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『収穫の時が来ました〜パート3〜』

2012.8.5(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き 8章4節〜11節

『他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。』


 みなさんおはようございます。暑い日が続いておりますが、大丈夫でしょうか?今も聖歌隊から、すばらしい十字架の賛美を聴きましたが、先週、聖歌隊はすでにクリスマスの賛美を練習していました。気が早いというか、準備がいいというか、すばらしいですね。先を読んで練習しておられる姿に感動しました。私たちもリバイバルに備えて、先を読んで歩んでいきたいと願っています。

 今日も、先週に引き続き「収穫の時が来ました!!」という題で、そのパート3と題して、使徒の働きの八章から学んでいきたいと願っています。
 今日は午後からサンデースクールがありまして、山崎先生を通して、使徒の働きを学びます。すばらしい学びなので、ぜひサンデースクールに出ていただきたいと思います。礼拝の時には御言葉を断片的にしか学ぶことができませんが、聖書はやはりシリーズで、全体を学ばないとなかなか理解できません。小説を読んでもそうじゃないでしょうか。始めのページだけを読んで、全体を理解することはできません。小説も様々な展開があって、最終的な結論に至るわけです。聖書をよく読みましょう。

 先週はみなさんに祈っていただきまして、リバイバルミッション主催で「霊的戦いセミナー」を三日間開催させていただいたのですが、大勢の方が集まってくださって、良いセミナーを持たせていただきました。私一人で連続九コマでしたので、大丈夫かなと思っていましたけれど、うまくまとめることができて感謝します。
 今回のセミナーは「霊的戦い二十年の歩みと、アジア・環太平洋ミッションに向けて」という題をいただき、その内容を含みながら話させていただきました。セミナーは八月二日から始まりましたが、最初の日は「霊的戦い二十年の歴史と今」というタイトルで、二十年の歴史を振り返り、もう一度主に感謝しながら、なぜこの場所において主が霊的戦いを始められたの意味について、考えてみました。
 「歴史」を振り返ると、そこに神の御業を見ることができます。聖書も歴史です。旧約聖書はイスラエルの「歴史」です。新約聖書はイエスさまと初代教会の「歴史」です。
 その中に神の言葉とみ業が散りばめられています。歴史を学ぶとき、「本当に神は人の中で働かれた!」と気づかされるのです。そして、未来に対して信仰を持って前進することができるのです。
 教会の歴史と、聖書の歴史を重ねる時、私たちの中にも同じように主が働いてくださったことを、確認することができます。

 先週もそのような視点でお話しさせていただき、パート1も同じ視点で語りました。今日も、歴史的観点を合わせながら、主がこの教会に、また日本に、働いてくださっている事実を知り、未来に向けて将来と希望を持ち前進していきたいと願っています。

 さて今日は八月五日ですが、なんの日か知っていますか?調べたら「タクシーの日」となっていました。
 しかし、八月五日は私の誕生日です。拍手をもらう為に言ったのではありませんが、私も今日で六十一歳になりました。「六十一年間も生きてきたのか・・・」と思って、ちょっと感動したのですが、朝、孫が「じいちゃんに誕生日プレゼントがあるよ」といって、トレーニングパンツみたいなものをくれました。嬉しかったですけれど、私の六十一年間の歴史を振り返っても、「様々なことがあったな・・・。しかし、主が助けてくださった・・・」と、歴史を見て、今後どれだけ生きるのかわかりませんが、「六十一年間、守ってくださったんだから、これからも守って下さるに違いない!」と信仰を新たにするわけです。

 明日の八月六日は、広島に原爆が落とされた日です。八月のこの週は「戦争」という大きなテーマがあります。
 今から七十年近く前、日本は大変な時期でした。多くの人たちが死に、苦しみを通りました。二度と過ちは繰り返さないように、歴史に学んでいかなければなりません。
 また、この八月は、死者礼拝が真剣になされる時期でもあり、教会が真剣にとりなしていかなければいけない季節だと思います。

