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『神の業が現れるために』

2012.6.3(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 9章1節〜3節

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今も素晴らしい演奏を聴かせていただきまして感謝します。
 新城教会にはピアノ演奏や、音楽の賜物が与えられている方々が多いです。ピアノの演奏を聴きますと、それぞれのピアニストがそれぞれのタッチを持っていて、響く音に特徴があります。
 教会とは、そういう所だと思います。同じ教会に集っていても、主がそれぞれに与えて下さっている賜物を生かして、キリストの体を建て上げるのです。

 この教会には何人かの牧師がいまして、それぞれの牧師がいろいろな視点からメッセージを語ってくださいます。それもピアノのタッチが違うようなものです。それぞれの賜物の中で、その人しか語ることができない領域があると思います。
 私に神様から与えられた賜物の中で、今日も奉仕できますことを心から感謝します。

 先週は「神の戦略と『戦術』」というタイトルでお話をさせていただきました。そして、「七日間祈りましょう!」と提案をさせていただきましたが、何か一つのテーマで七日間、祈られた方もおられると思います。そして「今日が七日目です!」という人もいるかもしれません。
 日曜日は第七の日として、祝福の日と教会は位置づけています。今日、主が栄光を現してくださる日であると信じ、一日を過ごして行きたいと願っています。

 今日の午後は大変すばらしいプログラムです。それは、「ヨセフ物語」という映画会です。私は残念ながら、礼拝後ずぐに四日市にあるブラジル人教会で奉仕があるので、出席できませんが、「ヨセフ物語」は大変すばらしい映画なので、ぜひ、ご出席下さい。感動的なストーリーです。ポップコーンも配ってくれるそうです。
 先週、「七日間祈りましょう」という提案をさせていただきましたが、教会も一つのテーマで、七日間祈ることにしました。市内にある山と川に行って、毎日祈るプログラムを作りました。それをスタッフがやりました。昨日までで六日間でした。今日が七日目に当たります。
 今日特に、豊川河川敷で祈るのですが、その河川敷は一九九二年、聖霊様が訪れてくださった時、すばらしい神の業が現れたところです。そこに行って祈りますので、ぜひ映画会と祈り会に出席していただきたいと思います。

 先週私は、今年行われる台湾とベトナムのリバイバルミッションの下見と、とりなしの為に、四日間でその二つの国を廻らせていただきました。ミッションから「一度行ってとりなし、調査して来てください」ということでしたので、私と家内で行きました。今回は現地の教会の先生方に頼んだりしないで、「自力でどのくらいできるのか」を試すつもりで行きました。何しろこれから日本が主体となって、ベトナムと台湾で奉仕をしますから、どこかに頼ってというよりも、自力でどのくらいできるかを試してみました。私は今まで、ベトナムと台湾は行ったことがなかったので、少し不安はありましたが、行かしていただきました。朝早く起きて夜まで、いろんな場所を廻ってとりなしの祈りをし、調査をして帰って来ました。
 みなさんが私たちのために祈ってくださいましたので、スムーズに、必要な情報を受け取って帰ることができました。
 台湾とベトナムミッションのためにツアーチームを作りたいと願っています。ぜひみなさんと行きたいと思います。少し写真をお見せします。

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 これは、ミッションが行われる「ホーチミン」という街です。結構リラックスしている場所でしょう。こんな感じです。

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 帽子屋さんです。暑いから帽子がたくさん売れるのです。

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 フルーツがいっぱいです。
 そしてバイクもいっぱいです。

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 あれ?足が二本、三本あります。真ん中に幼い子どもが挟まっています。これは私が撮った写真です。
 ベトナムは人口八千六百万人。バイクの数は四千五百万台だそうです。バイクがここではよく売れます。

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 これも私が撮った写真ですが、信号はほとんどありません。婦人警官が立っていますが、ここを突っ切って渡るのは怖いです。でも二日もたつと渡れるようになりました。

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 国民は結構リラックスしています。朝から食事は野外で食べます。所変われば品変わるで、文化もいろいろとあります。

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 これは私が撮った写真じゃないですが、こんな光景もよく見かけます。

