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『喜びおどる者となるために』

2011.10.30(SUN)
新城教会副牧師 滝元 開
第1ペテロ 4章12節〜13節

『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。』

 こうして賛美礼拝の時を持つことができて心から感謝します。そして、主が今日もこの賛美のただ中で、私たちに大きな祝福と、恵み、力を与えてくださったことを信じて心から感謝します。

 先週の水曜日は、飯田市という所でザワメキの賛美集会をさせていただきましたが、とても大きな恵みの時でした。飯田の街は、歴史的にキリスト教会の中では一つの大きな出来事のあった場所です。愛知県津具村で明治時代にリバイバルがあったと言われていますけれども、その後大正時代にリバイバルが起こったのが飯田です。飯田の教会で牧師先生たちが集まって祈った時に、激しい主の霊が注がれて、リバイバルが起こったのです。リバイバルの起こった場所にはすごく不思議な神様の選びがあるんだというのを思うんですね。
 今回、飯田でのザワメキの集会は二年ぶり3回目だったのですが、行く度に、「なにかわからないけどここ燃えてるな」と感じるんですね。年配の方々が多いんですが、何とも言えない熱さがあるのです。それが表面的なものではなく、しかも、人数が多いわけでもなく、年齢層は結構高く、ザワメキの歌をどれもこれも知っているのではないにも関わらず、そこから伝わってくるものが、熱い!という中に、神様の選びがその街にあって、神様の大きな計画がこの飯田にあるんだなということをすごく思いました。
 そんな中で、一つ示された御言葉が、ヘブル人への手紙 十章二十五節、

『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』

 この御言葉が心に響きました。かの日が近づいている。イエス様がまもなく帰ってこられようとしている、そのような時代ですけれども、『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』一つ所に集まって主を礼拝し、一つ所に集まって主の御名によって集まることの祝福というのはすごく大きいんだなということを感じました。
 飯田の街では、毎月一回「リバイバル祈祷会」という集会が、幾つかの教会が合同して持たれています。今回私たちが招かれたのは三回目です。前回は二年前でした。その時には、ある教団の教会でのザワメキ賛美集会でした。その教団は、プロテスタントではあるのですが、儀式的な領域を重んじる教会でした。その教会の真ん中にある十字架には、イエス様の像が掛かっています。教会の玄関にはマリア像が立っているし、あちこちに歴史を感じさせられる絵がいっぱいあり、普段では味わえない不思議な雰囲気の中でのザワメキでした。でも、そこの先生はすごくリバイバルに燃えておられて、「リバイバルをこの地から!」と一生懸命働いておられ、私たちを歓迎してくださって、共に賛美しました。
 実は今回行って賛美をしていると、その先生がいないのです。そこの教会にはもう一人だけ信徒の方がいらっしゃって、「彼が来ているのに先生は来ていないな」と思いながら、会衆と共に賛美をしていました。喜びの賛美の中、みなさんが熱くなられ「いや〜、リバイバルの地は違うな」と感じたんですけれども、最後にこの祈祷会を開催した教会の牧師先生が出て来られて、突然こうおっしゃいました。「今日、天国で一番喜んでおられるのは、あの教会の牧師先生だと思います」と。びっくりしました。二年前にお伺いしたその教会の先生は、何と今年の三月に天に召されたということでした。先生の属しておられた教団では「リバイバル」という言葉さえ口にされないような環境でした。そんな中で二年前には、その教会において開催してくださいました。先生はすごくユニークな方で「今年は春から縁起がいいわいなー」とか言いながら私たちを迎えてくださって、その集会の中では、誰よりも熱く燃えて賛美しておられました。賛美後に、「いや、本当に今日はこの天井が破れるかと思った!」と言って、すごく喜んでその先生が言われたのにも関わらず、今回は天国で観戦しておられたということを聞いて、寂しい思いをしました。
 その先生の最後の言葉を聞くと、最後はその教団の関係のホスピスで天に帰られたそうなんですが、天に帰る前に、お見舞いに来ていた教団の先生方が「最後に一番したいことは何んだい?」とその先生に問われると、先生は「最後にリバイバル祈祷会をしたい」とおっしゃって、そのホスピスの中でリバイバル祈祷会をして天に帰って行かれたそうです。
その街で燃えたリバイバルの火は、今なおいろんな形で燃え続けているわけですけれども、私たちはこの時代、集まって主を賛美して主を礼拝するということがすごく大切な時代だと思います。今はどこででも情報をキャッチできる時代です。今はスマートフォンというものがあって、今じゃお年寄りの方々もいろいろな所で「スマートフォン講習」なんかをやっていますけれども、スマートフォンで集会にも参加できますし、コンピューターからも参加出来ます。私たちは知識の中では多くの情報を収集出来る時代の中に生きています。でも、このような時代だからこそ、私たちは集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うために集まることの大切さを飯田の集会の中で教えられました。その火が、今なお街に燃え続けている原因のひとつは、毎月、毎月、このリバイバル祈祷会が行なわれてきたからだな、ということを強く感じさせられました。ですから、私たちも主の名によって集まり続けましょう。

