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「イエス様は、世の終わりまで、
いつも、あなたとともにいます!」

2011.4.24(SUN)
新城教会牧師  滝元 順
マタイの福音書 28章16節〜20節

しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 ハレルヤ!復活祭、おめでとうございます!今のキッズダンスはすごかったですね。おじさんもちょっと一緒に踊ってみたくなりました。でも、そんなことしたら来年の召天者記念会に入っているかもしれませんが・・・。
 人生はだんだん歳を取って、やがて天に帰るわけです。今朝は礼拝に先立ちまして、この教会でかつて一緒に礼拝を守り、天に帰られた兄弟姉妹を覚え、よみがえりの主を礼拝する「召天者記念会」を行いました。多くの遺族の方が出席してくださいました。ちょっぴり寂しい、悲しい一時でした。
 毎年、天に帰った兄弟姉妹の写真がプロジェクターで映し出されますが、私はその中のほとんどの方々を存じておりますから、大変寂しい思いがします。
 しかし私たちクリスチャンには希望があります。なぜならば復活という事実があるからです。
 「イエス様が復活された!」という事実がある故に、地上の人生がすべてではなく、やがて復活できると確信できるからです。
 復活祭はキリスト教会の祭りの中で、最大のものです。しかし一般には、特に日本では、あまり馴染みがないかもしれません。日本ではクリスマスのほうが有名ですが、今朝の産経新聞を見ましたら、隅っこに、復活祭のことがちょっと取り上げられていました。
 夏目漱石が若い時、ロンドンに留学したそうです。彼は復活祭を知らなかったようで、復活祭にはロンドンの街の雰囲気ががらっと変わり、びっくりして、友人の正岡子規に長い手紙を送ったと書かれていました。
 そこに、日本ではあまり馴染みがない「復活」という二文字が、今年ほど日本人の心に強く留まる年はないとありました。
 今、「甦れ日本」とか「日本復活」とか、日本の再起を願う言葉が使われていますけれど、現在、日本始まって以来の危機に直面していますが、どんな時代が来ようとも、天地宇宙を造られた神のみ手の中にあるならば、恐れることはありません、というのが聖書のメッセージです。
 毎回、私は礼拝の時に語らせていただいているのですが、あのような大きな地震があったりすると、「なぜ、神様おられたら、あんな大きな災害を起こるの?」という疑問が湧いてきます。
 東北の一人の女の子が、ローマ法王に手紙を書いたそうです。「なんで東北の子供たちだけが、こんな苦しみに合わなければならないのですか?教えてください。」でも、法王もそれに答えることが出来なかったらしいのです。「私にもわかりません。しかし将来、わかるかもしれない・・・」というような内容のメッセージが届いた、と今日の新聞に載っていました。しかし本来、なぜ、地震が起こったかの理由は、はっきりしているのです。
 なぜなら、日本は地震の国だからです。聖書は、神から与えられた啓示の書物です。そのことを「特別啓示」と呼びます。それは特別に神が人類に特別与えた言葉です。しかし、他にも神は人類に啓示を与えています。そのことを、専門用語で「一般啓示」と呼びます。それは被造物を通して、神の存在と神からの情報が人類に伝えられているからです。
 日本は、大変危険な地震国であることは、世界でも有名です。世界有数の地震国なのです。海底の太平洋のプレート等が、列島の真下で潜り込んでいるからです。そのような事実があることが、科学的にはっきりと証明されています。ゆえに日本に住むことは、それだけのリスクを背負っているのです。私たちは、常に、十分に注意しなければならないのです。
 今週も何が起こるかわかりませんから、みなさん、十分に注意していただきたいと願います。報道等の情報を総合し、状況を正しく判断することと、同時に神に祈らなければなりません。
 神が宇宙を創られた時、地球に一つのプログラムを組み込んだのだと思います。それは定期的にプレートが動いて、地殻変動を起こすという、地球新陳代謝のプログラムです。それは地球の構造上、やむを得ないのかもしれません。
 でも、神はもう一つのプログラムも組み込みました。それは、人類が神に立ち返って祈るという、祈りを通して、それらのタイミングを超自然的に支配して下さるという法則ではないかと思います。天地宇宙を造った神を知った者たちが、祈りを持って神の前に出るときに、創造主なる神は、守ってくださるという法則ではないかと思います。
 私たちは、東北のいやしと復興、日本全体の守りを祈らなければいけません。さらに、東京から東海地方の守りは、特に、祈らなければならないと思います。実に、東京から東海地方にかけては、いつ何時、何が起こるのかわからないからです。危機の迫った状態にあることは確かです。
 ですから、常に注意すると共に、守りを祈って下さい。ちょっとみなさんに見せしたいと思いますが、3月の11日の地震の後、マグニチュード5以上の地震がどこでどのような規模で起こったかの分布です。