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 この人はベトナム人です。今回私はどうやって街を調査して廻ったらいいのかわからなかったので、祈りました。「どうしたらいいですか」と。そうしたら主が知恵を与えてくださいました。それは市内観光ツアーに加わることでした。観光とはいっても、行く場所はほとんど、街の霊的ポイントばかりです。いろいろ霊的にはハードな場所を廻ります。特にベトナムは、ベトナム戦争がありましたから、そういう場所が多いのです。日本語ガイド付きのバス・ツアーがあって、食事付きで二千五百円でした。安いから私と家内とでツアーは朝早かったですが出かけて行きました。五十人くらいのバスツアーに入るのかなと思って出かけて行きました。
 するとその日は感謝なことに、参加者はガイドさんとドライバーと私たち夫婦二人だけでした。なんと、彼は私の専用ガイドでした。それで今回のリバイバルミッションに必要な情報を、いろいろと聞けました。結構細かい情報収集ができました。主の山に備えありだと思いました。やはり現地の方に聞かないと、いろいろ分からないですね。
 国民の宗教的なこと、国民感情、習慣、考え方のパターンとか、日本に対してベトナム人はどういう感情を持っているかなど、案外、日本側からはわからないですが多く聞くことが出来ました。この方は有名な「ベトちゃんドクちゃん」と同じ名前の「ドクさん」です。彼は三十九歳だと言いました。主は彼を備えてくれました。本当に感謝でした。

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 これは台湾です。台湾は日本とあまり変わりません。ベトナムには二日間いて、二日目の夕方に台湾に移動し、台北に行きました。ここも全て自力でやってみました。有賀先生がこの二国に関して「現地の教会の先生に頼みましょうか?」と言ってくださいましたが、「自分でやれる所までやってみます」と言って出かけました。台湾人は本当に感じがいいです。日本人が過ごしやすい場所です。すべて漢字表記ですから、ほとんど意味はわかります。お金の単位も日本と似ていますから案外、支払いやすいです。
 でも、ベトナムはお金の単位がめんどくさいです。「一ドルが二万ドン」です。百円だと三万ドンくらいになります。百円の物を買うのでも、三万円払う気分になります。タクシーでちょっと遠くに行くと十万ドンくらいです。「十万円か!」という気になってしまいます。

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 これは日本がかつて台湾を五十年くらい支配しましたが、日本が建てた総督府です。すごい建物です。日本は大東亜共栄圏を掲げてアジアに出て行ったわけです。私は、韓国の総督府も見たことがありますが、台湾はそれ以上です。すごい建築です。今でもこの建物は使われています。日本はアジアに対して、悪いことをしたんだなという印象でした。
 この中にも入って祈ることができました。今度は日本が植民地主義の悪い考えではなく、神様の国の拡大のために台湾で奉仕をできるようにと祈ることができました。

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 これは蒋介石記念館です。

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 これは蒋介石と宋美齢です。この人たちを知っている人はどのくらいいますか?少ないですね。手を上げた方々を見れば年代がわかります。この人たちはたいへん有名です。この人たちがいたことによって、戦後、日本は分割されずに済みました。
 戦争の後、日本分割統治案が出て、北の方はロシア、アメリカ、イギリス、中国などに分割される案がありました。しかし蒋介石の奥さんは熱心なクリスチャンでした。彼らは「日本を分割しちゃいけない。悪を持って悪に報いてはいけない」と分割案に反対したといわれます。台湾は日本に長い間支配されましたけれど、日本人を安全に日本に帰らせたというのです。一人の人物によって歴史は変わるのです。

 今、戦後七十年以上経って、日本人は何事もなかったように過ごしていますが、歴史は繰り返すと言いますから、私たちクリスチャンたちが、神の手によって歴史が導かれるように祈り、備えていかなければならないことを教えられます。

 レポートはまずこのくらいにして、今日は「神の業が現れるために」というテーマで聖書から学んでいきたいと思います。
 今日、お手元に「新城教会ニュース」が渡されたと思いますが、私は巻頭のメッセージを書く係になっています。今回は次のようなメッセージを書きました。ちょっと読んでみたいと思います。
 今回のタイトルは「誰のせい?」です。

誰のせい?

