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「神は我らの避け所」

2011.3.27(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

詩篇46篇1節-3節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

 みなさん、おはようございます。ハレルヤ!こうして共に礼拝が守れますことを心から感謝しています。本来ならば、今日は韓国の春川から牧師先生たちが来て、メッセージを取り次ぐことになっていましたが、こんな日本の事情もあり延期になりました。それで私がメッセージを取り次がせていただけることを感謝しています。

 私は先々週、韓国に居ましたが、3月11日、日本に用事があって電話しました。すると全然繋がらず、なにか嫌な感じがしました。他の人にかけても全然繋がらないで、ビービービーという変な音がして胸騒ぎがしました。ちょうど午後の3時頃でした。すると、アメリカからメールが来て、「今、日本が大変なことになっているけど、おまえ、知っているか?」とジョー先生からメールが来ました。テレビをつけたら東北に大地震が起こっているということで、本当にびっくりして、真剣に祈り、韓国の教会にも祈りを要請しました。韓国でも日本のために真剣に祈ってくださっています。また、世界中が日本のために祈っています。
 しかし、私たちの中には「今後どうなってしまうのだろうか・・・」という恐れがあることも確かです。しかしみなさん、決して恐れないでください。こんな時にこそ、御言葉を信じて、全能の神が共におられることを堅く信じましょう。

 今読んでいただいた聖書の御言葉は、今回、神の前に出て祈った時に与えられた御言葉です。ご一緒に、大きな声で宣言して、この箇所を読みたいと思います。これは神が私たちに語ってくださっている御言葉です。力強く御言葉を心に刻んでいただきたいと思います。

 詩篇46篇1節-3節、

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ』

 『セラ』というのは、詩篇は歌ですので、音符みたいなものではないかと言われます。一拍休止とか、この箇所は強めてとかいう記号です。
 この箇所は「地震と津波」を現しているかのようです。『たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。』とあります。まさしく地震と津波のただ中の状況を現しているかのようです。けれども、『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。』と力強く宣言されています。
 どんなことがあっても、私たちは全能の神に信頼するのです。そのとき、恐れることはありません。この御言葉を心に刻んでいただきたいと願います。みなさんの中にも恐れがあって、これからどうなってしまうのだろうかと、心が揺れ動いているかもしれません。しかし決して恐れないでいただきたいのです。

 先週の月曜日まで、私は韓国にいたんですが、帰国後すぐに被災地に飛びました。昨年は東北で、「東北リバイバルミッション」を開催し、お世話になりました。私たちがよく知っている場所や教会も被災しました。私のよく知っている教会も大きな被害を受けました。それですぐに行かなければいけないと思いました。でも行く方法がありませんでした。しかし感謝な事に、リバイバルミッションで申請して、緊急車両の許可を新城警察署で出してもらいました。弟の滝元望が先に被災地に入っていましたので、私は青森まで飛んで、青森から被災地を縦断する形で、祈りと共に現場にも入って行きました。

 毎日のように報道されている光景を見て、心を痛めていると思いますが、やはり実際、被災地に行きますと、テレビなどで報道されている以上というか、比べ物にならないほどの光景がそこにはありました。
 しかし現地のクリスチャンの方々と、現場に立って共に祈り、これから現実的に何をしたら良いのかを、主に求める機会が与えられました。今日の午後は是非ともみなさんと一緒に祈りたいと思い、祈祷会を計画しました。被災された方々の為と、日本の未来のために、今こそ祈らなければならない時だと思います。
 私が先週、私自身のカメラで撮った被災地の様子を、みなさんに少しお見せしたいと思います。これを見ながら是非とも祈っていただきたいと思います。

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 ますはグーグルの写真ですが、今回私が行った地域はあまり報道されていない、仙台市宮城野区です。これが被災する前の写真です。
 こんなに多くの家がありました。しかし津波で瞬間的にこうなりました。