 実は、明日は葬式があります。どなたが亡くなられたかといいますと、週報にもお知らせしていますが、Hさんという方が亡くなられました。
 その方はまだ洗礼は受けておられませんでしたが、ご家族がクリスチャンで一緒に礼拝に来られ、主を信じておられました。ですから確実に天国に行かれたはずです。そのお宅は地域的に仏教が大変根強い地域で、代々仏教で葬式をやっていたので、葬式をキリスト教式でやるというのは、なかなか難しい状況がありました。しかし明日は教会で葬式を行わせていただきます。是非とも、祈っていただきたいと思います。
 葬式はある意味で、一番良い伝道のチャンスです。私は葬式は好きではありませんが、葬式で奉仕をさせていただくのは大好きです。闘志が燃えるのです。参列して下さった方々全てが、天国に行けるようにメッセージを語るのが、私の使命です。死の準備は全ての人がしなければなりません。明日は良いメッセージが語れるように、是非とも祈っていただきたいと思います。

 今日、読んでいただきました聖書の箇所は、先週も学びましたが、散らされた人々がサマリヤの街に行って伝道した記録です。そしてそこに大きなリバイバルが起こったのです。リビングバイブルで読んでみるとわかりやすいです。使徒の働き八章四節〜九節、

『しかし、エルサレムから逃げ出したクリスチャンたちは、どこへ行っても、イエスのすばらしい知らせを伝えて歩きました。ピリポはサマリヤの町へ行き、人々に、キリストのことを話しました。ピリポが奇蹟を行なったので、みんな彼の話に熱心に耳を傾けました。悪霊どもは大声でわめきながら人々から出て行き、中風の人や足の不自由な人たちも、次々に治ります。今や、町中が喜びにわき返り、大騒ぎです。』

 ここに、『今や、町中が喜びにわき返り、大騒ぎです。』となっています。いい表現だなぁと思いました。
 サマリヤの街は長い間、閉ざされていた街でした。サマリヤとは、前回もお話ししましたように、ユダヤのすぐ隣にあって、イエス様と同時代に存在していた街です。イエス様が隣町に来て奇跡を行い、すごい働きをしているという噂は聞いたことがあったかもしれません。しかしその街の人たちは、イエスさまに対して関心を示していなかったのです。
 けれども、そんな街にも神の省みがありました。エルサレムでリバイバルが起こった後、エルサレムで大迫害が起こり、クリスチャンたちはエルサレムにおいて生活することができなくなったのです。それで、サマリヤの街に逃げ込んだのです。
 なぜ、サマリヤの街に逃げ込んだのかというと、ユダヤ人とサマリヤ人は、良きサマリヤ人の例えにもあるように、対立関係にありました。ユダヤ人とサマリヤ人は良い関係ではなかったので、ユダヤ人の世界で何か問題があったら、サマリヤ人の街に逃げていけば、追っ手が来なかったのだと思われます。それで逃げやすかったのだと思います。そのくらいエルサレムで起こった迫害は激しく、緊迫した状況だったのかもしれません。
 しかし、そんな逃げ出したクリスチャンたちによって、サマリヤにリバイバルが起こったのです。そして、『その街に喜びが起こった』と新改訳聖書には記されています。リビングバイブルでは、『町中が喜びにわき返り、大騒ぎです。』と記録されています。そんなことが日本にも起こって欲しいと思っています。
 そして必ず主は、日本にもことをなしてくださると、私は信じる者であります。みなさんはそのことを信じますか?アーメン。!と大きな声で、アーメンと言いましょう。「アーメン!!」はい、そのくらいでいきましょうね。
 クリスチャンが信じたら、そのようになります。やはり信仰にかかっていると思うのです。

