HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 3月 > メッセージ2012年3月4日

『弱さの中に働かれる神』

2012.3.4(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
第二コリント人への手紙 12章9節

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』


  ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日も御言葉を語らせていただけます特権を、心から感謝します。
 今日は三月四日。来週の日曜日は三月十一日です。昨年の三月十一日は日本に大地震が起こった日です。以来、日本は大きな弱さを体験しています。日本はもう一度起き上がることができるのか、誰にもわかりません。もしかすると東京に四年くらいの間に、七十パーセント以上の確率で大地震が来るかもしれないとも言われます。また、東北にも続けて第二、第三の地震の可能性も否定できないとも聞いています。私たちが住んでいる地域も危険です。そんな不安な中、日本人の心がたいへん暗くなっています。
 国全体でもそうですが、人生も、時に弱さを体験することがあります。突然病気になったり、突然家の中に問題が起こったり、経済的に行き詰まったり、様々な弱さを体験するわけです。そして、なんとかそこから抜け出したいと考えるのです。

 パウロという人物はキリスト教の発展に一番尽くした人物であったわけですが、彼にも弱さがあったようです。彼には『肉体にとげがあった』と記されています。それは何か病気があったようです。どういう病気であったかは定かではありませんが、彼は神の人でしたから、神の前に出て、「このとげを抜いてください」と三回も真剣に祈りました。また彼は、これがサタンから来たものだということもわかっていて、それが取りのけられるように真剣に祈ったのです。
 しかしその時、神から伝えられた答えは意外でした。それがなんであったかというと、今日読んだ第二コリント十二章九節の言葉です。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

 私たちはいろんな状況におかれるわけですが、神が言われるのは、『わたしの恵みはあなたに十分』ということです。
 ある時は、順調な時もありますし、ある時はあまり順調ではない、弱さを覚えるような時もありますけれど、主は『わたしの恵みはあなたに十分です』と言われます。
 そして、神が働かれる場所はどこかというと、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と述べられています。

 先週は「エルシャダイ、全能の神」というタイトルでメッセージを語らせていただきました。エルシャダイなる神、全能の神が完全に働かれる現場が、なんと、「弱さの中に完全に働かれる」というのです。
 日本は、この一年、大変な弱さを体験しているのですが、これは「大きなチャンス」でもあるわけです。なぜならば、弱さの中に神は完全に現れて下さるからです。
 日本にこれから神の力が、弱さを通して働くように祈っていきたいと思います。
 パウロはさらにコリント人へ手紙の第二の十二章十節で次のように語っています。

『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

 これはある意味、逆転の発想ですよね。弱い時になかなか強いなんて言えません。弱い時は弱いじゃないか、強い時は強いじゃないか・・・、これが一般的な発想ですが、聖書の世界観は私たちが持っているものとは逆の世界観を提示しています。なんと、私たちが弱い時にこそ、強いのだというのです。
 今日、みなさんの中でも、なんらかの弱さを感じておられる方がいるかもしれませんが、その時にこそ「あなたは強い!」というのです。逆を言えば、強いと思っているその場所が弱いのかもしれません。
 私たちの戦いは、「与えられた賜物を中心軸に展開していく」と先週、お話ししましたが、最も強いと考えている場所がある意味、一番の弱さになる危険性もあるわけです。
 いろいろな賜物が与えられているかと思いますが、「自分はここが長所だ。ここが強い」と思っている領域が、ある意味、一番の攻撃の的になりますから、イエス様の十字架の血潮で守っていただき、弱いと考えている場所にこそ、主が働かれ、弱いと思っている領域に主が完全に力を現してくださるのです。

 『弱いときにこそ、私は強い』とパウロは語りましたが、彼は様々な悲しみや苦しみの中で、このような真理に目覚めたのではないかと思われます。
 ですから、国全体で弱められたり、苦難に出会う時こそ、そのような真理に気づかされるチャンスではないかと思うのです。
 その弱さを通して、神が働き、私たちを多くの人を慰める存在として、立て直してくださるのです。