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 ほんの5分から10分の間に、何一つなくなったのです。

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 瓦礫の山になっています。

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 今回は緊急車両の許可をもらいました。先週は東北道は緊急車両しか通行できなかったのですが、私たちは入ることができました。
 また被災した場所は、被災者の方々しか入ることが出来ません。それで被災者の方々と共に中に入って行きました。

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 信じられないですが、川の中に家が入っているような光景があります。

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 緊急物資を教会に運びました。実は新城教会で救われて、現在、仙台で牧師をしている人がいます。それは内藤先生夫妻ですが、知っている方は知っていると思います。

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 彼の教会は、瞬間的になくなってしまいました。それで援助に行きました。
 彼は始め逃げる気はなかったというのです。奥さんが街に出ていて、ラジオで津波が来るのを聞いて、みんなその地域から逃げ出しているのに、逆走して、海辺にある教会に戻ったそうです。
 しかし彼は何もわからないので、海を眺めていたそうです。そのころ海の水が引いて行ったそうです。その頃奥さんが着いて「津波が来るから逃げよう!」と言っても、「大丈夫だよ」なんて言っていたらしいのですが、奥さんは真剣になって避難を勧めました。すると50センチぐらいの高さ津波が、教会の横の川を上ってきたそうです。そしてその後ろを見ると、映画やテレビで見るような巨大な津波が迫っていたそうです。それを見て命からがら逃げて助かったそうです。あと5分遅かったら、死んでいたと言っていました。

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 教会は土台しか残っていません。

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 私たちは牧師夫妻と一緒に、教会の跡地で真剣に祈りました。みなさんに義援金等を捧げていただいておりますけれど、何を援助することが一番大事なのかわかりません。流通が止まっていますから、物資はあっても被災者に届いていないのです。しかしだんだんと流通が回復していますので、多分、物資は大丈夫じゃないかと思います。しかし、震災後のことが一番課題になるのではないかと思います。

 このような災害が起こると、「なぜ?こんな大きな災害が起きたのだろうか?」と深く考えさせられます。みなさんにも、「?」マークが頭の中にいっぱいあるかもしれません。「なんでこんなに大きな地震が日本に起きたのだろうか・・・、なんでこんな悲惨なことが起きるのだろうか・・。一体神様はどう考えておられるのか・・・」と、はてなマークが多く点灯しているのかもしれません。
 なぜ地震が起こったのか、その最も大きな理由は、「日本は地震の国」だからです。
 日本に住むということは、「地震が起きることを前提にして住んでいる」ということを、忘れてはならないのです。もちろん地震には、聖書的な理由や霊的意味が必ずあるのですが、それ以前に、「地球という星は、そもそも地震によってできた星」なのです。そして特に、日本は、「地震国」です。
 お隣の韓国に行きますと、ほとんど地震がありません。ですから、地震がどういうものなのか体験していないので、韓国人にはわかりません。しかし、彼らがひとたび日本に来ると、日本は常にぐらぐらしていますから、地震が何かを体験してびっくりすると言います。外国の方々はそれをよく言われます。そもそも日本は前提として、「どこで地震が起こってもおかしくない国」であるということです。

 1年前に、私はここでお話したのですが、「30年以内に起こる確率」で、最も高い確率は何かについてお話ししました。
 あなたが交通事故で死ぬ確率は、30年以内に「0.2%」だそうです。
 私はよく飛行機を利用するのですが、航空機事故で死ぬ確率は、「0.002%」だそうです。飛行機事故で死ぬほうが難しいです。
 しかし地震となるとかなり確率は違ってきます。東南海地震が起こる確率は「60%」です。南海地震が起こる確率は「50%」です。
 東京に住んでおられる方もおられますが、東京の首都圏直下型地震が起こる確率は「70%」です。
 そして次に、東海沖地震です。これは我々の地域ですが、30年以内に起こる確率はなんと「87%」です。それは30年以内に確実に地震が起こることを意味します。
 この地域は、地震がいつ起きてもおかしくないのです。私たちはそういう島に住んでいるということを、まず認識しなければなりません。

