『弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』
2011.9.25(SUN)
新城教会牧師 上條 実
ヨエル書 3章9節~13節
『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。‐‐主よ。あなたの勇士たちを下してください‐諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。』
ハレルヤ!みなさんと共に礼拝が守れますことを心から感謝します。先週は大変な一週間でした。水曜日には台風十五号がこの地域を通り過ぎて行きました。皆さんの所は大丈夫だったでしょうか?教会のある新城市も避難勧告が出たと言うことで、色々な方から「新城は大丈夫ですか?」と聞かれましたが、この教会周辺は守られ、被害はありませんでした。新城市では豊川の水位を石田という所で計測しています。そこには新城橋という橋がかかっていますが、そこから川を見ますと本当に綺麗な水で、普段の水位は一メートルほどではないかと思います。しかし今回はなんと七メートル六十一センチメートルまでいったそうです。
この写真はその石田地区ではなく、野田大橋という所である方が撮影されました。橋のぎりぎりまで濁流が来ていることがわかります。ここまで水位が上がったのは観測されている方も平成になってからは初めてだと言われていました。また次の写真は
新城市川田地区と豊島地区では支流が溢れて、田畑に水が浸かってしまいました。聖書に『隣人を自分自身のように愛せよ』とありますので、自分の所は守られたからそれで良しというのではなくて、その方々のためにお祈りしていきましょう。また報道によりますと東日本大震災の被災地では、仮設住宅が床上浸水したと言うことです。更に祈り、支えて行かなくてはいけないと思わされました。
また、お祈り頂いております九州リバイバルミッションですが、今日も行われています。お祈っていただいておりますので各集会大変祝福されていますことを感謝いたします。本日は福岡市にて行われています。特に講師を始めロン・ブラウン氏と音響の岩井寛兄のためにお祈り下さい。今度の日曜日まで集会は続きますが、特別今週は午前もしくは午後集会をするために機材を出したり準備をして集会を行い、終わって片付け、次のところに移動して、また機材をセッティングして集会をしてと大変なスケジュールが続きます。是非覚えて祈ってください。急に涼しくなったこともありますので、一人一人の健康が支えられ、奉仕ができるようにお祈りください。疲れが癒されるように、交通事故からも守られるようにもお祈り下されば幸いです。この九州リバイバルミッションに新城教会から、大勢の方が出かけ、参加して下さっています。とても励まされます。いくつか九州リバイバルミッションの写真をお見せしたいと思います。
ここは先週の日曜日に行われた鹿児島市の教会です。七十五名ほどの人が集まりました。会堂に入りきれず、階段や、一階にも人が溢れていたそうです。
次の月曜日の南さつま市での模様です。開拓して五年目という教会で、五十名も入ったら一杯になる所でしたが、なんと八十人ほど集まったそうです。Y兄はそちらが出身なの親族の方を誘い、共に参加下さったと聞いています。親族の救いのために引き続きお祈り下さい。
ここは二十二日の木曜日に行われた熊本県天草市での集会です。ここはN兄のご両親が出身された所で、N兄は夜行バスに乗って、熊本まで行き、そして親族を迎えに行って、共に参加下さいました。是非お祈りください。親族の救いのために祈り、犠牲を払って出かけて集会に参加されたことに主は必ず報いて下さると信じます。
この写真は今滝元順牧師をはじめ何人かの兄姉がネパールに出かけています。通信事情が余り良くないと思いますが、先週の火曜日にメールが来ました。たぶん山地での集会の場面だと思います。来週ここで報告を聞くことができます。この写真に何か意味があるかも知れませんが何もわかりませんが、次週は素晴らしい報告を聞くことができると思います。明日の夜帰って来られます。今日はカトマンズというネパールの首都で礼拝を持っていると聞いています。お祈り下さい。
またざわめきのチームは金曜日に福島県の郡山市、その後栃木県で奉仕をしております。本日は宇都宮市にて集会を行っています。色々な場所で福音宣教がなされていることは、大変素晴らしいことです。
いつも礼拝で音響をして下さっている兄たちが奉仕に出かけている為、今日はY先生が音響をして下さっています。と言うことで私がつたない賛美リードをさせて頂きました。その特権で本日開かれるみことばが賛美となっておりますので、その「聖戦をふれよ」という賛美をさきほど皆さんで賛美させて頂きました。先ほど読んで頂きましたヨエル書のみことば、
『弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ』
この御言葉がこの一ヶ月間くらい私の心から離れません。私たちはイエス・キリストを救い主を信じています。イエス・キリストは見えない霊的な存在です。しかし私たちはこのイエス・キリストを信じることができたことは大きな祝福です。それと同時に目には見えない霊的に訴えてくる悪魔、悪霊がいるということを良く知っています。悪魔だとか、悪霊だとか、サタンだとか色々な呼び方がありますが、「悪魔」というのは分かりやすくいうと、「ボス」「親だま」です。そして「悪霊」というのはその「子分」です。では「サタン」とはいったいなんだと思いますか?それは「悪魔」と同じです。ヘブル語で「サタン」というそうです。サタンというのは「訴える者、敵対する者、試みる者」という意味があるようです。悪魔、サタンは私たちに対して訴えてくる存在です。
ゼカリヤ書 三章一節には、
『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。』
と書いてあります。ヨシュアを訴えるためにサタンが立っていると言うのです。またヨハネの黙示録十二章九節~十節には、
『こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』
ここにも私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者とあります。悪魔は私たちにいろいろな形で訴える者だと教えています。正直今回私はこのヨエル書の「弱い者に私は勇士だと言わせよ。」というみことばから語ろうとは思いませんでした。なぜかと言いますと、今自分が弱いのでこのみことばは語れないと思っていました。二週前の礼拝で滝元明牧師がここでメッセージして下さいました。本当は私の順番でしたが、変わって下さいました。その時「本当は上條先生がメッセージするはずでしたが諸事情によって・・」と語って下さいましたが、実は腰が痛くて辛かったため変わってもらいました。以前腰のヘルニアを病み、だましだまし生活してきましたが、今回また痛みが再発したからです。そしてそれに加えて五十肩で苦しんでいます。右手と肩が痛く苦しんでいます。初めは痛みが少なく、手もしっかり上に上がるので、私の五十肩は軽いなぁと思っていました。しかし日に日に痛みが増してきました。私は右手を下にして睡眠をとる癖があります。だから夜もなかなか眠ることもできません。一時間もしくは二時間すると痛くて起きてしまいます。服を着たり、脱いだりする時は大変です。激痛が走るのです。また日中何度も何度も激痛があり、苦しんでいます。そんな状況で「弱い者に私は勇士だと言わせよ」というなんてとてもじゃない。だからそのみことばから話せるはずがないと思いました。しかし私の心からこのみことばが離れる事がありませんでした。そのため主が語れと言われていると思わされて、深く学ばさせて頂きました。
先ほども言いましたように、悪魔というのは私たちに訴えて来ます。それも私にだったら「おまえ、そんな腰が痛いのにメッセージ出来るのか?」とか訴えてきます。そしておまえは弱いのになんで「弱い者に私は勇士だと言わせよ」なんて話せるのかと訴えて来ます。そして弱い所を見させ、体験させて、おまえは弱い。ダメだ。話すことができないぞと訴えてきます。私たちは知らず知らずのうちに、悪魔の訴えを聞いて、悪魔に白旗をあげているような感じがします。「もう降参!私駄目です」というような時があります。しかし聖書を読む時はみことばをアーメンと受け取り、メッセージを聞くとアーメンと信仰がわいてきます。しかし自分の家に、職場にもどると悪魔に訴えられている事に、アーメンと認めてしまってしまいます。一方の手では聖書を持ち、一方の手では白い旗を持って、降参です。もう無理ですと言っている。結局信仰はないに等しい者になってしまいます。第一ペテロ 五章七節~九節には、
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』
