HOME > 2011年バックナンバー > 8月 > メッセージ2011年8月28日

『それぞれに託された領域』

2011.8.28(SUN)
新城教会牧師 岡本 信弘
コリント人への手紙第2 10章12節~15節

『私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。』

 ハレルヤ。主の御名を心から賛美します。こうしてこの場所に健康で立つことができ、みなさんと共に、主の御言葉を学ぶことができることを心から感謝します。
 八月も終わりに近づき、宿題に追われている学生諸君もいるかと思います。私にとっては、何十年も昔のことなので、今となっては宿題をやることもないので、今のうちに楽しんでもらえればと思います。・・・と言うのは簡単ですが、その時は、楽しむどころか、最後にまとめてあわててすませたことを懐かしく思います。
 お母さんたちにとっては、宿題をやらせるのも一苦労ですね。やっと長い夏休みが終わると、ほっとしている方が多いかもしれません。
 昨日から中高生が軽井沢にキャンプに行っていることもあり、人数が少なくなるかと思いましたが、それほどでもなく、大勢の方が集まり、主を共に礼拝できることを感謝いたします。
 キャンプで軽井沢に行くなんて、時代が変わったと思います。私は幼い頃からこの教会で育ちましたので、小・中・高校と、いろんな所にキャンプに行きましたが、昔は人数が少なかったこともあり、川で魚を取り、生きたニワトリを持って行って首をはねて丸焼きにするというような、自給自足のキャンプもありました。「なんて野蛮なことを・・・」と思われるかもしれませんが、昔はそれが許されていて、本当に懐かしい思い出です。
 もう一つ、私がいつも思い出すのは、八月に伊良湖で行われたキャンプです。その時は、中高生の引率者として行っていたのですが、そのキャンプ中に、ちょうど息子が生まれたのです。あれから三十年経ちました。みなさんの中にも、いろいろな夏の想い出があるかと思います。

 私事ですが、私は、先々週の八月十四日に五十五歳になりました。ちょうど日曜日ということもあり、多くの方にお祝いの言葉を掛けていただきました。また、その日は珍しく家族が全員揃っていて、嫁と家内の父も一緒に食事に出かけ、その後、私のために誕生日ケーキを買ってハッピバースデーを歌ってくれました。思いがけなくそんな楽しい時があって、すごくうれしかったんですけれども、正直なところ、私はみなさんに祝ってもらうことにあまり慣れていません。私の家は商売をやっていましたので、小さい頃から、記念日もなければ、誕生日を祝うということもしない家庭でしたから。結婚してからは、ささやかに祝ってもらっていましたが・・・。
 幼い時から、私の母親はいつも「受けるより与える方が幸いである」と言っていました。自分はともかく、健康で誰かのために何かをしてあげられる、祈ってあげられることを喜びとする、それを母から教えられました。これからも、そのようにしていきたいと願っています。

 今日は、第二コリント人への手紙十章から、『それぞれに託された領域』というテーマで短くお話をしたいと思います。
 「領域」という言葉は、時々、耳にすることはあっても、日々の生活の中ではあまり使うことがない言葉ではないかと思います。辞書で「領域」と引きますと、『権限・能力などの及ぶ範囲。勢力下にある区域』とあります。この意味を読みながら、「領域」には、大きく分けて二つあると、神様に教えていただきました。
 その一つは、「神の領域」、もう一つは、「神様に託された人の領域」です。時々、人間には到底できないようなことが行われたりすると、「これは、まさしく神の領域だ!」と表現されることがあります。神様は、私たちの想像もつかないほど大きな方であり、この地球、宇宙、天地万物、すべての被造物を造り、私たち人間を創造された方です。そのことだけを考えても、何かほかのものと比較できるような、ちっぽけな存在ではなく、本当に偉大な方が神様であるわけです。
 そんな偉大な神様がいつも私たちのかたわらにいてくださり、私たちがどうすることもできない困難にぶつかった時、「神様!」と祈るなら。神様は私たちに助け船を出してくださるのです。
 出エジプト記を見てみると、イスラエルの民が何百年という奴隷生活の中から引き出されたことが記されています。今までの奴隷生活から解放される、約束の地に行けるという希望を持って、二百万、三百万といわれる民が意気揚々と出て行ったわけですが、彼らはすぐにつまずきました。彼らの前には紅海があり、そこを渡らなくてはいけないが、どうやって渡ろうか。そう考えているうちに、パロの追っ手が近づいて来て、前方に海、後方からは軍隊と、八方ふさがりでどうしようもない状況で、彼らは何をしたかというと、主に求めるのではなく、引率してきたモーセに、「なんであなたは私たちをここに連れて来たのか。私たちはエジプトにいた方がよっぽど良かった。そうすれば死なずにすんだのに」と、散々モーセに食って掛かったのです。
 ここに、神様がモーセをとおして民に語った言葉が書かれています。

