思う必要はありません。なんでも告げたらいいのです。

 祈りは簡単です。イエス様と呼びかけて、言いたい事を言って、最後に、アーメンと結べばそれでいいのです。それだけで、イエス様が祈りを聞いてくれますから、簡単です。
 そして、私たちは多くの実を結ぶというのです。私たちを通して、『わたしの父は栄光をお受けになるのです。』と。実を結ぶことによって、神が栄光をお受けになる、すなわち、我々がイエス・キリストの道を歩む事によって、神が栄光を受けてくれるなんて、そんな素晴らしい人生はないと思います。

 イエス様は、十二人の弟子を最初に選ばれて、そこから宣教活動を始められました。先週もそのことに関して触れましたが、イエス様が弟子を選んだ目的と条件がありました。先ほどのヨハネの福音書にもありましたが、『わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになる』と。この「弟子」は、どのような目的と条件で選ばれたかというと、マルコによる福音書 三章十三節〜十五節、

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエス様の弟子とは、訓練して福音を宣べさせるためでした。けれども、その時に必要な能力は、「悪霊を追い出す権威」であり、イエス様は弟子たちにその権威を授けたというのです。
 みなさん、イエス・キリストを信じるなら、見えない敵は私たちに触れる事はできないのです。それは霊的権威が与えられるからです。
 イエス様には弟子が十二人いたのですが、そんな中、ある意味で一番弟子であり、有名な弟子は誰かというと、「ペテロ」という人物でした。初めて教会に来られた方も、「ペテロ」という名前を聞いた事があるかもしれません。イエス様の弟子であったペテロは、イエス様と三年半の間、ずっと一緒でした。イエス様が十字架につけられる寸前まで、いや、イエス様が甦ってからもイエス様と会いしました。
 イエス様と行動を共にして、彼はなんと語ったかというと、後に彼はペテロの手紙第一で記しています。ペテロの手紙第一、二章二十二節、

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』

 側近中の側近がこう語ったのです。例えば、先ほど司会をしてくれた四元雅也先生ですね、彼は今週行われる私のセミナーについては祈ってくれませんでしたが、今週は、「霊的戦いセミナー」がありますので、私のためにもぜひ祈っていただきたいと思います。みなさんも参加していただきたいと思います。もしも彼が、私のことを、「滝元順先生は、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」と紹介したら、彼は大きな偽りを語っています。また、私の葬式の時に、家内が、「私の主人、滝元順は、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」とは絶対に言えないと思います。かえって、私の秘密を暴露するかもしれませんけれど。
 この言葉は人間に対しては絶対に言えません。人は近寄れば近寄るほど、「こいつは偽り者だ。罪だらけじゃないか」とわかるわけです。それは月のようなものです。遠くから見てる時は綺麗ですが、近くから見たら死の世界です。近づけば近づくほど、穴が見えるのが人間です。
 しかしなんと、イエス様に関しては、近くで、目の前で見ていたペテロが『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』と評価しました。
 イエス様は、ただの人間ではなく、神の世界から自分の座を捨て、この地上に人として来てくださった神御自身であることを現しています。また、この道を歩めば、幸せになる保証をさらに裏付けする言葉です。

 実はペテロが、なんで、『その口に何の偽りも見いだされませんでした』と、「偽り」に関心があったのかというと、彼は、人生で絶対についてはいけない大嘘をついたからです。
 それがなんであったかというと、イエス様が十字架にかかる寸前、彼は大嘘をついたからです。大芝居をうったのです。普通では絶対にやってはいけないことを、彼は平然と行ったからです。
 その事件に関しては福音書のすべてがレポートしています。マタイの福音書を見ると、イエス様が十字架にかかる寸前、一人の女性が、「あんたは、今日十字架にかかるイエスと一緒にいただろ。おまえは彼の弟子だろ」と言いました。すると、「めっそうもない。俺は弟子でもなんでもない。俺は知らん」と否定しました。そして、マタイの福音書26章73節〜75節、

『しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。』

 ペテロはイエス様に三年半もお世話になっておきながら、最後の最後、イエス様を助ける側に回らなければいけないのに、「あんたもイエスの仲間じゃないか」と言われると、それを強く否定したのです。彼らはガリラヤ地方の人たちでしたから、ちょうど私たちが東京で三河弁を話すようなものです。「そうじゃん、そうだら。じゃんだらりん」です。だから、エルサレムという都会の人たちから見たら、すぐにわかったのです。「おまえは仲間だろ」と言ったら、「俺は知らない!絶対知らない!」と、呪いをかけて「イエスなんか知らない!」と大嘘、大芝居をうちました。これは、絶対やってはいけないことです。
 普通なら、そんな最後の最後で師匠を裏切ったような人物は、後から仲間なんかに入れてもらえるはずがないのですが、聖書の素晴らしさは、イエス様は甦った後、裏切り者のペテロを、もう一度受け入れています。その罪を赦し、やがてペテロは十二人の弟子の中で重要な弟子となり、今でも一番有名です。それを見ると、神はどんなに大きな罪も赦して下さることを表しています。
 イエス様を目の前で裏切ったような男が赦されて、一番弟子となっているわけですから、どんな罪でも赦され、回復されることを表しています。
 私たちも時々、「あ〜失敗してしまった。イエス様を裏切ってしまった・・・」というようなこともあるかもしれません。しかし大丈夫です。なぜならペテロが回復して、一番弟子になったぐらいですから。悔い改めて赦されない罪はありません。イエス・キリストというお方は、真の神であり、道で真理で命というのは本当です。
 裏切ったら道がなくなるのではなく、そんな事があってもちゃんと道が備えられているのです。
 人生はいろいろあるかもしれないけれど、イエス・キリストを信じ、その道を歩んでいくならば、失敗があっても、間違いがあっても、回復してくださいます。

 彼は人類の中でも、最も大きな嘘をついた男かもしれません。それで「偽り」に関心があったのです。ですから、彼は、常にこの「偽り」というテーマが頭にありました。自分が大きな間違いを犯してしまったために、イエス様の人生についても「偽り」テーマでよく考えたと思います。「イエス様はどうだっただろう・・・」と。
 「そういえば、イエス様は、罪を犯したことはなかったじゃないか。その口に何の偽りも見出すことが出来なかった」と語ったわけです。
 そんな彼が、ペテロの手紙の中で、もうひとつの事を語っています。ペテロ第一の手紙 3章10節〜12節、

『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。』

 ここで彼が語ったことは、『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者』、これは、「幸せに過ごしたいと思う者」は、『舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず』と語りました。
 我々が、幸せに生きる秘訣は、『舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず』という条件です。イエス様の弟子とは、イエス様に習う者です。
 弟子とは、師匠の道を同じように歩む者ですが、イエス・キリストの道を歩くために、何を習ったらいいのか。多くの事を習わなければならないけれど、ペテロが習ったことは何かというと、「イエス様が偽りを言わなかった」という事でした。幸せになる秘訣は、「偽りから解放されて、真実を語ることだ」と彼は学び取りました。彼は本当にいいところを学んだと思います。
 リビングバイブルで読んでみると分かり易いのです。

『君たちは、幸せになって長生きしたいと願っているのか。それなら、自分の言葉に注意を払いなさい。どんなことがあっても、嘘をつかないことです。罪だと思うものからは、いっさい手をひき、善行を積むことによって身をいれなさい。誰とでも、平和に暮らそうと考え、そのために全力を尽くしなさい』