このみことばで七節、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです』と読むと、「あぁ、いい御言葉だ」と神さまを認め信じます。しかし『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています』というのです。悪魔は私たちを訴え、一番弱い所、白旗をすぐに上げるような弱点の所を狙って来ます。信仰を持ってしまったら大変だからすぐに攻撃してきます。お腹を空かせたライオンと一体一になったら、私たちは勝ち目がないと思わせ、白旗、悪魔の前に降参をしてしまいます。「おまえは信仰が弱いんだ」「まだ信仰歴何年だろ」と訴えてきます。また今もとりなしのためにネパールに行っていますが、滝元順牧師一行が行く日に、ニュースで見られた方もいるかもしれませんが、ネパールに地震がありました。ネパールのカトマンズでも何人かの方が塀の下敷きになって亡くなったというのです。「とりなしの祈り」「戦いの祈り」をすると言う時、大変だ、悪魔が祈るなと行っているかのように、訴え、戦いを与えてきます。私たちは出鼻をくじかれるような、そんな時があります。
二〇〇九年に韓国でミッションをしましたが、その時は前大統領が自殺して亡くなりました。そして韓国中が喪に服し、大会自体が開催できないじゃないかと思わされました。今まで祈って来たのに・・・・。今まで準備してきたのに・・・・。と訴えられ、戦いをストップさせてきます。戦いすると大変なことが起きると訴えてきます。また今回の九州リバイバルミッションや今年行われた春川とソウルでのリバイバルミッションでも、あの三月十一日の東日本大震災があり、今こんなに東北が大変なのになぜ今韓国なの・・・・?と思わせます。私たちが「さぁ、戦うぞ!さぁやるぞ!」と思う時、戦う意欲を失わせ、駄目だ、無理だと恐れさせるのです。悪魔は食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているのです。
そんな時に、主は堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。必ず勝利してくださると聖書で教えています。イエスの御名があると教えています。ルカ十章十七節~十九節には
『 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』
とみことばでは、必ずイエスの御名によって勝利を取ることができるとあります。しかし悪魔は訴えてきて、みことばを受け取ることができなくさせてきます。以前も話しましたが私は二十五年前ほどに原因不明の病気になり、東京の病院まで行って検査入院しました。
当時七十二キロあった体重が五十七キロになり、全く力がなくなり、苦しんだ時がありました。その時私は病の渦中常に、「なんでこんなに・・」といつも愚痴ばかりこぼしていました。「今まで神さまのために働いてきたのに?」と思っていました。検査してもなんの病気か分からず苦しみの中にいました。多くの人から祈って頂きました。以前私はそのような病があり苦しんでいる人に「イエスさまを信じなさい。祈りなさい」と伝えてきました。しかし自分に病が降りかかる時、苦しくてたまらず、不平不満そして、ちょっとしたことでイライラする。全く信仰と真逆を歩んでいました。そんな苦しくてたまらなかった時、病室で一冊の「賛美の力」という本を読みました。そこには『すべてのことについて感謝しなさい』と書いてありました。私は当時四時間、時間を空けなくてはいけない、痛み止めを待てずに、三時間間隔で毎日座薬を打っていた現状でした。その「賛美の力」という本を読んだ時に、『すべてのことについて感謝しなさい。』「すべてというのはいい時ばかりではない。悪い時でも感謝しなさい」とありました。しかし私はそれを全否定しました。「できるわけない」と。この本を書いた人は、病気を知らない健康な人が書いたから、問題もない人が書いたからこんな事を簡単に書くのだ。この状況になったら誰もが感謝なんて絶対無理だと思いました。でも、ある日何の検査することもなく、何もせずにベットに横たわっていました。何もない所でボーっとする、そういう時は余計に時間が長く感じます。その朝私は、「そうだ、今日一日、騙されてもいいから感謝してみよう」と思いました。退屈しのぎで始めたのです。いい事はすぐに感謝できます。でもその感謝もあっという間、約二、三分で終ってしまいました。もう感謝することがないのです。逆の不平不満はどれだけでも出てくるのです。でもその日は試してみました。悪いことまでも感謝しようと思って、感謝しました。そんなこと無理だろうと思いながらも、口では感謝を告白し心では全く信じて、思ってもいませんでした。「痛みが感じることを感謝します。」脇腹に痛みが出ると四十度くらいの原因不明の熱がよく出ていました。それを思いだして「熱が出ることを感謝します。」また病院があること、看護師さんたちがいること、祈ってくださる方がいること、最後は「目が見えることを感謝します」とか今まで考えたことのないような当たり前で感謝とも考えたことのないことも感謝しました。「手に指紋があることを感謝します」とか探しながら一つ一つ感謝して行きました。その時驚いたことがありました。先ほど言いましたように、四時間も待たずに痛み止めを打っていたような私が、その日は夕方まで一回も痛み止めがいらなかったのです。そのことに気づきました。夕ご飯の時間になった時、「打ってないよ」と思った時に、初めて痛いような気がして、痛み止めの座薬を使いました。大変化が私の体にあったのです。告白して感謝の祈りをすることが、こんなに大きな変化を、いやしがあることを知り驚きました。感謝という告白の祈りが大きな力があるということを教えられたことを思い出しました。その時にもう一度ヨエル書三章十節のみことばを思い出しました。