第一ペテロ 四章十二節〜十三節、
『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。』

 今日のメッセージのテーマは、「喜びおどる者となるために」というそういったテーマを立てさせていただきました。私たちは今、終わりの時代生かされ、いつどこで何が起こってもおかしくないような時代の中に立たされています。そのような中でも喜びおどり続け、「かの日」すなわちイエス様が来た時に、「ハレルヤ!イエス様!私たちはあなたを待っていました!」と喜びおどって主を迎えられる者となるためには、まず私たちは集まって主を賛美し、かの日が近いことを覚えて、イエス様ご自身の名によって集まることに、私たちは集まる大切さというのをもう一度覚えなくてはいけないのではないかということを思っています。

 この二〇一一年もあと二ヶ月ということであっという間です。本当に年月が流れるのが早くて、私も昨年の十一月で五十歳になり、今後も主の来られるその日まで走り続けようとがんばっているんですけれども、最近娘に「歳くった歳くった」と言われています。「最近は昔みたいに走ってないし、叫んでないし、なにギターにしがみついて歌ってんのよ」とよく言われるんですが、叫ぶのに時があるので、主の御名によって叫ぶ時には叫んで、走る時には走れたらいいなと思っているんですが、ただ、ふと気づいたら走れない自分がいるといけないので、皆さまも、今日は昼から運動会がありますので、是非今日は教会前のグラウンドでやりますのでお集まりください。
 「教会前で運動会?手を抜いたんじゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、決して手は抜いていません。今回、わざわざ草は刈るはラインは引くはすごく手間がかかっているんですが、この街、この地を勝ち取るためにも一つ所に集まって、主の名によって集まって、運動会をする中にもこの地のリバイバルが前進するのではないかと思っています。ですから、突然走ってアキレス腱切ったりしないようにしてください。今回はトラックがすごく小さいんですが、これは思いっきり走ったら絶対転ぶな、というようなトラックで、しかも下が草ですから、滑るは小さいはで、絶対今日は転ぶ人続出だと思っていますけれども、是非気をつけていただきつつ、リバイバルのために、霊、肉、魂、すべての領域が健康であるように私たちは主にあってこの終わりの時代を迎えていきたいなとそんなことを思っています。
 ということで、お話を戻しますが、この二〇一一年、希望に満ちた年のように始まったと思います。私に与えられた御言葉が、エゼキエル 三十七章九節、

『そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」』

 この御言葉が与えられました。この年は、殺された骨のような所に主の息が吹いて行く時に、そこに大群衆が立ち上がるようなリバイバルを見るんだ!というようなそんな希望に満ちた年がスタートしました。今年は『息よ。四方から吹いて来い。』ということで、十四時二十一分に、毎日今年はアラームをかけて、中高生と一緒に歌って来ました。十四時二十一分になると、「息よ。四方から。今、この地に吹いて来い!」と歌い続けて来ましたけれども、よろしければ後二ヶ月、みなさんもアラームにセットしていただいて、そのサビの所だけでも結構ですから「息よ、四方から吹いて来い!」と、この後二ヶ月間の中に、神様の息が吹いて来ることを願い、信じて歌っていただければと思います。そんな希望と共に、私たちは今年を迎えましたけれども、神様の計画と私たちの予定とは異なるところがたくさんあります。三月十一日を境に、この日本が、いや世界が大きく変化をはじめているように感じられます。今日の御言葉通りに「燃え盛る火の試練」のようなことが起こってしまったのがこの現実だと思います。いよいよ世界の歴史の最終章の幕開けがされたようなそんな時に私たちは生かされていると思います。そんな中で、神さまが私たちに語っておられるのは「喜び続けなさい」という言葉でした。私自身震災後に与えられた御言葉がネヘミヤ記八章十節『主を喜ぶことがあなたがたの力です。』でした。歌うことが出来るような状況じゃないと、誰もがそんな気持ちになったのがあの三月十一日でしたけれども、そんな中で語ってくださった主の言葉は、『主を喜ぶことがあなたがたの力だ』と。この終わりの時代の戦いを戦い抜くために喜びなさい、というのが主の御言葉です。
 ですから、今日のこの第一ペテロ 四章十三節に、

『むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。』

 こんなこと起こってはならないというようなことが、これからもっともっと起こる様な時代かもしれません。そのような中でも、「あなた方、キリスト者は喜びなさい!」ということを神様が今日も私たちに語ってくださっていると信じています。
 ただ「喜べ」と言っても喜べない現状が余りにも多いのかもしれませんが、今日もこうして賛美礼拝の中で、賛美出来るというのはすごく大きな恵みで、私たちの思いがそこに付いて行けなくても「勇気を出して♪」と歌っていると、なんか知らないけど勇気が出て来るというか大きな力が出てくることを体験すると思います。
 ザワメキで七月、八月、九月と被災地を少しだけ巡ることができました。最初に訪れたのは、福島の福島市でした。放射能の問題で大変な状況の中にある所にまず訪問させていただきました。事前に向こうの牧師先生方と集会の打ち合わせをすると、牧師先生がこうおっしゃるのです。その教会は幼稚園もしていて、毎回幼稚園の園児たちもたくさん集会に来るんですね。そしてザワメキをすごく好んでくださっていて、毎年、運動会にはザワメキを流すんですって。そして今年のテーマ曲が「勇気を出して」で、子供たちが「勇気を出ーしーてー!」と一生懸命歌う教会なんですね。ですから、またあそこに行って子供たちと歌えたら嬉しいなと思いながら、お電話したら、「今年は子供たちは来ないと思います」とおっしゃるんですね。被災以来、窓は開けられないし、外には出られないし、クーラーもかけられないようなそんな状態であります。親子さんたちもぴりぴりしていて、親子さんの中でも一人去り、二人去り、その街を去っている人もいるので、みんなすごく神経を尖らせている状況で、ましてや夜に子供たちが外に出て集会に来ることというのは今はないので、「人数少ないかもしれませんけど、その中でお願いします」と言われたんですね。「人数じゃないので、そこで歌うことに大きな意味があると思っているので一緒に歌いましょう」ということで出向いて行きました。
 その教会に到着すると、玄関前に看板がありました。そこに子供たちが描いてくれた絵がありました。「震災復興支援ざわめきコンサート」と書いてあって、そこに書かれていた絵が私のザワメキイレブンのギターを持った姿があるんですけれど、それを墨で描いて、どこかの炭坑夫のように歌っている姿が描かれているのです。そこに子供たちがいっぱい花を描いたりチョウチョを描いたりして、楽しげに描いてくれました。私だけ墨で黒いんですが、でも、彼らが歓迎してくれたということは私たちにはすごく伝わったので、「来て良かったな」と思って、夜の集会に臨みました。
 そうしたらびっくりしたことに、一列目二列目まで、全部子供たちでした。子供たちみんな来てくれて、そしてそのクリスチャンでない親子さんたちもたくさんいるんですが、みんな来て、本当に喜んで一緒に賛美をしてくれました。最後にまた「勇気を出して」を歌いました。彼らは特に「勇気を出して」というところだけしっかり覚えていて、「歩き始めよう、君と一緒にイエスがいるから」というところはぼそぼそって感じなんですが、「勇気を出して」になると一生懸命歌うのです。
 すると、一番前にえなり君みたいな子が立っていて、「勇気をだーしーてー!」と歌いながら前に歩いてくるんですね。するとはっと気づいて、自分の定位置に戻るんですけど、そしてまた歌い出して、夢中になって「勇気をだーしーてー!」と歌いつつ歩き出す彼を見ながら、本当に勇気づけられました。勇気の出ないような時代の中で、神様はそのような中でも歌うことの大切さというのをその彼を通して教えていただいたようなそんな時を持ちました。