 『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』(出エジプト記 十四章十三~十四節)


 この最後に書かれている『主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』とはどういうことでしょう。本当に私たちが、どうしようもないという時に、神様は戦ってくださるということです。
 神様へのSOSと言われる、エレミヤ書三十三章三節には、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

とあり、私たちの力ではどうにもならない時に、理解を超えた神の解決があり、神の出番であることが断言されています。

 イエス様はこの地上に来られた時に、さまざまな奇跡を行われました。新約聖書のある箇所には、「五つのパンと二匹の魚で、男五千人以上を養った」とあります。私は何度かイスラエルに行ったことがありますが、ガリラヤ湖半に立った時、「ここで、五つのパンと二匹の魚だけで五千以上の人たちが満腹になったという光景は、どんなだっただろうか。何という奇跡だろう」と感動したことがあります。その時にも主は、彼らが空腹で何も食べる物がなくてどうしようもないのをかわいそうに思い、人間にはなすことのできない奇跡の業を行われました。これがまさに、神の領域です。

 みなさんは、問題にぶつかり、八方ふさがりになった時に「神様が必ず助けてくださる」という信仰を持っていますか? 信仰について考えていた時に、一つのこんな話を見つけました。
 宗教改革で知られるマルチン・ルターは、ある時大きな問題にぶつかり悩み苦しんでいました。すると、落ち込んでいる彼のところに、葬式用の黒いドレスを来た奥さんがそばにそっと立ちました。マルチン・ルターは、驚いて「どうしたのですか。誰か亡くなった?」と聞くと、奥さんはおもむろに「神様がお亡くなりになりました」と言ったそうです。すると彼は「馬鹿なことを言うな。神様が死ぬわけないじゃないか」といって怒ったそうです。すると奥さんは、「もし、神様がお亡くなりになっていなくて、まだ確かに生きておられるのなら、その生きている神様を信じているあなたが、どうしてそんなに落ち込むのですか」と言ったそうです。
 なるほどなぁと思いました。私たちは、神様を信じていながら、問題が起こると、「どうしよう。困った」と悩み、落ち込んだりします。その時には、神様は偉大な方で、すべてのことを解決してくださる方だということはすべて忘れてしまって、「今この問題をどうしよう。どうにもならない」と悩んでいる人が多いのではないかと思います。マルチン・ルターはその言葉を聞いて、すべての問題を主に委ね、元気を取り戻したそうです。
 どんな時にも神様はあなたを覚えておられ、あなたが神に信頼するなら、決してその信頼は失望に終わることはない、と御言葉にも書かれています。
 このように、私たちにはどうしても手が出すことができないけれども、しかし、いつも傍らにおられて、私たちを見ていてくださり、困った時には助けてくださる神様の領域があることを、みなさん覚えていてください。

 次に、神様からみなさん一人ひとりに委ねられた領域があるということを、第二コリント十二章のところで、パウロが語っています。
 パウロという人は伝道者であり、多くの働きをし、この初代教会で素晴らしいリバイバリストとして働きました。しかし、簡単にそのようになったわけではありませんでした。 先週、順先生から「信仰の戦いを勇敢に戦おう」という恵まれたメッセージを伺いました。私たちの信仰の戦いは、みなさんが望んでも望まなくても続いていきます。それは、この地上にある限り続く、信仰生活の戦いです。みなさんは、どんな戦いでも必ず勝てると、信じていますか。ローマ人への手紙八章三十一節には、、

