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『クリスマス。それは恐れからの解放日です』

2011.12.25(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書9章1節〜5節

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。』




 みなさんクリスマスおめでとうございます!今日は素晴らしい日に、みなさんと共に礼拝を守ることが出来ますことを、心から感謝します。今の映像はある方がクリスマスカードとして送ってくださった映像ですが、クリスマスといいますと、楽しい、明るい、静かな、平和な、というようなイメージがあります。そして一人の人物の誕生を、ここまでお祝いするとは相当な事だ思います。
 みなさんの誕生日は何人がお祝いしてくれますか?私の誕生日なんか「あっ!お父さんの誕生日忘れちゃった!」なんて、家族によく言われるのですが、なんとイエス様の誕生日は、世界中でお祝いされています。今日もこの時刻、日本中の教会で、イエス様の誕生日がお祝いされているはずです。

 私は、先々週は中国で奉仕させていただきました。中国は共産主義国家で神を認めない国ですが、なんと、町中にクリスマスツリーがあり、クリスマスをお祝いしていました。なんか矛盾していましたが、本当にイエス様はすごいです。歴史的に実在された人物です。この方のために、世界中が喜び、踊り、湧くのです。

 先週も新城教会では、いろいろなクリスマス集会がありました。そして今日は、私たちにとって今年、最後のクリスマス集会です。なんか曜日感覚がおかしくなっていますが、先週からのクリスマス集会の様子を写真にまとめましたので、お見せしたいと思います。先に、中国の写真もお見せします。

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 中国は寒かったです。北京はマイナス十度でした。「二十一世紀教会」という、北京で一番大きい韓国教会で奉仕をさせていただきました。

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 皆、韓国人の方々です。中国人は来れません。三日間奉仕させていただきました。

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 右側の方は牧師先生です。たいへんへりくだった、本当に立派な先生でした。お友達になりました。

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 これは中国のクリスマスツリーです。街の至る所にツリーが立っていました。イエス様の誕生を、中国でもお祝いしているわけです。しかし一方では教会を迫害しているような国ですけれど、なぜ、クリスマスツリーが立っているのかと思いました。

 次は新城教会のクリスマス会です。

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 先週の日曜日は、クリスマス・ジャズコンサートが行なわれました。三百人以上の方々が集まって本当に素晴らしいコンサートでした。

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 これは、水曜クリスマス祝会です。琴で主を賛美してくださったのですが、壁谷さん率いる琴軍団七名がすばらしい演奏して下さいました。あまり聴いたことない興味深い演奏でした。楽しかったです。なかなか個性的な音楽でした。

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 そして、金曜日はレッツプレイズ・クリスマス。なんと、中高生たちが二百五十人も集まりました。ものすごく盛り上がりました。これは「ゴーギャン」という変なバンドです。「これでも教会かい」というような感じでしたけれど、中高生には大受けでした。彼らは今、東京でプロとして活躍してるバンドですが、「僕たちクリスチャンです」といっても誰も信じないようなバンドでしたが、本当に彼らはクリスチャンです。

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 そして、昨日はクリスマス・フェスティバルがあり、おいしい食事と共に暖かいクリスマスでした。そして何よりも、リナ&カナさんが歌ってくださいました。

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 お二人は在日韓国人の方々ですが、すごく良い雰囲気でした。


 クリスマスには、たいへん楽しい雰囲気があって、私たちの心を暖かくしてくれます。こんなお祭りは世界中探しても、他にはないですよね。クリスマスとは、神が人となって地上に来られた記念日です。それがクリスマスです。

 天地宇宙を造られた神がおられます。時々、「神がいるならば、目の前に出してください。そうしたら信じますよ」と言う人がいますけれど、天地宇宙を造った神ですから、もしも体があったとしたら相当大きいはずです。時々幼稚園で子供たちが泥んこ遊びをしています。「これが太陽。これが月・・・」なんて言って作っていますけれど、自分の体よりも小さい物を作っています。神様がこの宇宙を造ったとしたら、体があったら相当でかいです。太陽をちょっと熱いけれど造って、宇宙空間にぽんっと投げたり、地球を造って宇宙空間に投げたとしたら、それは見えなくて当然です。でも、私たちが神についてわかるとしたらどうでしょうか。その神が人の世界に人間として来てくださったら、「神様ってこんな方なのか。神様って人類に対して、こういう風に考えているのか」とわかるはずです。
 もしも私たちが蟻の世界を知りたかったら、やっぱり人間である以上、いくら研究してもわからないと思います。蟻がどんなことを考えているのか、いつも何をしているのか、アリのままの姿を見るために、はやはり蟻にならないと体験できないですよね。
 神様は人類に対して同様のことをしてくれました。人となって地上に来てくださったのです。神様は素晴らしいですね。人を創造し、造りっぱなしではないのです。「具合はどうかな」と、自らも人となって「こういうところがちょっと不足しているな。ここをちょっと直さなくちゃ」と、メンテナンスもばっちりです。神が人となって生まれた記念日、それがクリスマスです。