 そしてこの教会から何人かの方が訪れたシーサイドバイブルチャペルにおいても賛美をささげさせていただきました。そして、あの被災された現地で歌うことができました。午前中は現在礼拝されている喫茶店の礼拝場で礼拝をし、そして午後は、被災地の全て流されてしまった場所で行いました。瓦礫の中から見つけ出された十字架の下にドラムセットだとかギターとかをセットして、PAセットをして歌いました。何もない所で、本当に悲しみがいっぱい詰まっているような場所で、望みのないようなところでそこで神様を賛美しようと思って賛美しに行きました。
 七月だったのですごく熱い日だったんですが、私は帽子を持って行くのを忘れたので、ちょうど教会の前に百円ショップがあったので、娘に「帽子一つ買って来て!」と頼むと彼女が買ってきました。何を思ったか、黒いカウボーイハットを買って来ました。「なんでこんなの買って来たよ?」と聞くと、「だってこれかドクロマークの帽子しかないんだもん」ということで、ドクロで歌うわけにはいかないので、彼女の買って来た帽子をかぶって、「今日は昼から集会がありますけど私はこれをかぶってやります。」と言って、何人の人が来るかなと思いながら準備をしていました。
 あの教会とは私たちは深い交わりがあった教会なんですね。二十三年ぶりに出会った方たちがたくさんいらっしゃって、私たちの過去の教団に属していた方たちだったので、「私、二十三年ぶりです!」という方がたくさんおられました。でも、そこの牧師先生、内藤先生ですけれども、「ねぇ、開ちゃん。立って歌うように言わないで!立って歌うの慣れてないから。お手柔らかに」とおっしゃったので、その通り、礼拝ではしました。そして、「午後から来られる方は来てください」とカウボーイハットをかぶって報告をしました。
 そして、午後の集会だったんですが、お年寄りの方たちがたくさんだし、こういった歌知らないし、きっと来ないだろうなと思ったら、続々と来て下さいました。そして牧師先生はじめ、信徒の方々が黒いカウボーイハットをかぶってそこに現れて、みんなで一緒に賛美してくださって、カウボーイハットをかぶってダンシングで、本当に大きな恵みの時でした。
 望みのないような場所で本当にすべての苦しみや悲しみがあるような場所で、私たちが行って歌うことというのはある意味簡単なことかもしれませんが、そこですべてを失った先生方、兄弟姉妹が一生懸命賛美されているその姿に、これが終わりの時代における賛美だぞとイエス様が教えてくださっていたような気がしました。
終わりの時代、どこで何が起こってもおかしくない時代だなんて言い続けて来たにも関わらず、いざこの燃え盛る火の試練が私たちの目の前に起こると喜んで歌えない自分がいたりするわけですけど、しかし、そんな中でも主を見上げて、イエス様に目を向けて歌っていかなければいけないと思います。

 気仙沼の教会にも行かせていただいたんですけれども、そこで一人のお年寄りの方に出会い、「震災の時はどうだったんですか?」と聞くと、「僕はこうして生きてて良かった」と言われるのです。どこにおられたかと聞くと、海岸のすぐ近くのビルにいたというのです。四階建てのビルで、地震が起こってこれは津波が来ると思ったので、自分の車の中に免許証があったので、免許証を取りに行こうと思って下に行く途中、「行くじゃない」という気持ちが神様から与えられて、やっぱりやめようと思って上に上がったんですって。そして、屋上に行ったらまず自分の車がうわーっと流されて、その後、家が流されて、いろんな物が流されて、それから三日間その屋上で過ごしたそうです。すごく寒くてどうにもならない時に、気仙沼では火事が起こってしまったんですね。激しい火事で、どんどんどんどんその火が近づいて来て、余りにも寒かったんだけど、その火で暖を取ったというのです。その火が今度は自分たちの所に来るかと思ったというのです。そう思ったらヘリコプターが来て、「俺はただでヘリコプターに乗ったんだ」と妙な自慢をしてくださって、「それで俺は今ここにいるんだ」とおっしゃっていました。家族の方々とは三日ぶりの再会で喜びを共にしたんですけど、「神様は不思議だ。自分に命があって今ここにいられることは本当に不思議なんだ」とおっしゃっておられました。私たちが行ったのは五ヶ月後に行ったんですが、五ヶ月たっても道路は海の中ですし、あちこちにバッテンのついた車がいっぱいあって、車が山積みになっていて、焦げた後があって、「これからどうするんだろう。これはどうにもならないな」という状態です。また、なによりも、人の命が失われて、多くの人々が大きな苦しみと悲しみの中にあって、ちょうどその頃テレビを見ていたら、中学生の女の子が「津波の時、大変でした」というインタビューを受けていました。そしてその女の子は、お母さんを津波で失ってしまっていて、「本当に津波の時は苦しかったけど今はもっと苦しい」と言っておられ、私たちの人間の言葉ではどうにもならない領域だな、ただ祈る領域だなとただテレビを見ていたんですが、手の届かない領域に、この時だからこそ神様御自身に届いてもらわなければいけない時代に来ているなということを強く感じています。