 このところで、幸せの原理、原則が語られています。幸せに長生きをしたかったら、何が大事でしょうか。まず第一は、偽りから離れることです。嘘を言わないことだというのです。
 日本人は、「嘘も方便」といって、「嘘は罪だけど、時には大事だ」というような仏教的な考えがありますが、聖書は違います。「偽りから遠ざかりなさい。嘘を言ってはいけません。そうすれば、あなたは幸せになれますよ」とはっきりしています。
 私たちが幸せになる道は、そんなに難しくありません。嘘を言わないで真実に生きていくことが、幸せへの道となるのです。
 今週も一週間、嘘をつきたくなる事があるかもしれませんが、真実に生きて行かなければなりません。
 ペテロもイエス様を裏切って嘘をつき、それが一番大きな心の傷となりました。私たちも、常に選択の中にありますが、真実を語っていくことが幸せへの道です。
 キリスト教の教えは、難しくありません。簡単です。案外、日頃の生活の中で、幸せになるか、不幸になるかが、転がっているのです。なにか、大きな修行をした時に幸せになれるのではなく、生活のただ中に、二つが転がっているのです。
 私も、日頃の生活の中で、聖書の教えに従い、嘘を言わないように努力しているつもりです。みなさんも今週、嘘を言わないように努力してください。

 以前にも話したことがあるのですが、ある時、スピード違反で捕まりました。「こんな所でなんで鼠取りをやるんだ」と、頭に来るような所でやっていました。30キロ制限の所を45キロぐらいで走って捕まってしまいました。すると警察官が言うのです。「印鑑はありますか?」と。捕まると思っていたわけじゃありませんから、持っているわけがありません。
 そして、次に聞かれたのが、「あなたの職業はなんですか?」でした。私は、「ぼ、ぼ、僕は、会社員です」と言ってしまいました。警察官は、「会社員」と書いていましたが、私は、「嘘を言ってしまった・・」と、すごい心を責められました。

 『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言うな』とペテロが語りましたが、彼は、自分の人生体験から出た言葉でもありました。

 この頃、夫婦の間でうまくいかなくなる原因も、だいたい嘘からうまくいかなくなる事が多いです。
 牧師なんていう職業をやっていますと、時には離婚問題とか夫婦喧嘩の仲裁とかに入ったりします。「ちょっと待った!」と審判のように入ることがあります。
 先日も、クリスチャンではない人の、離婚問題の仲裁に入りました。それは大変でした。やっぱりご主人が嘘をついていました。しかし嘘がバレてしまったのです。奥さん側もすごかったです。自分の親族まで連れてきて、ご主人を責め立てていました。それでもなお、ご主人は嘘で塗り固めていました。最後にはご主人が切れて、親族に殴り掛かりました。私は手でそれを止めたので、指がまだ痛いです。
 時々、そういうこともあります。しかしそれも偽りから発生したトラブルでした。偽りは家庭を壊します。本当に悲惨な状態です。
 でも、私は話しました。「あんたたち、このまま行ったら滅びてしまうよ。イエス様を信じて、イエス様の教えを知って、偽りから離れたら幸せになるよ」と、話して、祈ってあげて帰ってきました。

 今の時代は、偽りが多いです。しかし教会に来ると、何が正しくて、何が悪いかということがはっきりわかります。夫婦が同じ信仰をもてば結婚生活の中でも、同じ基準がありますから、うまくいくわけです。
 実は、この「偽り」とは、どこが発信源になっているのかと言うと、ヨハネによる福音書八章四十四節、

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』

 実は、現代社会の問題の根本原因は、人ではなく、もちろん人は手先として使われるのですが、根源に、偽りの父、悪魔がいます。
 この地球に限っては、この世の神である悪魔が人を操っています。どういう風に操るかというと、「偽り」で人を操るのです。
 偽りがあると、せっかくの財産なども全て騙し取られてしまうこともあるのです。この頃、「振り込め詐欺」が本当に多いです。全国では、一日に何億円も詐欺にあうそうです。信じられないと思います。なんでそんなのに引っかかるのかと思いますが、それは、まことしやかな偽りのストーリーに引っかかり、今まで一生懸命働いて貯め込んだお金を、瞬間的にそっくり取られてしまうわけです。
 振り込め詐欺なんかに引っかからないように、是非、気をつけていただきたいと思います。しかし根源に偽りの父、悪魔がいるもんだから、結構、ころっと騙されるのです。
 社会の背後に、偽りの父が強く働いているので、ああいう振り込み詐欺が横行していると思います。あのような状況を見たら、私たちは祈らなければなりません。日本の背後に働いている、偽りの父サタンが打ち砕かれるように、とりなし、祈るのです。
 我々、クリスチャンには、悪霊を追い出す権威が与えられていますから、悪魔の子分である悪霊どもが偽りの父と共に働いていますが、それらを追い出し、やっつける権利・権威があります。ただ悪いやからが働いているという理解ではなく、「偽りの父」が働いていることを知り、戦って祈る必要があるのです。