 大会社の社長が退職するとき、次期社長に二通の手紙を手渡して言いました。「会社が危機に直面したら一通目の手紙を開けなさい。あなたを助ける方法が書いてあります。それでも駄目なら、二通目の手紙を開けなさい。あなたを救う方法が書いてあります。」

 間もなく会社は経営危機に陥り、新社長は先代の言葉通り一通目の手紙を開けました。すると中にはこう書いてありました。『すべてを私のせいにしなさい。』

 新社長は手紙の通り、全てを先代社長のせいにしました。しかし、会社の経営状態はいっこうに好転しませんでした。困り果てた新社長は、遂に二通目の手紙の封を切りました。すると、中にはこう書いてありました。『あなたも私と同じように二通の手紙を書きなさい。』

 聖書に次のようなストーリーがあります。ある日、イエスさまと弟子たちが道を歩いていると、生まれつきの盲人が座っているのを見かけました。弟子たちはイエスさまに次のように質問しました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 するとイエスさまは答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

 私たちは、何か不幸が起こると、どうして起こったのかと原因を追求します。その原因を発見すると、「自分がこんなに苦しいのは、過去に両親がこんなことをしたからだ。」と、家庭や周りの環境のせいにします。時には、自分のせいにして自分を責めるのです。
 仏教には輪廻転生という考えがあり、不幸は生前の悪行によるとします。イエスさまの弟子たちも、このような問いを投げかけたところから見ると、世界中に同じような考え方があることがわかります。

 しかし、そんな考えを持った弟子たちに対して、イエスさまは、一般とは全く異なる見解を述べられたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

 教会に来るきっかけとなるのは、人生に起こる様々な問題がきっかけとなることが多いようです。しかし、どのような原因があろうとも、神はその原因を問うのではなく、神のわざが現わされるきっかけとしてくださるのです。

 新城教会に来られる多くの方がこのことを体験しています。あなたも真の神であるイエス・キリストのところに来て、すべての問題を「神のわざが現わされるきっかけ」としてください。人生に希望の光が灯ります。


 このようなメッセージを掲載したのですが、これは今日お読みしたヨハネの福音書九章一節から三節までをもとにして書かせていただきました。
 私たちはいろんな事が起きると、すぐに原因を究明して、自分というよりも誰かに原因をなすりつけたり、またある人は、自分を責めたりするわけです。
 教会に来るきっかけは案外、いろいろ悪い事が起こって、苦しみの中で教会に来ることが多いのかもしれません。
 しかし、聖書のすばらしい所は、原因は別にして、すべて「神の栄光が現れるために」という結論があるところです。悪い事柄も主が使い、すべて良くしてくださるのです。
 今日、みなさんの中で、「私は問題で苦しんでいる」という方もおられるかもしれません。また、過去の問題で「私はこんな家に生まれたから」とか、「あんな環境に生まれたからだ」とか、いろいろこだわっている方もおられるかもしれません。しかし主は、それらすべてを使って、栄光を現わされるのです。
 私たちがイエス・キリストを信じると、「すべてが相働いて益となる」のです。これは「ちょっとまずいんじゃないか?」というような事柄さえも使い、最後の着地はすばらしい着地となるのです。この事を心に留めておきたいと思います。

 『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』
 神様は何を願っておられるのかといったら、「神の業を現す」ことを願っておられるのです。

 今読んだところをちょっと詳しく読んでみますと、『イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた』とあります。「生まれつき目の見えない人」をイエス様も、弟子たちも見ました。
 その時、弟子たちの質問はどんな質問であったのかというと、『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』と聞いています。
 この人は生まれつき目が見えないのですから、なんで弟子たちは生まれつきの盲人とわかっていながら、『彼が罪を犯したからですか』と聞いたのでしょうか。生まれつきの場合、罪を犯しようがないじゃないですか。

 私たちの周りにも、生まれつき障害を持っておられたり、いろんな問題を持っておられる方々もおられるわけですが、案外、私たちの問いの中に、普通なら罪を犯す事なんてありえないのに、こういう質問の体質があるのかもしれません。
 弟子たちの質問は、「彼が罪を犯したからですか。それとも両親ですか」という問いでした。

 生まれつきの人に対して、「彼が罪を犯したからですか」というような質問をした弟子たちは、「ちょっと大丈夫かいな?この人たちは」と思います。しかし実はそうではないのです。
 これは当時のユダヤ教の状況を調べてみると、この質問がどういう質問かが分かります。ここでイエス様に対して「先生」と呼びかけていますが、これは「ラビ」という言葉が使われています。
 今でもイスラエルに行きますと、ユダヤ教指導者、「ラビ」がいます。彼らはユダヤ教と旧約聖書に精通していて、それを解き明かす役割でした。
 イエス様が来られた時、人々はイエス様のことを「ラビ」と呼びました。というのは、イエス様はユダヤ教に精通している指導者のように映ったのです。イエス様は別に、そのような教育を受けたわけではありませんでしたが、聖書に詳しかったのです。ですから弟子たちでさえ「ラビ」と呼んだのです。