 みなさんもご存じの、星野富弘さんという人物がいます。彼は詩人であり、画家であり、大変有名な人ですけれど、彼は群馬県に生まれ、一九七〇年に群馬大学を卒業して、中学校の体育の先生になったそうです。彼には体力もあって強い人でした。しかし、授業中に脊髄を損傷し、首から下が全く麻痺してしまいました。突然、寝たきりになってしまったのです。
 みなさん、ちょっと考えてみてください。今日、動くことができるのですが、突然、首から下がすべてが麻痺してしまったとしたら、それは絶望のどん底だと思います。
 しかし、彼はそんな絶望のどん底で、イエス・キリストに出会ったのです。その弱さを通して神が働くようになったわけです。
 今や彼が創った詩が、また、彼が描いた絵が、どれだけ多くの人の慰めと励ましとなっているのかわかりません。もしも彼が弱さを持っていなかったならば、このように多くの人を励ますことはできないし、慰めることもできなかったと思います。彼が元気ならば、今でも群馬県のどこかの中学校の一人の先生もしれません。しかし、彼が弱さを体験したゆえに、また、弱さの中に依然としてとどまっているが故に、多くの人を助けることが出来ているのです。

 彼は首から下が全く動きませんから、寝たきりです。しかし、そんな中で普通では見えない物が見えるようになったわけです。こんな詩がありましたので紹介したいと思います。

 「花が上を向いて咲いている。私は上を向いて寝ている。当たり前のことだけど神様の深い愛を感じる。」

 彼は上を向いて寝るしかなかった。しかし、花も上を向いて咲いているじゃないか、同じだ。花も動きませんが、自分も動くことができない。しかしそんな中にも、神様の深い愛を感じるというのです。

 「小さいから踏まれるのさ。弱いから折れないのさ。倒れてもその時もし暇だったら、しばらく空を眺め、また起き上がるのさ」。

 「どんな時にも神様に愛されている。そう思っている。手を伸ばせば届くところ、呼べば聞こえるところ、眠れない夜は枕の中にあなたがいる」

 神は弱さの中に働いてくださるという現実を、彼を通して見ることができます。神様は意外なところで、ご自分を現してくださる方です。
 私たちが一生懸命祈っても、なかなか祈りが答えられないことがあるかもしれません。しかし、そんな中にも『あなたにとって恵みは十分です』と語られ、その弱さの中にこそ、主が御力を完全に現してくださると約束されています。エル・シャダイなる全能の神が働いてくださると教えています。

 なぜ、弱いところに神が働いてくださるか、その理由について、ローマ書八章二十六節〜二十八節を読むと気づかされます。

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 この言葉は同じパウロが語っています。『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます』と語っています。
 弱さを体験すると、祈り疲れてしまい、どう祈っていいのかわからないこともあります。口からはただ、ため息やうめき声しか出てこない時があります。
 しかし、その領域は誰が受け持ってくださるのかというと、聖霊様ご自身が受け持ってくださり、とりなしの祈りをしてくださるというのです。すなわち、弱さの中に、聖霊によるとりなしがあることを教えています。
 人間の力ではどうにもならない、放棄しなければならないような領域は、聖霊によるとりなしが行われる領域だとパウロは語っています。うめきしか出てこないような領域、それは聖霊ご自身が、私たちのために、うめき、とりなしてくれているというのです。

 聖霊様とはどういうお方かというと、「人間の心を探り、極める方だ」というのです。今日ここに、三百人以上の方が集っておられます。一人一人の心の思いは様々だと思います。私がこうして語っている間も、いろんなことを考えながら聞いておられると思います。
 それを全て知ることはできません。けれども、神はみなさんの思い、私の思いのすべてをご存じです。様々な考え方があるのは当然だと思うのですが、神様は私たちに最高のプランを用意しておられます。私たちには「神の計画書」があるのです。

 でも、人は神様の計画がありながら、その計画の道を歩まないで外れた道を歩みやすいのです。神の道を歩んでいくならば、それは喜びの道ですが、外れると、いばらの道があるのかもしれません。
 そんな時、弱さを体験させられ、聖霊のとりなしによって、自分の思いと神の思いが徐々に徐々に近づき、最終的に神の御心の中を歩む者にされるのです。