 日本のみならず、世界中が今動いているような時代で、今日もこの礼拝前にある方とお話をしていましたら、タイの洪水のことを見ても、びっくりするようなことがあまりにも多いような時代で「本当に終わりの時代ですね」とおっしゃっておられました。また、イスラエルが動き始める中に終わりの時代の一つの印があるのではないかと思います。イスラエルの宣教師がイスラエルの現状をレポートしたメールが配信されて、私はそれを受け取っているんですけれども、今朝もメールが届きました。「ガザ地区からユダヤ人居住区に砲弾があってイスラエル人に死者が出たと報道がされている。ガザ地区側とイスラエル側で最低でも十名が死んでしまったのではないか。」
現在イスラエルは大変な状況の中にあります。特にアラブ人地区でありパレスチナ自治区と呼ばれるPLO(パレスチナ解放機構)が、今一つの国を立ち上げようとしています。イスラエルに行くと、イスラエルのユダヤ人地区があったり、パレスチナ人のアラブ人地区が共存しています。そして特にガザ地区というのはパレスチナ人地区なんですけれども、そこがすごく荒れ果てた場所で、そこからイスラエルに対していっぱい攻撃をしてくるのです。それで今朝、砲弾が着弾して、大変な悲惨な状況にあって二万人の子供たちがシェルターに今入っているというのです。そのような状態にあるということを今朝も知ったんですが、そのパレスチナ自治区が国になろうとしているという事が世界では起こっています。
野田総理がこの間、国連で演説をしたんですが、その前に演説したのが、そのパレスチナ側の方が演説しました。彼の演説は、パレスチナを一つの国としたいということで、聖書の預言とは相反する発言をしました。「その地を私たちのものに奪回したい」ということを訴えました。それに対して会衆は拍手喝采だったのです。そういった大きな歴史的な後だったので、野田総理の時にはみんな帰って行ってしまったということで、日本ではそちら側だけを報道していましたが、今は大変な状況の中で、イスラエルが二つに分かれてしまうような出来事が起ころうとしています。もしかしたら十一月十日前後にそれが採決されるのではないかということなので、私たちは祈る時が今来ているのではないかと思います。これがどうなるかはわからないんですけれども、このまま行くとひょっとしたら、国として国連に加盟されてしまうのではないかと思います。ユネスコといわれる団体がありますけれども、ユネスコもその加盟を認めています。多くの国々がパレスチナが国として国連に加盟することを多くの国々が認めていますけれども、ぜひ今この時、世界が大きく動こうとするこのような時代なので、私たちはキリスト者として、いろんな領域の祈りも捧げていかなければならないのではないかと、そのようなことを覚えています。

 先月の終わりのザワメキで、宇都宮に行きました。万年喜八郎という先生がいらっしゃる教会なんですけれども、そこの礼拝で賛美させていただいて、午後からザワメキの集会があったんですが、その時に万年先生が開いてくださった御言葉は、「今日はザワメキが来ているから」ということで、ざわめきの意味について語ってくださり、エレミヤ書 十章十三節を開いてくださいました。この御言葉は甲子園ミッションのテーマの御言葉なんですけれども、エレミヤ書 十章十三節、

