HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 2月 > メッセージ2012年2月5日

『冬は過ぎ去り、雨の季節は終わりました!』

2012.2.5(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
雅歌2章8節~15節

『愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。 『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。すばらしいゴスペルクワイヤーの賛美を感謝します。「私たちの人生はすべて、主の御手の中にあります」と力強い賛美を聴きました。人生は常に、主の御手の中にあることを感謝して生きていきたい思います。
 巷ではインフルエンザが流行っておりまして、今日もインフルエンザで教会に来れない方が多くおられるようです。昨日も上條実先生からメールが来て、「インフルエンザA型にかかりました。しばらく休ませてください。」と書かれていました。だから彼は今日、礼拝に来ていないですが、誰でも目に見えない敵におびえているわけです。目に見えないインフルエンザという敵におびえているわけですが、人間にとって最大の敵は、目に見えないものです。放射能も目に見えません。この頃日本は目に見えない敵におびやかされています。
 しかし私たちは主のみ手の中にありますから、揺るぐことはないのです。

 でも、人生は、大変なことばかりではなく、喜びの季節もあります。 みなさんはどうでしょうか?先週、楽しいこともいくつかあったと思います。
 案外人間は単純なもので、小さなことでほっとしたりするものです。私も小さなことで喜んだり、悲しんだりする者ですが、先週、二歳の孫から初めてメールをもらいました。うちの孫に架語というよくしゃべる女の子がいるのですが、彼女が私にメールをくれました。たぶんお母さんの携帯をいじっていて、偶然送られたものだと思うのですが、こんなメールが来ました。

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 「全然わからへん?」という暗号じみたメールでしたが、おじいちゃんとしては、まったく意味はわからんけれど、心がぽっと温かくなり嬉しくなったりするわけです。
 私たちは結構単純だと思うのですが、今週もみなさんにとって良い事がたくさんあったらいいと思います。

 今日、語らせていただく主題の御言葉として選ばせていただいたのは、雅歌二章八節~十五節の言葉です。
 「雅歌」の扱いを巡っては、昔からいろいろと論議が絶えませんでした。なぜならこれは男女の恋愛物のストーリーだからです。こんなものを正典の中に入れていいんだろうかという論議があったみたいです。
 しかし、今では聖書の六十六巻の一つの書として収められているわけです。ということは、これは単なる恋愛物ではないのです。それは、キリストと教会の関係。花嫁なる教会とキリストの関係を表しているわけです。神様からの私たちに対するラブレター、と言ってもいいのではないかと思います。

 私の一月の礼拝メッセージタイトルは毎回同じでした。「新しい年に期待せよ!」という題で語らせていただきました。そのメッセージを受けて、先週、祈っている時に与えられた御言葉がこれでした。雅歌二章十三節、

『ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。』

 メッセージの題名を「冬は過ぎ去り、雨の季節は終わりました!」とつけさせていただきました。日本的に言うならば、「冬は過ぎ去り、雪の季節は終わりました」としたほうがいいかもしれません。イスラエルでは雪は降らず、冬は雨期ですから、「雨の季節は終わりました」となるわけです。
 私たちの人生にも、冬のような季節、雨のような涙の季節もあります。しかし主を信じる者には、「冬は過ぎ去り、雨の季節は終わります」と主は言われます。この御言葉を、預言的に捉えていきたいと願います。今日の御言葉が、個人にとっても、教会にとっても、ひいては日本にとっても、預言的メッセージであったら嬉しいと思っています。

 隣に豊川という街があるのですが、一月五日に豊川のクリスチャンのご主人方と一緒に、本宮山に登って祈りました。夜の九時過ぎに、寒風吹きすさむ本宮山の頂上に登って、特に、豊川、豊橋、新城のリバイバルのために祈りました。
 なぜ祈ったのかというと、去年の暮れぐらいから、豊川のいくつかの家庭が迫害されていたからです。「クリスチャンになったら、家から出ていけ」とか、本当にひどい仕打ちを受けていました。今でも五人組、寺請制度が残っているかというようでした。これはとりなして祈らなければいけないと思い、ご主人方と地域を何度か巡って祈りに行きました。そして最後の仕上げに、本宮山に登って祈りたいと思っていました。
 でも、台風で道が崩れてしまって、なかなか行けませんでした。しかし近頃、片側通行で通れるようになったと聞いて、早速、みんなで行って祈りました。頂上に登りますと、三百六十度、新城教会に来られている方々の街々のほとんどが見えます。

 話は変わりますが、来週は、新城教会にとって大きな記念の週です。なぜかというと、一九九二年二月十三日、愛知県民の森で聖霊が注がれたからです。今年は聖霊が注がれて「満二十年」という、節目の年です。いつもは県民の森で祈祷会を持っているのですが、今回は、本宮山の頂上に登って、みんなで祈ろうと計画しています。ぜひとも、二月十三日、来週の月曜日、一緒に登って祈っていただきたいと思います。

