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『この地の救いのために立ち上がろう』

2011.11.27(SUN)
新城教会副牧師 四元 雅也
出エジプト記 32章26節~29節

『そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、【主】につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」』

ハレルヤ!今日はこの礼拝でみなさんの前でお話しさせていただけますことを心から感謝します。今日の特別演奏も素晴らしかってですね。本当に心にずーんと染み渡るようなピアノ演奏でした。この教会にはいろんな方が神様から賜物を与えられて、私たちもその恵みを受けることができます。賛美リードも今日は上條先生でしたので、いつもと少し雰囲気が違って、これも恵まれて感謝でした。苦しいとき。悲しいとき、力がないと感じるときに、神様はいつでも私に誠実であられる。という信仰がピアノの旋律に込められていました。

七月一七日以来のメッセージです。ここのところ滝元順先生が、日曜日に外へ奉仕に出られることがあまりなく、メッセージを聞けることが多かったです。毎回本当に素晴らしいメッセージを届けてくださるので感謝だなあと思っていました。ところが今月の半ばくらいに今日の韓国での奉仕が決まりました。先生方が外で奉仕することは、この教会にとっても祝福につながることですので、招いてくださるところには喜んで仕えなければなりません。ですが、代わりのメッセージの順番を見たらなんと僕でした。ちょっとショックでした(笑)なんだか代役が僕みたいな至らないものですみません、という気持ちですが、がんばってお話ししたいと思います。

メッセージは料理のようだと言った先生がいます。ペテロの手紙Ⅰ 二章二節にはこう書かれています。

『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』

我が家には四人の子どもたちがいます。年々大きくなるにつれて生意気になってきていますが、生まれたばかりの頃は泣くことと寝ることとおしっこやうんちを垂れること、そしておっぱいを飲むことしかできなかったわけです。どんなに偉い人でも生まれたばかりの頃はそれしかできません。仏教の開祖、お釈迦さんは生まれ落ちたとたん「天上天下唯我独尊」と宣言したと言われます。これは今の言葉で言うと「全世界で私が一番尊い」という意味になります。お釈迦さんは生まれた瞬間「自分は世界一偉いんだぞ」と宣言したわけですからたいそうご立派であるわけです。馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたイエスさまとは大違いです。もちろんこれは釈迦の死後何百年も経った後に作られた伝説です。

今日のメッセージの聖書箇所は、読んだだけではなかなかよくわからない箇所かも知れません。大量虐殺が描かれているのですから。昨日、作りかけの週報に書かれていた今日のメッセージ箇所を見て、上條先生は、「何でこんな聖句を礼拝メッセージのみことばとして選ぶのよくかわからん?」とおっしゃっていました。聖書の全体像を知らない方がここを読めば、聖書というのは残酷な本だと思うかもしれませんし、聖書の神様についてよく知らない方が読めば、聖書に出てくる神様は恐ろしい方だと感じるかもしれません。このことばは、ある意味で料理の難しい、というのはメッセージしにくいみことばです。しかし、霊的に成長していく中で、私たちは霊の食物でも乳離れして大人の食べ物を食べるようになっていかなければなりません。

ヘブル人への手紙 五章一二節~一四節
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』

今日のみ言葉は、堅い食物かもしれません。こういった聖書箇所を通してメッセージするには、聞いている人にわかりやすく受け取りやすいようにお話しするわけです。それが、料理に通じているというわけです。みなさんにおいしく食べていただくために、みことばを上手く料理してお伝えするのが私たちの努めです。そういう意味では、順先生はいつも本当にうまく料理をしておられると思います。
このメッセージを考えながら、ここ何週間分のメッセージをホームページから読み返していましたが、毎週素晴らしいメッセージが語られていました。私は順先生のように上手くは料理できないと思います。ですが、堅い食物のようなみことばを、できるだけ美味しく、食べた人がおなかを壊さないように料理してお話ししたいと思います。