 私の専攻は土木工学でした。今は牧師をやってますが、昔は土木技術者でした。大学の時、「地震学」を履修しました。習ったことはほとんど忘れましたが、ひとつだけ、その中で印象に残っているというか、ショックを受けた理論がありました。
 それが「プレート・テクトニクス理論」でした。それは全ての大陸、島がプレート上を流れているというものでした。海底にはプレートと呼ばれる岩盤があって、それは動いていて日本列島の下で潜り込んでいる、という理論でした。土地が動いているという理論を聞いたとき、そんなことは全然考えたことがありませんでしたから、「そんな事は信じられない。嘘だ。土地はずっとその場にあるものだ」と思いました。しかしプレートが動いているというのです。
 今から40年近く前、そんなことを聞いてびっくりしまはたが、それはただの仮説ではなく、現代においては科学的事実であり、「定説」です。
 次の写真を見せたいと思います。

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 日本列島を見てください。右側の方を見たら、黒い影があります。これはプレートが潜り込んでいる部分です。東北のここが震源地です。ここへ潜り込もうとしていた岩盤が跳ねたわけです。今回は500kmに渡って、海底の断層が落ちたと言われます。それで津波が来たわけです。
 もう一つ見て下さい。

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 東京の所でぶつかっていますね。また私たちの地域です。次の図を見てください。

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 これは日本列島のプレート構造について模式化したものです。これではどうにもなりません。こういう地下構造の島に我々は住んでいるのです。これは動かすことの出来ない事実であり、前提です。神が地球という星を創造したとき、このような構造として地球を創造したのです。日本列島は、世界的に見てもプレートが潜り込んでいる最も危険な場所だということです。
 聖書は、神が人類に与えた啓示の書物ですが、自然界を通して神が語る一般啓示のなかに、明らかに、地震が起こる事が啓示されているのです。我々、人類は既に、その啓示と情報を、神から受け取っているわけです。
 まず第一になぜ、こんなに大きな地震が起こったのか?それは当然のこととして、日本は構造上、地震が起こる場所なのです。ということは、私たちはそのことを踏まえて、注意深く生きることが必要です。今回、是非とも、防災意識を高めていただきたいと思います。
 海辺に住んでおられる方がいますが、やはり危ないです。海辺に住むということは、「津波が来ても大丈夫。自分でなんとかします」という自己責任があるのです。よくよく注意して、何かあった時には、すぐに逃げる準備をしておいて下さい。どこへ逃げるのが良いのか、自分でしっかりと決めておくことが重要です。

 今回も、津波が来るまである場所では30分程あったそうです。何度も何度も放送で、「津波が来ます!津波が来ます!逃げてください。逃げてください!」と放送されたそうです。しかし多くの人が逃げていないのです。そういう放送は今までにも仙台沿岸部でも何度かあったそうです。ですから慣れてしまって、オオカミ少年みたいで、「またかよ」という感じで、信用せずに逃げなかったそうです。津波が目の前に来るまで逃げなかったのです。内藤先生の近くのおじいちゃんとおばあちゃんは、「逃げましょう!車に乗りましょう!」と言ったそうですが、「私たちはいいよ、いいよ」と言って頑なに、拒否して乗らなかったそうです。それで流されて、亡くなったそうです。

 日本は地震国として、常に気をつけることが大切だと思います。それだけで、どのくらい被害が食い止められるのか分かりません。
 今回は今までの予想を遥かに超えるものであったと言われます。世界の観測史上、最も大きな地震でした。マグニチュード九という巨大地震であったといわれます。このような状況の中、東海沖大地震が起こる確率が一番高いと言われています。戦後、日本で地震が起こるとしたら、この地域に違いないと前々から言われています。それで国は1960年頃から東海沖地震に対する準備を始めています。ということは、真剣にこの地域のために祈る必要があるのです。同時に、いつ何があったとしても大丈夫のように、家族でよく話し合っておくことが大切だと思います。
 この機会に、教会も、もしものことがあったら地域の方々、また、みなさんを助けるための防災グッズを備えなくてはいけないと教えられました。
 これが地震が起こった第一の理由だと思います。