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』とあります。

 みなさんの中で、「私は強い」と思っている人は少ないかもしれませんが、どんなに弱くても、神様が私たちと共におられ、私たちの味方でいてくださるので、戦いに必ず勝利することができるのです。

 イエス様は二千年前にこの地上に人となって来られ、三十三歳まで生き、私の罪のために、みなさんの罪のために、十字架にかかり死んでくださり、死んだだけでなく、三日目によみがえられ、今も行きておられる方です。そして、イエス様がこの地上に来られて、天に上げられる時、「わたしは天に帰るが、聖霊を与える」と言われました。
 今、私たちは聖霊様の助けを借りて守られ、生かされています。それは、神様が私たち一人ひとりにこの地上での領域を託すためでした。

 パウロは、コリントの人たちが信仰を持ち、だんだん成長していくのを喜んでいましたが、いろんな間違った教えが入ってきたり、いろんな惑わしによって、人が限度を越えて誇ることを恐れ、警告し、正して助言をしています。

 『私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。』(第二コリント十章十二~十三節)

 ここでパウロは、「あの人は頭が悪いけど私は頭がいい。あの人は金持ちだけど、私は貧乏だ、と他の人と比べるのは、知恵のないことだ」と言っています。
 そして、パウロが十三節で言っている『私たちは、限度を越えて誇りはしません。』という言葉は、私たちが「これもできる。あれもできる。ここまでいける」というように思ってはいけないという、高ぶりに対する戒めです。神様から委ねられた領域を飛び越えた誇りは、高ぶりであるといえます。

 私たちに託された、割当てられた領域の一つは、第一に、家族だと思います。一人暮らしの方もいらっしゃいますが、ご両親、子どもさん、親戚など、まず、身近な家族への伝道が託されています。「家族に伝道するのはちょっと・・・」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、みなさん以上にみなさんの家族のことを知っている人は、ほかにいませんし、愛している人もいません。みなさんがみなさんの家族のために祈り、とりなしたいくことが、与えられた領域で祝福を受ける大きな要因だと思うのです。
 家族から迫害されておられる方もいらっしゃるかもしれません。一人では戦えない、伝道できないという方もおられるでしょう。もちろん、教会の兄弟姉妹も、祈り、支えてくれますから、共に戦っていきましょう。