 「この人がこんな状況になったのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と聞いたのです。
 当時のユダヤ教のラビは、「産まれる前にも罪を犯すことがある」と解釈していました。
 彼らは創世記二十五章にヤコブとエサウが出て来ますが、この二人は生まれる前に罪を犯したというのです。二十五章二十一節〜二十二節、

『イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。』

 ユダヤ教のラビたちは、ヤコブとエサウが腹の中で喧嘩して罪を犯したというわけです。それで、お腹の中で本人が罪を犯していたと解釈したわけです。
 これらから弟子たちが、結構、旧約聖書とユダヤ教に精通していたことがわかります。これは別に、おかしな理解ではないのです。病気や不幸はユダヤ人にとっては、罪に対する刑罰と見られていました。だからある注解書には「これは多くの場合、適切な解釈である」と説明されていました。弟子たちはある意味、適切な質問をイエス様に投げかけたのです。

 その時のイエス様の答えはなんであったのかというと、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と答えたられたのです。

 私は霊的戦いの働きをさせていただいて、セミナーを持たせていただいていますが、罪の領域、特に家族、家系の様々な罪によって影響される事柄に関して話します。すると、「順先生。その解釈はおかしいんじゃないですか?イエス様はなんて言われたのか知っていますか?この人が罪を犯したのでもなく、両親でもないと言われていますよ。家系に罪があるとか、先祖の罪があるとか主張するのはおかしいんじゃないですか?」と言う人がいます。しかし、そういう風に理解するのは、実は、理解不足なのです。

 この所を冷静に読むと、弟子たちは『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。』という、「だれが罪を犯したのか」という質問でした。
 しかしイエス様の答えは、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません』と答えました。そして『神のわざがこの人に現れるためです』と語られたのです。イエス様の答えは、『神のわざがこの人に現れるためだ』という答えだったのですが、これでは本当の答えとは言えないのです。
 弟子たちは「だれが」罪を犯したのかを問うているのです。「両親でもありませんよ。この人でもありません。じゃぁ誰なの?」ということです。実は、弟子たちの問いに関して、イエス様は答えておられないのです。

 「誰の?」という問いに関しては、疑問が残るのです。それは、もしかしたら、本人と両親以外に、他に理由があるのかもしれない、ということです。両親でもない、本人でもない。「じゃぁ、どこに理由があるの?」ということです。
 様々な問題が起きる背景に、原因があって結果ありは否定できない事実です。「どこに理由があるのだろうか」という問いは残るのです。
 イエス様はこの問いに関する、具体的内容については答えておられないのです。
 しかし、イエス様の答えは、「この人に神の栄光が現れるためだ」というものでした。これは本当にすばらしい答えだと思います。

 私たちは人生の中で、いろいろ問題の原因を追及したりするのですが、原因はさておいて、神はすべてのことを相働かせて、益としてくださるからです。私たちに、神の栄光を現そうと計画してくださっているのです。
 私は信じられませんが、お腹の中で喧嘩したことも罪になるかもしれないというのが、当時のユダヤ教の理解だったようです。
 新約聖書ローマ書六章二十三節にはこう記されています。

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

 「罪から来る報酬は死だ」と死の原因が述べられています。これは、「原因は罪にあります。人類が滅びにいく原因は罪」と、原因についてはっきりと述べられています。
 また、哀歌五章七節にはこんな言葉があります。

『私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました。』

 先祖が罪を犯したことによって、新しい世代が罪の重荷を背負うこともあると教えているわけです。聖書は全体的に理解しなければ、本当の理解に至りません。
 「本人の罪でもなく、両親でもありません。だから家系なんて関係ない」ということではないのです。

 実は今回、私はベトナムに行き、ある意味で心が痛かったです。本当にベトナムのために祈らなくちゃいけないと思いました。
 ベトナムという国の歴史に関して、私はあまり知らなかったのですが、今回行く事にもなり、ミッションもあるので、少し勉強してみました。
 ベトナムは百年くらいフランスに支配されました。ですからベトナムは、「東洋のパリ」と呼ばれるくらい、フランス風の建物が建っていて、綺麗な街並みもあります。
 しかし、第二次世界大戦の時、日本がそこに入りました。特に日中戦争の最中でしたから、ベトナムから物資が中国に流れていたので、それを遮断するために日本は入って行きました。当時ベトナムはフランスと日本の二重支配の中で苦しみを受けました。
 一九四五年に戦争が終わると、すぐにベトナム戦争が始まりました。ベトナム戦争は、一九六四年にアメリカが本格的に介入したことによって泥沼化していきました。