 一月五日に、私たちは本宮山の山頂で真剣に祈っていました。祈っている時、主が私の心に意外な言葉を語ってくださいました。私はそれが神からの言葉だと信じたいのですが、私にとっては意外な言葉でした。私は忘れっぽいので、すぐにそれをiPhoneに書き込みました。
 「苦しみの季節は終わりました!」という短い言葉が飛び込んで来ました。私はそれまで、「日本の苦しみはこれからだ・・・」と思っていました。
 「日本にはこれから、いろいろな試練が始まるんだ」と思っていました。しかし、「苦しみの季節は終わりました」という言葉が響いてきて、びっくりしました。意外だったのです。だから、私はすぐに書き止めたのです。でも、そのことを誰にも言いませんでした。しかし、そんな体験もあって、私は「新しい年に期待せよシリーズ」を語らせていただいたわけです。

 案外、神が事を起こす前には、預言的に語ってくださることが多いのかもしれません。教会が預言的な賜物をもらう事は、たいへん重要だと思います。直接、言葉を語っていただいても、いただかなくても、教会は預言的に進んでいかなければならないからです。

 しばらくしたら、韓国人の知り合いから私に電話がありました。「順先生、一人のアメリカ人にどうしても会ってもらいたいので、時間を取ってくれますか?」と言われました。私はこの一月、たいへん忙しかったので、「時間ないな」と思ったのですが、「どうしても会いたいと言っている」というのです。ちょっと面倒だとは思いましたが、東京集会の前に少し早めに行って、その人と会いました。
 すると一人のアメリカ人男性が私を待っていました。彼は、あるとき、日本のために祈っていたそうです。そうしたら、突然、「あなたは日本に行って、日本の教会に告げなさい」という言葉をもらったというのです。
 それはどういう内容かと聞くと、「日本に大きなリバイバルが起きるから、準備するように教会に告げなさい」と言われたそうです。そして、「日本のすべての教会が一つとなってリバイバルを祈るのなら、日本にリバイバルが起きる。」また、「各教会が自分の地域のために祈らなければならない」と教えられたというのです。
 日本には今、八千以上の教会があります。全国各地域に教会があります。「一つ一つの教会には、任された地域ある。地域に働く悪霊の力に立ち向かって祈り、教会が一致して、お互い連携して敵に立ち向かうなら、日本に大きなリバイバルが起きる。そのことを日本に行って話しなさい」と語られたそうです。
 しかし、「悪魔が各地域に持っている策略を、どうやって見極めたらいいのですか?」と祈ったら、「もう日本には、悪魔の策略を見抜いて、それを霊的地図にしている人がいるから、その人に会わせてやる」と言われたそうです。
 彼は結婚式が間近だったそうですが、結婚しようとしていた相手がどこかへ行ってしまったそうです。それで、最終的に日本に来なければならなくなったそうです。
 右も左も分からない日本に来て、まず、ある地域に行って神から与えられた言葉を、その地域にある教会に告げたそうです。
 しかし、全然、相手にしてもらえなかったそうです。「あんたは、何をばかなことを言ってるの?」という感じだったそうです。
 それで心しなえて帰国しようと思ったそうですが、「被災地に行ってみよう」ということで、クリスチャンのボランティア団体の所に行ったそうです。そうしたら、そこに韓国人の女性が居たそうです。彼女に自分に示された事柄を話したら、彼女が感動したというのです。
 「私は、あなたが会うべき人を知っています。それは滝元順という男です!」と言ったそうです。なぜなら、その韓国人の女性は、私の「主が立ち上がられた日」という本を、韓国語に翻訳した人だったからです。彼女は日本の霊的戦いについて、よく理解していましたので、すごく感動して、彼を私の所に連れてきたのです。

 そんな話の中で、韓国人の女性がこう言うのです。「順先生、この頃、神様の前に出て日本の為に祈っていたら、意外なことを示されたんですよ。」私は、「それは何んですか」と尋ねると、「日本の苦しみの季節は終わった、って語られるのですが、どう思います?」と言うのです。私は、「同じことを語られてるな」と内心思いましたが、あえてコメントをしませんでした。
 もしかしたら今年主は、日本に哀れみの手を差しのばしておられるのかもしれない、と期待しています。それが霊的な世界なのか、現実の世界なのか、神の基準はわかりません。私たちの考える、苦しみの季節が終わったと解釈をして良いのかどうかもわかりません。しかし、二〇一二年に主は何かを用意をされていると期待します。