 それと共に、聖書を見ますと、さまざまな地震に関する記述があります。
 今回、こんなことが起こって、聖書が「地震」に関して、どのように述べているのかを調べてみました。今は便利でコンピューターに、キーワードを入れれば、全ての御言葉がリストアップされますから、「地震」とか「揺れる」とかのキーワードで御言葉をリストアップしたら、結構、ありました。
 先ほど述べたように、「地震」は自然現象であり、構造上やむを得ないのですが、そのような自然現象に重ね、神が人類に告げたい事柄があるのです。
 それがもう一つの地震が起こった理由だと思います。それが何かと言いますと、一つは人類に対する警告という意味があるように思います。
 東京の石原都知事がこの地震は天罰だ、と言って叩かれ、陳謝しましたけれども、やはり日本人は言わず語らず、心の中にはそのような考え方があるわけです。「近頃の世の中はちょっとまずいのではないか・・・。神が誰かわからないけれど、このままだと天罰があるんじゃないか・・・」という思いがあるわけです。被災者の方々のことを考えたら、そんなことはいえませんし、言ってはならないことです。しかしやはりそういう気持ちがあるから、そのような発言に繋がるのだと思うのです。
 このような自然現象と重ねて、神は私たちに「もう一度考えてみてください」という、自分たちの行動を振り返る機会として用いられるのだと思います。自然現象に重ね、「神の警告」が込められているのではないかと思います。
 警告がどこに対してなされるかというと、私は、教会に対してだと思います。神の声を聞くことの出来る教会が、神からの警告をしっかりと受け止めて、対処する必要があるのです。教会にはそのような使命があるのです。

 考えてみれば、昨年東北でなぜ「東北リバイバルミッション」が開かれたのか不思議です。私たちに対しても、東北の教会に対しても、神からの一つのサインだったと思います。街のために真剣に祈りなさい、とりなしなさい、というサインであったと思われます。
 リバイバルミッションの働きは、逆風もあり、いろいろと批判されたり、インターネットに変な噂を書かれたりと大変ですが、今までの働きを見ると、ある意味で預言的な働きであったと思います。
 甲子園ミッションの1年後、阪神大震災がありました。新潟でミッションを行った後、新潟でも大きな地震がありました。昨年、東北リバイバルミッションを行った後、このような地震があったのは、何らか、教会に対する警告ではないかと思います。教会が真摯に受け止め、地域のため、国のために真剣に祈る使命を忘れてはいけないという警告ではないかと思います。なぜなら教会は、地域の番人だからです。
 もちろん地震は自然災害ですから、地球物理学上やむを得ないのですが、そんな中にも、神の時と神のタイミングがあります。教会がそのサインを事前に受け取り、地域のためにどのくらい真剣に祈るかによって、初めから地球に組み込まれている自然現象も、神の手の中でやり過ごすことができるのかもしれません。
 ということは、教会が地域の門番として、真剣に祈らなければならないという警告でもあり、使命を確認するときではないかと思います。
 1992年から霊的戦いが始まって、いろんなことがありましたけれども、今まで生かされ、韓国にまで行って奉仕するように変えてくださったのは、決して偶然ではなく、使命があるからです。
 そしてこの地域のためにも、真剣に「守りの為に祈りなさい」と今、主が語っておられるのではないかと感じます。