 そして、その生まれに関して、聖書にばっちりと預言されていたのです。今日読んだ聖書の箇所、それはイエス様のお生まれになる七百年も前に生まれた預言者イザヤが、預言を語りました。「やがて救い主が生まれますよ」と。
 イエス様は偶然に生まれた方ではありません。間違って生まれたとか、偶然生まれたなんて、時々聞きますけれど、そうではありません。神の定めの中、来たるべくして来られたお方がイエス・キリストです。今日読んでくださったのは、イザヤ書九章一節〜五節でした。

『苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。』

 先ほど五節まで読みましたが、六節から読んでみると、イザヤ書九章六節〜七節、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。の主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

 実に、六節から七節は何を語っているかといったら、イエス・キリストについての預言です。イエス様がお生まれになる七百年も前に「一人のみどりごが私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちに与えられる」と預言されました。『その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』すごい預言ですね。
 聖書は主に、ユダヤ人社会で書かれたものですが、「人が神になる」なんていう概念はない時代でした。しかしなんと、「一人の男の子が生まれる。その人は神だ」と語ったのです。神が一人子イエス様をこの地上に誕生させるということは、天地宇宙ができる前から神の計画の中にあったのです。

 どのような地理的な位置にお生まれになったかというと、イスラエルでした。なんでイスラエルなのかなと時々思います。我々東洋人にわかりやすい場所に生まれてくれたら、もっとキリスト教は馴染み深いのにと思います。
 もしもイエス様が豊橋辺りに生まれて下さったらどうでしょうか。「今日、救い主が豊橋でお生まれになりました。」わかりやすいですよね。「イエス様が茶臼山で生まれました」とか、お生まれになったのがこの地域だったらわかりやすいですが、はっきりいってイスラエルでは分かりにくいです。「なんでイスラエルなんだ」と思います。けれども、そこにも大きな目的があったのです。

 イスラエルはみなさんもご存知のように、世界で一番苦しみを受けた民族が住んでいました。それがユダヤ人です。歴史を見たら、それは明らかです。近年に至るまで、彼らは苦しめられてきました。第二次世界大戦の時には、ユダヤ人は六百万人も虐殺されました。人口の三分の二だと言われます。そこまでやられる民族は、他にはありません。
 イエス様が生まれた当時も、彼らはかなり大変な目にあっていました。先週も話しましたが、大国が遠征する時には必ず、イスラエルは踏みつけられました。大国の王たちによって、いつも支配を受けていました。
 そんな中で、さらに差別を受け、苦しみがあった場所はどこかというと、ここに書かれているように、「ゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人のガリラヤ」でした。ガリラヤ地方が一番苦しい目にあっていました。なぜなら、この地域はアッシリア帝国に征服され、アッシリアの人たちが入ってきて植民地化され、アッシリアの文化が入って来て、ユダヤ人と混血になって、純粋な血統を保っているユダヤ人からは「失われた十部族」といわれて差別され、一番苦しい中にあったからです。なんとイエス様はその地域の人々を救う為に生まれてくださったのです。恐れに捕われていた人たちの中に、イエス様はお生まれになったのです。

 先ほども映像で見たように、クリスマスというと、ハッピーな楽しい雰囲気がありますけれど、聖書を学ぶ時に、当時は全然ハッピーじゃなかったのがわかります。今のような雰囲気とは全く違いました。近頃、アメリカではクリスマスのことを「メリー・クリスマス」と言わずに「ハッピーホリデー」なんていうのです。なぜならやっぱり、楽しいから「ハッピーホリデー」と言うのでしょう。
 でも、オリジナルのクリスマス、イエス様のお生まれには、全く楽しい雰囲気はありませんでした。イエス様がお生まれになる前・後のストーリーをよく読んで見て下さい。イエス様のお生まれについては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書中、マタイとルカにしか出ていません。そこを読みますと、イエス様がどんな状況で生まれたのかがわかります。

 イエス様の誕生の一つのサインとなったのが、マリヤの親戚でエリザベツという不妊の女が妊娠したところから始まります。ルカ一章七節にこんな言葉があります。『エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。』と書かれています。夫の名をザカリヤといい、祭司でした。二人とも歳をとっていて、子供が生まれる可能性は全くありませんでした。
 しかし、祭司ザカリヤが宮で奉仕をしていた時、突然のことが起こるのです。それがルカ一章十一節〜十四節に記されています。

『ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。』

 人間には、恐れがありますけれど、どういう時に恐れるのでしょうか。それを分析すると、やはり恐いのは、「絶対に起こり得ないと確信していたことが起こった時」はすごい恐怖です。
 ある意味、この二〇一一年は、絶対に起こり得ないと思っていたことが現実となってしまった年でした。まさかあんな大きな津波が来るなんて、誰も考えていなかったと思います。来るとしても、十センチ、二十センチ、高くても五十センチ。三十メートルの津波が来るなんて、誰も考えませんでした。絶対に起こり得ないことが起こった時、人はパニックします。