 お一人ひとり、教会に来るきっかけを考えてみれば、わかると思います。教会に来る前は神を知らず、自分の心の赴くまま生きていたかもしれません。しかし、ある時、困難を体験し、自分の力の及ばないことがわかり、教会に来られたのだと思うのです。
 神は我々が教会に来る前の思いもちゃんと知っておられ、教会に来てからは、聖霊によって神のプランに徐々に近づいて、真理の道を歩むようになったわけです。
 ということは、うめきや苦しみの中に、聖霊によるとりなしがあったわけです。
 今日、「自分ではどうにもならん」と考えているその領域は、聖霊様が受け持ってくださり、うめきを神の御心に変えるために、とりなしの祈りをしてくださっていることを知って下さい。
 そして二十八節はすばらしいみ言葉です。みなさんでご一緒に声を合わせて読んでみましょうか。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 今日みなさんが神様を愛しているならば、イエス・キリストを信じているならば、様々なことが起こっているかもしれないけれど、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。この信仰を、私たちは固く持たなければなりません。

 体操選手の跳び箱や鉄棒を見ますと、宙に上がって逆さになったり、ひねったり、いろんな格好をしています。あるときは真っ逆さまになることもあります。そのまま落ちたら即死ですが、回転が入ったり、ひねりが入ったりして、最後に両足で着地するのです。どんっと両足で着地するとき、高得点になるわけです。

 案外、私たちの人生も同じかもしれません。逆さになったり、ひねりが入ったり、横になったり、大変かもしれないけれど、最終的に、すべてが益となって着地して、パーフェクト・ポイントが与えられるのです。日本という国においても、同様のことが言えると思います。
 神様の御心が現されるのは、強い領域ではなく、弱さの中から輝くものが出て来ると思うのです。

 人生って、本当にちょっとしたきっかけから、大きく転換していくものです。今日も婚約式がありますけれど、先日、菊地君と姪っ子の清香が我が家に来ました。何しに来たのかな、変なカップルだなと思いましたら、なんと、結婚したいというのです。びっくりしました。どうしてかと聞くと、スターバックスで出会ったというのです。その裏には、いろいろあったのかもしれませんが、彼が働いている店に清香がコーヒーを飲みに行ったりしていて、やがて一生を共にする決断をしたわけです。
 結婚のきっかけは、だいたいそういう感じかもしれません。ちょっとしたきっかけで、「あの時さえなければ・・・」という人もいるかもしれません。「プロポーズ。あの日に戻って断りたい」という川柳もあります。彼らもお互いに「断るなら今日まで」だと思いますけれど、ちょっとしたことが、かなり大きなことに変わって行くのです。また、ある人の一生の職業を決定づけたりするのです。

 先週、私はゴスペルサパーでも話したのですが、今、私の息子は東京でベース弾きをしています。プロのミュージシャンをしています。彼は今、たいへん忙しいらしく、「人生の中で最高に忙しい」と言っていました。今までどれだけ暇だったのかと思うのですが、なんで息子がベースを弾くようになったのかは、ちょっとしたことがきっかけでした。今はロンさんのバンドのベースをやらせていただいたり、また、教会でも奉仕をさせていただいています。
 昨日は教会でミュージック・スクールがあって、多くの若者が将来を目指して練習しています。今では、新城教会から大勢のミュージシャンが育っていますが、息子がベースを弾くようになったのも、偶然が偶然をよんだようなきっかけでした。

 実は、今から二十数年前、私はこの教会で働くようになったのですか、当時はこんなに大勢、集まっていなかったし、そんなこと言っちゃいけませんけれど、結構暇でした。給料も少なかったし、これじゃ生活できないと思いました。それで、何かアルバイトをしないといけないと思い、家庭教師をやっていた時期がありました。
 今の私を見て、「あの人が家庭教師?」というかもしれませんが、昔は髪の毛もあって、ちょっと家庭教師っぽい顔をしていましたよ。