 昨年東北でいろいろ奉仕をさせていただきましたから、東北のある教会にお見舞いの電話を差し上げたら、私の友人の牧師先生ですが、「実は去年の12月のことなんですが・・・」と話されました。
 礼拝している時に、神の霊が下って、先生の奥様、私もよく存知上げているのですが突然預言をし始めたというのです。
 どんな預言だったかというと、「大きな地震が来る。しかしあなた方が信仰に堅く立つならば、その後、大きなリバイバルが起こるだろう。」そして、もう一つは、「海岸沿いを祈りなさい」と語られたそうです。特に「三陸海岸に行って、海岸線を祈りなさい」と語られたというのです。
 「それは去年の12月のことですが、まったくその時に語られたことが起こりました・・・」と絶句しておられました。神様は神の民に情報を与えずに、事を行うはずはありません。すでに東北の教会に主が語られていたのではないかと思います。
 「海岸沿いを祈りなさい」と語られた時、実際に海岸まで出かけて行って祈ったかどうかは聞きませんでしたが、「海岸を祈りなさい」と語られたら、教会あげて、津波が来ないように真剣に祈る必要があるわけです。
 神様から与えられた、どんなに小さく見えるような情報も逃がす、落とす事なく祈ることが、自分自身の守りにもつながるのです。
 「海岸沿いを祈りなさい・・・」その情報は、この地域の海岸沿いをも祈らなければいけないと言うことです。今日、午後からこの地域の沿岸のために祈るプログラムがあります。是非とも皆さん時間のある方は出て、この国の存亡をかけていますから、祈っていただきたいと思います。

 第一に地震は、起こるべくして起こった面があります。しかし、もう一つはそれに重ねて日本に対する警告という意味もあり、特に、教会に対しての警告です。なぜなら、地震の霊的意味合いを受け取る機能は、社会の中で教会にしかないからです。教会が警告をしっかりと受け取る必要があるのです。
 そして、三番目はなにか。聖書を「地震」とか「揺れる」というキーワードで調べて、最も大きな意味として描かれているのは、「主の訪れ」という意味です。神が国に訪れるという大きな意味を持っています。私はこの意味を今回の地震を通して、掴みたいと思います。
 黙示録16章に、イエス様がもう一度この地上に帰って来ると預言されています。人類が最後の最後の場面を迎えた時、何が起こるのかが預言されています。黙示録16章17節-18節、

『第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。』

 やがて主は、この地上を治めるために帰ってこられます。その直前、人類はハルマゲドンの戦いで、血みどろの戦いを繰り広げています。その最中、かつてなかったほどの大地震が起こって、その時、主が帰って来られると預言されています。「主の訪れ」と「地震」が重なっています。
 今回の地震が、かつてないほどの大きな地震であったといわれるなら、やはり、何らかの「主の訪れ」と関連性があるのではないかと私は考えます。大きな地震があるけど、その後、主を信じる者が堅く信仰に立つならば、大きな収穫を見る、リバイバルが来ると語られたそうですが、まさに自然現象に重ねて、主の訪れの計画書が、日本に与えられたと信じる者であります。

 また、マタイ28章1節-4節を見ますと、こんなことが記されています。これはイエス様の甦りの瞬間です。イエス様が甦った時、何が起こったのか。

『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。』

 イエス様が甦られた瞬間にも、大きな地震があったと記録されています。
 ということは、地震は、ただ単に自然現象だけでなく、それに重ねて「わたしがこの国に来ました」という「主の訪れ」と重なっている現象であることを、御言葉から知るのです。

 私は二週間前に、ここでメッセージを語った時、どんなメッセージを語らせていただいたかと言いますと、「主の訪れとは、私たちが全く予想だにしない姿で訪れられる」という話をさせていただきました。あのメッセージはもしかしたら、地震を見据えて預言的に語らされたのかもしれないと思います。
 ヨハネは60年ぐらい、イエス様と共に歩んだ主の僕でした。この地上でイエス様と時を過ごした人でした。「イエス様については100%俺は知ってるよ」というような人物でした。けれども、パトモスという島で出会ったイエス様は、彼が今まで持っていたイメージとは、全く違うものでした。
 黙示録1章を見ると、『その方を見たとき、足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、アルファであり、オメガである。」』とあります。彼がイメージしていた主とは、全く違った姿で出会ったとレポートしています。

 また、ヨシュアがカナンの地に入ろうとした時に、このヨシュアも40年間、荒野で主と共に過ごした忠実な僕でありました。自分たちの神は昼は雲の柱、夜は火の柱で出て来る、そして、マナを与えて下さる方であると、彼にも、固定概念、イメージがあったのです。「神様というのはこういうものだ」と。
 しかし、カナンの地に入る直前のヨシュアが出会った主は、ヨシュア記5章13節-15節、