この出エジプト記は、イスラエルの民が四三〇年の間、奴隷として苦役を強いられたエジプトから、モーセの手によって引き出され、自由を勝ち取ったことが始めの部分で記されています。それから今のイスラエルの地まで民族の大移動が始まったわけです。神様は数々のみ業によって導かれました。紅海が分かれて海の底を歩いて、追いすがるエジプトの軍隊から逃れることができました。水のない荒野でモーセが岩を打ったら水がほとばしり出ました。食べ物がない地にマナが降り、うずらが飛んできて宿営に落ちました。あるときは、アマレクが近づいて弱い者達を後ろから襲って来てときには、主が共に戦われて勝利を納めさせたのです。そして、エジプトを出て約1ヶ月半かかって、シナイ半島の先っちょの方にあるホレブに着きました。そこにはモーセがかつて神様からイスラエルを救い出すように召し出された神の山、シナイ山がありました。ネットを見ましたら写真が出ていましたのでご紹介します。

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これがシナイ山の全景です。

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これは山から見たシナイの荒野、イスラエルが宿営していたと思われる場所を眺めた写真です。

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これは、麓の宿営地から見たシナイ山です

シナイ山の麓では、主ご自身がイスラエルに現れ、十戒を与え、聖なる血の注ぎによってイスラエルと契約を結ばれました。これは今で言うなら聖餐式です。イエスさまの肉と血を受けるという意味を持つ聖餐式は旧約時代、神様とイスラエルの契約という形で現わされていました。その後、モーセがシナイ山に登り、四〇日の間神様と一対一で取り組みながら、これからイスラエルがどのように神様に仕えていくのかが記された、いわゆる律法を受け取りました。神様は契約を交わしたイスラエルを、責任を持って導いてあげようと考えておられました。しかし、麓にいたイスラエルの民は、モーセが山にいる間に堕落してしまったのです。

出エジプト記 三二章一節~七節
『民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。」』

ご自身のことを「妬む神」だと言われた神様は、契約を結んだイスラエルへの愛がとても大きいものでした。それは、イエス様がご自分の血を流して全人類の罪をあがなわれたのと同じです。私たちは神様から離れて、罪の中を歩み、そのままでは死んで滅びの場所である地獄へ堕ちることが決まっていたのに、霊的にはイエス様の血の注ぎを受けて神様の子どもになることができました。そして、その関係は、夫婦の関係と同じだと聖書は語ります

コリント人への手紙Ⅱ 十一章二節
『というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。』

ですから、霊的に婚姻関係を結んだ神様を裏切り、他の神に走っていく『霊的な姦淫』が偶像礼拝なのです。この箇所では、偶像の神々の支配するエジプトから、主が力強い奇跡でイスラエルを奴隷生活から解放し、契約を結んでくださいました(ということは霊的に結婚したようなものです)。そのイスラエルのためにモーセが四〇日かけて神様と取り組みながら新しい律法を受けたということは、神様がイスラエルと共に歩んでいくために今まで偶像礼拝の国の中で生きていたイスラエルに対して、正しい神様との関係を持つための規範を作られたのです(ということは新生活の準備をしているようなものです)。しかし、その最中に花嫁であるイスラエルが元の主人のエジプトの偶像を作り、偶像の神と交わっていた(ということは、新婚生活が始まったばかりなのに相手が不倫をするようなものです)訳です。だから神様は、激しい妬みでイスラエルを怒られた。当然のことです。

エゼキエル書六章九~一〇節
『あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。彼らが自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき、彼らは、わたしが【主】であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」』

神様はイスラエルを「滅ぼす」とまで言われるほど怒られましたが、神様の前でイスラエルが滅ぼされないようにとりなしたモーセの祈りによって、神様はイスラエルに対して行おうとした裁きを思い直されました。堕落したイスラエルを滅ぼそうとした神様の前で、必死になってとりなしをしたモーセでしたが、山から下りて罪に溺れて異教の神といちゃついていた民を目の当たりにしたとき、神様と同じように怒りが燃え上がり、神様に成り代わって裁きをしたのが、最初に読んだみことばです。
ここで起こされたイスラエルへの裁きは、神様ご自身によってなされたのではなく、神様の気持ちをくんだモーセが実行した裁きでした。でもそれは、『一日のうちに三千人が殺された』と書かれています。イスラエル全体ではなく、三千人でした。神様は百万とも二百万いたとも言われているイスラエルを「全部滅ぼす」と言われたほど怒りを現わしていました。偶像礼拝は大きな背信の罪であります。ですが結果として三千人が剣に倒れたことで終わりました。これは、見方によってはわずかな数に止まったと言えると思います。ここに神様の大きな哀れみがあるのです。決してイスラエル捨てられることをせず、あきらめないで共に歩まれました。

私たちクリスチャンは、この国では小さなグループですが、イスラエルのために、モーセが直談判したときに神様は燃える怒りを静められ、滅ぼすことをされなかったことを考えるとき、私たちがこの国でとりなして祈ることが、どれほど大きな意味を持つかを知ることができるのではないでしょうか?