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 これが、その日、万年喜八郎先生が開いてくださった御言葉でした。主が声を出すのがリバイバルだ。主ご自身がリバイバルという計画を意思決定されて、「リバイバルを始めるぞ!」と声を出されるのがリバイバルだ。そして、そうするとざわめきが天に起こる。だからざわめきというのは、主が声を出して、ざわめきが起こった後に何が起こされるかということを期待しなければいけないということを先生が語ってくださったんですが、その中でとても印象深かったのが、その倉から風を出すということを語ってくださいました。その倉というのは、日本人がイメージするようなカビ臭い日本式の倉というのではなくて、この倉は「王の宝物倉」ということがこの原語から見るとみることができるとおっしゃるのです。ですから、ただ古い倉が開けられて、昔のお米がみんなに支給されるというのではなくて、神様の祝福の倉が開かれて、そこから王の宝物のような風が流れるようなことがリバイバルの中ではこれから起こされていくので、そのことを信じて前進しましょう!というメッセージをいただきました。
 本当にこの年、大変な出来事がこの日本に起こり、またあちらこちらで世界中に起こっているようなそのような状況にありますけど、そのような中で私たちが喜びを失うことなく、おどり続けるために必要なことは、やっぱり御言葉を信じ続けることだと思います。主がくださった御言葉、イエス様ご自身が与えてくださるその御言葉をしっかりと信じ続けて歩み続けていきたいと心から願っています。

 最後に一つの証しだけして終わりにしたいと思いますが、その前に御言葉を一つお読みします。第一ペテロ 四章七節〜八節、

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』

 『万物の終わりが近づきました。』終わりが近づいた中で、この終わりの時代に必要なのは、神様から与えていただく愛だと思っています。人々を愛する真実な愛。この日本に対する愛と世界に対する愛を神様からいただいて、そのためにリバイバルを待ち望んで戦って行かなければいけないと思っています。

 今年はザワメキの新しいCDザワメキイレブンが与えられて、素晴らしい主の恵みをいただきました。奇跡のレコーディングを通して、神様がこれからリバイバルの中でされようとしているご計画を見させていただきました。

二ヶ月半くらい前に県民の森祈祷会で祈っていました。その時に、「この日本にリバイバルを!」という願いで祈っていて、そのためには、この日本がリバイバルされるためには、どうしても天皇陛下が救われないといけないと思い「天皇のために祈ろう!」と思って一生懸命天皇のために祈っていました。「主よ、天皇が救われますように。主よ、どうぞ」と思って祈っていたら、「そうだ、天皇にザワメキイレブンをお送りしよう!」という気持ちが起こりました。となれば、私の父にお願いしたら送れるんじゃないかと思い父の所に行きました。
 父に「ザワメキイレブンを天皇陛下の所に送ってくれないかな」と言うと、父がこういうのです。「そうだな。だいたい送るのは自分の中で決めている」というのです。「十月になると美智子妃殿下の誕生日だからその時でもいいかな」というのです。それが二ヶ月以上前だったので、「ちょっと間が開きますね」という話をしたら、「まぁいい。じゃぁ、開、手紙書いて、そうしたら一緒に送ってやる」と手紙を書くことになりました。父は三十年くらい前から、天皇皇后両陛下との親交が与えられて、その中で愛を持って祈り続けてコンスタントな交流をし続けているのです。

 昨年、父は軽井沢の道路際から天皇陛下に手を振ったことがあったんですが、その時は、天皇陛下が軽井沢に来られているから何とかお会いしたいと、父が言い出し、でも天皇がどこで何をしているのかは一般に公開されないんですね。だから、「その日はテニスをしているだろう」という情報をどこからかキャッチして、「それじゃぁ、テニスをしているんだったら、ユニオンチャーチの前の天皇皇后が出会ったあのテニスコートだ!」と言って、父は何をしたかといったら、朝からネクタイをはめて、スーツを着て、その前でずっと待っているのです。待つこと四時間、ひたすら恋人を待つかのようにずっと待っているのです。途中で私が父のもとに行って、「親父さん、天皇陛下は来た?」というと「来ない」と言うのです。そして、近くに報道陣の方々がカメラを持って待っていたりするのですが、父がその報道陣の人たちに「今年は来そうですかね?」「いや〜、わからないですね。私たちもわからないですね」なんて言っているんですけれども、ただ彼はそこでひたすら待っているのです。その姿の中に「天皇陛下に対する真実な愛があるんだな、この愛をもって祈ることが大切だな」とすごく思わされました。