『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』
鞭を打って、「がんばれ!勇士になれ!」というけど私には無理だと思っていました。しかし、ここで、「弱い者はよく祈りなさい」と言っているわけでもありません。「よく奉仕しなさい」とか、「献金しなさい」とか、「聖書をこれだけ読みなさい」とか言っているわけでもない。「あなたが今から戦え」と言っているのでもない。ヨエル書三章十節をもう一度見てみると、
『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』
なんと書いてありますか?『言わせよ』とあります。ただ弱い者に「私は勇士だ」と言えと言っているのです。言うだけです。それだけです。私はそれを知った時、感謝しました。また『鋤を剣に、かまを槍に』と書いてあります。鋤(すき)と鎌とはどんなものでしょうか?その当時の鋤というのはどんなのか調べてみました。この図は当時の者ではないかも知れませんが、たぶんこんな道具でしょう。
鋤というのはこんなスコップの原型のような根を切るような物かなと思います。当時の日常生活は農業にて食を得ていました。鍬と鎌はそのための道具であす。ですからヨエル書の三章『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ』と言っているのは、私たちは生活の中で、今まで否定的、不信仰、訴えられた事柄に対して「私は弱い者だけど、勇士だ」と告白しなさいと言っているのです。どんなに負けて、今、最悪の状況であったとしても、私たちは「勇士だ!」と言うこと。告白することを求めています。
ローマ人への手紙 十章十節にこういう有名な御言葉があります。
『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』
このみことばは『口で告白して救われる。』イエス様を信じると口で告白したら救われると言うのです。ですから私たちの鋤を剣に、かまを槍に、というのは私たちの生活の中で、今までは訴えられて、「苦しい。駄目だ」と言っているところを、今日は「勇士だ」「イエスさまにあって勝利する」と言えば良いのです。私たちは今がどんな状態でも宣言し、感謝し、口で告白ということが、勝利に導くのです。
もう一つ写真を見ていただきたいと思います。
何が見えますか?これを子どもたちに見せたら黒い点がついていると言いました。これは私たちの生活とか、心を表していると思います。いいですか?周りは真っ白なんです。でも、一つの小さな黒点があります。私たちはすぐにその小さな黒点に目が行きます。しかしほとんどは真っ白です。私たちは黒点のような小さな事ばかり目に留めてしまいますが、ほとんどが白のように、大変なことは少しだけです。しかし悪魔は私たちに訴えて、白と黒が逆転したかのように大変さだけに目を留めさせます。私たちが「勇士だ!戦え」と、自分で戦いにでて行くならば、一発でやられると思います。空腹のライオンと一対一で戦えと行ったら、すぐに負けてしまいます。わざわざライオンの檻の中に入っていきますか?絶対にそんな事はありません。動物園で見学できるのは、そこに檻があり、また堀があって、その奥にライオンがあって、絶対手や体が届かないから、私たちは安心して見物できるのです。それと同じように、問題も告白、宣言する時、主が戦って下さるのです。悪魔は訴えて来ます。しかし私たちは宣言すれば良いのです。先週のみことばは「人にはできないことが神にはできるのです」というみことばでした。私たちは弱い者である。でも「勇士だと言わせよ。」なのです。宣言しましょう。
イエスの十二弟子の中で、私が好きな弟子の一人はペテロです。マタイの福音書二十六章七十三節~七十四節を見ると、
『しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。』