 実は、この日本という国。見かけは麗しく見えるところもあります。日本から一歩出て、外国に行くと、「日本って結構いい国だな」と思います。
 私はいろんな国に行くことが多いです。先々週も、ペルーに行きましたが、南米なんかに行きますと、まだまだ大変な所もあったりして、「本当に、日本に生まれて良かった」と思います。今回も、ペルーの貧しい地域に行きまして、みなさんにも紹介したのですが、「あ〜、私は日本人で良かったな」なんて思ったりします。
 しかし、日本というのは、表面的には麗しく、整然としていて、あまり偽りがないように見えるかもしれないけれど、実は、日本は、偽りと欺瞞で満ちた国です。
 我々はそのような国に住んで、偽りの父が見えなくなっています。しかし立ち向かっていかないと、日本に将来大変なことが起こる可能性もあるわけです。

 実は、今度、新城教会ニュースが出るんですが、そこに原稿を書きました。また、「リバイバルジャパン」という雑誌の編集長からも原稿を依頼されました。なぜかと言うと、私が礼拝メッセージの中で、ある事柄に触れたものだから、私のメッセージを読んで、そのテーマをちゃんと書いてくれと頼まれたわけです。私は詳しく勉強して語ったわけじゃないので、これはちゃんと勉強しないといけないと思って、ペルーに行く時、20数時間もありますので、明治維新から幕末に関しての本を持って行ってリマの空港に降りる直前まで、明治維新の本を読んでいました。
 しかし、いろいろと調べてみたら、本当にこの国は、偽りの多い国だと分かりました。また、そのうち、記事が出るので読んでいただきたいと思いますが、私は、新城教会ニュースのために、それを短くまとめたので、それを読んでみたいと思います。
 偽りが国全体にあることを、知る必要があるので、ちょっと読んでみたいと思います。

<教会ニュースメッセージ>
神殺しの国、日本

 日本は長く続く不況から抜け出せずに、必死にもがいています。そんな社会的状況を反映してか、昨今「幕末ブーム」が起こっています。昨年は「坂の上の雲」が話題となり、幕末の志士「坂本龍馬」にも関心が集まっています。
なぜ人々はそれまでに、幕末に興味を抱くのでしょうか。それはただ単に、テレビ番組等の影響だけではなく、今の時代状況と幕末が重なっている為でもあり、同時に、幕末の志士たちのような、強力なリーダーの到来を望んでいるのかもしれません。

昨今のブームに関して、一方では多くの警鐘が鳴らされていることも事実です。「坂の上の雲」の放映は、今まで歴史に関心が無かった若者達の心を、歴史に向けさせたと言われます。しかし同時に、「歴史は征服者によって記される」と言われるように、偽りの歴史観を植え付けられる危険性をもはらんでいるからです。「坂の上の雲」は小説であって、「歴史そのものではない」という事です。司馬遼太郎は日露戦争の前と後で時代を区分し、あたかも、日露戦争以前の日本が最も活力の満ちた、日本の理想の姿であるかのように描いています。しかし歴史とは連綿と引き継がれるものであり、区別できるようなものではありません。
 幕末から明治維新にかけて、日本は歴史上最も大きな変革を体験しました。しかし、それは次々と押し寄せる波にのまれて、深く考察されるまもなく、時代は現代にまで進んでしまいました。一体、この国に何があったのでしょうか。