 ある時、一人の高校生が私の所に来ました。何か書類を持って来ました。それは、高校の退学届でした。「なんで退学するの?」と聞くと、彼は四十人中四十番だというのです。テストは、ほとんど零点だというのです。彼はテストの時に、初めから放棄して、名前すら書かないというのです。それで先生が「親に退学の印鑑をもらって来い」と言われたというのです。しかしもう一回、がんばって勉強したいということで、私の所に来ました。

 彼は四十人中四十番ですから、結構やりがいがある仕事じゃないですか。これ以上、下はありませんから、私は彼のために毎日、家庭教師をしました。相当暇だったのでしょう。毎日、私の家に来てもらって特訓しました。
 一年くらいやりました。すると成績が徐々に上がって、最後には驚くなかれ、四十人中四十番だった人が一番になったのです。すごい快挙じゃないですか。本当に彼は喜びましたし、親もたいへん喜んでくれました。人間ってわからんものです。ちょっと火が点いたら、勉強がおもしろくなって一番になってしまったのです。

 彼はなぜ、四十人中四十番だったのかというと、勉強は嫌いでも、ギターとベースを弾くのが大好きだったのです。学校から帰ったら、ギターとベースばかり弾いていたのです。勉強はしないけれど、音楽が大好き。特にベースが好きだったみたいです。
 でも、彼は学校でどん底を体験して、ベースを弾くのを止めて勉強したら、一番になったのです。
 彼は嬉しくてしょうがなくて、私の息子の誕生日に、誕生日プレゼントを持ってきました。何を持って来たかといったら、ベース・ギターを持ってきたのです。今まで自分をどん底に陥れた、ベース・ギターでしたが、きっと彼の一番大切にしていた楽器だったと思います。それを息子にプレゼントしてくれたのです。

 当時、うちの息子は小学校三年か四年で、彼はそれがベースなのかギターなのか、それもわかりませんでした。せっかくベースギターをくれたから、少しは練習してみろというと、彼は「嫌だ!」と言っていました。
 その頃、滝元開がベースを弾いていました。それで「ちょっと、教えてやってくれ」と頼んだら、なんと、息子がベースに目覚めちゃったのです。彼は勉強もしないで、毎日、ベースばかり弾くようになったのです。
 彼は小学校三年くらいまでは順調に勉強して、彼はもしかしたら天才かなって思ったほどです。まぁ、それは親の勘違いでしたが。
 そう思っていたのですが、なんともらったベース・ギターを弾くようになったら、なんと、お馬鹿菌が移ったかのように、息子の成績がどんどん下がって、どん底になりました。中学校に入っても、高校に入っても勉強もせず、ベースばかり弾いていました。
 家庭教師をやって彼は一番になったけれど、息子がベースにとりつかれてショックでした。あの時、あんなに勉強を教えなくても、ほどほどにしておけば良かった・・・、そうすればうちの息子にベースなんかくれなかっただろう・・・。なんて思っていました。

 依然として息子は、ベースばかり弾いていました。高校を卒業してしばらくすると、アメリカにベースギターを本格的に勉強しに行きたいというのです。
 「アメリカに行くということは、日本語じゃ勉強できないんだぞ。英語できるか?」と聞くと、「全然、できん」と言うのです。「英語ができんのに、何でアメリカに行くんだ」と言うと、「音楽は世界の言語だ」とか言って、アメリカに行ってしまいました。
 ロンさんが彼の世話をしてくれたりして、やがてロサンゼルスの音楽学校を卒業して、ちょっと自信をつけて帰って来ました。
 それで東京でベースを本格的にやるようになりました。始めは「大丈夫かなぁ」と心配していましたが、なんか知らない内に、プロの音楽家になっちゃいました。