 また、それと同時に、私たちの住んでいる町のために私たちは祈ることも、託された領域であると思います。それぞれの行政の権限は、市長が持っています。みなさんは、ご自分の住んでいるところの市長さんの名前をご存知ですか。知っているという人手を挙げてみてください。知らない人が半分くらいいるようです。ここは新城市ですから、市長は穂積さんです。愛知県では、名古屋の河村市長さんをご存知の方が多いと思いますが、ご自分の住む市の市長さんの名前は覚えていたらいいと思います。
 市長は、当然のように、自分の地域に住む人たちに安全を与え、経済的にいろんな支援をするため、責任をもって働いてくださっているわけですから、良き知恵が与えられて、正しい判断ができるように祈ることが大切です。また、そういった見えるところだけではなく、やはり霊的にも、私たちが住んでいる場所は、神様に遣わされたところであり、大きな意味がありますから、その地を愛して、祈る必要があります。
 私は新城で生まれ育ち、新城市から住居を移したことがありません。みなさんの中にも、生まれてからずっと同じ地域に住んでおられる方がおられるかと思います。そこに、託された領域があります。
 また、みなさんの中には、遠くからこの地に来られた方もいらっしゃるでしょう。都会から来られた時にはびっくりしたと思います。私の家内も東京から嫁に来ました。
 余談ですけれども、初めて飯田線に乗って茶臼山駅に着いた時、家内は、焦ったそうです。三十数年前のことですが、すでに無人駅で、ドアも手動でしたから、降り方が分からなかったそうです。
 また先週、新城に来て驚いたことは何だったかという話になりました。家内が我が家に来た時、私の母(すでに召されていますが)が、みそ汁を出しました。そのみそ汁が、ドロドロで、あまりにも濃くて、とても飲み干すことができず、本当に困ったと言っていました。今はだいぶ慣れて、濃いのも飲むことができますが・・・。
 新城に住んでいる人、豊橋に住んでいる人、名古屋に住んでいる人、その他、いろいろな地域から来られている方がここにはいらっしゃいますけれども、それぞれに住居を構えている場所があると同時に、近くから、遠くからこの新城教会に集められ、属しておられるのは、偶然ではありません。クリスチャンには偶然はないので、本当に神様の摂理の中で、神様の計画の中でみなさんがここにおられるのです。「何の意味があるのだろうか」と言わないでください。お一人おひとりに。ここに来られる意味があり、神様の計画があります。ご自分の地域に、そして、この新城教会で、みなさん一人ひとりが必要なのです。
 ここには新城教会で救われ、他の教会へ行ったことのない方も多いかと思います。よそから来た人はよく分かると思いますが、新城教会は、普通ではありません。もちろん、悪い意味ではありませんよ。私たちは主に恵まれていますし、いろんな話題があって、楽しいとみなさん思っていると思います。
 私も、青年になるまで新城教会から出たことがなく、これが普通だと思っていました。しかし、ミッションが始まっていろんな教会に行って、「ああ! 新城教会って普通じゃないんだ」と思うようになりました。何が普通ではないのでしょうか。
 私たちは、この新城の田舎にありながら、いつも日本のリバイバルを祈っています。今日も祈りました。礼拝の時には「日本のリバイバルのために祈りましょう」と毎回、祈っています。これは、ある意味では普通ではありません。よその教会に行って、祈りの課題で、「まず、日本のリバイバルのために祈りましょう」という教会は少ないです。
 私たちは、この教会がリバイバルされることももちろん願っていますが、それよりもまず、日本にリバイバルが現されるということをいつも祈っています。私も小さい時からそうやって祈ってきました。
 「私はあの県に行ったこともなければ、この県も行ったことがない」という人は大勢いるでしょう。そこに、行ったことがある、ないにかかわらず、みなさんに与えられている、みなさんのテリトリー、領域というのは、みなさんが考えているよりも広いと思います。そして、みなさんそれぞれが、それぞれに遣わされているところがあり、それぞれの一端を担っているところがあることを、是非覚えていただきたいと思います。

 八月十五日には、JJJという集会が、浜名湖ガーデンパークにおいて行われました。ウエストリバイバルサウンドが核となり、新城教会の青年たちを中心に、多くの方が協力して、素晴らしい時を持つことができました。
 先週、順先生も話しておられましたが、本当に若者たちが一生懸命頑張っているのを見て私も感動しました。私は準備にもかかわっていませんでしたし、ほとんど何も把握していませんでしたが、大会の一週間くらい前になって、当日の分担表を見ると、なんといちばん上に、「全体統括:岡本信弘」と書かれていました。「誰が決めたわけ。誰がそう言ったわけ」とビックリして、「俺でいいのか。前後を何も知らない俺が全体統括なんて・・・」と思ったのですが、やらせていただけることがあるなら、と思い、喜んでさせていただきました。
 何故私がその役を担わされたかと考えると、きっと、牧師という肩書きがあった方いいのだろう、ということと、何か怒った時の保険として、置いておけばいいのではないか、というくらいのことだったと思います。ですから私は、当日、本部席に行って、弁当を食べて、電話番をしていただけでした。集会中に私が呼ばれず、私の手を煩わすことがなかったということは、みんながそれぞれの働きを忠実に行い、組み合わさって、すべてのことがスムーズに行われたということだと思います。それだけそのイベントが成功したということだと思っています。
 お一人おひとりが神様に託された領域で、一生懸命自分の役割を果たしたことによって、素晴らしいコンサートになり、本当に祝福のうちに終えることができたわけです。