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 この地域にこれだけ地震が集中しているのです。この場所が崩れれば、関東地方から中部地方にかけて異変が起こっても、決しておかしくありません。それは何十年というスパンではなく、今日、明日にも起こるかも知れない状態です。
 今こそ私たちは、日本に生きる者として、日本全体のことを思って祈らなくてはならないのです。しかし、何があっても、神は私たちを助けてくださる、永遠の命があるという事は、人類に対する大きな希望です。

 今週は、いろいろな予定があります。29日には、ついにいづる君がのりこさんと結婚します。激動の中で結婚式を挙げるわけですが、これらが彼らの結婚のテーマではなく、平和な結婚式となりますように祈っています。結婚式が終わったら、29日にこの教会から、仙台の宮城野区に救援のチームが遣わされます。青年たちを中心に、約30名の方々が炊き出しに出かけます。そのためにもお祈りしていただきたいと思います。
 被災者の方々は本当に大変な中で暮らしておられます。私たちも何とかして助けて差し上げたいと思いますが、私たちの思いと被災者の方々の思いは、かなり違うところもあります。我々の行動が、逆に被災者の方々を傷つけてしまうようなこともあるのです。
 阪神大震災に会った人が言われていましたが、初めは、ラーメンとかあんぱんを貰って、すごく嬉しかったそうです。けれど1ヶ月くらい経ってからも、ラーメンやあんぱんを送られるのを見て傷ついたそうです。「こんな物、いつまでも食べられると思っているのか。被災者の身になって送れ」と。やはり、向こうの立ち場に立てば、自分の身に置き換えれば、非常食のようなものをいつまでも食べ続けるのは、つらいことです。現時点で一番喜ばれる援助は何かを、よく考えなければなりません。
 みなさんからも義援金を捧げていただいていますけれど、それらを被災者の方々にもっとも喜んでいただける形で使うために何がいいかを、現地のコーディネーターの方とも話し合い、新城教会の得意技を使うことにしました。それは何かと言うと、避難所でバーベキュー大会を開催させていただくことになったのです。新城教会でよく行うバーベキュー大会を、被災者の方々に差し上げるのです。きっと喜んでくださると思います。
 すると、私の親父は80才以上なのですが、これは少し独りよがりもあるかとは思いますが、五平餅を焼いて皆さんに食べさせてあげたいから一緒に行くと言うのです。五平餅を向こうの人たちが喜んで食べてくれるかどうかは、いささか疑問ではありますけれど、それも一緒に提供します。
 さらに、もう一つ、中華の巨匠が、中華料理を用意します。だから、本当にすごいごちそうになりますから、被災者の方々は喜んでくださるに違いないと思います。私も一緒に紛れ込んで食べたいほどのメニューです。是非ともそのチームのためにも祈っていただきたいと思います。その避難所には300人位の方々が避難生活を送っておられるそうです。私は3週間前くらいにその地域に行きました。

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 実はこの学校の前に教会がありました。津波が来たとき600人が屋上に避難していたそうです。しかし津波はこの学校の屋上を超えるほどの高さだったそうです。けれども、津波が教会に当たって弱くなり、600人が助かったというのです。教会が現実的にも、霊的にも、救いを提供する場所になりたいと願っています。

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 この近くはあまり報道されていない場所なんですが、みなさんの中で、一緒に行きたい方がおられましたら、四元雅也副牧師に申し出てください。数人はまだ余裕があるそうです。一度問い合わせていただきたいと思います。