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。』

 カナンの地に入ろうとした時、ヨシュアと出会った主は、今までもっていた情報では判別できないお姿でした。なんと、抜き身の剣を持って、彼にとっては、「敵なのか味方なのか判別できなかった」のです。
 実に、今回、このような大きな震災に会い、本当にこれが主の訪れだとしたら、あなたは敵なんですか?味方なんですか?と叫びたくなるような心境であることも確かです。あなたは本当に日本にとって敵なんですか?味方なんですか?どっちなんですか?と。多くのクエスチョンマークが頭の中に出てしまうような出来事かもしれません。
 ヨシュアが出会った主は、敵なのか味方なのか全く判別できなかったのです。しかしその時彼は、自分の霊において主を見たのです。目の前に立っておられる方が主であることを悟り、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。あなたが言われる通りに私は行動します」と告げました。そして、彼は主の御心に従ったのです。
 私たちもこのような時、全く理解できない面もあるかもしれませんが、「主よ、あなたは私たちに何を告げたいのですか?」と祈り、主の御心に従っていくヨシュアのようでなければならないと思います。
 まさに今回、この地震に「主の訪れ」という側面があるならば、敵なのか味方なのかわからないような出来事です。しかし、聖書が語っているように、このことを通して、日本に主が訪れてくださり、私たちは主の軍の兵士として、苦しみを共にしなければならない側面もあるのではないかと、私は考えています。

 私たちは今まで、日本のリバイバルを真剣に祈ってきました。この20年ぐらい、この教会でもリバイバルを祈らない日はなかったと思います。そして、リバイバルはどのように起こるのだろうかと、いろいろ考えてもなかなか想像がつきませんでした。しかしリバイバルの前後には、何か国に起こるのではないか、何かあるのではないか、と感じていました。
 特にこの2011年、新年礼拝から、何か緊張感がありました。2011年というのは、特別な年ではないか、何かある年ではないかと、皆の心に聖霊様が語ってくださっていたと思います。やはり今回のことが、それを大きく現していると思います。
 本当に悲しい出来事ではありますけれど、この大きな犠牲を決して無駄に終わらせてはいけないと思います。これが確実に、主の訪れとなって、日本にリバイバルが起きるように、教会が霊的情報を掴んで、祈らなければならないと思います。それが、教会に与えられている使命だと思います。

 しかし地震もさることながら、更なる大きな問題が、「原発問題」です。今起こっている福島第一原子力発電所での問題は、日本が存続できるか否かぐらいの大問題です。毎日のように政府から発せられる情報で、私たちは一喜一憂しています。
 今、東京辺りまでは大変です。東京では計画停電で、毎日のように停電があって、1日3時間くらい電気がないのです。私は先週、青森に行くために、東京からしか便がなかったので、東京に行きました。東京に行ってびっくりしました。品川に夕方降りたのですが、駅は真っ暗なのです。真っ暗な中を、大群衆が無言で歩いているのです。夕方だったので食事をしようかと思っても、看板が消えているので、どこがレストランかも全くわからないのです。泊まるホテルも看板が消えていたので、駅のすぐ隣でしたが、わからなかったくらい東京は大変です。
 また、水が汚染されて、子供たちに水を飲ませることができないということで、考えられないほどの緊張感があります。
 これからどうなってしまうのかと・・・。この問題は、将来に渡っての大きな問題であり、真剣に祈らなければならないことです。それは、どうにもならない領域もあるけれど、一方では人災的な要素もかなりあると指摘されています。