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 これはベトナムの「戦跡記念館」の写真です。ベトナム戦争を記念した場所に行きますと、当時使っていた兵器がたくさん展示してあります。

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 ベトナム戦争で三百万人のベトナム人たちが殺され、その中の二百万人が一般市民だったのです。また、二百万人の人たちが怪我をし、戦争で傷を受けたというのです。そして、三十万人の人たちが未だに、行方不明だというのです。こんな悲惨なことが起こったわけです。
 これは共産主義と西側世界との戦いでした。その中でこのような大きな犠牲が払われたのです。最終的には、ベトナムでアメリカが負けて、ベトナムは共産主義化しました。
 今、ベトナムは社会主義国家です。教会は迫害の中にあります。「クリスチャンってどのくらいいますか?」と聞くと、「だいたい十パーセントくらいはいる」という答えでした。でも、そのほとんどがカトリックだというのです。「プロテスタントのクリスチャンはどのくらいいるのですか?」と聞くと、ガイドさんはクリスチャンじゃない人でしたから「聞いたことがない」と答えました。
 「あなたの宗教はなんですか?」と聞くと、「仏教だ」と答えました。「プロテスタントの人たちって、あんまりいないね〜」と言いました。
 そしてベトナムではあまりにも大勢の人たちが死んだので、人々が一番恐れているのは「おばけ」だそうです。「ベトナム人は、みんなおばけを見たことがあるよ」というのです。それで、毎年七月十五日には「おばけの日」があって、死の霊が働かないように、国民あげて祭りをして拝むというのです。
 共産主義というのは、普通は霊的な事柄を全否定するのですが、否定できないわけです。いろんな霊現象が現実に起こるからです。

 先ほども、『私たちの先祖は罪を犯しました。彼らの咎を私たちが背負いました』という箇所を読みましたが、世代を越えて引き継がれる罪と問題について聖書は教えています。
 みなさん、「ベトちゃん、ドクちゃん」って聞いたことはありますか?双子なんですが、体がくっついて生まれたのです。それを日本の医師団が切り離し手術をして成功しました。臓器なんかも一個を共有していたそうですが、それも分けて、ベトちゃんは二十代で亡くなったそうですが、ドクちゃんは今でも生きていて、結婚して子どもが三人いると言っていました。
 けれどもそれは、一つの象徴的なことで、同じような子どもたちがいっぱい生まれたそうです。そのような子供たちがどうして生まれたのかというと、それはベトナム戦争に原因があります。
 ベトナム戦争は、大国アメリカがゲリラに負けたのです。ベトナム解放戦線が地下に潜り、大抵抗を繰り広げたわけです。

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 アメリカはベトナムに爆弾をたくさん落として、その時に「枯れ葉剤」を撒きました。ゲリラがジャングルの中に潜って抵抗するもんだから、誰が敵で誰が味方だかわからなくなって、枯れ葉剤というのを撒いて、この薬によってジャングルが枯れてしまったのです。

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 しかし、この枯れ葉剤にはダイオキシンという猛毒の発がん性物質が入っていて、これを吸い込んだ多くのアメリカの兵隊たちも、またベトナム人たちも大きな被害を受けました。枯れ葉剤の被害は四代も受け継がれるというのです。
 私たちは戦跡記念館に行き、とりなしの祈りをしましたが、中に入ってある場所は本当に目を覆いたくなる悲惨な光景でした。そこにはホルマリン漬けの赤ん坊の実物が陳列してありました。ちょっと見せましょうか?それは止めますが、体がくっついて生まれてきた子どもたちをホルマリンで漬けて展示してあるのです。頭がふっ飛んじゃっている写真とか、悲惨な光景が展示してあります。
 人類は創世以来、罪の中で戦争を繰り返しています。ベトナム戦争は太平洋戦争が終わってから続いて起こった戦いです。私が小学校、中学校の頃、新聞の中心的話題はほとんどベトナム戦争でした。ああいう所を見ると、「戦争は絶対に起こっちゃいけない」と思いました。
 そして、教会がその事柄に関して、どのような態度でとりなして行かなければならないのかを考えさせられました。しかしあのような世界情勢下では、一概に誰のせいとは言えません。一方からは共産主義が押し寄せている、自由諸国がそれに対抗する、ベトナムも日本もその狭間で歴史は刻まれたのです。
 それは誰のせいですか?様々な視点と理解があり、誰のせいにもできない状況があります。

