『I love you. 私はあなたを愛しています!』
2012.6.10(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書43章1節〜4節
『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』
ハレルヤ!みなさんおはようございます。今も「歌いつつ歩まん」というすばらしい賛美を聴きましたが、毎日、主を賛美しながら、喜んで歩んでいきたいものです。
六月に入って、いよいよ梅雨の季節に入りました。じめじめネトネトして、我が家の玄関にはナメクジたちがいっぱい訪問して来ます。嫌な季節だな、と思うのですが、日本は気候的にはあまりいい国ではありません。しかしこんな季節にこそ、心から、主を誉めたたえて歩んでいきたいと願っています。
今日は大変すばらしい一日です。ひさしぶりに「ゴスペルサパー」があります。なんと、流しそうめんだそうです。本格的に竹のとよを使ってそうめんが流されます。百人でつつくというような感じかもしれませんが、七メートルの長い竹竿を先週、スタッフが取りに行きました。あのような竹竿を準備するのはなかなか大変で難しいです。そこで活躍してくださったのが、夏目義高さんです。御年九十二歳。彼が先頭に立って竹取を指導し、スタッフたちは二つに割られた竹を担いで来ただけだったそうです。本当にすごいな、と思います。新城教会のお年寄りたちは本当に元気ですね。
今日は今読んでいただきました箇所から「I love you! わたしはあなたを愛しています!」というタイトルで、メッセージを語らせていただきます。ゴスペルサパーがある礼拝は、少し伝道メッセージ風にさせていただいています。毎回、子どもたちも一緒に礼拝に出てくれて、時にはちょっと難しい話を聞かされたりと大変かもしれません。でも、がんばっていつも出席してくれています。
だから伝道礼拝の時は、子どもたちのためにも楽しい小話とか、ジョークを用意するようにしています。今日も少し用意しました。
『息子が一歳半の頃、近所の人にキャンディーをもらったので、「こういう時にはなんて言うの?」と聞くと、彼は手を出して、「もう一個。」』
『ママと娘の会話です。「ママ、眠れないからお話して。桃太郎がいいな。」
「また桃太郎?昨日もそうだったでしょ。」
「だって桃太郎を聞くとすぐに眠れるんだもん。」
「そうね。本当によく眠れるお話よね。それじゃぁ、静かに聞いてね。」
「はーい。」
「昔々ある所に、おじいさんとおばあさんと桃太郎が暮らしていました。ある日、おじいさんは東へ一キロメートルにある山へ芝刈りに、おばあさんは北へ六百メートルの所にある川に洗濯に行きました。そして、桃太郎は北北東二キロ離れた所にある島へ鬼退治に行きました。
さてここで問題です。家と山と川と島を頂点とする図形の名前と、その面積を求めなさい。」
娘:グーグーグー・・・・。』
『コンタクトレンズを買い換えたら、夫と同じメーカーのものだった。「本当のペアルックだ」と夫は喜んでいた。』
『センスの悪い服ばかり買ってくる主人に文句を言うと、「おまえを選んだのも俺だぞ」と言われた。』
『孫が「虫歯ができちゃったよ。」と言うと、おばあちゃんが「虫歯になる歯があって良かったね。」』
『猫よけのために水入りのペットボトルを置いたのに、昨日それを背もたれに猫が寝ていた。』
『顔パックしていたら小さな蚊がとまった。取ることもできずひたすら乾くのを待っていた。』
人生にはいろんなことがあるわけですが、どんな時にも神様が私たちに対して、「I love you!」と声をかけて下さっています。それは本当に嬉しい言葉です。みなさんは、誰かから「I love you!」と言ってもらったことはありますか?私はあります。近頃、うちの孫から言われました。「じいちゃん大好き!おみやげ買って来てね!」。しかし神様は無代価で私たちを愛してくださっています。