 一方では東京に四年以内にマグニチュード八クラスの地震が起こる確率が七十パーセントと発表されました(二月五日付の報道では四年以内に五十パーセントに修正されたと報じられています)。「大丈夫かな」と思いますよね。今日も、東京集会に行くのですが、「東京集会に行っている最中だけはなんとか守ってください!」とか、うちの息子一家や孫たちも住んでいますから、「彼らがミュージックスクールで、一家で新城に来ている時に起こしてください」とか、すぐ自己中心的なことを祈ってしまって、あっ、いけないと反省します。「そうじゃなくて、東京全体を守ってください」と祈り直したりするですが、地震が本当に起こるか否かは別として、神は日本に苦しみの季節を終わりにして、喜びの季節を与えようと計画してくださっていると期待すべきだと思います。今年は、年の初めから私にとって不思議なことがいくつかありました。

 実は私は、今週土曜日から、初めてですがイギリスで奉仕をします。スコットランド、エジンバラに行くのですが、ぜひとも祈っていただきたいと思います。この間も話したのですが、今年、リバイバルミッションの働きは、アジアに向いています。さらには、環太平洋へとその働きを進めたいと願っています。これは神から与えられた使命だと、私は確信しています。
 しかしこの働きを実際に進めるには、神から扉を開いていただかないと、どうにもならないと思っています。アジアに対しては日本が果たさなければならない責任があります。ぜひともそれを理解して、祈っていただきたいと思います。
 かつて日本は「大東亜共栄圏」という野望を持って、世界に出て行きました。それも、日本の偶像礼拝と共に出て行ったわけです。
 しかしその背景を調べて見ると、日本がそうせざるを得ない世界情勢も関わっていたのです。そういうことを勉強しながら、イギリスの帝国主義が背後に大きく関わっていて、当時、イギリスはインドまで植民地としており、インドから中国に麻薬を送って、アヘン戦争を引き起こしたわけです。イギリスは中国を狙っていたわけです。それで、日本も「このままだとイギリスにやられてしまう」という恐怖に駆られ、日本も自ら帝国主義の衣を着て、アジアに出て行ったという、相互の関係があるわけです。
 ですから、アジアをとりなす為には、「ヨーロッパのためにも祈らなければならない、特に、イギリスの帝国主義の背景をどのようにとりなしたらいいのかな・・・」と祈りつつ考えていました。
 そうしたら不思議と、イギリスで奉仕している韓国人宣教師の方が私の本を読んで、「ぜひともイギリスに来て、奉仕してください」と言われ道が開かれたのです。不思議だと思いました。


 日本は日清戦争に勝って、日露戦争、やがて太平洋戦争にまでつながりました。
 しかし日清戦争に勝つことができた背景に、あまり知られていないのですが、ユダヤ人が関わっていたのです。
 今でもシェル石油という会社がありますが、その会社を誰が始めたかというと、マーカス・サミュエルというイギリス系ユダヤ人が始めました。彼は十八歳の時、世界を放浪する形で日本に来たそうです。お金もなくて本当に貧乏だったそうです。
 ある日、彼は湘南海岸で人々が貝殻を拾っているのを見たそうです。見たら、その貝殻がすごくきれいで、自分もその貝殻を拾って加工して、ロンドンのお父さんの所に送ったそうです。そうしたらそれが、イギリスで飛ぶように売れたというのです。
 やがて、そのことがきっかけになって彼は金持ちになり、最終的にはシェル石油という石油会社を始めたのです。なんで貝殻マークかというと、「自分の原点は日本の湘南海岸で貝殻を拾っていた時期にある。原点をどんな時にも忘れないように」ということで、会社のマークに貝殻を使ったそうです。

 彼は日清戦争の時、日本軍に石油とか食料とか、いろんな物資を提供したそうです。日本は彼の援助で、日清戦争に勝つことができたというのです。彼はその後、台湾における既得権を手に入れ、さらに金持ちになったのです。彼は、明治天皇から、勲一等の大綬章までもらっています。
 そんなイギリスのユダヤ人社会が日本に関わっていたりするのです。日本が、今まで辿ってきた歴史の背後には、いろんな国々が関わっているものだと知らされました。

 実は、今回、私はスコットランドに行くのですが、招いてくれたのは韓国教会ですが、費用を出してくれるのはユダヤ人です。
 ソンヤさんという方が、私の経費を出すらしいのです。なぜかといったら、彼女は長年、霊的に圧迫を受けていて、いろんな問題があるそうです。それで、「ぜひとも霊的解放を受けたい」ということで、「今回の費用を出させてください」と申し出たそうです。イギリスに行って何もできなかったらアウトですから、キリストのからだのとりなしが必要です。かつては日本が悪しき剣を持って世界に出て行きましたけれども、今度は、霊的戦いの剣を持って、世界を解放するために用いてくださるのではないかと期待しています。そのように信じて、心を躍らせています。
 二〇一二年は、主に期待しています。「冬は過ぎ去り、雨の季節は終わる」年になって欲しいです。みなさんにとっても、そのような年になるように心から祈ります。