 先日、息子が一枚のCDを持って来て、私に「これを聞いて」と言ってくれました。私はこの頃の音楽シーンは全然知りませんから、そんなのもらってもわかりません。それは「絢香」という歌手の最新CDでした。「今、オリコンでCD売り上げ一位って誰か知ってるか。」というのです。なぜ息子がそのCDをくれたのかというと、「俺がベースを弾いている」というのです。
 あのCD、うちの息子がベースで、上條先生の息子、頌がギターを弾いているのです。日本のトップのミュージシャンがサポートして作ったCDですが、いつの間にかそんな中に入っていたのです。それがいいのか悪いのかわかりませんけれど、そのようになったのも、私がある少年の為の家庭教師をやった結果が、最終的にそうなりました。人生はわからないものです。どういう風に展開して、新しい場面に移るのかはわからないですね。

 人生の鍵は、どこにあるのかわかりませんが、案外、「弱いな〜」と思っている領域に、神様は鍵を隠しておられるのかもしれません。
 弱く見えるところもすべて益としてくださり、やがて完全にしてくださる日がくるわけです。なぜなら、神は私たちを絶大な愛で包んでくださっているからです。
 ローマ書八章を、家に帰ってから読んでいただきたいと思いますが、ある意味、聖書の中心的な教えと言っても過言ではありません。ローマ書八章二十九節〜三十二節を読んでみます。

『なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』

 ここには、すごいことが書かれています。神様はご自分の御子を、惜しまずに死に渡されました。そこまでされた方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、恵んでくださらないことがありましょうか、と言うのです。
 神はご自分の一人子イエス様をこの地上に遣わされましたけれど、そのくらいされた方ですから、私たちに良くしてくださらないはずがありません、神は私たちを愛していると告げています。

 ここに、『あらかじめ知っておられる人々』とか、『あらかじめ定めた人々を』という言葉がでてきますが、この表現の解釈にはいろいろな神学的論議があります。
 今日は午後から、ルカ文書に関して専門家である山崎ランサム先生が講義をしてくださいますから、ぜひサンデースクールに出てくださいね。
 聖書はいろんな視点と角度から理解する必要があります。ただ、自分の経験から読むと変な方向に行きます。歴史的な視点や、み言葉の解釈に関しては様々な論議があることも知りながら理解することはたいへん重要です。そうでないと、信仰がおかしな方向に進んで行ってしまう危険性があるわけです。そういうことを防止するためにも、聖書を深く学ばなければなりません。うちには優れた聖書学者がおりますから、午後はサンデースクールに出席していただきたいと思います。

 しかし今日、はっきりと言えるのは、ここにおられる方々は、『あらかじめ知っておられる人々』、『あらかじめ定められた人々』に入っていると言うことです。
 みなさんは、神の選びの中にあるわけです。それで今日、ここに座っているわけです。

 神の働きは、あまりにも深淵で、我々にはすべてを理解できません。「なんで俺はこんな所にいるのだろう、なんで私は新城教会に座っているだろうか・・・」と思うかもしれませんが、それは神の絶大な計画の中で、あらかじめ選ばれていたからです。
 それゆえに、私たちはここにいるわけです。『あなたのためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう』と告げています。
 そして、ローマ書八章三十五節〜三十七節、

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

 私たちは「圧倒的な勝利者になることができる」という約束をここでいただいています。そして、三十八節、三十九節は素晴らしい御言葉です。これは、聖書のある意味、中心的なみ言葉と言っても良いのです。ローマ書八章三十八節〜三十九節、

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 今日みなさんは選ばれて、この場所に来ています。神の愛の中に存在しているのです。ここにあるように、「神の愛から引き離すものは、この世に存在しない」と断言されているのです。
 神に愛されていることを、深く認識しなければならないのです。こんなにも愛されている者たちに、神が良くしてくださらないはずはありません。
 そして弱さこそ、弱い私たちを助けるために、聖霊様ご自身がとりなしてくださっている領域であると告げています。
 今日、私たちのただ中に、聖霊ご自身の深いうめきととりなしがあります。我々は常に深い神の哀れみの中に生かされていることを知るのです。

 パウロはこの真理に気づかされました。使徒の働き二十章三十五節のところです。彼はダマスコに行く途中に、よみがえりのイエス様に出会ったわけですが、弟子たちのように、イエス様の側に座って教えを受けたかどうかはわかりません。けれども、彼はイエス様から学んだことがあるというのです。