 ザカリヤとエリザベツ夫婦に赤ちゃんが生まれるとは、起こり得ないことが起こったわけです。「彼らの心境はいかに」です。
 週報の中にいつも「赤ちゃんを産むお母さんのために祈ってください」とあります。現在、ただ一人残っているのが私の娘なんですが、二週間前くらいから出産を待っていますが、全然産まれません。それでやきもきしてるんですが、二人目だから「早く産んで来い〜」というようなところもあるのですが(26日に無事に男の子が生まれました。お祈りを感謝します!)。
 これがどうでしょうか、週報に「お産を控えた姉妹のために。滝元享子」なんて書いてあったらどうでしょうか。みんなビビります。「何が起こったんだ?おばちゃんに何が起こったんだ?」と。さらに「滝元清子」なんて書いてあったらどうしますか?もう天地と共に全員ひっくり返るくらいの驚きのはずです。「九十歳のおばあちゃんがなんで子供を産むんだ!」周りにとっても、本人にとっても相当な恐怖ではないでしょうか?
 クリスマスのきっかけとなった出来事は、相当な恐怖から始まっています。そして、その六ヶ月後に何があったかというと、ルカ一章二十六節〜三十一節、

『ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。』

 初めは『その名をヨハネとつけなさい。』、六ヶ月後には、『その名をイエスとつけなさい』と名前まで指定されて、最初はエリサベツに、続いては処女から子供が生まれたのですからびっくり仰天です。
 当時のイスラエルの社会は、結婚がたいへん重んじられていました。厳しい律法の世界があって、結婚前に性的な関係があったら、殺されてしまうほどの雰囲気の社会でした。そんな中、処女が身ごもるという、ありえないことが起こってしまったわけです。

 当時のイスラエルの結婚には、三段階があったそうです。まず最初は「婚約」、それは家と家が「将来、うちの娘をあげます」と約束を交わすらしいのですが、次の段階では、法的な婚姻関係が結ばれました。しかし結婚披露宴が終わるまでは、法的に結ばれていても一緒に住まなかったし、肉体関係も持たなかったのです。
 実はマリヤとヨセフは法的には婚姻関係にありました。ですから、「住民登録をせよ」と言われた時、ヨセフは自分の故郷のベツレヘムに、マリヤを連れて帰ったわけです。
 処女から子供が生まれたのです。ヨセフにしても、マリヤにしても、周りにしても、起こり得ないことが起こったわけですから、相当びっくりしたと思います。そして相当な恐怖があったと思われます。しかし、その中に神の大きな計画があったのです。

 また住民登録の途中に産気づいて、子供が生まれました。それがイエス様でした。
 ベツレヘムという町はエルサレムから数キロ離れた場所にある町ですが、当時は有名な町でもなんでもなかったので、さびれた小さな村でした。何百人かの人たちが住んでいたようです。宿屋に行ったけれど、泊まる所がなかったというのです。私たちはその記事を見ますと、現代風に考えますから、ベツレヘム・ハイアットホテルかヒルトンホテルに行ったように思うのですが、そうではありません。さびれた民宿です。ごった寝するような場所でした。受け入れる宿屋がなくて、最後には馬小屋で緊急事態の出産となったわけです。

 緊急事態に対応するのも、人間にとっては大きな恐怖です。みなさんも今までの人生の中で、一度や二度は「緊急事態」に遭遇したかもしれません。
 しかし、日本はいい国です。緊急事態に対応してくれる国だからです。電話番号を一一九と押すだけで、なんとサイレンをならして緊急事態に対処するチームが来てくれるからです。こんな国は世界にあんまりありません。感謝しなければなりません。

 私は今年九月にネパールに行きました。ネパールに行ったら、交通事故を起こそうと、病気になろうと、そう簡単には救急車なんて来ません。大変です。村人が総出で助けてくれたりはしますけれど、病院はないです。ネパールに行って、「こんな所に生まれた人たちは大変だな」と思いました。私たちが行った時にも、谷底にトラックが落ちていました。みんな見物していて、数人が谷に降りて行く光景を見ましたけれど、「日本だったら大変な事件なのに」と思いました。
 しかし、日本は危機に対応してくれる国です。それでもどうでしょうか。緊急事態には恐れますよね。
 クリスマスは、あんまり平和とか喜びとか、私たちが持っているイメージとはほど遠いことがわかります。そんな状況の中でストーリーが展開していったのです。

 さらに、次に述べられていることが、大きな恐怖に関係しています。ルカの二章八節〜十節、イエス様がベツレヘムで生まれた同時刻に、ベツレヘムの郊外では羊飼いたちがそれとも知らずに仕事をしていました。羊飼いたちは通常の業務で、羊を飼っていたわけです。しかしそこに何が起こったかというと、ルカの福音書二章八節〜十一節、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 なんと通常業務のただ中に、救い主のお生まれの第一報が入ったのです。それは彼らにとって、大きな驚きと恐れでした。ここに『ひどく恐れた』と記されていますけれど、前にもお話したように、新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「ひどく」という言葉はギリシャ語では「メガス」という言葉が使われています。この頃、日本で「メガバーガー」とか「メガ盛り」とか、いろいろ「メガ」という言葉が使われていますが、「超でかい」という意味です。羊飼いの恐れというのは、超大きな、今風に言えば「超恐かった」というやつです。本当に恐ろしい出来事が起こったわけです。