ルカの福音書 一二章三二節
『小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。』

神様は、私たちの祈り、特別この国のための祈りを必ず聞いてくださいます。

この裁きのときに立ち上がったのが一二部族のひとつレビ人でした。レビ人はそれまでイスラエル一二部族の中では比較的小さく力のない部族でした。しかし、ここでモーセについて立ち上がったのをきっかけに、神の宮でイスラエル全部の霊的な介錯人として引き出される光栄を与えられることになりました。

みなさんは礼拝メッセージを聞くときに、どのように受け止めておられますか?先日、滝元明先生からこんな話しを聞きました。「私たちは礼拝で語られるメッセージを、ただのことばとしてではなく、神様が教会に対して、また自分自身に対して語られていることばとして受け取るべきです。」と。滝元明先生はそのような気持ちを持ってメッセージを聞いておられるそうです。これは大切なことだと思います。神様は、礼拝のメッセージを通して、私たちに語っておられるということを信じて行きたいと思います。

このごろ、礼拝の中で、リバイバルの勇士となるように、そのために聖霊の油注ぎを受けることが話されていました。聖霊に満たされたクリスチャンになるために、後ろの扉を閉じる、罪に対して妥協しない。特に偶像礼拝、性的な罪、そして、憎しみからの解放が大切だと学びました。そして、悪魔との戦いに勝って、福音宣教に励むことが話されていました。
また、日本においてクリスチャンとして聖書のみ言葉に従い、聖書の提示している正義を貫いて、信仰を守ろうとするとき、迫害に遭うことがおうおうとして起こりうることも、最近教会に来られている方の体験から話されていました。
イエス様を信じる、それも、聖書の教えを守り、神様に喜ばれる信仰生活を歩むと言うことは、時として試練を招くことがあるわけです。

テモテへの手紙Ⅱ 三章一二節
『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。』

もう一ヶ月以上経ちますが、一〇月のはじめに新城教会の姉妹で、福井で信仰を守られている森忠姉妹のご主人が亡くなられたときも、姉妹が信仰に反対していたご主人を最後の最後で救いに導き、あの仏教のカチカチの地域柄がある中で、周囲の反対を押し切ってキリスト教式での葬儀を行い、四面楚歌の中で信仰を貫かれたことは、私の心の中で深く印象に残っています。
三週間くらい前のメッセージでは、因習の深い地域から来られている二人の方が、それぞれ同じように家族から反対されていることが証しされていました。彼らはそれぞれに、クリスチャンとして生きていくことを決意し、ご家族に打ち明けられました。一人はご両親と同居しておられるのですが、ご両親から「そんなことではいかん。もしおまえが信仰を持ち続けるならば一緒に暮らすことはできん。家から出て行ってくれ」と言われ、奥さんと子どもたちともども家から出ることになってしまいました。もう一人の方は、奥さんからクリスチャンになったら夫婦としてやっていくことができない。離婚すると離婚状を突きつけられて脅されているそうです。そして、その理由が同じように『クリスチャンになるなんて世間に申し訳が立たない』という理由でした。教会に来て家族が幸せになるよりも、世間に対して顔が立つことの方が重要であるというのです。悲しいことですが、これは、多くの人が神様を知らずに生きている日本の現実ではないかと思います。しかし、