リバイバル聖書神学校を卒業して、今ゴスペルシンガーをやっている藤波慎也君がいます。彼がこの間私にDVDをくれました。彼が作った曲で、「Come to Me」という曲があります。なかなか感動的なすばらしい曲です。今日のメッセージのタイトルの内容を含んだすばらしい賛美なので、みなさんに聞いていただきたいと思います。神様の愛を感じながら聞いていただきたいと思います。DVDの中でバックで演奏しているのは、よく知っている人たちです。私の息子もベースを弾いています。それでは、五分くらいの曲ですが、しばらくお聴きください。
「Come to Me」CDはこちらから購入できます。
どうもありがとうございました!神の愛を表現している、すばらしい曲だと思います。
今日、お読みましたイザヤ書四十三章は大変有名な箇所です。これは神様から私たちに対するラブレターと言ってもいいと思います。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と語ってくださっています。
日本人には神様から愛されるというような考えは一切持っていません。なぜなら、日本の神々は、よく拝めば神にもなりますが、放っておくと鬼になる存在だからです。ということは、「初めから鬼じゃないか」という事になります。鬼なんかに愛して欲しくないわ、という感じです。鬼は適当に手なずけておいて、遠かからず、近からずつきあっていこうという考えです。
いつも話していますけれど、不動明王と一緒に手を繋いで歩いたり、千手観音と一緒に出かけたいと思っている人はいないと思います。日本の神々は顔を見たらわかります。恐ろしい顔をしています。あれらを拝んで、いいことは絶対にありません。
しかし、私たちの神様は、天地宇宙を造られたお方です。それは愛の神であり、私たちに対して『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と語ってくださっているのです。
今日、ここにおられるお一人お一人、私を含めて、誰一人として神の愛からもれている人はいません。
「Come to Me」の歌詞中にも出て来ましたけれど、マタイの福音書十一章二十八節です。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
これはイエス様の言葉です。どうでしょうか?この言葉って絶対に普通の人じゃ言えない言葉ですね。例えば私がこの言葉を新城の駅前で語っても、人がいないので誰も聞いてくれる人はないと思いますが、豊橋の駅前にでも行って、「みなさん聞いてください!すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来てください。あなたを休ませてあげます」と繰り返し叫んだらどうでしょうか?「あんたが一番疲れているんじゃないの?病院にでも行ったら?」と言われるでしょう。
普通じゃ、この言葉は言えません。これを語れるのは、本当に休ませてくださる神様か、ちょっと問題のある人物かのどちらかです。二千年の歴史の中で、イエス・キリストの所に行って、休みを得た人は数えきれません。
ここにおられるクリスチャンの方々は、なんらかの形で神の愛と休みを受け取った結果、ここにおられるわけです。
どんな時にも、神の愛と、神が与えてくださる平安を忘れないで生きて行きましょう。
エペソ人への手紙二章十節は、私の最も好きな箇所の一つです。
『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』
この言葉は、人生のすべての基本と言っても過言ではありません。「私たちは神の作品です」とありますが、お一人一人は神の作品として創られました。
世の中には作品と共に、製品が溢れています。製品とは「販売を目的として大量に作られた品物」と辞書に書かれていましたけれど、製品は同じ物ができるわけです。会社で品質管理を行っている人もいるかも知れません。寸分違わない物ができるわけです。それが製品です。
しかし「作品」は、「作者が心を込めて制作した物」となっておりました。制作者が心を込めて一点一点、制作したわけです。ですから、それぞれ違うわけです。
時々、私も作品展に行かせてもらいますけれど、力作を見る時に感動します。時には作者の意図が分からない、意味不明の作品もあります。でも、そんなのが値段を見ると、めっちゃ高かったりするのです。