 今述べてきたような箇所を連続して見ると、神が人間の世界に介入する時、何が起こるのかというと、神ご自身が介入するというより、『主の使い、御使い』と出ていますけれども、神の側で召使いとして働いている存在たちが関わってくるということがわかります。ザカリヤにしても、マリヤにおいても、また、羊飼いたちもそうでした。
 そしてその中に恐れというテーマが散りばめられているのです。恐れの根源は何かというと、やはり霊的なものであると思われます。それは平たく言えば、「霊体験」です。ザカリヤも祭司としての普通の業務のただ中に、突然、普段では目に見えない天使が現れたわけですから。マリヤも普通の生活をしているただ中に、天使が現れたわけです。また、羊飼いたちも普通の仕事をしているただ中に、天使たちが現れたわけです。普通じゃ見えない存在が姿を現した、それがある意味、一番の恐怖かもしれません。

 現代人にとって、いろいろな恐怖がありますけれど、起こり得ないことが起こったとか、緊急事態とかもあるけれど、恐れの根源は、やっぱり突然の霊的現象かもしれません。
 日本の神々を見ますと、すべて恐れをベースにしています。なんで祭りをするのかといったら、恐いから祭りをするのです。「祟らないでくださいね。なんか変なことやらないでくださいね」と、大きな山だったり、大きな木だったり、石仏だったり、仏壇だったり、いろいろと手で作った神々がありますが、人間は自分で神々を作っておきながら、実は、神々を作るとなんらかの霊体験があることを知っています。恐怖体験から拝み事が続くのです。恐れの根源に霊的恐れがあると思うのです。

 日本人、東洋人一般に言えることですが、結構、霊的に敏感な民族が多いと思います。科学にはならないし、学問にもならないけれど、何か霊的な存在を感じ取るのです。
 私は先週、中国に行きましたが、中国は、表向きでは共産主義で「神なんかいない!」なんて言いながら、道教だとか儒教だとか様々な寺院がありまして、そこには人が溢れています。彼らも霊的存在を否定できません。やはり霊的な力を感じるわけです。韓国に行ってもそうです。日本もそうです。

 何年か前のことですが、この教会に一人の紳士が尋ねて来ました。そして、「牧師さん。私の話を聞いてくれますか」というのです。「なんでも聞いてあげますよ」というと、「私が今から話す話は、ちょっと頭がおかしいと思うかもしれないけど聞いてくれますか」というのです。「私はいつもそんな話ばかり聞いてますから大丈夫ですよ」と言ったら「じゃぁ安心しました」と言って話し始めました。
 その方は立派な人で、仕事もきちっとしていましたが、ある時、おばあちゃんが亡くなったそうです。仏壇におばあちゃんの位牌を置いて、真剣に拝み、仏壇の間で寝るようになったというのです。もしもおばあちゃんが仏壇にいるならば、仏壇の前で寝るのが一番平安ではないでしょうか。そう考えたのか、その人は仏間で寝るようになったそうです。
 しばらくしたら、夜な夜な変な音が聞こえるようになったそうです。「誰かいるのかな?」というような音だったそうです。仏間、畳の間、縁側、という日本によくある間取りでした。障子の向こうは誰もいないはずなのに、夜中になるとぱたぱたと足音が聞こえるそうです。気味悪いなと思っていたそうです。
 ある夜、いつもは一人だけの足跡が二人に増えて、最後は六人にまで増えたというのです。やがて何者かがふすまを開けて、目の前に六人が勢揃いしたというのです。それは六つの黒い影だったというのです。それは彼にとって、凍り付くような体験でした。
 その恐怖は、普通では考えられないような恐怖で、仕事にも行けなくなってしまったそうです。しかしそれでは終わらなかったのです。
 ある晩のこと、仏間で寝ていると、夜中に誰かにつつかれて目覚めたそうです。誰かと思って目を覚ましたら、なんと、死んだはずのばあちゃんが「ニャ」っと笑いながら立っていたそうです。でも、生きている時のおばあさんとはとは、だいぶ雰囲気が違ったそうです。真っ白いおしろいで化粧して、目と鼻と口だけが出ていたそうです。そうしたら人差し指を出して、ぺろっと舐めて、おでこを押したそうです。そして消えたそうです。
 そんなことがあったもんだから、本当に恐ろしくなったそうです。でも、確かにおばあちゃんの顔をしていたというのです。でも、結果は死んだはずのばあちゃんと出会ってから、その人は引きこもってしまったのです。それで周りが心配して、「病院に行ったほうがいい」ということで、病院に行ったそうです。医者に全てを話したそうです。医者は黙って聞いていて、「だいぶお疲れですね。薬を飲んでゆっくり休んでください」と言われたそうです。でも、彼は、薬を飲んでも良くなりませんでした。それから悶々とした日々を過ごしていました。