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』

 パウロの人生のモットーは、弱さを体験して弱さの中に神が働かれるということと、「弱い人を助ける」という使命でした。そして、「受けるよりも与える方が幸いだ」ということをイエス様から学んだのです。
 これも一般的概念とは全く違うことであります。そして、弱さの中では、常に聖霊様がとりなして祈ってくださる、イエス様ご自身も私たちのためにとりなしてくださっていると彼は気づきました。ローマ人への手紙八章三十四節、

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

 今、よみがえりのイエス様は何を仕事とされているかというと、神の右の座に着いて私たちのために、とりなし、祈って下さっているというのです。また、ヘブル人への手紙七章二十五節、

『したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』

 イエス様が今、何をしておられるのかというと、私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているのです。
 聖霊様もとりなしをしてくださっています。またイエス様もとりなしをしてくださっています。こんな状況下に置かれている神に選ばれた者たちに対して、父なる神様が、祈りを聞いて下さらないはずがありません。

 とりなしの祈りとは、弱さの中になされるものであるということです。とりなしとは英語で「Intercession」というのですが、それはラテン語のInter/インテルという言葉とcedere/ケデーレという言葉がくっついて出来た言葉だそうです。それは「○○の間に入って行く」、「○○の間に入って代価を払う」という意味です。
 私たちは時に大きな悩みがあって、苦しいことがあって、問題があって、疲れ果てる時に、その間に聖霊様が入って、また、イエス様が入って来てくださり、そのことに関して代価を払ってくださる、それが[とりなし」の意味です。

 とりなしというのはただ単に、「この人を助けてあげてください」と嘆願して祈ることではなく、問題のただ中に神ご自身が介入して、解決してくださる。これがとりなしです。
 聖霊様の働きも、イエス様の働きも「とりなし」、すなわち、間に割り込んで、代価を払ってくださる働きであるということです。

 イエス様の働きの全体を表している一つのストーリーがあります。それが、ルカ十章に述べられている「良きサマリヤ人」のたとえではないかと思います。
 あえて読みませんが、エルサレムからエリコにくだる道で一人の人が強盗に出会って倒されました。殴りつけられ、半殺しにされて投げ捨てられました。そこにサマリヤ人が通りすがりその人を助けたのです。サマリヤ人はすぐにロバから降りて、倒れている人を現場で手当をし、自分の家畜に乗せて、宿屋まで運び、一緒になって介抱をして翌日まで宿泊し、宿泊代を払い、宿屋に介抱を頼み、帰りには宿屋に再び立ち寄って必要な代金のすべて支払う約束までしたのです。それも見ず知らずの倒れていた旅人の為にしたのです。それは完璧なケアでした。

 イエス様はそのようなことを、私たちにしてくださるのです。良きサマリヤ人の根底にあったのは、深い哀れみの心でした。イエス様は、深い哀れみの心を持ったお方です。私たちの所にやってきて、良きサマリヤ人が行ったのと同じように、傷ついた人を包み、癒やしてくださるのです。
 それはイエス様のとりなし、聖霊様のとりなしがどういうものであるのかを、一つのストーリーを通して教えたものであるわけです。

 そして、神様が働かれる場所は、今まで学んで来たように、弱さの中に働かれる神なのです。私たちもまた、弱い人たちのために、パウロと同じように、働く時に、そこにも主がおられるということです。
 ゆえにパウロは、「弱い人たちのために働かなければいけない。そして、受けるよりも与える方が幸いだ」ということをイエス様から学んだ、と語りました。これはまさしく、サマリヤ人に代表されるイエス様のキャラクターです。
 教会がそのような働きをする時に、主が共にいてくださり、私たちが、その働きを担っていく時に、主が共にいてくださるのではないかと思います。
 マタイ二十五章三十二節から読んでいきますと、次のようなことが書かれています。マタイ二十五章三十二節〜四十節、

『そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 教会とはキリストの体です。ある人は、苦しみの中で沈んでおられますが、助ける人もいます。お互いに「受けるよりも与える方が幸いである」、そして、「弱さの中に働かれる神」を認識して仕え合う時、そこに主がおられるのです。