と書いてあります。彼はイエスさまの公生涯、一番近くで生活しました。そして「絶対にあなたから離れません。どんな時でも離れません」と言ったペテロでした。しかしイエスさまが十字架にかかる時、七十四節では『「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。』とあります。三回も裏切り、最後にはとうとうイエス様に対して、自分とは関係がない、知らない、そしてイエスさまのことを汚い言葉でののしり、のろってしまったのです。その後マタイの福音書二十六章七十五節、
『そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。』
「やっちゃった。裏切っちゃった。」ここでも訴えられています。しかし、イエスさまは復活後、ペテロのところに現れ、「わたしを愛するか、わたしを愛するか、わたしを愛するか」と三回、ペテロに語りました。そして「わたしの羊を飼いなさい。」と言われ、五旬節の時には、二階座敷で聖霊の力を頂き、ペテロは先頭に立ってみことばを語りました。そしてその美しの門では堂々と「金銀は我にはない。しかし、私にある物をあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩みなさい」と言ったのです。イエス・キリストの名前を宣言したのです。そのイエス・キリストの権威によって癒されたのです。
また聖書を読むとギデオンという人がいます。士師記 六章六節~九節、
『それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。』
この時代イスラエルは弱くなり、みんな怯えて隠れていました。特にこのギデオンは、酒ぶねの中に隠れて小麦を打っていたという人物です。イスラエル人はしなえました。「あのイスラエルがエジプトから出たことを、おまえたちはなんで覚えていないんだ?あの時、助けたんだから、今度も戦え」と言っているのです。十二節、これは主の使いがギデオンに現れた時のことですが、
『主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
と言われました。しかしギデオンは十三節、
『ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。」』
主の使いに向かって、「なんで出エジプトした時には、助けてくれたのに、今はどうして助けてくれないのか?」と食って掛かるような状況でした。その時に、この十三節のところには「御使い」と書いてありますが十六節を見ると、
『主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」』
「主の御使い」ではなく、ここでは今度は「主」が言っています。「あなたと共にいるんだ。出て行け」と。その後すぐに出て行ったかというと、そうではなくて、さまざまなしるしを求めました。その後やっと「わかりました。がんばります」と言ってギデオンは出て行ったのです。
神さまはペテロもそうですし、ギデオンもそうですが勇士を使うのではなくて、聖書からみると、隠れているような、駄目だと思っている人を用いています。第二コリント十二章九節~十節では、
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたと言いました。そしてパウロは、「弱い」ということを誇ろうと言っています。また、有名なみことばで、教会は頭が神さまで私たちは各器官だと言います。第一コリント十二章二十二節に
『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』
弱い器官こそなくてはならない器官。キーマンだというのです。大切な人だと言っています。またマタイの福音書 四章一節~二節に、
『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。』
と書いてあります。イエスさまは私たちと同じ体でこの地上に来てくださいました。そのなかで四十日間断食しました。私は断食を四日しかやったことがありませんので堂々と言えませんが、四日間でも、もう三日目の夜は何が食べたい、これが食べたいと、一緒に断食をした人と語り合い、次の朝は今日食べれるぞと目が爛々として、終わる時らすぐに、あのときはお粥と梅干し食べたことを思い出します。歯磨きをするだけでも味があっておいしいと思うくらい、私は卑しい者です。しかし同じ肉体を持ったイエスさまがなんと四十日間、断食した後悪魔が近づいて来てなんて言ったかというと、マタイの福音書 四章三節、
『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」』