 いろんなことを考えたそうですが、一つのことを考えたというのです。「あの顔はおばあちゃんだったけれど、おばあちゃんは人を驚ろかすような変な人ではなかった。」と。「姿はおばあちゃんだったけれど、おばあちゃんじゃない。おばあちゃんのふりをした悪霊じゃないか・・・」と思ったというのです。それで、「もしもこの地上に悪霊がいるならば、本物の神様も絶対にいるはずだ」と。それで、「本当の神はどこにいるのだろうか・・・」と探し出したそうです。
 やがて、「それはキリスト教の神様ではないだろうか・・・」と思ったそうです。それで教会に来たのです。私は「あなたの考えは正解です。悪魔、悪霊どももいますが、本物の神様もおられるのです。それがイエス・キリストです」とお話ししました。
 日本人は霊感が強く、いろいろな霊的存在に関わっています。先祖だとか、神様だとか思っているけれど、それが騙しなのです。いつも話すように「オレオレ詐欺」と同じです。「オレオレ。孫のオレだよ。」と電話がかかってきたとき、おじいちゃんが孫だと信じたらどうでしょうか。大切なものを取られるわけです。

 同じように「わしわし。先祖。先祖。家に入れてくれ」と言われて、先祖だと思って家に入れ、それが先祖のふりをした悪霊ならどうでしょうか。人生に必要な物を全て盗まれるのです。
 しかし教会に来て、聖書の中に述べられている神は恐怖の神ではなく、「あなたに素晴らしい喜びを与えますよ。恐れないでもいいですよ。」と言われます。喜びを与えてくださる神であり、良いお方です。
 その紳士は教会に来て、気づいたわけです。私と一緒にお祈りしました。騙されていた、おばあちゃんのふりをした悪霊を打ち破る祈りをしました。それからその方は元気になり、癒されました。

 彼は「なんで六つの黒い影が出て来たんでしょうか?」と言いました。実は、その家が一生懸命拝んでいた存在がありました。それが「六地蔵」でした。庭に六つの地蔵が並んでいて、おばあちゃんが一生懸命拝んでいました。彼も拝んでいました。「その地蔵を拝むと輪廻できる」と言われて、一生懸命拝んでいたのです。しかし背後で働いていた霊は「あんたを助けてあげるぞ」と言っていましたが、助ける霊ではなくて、害を与える悪霊だったのです。

 イエス・キリストが生まれたのは、人類が悪魔、悪霊に騙されて、あたかも神であるかのように、先祖であるかのように騙され、大切なものを奪われていたのですが、その中に介入し、恐れではなく、喜びを与えるために来てくださったのです。
 実は先ほども読んだ「ゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人のガリラヤ」というのは、アッシリアに征服されて、バビロンの神々、異教の神々、偶像がいっぱい入り込んでいた地でした。悪霊礼拝が盛んに行われていた地域でした。そんな中にイエス様は飛び込んで、宣教されたのです。霊的恐怖に縛られている人たちを解放する為に、イエス様はこの地上に誕生されたのです。

 私たち日本人は、大きな恐れに縛られています。神様というと、良い事をしてくれるというよりも、罰を当てたり、悪さをするイメージが強いです。
 しかしキリスト教となるとどうでしょうか。それに対しては、強い拒否感を持っています。しかしこの雰囲気に騙されてはいけません。この雰囲気に打ち勝たないかぎり、幸せに生きることはできません。

 何度かに分けて話しをしていますけれど、日本人は、世界の民族の中でも、ある意味で、かなり恐れの強い民族ではないかと思われます。霊的領域でも恐れがありますし、いつも人目を気にしながら生きています。他人の目を恐れるし、自然環境も関わって恐れが強いと思われます。
 私たちは、「日本人だからしょうがない」と考えているけれど、実は、日本の歴史の中に、恐れを仕込んだ敵がいるのです。そこから解放されなければいけません。特に今年は、日本人が「当然」と思っている恐れから解放を与えてくださると、主は語られているように感じます。

 前回も話しましたが、日本人だけにある特有の精神疾患が「対人恐怖症」だそうです。対人恐怖症は、他国にはあまりないそうです。日本人だけに「人を恐れる」要素があるそうです。これを「文化依存症候群」といって、対人恐怖症を英語に直すと、「タイジンキョウフショウ・シンプトムズ」と、そのままです。なぜならば、日本人特有だからだそうです。日本人は人目を気にして、人を恐れ、恐れの中に縮まっているというのです。日本人に生まれたからしょうがないと皆、思っているかもしれませんが、そうではありません。江戸時代以前の日本人は、もっと明るかったのです。実は、江戸時代から作為的に、日本人に恐怖が入れられたと以前もお話ししました。