 そもそも、神がこの人類に最初に与えた警告は何であったかというと、エデンの園にアダムとエバに与えた警告はただ一つでした。創世記2章15節-17節、

『神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』

 ここで神が警告されたのは、「善悪の知識の木から実を取って食べるな。食べたら死ぬ。」と言われたのです。「知識の木」から人間が実を取って食べて以来、人類に不幸が始まったのです。
 神は人に開示している情報と、神の領域の情報を区別されています。しかし人類は知識の木から実を取って食べ、神が持っている秘密さえも解き明かそうとして、その路線上で科学の発展を見ているわけです。
 まさしく、原子力の利用というのは、普通なら知らなくても良い、神の領域なのかもしれません。原子と分子と中性子がどのような働きをして物質を構成しているかなど、普通に生活していたら気づかないことだと思うのです。しかし人間の知恵が、神の秘密さえ解き明かしたのです。けれどもそこに問題があるのです。
 今、私たちは便利な時代に生きています。けれども、便利になればなるほど、その分だけリスクを抱えて生きるということを、理解しないといけないのです。私の小さな頃は、今と比べたら原始的な時代でした。けれども、今はすごく便利な時代になりました。「いい時代に生きていますね」と言いますけれども、一方では、大きなリスクを背負っているのです。

 原子力についてはまさに、そうだと思います。一方では危険性について語られても、人類は原子力発電所を作り続けています。そして今回、予想外の出来事によって、大きな事故に繋がったのです。今まで人類が貯えてきた知恵や知識に関しても、クリスチャンは神から与えられた物として、受け取るわけですが、同時に、とりなしの祈りが必要な領域もあるのです。
 今回の原発事故、この戦いは今後数年間続くというのです。下手したら半径300kmぐらいは立ち入り禁止になるぐらいの、チェルノブイリと同じような状況になるかもしれないとも言われます。それは「最悪のシナリオ」ですけれど、そのくらいの危険性をはらんでいる事件です。冷却作業も、一週間や二週間で終わるものではなく、数年は冷却し続けなければいけないし、原子炉を完全に殺すためには、数年かかるのです。だから、これは本当に長い戦いだと言われます。その間、放射能がまき散らされるわけで、今後見通しがたちません。
 私たちはこんな状況の中にあって、祈りを必要しています。神に祈らなければならないのです。今まで、日本人はいろんな神々に祈ってきたけれど、全く用をなしてないのです。やはり天地宇宙を造った、本物の神に、こんな時こそ心を合わせて祈る時期が来ているのです。
 しかし、みなさん、いたづらに、決して恐れないでいただきたいと思います。どんなことが起こったとしても、主は私たちを守ってくださるお方です。その御言葉と確信にしっかりと立たなければなりません。

 バビロンにいたダニエルを始め、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、バビロンの王のネブカデネザルが建てた金の像を拝みませんでした。王は全国民にそのおふれを出したのです。しかしこの3人の人物、シャデラクとメシャクとアベデ・ネゴは、何があっても偶像にひざをかがめませんでした。その結果として、燃える炉の中に投げ込まれました。ダニエル書3章25節-27節、

『すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第4の者の姿は神々の子のようだ。」それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。』

 彼らは偶像を拝まず、主に忠誠を誓いました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを主が火の中から守られたとあります。まさしく、今の原子力発電所から放出される放射能は、見えない敵との戦いだと、毎日のように報道されていますけれど、見えない恐ろしい火です。
 ある意味、日本は今、見えない炉の中に入れられているようなものです。しかし主を信じ、主に信頼していく者には、どんなに火の勢いが強いとしても、『火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』とあるように、3人が火の中に投げ込まれましたけれど、そこには4人の姿がありました。その一人が誰であったのか。これは旧約聖書に現れたイエス様でないかと言われます。
 みなさん、この国をどんなに強い火が覆ったとしても、主を信じる者は守ってくださるという、堅い信仰を持って歩もうじゃありませんか。
 そして、もう一つ、マルコの福音書16章15節-18節、

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

 この中に、『たとい毒を飲んでも決して害を受けず』とあります。この頃、食品が汚染され、国産は良いという神話が崩れてしまいました。国産なんか恐ろしくて食べられない時代が来るのかもしれません。しかしみなさん、ここにあるように、主を信じる者には、『たとい毒を飲んでも決して害を受けず』と約束されています。私たちはどんなことがあっても、主に信頼し、主が守ってくださると信じましょう。もちろん自分で自分を守らなければならない領域は、注意深く行動すると共に、知らずして毒を摂取しても、主は守ってくださるという信仰を持って、安心して生きるべきです。