出エジプト記 三二章二九節
『 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」』

とあるように、ある時は家族の意志に逆らってでも、主に従うことを選び取ることが祝福につながるというものです。

これも三週間ほど前の礼拝で話されていたことですが、ある姉妹の実家から墓が撤去されたことが話されていました。
この教会に、山深い村の出身の方がおられます。教会がある場所も田舎ですが、それよりもずっと田舎です。その方がイエス様を信じて教会に来られています。そして「親族にも伝道したい」と願われ、何年も祈っていました。
その土地は、一年のスケジュールはすべて宗教行事で動いています。そこも誰かがクリスチャンになったら、家族から追い出されかねないような土地なのです。
その人の家も十代も続いているような家で、普通では絶対に動かない家なのです。しかし、娘がクリスチャンになったのです。それで自分の村のために重荷を持って祈るようになったのです。教会も協力して霊的覆いを取る祈りをしました。そして、その人の実家も訪問して伝道したりしました。そうしたら、だんだんと実家が変わってきたのです。
何ヶ月か前、その家の代表たちが「キリスト教について教えて欲しい。話をしたい」と言って、何人かやって来ました。順牧師に「クリスチャンになったら、先祖供養してくれないから困る。何とか言ってください」と苦言を呈して食ってかかってきたそうです。そこで順先生が、「日本人は、いつも先祖、先祖の霊が来るって言いますが、それは本当に先祖の霊ですか?先祖のふりをした悪霊だったらどうしますか?」と話をしました。「日本人は、人が死んだら魂が地上に残るって考えますけれど、本当ですかね?聖書は、天国か地獄のどちらかと言っていますよ。相手が何者かをしっかりと確かめ、見極めないと大変な事になりますよ」と話をしました。
 するとその中の一人が「牧師さんの言う通りかもしれない・・・」と言い始めました。なんでその人はそう言ったかというと、その方は葬儀屋に勤めている方でした。その葬儀屋では、変な霊現象がいっぱい起こるというのです。葬式の後、葬ったはずの人が室内を通ったりするそうです。恐ろしいことです。社長はいつも「塩を撒いてこい。よく拝んで来い」とか言って、会社全体で恐れているそうです。それで従業員の中でも「あれは死んだ人なのかなあ。何か不気味だ」というのです。だから、「本当に先祖ですか?」と言われたら「違うかも知れない」と思ったわけです。最終的には、文句を言いに来た人たちが、「イエス様を信じたい」ということになったのです。それで全員が心を合わせて、「私たちはイエス様を信じます!」と宣言して帰って行ったのです。

その後なんと一族でクリスチャンになることが家族会議で決まったのです。そして、一〇月の初め、上條先生と私とでその実家を訪問し、その家で最年長の八八才のおばあちゃんに、滴礼ですが、洗礼を授けることもできました。また、彼らは、そのように因習深い地の中で、クリスチャンとなるべく大きな決断をしました。そこには、彼ら一族の墓があります。その墓は、普通の墓ではなくて、ひとつの家の墓としては、見たこともないくらい大きな墓でした。なんと、何代にも渡って作られた墓が十六基ずらっと並んでいるのです。広い敷地の中にいつの時代のものかわからないような墓が並んでいるのです。今までは先祖がそこにいると思って拝み、何代にもわたって長年仕え続けていた先祖代々の墓がそこにありました。なんと彼らは、その墓が、今後偶像礼拝の対象になって拝まれないように、仏式の石塔を撤去して、キリスト教式に作り変える決断をしたのです。檀家の寺にも行って話を付け、先月の終わりに撤去工事があり私が行きました。といってもそんな大きな墓が私ひとりでどうなるものでもありませんので、私の叔父さんにあたる母の兄にお願いしました。実は、私の母の実家は新城市で四代にわたって石材店をやっているのです。その叔父さんに頼んで引き受けてもらいました。
私がクリスチャンになったばかりは、実家が石屋ということを引け目に感じていました。何で実家が先祖崇拝の偶像を作って売るような商売をやっているんだと。なので、クリスチャンになってから最近になるまで、ずっとその家には足が向かず出入りしていませんでした。しかし、最近は教会でクリスチャンになるご家庭が増え、中でも家の墓をキリスト式に切り替える人が出てきましたので、身内に石屋がいるのにも神様の導きがあるのかなと思えるようになりました。今では、実家は新城教会御用達の石屋ですから。みなさんも墓石についてのご相談は、ぜひ、私にしてください。無料で相談に乗らせていただきます。

工事は今まで携わった中でも大変でした。私もうちの父も手伝いに駆り出され、実家の叔父とその息子、そして応援に岡崎の石工団地から職人が二人出て、合計六人でやりました。それでも一日でやりきれず、結局三日かかって撤去作業が終わりました。全部で八トン以上の重さがありました。