 今、日本がいろんな面で弱っている時ですが、今こそ教会が世の中に愛を表す時でもあると思います。今回の震災などを通し、東北で最も真剣にボランティアとして働いているのが、やはり教会です。世界中の教会が多くのボランティアを送って被災地を助けて一年を過ごしました。
 それはなぜかといったら、ただのボランティア精神ではなく、イエス様の性格そのものだからです。
 やがて私たちは知る日が来るのです。イエス様は言われます。『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた。』
 教会は答えます。「そんなこと覚えがないですけど?」「いや、この小さきしもべたち、東北の苦しんでいる人たちに愛を表したのは、わたしのためにしてくれたことですよ」と答えられるはずです。

 神は弱さの中に働いて、ある人を立ち上がらせ、今度は、弱い人たちを助けるために遣わしてくださるのです。

 この頃、よく、とりなしの祈りに行くのですが、新城市の隣に豊川市があります。豊川の街に住むクリスチャン男性たちが集まって、山に登って、とりなしの祈りをよくしています。
 なぜ、祈るようになったかというと、この街は因習の深い街で、クリスチャンとして生活していこうとすると、いろいろ迫害があるのです。今でも五人組制度や、寺請制度が残っているかのようで、高札が立っているかのような場所です。その街からクリスチャンになると大変です。
 でも近頃、その街に住むクリスチャンたちが、お互いに助け合いながらとりなしの祈りをしています。その祈り会が、たいへん祝福されています。

 まだ定期的とは言えませんが、一月五日には本宮山の山頂に登って、街の為に叫んで祈りました。眼下に見える豊橋、豊川、新城、その他の街も三百六十度見えますから、街々に祝福があるように、苦しんでいる人たちが癒やされ、助けられるように、みんなで叫んで祈りました。
 その時、私は「苦しみの季節は終わった。喜びの季節がやってくる」と主から語りかけを受けました。その後、もう一つの山に登り、祈らなければならないと思いました。
 この地域には霊山みたいのがいくつかありまして、古代から偶像礼拝がなされています。人々は古代から現代まで、山を神体として拝んでいます。それらの山々が勝ち取られるように、祈らなくちゃいけないと思わされました。
 本宮山とペアになっている「石巻山」という山があります。ローカルな話で、ちょっとわからない人もいるかと思いますが、また地図で調べてみてください。
 石巻山の頂上に登って、とりなして祈ろうというビジョンが与えられました。参加するのはビジネスマンばかりで忙しい人ばかりですが、予定を調整して、山に登ることにしました。時間的に夜しか行くことができないということで、夜中に石巻山々頂に登って叫んで祈ろうということになりました。
 そして実は、昨晩登って祈って来ました。みんな水筒を持ったり、お茶を持ったり、おにぎりを持ったり、実は、おにぎりを持って行ったのは私ですが、山頂まで登って祈って来ました。今日の礼拝のためにも、みんなで祈りました。それは本当に良かったです。
 昨日、八人が登って祈ったのですが、ちょっとその写真を見せたいと思います。

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 ちょっと目が光っていて怖い写真ですね。
 イエス様も聖霊様もとりなしの働きですから、私たちも、同じように街で苦しんでいる方々、悲しんでいる方々のために祈る必要があるのです。
 この写真の左から見て二番目の方はSさんと言われます。Sさん、ちょっとお立ちいただけますか?
 昨日、彼の個展があるという事で、案内のチラシをいただきました。そのタイトルは「暗闇から光へ」というタイトルだそうです。
 
 ちらしにはSさんのプロフィールが載っています。「愛知県内の大学を卒業後、会社に就職。四十八歳の時に喉頭癌を発症。同じ時期に鬱病を発症し、トラウマ、鬱病に襲われる。夜眠れない日々が続く中でひきこもりとなり、一ヶ月間会社を休職。休職中に会社の支えで野外スケッチに行ったことがきっかけとなり、絵に希望を見いだし鬱病を回復。現在は自身が描く絵を通じて、弱い立場の人たちを暗い世界から光の世界へ導きたいと願い、創作活動を続ける」と書いてあります。
 これは一般用のチラシだからそう書いてあるのですが、彼がなぜ癒やされたかと言うと、実は、教会に来てイエス様と出会ったからなんですね。だから「暗闇から光」というタイトルの個展を開くのです。
 彼が教会に初めて来た時、私に見せてくれた絵があります。それがこれです。