 エステル記を見ますと、ユダヤ民族が滅びてしまうかもしれないという、危機的状況が記されています。ハマンという男が一つの法令を王様をそそのかして通し、ユダヤ人を皆殺しにする計画が実行される寸前の出来事でした。
 その時に王の妃となっていたユダヤ人エステルが立ち上がりました。その前にエステルのおじさんであるモルデガイが、エステルに告げた言葉があります。エステル記4章13節-14節、

『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」』

 この言葉を通して、エステルの勇気ある行動により、このユダヤ民族が助けられたのです。エステルは、『あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」』という言葉に大きく動かされたのです。
 みなさん、私たちも、なぜ今救われて、教会に来ているのか。これは、もしかしたらこの時のためであるかもしれない、ということだと思います。
 この日本の救いのために、日本の回復のために、もしかしたらこの時のためであるかもしれないのです。私たちはこの日本が神によって勝ち取られ、変えられ、復興するために、先に救われ、今、この場にいるのです。それを堅く信じていきたいと思います。この時にこそ、主の民が最も大切な時ではないかと思います。

 今回の大きな地震と津波を通して、主が今、教会とクリスチャンに語っていると思います。「この時のためです!」と。「日本のためにとりなして祈るために、あなた方は遣わされているのです。だから真剣に祈ってください!」と主が私たちに語っておられるのではないかと思います。
 どんなことがあっても、主は私たちの味方であり、助けてくださる方であることを堅く信じて、恐れずに立ち向かっていきたいと思います。

 最後にもう一度、みなさんと共に、詩篇46篇1節-3節をお読みしたいと思います。みなさん、大きな声で読みましょう。主が私たちに語ってくださっている言葉として心に刻み、今日の御言葉を聖霊によって受け取っていただきたいと願います。詩篇46篇1節-3節、

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。』


 最後に一言のお祈りをもって終わりにさせていただきます。
 ハレルヤ。天の父なる神様。感謝します。今、私たちはこの場所に集うことができて感謝します。私たちは日本がこれからどうなるのか不安の中にあります。しかし主よ、私たちはあなたに信頼します。
 あなたこそ助けであり、あなたこそ私たちの国の未来を持っておられるお方です。堅く信じます。主よ、どうかあなたが私たちを守って下さい。被災地で苦しんでおられる方々の上に、特別な特別な、支えを与えてください。超自然的な助けを与えてくださいますように。その傷ついた心も癒してください。この時にこそ主よ、あなたが直接的に人々に介入してくださり、訪れてくださいますようにお願い致します。
 主よ、私たちは教会としてこの現実を受け止め、この時のために救われたことをもう一度確認し、国のために祈ります。主よ、御心を現してください。
 主よ。原子力発電所の問題も大きいです。守りを与えてください。私たちは多くの科学の恩恵を受けていますけれども、人類が必要のない知識を得たならば、その中に働く敵の力が完全に打ち破られますように。主よ、全ては主から与えられた良き物として、もう一度私たちは受け取り直します。
 イエス様、あなたは十字架にかかって下さり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、甦って死をも滅ぼして下さり感謝します。
 今日おひとりおひとりの上に、特別な祝福を与えてください。一人一人の傷ついた心を癒してくださいますように。恐れを取り除いてくださいますように。今日は一人一人の心に、神の御言葉が深く置かれますように。どうか、神の御言葉によって確信を持って生きることができますように。主の守りを与え、主の支えを与えてください。
 一人一人のところに、強い天の軍勢を送って守ってください。霊、魂、肉体、全ての領域を守ってください。主よ、あなたが私たちを支えてくださると信じます。
 東北に関しても、私たちが何を祈り、何を支えたらいいのかお語りください。また、私たちが何をとりなしていったらいいのか、そのことも教えてください。
 今からあなたの流された十字架の血潮をいただきますけれども、イエス様、あなたと一つになって、あなたの思いを私たちの思いとして生きることができますように。
 今日のこの時を、心から感謝します。全ての栄光をお返しして、尊いイエス様の御名によって祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。