 アダムとエバが罪を犯した時、人は神との自由な交わりから分断されてしまいました。それがどこから始まったかというと、善悪を知る知識の木から実を取って食べた時からでした。食べてはいけないと言われたにも関わらず、彼らは取って食べてしまったのです。「取って食べたらあなたは死ぬ」と言われたけれど、創世記三章四節?六節、

『蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』

 蛇に誘惑されて、実を取って食べたところから、全人類が悪魔の手に渡ってしまった、悲しい歴史が始まるわけです。
 その後、人類は神との自由な交わりができなくなり、楽園から追い出されるわけです。しかし神が人を楽園から追い出す時、アダムとエバのために何をしたのかというと、創世記三章二十一節、

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』

と書かれています。もしかしたら羊が殺されて、羊の皮で衣を作ってくださったのかもしれないと言われます。皮の衣を着せられて、彼らはエデンの園から追い出されました。
その後、いのちの木への道がふさがれ、続いて創世記四章三節~七節、

『ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」』

 アダムとエバの子供たち、カインとアベルがある時、神様に捧げ物を持って来たというのです。しかし神は、アベルの捧げ物は受け取られましたが、兄のカインの捧げ物は受け取らなかったというのです。それで兄のカインは心を苛立たせ、顔を伏せて、神に対して苦い思いを持ちました。
 その後、何をしたかというと、アベルを野原に誘い出して、殺してしまったという、人類最初の殺人事件が起こったのです。
 アダムとエバが罪を犯したことによって、今度は子供たちの中にも悲惨な事件が起き、罪の結果が家族に流れていく様子を見ることができます。

 教会に来て罪についてはっきりと知ることは、たいへん重要です。「教会に来ると罪の指摘があるから心が痛い。行きたくない」という人が時々いるのですが、なぜ罪について知らないといけないのかというと、やはり罪の結果は恐ろしいものだからです。毒を飲んだら必ず、結果が出るのと同じように、罪にも結果が伴います。罪から離れて聖くならないと、幸せに生きることができないわけです。

 カインの捧げ物はどうして受け入れられなかったのでしょうか。アベルは受け入れられたのはなぜか?
 注解書などを見ると、「カインの心が悪かった。正しくなかったから」と解説されているのですが、そんな単純な問題ではないのです。
 実は、一度罪を犯してしまった人類は、神の前に出る事は出来ません。もしも神の前に出られるとしたら、その時は、生け贄が必要となったのです。
 アダムとエバが楽園から追い出された時も、神は獣を殺して、衣を着せました。それは、預言的に見ればイエス様の十字架につながるわけですが、その時点においては、罪ある者が神の前に出る場合、生け贄が必要であることを意味しています。それは神と人が断絶した結果です。カインもアベルも両親から、生贄について聞いていたはずですが、それを実行できたのは、弟のアベルだったのです。
 アベルは自分の飼っている羊の中で最上の物を生け贄として、神に捧げた為に、神に受け入れられたわけです。けれども、カインは、血を流すことなく、神の前に出た為に受け入れられなかったのではないかと思われます。

 本当に悲しいことに、罪を犯した人類が神の前に出る時は、必ず、生け贄が必要となってしまったのです。
 しかし、どうでしょうか。今、私たちに生贄は必要ありません。今日は賛美の中で、十字架の賛美が多くありました。すばらしい賛美ばかりでした。現在は、イエス様が十字架の上で血を流してくださったゆえに、私たちは神の前に生け贄なしで出ることができるようになったのです。これが福音です。
 しかしイエス様が十字架にかかっただけでは不十分なのです。「よみがえってくださった」という、よみがえりの事実がなかったら、十字架も無意味なのです。
 私たちの信仰の中心は、イエス様の十字架と、よみがえりがあったという事実が、すべてを支えているのです。もしもイエス様の十字架とよみがえりが嘘ならば、「今日を持ちまして、教会を解散させていただきます」と言った方がいいのです。それが嘘ならば、本当に馬鹿らしいです。一度しかない人生、嘘を信じて生きるほど、ばかばかしいことはありませんから。

 でも、みなさんどうでしょうか。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって死んでくれた、よみがえってくださったということが事実ならば、そんなにすごい事はありません。罪はすべて赦され、神の前に自由に出ることが出来るのです。
 旧約の時代は、イエス様の十字架が完成していなかった為に、神との断絶がありました。神との交わりを回復するには、必ず、生け贄が必要だったわけです。

 今日が旧約時代ならばどうでしょうか。新城教会に来る時、みなさんは羊とかやぎとか鳩とか、生け贄を携えて、ここに並んだはずです。そして、私たち牧師は、動物の頭をちょん切って、血を振りまいて、まるでオカルトの世界のようです。
 旧約時代、ユダヤ教では、そういうことをやっていたわけです。しかしイエス様が初めで最後の犠牲になってくださったゆえに、私たちは犠牲なしに、神のみ前に出ることができるのです。なぜならば、イエス様が子羊となってくださったからです。