 近代日本において、二度にわたって神殺しが行われたといわれます。第一は明治政府によって敢行された廃仏毀釈(はいぶつきしやく)であり、第二に、当時広く一般化していた修験道も禁止されました。明治政府は伝統的な神仏をすべて殺した後、天皇という現人神と、その祖神と呼ばれるアマテラス信仰に国民を集約し近代日本を創ったのです。それは、当時、最も注目を集めて来た、日光東照宮に祀られていた「徳川家康」以上の神を必要とした為であり、同時に国民の全エネルギーを結集し、富国強兵の掛け声とともに欧米諸国に追いつく為でもありました。

 国学者及び水戸学者が唱えた尊皇攘夷(そんのうじょうい)論は、倒幕の為の強力なイデオロギーとなりました。「伊勢は国家の総鎮守」という思想は、政治的意図を持った国家神道によって創られたものであり、その為、多くの地主神社がアマテラスを祀る「神明社」へと変更されました。
明治39年12月(1906年)「一町村一社を原則に神社統廃合を行なう」という「神社合祀令」が発布され、伊勢神宮の置かれている三重県では、実に、6500社の内9割の既成神社が破壊され、明治政府のイデオロギーに合った新しい神社が創設されました。全国では19万神社が12万社となり、国家神道を維持するにふさわしい体制へと変更されたのです。
あまり意識されていないのですが、伝統・文化といわれる多くが、近代になって意図的に創り出されたものであることを、今一度知る必要があるのです。
人民支配のために、途中で殺され、変更されたような神々ではなく、永遠に変わらない真の神に、人生をゆだねていくことが、最も安全です。
 聖書の神は私たちに次のように語りかけています。

『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。イザヤ書40章28節』

 実は日本人が「伝統だ、文化だ」と言っているもののほとんどが、明治政府によって創作されたものであるということです。
 江戸時代まで、日本では誰が一番拝まれて来たかというと徳川時代でしたから、やはり「徳川家康」でした。日光東照宮が日本一注目を浴びていました。
 当時日本は、外国との交流を全て断ち、鎖国をやっていたんですが、ちょっとだけ外国に対して窓を開けていました。それが長崎の出島と、もう一つは「朝鮮通信使」といって、今の韓国からの一団が日本に入って来ました。朝鮮通信使たちは、東海道五十三次を遡って、どこに行ったかというと、「日光東照宮」でした。
 なぜ、鎖国下において幕府は彼らの入国を認めたのかというと、「外国人たちも、偉大な指導者、徳川家康をわざわざ拝みに来ている」というのを内外に知らせるためでした。それまで日本人が一番意識していたのは、伊勢神宮ではなく、日光東照宮であり、徳川家康でした。
 しかし倒幕され、明治政府に変わったとき、江戸時代以上の強い神が必要となったわけです。それで明治政府が、「伊勢が日本の総鎮守」というシステムを作り上げたのです。
 みなさんの町にも、「神明社」と呼ばれる神社が多いかもしれません。神社の入り口にある看板を見ると、「この神社の創設期は不詳」とか書いてあって、古代から鎮座しており、すでに延喜式神名帳に名前が載っていてうんぬんと書いてありますが、ああいうのは、ほとんどが嘘で、明治維新の時に創作されたのです。お隣の三重県なんか、6500社あった神社の9割が壊されて、新しいイデオロギーにあった神社が創作されたのです。

 しかし現代の日本の人たちは、「これは日本独自の神々で、古来から信仰され、連綿と続いている神様だ」と信じていますが、すべて嘘っぱちです。
 天皇家も、江戸時代まではそんなに有名じゃありませんでした。しかし、明治政府は、将軍にかえて朝廷をクローズアップし、皇居に「宮中三殿」を新しく創り、地域の神社と連動し、祭りのシステムを構築したのです。それが国家神道です。宮中三殿は明治時代にできたものであり、「宮中祭祀」といって天皇が中心となって祭りをやるのですが、それは古代から続いているというふれ込みですが、実は全て嘘です。
 宮中では、現在、13種類の宮中祭祀があるそうですが、昔からやっていたのは、「新嘗祭」のただ一つだけだそうです。あとは、全部、明治政府が付け加えたものだそうです。本当に嘘だらけて゜す。
 明治時代に「廃仏毀釈」と言って、この辺の寺は全て壊され、神道にしようと試みたわけです。また、当時多くの信仰を集めていた修験道も禁止され、キリスト教に至っては、明治政府は江戸時代以上に迫害したのです。「五榜の掲示」という高札を立てて、強力に迫害しました。キリスト教を完全に根絶やしにしようとしました。しかし、諸外国からクレームがつき、キリスト教解禁とは言わないで、知らないうちに五榜の掲示を隠して現代に至っています。