ある人を見ますと、「この人、意味わからんな、意味不明人だな」というような人に出会うことがあります。そんな人こそ、神様の作品価値としては高いのかもしれません。自分自身を「意味わからん」という人は、作品価値は高いと思います。
何しろ一人一人、神の作品として作られましたから、お隣の方と比べてみれば全く違うわけです。顔も違うし、体型も違うし、性格も違うし、能力も違うように見えますけれど、今の教育というのは相対的教育(生徒の成績が学習集団全体のどのあたりの位置にあるかで評価しようとするもの)なので、優劣がついてしまいます。しかし実際、神様の目から人を見たらすべての人に能力があるのです。全員が神様の作品ですから、絶対的能力が与えられているのです。「その人にしかできない仕事。あなたにしかできない仕事」が用意されているのです。
今読んだ御言葉には、『神の作品』という言葉と共に、『良い行い』、『良い』という言葉が三回に渡って出て来ます。原文のギリシャ語を見ても、『良い』という単語が、三回使われています。
そして『神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった』とあります。
私たちの人生が始まる以前に、神は私たちに対する良き物、良い行いを全て創造済みだというのです。創造の原点においては、悪いものは何一つないのです。神様は、百パーセント、ピュアな方ですから、そこには暗い影は何一つないのです。「創造の原点において、人生の基本は、すべて良いもの」というのが聖書の主張です。私たちはこれを基本として、人生を歩いて行く必要があります。
日本の教育では、進化論を真理かのように教えますから、いくらお互い仲良くしましょうとか、親切にしましょうと言っても難しいのです。なぜなら、進化論は、「自然淘汰」が基本となっており、強者だけが生き残ったという考えだからです。
キリンは外敵に対してすごく敏感で、外敵に襲われないように、いつも首を長くして周りを見ているうちに首が長く進化した、その結果生き残ったというわけです。あんなに首が長かったら、かえって目立って、外敵に襲われると思いますが。
しかし進化論では、そのようにに考えるものだから、「弱い種族はみんな死んで行った。今生きている生物は進化することによって、淘汰の中で生き残った」としています。これは、「強者に価値がある」という考えです。
でも聖書は違います。「一人一人、神の作品です」と。そして、「教会は、キリストを頭としたキリストの体に属する各器官。それぞれの器官に重要な役割がある」と教えています。
私は日本の教育の中で、少なくとも、エペソ二章十節の御言葉を教科書の中に入れてほしいと願っています。この御言葉を子どもたちに教えて教育したら、全然違う社会ができるはずです。私が日本の首相になった暁には、そのようにさせていただきます。なれないと思いますが。若い人たちの中で、やがて政治家を目指す人が出て、首相になってください。学校教育で進化論なんか教えないで、エペソ二章十節を教室の黒板の上に標語として掲げ、朝の朝礼の時にみんなで声をあげて朗読し一日を始めたら、いじめなんかなくなります。
しかし、教育の中で進化論なんか教えているものだから、子どもたちは強者に価値があると信じてしまい、喧嘩は絶えないし、差別は絶えないし、問題だらけの社会になるのだと思います。
私たちクリスチャンは、この世の世界観で生きる者ではなく、神の国の世界観で生きる者であり、教会とは、神の国の文化を地域に広める働きです。クリスチャンはそのための係です。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』
「人をあなたの代わりにする」とはどういう意味でしょうか?それはイエス様の十字架を意味します。人は基本計画においては、完璧に作られていましたが、罪を犯したことによって、人類に「罪の性質」が入り込んでしまったわけです。アダムとエバが罪を犯したことによって、遺伝子の中に罪の性質が入り込んでしまったわけです。罪があると、人は幸せに生きることはできないのです。せっかく神様からもらった完璧な計画書に、ヒビが入ってしまうのです。