 しかし、今の時代も一つだけ、生け贄が必要です。それが何かというと、実は、「賛美」なのです。ヘブル書十三章十五節、

『ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。』

 今日も賛美しましたけれど、私たちは動物を殺して捧げる必要はない代わりに、賛美の生贄をささげるのです。
 今日、主題とさせていただきました雅歌二章十一節、十二節を読みますとこうなっています。

『ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。』

 『歌の季節がやって来た』とは、何を意味するのでしょうか。これはイエス様の十字架と復活によって、血をながして神の前に出るような季節は終わり、歌の季節がやってくる、すなわち、それは賛美の生け贄です。私たちは現在、「歌の季節」に生きているわけです。
 今日の賛美も本当に祝福されましたけれど、これは、賛美が唯一の生け贄だからです。また、聖書には『あなた方を聖い生きた供え物として捧げなさい』とありますから、私たちは死ぬことはなく、生きたまま神の前に自分自身を捧げるのです。それがまた、生け贄でもあるわけです。賛美とは、献身の表れでもありますから、「私は神のものです。神のために働きます」と、信仰告白として賛美するわけですから、賛美は生きた供え物です。今、私たちは「歌の季節」に生きているのです。

 何年か前にイスラエルに行ったことがあります。イスラエルに行きますと、聖書の点が線になり、やがて何回も行っている内に、聖書の世界が立体的に見えるようになります。ぜひとも行かれたらいいと思うのですが、イスラエルに行くと、貧しいアラブ人の子供たちがやって来て、「おじちゃん、一ドルくれ、一ドルくれ」と付きまとってきます。彼らは観光客からお金をもらいながら生きています。
 ある時、うるさい子供たちが「ワンダラー、ワンダラー(一ドルのこと)」と付きまとってきました。「ここはワンダーランドか?」という感じでしたが、その時私は賛美をしました。どんな歌を歌ったかというと、雅歌から作られた賛美をしました。「ララララ歌おう」という歌でした。「愛する者、美しい人、出ておいで♪」という賛美をしました。そうしたら、今まで「ワンダラー、ワンダラー」と言っていた少年たちも、一緒になって輪になって賛美をして、踊り回った記憶があります。現代においては、賛美が神への生け贄であることを体験しました。

 イエス様の十字架と復活によって、血を流すことは必要なくなって、神の前に、賛美と共に喜んで出ることができるのです。すばらしい特権ですよね。私たちは賛美のいけにえを、今年はもっともっと、もっともっと、捧げようじゃありませんか。その時、リバイバルは進んで行くと信じます。

 神の前に出る時には、「血が流される」というテーマがあったと言いましたが、悪魔は常に、神の霊的な法則を見ながら、それを横取りして、自分に適用する天才です。彼は神ではないゆえに、創造者ではないですから、創造者が作った法則を自分にうまく利用、適応させて、人と関わるのです。

 実は創世記二十二章を見ますと、感動的なストーリーが出てきます。アブラハムとサラというカップルには、長い間子供がいなくて、アブラハムは九十九歳、サラは八十九歳になってしまいました。普通ならば子供なんか出来るわけないのですが、ある日、神の使いが彼らに来て、「あなたに子供をあげますよ」と言われたわけです。彼らはびっくりしたわけです。サラは心の中で「そんなことあるわけない・・・」と笑ったのですが、神の言葉は不可能を可能にするのです。
 なんとアブラハムは百歳の時、サラは九十歳の時、イサクという約束の子供をゲットしたのです。彼らにとってイサクは本当にかわいかったことでしょう。

 しかしそのうち、神がアブラハムを試練に会わせたというのです。そのことが創世記二十二章一節~三節に記録されています。みなさん、これを自分と重ねて読んでみてください。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』

 神はすごいことを言ったものです。アブラハムはかつては、あのバビロンの「ウル」という、偶像礼拝の地から父と一緒に脱出した者です。途中で、ヤーウェの神、天地宇宙を造った真の神と出会ったわけです。そしてやがて、約束の子、イサクをもらいました。
 しかし、その神様が、なんと、一人子イサクを生け贄として殺して、捧げろと言われたのです。
 こんなこと言われたらどうでしょうか。普通では従うことはできません。しかし、アブラハムはすごいですよ。なんの文句も言わずに、イサクを連れてモリヤの山に向かったのです。
 創世記二十二章六節~十節を読むと、そのことが出ているのですが、短い中に、アブラハムの複雑な心境が表われています。創世記二十二章六節、七節、

『アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」』

 神様はイサクを生贄として捧げろと言われたのです。むごいじゃないですか。ひどいですね。でも、アブラハムは神の言葉に忠実に従ったのです。私ならできないと思います。「おまえの息子、堅志を捧げろ」と言われたら、多分、彼は自分で逃げるとは思いますが、イサクもイサクです。父親に従順に付いて行ったわけですから。
 途中、あまりにもアブラハムが無言だったからでしょう。ちょっと不思議に思って、父親に訪ねたわけです。「お父さん。」短い言葉です。すると、「何だ。イサク。」この言葉の響きの中に、すべての気持ちが表れているじゃないですか。
 昔、田中政男先生。私の良き兄貴分だったんですが、彼がよく、ここからメッセージを語っていました。「ここを読んだだけで私は泣けてしまう」と言っていましたが、そのくらい父親の心境が現されています。
 「薪や刀はあるけれど、羊はどこにいますか」とイサクは父親に聞きました。アブラハムはとてもじゃないですが、「生け贄はおまえだ」とは言えなかったわけです。
 やがて彼らはモリヤの山に着いたのです。そしてついに、二十二章十節、

『アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。』

 なんと、自分の子供に手をかけようとしたのです。神様からの命令だからだからしょうがない、刀を振り上げたその瞬間でした。創世記二十二章十一節・十二節、

『そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」』

 彼が神に忠実に従ったことを見届けられた瞬間、寸前でイサクを殺すことを神がとどめたというのです。二十二章十三節、

『アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。』

 そして自分の子供の代わりに、羊を捧げて事なきを得たのです。本当にアブラハムの信仰はすごいものだと思います。
 ある意味、これは私たちの信仰の原点であり、基本姿勢でなければなりません。よく見えても、悪く見えても、神の言葉には従っていくという態度が必要ですよね。
 さて、新約聖書にいたって、ヘブル書の筆者はこのことに関して、次のように評価し述べています。ヘブル人への手紙十一章十七節~十九節、

『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』

 アブラハムは仮にイサクを捧げたとしても、「神はイサクを生き返らせて下さる」という信仰を持っていたというのです。彼は神に信頼し続けたというのです。
 またヘブル書の記者は、『これは型だ』とも語っています。なんの型かというと、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって死に、よみがえってくださるという預言的な型として表されたというのです。
 聖書は、旧約聖書から新約聖書までを通して、聖書となるわけです。旧約聖書から始まり、長い年月をかけ、イエス様が地上に現れ、十字架の死と復活を通し、救いが完成したのです。これはただ事ではなく、人類を贖うためになされた救済の歴史です。それが聖書には記されているのです。聖書はすごい書物ですね。

 しかし一方では、疑問も残ることも確かです。普通ならばどうでしょうか。アブラハムがいくら神からの声を聞いたと言っても、神の姿をはっきり見たわけでもないのに、いとも簡単に一人子を捧げろという指示に従ったからです。私ならば絶対に、まずはそんなことを告げる神に文句言うに違いありません。しかしアブラハムはあまりにも素直です。

 実は、その背景に、当時の文化的習慣が関わっていたのです。
神が「モリヤの山に行ってイサクを捧げろ」と言われたのですが、その時、アブラハムの脳裏には一つの光景が浮かんだのではないかと思われます。
 さて、モリヤの山とはどういうぱ場所か、ちょっと地図をお見せします。

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 これは、エルサレムの地図です。モリヤの山とはここです。ソロモン王の時代はかつてユダヤ教の神殿が建っていました。なぜなら、モリヤの山は、イサクを捧げようとした重要な場所だからです。現在はイスラムの金のモスクが建っています。イスラムにとってもこの場所は聖地になっています。
 やがて、イサクがささげられた場所に、イエス様の十字架が立つことになりました。イエス様が、身代わりの子羊となって人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかって下さったのです。これは「型」です。

 しかし、モリヤの山の下に谷があります。ベン・ヒノムの谷という谷があります。
 私は、イスラエルに何度も行ったことがあるのですが、ある時、リバイバルミッションのツアーで、イスラエルを二周してお世話したことがあります。一つのチームのお世話して、先のチームが帰って、次のチームを受け入れて、その方々と一緒にもう一周廻るという、イスラエルを二周する役割をもらったことがありました。
 初めのチームが帰って、次のチームが来るまでに、二日間ありました。その間はホテルで「自由にしていて」と言われました。私はその時に「やることねぇな、暇だな」と思ったのですが、「そうだ。この二日間を有効に使って、エルサレムをとりなして祈ろう」と思いました。それで私は、エルサレムのいろんな場所に行って、とりなし、祈りに行きました。