 この国は、偽りの土台の上に建てられています。「この神様は昔からの神様だ」と、国民は信じているようでが、実は、明治時代に新しく創作されたものであり、古いものでもなんでもありません。平田篤胤という国学者の始めた「平田神道」を明治政府が採択したのです。
 時々、日本の神社は、伊勢神宮に行くとダビデの星が付いていたり、イスラエルの神の幕屋に似ているなんて言われます。「日本は失われたイスラエルの十部族だ!」なんて言う人がいますが、これは大きな騙し事に引っかかっているのです。
 実は、平田篤胤は、平田神道を作るために、キリスト教から最も多く盗用したのです。中国から、当時禁書と呼ばれていたキリスト教の本を取り寄せて、それを神道に取り入れたのです。ユダヤ教、キリスト教を参考にのです。
 唯一神について、三位一体について、また、死後の世界、また、罪の赦しまでも、導入しています。それが今の神道の根源になっています。

 そうしてみると、日本って、どうなっちゃっているんだろう。根底を偽りによって塗り固められている国です。その後、戦争が続いて、その点について深く考えないうちに現代まで流れています。
 偽りの土台をなんとかしない限り、日本は、偽りの父である悪魔に捕まえられ続けるでしょう。すでにおかしな道に入っていますけれど、将来、どうなっていくのか不安です。
 私たちクリスチャンが、イエス・キリストの道にとどまり、常に真理の眼鏡をイエス様から貸していただき、偽りを見抜く必要があるのです。そうすれば、偽りに塗り固められた国に生きていても、偽りの父である悪魔に支配されることなく、安全に生きることができるのです。

 今日、私たち一人ひとり、真理に目覚めなければなりません。聖書の神は、永遠の神であり、偽りない真理です。
 先ほども、読みましたが、イザヤ書40章28節、

『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。』

 『わたしは道であり、命であり、真理です』と語られたイエス様に、人生を預けて歩んでいくならば、決して間違いありません。今週もイエス様の道を歩んで行きたいと願います。
 私たちも唇を閉ざして、悪を言わず、偽りを語らず歩みましょう。そして、この国の偽りに関しても、真理なるイエス・キリストを宣言していきたいと願っています。

 最後に一言お祈りして、終わりにしたいと思います。今から聖さん式を行いますが、聖さん式は、イエス様を救い主として、信仰告白することであり、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、甦ってくださったことを、宣言する時でもあります。
 「まず、自分を吟味してから受けなさい」とありますから、今まで偽りが多かった、と思ったら、「イエス様、偽りを赦してください。真実に生きることが出来ますように」と悔い改めて祈り、聖さん式を行いたいと思います。先に、一言、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、父なる神様。御名を崇めて感謝します。あなたは永遠の神であり、偽りのない方であることを心から感謝いたします。
 主よ、今日は、あなたの道を歩むことについて語り、また、偽りから離れることについても語りました。私たちが偽りに負けることなく、ひっかかることなく、真実に、あなたと共に歩むことが出来ますよう、お願いします。
 私の罪をすべて赦してください。汚れを聖めてください。あなたは罪のない方であり、その唇になんの偽りもなかったと、心から感謝致します。偽りのない方、イエス様。今日はあなたとひとつになり、私の罪も赦して下さり、一週間を始めさせて下さい。
 今からの聖さん式を祝福してください。今日は、御言葉と聖霊によって、聖さん式がなされますように。今日、聖さん式を受け取る一人ひとりの上に、特別な祝福が留まりますように。
 真実な方、イエス様が今日は来てください。尊いイエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。