 その二日後の十七日には、津具において「滝元明ミニストリー」が行われました。集会前、明先生が、来られた三百人近くの方一人ひとりに、「よく来てくれました」と挨拶しておられました。私にも挨拶してくださったのですが、気のせいかもしれませんが、私には明先生が、いつになく少し緊張しているように感じられました。しかし、本当に先生が嬉しそうにされているのを見て、私も心から嬉しくなりました。
 集会では、司会を長男である順先生がされました。そして、順先生が明先生を「津具が生んだ、世界的な大伝道者を紹介します!」と言われたことが、すごく印象的でした。
 新城教会からも大勢の方が応援に駆けつけましたが、地元の方もとても喜んで参加してくださっていました。
 明先生が津具の地で生まれ、東京に出て救われて、郷里に伝道しようという志をもって愛知県に戻りました。山での土方をしながらの伝道の末、新城に教会を建て、イエス様に対する変わらぬ愛をもって長年伝道してこられてからこそ、この教会がここまで祝福されてきました。津具で、あのような素晴らしい集会ができたということは、明先生に託された領域における使命をまっとうしてきたからこそだとおもい、心から感謝しています。

 新城教会には、いろんな働きがあるわけですけれども、それぞれの一端を担っているのは、みなさん一人ひとりであることを自覚していただきたいと思います。前面に出て走る人と、そうでない人もいれば、いろんな人がいるのです。でも、みなさん一人ひとりが不可欠な者であるということを覚えてください。

 今、日本は、経済的なことも含め、いろんなことにおいて危機的状況にあります。今週は、新しい総理大臣が選ばれます。そんなことも知らないという方もいるかと思いますが、誰がなっても同じだと思っている人が多いでしょう。確かに、誰がなっても同じかもしれませんが、市を統率するのは市長であるように、国を統率するのは総理大臣です。ですから、私たちクリスチャンには本当に良い総理大臣が選ばれるように祈る必要があると思います。
 先週、順先生が、「この教会からヨセフが出て・・・」と言われたように、素晴らしい政治家が出て、クリスチャンが大勢大臣になるような時代が来ることを私たちは祈っていきたいと思います。現段階においては、私たちは自由に賛美し、自由に祈り、自由に伝道できるという恵みの中に生かされていますが、上に立つ者によっては、政治が変わり、それができなくなる可能性もあります。ですから、本当に日本が間違った方向に行かないように、真剣に祈る必要があります。

 『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。』(第一テモテ人への手紙二章一~二節)

 この御言葉で神様は私たちに、『王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。』と祈るように教えています。神様の御心が現される国となるように、リーダーのために祈っていきましょう。

 また、この教会には、全日本のリバイバルのために実際的に動いているリバイバルミッションを支えるといくことも託されています。九月には九州全県を巡っての集会があって、先生方が遣わされて行かれます。九州に行ったことのない方もおられるかもしれません。しかし、本当にここから私たちが祈ることによって、九州にリバイバルの業が現され、主の業が現されることを私たちは切に願っていきたいと思います。

 『私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。』(第二コリント十章十四~十五節)

 クリスチャンの行動を見た時に、「何でそこまで一生懸命になれるの?」と思うところがあるかもしれません。私も時々言われることがあります。また、「お金のためでもなければ、名誉のためでもなく、何故動けるの?」と考える人もいます。
 世の人は、自分がトップになること、名誉を得ること、究極的に金を得ること、自分が有名になるために一生懸命に心を配ります。そぁそ。私たちクリスチャンは、どうしたら神様の愛に応えることができるかを考えます。
 イエス様は、私たちに愛を示してくださいました。聖書の中にはたくさんの愛についての御言葉がありますが、第一ヨハネの手紙四章九節には、次のように書かれています。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

 ここで、神様が私たちに対して素晴らしい愛を実践してくださったということを見ることができます。「愛する」という言葉を口にすることは簡単なことです。でも、実践することはなかなか難しいことです。