 エルサレムを歩き回り、ある谷に降りて行きました。下りて行くと、強い悪霊の臨在を感じました。私は普段はそういうことはあまり感じず、どこに行っても鈍感というか、どこにでも入って行けるタイプです。去年行ったある国ではヒンズー寺院で、動物の生け贄を捧げている所にも入って行って、ビデオを撮れるくらいですから。
 しかし、エルサレムのある谷に下って行った時には、すごく気持ちが悪かったのです。ここには悪霊がいると感じて、ホテルに逃げ帰って来ました。
 「絶対に、ここは入っちゃだめだ。」と思いました。私はどこに行ったのかなと思って、その後、地図で調べて見ました。それが「ベン・ヒノムの谷」と呼ばれる場所でした。
 なぜ、そんなに気持ちが悪かったのか、後でその理由がわかりました。実はここは、考古学者たちの調査によれば、アブラハムの時代よりもさらにもっと古い時代から、この場所で一つのことがなされていたのです。それが、何かというと、「モレク神」という偶像の神に礼拝が捧げられていたのです。それも、モレクに子どもを殺して捧げるという、悪しき行為がなされていたのです。
 ちょっと気持ち悪い写真を見せたいと思います。ベン・ヒノムの谷は、かつてこんな感じではなかったかと言われています。

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 このモレクという牛の頭をした偶像に対して、「子供を捧げろ」と語られた両親は、素直に子供を捧げなければならなかったのです。
 この場所では、子供を火で焼いて悪霊に捧げる行為がずっとなされていたのです。イエス様の時代はゲヘナと呼ばれて、ゴミ捨て場、火がいつも燃えていました。なんで燃えていたかといったら、かつては子供を生け贄にするような悪しき習慣があったからです。
 アブラハムは、この地域の文化的な影響を受けていましたから、霊的な声を聞いて「おまえの子供を捧げろ」と言われたら、それは捧げるものだという意識があったことでしょう。それが当然のように考えられていた時代にアブラハムは生活していたのです。

 当時の記録によると、モレク神に自分の子供を捧げる時、「両親は決して泣いてはいけない。喜んでモレクにわが子の命を捧げなければいけない」という鉄則があったそうです。
 霊的な声を聞いてしまったら、モリヤの丘の下のベン・ヒノムの谷に行って、モレクに我が子を捧げたのです。
 なんと、その場所に神がアブラハムにイサクを捧げるために行けと命じられたのです。

 私はアブラハムは、もちろん神を信じていましたが、やはり当時の文化的、習慣的な影響を受けていたと考えています。その影響もあって、すぐにイサクを連れて行ったのではないかと思います。
 現場について、わが子を殺そうとした時、神が「ストップ!」と言われたのは、これは何を意味するのでしょうか。そこにはいろいろな理解があると思いますが、それは、子供を生け贄に捧げるような悪習慣からの解放であり、やがて生贄をささげるような季節は終わりをつげるという、預言的意味を含んでいたと思われます。
 やがてイエス様が、初めで最後の生贄となって、人類の贖いを完成する日が来るという、型でもあったわけです。

 イエス様の十字架は人類のすべての罪を贖うものですが、その中心軸に、長いこと人類が、我が子さえも生贄とし、悪魔からの恩恵を貰うような悪しき習慣にくさびを打ち込むものでした。
 イエス様がこの地上に来てくださった目的の中に、そのような軸があるように思います。

 先週もお話ししたのですが、バベルの塔から、世界の文化・文明が世界に拡大して行ったわけです。先週お見せした地図をもう一度見てみますと、

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 このバベルの塔付近に、最古の文明がありました。それがメソポタミア文明でした。そこから人類は東・西に移動させられ、東回りはペルーのカラルという場所まで散らされた可能性がある、と先週もお話ししました。世界中に、バベルの塔、ピラミッドがあることもお話ししました。

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これは、ウル、かつてのバビロンにあるピラミッドであります。

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これは、エジプトのピラミッドです。

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これは、北アメリカのイリノイ州のカホキヤ・インディアンが作ったピラミッドです。

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これは、メキシコのユカタン半島にあるピラミッドです。

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これは、ペルーのカラルにあるピラミッドです。約五千年前のピラミッドです。

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 このようにピラミッドが世界中にあるのです。そして、ピラミッドの目的はなんでしょうか。
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 このように階段があって、頂上には神殿があったのです。そこで人々は何をしていたのか。人を殺して、特に重要な日には、子供を殺して、悪霊と取り引きをしていたのです。そんな悪しき習慣が、長い間続いていたのです。
 それは、悪魔が人類に教えた当時の「ハイテク」だったのです。ピラミッドを作って、その頂上で子供を生贄として捧げ、霊を呼ぶと、その霊と取り引きが成立し、人間では不可能なことが可能になるという技術、それがシャーマニズムでした。今の世界ならば飛行機を作ったり、原子力発電所を作ったり、コンピューター社会を作ることがハイテクですが、昔のハイテクはシャーマニズムだったのです。
 日本でも同じ行為が縄文時代に行われていました。

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 これはどこの写真か知っていますか?ここに岩の祭壇のようなものがあります。これは渥美半島、田原にある「吉胡遺跡」です。