 しかし、そんなただ中でも、イエス・キリストだけに希望があるのです。その人の罪でもなく、両親の罪でもない、もしかしたら他に理由があるかもしれないけれど、聖書の視点は、「神の栄光がその人の上に現れるため」というのです。

 そのために私たちは働くのです。今回、この御言葉から教えられました。また日本が、他国を侵略する国ではなく、神の国の拡大のために用いられなければならないと深く祈らされました。

 今回、ベトナムにおいて、台湾においてリバイバルミッションが開かれますが、霊的には、大きな意味があると強く思わされました。
 神の栄光が国々の上に現されるために、日本から悪い目的ではなくて、神の栄光のために遣わされることは、大きな意義があり、日本の果たすべき役割があると教えられ、その場で祈ることができ心から感謝します。

 しかしベトナムは日本と違って、生活に躍動感があります。あのバイクの量ですから。あの中でみな、たくましく生きているのです。日本で小さい事に悩んでいてはいけないと反省させられました。信号もない交差点をバイクの洪水の中、人々は涼しい顔をして渡って行きますから。

 台湾はベトナムと比べると品がいいです。台湾はすべて整っています。「少し私は冒険がしたい!」という方は、ベトナムに行かれたらいいのではと思います。
 日本はアジアの一員ですから、アジアの諸国に行きますと全体の事がわかってきます。日本は島国根性で、自分たちのテリトリーからなかなか出られないのですが、これじゃいけないなと思いました。
 特に若い人たちをアジアの諸国に遣わし、広い視点を持って、これからの日本を引っ張ってもらいたいと思いました。
 いずれにしても神が私たちに持っておられる計画は、「神の業がこの人の上に現れるためです」

 教会にはさまざまな悩みや、苦しみを持って来られる方が多いです。しかし「教会には来たけれど、私の問題は一向に解決しません。私は今でも問題のただ中にいます」という方もおられます。
 でも、イエス様が私たちに持っておられる最終的な計画は、「わたしの業があなたの上に現されるためです」という、結論をしっかりと握っていただきたいと思います。

 さきほども、この新城教会ニュースをお読みしたのですが、この裏面に「体験!人が神と出会う時」というコーナーがあります。今回、このコーナーに証を載せてくださったのは、大森さんです。これは本当に勇気あるすばらしい証です。
 大森さんは新城に住んでおられ、その中でも田舎に住んでおられます。たいへん因習の深い地域に住んでおられます。しかし、イエス様に出会って人生が変えられたことを述べてくださいました。今朝、「新城教会ニュース」が新城の家庭に新聞折り込みで入りました。
 彼女は新城人ですから、やはりインパクトは強いと思います。今日は、みなさんよく祈ってください。これが良い形で人々の心に浸透するよう、是非、祈っていただきたいと思います。
 まさに、彼女に、神の栄光が現わされたのです。これを読んでみます。

大森卯美(おおもりしげみ)

 私が社会人になり立ての頃、職場にクリスチャンの方がいて、一緒に手話を習いに教会に通っていた時期がありました。そこで、牧師さんの素晴らしいお話を聞いた事もありましたが、「私は神には頼らず、自分の問題は自分で解決したい」と考えていました。
 それから二〇年、様々な問題もありましたが、真如苑という宗教に入った事、又、私が育った家も代々仏教ですので、以来、教会との縁はありませんでした。

 しかし三年前、私にとって今まででいちばん大きな問題が起きました。すぐに、入っていた宗教団体に相談すると、「一ヵ月後に相談に来て下さい。」という返事でした。それは我が子の問題でしたので、そんなに長く待つことは出来ませんでした。それで、恩師であった住職にも相談に行きましたが、「僕では力になれない」という事でした。神社にも毎日、拝みに行きました。法的機関、行政サービス、警察にも相談しましたが、状況は複雑で、なかなか解決への糸口を見いだすことは出来ませんでした。その時、人の力で人をどうにかする事は出来ないと悟りました。

 そんな時、当時働いていた職場に、クリスチャンの知り合いの人がいて、私の大変そうな様子を見かね、「一度教会に行ってみては」と勧めて下さいました。
 それで教会に相談すると、教会はすぐに動いて下さいました。以来、牧師先生やスタッフの方々に問題に関して神に祈って頂き、次第にその問題は消えて行きました。私は人生で初めて「願いが叶う!」という事を体験しました。