 実は、この新城市の歴史を見る時、七月、八月は呪われたような季節です。私の父・母が教会を建てるために土地を買ったとき、この土地は坪いくらで買ったかご存じですか?一坪五百円だったそうです。「五百円なら俺でも買えるぞ」と子どもたちが言うかもしれません。そんな時代があったのです。ばかに安いなと思ったら訳がありました。
 ここは新城市富沢字市神という住所です。「市神」というのは昔、このあたりに市場があったことを意味します。しかし、土地を取得した当時、このあたりは桑畑でした。なぜなら、一五七五年に設楽が原の戦いが起こり、多くの血が流された為に、みんなここに住むのを嫌がって、逃げ出したわけです。ずっとこの辺の土地は放っておかれたのです。
 「設楽が原の戦い」は、歴史的に見ると、後にも先にもそんな悲惨な戦争は起こったことがないというのです。なぜなら、数時間の戦闘で、なんと一万六千人が戦死したからです。鉄砲が初めて実戦で効率的に使われた為に、大きな犠牲が出たのです。それは織田信長が考え出した戦法らしいのですが、これが世界の戦争のスタイルを全く変えたとも言われます。
 鉄砲という近代兵器がここで効果的に使われ、一万六千人が死んだ歴史がここにはあります。
 その後、日本の歴史はどう進んでいったのかというと、ご存じのように、ここで戦った徳川家康が一六〇〇年、関ヶ原の戦いで石田三成を倒し、事実上天下を取るわけです。そして一六〇三年には征夷大将軍となり、江戸幕府を開くわけです。

 この場所の戦いが契機となって、日本に入っていたキリスト教(ローマカトリック)は大迫害を受けるはめになっていくのです。日本においては三百年近く、キリスト教大迫害が続きました。キリシタンを撲滅するために、あらゆる手段が使われました。
 特に家康が一六一四年、キリスト教禁止令を出してからは、本格的にキリシタン取り締まりが始まりました。全国にキリスト教を禁止する高札が立てられ、「五人組」というグループを作り、お互いに監視させました。
 昔、日本人はすごく明るかったらしいのです。隣近所の人たちとも、分け隔てなく話をして、珍しい物があれば「なんだ、なんだ・・・」と寄ってくるような、自分の心をダイレクトに表現するような人たちだったのです。それが証拠に、カトリックが十六世紀に入って来た時、短い期間に何十万という人たちがカトリック教徒になったのです。それは西洋から新しい宗教が入って来たということで、仏教からカトリックに変わったわけです。かなり性格は明るかったらしいです。

 しかし、そのシステムを徳川家康とそれに続く徳川幕府が壊したのです。日本は当時、氏族社会で、お互いに知っている人たちばかりがかたまって住んでいたのですが、それをわざとばらばらにして、知らない人たちと五人のグループを作り、互いに相互監視をさせ、もしもそこからキリシタンが出たら捕まえられ、お互いにかばい合っていたら、五人全員が連帯責任だったのです。時にはキリシタンの公開処刑まであったわけです。
 そんなことが三百年間も続いたらどうでしょうか。「キリスト教だけは止めよう」という気持ちになってしまったわけです。
 今の日本はどうでしょうか。「他の宗教はいいけれど、キリスト教だけは…」という人が多いのです。どこに原因があるのかというと、やはり江戸時代を中心とする三百年間に洗脳されたのです。その間にキリシタンは根絶やしにされてしまったわけです。

 しかし、この暗闇が明ける時が来たわけです。戊辰戦争により倒幕され、その後、高札が降ろされて宣教が再び開始されました。特にプロテスタント宣教は明治維新前後から始まりました。そして日本にリバイバルが起きました。
 「日本にリバイバルが起きました!」と最初に海外へ知らされた場所がどこかと言いますと、この近くの愛知県北設楽郡津具村(現在は設楽町津具)という場所でした。それは私の父が生まれた村です。
 横浜に伝道に来ていたジェームス・バラという宣教師が始めた祈祷会がリバイバル的になり、当時、津具村から二人の人が東京に勉強に来ていて、そこでクリスチャンになりました。そして「私たちの故郷にはまだ教会がない!伝道しなくっちゃ!」と言って、故郷である津具村に帰ったわけです。
 彼らが村で福音を伝えたところ、一人の人が救われました。それが村井与三吉という学校の先生でした。やがて彼が津具村で牧師となり、ジェームス・バラ宣教師が津具村に来て宣教し、村にはリバイバルが起こるのです。それでバラは本国に、「日本にリバイバルが起きました」という手紙を書いたそうです。
 津具って、どこかといいますと、教会はここですが、津具はこんな所です。