 話は戻りますが、二ヶ月半前にザワメキイレブンをお送りさせていただこうということで、手紙を書いてお送りするようになりました。父は、私に手紙を書くようにと言うので、私の手は余りにも字が上手じゃないので、ワープロで手紙を書き始めました。「天皇皇后両陛下様」・・さぁ、なんて書こうと思いまして、「拝啓・・・? さわやかな風が吹き始めました・・・?」とか、それも違うなと思って、いろいろ考えたんですが、父の所に行って聞くことにしました。
 「親父さん、いつもどうやって書いてんの?拝啓とかそういうの書く?」「拝啓?そんなふうには書かない!」「じゃあどうやって書いてる?」と聞くと、父は、「愛する天皇陛下様だ」というのです。さすがストレートだと思って、私は同じじゃいけないと思って、「心から尊敬する天皇皇后両陛下様」から初めて、今回のレコーディングの経緯を書きました。「今回はロサンゼルスでレコーディングをしましたが、そのレコーディングをしたのが三月十一日の出来事でした。時差があるので、日本のあの悲しい出来事をその前夜に見て、私たちがレコーディングをする時に地元の素晴らしいクリスチャンと共に、心を痛めて、一緒に祈って出来上がったCDがこれですので、ぜひお聞きください」ということでお送りしました。
 それが二ヶ月半くらい前なんですが、過去、父がいろいろな手紙を書いたり、何かをお送りすると、一週間から二週間くらいすると宮内庁から電話が来るんですね。でも今回は二週間経っても電話がかかってきませんでした。そして父も「かかってこないな・・」という感じでした。
 それが、つい先々週の金曜日、いよいよ宮内庁からお電話をいただきました。「CDを送ってくれてありがとう。滝元開さんによろしく」という言葉をいただきました。ですから、
 神様はこの日本のリバイバルのために、祈り続けて戦い続けて、いろんな働きがなされてきましたけれども、本当に真実なお方です。ある意味、この日本の最も根底の大切な領域にまで主はその祈りを届けてくださっていて、本当に愛を持って祈った祈りに対して主は答えておられるということを今回見させていただきました。

 私たちは燃え盛る試練が起こってしまう時代に生きています。これからどんな時代になるのか。もっともっと信じられない出来事がこの世界中に起こるかもしれないし、この街に来るかもしれないし、もしかしたら私たちの家庭の中に起こるかもしれない。
 しかし、そのような中でも神様がおっしゃっているのは、『喜びなさい。主の日に喜びおどる者となるためだ』と書かれていますので、私たちはイエス様の御前に立った時に、「ハレルヤ!イエス様。あなたの元に来ました!」と喜びおどる者となるために、そのためにも今を心から感謝して喜び踊る、そのような歩みをさせていただきたいと心から願っています。

 一言お祈りさせていただきます。ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたの素晴らしき御名を崇め、心から賛美をいたします。今日はこうして、あなたを賛美し、あなたを礼拝し、あなたを誉め讃えることができた大きな恵みを心から感謝します。万物の終わりが近づきましたと、私たちは今終わりの時代、このような時代の中に立っていますけれども、そのような中で、様々な出来事がこの世界にあり、また私たちの身の回りにも、またお一人一人の人生の中にも燃え盛る試練のような出来事があるかもしれませんが、そのような中で主は今日私たちに『喜びなさい。喜びおどる者となるために』と語ってくださっていることを覚えて感謝します。
 もう一度、主よ、あなたの素晴らしさを誉め讃えます。あなたは変わることのない真実なお方であることを覚えて心から感謝します。私たちはあなたを歌い続けることができるように、あなたの素晴らしさを誉め讃え続けることができますように。主よ、導いてください。今日こうして賛美でき、また礼拝することができるこの恵みを心から感謝します。この終わりの時代です。ますます主よ、かの日が近づいていることを知り、私たちは一緒に集まり続けることができるように、励まし続けることができるように、そして愛をもって魂に語り続けることができるように助けてください。もう一度イエス様、あなたの愛を心から感謝します。尊き主の御名をあがめ、この祈り、父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。

 イエス様に賛美の拍手をお捧げします。