 イエス様が甦ったということは、歴史的事実です。ある人は、「そんなことはありえない」と言うかもしれませんが、世界にはいろんな宗教がありますが、キリスト教だけが、クールな目で、その内容を検証できる唯一の宗教です。
 聖書は、人類の歴史が始まったただ中で、人が神と交わった歴史の記録です。聖書サイドからの情報だけでなく、歴史的にも多方面から、イエス・キリストという人物が実際、地上におられたのか、十字架にかかったのか、本当に甦ったのかを検証することが可能なのです。
 それは宗教をでっち上げるのには、一番やりにくいパターンだと思います。イエス様が地上におられた時期は、イスラエルがローマに支配されていた時期と重なります。ローマの支配によって、すべての物事が進んでいったわけです。
 ですから、イエス・キリストの十字架も、ローマ軍によって実行されたのです。ですから、そういう意味において、イエス様の十字架と復活が歴史的事実であることもわかるのです。

 昨年もお話をしたのですが、イギリスのBBCが作った番組で、アメリカの人気クリスチャンマジシャン、ブロック・ギルという人物が、イスラエルに行って、イエス・キリストの奇跡を検証するという番組がありました。その最後には、イエス・キリストの究極の奇跡と呼ばれる復活の謎に迫るというものでした。彼はマジシャンですから、イエス・キリストが甦ったというのを、イリュージョンのように、トリックを使って消す手法が使われたのではないかという視点で、検証が為されました。イエス・キリストが甦ったというのは、もしかしたら、手品じゃないかということです。
 しかし、いろいろと検証したのですが、あの状況で手品をやるのは難しいという結論でした。
 時々、人が消えるマジックを見ますが、そのマジックのためには背後に大勢のスタッフと、大仕掛けの道具が必要だというのです。イエス様が甦った場所をその視点で検証し、それを行うのは無理で、その形跡を見出すことは出来ないのです。

 もう一つの可能性は、イエス様の弟子たちの頭が狂っていたという可能性です。師匠のイエス様が死んでしまったわけですから、弟子達は精神的におかしくなって、幻覚を見て、「イエスが甦った」と言いふらしたという、「幻覚」や「集団催眠」という可能性と設定で調べたけれど、聖書の記述や様々な状況を見ると、甦ったイエス様と出会ったのが、弟子達だけではなく、一度に500人以上という記録から、集団催眠や頭が狂っていたとは、決して思えないと言うのです。
 結論的に、「イエスが甦ったのは、歴史的な事実」ということでした。そこでなによりもそこで強調されていたのは、イエス様は甦って後、天にお帰りになりました。普通、宗教的に言うならば、ここで再度教祖を失うのです。けれども、イエスの弟子達が危険をも省みずに、当時クリスチャンにとって一番危険な地域であった、ローマに向けて宣教を開始したのです。自らの命を惜しまず、ローマに向けて宣教を開始したというのは、普通では説明できない行動だというのです。普通ならば、師匠や教祖がいなくなっ後に、命がけで教えを伝えるエネルギーは湧いて来ないと言うのです。
 そのことを見ても、イエス・キリストが甦ったのは、「事実であって、史実である」と番組では結ばれていました。
 今日もみなさんと一緒に読んだ聖書の箇所は、イエス様の残された11人の弟子たちが、甦りのイエス様と出会った場面でした。そこにどんなレポートがなされていたかというと、マタイ 28章17節、

『そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。 』

 聖書はかなり正直です。甦りのイエス様と出会って喜んだ人もいれば、「ある者は疑った」と言うのです。これは普通の姿だと思います。しかし、甦りのイエス様が近づいてきて言われたのです。マタイ 28章18節〜20節、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 なんと甦りのイエス様と出会った弟子たちは、その事実を伝えるために、世界に出て行ったのです。ゆえに、今、私たちがここにいるのです。弟子たちが命がけでイエス・キリストについて伝えなかったならば、今日、日本に福音は伝わっていないのです。ということは、イエス様が甦ったということは、作り事ではなく、事実であるのです。
 使徒の働き4章33節にこんな言葉があります。弟子たちが何を語ったかと言うと、