 江戸幕府は、いくつか政策を通して、民衆に強烈な恐れを仕込んだのです。

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「五人組連座制」、「禁教令と訴人への褒美額を記した高札」、「寺請け制度」、「絵踏み」、「類族帳」、「転び証文」、「公開処刑」という、七つほどの方法で人々を恐怖に縛りつけました。そのような時代が三百年ほど続きました。
 五人組連座制は、「五軒で一組のグループを作り、相互監視をさせ、もしも組外から訴えられ、キリシタンが見つかった場合、五人組だけでなく、周辺の家々と一族も罰せられた」のです。

 先週は大きなニュースがありました。北朝鮮の金正日が死んだというニュースです。私たちは北朝鮮のために祈らなければなりません。北朝鮮の政治と社会システムをよく調べたら、絶対にあってはならないシステムです。その国に住んでいる人々は純粋ないい人ばかりです。しかし一人の暴君によって、人々は苦しめられているのです。今回、金正日から金正恩に独裁者が変わりましたけれど、この時にこそ、祈らなければなりません。
 テレビで報道される北朝鮮の様子はどうでしょうか。全員が同じように真剣に泣いています。それを見ている日本人は「すげーな。こいつら。本当に変な人たちだ」と思うのではないでしょうか。しかしそのように思っては絶対に駄目です。

 実は、現代において五人組制度が生きているのがどこかといったら、北朝鮮なのです。北朝鮮では、五人組制度を使って、相互に監視させているのです。みんな「うわーっ」と一斉に泣いていても、お互いに両横の人たちを見ているのです。「隣は涙を流しているかな?あれ?こいつ涙を流してないじゃないか。ちくってやれ!」という感じです。全員一緒に涙を出さないといけないのです。国外にいる人たちも、金正日の葬式に合わせて北朝鮮に帰るわけです。帰らなかったら、「あいつ帰らなかったよ」と五人組の中で訴えられるのです。だから同じ態度を取るしかないのです。
 去年、韓国のヨンビョン島に北朝鮮が攻撃を仕掛けました。それ以来、金正恩は五人組を三人組に変更したそうです。更に、相互監視を強めているのです。本当に北朝鮮の人たちはかわいそうです。

 しかし日本では、その状態が三百年くらい続いたのです。互いに監視されたのです。北朝鮮のような体制が三百年以上も続いたら、国民のキャラクターは完全に変えられるはずです。
 キリスト教に入ったら、捕まえられて殺される。そして、クリスチャンを見つけたら褒美をやるというような高札が全国にあったのです。特に、キリスト教の宣教師を見つけたら「銀五百枚」。現代のお金に換算したら「三千五百万円」ほどになる金額でした。それほど大きな金を出して、監視したわけです。そりゃキリシタンは根絶やしにされるはずです。

 「寺請け制度」は今でも残っています。この近所も人々は必ず寺に属しています。檀家制度があります。住民は必ずどこかの寺の檀徒にならなければならなかったのです。旅をする時は檀家寺が発行する「通行手形」を必要としたのです。今でも檀家制度は残っていますけれど、あれは江戸幕府が作ったシステムの延長です。キリシタンでないことが証明されないと、外にも出られない状態でした。

 また、踏み絵はキリストとかマリヤの像を踏ませて、キリシタンでないことを証明させました。毎年新年に、村中全員、寺に行って踏み絵をやらされたのです。

 棄教した者たちに対しては「類族帳」とに記載されました。キリシタンが捕まえられると殺されたり、棄教以後、男子は六代、女子は三代先まで、一族が監視されたのです。向こう六代、三代まで監視されたらどうでしょうか。大きな恐れが一族を支配することでしょう。誰もキリシタンにはならないはずです。

 「転び証文」とは、棄教することを「転ぶ」と呼びました。「転ぶ」とは、「クリスチャンを止める」という意味ですが、「転び証文」には、「南蛮誓詞」と、「日本誓詞」の二種類があって、「棄教した者たちにデウス、サンタマリア、アンジョ、ベアドにかけて、再びキリスト教には立ち返らないと誓約させた」というのです。これはカトリックのことですから、いろんな存在があるのですが、また、日本誓詞は「梵天、帝釈天、日本全国の神々に対して棄教したことを報告させ、二度とキリシタンに立ち返らないと誓わせた」のです。いかに幕府がキリシタンを憎み、精神的弾圧をかけて立ち返らせないようにしたかがわかります。

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 そして最後は、「公開処刑」です。これは恐かったと思います。キリシタンを捕まえて、民衆の目の前で十字架につけたり、火あぶりにして殺したわけです。今でも北朝鮮では公開処刑があります。そんなのがあったら、みんなびびって絶対キリシタンになることなかったはずです。日本人になぜ、対人恐怖症があるのかわかります。人目を気にしたり、「私は弱いな〜」と思ったりする人が多いですが、実は江戸幕府によって仕込まれた恐怖の後遺症なのです。それも、キリスト教を絶対この国に入れない為に作られたシステムによるのです。