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写っている墓は全部その家の墓です。

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こうしてドリルで穴をあけ、

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くさびを打ち込みハンマーで打ち込むと

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こうして墓石が割れます。

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それをこうしてつり上げたり、手で転がしたりしながら台車に乗せ

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トラックまで運んでガラガラッと積み込むわけです。

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これで墓石が全部片付いたわけです。

 今、実家でキリスト教式の墓を製作中です。キリスト式に十字架を付けても、石塔みたいに背を高くすると日本人は手を合わせて拝んでしまうので、なるべく手を合わせにくいように、低く平らな墓にしています。すごいことです。

クリスチャンになったら、このように偶像に対してはっきりと、毅然とした態度で「ノー」という。これは、本当に大切なことです。私たちが属する会社が、学校が、地域が、そして家庭が、祖先の霊だとか、怨霊だとか、地域の神様だとか言って偶像に膝をかがめるとき、私たちはよく見張ってそこに巻き込まれないようにしなければなりません。そうしたときに、しばしば迫害を受けるときもありますが、モーセが「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」と言ったように、神様がごっそり勝利を取って、迫害を祝福へと変えてくださることを信じて、臆することなく信仰を貫かなければなりません。

今日は、少々堅い食物の話しをしてきました。ここまで聞いて来ると、ある人の中には「クリスチャンとは大変だ。迫害や苦難をものともせずに信仰を守らなければならないなんて自分には無理。」という印象を持たれた方もいるかもしれません。でも、柔らかくて甘い食べ物だけ食べて生きているならば、神様の恵みを全部味わったことにはならないのです。少々つらいと思うことがあっても、「神様のためにならがんばれます。」という気持ちを持って行くときに、祝福も更に大きくなっていきます。

もうひとつみことばを読みたいと思います。

ピリピ人への手紙 四章四節
『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』

「いつも喜びなさい」これも大変重要なことです。

このピリピ人への手紙を書いたのは、パウロです。そして、手紙ですので書かれた宛先があるわけですが、それは、パウロが開拓して開かれた教会であるピリピ教会のクリスチャンに宛てられたものです。パウロはこの手紙をどこで書いていたかというと、牢屋の中で書いています。

ピリピ人への手紙 一章一三~一四節
『 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。』

刑務所というと、私も何度か入ったことがあります。悪いことをして入ったのではなく、服役している人を訪ねて面会するために入りました。
ところで刑務所と間違えやすいのが、留置所、また拘置所という施設です。留置場は警察が逮捕した人を一時的に収容するための施設、拘置所は刑事告発した人(被告人)を裁判して刑が確定するまで収容する、また死刑が確定した受刑者も死刑が執行されるまでの期間、刑務所ではなく拘置所に収容されます。そして刑務所は、裁判によって懲役、また禁固刑などが確定した人が服役する場所です。それぞれの施設で収容されている人は、収容期間に法律に則って拘束され、自由が制限されて反省と償いを強制させられます。中でも刑務所は一番戒律が厳しいです。

何度か面会に行って聞いたところでは、「受刑者」と呼ばれる人たちは、毎日起床から消灯まで、いつも刑務官の監視の下で、食事の時間、風呂の時間、作業の時間など、時間を決められ厳しく管理されます。食べるものも厳しく管理され、コーヒーが飲みたいとか思っても、好きな時間に飲むことはできません。嗜好品であるお菓子なども決められた日にしか与えられません。面会も一日につき一組だけ最大三〇分間許されます。面会の時に差し入れは可能ですが、刑務所の販売所で扱っているものしか差し入れできません。食べ物は差し入れできません。空調のない中で夏は暑く、冬は寒い中で生活しています。
考えただけでもつらい毎日だと思いますが、パウロがつながれていた牢獄はそんな比ではなかったと思います。何せ、奴隷が社会で公に認められていた時代です。当時の奴隷は主人の所有物ですので、人権もなにもありません。主人の心次第で売ったり買ったりできたのです。まして囚人なら奴隷以下であるわけです。これもネットで見つけた写真ですが見ていただきたいと思います。当時の牢屋です。