『使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 弟子たちが一番強調して伝えた事柄は、『主イエスの復活を非常に力強くあかしした』と言うのです。「イエス様が甦ったんですよ!死から甦ったんですよ!」とこの事実を彼らは力強く、世界中に知らせに出て行ったのです。その時、彼らと周りには、「大きな恵みがあった」というのです。
 私たちもイエス・キリストが甦ったという事実を信じ受け入れる時、人生に大きな恵みが与えられるのです。
 今日、私たちは復活祭礼拝を持っているのですが、もしも、イエス・キリストがただの宗教家であって、甦りが偽りならば、教会を持つのも罪作りな話です。真実ではなく、嘘をみんなに伝えるわけですから。
 第1コリント人への手紙 15章13節〜14節、

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』

また、第1コリント人への手紙 15章19節、

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

 イエス・キリストが甦ったという話が作り事だったならば、教会をすぐにでも解散したほうがいいのです。しかし、それが事実なら、それは本当に大きな希望です。

 ある意味、今年ほど日本人が死を強く意識した年もないのかもしれません。3月11日には瞬間的に今分かっているだけでも、3万人位が亡くなったのです。全体の死者の数が出たら、こたぶん4万から5万人くらいになるのかもしれません。
 こんなことって、かつてあっただろうかと思うほどの出来事です。しかし私たちの地域は東北地方からはかなり離れていますから、実感があるようでないのではないかと思います。私たちは、もっともっと、被災地に関して、関心を持って祈らなければならないと思います。
 日本の報道の姿勢は、良い悪いは別にして、津波で壊れた家々の瓦礫の写真は多く伝えるのですが、亡くなった方々は絶対に出しません。でも、海外は亡くなった人々の写真をメディアに出しています。まったく死体を映さないのは日本くらいじゃないかと思うのです。しかし、インターネット等で、他の国が日本の津波の様子を、どういう写真を使って報道しているのかを見ると、唖然とします。何千人という人たちが津波で流されて、一所に集まっている水死体の写真だとか、子供がいなくなって、親たちが必死に探し、瓦礫の下に埋まっている我が子を見つけ出し、激しく泣いている姿だとか、死んだ子供を抱えて呆然としている母親の写真もあります。ニューヨークタイムズでは、遺体の身元確認の様子も写真とともに報道していました。それらを見ると、本当に、心が痛みます。こんなことが同じ国の中で起こっていいのかと、胸が激しく痛みます。私たちはただ瓦礫だけを見て、死者の数は「1万、2万、3万人・・・」と、ただ数字だけ聞いています。本当の悲惨さについて、実感がわかないのです。
 私たちの地方は、電気も節電しなくてもいいのです。こっちの電気を向こうに送ればいいじゃないかと思うかもしれません。電気はプラスとマイナスだから、線を繋いでやればいいと思うかもしれません。しかし送れないのです。こっちの地域は60サイクル、北の方は50サイクルで、このまま送っても使えないらしいのです。我々も一応節電は心がけたいのですが、節電したところで、経済活動が落ちるだけで、こちらの電気を送ることは出来ないのです。
 じゃあ、電気を変換する施設を作ればいいと思いますが、作るだけで何千億円とかかって、数年かかるというのです。日本の電気行政はどうなっているのかわかりませんけれど、日本に大きな問題が起こっているのです。しかしその痛みがなかなか共有されないのが現実です。私たちは「事実」を知らなければならないのです。とは言っても今年ほど、死を意識した事は、近年にはありません。
 かつて女の子のグループで、私たちの青春時代に歌い踊っていたキャンディーズのメンバーが結構若く、癌で亡くなったというニュースも流れていました。人間って死ぬもんなんだなと、改めて確認させられる次第です。
 やがて私たちも地上から出て行かなければならないのです。それは偽ることのできない事実です。
 一つはっきり言えるのは、100年後、この教会に戻ったならば、建物は残っているかもしれません。でも、一つ言えることは、「私も含めて、ここにいる方々は、誰一人、この地上にはいない」のです。地上から去って行かなければならないのです。人生とは、現実問題ですが、死ぬことも現実問題です。
 実は、人間だけに、死の恐れがあります。他の動物には死の恐れがないというのです。ある本を読みましたら、人間は「おまえを殺す」と言うと、「殺さないでください…」と命ごいをするけれど、他の動物は、そういうのがないと言うのです。
 例えば、生き魚を調理しようとしたら、「やめて!殺さないで!あなたと取り引きしよう」なんて言わないのです。他の動物は死を恐れてないのです。
 人間だけに「死にたくない」という思いがあるのです。これは何を意味するかというと、実は、人間だけに死後の世界があるからです。
 これは聖書も告げていることですが、人間だけに死後の世界が備わっているのです。実は、現在地上で私たちは生活を送っていますけれど、これは不連続ではなく、死後の世界へも連続です。我々は連続して死後の世界へも入って行くのです。死後の世界は決して、宗教の世界ではなく、現実の世界です。