 では、幕府はなぜそこまでキリシタンを迫害したのかというと、そこにも原因があったのです。それは植民地主義に対する、強い警戒心と恐れでした。カトリックが純粋なキリスト教とは違う証拠がそこにあります。ローマ・カトリックはポルトガルやスペインの植民地政策と共に、日本に入って来たのです。南米を見たら、彼らが何をしたのかがよく分かります。南米は植民地化され、カトリック化され、大勢の人が殺されたのです。秀吉や家康は、そのことをよく知っていたわけです。キリスト教が日本に入って来たら、日本は植民地化され人々は殺されると。

 キリシタン迫害がなかったら、日本はカトリック化され、ポルトガルかスペインの植民地になっていた可能性が高いと言われます。いずれにしても、カトリックと江戸幕府の双方に、暗闇の力が働いていたのです。結果として日本人を恐怖のどん底に落とし入れ、苦しめるためのサタンの策略以外の何ものでもなかったのです。

 ある意味で、日本には、ちょうどイエス様がお生まれになった時代、ゼブルンとか、ナフタリ、ガリラヤ地方の人たちが差別され、恐れ、暗闇の中に閉じ込められていたのと同じような環境があります。歴史を分析する時に、実に同じような環境があるのです。
 しかし感謝なことに、クリスマスは、このような大きな恐れに支配されていた人々を救う為に救い主がお生まれになったのです。人々を恐れから解放し、大きな喜びに入れてくださる為に、主はお生まれになったのです。
 今日、みなさんの中に「私には言い知れない恐れがある」という方がおられたら、今日は解放の日です。

 しかし誤解してほしくないのは、「恐れ」とは、基本的には悪いものではありません。先日もテレビでもやっていましたが、「恐れ」とは、「死に対する自己防衛反応」だというのです。例えば、コブラが出てきて、恐れがなくて手を出したらどうでしょうか。噛まれて死ぬのです。ライオンが出て来た時、恐れがなくて頭をなでたら食われるのです。恐れがなかったら自分を保つことができないわけです。正しい恐れは、私たちの命を長くするのです。しかし、必要のない恐れは、人生を壊します。
 神が与えたちょうど良い恐れを受け取り、生きていく時に幸せに生きることができるのです。必要のない恐れを取り除くために、イエス様はこの地上に来てくださったのです。ヘブル人への手紙二章十四節〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 人間最大の恐れは、やはり死に対する恐れです。なんで地震が来るのを恐れるのでしょうか。やはり死に直結するからです。津波をなぜ恐がるのでしょうか。やはり死に直結するからです。私たちも、来年のために祈らなければなりません。日本に地震が起こらないように祈らなければなりません。
 私もこの頃考えます。「礼拝中に地震があったらどうなるだろうか」と。みなさん、ぜひ考えてください。建物は案外丈夫ではないかと思います。ちょうど新城教会を建築するとき、新城市が震災特別地域に設定されました。私は建築に携わったのですが、途中で建物の鉄筋量を倍にされました。だから揺れには相当もつと思うのですが、一番危ないのは天井です。天井は必ず落ちます。この間も建築士の方と話をしましたが、今の耐震基準の中に天井は含まれていないそうです。ですから東日本級の地震が起きたら、どこでも天井は落ちるそうです。新城市で地震が起きたら、みなさんの頭の上の天井が落ちますから、すぐにイスの下に隠れてください。そして、頭をかかえて頭を防御して下さい。そうしたらいのちは守られると思います。地震も死に直結するからやっぱり恐いです。
 人間、死ぬことを考えて、平安でいられる人はいません。しかし人生は死では終わらないのです。その後があるのです。しかしその後が問題です。本当の神様の支配があったら、神が、私たちのいのちを管理してくださいます。永遠のいのちです。しかしもしも、敵に騙されていたらどうでしょうか。死ぬというのは、人間が肉体を脱ぎ捨てて霊的存在になる事です。元々、悪魔や悪霊は霊的存在ですから、霊的存在となった人は、死を通して、彼らの手に百パーセント陥ることを意味します。ですから死後の世界は恐いです。それは永遠の滅びにつながるからです。

 しかし、イエス・キリストがこの地上に生まれたのは、暗闇の勢力に縛られ、死の力に縛られていた人たちを救い出し、永遠のいのちを与えるためであったのです。
 私は、先週のコンサートでも話しましたが、教会は死を超越している場所です。なぜならば、教会は、葬式も結婚式もコンサートも礼拝も同じ場所でやるからです。
 先々週は、少し悲しいことがありました。この新城教会で一番長く信仰を持った方ではないかと思うのですが、伊藤忠男兄弟が天に帰られたからです。私は残念ながら葬式には出られませんでしたが、亡くなった直後に駆けつけました。彼は、この教会で、五十五年くらい信仰を守りました。
 忠男さんが教会に来た当初、車で来たのではありませんでした。馬で来ました。昔、教会が新城中学校の前にあったのですが、馬で来て、教会の塀に馬を繋ぐわけです。礼拝中に馬がいっぱい糞をするのです。ちょっと怖い馬でしたが、伊藤さんが「待て!」と押さえていました。そんな時代が日本にもあったわけです。
 しかし忠男さんがクリスチャンになって結婚し、今ではどうでしょうか。すぐ近くに伊藤村が出来ました。全体で四十人以上がいるのではないでしょうか。一人から、四十人、五十人とクリスチャンが増え広がりました。
 忠男さんは十時半くらいに召されたのですが、十時くらいまでは話をしていたそうです。娘さんが出かける時に、「気をつけて行けよ」と言って気遣っていたそうです。ヘルパーの方が来て、奥さんと話している内に、「あれ?息してないよ」とびっくりしたそうです。誰も気づかなかったけれど、彼は瞬間的に天国に帰ったのです。