 それからの日々、安らぎを体験しています。私は今までずっと、自分が一生懸命頑張らなくてはいけない、と思っていました。しかし初めて、「貴女は貴女のままで良いんだよ!」と認めてもらえた気がします。問題は全て神様にゆだねてしまえば良い、と言うこともわかりました。そして私たちの努力と共に、私たちが出来ない領域を助けて下さる神がおられ、そのお方は、いつも私たちを励まし、見ていて下さることもわかりました。
 今では、そんな神、イエスさまに、こころからの感謝の日々を送っています。


 なかなかすばらしい証でしょう。お子さんに問題が起こって、当時、入信していた新興宗教にも相談し、寺の住職にも相談し、行政サービス他あらゆる所に相談してみたけれど、問題の解決の糸口はなかったというのです。
 しかし、教会に来た時、神が栄光を現してくださったのです。これは今日語っている御言葉の実現に他なりません。

 学校も、行政サービスも警察も、問題に関わってくれました。それぞれの専門分野で良いアドバイスをしてくれたと思います。それも一つの助けになります。しかし、そこには本当の意味での解決はなかったのです。では、どこに問題解決の糸口があったのでしょうか?それが霊的領域でした。
 教会では、霊的領域での問題解決の努力をさせていただきました。もちろん、すべてをカバー出来たかどうかはわからないけれど、何しろ、神が彼女に栄光を現してくださったのです。本当にすばらしいです。

 この証を含んだ教会ニュースが本日、新城の市民に配られました。皆がこれを読んで「教会に行かなくっちゃ」と思ってくれるように祈っていただきたいと思います。
 しかし、これを読むとばらしいですね。なんで教会に来たのかというと、「当時働いていた職場に、クリスチャンの人がいた」のではなく、「クリスチャンの知り合いの人がいて、私の大変そうな様子を見かね、一度教会に行ってみては?と勧めてくれました」とあります。
 新城ではだいぶ、福音が浸透して、何か問題があったら寺に行けとは言わないで、「教会に行ってみたらどう?」と考えているようです。これは感謝です。神の国が拡がっている証拠です。
 これがリバイバルではないでしょうか。教会には来られなくても新城教会ニュースを読んでいる人たちが大勢おられますから、隠れキリシタンみたいな人々が新城には結構多いと思うのです。やがて天国に行った時、「なんで天国に来たの?」「はい。新城教会ニュースを読んで天国に来ました」という人が、結構多いのではないかと思います。
 神の国の働きが、思ってもみない領域に拡大するように、祈っていきたいと思います。

 さて、この生まれつきの盲人ですが、目がいやされるという奇跡を受け取りました。いやしの為に、イエス様は何をされたかというと、ヨハネ九章三節を見ると、

『イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」』

と語られ、四節〜五節を読むと、

『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』

 このように語られました。『わたしが世にいる間、わたしは世の光だ』と。イエス様がこの地上に滞在してくださっていた期間、イエス様は世の光でありました。しかし、十字架で死んで三日目によみがえり、天に帰られ「世の光はもうなくなってしまった・・・・」ではありませんでした。
 先週はペンテコステの日、教会の誕生日でした。イエス様の代わりに、聖霊様が来てくださって、聖霊様によってイエス様は霊的な形で私たちのただ中におられる世の光です。それはこの世が終わるまでは続くのです。

 『誰も働くことのできない夜が来ます』と、言われました。主がもう一度この地上に帰って来られるまでは、世の光はイエス・キリストであり、この世に希望があるのです。ヨハネ九章六節〜七節、

『イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』

 先週、私は「神の戦略と『戦術』」というメッセージをさせていただきました。神の大きな枠組みとしての、「戦略」と共に、個々の問題に勝利する「戦術」を与えてくださると話しました。
 そして、その戦術は難しいものではなく、本当に単純なものかもしれない、とお話をさせていただきました。
 聖書の中に「ナアマン」というらい病で苦しんでいたアラムの将軍の話をしました。彼はエリシャから、「ヨルダン川に行って、七回水浴びをしろ。」と言われたのです。「七回、ヨルダン川に身を沈めろ。」と言われ、六回まで沈めたけれど、何も起こりませんでした。
 しかし、七回目に身を沈めて水から上がった時、なんとすべての病は消えて、幼子のような肌になったのです。奇跡が起こったのです。
 初めナアマンは、「あんな汚いヨルダン川で、なんで水浴びしなきゃいけないんだ。俺が住んでいるアラムの川の方がもっと綺麗だ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ」と言って、帰ろうとした時、家来たちが、「将軍、そんなこと言わずに、難しいこと言われているんじゃないから、騙されたと思ってやってみたらどうですか」という感じで、しぶしぶ行ったことが癒やしにつながったのです。