人類は創世の初めから自由意思をいただきました。自由意思によって神に仕えれば良かったのですが、残念ながら罪の道を選んでしまったわけです。ですから、どの時代に生まれる者も、人間として生まれるなら、罪の性格が内にあるのです。
この頃、孫ネタが多いのですが、毎日のように我が家の近くに住んでいる孫たちがやって来ます。二歳半になる孫がおります。彼女は我が家に来て、家内の財布なんかをひっぱり出し、カードだとか免許証を出して遊びます。いくら、「やるな」と言ってもやりたいんですね。子どもたちは。
先日も家内の大事な免許証が行方不明になりました。犯人は誰かと言ったら、一人しかいません。孫に、「免許証をとこにやったの?」と聞くと、「知らない」と言うのです。「知らんじゃないよ。どこやったの?」と言うと、「イエス様に祈ったら?出してくれるよ」と言うのです。そりゃそうだと、みんなでお祈りしました。
でも、二日、三日探しても免許証はありませんでした。しょうがないので警察署に行って再発行の手続きをしてもらおうということになって、警察署に行くその朝、家内がめがねケースを開けたら、その中に免許証が入っていました。
だから、「かたちゃん(孫)が入れたのでしょ」と聞くと、黙っているのです。「誰がやったの?」と聞くと、「いー君のお姉ちゃんがやった。」と答えました。自分がやったとは言わないのです。「自分の弟の姉ちゃん」という答えは間違ってはいません。どこでそんな表現を学んだのかは知りませんが、罪の性格が既に仕組まれているんだなと思いました。誰でもそういうところがあると思います。
しかし、イエス様はこの地上に来て、何をしてくださったのでしょうか。旧約聖書イザヤ書は、イエス様が生まれる七百年も前に記された書物ですが、神が人類を愛しているがゆえに預言として与えられた書物です。「わたしはあなたを愛しています」と、神様は私たちを個人的に愛してくださっています。「わたしは人をあなたの代わりに、国民をあなたのいのちの代わりにする」と記されています。「一対国民」という、すごい構図です。
これはやがて、イエス様が全人類のために十字架にかかり、罪の身代わりとなって死んで下さるというその預言でした。
ペテロは、イエス様の弟子でした。いつもイエス様と一緒に行動した人物がイエス様について語っています。第一ペテロ二章二十二節〜二十四節、
『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』
このようにペテロはイエス様について評価しました。人というのはお互いに近くなれば近くなるほど「あら」が見えて来ます。人間関係をうまくやっていく秘訣は、適度な距離感があることですよね。距離感さえあれば、あまりあらが見えませんから。お互い近くなればなるほど、「なんだこの人。幻滅。がっかり。」となって来るわけです。
イエス様と十二弟子はある意味、距離が近かったのです。弟子たちは金魚の糞のようにイエス様にくっついて三年半行動を共にしたわけです。その中心人物であったペテロがこういう風に書き残すということは、イエス様という方は本当にすごい方であったと思います。
うちのスタッフが私について後世レポートしてくれたら、きっとこう書くと思います。「滝元順は、ののしられたら、ののしり返し、苦しめられたら、復讐し、正しくさばかれる方に任せないで自分で戦っていた」と書くのではないかと思います。人間みんなそんなもんじゃないかと思います。しかしイエス様ってすごいですね。近くで見ていた人物が、「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見いだされませんでした」と言い切ったのです。これはただの人物ではありません。イエス様は神が人となられた救い主です。
イエス様が十字架にかかったのは、「ローマ兵に捉えられて、殺された」と考えますが、そうじゃないのです。
近くにいた弟子が『自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです』と、旧約聖書を引用しながらレポートしています。
イエス・キリストの救いは事実であり、彼が神の子であったことをペテロは証明しているわけです。