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こんな堅くて冷たい、毒虫やネズミが這っているような場所で、パウロはとらわれていたと思われます。食事もまともには出なかったかもしれませんし、明日のわが身をも知れない状態であったと思います。
しかも、パウロは牢屋に入れられるような悪いことは何にもしていなかったのです。ただ、イエス様が救い主だと宣べ伝えていただけで捕らわれていたわけです。まさに、信仰の故の苦しみでした。
日本でクリスチャンの信仰を持つことは、いろいろ誤解されたり迫害されたり大変ですが、逮捕されたり命を狙われたりはしません。信仰の自由は憲法で保証されていますので、公然と「私はクリスチャンです。イエス様を信じてください。」と話しても、迷惑さえかけなければ誰にも文句を言われません。でも、当時の世界でクリスチャンになることは、ある意味命がけでした。
そんな苦しみの中で、パウロはピリピの教会を心にとめ、祈りと共に手紙を送っています。パウロはこのピリピ教会を本当に愛して、どれほど心にかけて祈っていたかが伺い知れます。そして、手紙の最後に「主にあって喜びなさい」と訓示しているのです。

聖書は事実に基づいて書かれています。ありもしないことをでっち上げているのではなく、実際に起きた出来事の中、人間模様の中で書き上げられた本です。だから、この箇所で「喜びなさい」と書き送ったパウロは、多分西暦六二年頃のローマの辺りで確かにとらわれの囚人でした。その彼が実際に書いた手紙です。どんな心境だったのでしょう。

もし、そこに僕が囚われていたら手紙の内容はずいぶん違っていたのではないかと思います。多分「毎日が苦しく重く過ぎています」とか書いているのではないかと思います。また「何も悪いことはしていないのにどうしてこんな目に遭わなければならないのか?神様は私を見捨てられたのか?」とか、「ピリピのみなさん、良い弁護士をよこして、私の無実を勝ち取るために戦ってください」とか書くと思います。しかし、パウロはそんなことには少しも触れずに、「喜びなさい」と書いています。それは、パウロが本当に喜んでいたからだと思います。

いったいこんな心境に本当になれるのでしょうか?これも、堅い食物だと思います。ですが、これも真実な聖書のみことばです。そして神様の恵みを受けたという経験に裏打ちされた喜びがパウロにはあったのだと思います。

昔聞いたゴスペルソングにこんな詩がありました。

『むなしさは、イエスさまを迎えるポケット/悲しみを、喜びに変えるポケット』

私たちの心にはぽっかり空いた穴がある。それを埋めようとして、人はモノを買いあさったり、異性を求めたり、知識や名声を求めたりする。しかし、それらによっても心は満たされることがない。その穴は心にすきま風を通し、むなしさや悲しみを流れ込ませる。その穴は神様によってでしか満たされることがない。という意味です。「悲しみを喜びに変える」とありますが、これは聖書にも書かれています

エレミヤ書 三一章一三節
『そのとき、若い女は踊って楽しみ、 / 若い男も年寄りも共に楽しむ。 / 「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、 / 彼らの憂いを慰め、楽しませる。」』

神様の恵みを覚えて感謝するのって、案外問題や困難を通してではないかと思うんです。何事もない平凡な毎日が通り過ぎていると、それはそれで素晴らしいのですが、つい神様への感謝がなくなったり、信仰もいい加減になったりしてしまうのかもしれません。しかし、問題に直面すると、私たちはイエスさまを求め、みこころを探し始めます。問題がとても大きいものだと、私たちは霊的な戦いを意識し、罪から離れ、必死に祈るようになります。その結果として、神様のみ業を見るようになるのです。そして、問題を振り返って神様に感謝してこう言います「神様のおかげで問題に打ち勝つことができました」「神様が共におられなかったら問題に押しつぶされて倒れていたかも知れない」「問題を通して神様をもっと深く知ることができました」と。ですから、イエスさまによって悲しみが喜びに代わるのです。イエスさまを心にお迎えするのって本当に素晴らしいです。