 最近読んだ本にこんな話が載っていました。一昔前ですが、ハワイにモロカイという島があり、そこにハンセン病の収容所があったそうです。その収容所には、アメリカ本土から数百名の人たちが送られて来て生活していましたが、症状が重い病気のため、その実態は悲惨なものだったそうです。それを聞いたベルギーの宣教師のダミエンは、何とかキリスの愛を伝えたいと願い、この島に来たそうです。しかし、いざ福音を語ろうと患者の近づこうとすると、警戒して仲間に入れてもらうこともできません。そこで彼は、「神様、私も同じようにハンセン病にしてください」と祈ったそうです。そして、やがて彼も同じ病気にかかり、そして彼は、四十九歳で召されるまで、千人以上の人の世話をして、五百人以上の人の墓を作って上げたそうです。まさしくキリストの愛を実践した感動的な話です。
 みなさんも愛する家族のためなら、命をかけてでも守りたい、愛したいと思うでしょう。
 しかし、イエス様は私たちが罪を犯し、私たちがイエス様に背を向けているような時にも私たちに愛を示してくださいました。そして、私たち一人ひとりを子と呼んでくださり、、私たちの幸せを考え、私たち一人ひとりに祝福を与えたいといつも願っておられます。
 私にも子どもがいます。娘は家から離れていることが多いのですが、時々帰って来るとみなさんから、「先生、泉ちゃんが帰って来てうれしいでしょ」と聞かれます。いつも答えに困ります。嬉しくないことはないのですが、帰って来ると「あれをしたい、これをしたい。これを食べたい。あそこに連れて行って。あれを調べておいて」と私の仕事が増えて、面倒くさいんですよ。「俺も忙しいんだけど・・・」と思いながら、それでも、娘のためにやってあげたいと思ってしまう自分にあきれてしまうのですけれどね。
 私は子どもに対しても、面倒くさいと思ったりするわけですけれども、神様は違います。神様はみなさんが「神様! 愛するイエス様!」と祈るならば、どんな時にもそれに応えることのできる方です。そして、人は子どもに願われても、かなえてあげられないことがたくさんあります。しかし、私たちの神様は、御心にかなういのりであれば、必ずすべてをかなえてくださるお方であることを、覚えてください。

 ここで、みなさんに二つの質問をしたいと思います。
 「日本にリバイバルが来ると信じていますか? 信じていると思う人は、『アーメン』と言ってください」。声が小さいですね。
 では、もう一つ、「日本のリバイバルには、あなたが不可欠だと信じますか? 信じている方は『アーメン』と言ってください」。さらに声が小さいですね。
 ということは、「日本のリバイバルは願っているけれども、別に私がいなくても大丈夫でしょ」と思っておられる方が多いのではないのでしょうか。それはちょっと問題ではないでしょうか。
 パウロは、先ほど読んだ御言葉の中で、『私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます』と言っています。これは何かというと、パウロという人は素晴らしい伝道者でしたが、一人でできることは少ないのです。でも、ここでパウロはコリントの人の協力によって、パウロの与えられている領域が広がっていくことを望んでいると言っています。
 パウロ一人だけではリバイバルを起こすことはできません。マッチも、一本だけではすぐ消えてしまいます。でも、それが二本、三本集まったら、たくさん燃やすことができます。そして、一度山火事が起こったら、どんなに水をかけても簡単には消すことはできないように、一人が燃やされただけではすぐに消えてしまうかもしれませんが、次々と隣の人に燃え移っていったらどうでしょうか。そうしたら、なかなか火は消えないだけでなく、その火がどんどん移っていって、さらに多くの人が燃やされていくのです。
 みなさんに与えられている領域はそれぞれ違います。そして、みなさんは、「自分はこの領域はこれだけしかない」と思っているかもしれませんが、でも、もっと広い領域があるとしたら、その領域をみなさんが満たさない限り、このリバイバルの働きというのは進んでいきません。
 「いや、私はこれだけでいいですよ」と思っておられる方は、ちょっと心を入れ替えていただいて、みなさんもこのリバイバルに必要な人材であり、みなさんに与えられている領域は広い、ということを是非覚えていただきたいと思います。

 以前にもお話ししたことがありますが、我が家に二千ピースのジグソーパズルがあります。一つひとつ絵に合わせてはめていくわけですが、一つでも欠けていたら、それは完成しません。同じように、みなさん一人ひとりがこの新城教会という領域の中のひとつ、また日本という領域の中のひとつとして、はまるべきところがあります。誰か一人が欠けても、その領域を満たすことができません。
 ですから、お一人お一人が神に選ばれた者として、その領域を司る者として本当にへりくだって主に仕えていただきたいと願っています。
 第二コリント十章十六節からお読みして終わりにしたいと思います。

『それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。』
 
 私たちはどこまでもへりくだって、栄光を主に帰して主の御心を行って、主に推薦される者になりたいと願い、祈っていきたいと思います。