 時々、「キリスト教ですか。宗教ですか。宗教はごめんですね」と言われる人がおられるのですが、キリスト教とは言いますが、宗教ではありません。私も、キリスト教が宗教だったら、先ほど言ったように、イエス様の十字架も復活も嘘ならば、私は止めたいです。いくら牧師が職業だとしても、私はやめたいです。なぜならば、偽りをみんなに吹聴するのは、正しいことではないからです。
 でも、それが事実ならば、事実として受けとめていく必要があるのです。死ぬということが事実ならば、死後の世界も事実であるわけです。

 日本人はあんまり死後の世界に関して、深く考えていないのかもしれません。何が真実なのか、突き詰めないところがあります。
 死後の世界観はいくつかに分類され、カテゴリーに分けることができると思います。まずは、死んだら全てがなくなると考えている人がいます。全てがなくなるならば、もしも神がおられるなら、人生ほど不公平なものはないかもしれません。あまりにも差が多過ぎるからです。
 また、日本人は輪廻するという考え方があります。これは仏教の考え方というよりも、古来からありました。ヒンズーの中に、すでにその考え方があり、それが仏教に受け継がれ、多くの日本人は輪廻という考え方を持っています。輪廻とは、一度死んでも地上に戻って来るという考え方です。
 輪廻も、考えてみたら、不幸な考えです。自分の妻に先立たれ、妻は地上に輪廻した、しかし、輪廻には時間差があり、一度輪廻のサイクルに入ったら二度と出会うことは出来ません。また、人間界に輪廻できる保証もないのです。仏教の設定なら、49日したら輪廻するということですから、輪廻は本当に不幸なことです。さらに、この地上は「苦」という設定です。それは受け入れたくない死後の世界観です。
 また、日本は古来から、「人は死ぬと怨霊と化す」という考え方があります。それは、いくら愛し合っていても、死んだら、今度は怨霊となって愛する者たちさえ祟るというのです。日本人は、宗教的カテゴリーに捕われずに、怨霊をなだめたい、なんとかしたいという考え方があります。愛していた仲間が、自分を祟る存在になるというのは、受け取りたくありません。では何が真実なのでしょうか?

 一番受け入れ易い死後の世界観は、やはり聖書の世界観です。万民に受け入れられる世界観です。それは、人間は、神が創造し、この地上に生まれさせてくださったというのです。ある人は長い人生、ある人は短い人生かもしれません。人生は様々だけれども、その人しか出来ない仕事があるのです。
 私たちにとっては、寿命が長くないのは「ちょっと不幸だったね」と言うかもしれません。しかし永遠の神の目から見たら、その評価もわかりません。与えられた寿命の中で、神が備えた仕事をしなさいということです。それがどういう仕事かはわからないかもしれないけれど、神の目には明らかです。そして、地上の仕事が終わったら、人は神の手に戻るのです。
 そして、そこからが人生の本番です。永遠に神と共に過ごすのです。もう二度と苦しみも、悲しみもないところで、永遠に生きる人生があるのです。

 召天者記念会の時に、一つの御言葉をお分ちしました。それは何かと言いますと、黙示録14章13節です。

『また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」』

 普通は、死ぬことが幸せなんて言えませんけれど、誰が神であるかはっきりとわかった後、主にあって死ぬ死者は、幸せだと言うのです。なぜならば、神が魂を受け取ってくださり、『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである』と約束されているからです。素晴らしい希望じゃないでしょうか。
 死んでから妖怪になって、「あんただれ?」というような姿じゃなくて、こ地上での思い出も全てついて行くというのです。そして、神様の前で人生に対する正しい評価があるのです。「彼らの行いは彼らについて行く」とあります。
 ある人の人生は高く評価され、ある人の人生は全く評価されない場合もあります。しかし、評価されなくても、重要な働きをする人は多くいると思います。しかし神様は公平なお方で、全ての人々に公平な報いを与えてくださるのです。そして労苦から解放されて、休むことが出来るのです。