 神様が時々、私たちに「このことをやってみなさい。そうしたら神の栄光が現されますよ」と言われるきっかけは、あんまり大きなことではなく、ちょっと馬鹿にしてしまうようなことかもしれません。しかしそれを実行する時、勝利が現されるとお話ししましたが、まさに、このストーリーも同じです。

 イエス様は盲人の目を開けた時に何をしたのですか?パレスチナはたいへんほこりっぽいです。その土にペッと唾を吐いて、泥を作って、盲人の目に塗ったというのです。そして、「シロアム」という池に行って洗って来いと言うのです。
 イスラエル旅行に行きますと、シロアムの池にも行くことができます。シロアムの池は、結構坂道を下った所にあります。低い所にあるのです。この盲人にシロアムの池に「行け」というのは、ちょっと酷なことです。目の見えない人に、あの坂道をどうやって下って行けと言うのだ、なんでそんな馬鹿なこと言ったのか、など、批判もあったことでしょう。
 それも、盲人の目にはイエス様の唾で作った泥が塗られていて、人目のある所を歩くという、いくら目が見えないと言っても、あまりにも屈辱的なことだったかもしれません。
 しかし、それを実行した時に目が開いたのです。これは神が盲人に与えてくださる「戦術」であったのです。
 泥を目に塗られた盲人は「何をするんですか!そんなことしないでください!汚い!」と言うことも出来ました。
 また、シロアムの池に「行け」と言われた時、「もっと近い所にしてください」と言うこともできたかもしれません。
 しかし、イエス様の言われた通りを行った時、彼の最も苦しんでいた問題、目が見えないということが解決し、目が開いて神の栄光を見たのです。

 それと共に、イエス様ご自身も栄光を受けました。なぜなら、メシアとは盲目の目を開き解放すると預言されていたからです。救い主である証拠として、旧約聖書に預言されていた御言葉の成就にも繋がったわけです。イエス様ご自身も、偉大な神の栄光を見たのです。
 私たちが神によって栄光を体験することは、同時に、神ご自身の栄光でもあるわけです。

 大森さんの体験を見ると、彼女自身も問題が解決したのですが、新城において神の栄光、イエス・キリストご自身が栄光を受けてくださったのです。神に栄光が帰せられたことを意味するわけです。
 このような事が日本にどんどん拡大していくように、祈っていきたいと思います。今日は午後からヨセフ物語の映画会と、河川敷での第七日目の祈りがあります。大勢の方が行って、ちょっと元気のいい人は山の上に登って繋いで祈る時、神の栄光が訪れると信じます。それは、みなさんの信仰にもかかっています。

 最後にもう一度、ヨハネの福音書九章一節〜三節を読んでみます。

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』

 神の業があなたに現れるために、イエス様はこの地上に来てくださいました。最後にみなさんと共にお祈りして、イエス・キリストの流してくださった十字架の血潮、裂かれた肉を象徴する聖餐式に与ります。すべて神の手に委ねて、「どうか私たちを通して、神の栄光を体験させてください。この盲人と同じように、神からの戦略、戦術を受け取り、従う者にさせてください」とご一緒にお祈りしたいと思います。私が代表してまず、祈らせていただきます。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたがこの地上に来てくださったこと、心から感謝します。神が栄光を現すために、神の業が人の上に現れるために、来てくださって感謝します。今日も神の業が、この教会に、またお一人お一人に現されますよう、お願いします。
 この御言葉は全世界の人たちのものでありますから、誰にでも同じ事が起こされることを感謝いたします。

 どうか、この盲人のように、主よ、あなたが与えてくださる戦術を受け取らせてください。また、それを実行することができますように。この街に神の業が現されますように。私の上にも、家族の上にも、また国の上にも、国々の上にも、神の業を現してください。

 全人類のための身代わりとなってくださったイエス様、十字架の血潮を心から感謝し、聖餐式を行います。どうか、今日、一人一人の上に、神の業を現してください。心からの感謝と共に、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。