ジェンガというゲームをご存じですか?家族や友達同士など何人かでやると楽しいゲームです。

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同じ大きさのパーツが井形に組んで積み上げられています。そして、順番に好きなところのパーツを抜き取って、てっぺんに積み上げていきます。そして、塔を倒してしまった人が負けになるというゲームです。これをやると、ああこの人は慌て者だなとか、のんびり屋さんだとか、意地悪だなとか、その人が持つ人間性がわかるのです。もし、私たちの『人生ジェンガ』というのがあったとしたら、悪魔は超意地悪プレイヤーかも知れません。時々入り込んでは一番崩れて台無しになりそうな所のパーツを抜き取っていくのです。パーツを取られて倒れそうになり、『もうダメだ』と思ったときに、神様が『十字架パーツ』をさっと入れていくのです。本当のゲームにはそんなパーツはないんですが、『人生ジェンガ』にはあって、塔が倒れそうなときに神様がバシッと入れてくださるのです。そうこうしていくうちに、『十字架パーツ』がいっぱいはまった背の高い『人生ジェンガ』がドーンと積み上がっていくのです。悪魔もやがて「こりゃいくら邪魔してもダメだ。『十字架パーツ』にはかなわん」とあきらめてしまうのです。

みなさん、試練や問題があっても揺るがされることなく、イエスさまの側に立って働くクリスチャンに、お互いなりたいですね。そんなひとりひとりになれますように、というのが、今日の私のメッセージです。時々、家族や兄弟でさえ敵対してくるようなことがあるかも知れない。イエスさまを信じているが故に苦しまなければならない。そんなとき、私たちはしなえそうになります。でもイエスさまを信じて、悪魔と戦っているうちに、その苦しみ、悲しみはイエスさまからのパーツによって埋められ、最後には喜びが待っているのだと信じて行きたいです。

今週からクリスマス月に入ります。クリスマスに教会で持たれるプログラムも決まっています。今日は午後からプレ・クリスマスと題した集会が持たれますので、是非参加してください。今回はクリスマスのために祈っていくテーマを、ミニセミナーとして滝川充彦兄がお話ししてくれます。滝川君のお話を聞く機会はあまりないので、是非楽しみにしてください。それからゲームもありますし、アップルパイも用意して、楽しく参加できるように考えています。そこで、この地の救いのために祈りを持って行きたいと思います。こういう集会に出るのも、レビ人がモーセに着いたと同じように、みんなで神様の側に立って戦うことであり、お一人お一人の祝福につながっていくのではないかと思います。

今日は朝刊に一万部のクリスマスコンサートチラシが折り込まれています。この地域でまだ教会に着いて知らない方がたくさんいると思います。このチラシが用いられるように祈ってください。今週は今まで教会の集会に来られた方五百人にクリスマスの案内はがきを送りますし、来週の日曜日には、新城教会ニュースがクリスマス号で四万五千部くらい新聞に折り込むことになっています。クリスマスのための祈りのプログラムも準備しています。いよいよ今週から教会はクリスマスモードに入ります。

クリスマスは一年の内一番人々が教会に来やすい時期です。伝道しやすいときです。今神様は招集の声を上げているのではないかと思います。「私に着く人は誰ですか」と。ぜひ、みなさんで、この時の伝道に携わっていきたいと思います。『この地の救いのために立ち上がろう』というのが今日のタイトルですが、「私が立ち上がって着いていきます」と、ひとりひとりが立ち上がるように、祈りの時を持ちたいと思います。

神様の側に着くとは、まず決断し、身近なところから行動をはじめて見てください、神様が手を貸して助けてくださいます。今日がその決断をするときですので、まずは、今年のクリスマスで、神様の側について、あなたの戦いを戦うことを告白しましょう。また、あなたが今抱えている問題、それが大きな問題であっても、必ず神様がそこにお入りくださって、感謝に、喜びに変えてくださることを信じて宣言しましょう。お祈りします

 ハレルヤ天のお父様。ありがとうございます。主が今日こうして私たちをみことばによって励まし、また新たな決意へと導いてくださいますことを感謝いたします。今日私たちひとりひとりが置かれた状況において目の前にある事柄、問題に対して主の側につく者、イエスさまのために立ち上がる者として、決意を祈りました。どうかあなたがお一人お一人をご覧くださり、その決意を祝福してください。今日、『あなた方は、その子、その兄弟に逆らっても、主に従いなさい。主があなた方を祝福してくださるために。』また『主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい』と語ってくださったように、私たちの前に多少の困難があっても、迫害があったとしてもあなたについて参ります。喜んであなたに仕えて参ります。どうか、その決意をお一人お一人が今週一週間、また人生に持って歩んでいけますように祝福してください。今、私たちはクリスマスのプログラムのために心を向けていきます。そのためにも、祝福してください。上からの油注ぎがありますように、主に心からの感謝を持って御名によって祈ります。
アーメン。