 新城教会も始まってから、かなりの時間が経ちます。60年くらいになります。今日も記念会の写真を見たら、「大勢の兄弟姉妹が天に帰られたんだな〜」と思いました。天国にもう一つ、新城教会が出来ているような感じです。
 きっと記念会には、新城から天国に帰った人たちは天国で集まって、一緒に賛美しているような感じがしました。ある人は大変な苦労の中で人生を終え、天に帰られた方もおられます。若くして天に帰られた方も、いろんな方がおられます。しかし、はっきり言えることは、それらの方々は全ての苦しみから解き放たれ、休んでいるということです。
 ですから、私たちは悲しみの中にあっても、希望を持つ事が出来るのです。永遠の希望を持つ事が出来るのです。またこの地上においても、その人にしか出来ない重要な仕事があるのです。それを知るとき、希望と共に、精一杯生きることが出来るのです。
 今も読んだように、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』とあります。人間には、神様からの自由意志が与えられています。人がどのような選択をするかによって人生の方向性は変わるのです。人生の選択は、その人に任されているところがあります。
 私たちがどのような選択をするかで、死後の世界も変わるのです。神を認めるか否かで、死後の世界も変わって来ると聖書は教えています。ですから、こうして教会に集って、聖書の世界観について聞くことは重要です。今日初めて、教会に来られた方もおられるかもしれませんが、話に関心を持ち、よくは理解できなくてもとりあえず、小耳に挟んでおくことは重要です。そこに、永遠を変える可能性があるからです。
 今までは、唯物論のように全てがなくなるとか、輪廻だとか、怨霊と化すくらいにしか考えていなかったのが、永遠の世界があるんだ、私たちを造られた神がおられるとに関して、興味を抱いて下さい。イエス・キリストが神であると知るのです。彼は地上に来て、人間として過ごし、十字架で死んだけれど甦って、永遠の世界を支配しておられるのです。永遠の命があることを証明してくださったのです。それを知り、信じることは永遠の世界に繋がるのです。

 実は聖書の中に、死後の世界をはっきりと表している箇所があります。それがイエス様が語られた「金持ちとラザロ」の話です。ルカの福音書16章19節〜21節、

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。』

 この世の中には裕福な人もいますし、貧しい人もいるのですが、ここでは二人の人生をコントラストとして描いています。やがて二人の人生は同じように集結します。ここまでは、生ける世界の話ですが、興味深いのは続いて死後の世界について記していることです。ルカの福音書 16章22節〜23節、

『さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。』

 実は、死後の世界は全員が同じ場所に行くのではないのです。ラザロと金持ちは死後、それぞれ違う場所に向かったのです。その原因がなんであるのかについて教えているのですが、実は、この金持ちとは誰のことでしょうか?私は金持ちだからといってドキッとした人もいるかもしれません。いや、私は貧乏人かな?と思うかもしれません。実は、金持ちが誰かというと、ルカの福音書 16章14節、

『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』

 というところから物語が始まっています。金持ちは誰のことを指しているかというと、「パリサイ人」のことです。パリサイ人という人たちは、死後の世界について信じていました。天国があることも、滅びの場所があることも、信じていた人たちでした。
 また、貧しい人がいたら施すとことも、たびたび行っていた人たちでした。この物語は、そういう人たちに対して語られた言葉なのです。
 聖書は、物語の前後の文脈と、一義的に誰に語られたのかをよく知ることが、内容を理解するために重要です。では二人の死後の世界が変わってしまった原因は、どこにあったのでしょうか。
 その理由は、金持ちは、宗教的、習慣的な施しは行っていたのですが、周りにラザロのような人がいても、全く関心を持っていなかったのです。愛の反対は憎しみだと思いますが、そうではないのです。「愛の反対は無関心」とよく上條先生が語っていますが、金持ちは、周りに苦しい目にあっている人たちがいても、無関心だったのです。それが死後の世界に対する、方向性を大きく変化させたのです。
 私たちも、人生において何に関心を払うのかは、すごく重要です。「イエス・キリスト。そんなの外国の宗教でしょ。関心ないですよ」と言うのではなく、私たちが「関心を持つ」ことは重要です。貧しい人たちのために関心を持ち、愛を表す行為が重要であることを教えています。
 東日本において大きな災害があったわけですが、苦しんでいる方々のために関心を持って働き、神の助けを祈らないといけないのです。いつ何時、私たちも同じような目に合うかもしれません。苦しみを分け合うことが重要であり、関心を持つことが、永遠の世界まで変えてしまうのです。