と言っています。その時点でイエスさまの一番欲求の強いところ。一番苦しいところ。そこをターゲットに当てて、訴える者、悪魔は、サタンは、「石をパンにしてみなさい」と食べ物で責めてきました。悪魔は私たちの一番弱いところを知っています。その時にイエスさまはなんて言ったというと、マタイの福音書 四章四節、
『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』
御言葉で宣言したのです。すると、マタイの福音書 四章五節~七節、
『すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」』
悪魔はみことばを引用して誘惑してきました。しかしイエス様は、『あなたの神である主を試みてはならないと言った』とあります。それから、三回目マタイの福音書四章八節~十節、
『今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」』
イエス・キリストがこの地上に来た目的が何であるか悪魔は知っていました。でもその救いを完成させないために、私を拝んだら、簡単にこの世をおまえにやる。救いという一番大事な部分を「俺によこせ」と言ったのです。その時も、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよと書いてある』と、みことばで宣言し、勝利しました。今日、みなさんの中で、弱さを覚えていたり、今苦しんでいるところがあると思います。人には言えない問題があるかもしれません。健康面においても、また家族が救われていないことにおいても、いろんなことにおいて私たちは悪魔に訴えられています。あなたは悪魔に降参の白旗をあげてしまっていませんか?先ほどのヨエル書 三章十節、
『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』
現状が変わらなくても、武器を持って宣言して下さい。「私は勇士だ。三十倍、六十倍、百倍の恵みをくださる。祈りは答えられる」とあなたが信仰を持って宣言する時、主はあなたに答えてくださいます。
そして、ヨエル書 三章十三節、
『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。』
今日本のクリスチャン人口は、〇・二パーセントです。まもなく村祭り、秋祭りが始まります。現状がどうであろうとも、「あの人が救われることを宣言します。」家族がどう反対しようとも、イエスさまのみことばを信じて、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』また『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。』みことばを宣言しましょう。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言って下さっています。あなたが信じて宣言する時、圧倒的な勝利を頂くことができます。
今日、鋤を剣にかまをやりに打ち直して、私たちは宣言しましょう。あなたが勇士だと宣言する時教会も、また、あなたの周りも、日本も、変わってくると信じます。今は悪魔に頭を踏まれて、「おまえは弱い。そうだよな。認めろ」と言われて、私たちは弱さを認めてしまっている状況かも知りません。しかし今日、その悪魔に「さがれサタン!」と、宣言しましょう。私たちが宣言していく時、主がその悪魔の力を打ち砕いてくださる。暗闇から光に変えてくださると信じましょう。宣言していきましょう。
『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と、あなたを愛して、あなたのために働きたいと言われている、イエスさまを覚えて、聖餐の時を持ちます。今から祈りますけれども、聖餐をいただく時に、「私はイエス・キリストを信じる者である。私は勇士だ」と心の底から宣言しましょう。!
愛する父なる神様。今日私は、イエスさまを信じます。そしてイエス・キリスとの名前によって宣言します。私は弱い者ですが、勇士であると感謝します。今日、訴えてくる者を打ち破ります。悪魔に宣言します。今日、私たちは今どんな状態にあっても、イエス・キリストの名によって祝福を頂きます。主の勝利を頂きます。三十倍・六十倍・百倍の祝福を下さい。訴える者から解放して下さい。今私はイエス・キリストを神として信じます。この聖餐をいただく時、イエス・キリストによって勝利者、勇士となりますように。今まで動かなかった問題や病、また救いも、悪魔から勝ち取り、圧倒的な勝利者となりますように。主よありがとうございます。今日訴えてくる悪魔の力が打ち破られたことをイエスさまの名前によってお祈ります。アーメン。