私たちは、本来はすばらしい神様の計画の中で生まれて来た者たちですが、なんと、罪によって、死んだ者となってしまいました。しかし、そのような者たちを救い出すために、イエス様はこの地上に来てくださったのです。教会に行って、イエス・キリストを信じると、過去に犯したすべての罪も赦され、「罪の赦し」を体験することができます。
今日、「私は過去に犯した罪で苦しんでいます」という方がおられたら、今日から苦しまなくてもいいのです。なぜなら「イエス様があなたの身代わりとなって、十字架の上で、その身に罪を負ってくださった」からです。これを信じたらいいわけです。
今の季節は本当に嫌な季節ですね。家の中にゴキブリが出たり、時には、ねずみなんかも来るわけです。うちには必ず朝、玄関にナメクジが数匹います。この間もナメクジ退治の薬を買って来て、大量に巻いたのですが効きませんでした。毎朝、玄関先にいて、気持ち悪いです。
ああいうのが何で来るのかというと、やっぱり餌があるからです。ゴキブリなどもなんで出没するのかというと、食べ残しとか、餌となるようなものがあるからゴキちゃんが来るわけです。ゴキちゃんに来て欲しくなかったら、餌を全てなくさないといけないわけです。
私たちも同じです。「罪」という餌があると、霊的世界に住むゴキブリ、ネズミみたいな存在が来るのです。それが誰かといったら、悪魔を親分とした悪霊どもです。何をめがけてやってくるのかと言うと、罪という餌をめがけてやってくるわけです。罪は悪魔・悪霊どもの大好物ですから、それに群がってくるわけです。
私たちの内側から罪を放り出すなら、霊的にも同じことで、霊的存在は入って来ないのです。
教会に来ると罪のことを聞きますから、「こういうことを聞きたくない」という時もあるかもしれません。しかし罪こそ、悪魔・悪霊どもの餌となるのです。エペソ人への手紙の二章十節を先ほど読みましたけれど、二章一節〜二節にはこう書かれています。
『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』
「罪と罪過の中にいる者」たちは、どういう状況下かというと、「空中の権威を持つ支配者」によって支配されているという事です。
罪が処分されないと、我々は空中の権威を持つ支配者、悪魔の奴隷になってしまうのです。
私たちが罪について知るということと同時に、空中の権威を持つ支配者が存在の両方を知ることがたいへん重要です。そうしたら、この支配から抜け出すためには、真の神がどうしても必要だと気づくはずです。
日本人は神々を信じていますが、それが自分の敵なのか、味方なのか、はっきりしていないのです。なんとなくうさん臭いなとは感じているのですが、それが敵なのか味方なのか区別がされていません。
日本人は、何らかのうさん臭い霊的存在が周りにいることには気づいています。ですから、それさえはっきり区別できれば「本物の神様が必要だ」ということにも、気づくはずです。
実はこの度、プレイズ出版から一枚のトラクトが出版されました。「ビリーブ」というシリーズのトラクトですが、タイトルは、「霊的オレオレ詐欺にご用心」というタイトルです。今日は三百部くらい信弘先生が用意してくださいましたので、お持ち帰りくださり、お使いください。これは新城教会ニュースに掲載したものをトラクト用に書き下ろしたのですが、ちょっと読んでみたいと思います。
『おじいさんが山に芝刈りに行くと、白い鳥がワナにかかって苦しんでいました。「ひどい事をするもんじゃ・・・」おじいさんはワナを外して逃がしてあげました。しかし、おじいさんは白い鳥の恩返しの話を知っていたので、家に帰ると早速、おばあさんと一緒にごちそうを用意し、奥の部屋には、はたおり機まで用意して待っていました。
するとその晩、予想通り美しい女性が現れ、「一晩泊めてください」と言いました。おじいさんは「そらきた!」とばかり、興奮しました。食事が終わると、女性は、「奥の部屋は決してのぞかないで下さいね」と言い残し、部屋に入っていきました。それでおじいさんとおばあさんは楽しみにして、ずーっと待っていました。ところがいつまでたっても、はたおりの音は聞こえてきません。「おかしいな・・」と思って隙間から部屋を覗いてみると、なんと、昼間助けてやった白い鳥が寝っころがっているではありませんか!