 先ほど、「行いは死後の世界にもついて行く」と話ししましたけれど、まさにここを見るとおもしろいです。金持ちが死後の世界で、何とアブラハムに叫んでいたかがレポートされています。ルカの福音書 16章24節、

『彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』』

 実は、金持ちは権力もあったのでしょう。生きている時、周りにいた人々や、乞食のようなラザロを、結構、パシリに使っていたと思われます。「あれ持って来い。これ持って来い!」と、結構、あごで人々を使っていたのだと思います。金持ちは死んでからも同じことをしています。「ラザロをこっちに遣わして、俺の舌を冷やさせてくれ」と頼んでいます。彼の人生は、とことん自己中心でした。死後の世界でも、彼は自己中心だったのです。
 ここでは、自分を中心にして生きるのではなく、他の人のことも省みなさいということを教えているわけです。
 16章を読むと、死後の世界と生ける者の世界は、完全に分けられていて、死後の世界から生ける者の世界に、情報を送ることも出来ないし、また、生ける者の世界から死後の世界に情報を送ることもできない、というのです。金持ちは、苦しみの場所から、なんとか「こんな所に親族が来ないように」と願っています。だから、このラザロを甦らせて、自分の兄弟たちの所に遣わせてくれと嘆願しているわけです。その時に天から告げられた言葉は、ルカの福音書 16章31節、

『アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」』

 地上のことは、生きている一人一人が自己責任において、真の神に関心を持ち、自分自身ではっきりと、その態度を決める必要があるということでした。
 案外日本人は、自分の態度をはっきりするのが不得意な民族かもしれません。すぐ周りを見てしまうのです。
 前にもちょっと話したことがあるのですが、ある時、船が火災になって、船長が乗客を海に飛び込ませて避難させるために「海に飛び込んでください」と声をかけたのですが、なかなか怖がって飛び込まなかったそうです。そこにはいろんな国の人たちがいて、なかなか飛び込んでくれなかったそうです。それでまずはイギリス人こう言ったそうです。
 「紳士はこういう時には飛び込むものです」と言ったら、イギリス人は皆飛び込んだというのです。
 次にドイツ人には「規則では海に飛び込むことになっています」と言ったら、ドイツ人は規則を大変重んじるので、飛び込んだというのです。
 でも、アメリカ人はまだ飛び込んでいませんでした。彼らには「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」と言ったら、アメリカ人は飛び込んだそうです。
 ロシア人には、「ウォッカの瓶が流されてしまいました。今追えば間に合います」と言ったら飛び込んだというのです。これはジョークですから、あまりシリアスに取らないでくださいね。
 また、北朝鮮の人たちには「今が脱北のチャンスです!」と言ったら、みんな飛び込んだそうです。
 しかし、日本人は最後まで、飛び込まなかったそうです。それで船長は、「みんなもう飛び込みましたよ」と言ったら、やっと飛び込んだそうです。
 それでもなお、関西人だけは「俺らは日本人だけど、ちょっとちゃう」と言って、飛び込まなかったというのです。しかし、どうやって飛び込ませたと思いますか?
 「阪神が優勝しました!」と言ったら、全員海に飛び込んだそうです。

 日本人って案外、みんながどういう態度を取るかで、自分の態度を決めるような性質があるのですが、聖書は「人生は一度しかありませんよ。死も事実ですよ。死後の世界も自分の考えで、正しい選択をしてください。しっかりと自分の態度と意見を持って下さい」と告げています。
 日本ではなかなか自分の意見を通すのが難しく、隣の人たちの態度を見てしまうですが、聖書が私たちに語っているのは、自分として、はっきりと永遠の態度を決めなさい!人生について準備しなさい!と教えているわけです。