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 本当に悲しい絵じゃないですか。これは彼の人生そのものを表している絵のようです。二万円は誰かに奪われたそうです。会社で殴られたりして、苦しめられ、涙ばかり流していたそうです。「これが私の心のすべてです」と言われました。深い傷があるなと思いました。本当に悲しい絵です。

 昨日私は、豊川で「市民作品展」というのがありまして、そこに行ったら彼の絵が展示されていました。その絵がこれでした。

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 この絵は「おとめイスラエルよ」というタイトルでした。惜しくも入賞は逃しておりましたが、彼の絵がこんなにも明るくなったのです。
 今回、個展で、暗い絵と明るい絵の両方展示して、「私は解放されました!」と、「暗闇から光へ」というタイトルで開くそうです。
 それはみ言葉の実現です。苦しみの中にあっても、イエス様と出会うと人は変わるのです。
 人は変えられるのです。神の愛の中に選ばれて、弱さの中に聖霊様、イエス様のとりなしの祈りがあるのです。変えられたら、街中の人たちが癒やされ、解放されるように祈る器になるのです。本当に感謝なことです。
 時間がありましたら、Sさんの個展にもお出かけになっていただきたいと思います。今日、この話をしてもいいですかとお聞きしたら、暗い絵をわざわざメールで送って下さいました。主は私たちに、癒やしを与えてくださるお方です。
 今日、始めに読みました御言葉、コリント人への手紙第二、十二章九節、

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

 今日、弱さがあったら、そこは主が働いてくださる現場です。主がそこから大いなる勝利を現してくださるように祈りましょう。
 しかし「ここは強い場所だ!ここは大丈夫だ」と思っているところは、逆に弱く、もろい場所かもしれません。十字架の血潮で覆っていただく必要があると思います。
 私たちも、イエス様が、聖霊様が、とりなしておられるのと同じように、人々のただ中に入ってとりなし、多くの人たちを暗闇から光へ、サタンの支配下から神の支配に移すために働いていきたいと願っています。

 今から聖餐式を行いたいと思います。毎週のように聖餐式を行っていますが、毎回私たちは、神の愛とイエス様の十字架の犠牲を心から感謝しなければなりません。これに慣れてはいけないと思います。厳粛な思いで、私たちは神の前に出る必要があるように思います。
 今日も、神の愛について学びましたが、『神の愛から引き離すことはできない』とありますが、愛を究極的に現してくださったのが、イエス様の十字架です。死だけではなく、イエス様はよみがえって、今も生きておられ、神の右の座について、私たちのためにとりなしてくださっています。これを心から感謝して、聖餐式にあずかりたいと願っています。

 一言お祈りいたします。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは弱さの中に働いてくださる神様ですから、心から感謝をいたします。私たちの弱さのただ中に来てくださり、とりなしてくださり、私たちを神の御心に出会わせてください。
 今から聖餐式を行います。聖餐式の中で祝福を与えてくださいますように。
 『御子さえ惜しまずに与えてくださった方がすべての物を与えてくださらないはずがない』と、素晴らしいみ言葉を与えてくださっていることを感謝します。
 ぶどうのジュースと備えられているパンを、聖霊によって、御言葉によって、イエス様の裂かれた血と肉として下さい。
 神の愛の中に包んでください。弱さの中に働いてくださる主を、心から受け取る時としてください。
 また、私たちは日本のためにも祈ります。日本が昨今、弱さを覚えています。この時にこそ、主が働いてくださることを心から感謝します。あなたが日本で働いてくださることを心から感謝します。今年は、あなたに期待します。あなたに大いに期待します。御業を現してください。今からの聖餐式を祝福してください。一人一人の祈りに合わせて、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。