おじいさんは、「お前。俺に恩返しに来たんじゃないのか!!」と怒鳴りました。するとその鳥はこう答えました。
「私、サギですから。」
警察庁の統計によると、2011年の「振り込め詐欺」の総被害額は、前年より二十六・七%増えて、約百二十七億八千百七十九万円でした。また、「オレオレ詐欺」は、前年比三十四・一%増の約百六億二千百九十九万円でした。お互い、だまされないよう、注意したいものです。
「オレオレ詐欺」とは、息子や孫を装って、主に、お年寄りからお金をだまし取る手口です。詐欺師が作り出した巧妙なストーリーに騙されるなら、大切なお金を失うことにもなりかねないのです。
さて、日本人が最も大切にしている存在は「先祖」です。先祖のおかげで現在があるのですから、感謝の心や愛を持ち続けることは当然なことです。しかし、仏壇や墓場で感じる霊が、本当に先祖か否かは別問題です。先祖が死後も続けてこの世に存在し、困っているのなら、どうにかしなければなりません。けれどもそれが先祖の霊ではなく、「先祖のふりをした霊」ならば、何が起こるのでしょうか。その霊に従えば、人生の最も大切な部分を失うからです。
家庭に何か問題があったり、様々な事件が連続して起こったりするとき、必ず、「先祖がたたっている」と言われます。そして仏壇や墓場を新しくさせられたり、墓参りの回数を増やされたりと、様々な指示が出されます。考えてみれば、先祖がそんなことをするはずはありません。
日本の先祖崇拝は、古代中国の霊能者たちによって始められたものが仏教として伝わり、それが習慣化し、文化として定着したものです。ただの習慣や伝統として行ったとしても、それは悪意を持った霊的存在の手口に、まんまと引っかかることになるのです。
人は神によって創造され、この地上に生まれました。やがて地上での役割を終えるなら、霊魂は創造して下さった神の元に戻るのです。霊魂は決して「この地上に残ったり、迷ったりはしていない」のです。
先祖が最も喜んでくれる行為は、文化・習慣化した先祖崇拝を無批判に受け入れるのではなく、霊的世界の現実について理解し、真の神が誰であるのかを知って、その方を礼拝することにあるのです。死後の世界の先祖たちは今、叫んでいるはずです。「騙されないで!!それは私ではありません!!」
イエス・キリストはこう語っておられます。「盗人が来るのはただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためです。わたしが来たのは羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」
真の神であるイエス・キリストを信じて、永遠の命をあなたも受け取ってください。』
このような内容の、手頃なサイズのトラクトですので、これをお友達に差し上げてみてください。
先日もマーチフォージーザスがありまして、特にブラジル人の方が多く参加したのですが、このトラクトを五千部くらい配ってくれました。これを読んだら「そうかもしれないね・・・」と疑いを持ってくれるのではないかと思います。
先祖崇拝は神に対する罪に当たるわけです。同時にそれが騙し事となって、悪魔の餌となり、先祖のふりをした悪しき力が家の中に侵入して、家族の中に問題が起こるのです。それで霊能者の所に行って「なんで、こんな事が起こるのですか?」と問うと、「先祖が祟っている。もっと先祖を拝んでください」と言われて、やればやるほど土壺にはまって行くのが現実です。
しかし、この教会に来ますと霊的な目が開かれ、誰が味方で誰が敵かがはっきりとわかるのです。
日本人は真面目で信心深く、一生懸命ですけれど、これは霊的な存在に騙されているのです。なぜなら、「空中の権威を持つ支配者」が実在するからです。今も不従順な子らの中に働いている「霊」がいますから、イエス・キリストを信じなければ、空中の権威を持つ支配者の支配下となるのです。しかし、イエス・キリストを信じる時、悪しき霊的権威から解放され、自由になり、愛の神を知ることができるのです。また、一度奪われたものは取り戻すことができると聖書は教えています。
何度もここで紹介した聖書の御言葉ですが、出エジプト記二十二章七節。
『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』
この箇所は律法の規定ですから、普通の泥棒に対する罰則です。もしも泥棒に盗まれて、泥棒がだれかと特定されたら、泥棒は盗んだ物品を「倍返し」にしなければならないというのです。