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 ちょっと気持ち悪いですけれど、人骨が多く出ています。これは何らかの目的のために生け贄となった人々の骨です。その中には子供の骨もあります。頭を朱色に染めた子供の人骨も出ています。それは何らかの宗教行事と共に埋葬されたことを意味します。
 なんと日本でも、イサクと同じように、岩の上で子供を捧げる悪しき行為がなされていたわけです。

 けれども、イエス様の十字架は、長い間行われていた悪しき行為をストップさせ、「犠牲はもう必要ありません。」と、宣言してくださったのです。先週もお話ししましたけれども、子供だけではなく、親子セットで解放してくださるとお話しました。
 アブラハムもイサクを捧げなさいと声を聞いた時、表面的には感情も乱さず、指定された場所に黙々と向かっていきました。その背景に、当時の文化が関わっていたと思うのです。悲しいけれど、悲しみを表すこともできなかったのです。
 アダムとエバが息子アベルを失った時も、相当悲しかったと思います。子供を苦しめ、親を苦しめる、そんなセットが人類の中に入り込んでいるような気がします。また、罪のない子供の血が流されるようなことが長いことなされていました。しかしイエス様がこの地上に来てくださり、最初で最後の生贄となってくださったことにより、人類は神の前に自由に出入りできるようになったのです。そして、人類の宿敵である、死をも打ち破ってよみがえってくださったのです。
 「私たちの罪はすべてゆるされ、子供は犠牲にならなくてもいい、親も悲しまなくてもいいのですよ。親子で苦しむ季節は終わりました」と宣言されたのです。「今まであったような、冬の季節、雨の季節は終わりです。歌の季節がやって来ました」と、十字架を通して神が人類に宣言してくださったのです。
 当時の文化的、習慣的なところと合わせて理解するとき、イエス様の十字架は、私たちを罪から贖うと共に、我々の人生の悲しみ、涙、冬の季節からの解放というテーマがあることに気付かされます。

 歴史を見る時に、悪魔が子供たちを狙った現実があります。今でも子供たちが狙われている現実があります。なぜかというと、子供たちは、主の勇士だからです。先週もそのことをお話ししました。子供たちに霊的な目が開かれる時、大きな勝利につながるからです。詩篇八篇一節・二節、

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

このところをイエス様が引用され、マタイ二十一章十六節で、

『そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』

 子供たちが賛美する時、「敵と復讐する者たちをしずめる」のです。敵を打ち破る権威ある存在として、子供たちが用いられるのです。門で敵と語る時にも、決して恥を見ることはないのです。
 ゆえに、悪魔も真剣になって、子供たちを奪い去ろう、その賜物を奪い去ろうとしているのだと思います。
 しかし、神が、一人子イエス様をこの地上に送ってくださり、最初で最後の生贄となってくださったことにより、私たちは解放され、涙の季節ではなく、歌の季節に入れてくださるのが、福音の中に啓示されているのです。

 今日、みなさんの中で、「子供の問題で苦しんでいる」という方がいらっしゃるかもしれません。また「私は親子の問題で苦しんでいる」という人もいるかもしれません。イエス様はそれらの問題を解決するために、この地上に来てくださったことを覚えましょう。今年は親子で苦しんでいるテーマが打ち破られ、歌の季節に入るように祈りましょう。
「苦しみの季節は終わりました」と主は語っておられます。それが現実になるように、祈り続けたいと思います。
 今から、十字架の血潮を仰いで、聖餐式を持ちます。親子で勝利が現されるように祈りましょう。冬の季節が終わり、雨がとどまり、勝利を見ることができるよう、祈りましょう。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは一人子イエス様をこの地上に送ってくださり、初めで最後の犠牲となってくださったことを感謝します。それだけでなく、よみがえってくださって、今も生きておられますから感謝します。
 主よ、ここに来てください。今日、親子で解放され、自由になりますように。今年は、家族全員が幸せになる年ですから、心から感謝します。あなたは決して、私たちに犠牲や生け贄を求める方ではありません。今日、このようにして私たちが主の前に出ることができ、心から感謝します。主の栄光が現されますように。
 今から聖餐式を行います。尊いイエス様の十字架の血を、肉を心から感謝します。よみがえりの事実を覚えて、私たちは今日、聖餐式を行います。主がここに来てください。イエス様の御名を通して、勝利を宣言して祈ります。アーメン。

 みなさんでご一緒にお祈りしたいと思います。『冬は過ぎ去り、雨の季節は終わりました』と、イエス様の十字架が私たちのすべての罪を赦し、聖めてくださり、いのちへと変えてくださることを覚えると共に、親子で苦しみを受けているような人たちを解放する力という意味もふまえて、家族の代表として、大いなる祝福と勝利の年となるように、リバイバルの年となるに祈って、聖餐にあずかりたいと思います。