 先々週は、この場所に伊藤さんの棺が置かれていました。しかし、今、私たちは礼拝しています。教会では、葬式も結婚式も同じ場所でやります。なんでできるのでしょうか。普通ではできません。なぜなら、死を超越しているからです。『主を信じて死んだ者たちは幸いだ』と聖書は語っています。神の国に永遠に生きているからです。やがて私たちも、天国に行って、顔と顔とを合わせ、再会できるのです。再会の希望があるのです。なぜなら、イエス様が一生涯、死の恐怖に繋がれて、奴隷となっていた人々を解放するために来てくださったからです。
 今日、クリスマスですが、クリスマスは、恐れからの解放日です。一人一人が解放され、自由になり、本物の神であるイエス様を信じて幸せに過ごし、永遠のいのちをいただき、全員が天国で再会しようではありませんか。この地上においても、喜びの中で生活しようじゃありませんか。
 最後に一言、お祈りして、今日の礼拝のメッセージに代えさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。御子イエス様を私たちのところに送ってくださったことを、心から感謝致します。今日は私たちの中にある不必要な恐れを取り去ってください。すべての方々がイエス様を救い主として迎え入れ、これからの人生を歩むことができるように導いてください。
 今日のクリスマス、特別、恐れというテーマを解決してくださると信じます。主よ。私たちの中にある、長いこと積み重ねてきた恐れを取り除いてください。

 今、みなさんにお伺いしたいと思いますが、みなさんの中に「私はもしかしたら必要以上の恐れがあるかもしれない」という方おられますか?そんな恐れを今日、イエス様が取り除いてくださるはずです。「今日初めて教会に来たけど、キリスト教に対しては拒否感がある」それは江戸時代におかれた策略に引っかかっている証拠です。そこから解放されないと自由な人生を歩むことはできないと思います。
 また、「私は死に対する恐れがあります。」そんな方はいらっしゃいますか?そんな方のためにイエス・キリストは生まれてくださいました。

 全員の方、お立ち上がりくださいますか。そして、主の前に出て祈りたいと思います。ご一緒にお祈りしたいと思います。口で告白する時に救われるとありますから、口でイエス様の名前を告白してください。イエス様を信じる祈りをしましょう。
 今日、この祈りをするならば、『主の御名を呼ぶ者は誰でも救われる』とありますから、永遠のいのちをいただくことができます。この瞬間に暗闇から解放されて、永遠のいのちが与えられます。これは、重要な祈りです。大きな声で、私の後について祈ってください。

 「父なる神様。私は、高らかに、イエス様だけが救い主であると信じ宣言します。受け入れます。私の心の中から不必要な恐れをすべて取り去ってください。日本人の奥に置かれている強烈な恐れを、完全に捨て去ります。断ち切ります。暗闇の勢力との関係を断ち切ります。今日から私に喜びを与えてください。クリスマスに神が用意した、喜びを私の心に与えてください。死の恐怖からも解放してください。神が与えた命を一秒たりとも無駄にせず、生き抜くことができますように。死の恐れから解放し、喜びと共に人生を送らせてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

 最後に私が祝福をお祈りします。
 ハレルヤ。父なる神様。御名を崇めて心から感謝します。御子イエス様をこの地上に送ってくださってありがとうございます。今年は日本にとって、大きな恐れの年でしたが、私たちを恐れから解放してください。私たちを自由にしてください。不必要な恐れを全て取り去ってください。クリスマスは恐れからの解放日であると宣言します。全員が恐れから解放されますように。死の恐れから解放されますように。神の前に喜んで人生を送ることができますように。永遠のいのちが与えられたことを宣言します。やがて天国で集まって喜び踊る日が来ることを感謝します。また人生の中にも喜びを与え、支えてください。心から感謝します。
 今、イエス様がただ中におられることを感謝します。イエス様が祝福の御手を置いてくださいますように。病の方がおられたら癒してください。肉体的にも精神的にも強めてくださいますように。特に「対人恐怖症」が消え去りますように。家の中の問題も取り去ってください。死に対する恐れも消え、喜びの人生を歩むことができますように。今日のこのクリスマスの日を心から感謝し、主の栄光が現されますように。すべての栄光をお返しし、イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。

 心からの暖かい拍手をイエス様にお捧げしましょう。ハレルヤ!イエス様、おめでとうございます。ハレルヤ、感謝します!