しかし聖書は旧約聖書から新約聖書に至って結論が出るわけです。この「盗人」が誰であるのかというと、先ほどもイエス様が語った言葉の中に「盗人が来るのはただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」と語られましたけれど、真の泥棒は、霊的な泥棒、悪魔と悪霊どもです。これが究極的な泥棒であり、神が人の為に用意した良いものを盗むのです。彼らこそ、神の作品である私たちから良いものを盗んでいく存在なのです。
私たちの中に罪という餌をちらつかせて心を開かせ、侵入し、神が用意してくださったものを根こそぎ盗むのです。
しかし、私たちが「泥棒は誰か」を特定するならば、盗人は奪ったものを二倍にして返さなければならないのです。
イザヤも同じようなことを語っています。イザヤ書六十一章七節、
『あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』
主を信じる者には、主は失ったものをなんと「二倍にして返してあげます」と約束しています。百万円を一年預けてもどうでしょうか。ATMで一回お金をいじったら失ってしまうくらい利息は少ないですよね。でも、一度百万円を盗まれて、盗人を見つけて二百万円になるのなら、多く盗まれた方が得になりますよね。今まで人生の中で「私は本当に多く盗まれた!」という方がおられたならば、おめでとうございます!あなたの盗まれたものは倍になって戻ってきます。
教会に来られる方々は案外、多く盗まれた方々が来るのかもしれません。しかし、それが何倍にもなって戻って来るのです。
昨日は私は、近江八幡市のブラジル人教会で奉仕をさせていただきました。この頃、国内にある外国人教会へ奉仕に行くことが多く、今週も大阪と京都の韓国系の教会で奉仕させていただきます。昨日もブラジル人教会でお話ししたのですが、この教会では何回も話した証ですが、今から十数年前に、二人の外国人の方が来られました。その二人は夫婦でした。ご主人はイラン人、奥さんはブラジル人でした。二人とも日本語はあまりできませんでした。
なぜ来たのかと言ったら、夫婦の問題で来ました。「夫婦関係が、うまくいかない」というのです。それで、私の所に相談に来たのです。
私は日本人です。イラン人の男性とブラジル人の女性の結婚がうまくいかないから何とかしてくれ、と言われたって無理な話です。
二人から別々に話を聞いたら、イラン人の男性は「ブラジル人の女は大嫌いだ」と言うのです。大嫌いなら、なんで結婚するのかと思いました。そうしたら、今度はブラジル人の奥さんは「イラン人の男は大嫌い」と言うのです。お互いに「もう別れたい」というので、「じゃぁ、お別れください」というのが一番かなと思いました。けども、そういうわけにもいかないですよね。やれるところまで、がんばってみようと思いました。
自信はありませんでしたが、祈りつつ話しました。「何語でコミュニケーションをしているの?」と聞くと、「日本語で話をしている」というのです。二人の日本語力で、お互い通じるとは信じられないことでした。
でも、主に祈って、「どうしたらいいでしょうか?どういう風にアドバイスしたらいいでしょうか?」と祈りました。そうしたら、ピンポン!神様が一つ私にアイデアをくれました。
まずはブラジル人の奥さんに言いました。「ブラジルとイランは、文化的に全く違うからお互いに理解することが大切だよ」と。
文化はなかなか塗り替えることができませんから、国際結婚はお互いの文化を受け入れるところがないとうまくいかないと話しました。
「奥さん。イスラム圏の女性たちを見てごらんよ。頭の先から、足の先まで黒いベールで覆っていて、出しているのは目だけだよ。そういう所で育った男には、目以外はあまり出さない方がいいよ。特に、口を出すといいことないよ。イスラムの女性は家庭で目しか出してないからうまく行っているんだよ。」
このイラン人の男性は「ブラジル人の女は口うるさくて困る」と言っていました。
今度はイラン人の男性に言いました。「ブラジル人の女性を見てごらんよ。リオのカーニバルなんかに行ったら、あの女性たちは隠している所の方が少ないよ。だから口くらい出すのは当然だ」と話しました。
二人とも私に騙されたような感じで帰って行きました。でもやがて、この二人はイエス・キリストを信じました。
そうしたら、今までうまくいっていなかったのが仲良くなったのです。そして二人とも洗礼を受けたのです。イラン人の男性はイスラム教徒だったのですが、洗礼を受けました。彼は命がけでクリスチャンになったのです。
私たちも命をかけて、イエス・キリストを信じていきたいものだと思います。
夫婦関係が良くなったので子どもができました。奥さん、日本語が達者じゃなかったので、ブラジルで子どもを産みたいということになって、帰国することになりました。ご主人も、愛している奥さんと一緒にブラジルに帰ることになりました。