 イエス様は弟子たちにも同じように語られました。イエス様が弟子たちをピリポ・カイザリヤという地方に連れて行って、一つのことを尋ねました。どんなことを尋ねたかと言うと、マタイの福音書 16章13節〜14節、

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」』

 「人々はわたしのことを誰だと言いますか?」という質問をされました。その時、弟子たちは「あなたのことをバプテスマのヨハネだと言う人もいます。エリヤと言う昔の預言者の再来だという人もいます。ほかの人たちは、エレミヤだとか、預言者のひとりだとも言っていますよ」と答えました。
 すると、イエス様は、弟子たちに、マタイの福音書16章15節、

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」』

 人ごとじゃなくて、あなたがたは、わたしのことをだれだと言いますか?という、個人の決断を迫られたのです。その時、シモン・ペテロは答えました。マタイの福音書 16章16節〜17節、

『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

 周りがどういうかではなくて、自分自身の考えで、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と、はっきりと信仰告白をしたのです。
 その時に、イエス様が重要な言葉を語られました。マタイの福音書 16章18節〜19節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 なんと、ペテロと弟子たちが、自分の意志で、「あなたが神の子、キリストです」と宣言した時、『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』と語られたのです。
 ハデスの門とは、滅びに向かう「死の門」です。しかし、その死の門もあなたを打ち負かすことはできないと言われたのです。
 また、このハデスとは、悪魔・悪霊どもの住処とも言われます。目に見えない暗闇の勢力も、あなたを打ち負かすことは出来ないと告げられたのです。
 さらに、天の御国の鍵をあげると言うのです。『何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』という、混沌としたこの世を生き抜くための権威の鍵を渡してくださるのです。

 今日、最初にみなさんと一緒に読んだ聖書の御言葉は、マタイの福音書28章18節〜19節、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』

 イエス様は死の力を打ち破って甦った時、天においても地においても一切の権威を受け取られたのです。私たちが自分の意志で「イエスは主です!」とはっきりと、人の考えではなくて、自分の意志で選択する時に、死の門も私たちに触れることは出来ません。そして、地上で繋いだら、天においても繋がれ、解かれる、イエス様が勝ち取られた「一切の権威の鍵」を共有出来るのです。

 この時代、大変困難な時代です。これから何が起こるのかわからないような不安もありますけれど、私たちの意思で、誰が神であるか、救い主であるのかをはっきりと信じ決断して、信仰告白をする時、神の国の権威の鍵が与えられ、ハデスの門も害を与えることができないのです。
 これから、この国がハデスの門に向かうような、更なる大きな災害が起きるかどうかわかりませんけれど、どんな時代が来ようとも、主はあなたと共におられ、あなたを守ってあげます、というのが、聖書の力強いメッセージです。

 最後に一言お祈りして、イエス様が私たちの罪の身代わりになって死んで、甦ったことを記念に行う「聖さん式」を行ないたいと思います。ぜひみなさん、自分の意志で「私は天地宇宙を造り、私を造ってくださったイエス・キリストという神を選びます!」という、信仰告白の意味において、受け取っていただきたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。私たちのために十字架にかかり、死を打ち破って甦ってくださったイエス様を心から礼拝致します。今日、ここにあなたがおられることを心から感謝します。世の終わりまでいつもあなたと共にいます、と言われたことを心から感謝します。
 主よ、私たちは自分の意思で「あなたは主です!」と告白します。主よ、どうか、この混沌とした現実を生きるための、天における、地における、一切の権威の鍵を与えてください。どんな時にも揺り動かされる事のない、あなたの鍵をいただくことが出来ますように。雄々しく生きることが出来ますように導いてください。
 イエス様が私たちのために、十字架にかかり、甦ってくださったことを記念とする聖餐式を行ないます。御言葉と聖霊によって行ないます。どうかこの聖餐式を祝してください。私たちの信仰告白として、自分の意思として受け取りますから、これからあなたの道へと導いてください。
 今日、この時を心から感謝します。お一人お一人の上に特別な祝福がありますように。イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。