しかし、彼は日本で長い間不法滞在をしていました。入国管理事務所に行ったら、「おまえは長いこと不法滞在していて、これは重大な罪だ!今すぐに逮捕して、イランに強制送還だ!」と言われました。
強制送還されたらどうでしょうか。彼はクリスチャンになりましたから、イスラム法では死刑です。私もそれを聞いてショックでした。
始めは「すぐ逮捕だ」という話でしたが、「身重の妻が家で待っています」と言って、「数日後に帰って来い。その時は強制送還するから」となったわけです。
彼らが仲良くなってイエス様を信じて、子どもができたのはいいけれど、強制送還なんかされたら、彼は殺されてしまうかもしれません。家族もばらばらになってしまうし、「本当にこれで良かったのか・・・・」と思いました。心が暗くなりました。
彼が再度入国管理事務所に出頭しなければならないと聞いたので、私は嘆願書を書いてあげました。「この方は新城教会でクリスチャンになりました。だから是非イランに送らないでください。殺されてしまうかもしれませんから、是非ブラジルに出国させてあげてください」と、私は丁寧に、入国管理事務所の所長に対して嘆願書を書き、最後に権威ある名前、「滝元順!」とサインして、「これを持って行け。きっと分かってくれるに違いない」と手渡し、彼は喜んでその書類を持って入国管理事務所に行きました。
「これは嘆願書です」と係の人に渡したら、係の人は「何これ?滝元順ってだれ?こんなやつ知らん。駄目だ」と言って、全く歯が立たなかったのです。私の書類はむなしく落ちてしまったのです。
「もう駄目だ。イラクに強制送還だ!」と思った瞬間に奇跡が起こりました。ちょうどその時、待合室でテレビのニュースが流れていました。どんなニュースが流れていたかといったら、「この頃、イランでクリスチャンが迫害されていて多くのクリスチャンが逮捕され、殺されている」というニュースが流れていたそうです。そして私の権威のない書類とニュースを見て、係官は奥の方に入って行ったそうです。
しばらくしたら、一枚の書類を持って出て来たそうです。そこには、「あなたを第三国、ブラジルに出国することを許可する」という書類でした。
なんと彼は逮捕されることなく、普通に名古屋空港からブラジルに帰って行きました。泣きながら、彼はイエス様を心から賛美して、帰って行きました。
今彼はブラジルで市民権も取って立派に暮らしています。何年か前、ブラジルの彼の家を訪問したことがあります。大歓迎してくれました。
彼はブラジルからイランに住んでいる自分の家族に聖書を送ったりして、伝道して家族は皆、クリスチャンになりました。でもイランで信仰を守るのは難しいので、みんなオランダに移住しました。そこには大きなイラン人の教会があって、そこに集っているそうです。みんなオランダに行っちゃったから、「イランにはおらんダ」と言っていましたけれど、一人がクリスチャンになったことが、大きな奇跡とまた多くの人に救いをもたらしたのです。二倍どころか、何倍にもなったのです。
私たちが罪に気づいて神の前に出る時に、ご自分の御子イエス様を地上に送り、命まで捨てて下さった神が救いを与えて下さいます。私たちがイエス様の所に行きさえすれば、私たちに永遠の命を与えてくださり、罪を赦してくださり、奪われたものを悪魔の手から二倍にして取り戻してくださるのです。これが聖書の救いです。すばらしい救いの中に、私たちは今生かされていることを、心から感謝したいと思います。
今から私たちは聖餐式を持ちます。イエス様は自ら十字架にかかって死んでくださったとペテロはレポートしました。その愛をもう一度思い返し、私たちに与えられたこの救いと神の愛を感ずる時にしたいと思います。
『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたの命の代わりとするのだ』と、この御言葉と共に今日は聖餐式を持ちたいと思います。
一言祈らせていただきます。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは私たちを愛してくださっている、すばらしい神様ですから、ありがとうございます。
私たちは、イエス様の十字架と復活によって、永遠のいのちが与えられていることを心から感謝します。今日はこの聖餐式を通して、神の大きな愛を体験することができますように。そして私たちもあなたに対してI love you!と告白できますように。あなたに「愛しています」と告白する聖餐式としてください。イエス様の御名を通して、今からの聖餐式を始めます。アーメン。