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 超田舎です。冬は雪が積もるとこのようになります。ジェームス・バラ宣教師はこの村まで来たそうです。そして、村の半分くらいが主を信じたというような時代があったそうです。
 クリスチャンになると、村の墓場に葬ってくれず、墓石を撤去させられたそうです。しかしクリスチャンたちは、先祖代々の仏教の墓石を撤去して、自分の庭の敷石にしたというような記録も残っているくらいです。
 村井与三吉先生は三十年くらい津具村で牧会をしました。彼は大変人格者で、彼の影響で一人の男が大変有名な人物として育ちました。それが誰かというと、キリスト教精神の社会運動家「賀川豊彦」です。
 彼は当時、肺病でこの近くの蒲郡で療養をしていたそうです。しかし村井先生の噂を聞いて会いに来て、「私はあんまり長くない。残された命を先生と同じように、神の為に使いたい」と献身したのです。そうしたら、病も癒やされてしまったそうです。彼はこの近所で路傍伝道をして、やがて世界的に有名な人物となったのです。

 しかし、そうこうしているうちに、また日本に暗闇が押し寄せて来るわけです。国家神道により、宣教ができなくなり、一九二四年、村井与三吉も天に帰り、津具村のリバイバルも火は消えてしまったかのように見えました。
 しかし、みなさん、神はリバイバルの火を消されませんでした。十六世紀にちょっと形は違ったかもしれないけれど、多くのキリシタンが生まれたわけです。しかし三百年の迫害で、ほとんど根絶やしにされ、火は消えてしまったかのように思ったら、津具村で火が点いたわけです。
 日本のクリスチャンたちも散らされ、散らされ散らされて、迫害の中を何百年も過ごしました。しかし、せっかく点火されたリバイバルの火も、村井先生が亡くなって、消えてしまったかと思いきや、なんと、一九二九年、村井先生が亡くなって五年後、一人の男が津具村に生まれるのです。それが誰かというと、この男です。

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 どっかで見たことのあるような男ですね。それが滝元明です。津具村の中で滝元家はキリスト教反対派だったようです。そんな中から、クリスチャンが生まれたのです。
 当時、津具と海老のリバイバルで新城にも教会が出来ていたそうです。けれども、その火も消えていました。しかし主は、もう一度津具から一人を選んで、それも東京でクリスチャンにして、村に戻したのです。明治時代と同じパターンで主は働かれたのです。

 それで、新城教会の宣教が始められたわけです。初め、教会はたいへん小さかったです。

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 この右端の小屋。これが教会でした。これは八橋という場所にあった教会ですが、教会の上に八幡神社があり、秋祭り時に神社の寄付をしないということでいじめに遭いました。教会の中に石を投げ込まれたりして、危険な目に遭いました。その時に、教会に一人のかわいい、かわいい坊やがいたそうです。誰だか知りませんけれど、写真が一枚残っておりました。

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 かわいいですね。この少年です。この少年に害があってはいけないということで、散らされ、結果的に新城市の茶臼山駅前に教会が建てられたのです。

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 初代の信徒さんたちです。

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 この場所に最初建てられた会堂です。
 ここに変な少年がだっこされていますけれど、先ほどここで歌っていた男です。大きくなったもんだと思います。

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また会堂が増築され、ついにはみなさんが今、礼拝を守っている会堂が出来たのです。いつできたかというと、一九八〇年八月十五日、終戦記念日に献堂式をやったみたいです。

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 献堂式に大勢の方が来てくださったのですが、散らされ、偶然かのようにこの場所に教会が始まりました。

 やがて父が「日本リバイバルクルセード」という働きを始めました。この働きがどこで始まったかというと、先日、スペインの話の中で東栄町の事を話したのですが、実は、リバイバルクルセードは東栄町から始まりました。東栄町で中村先生が当時伝道をされていて、伝道が困難でしたから、父や田中政男先生が四十二年前の夏の暑い日、東栄町の伝道を手伝いに行きました。私たちもその働きを手伝うために付いて行きました。
 当時の伝道はそんなに忙しくなくて、伝道集会は夜だけで、昼間はみんなで川に泳ぎに行ったり、魚獲りに行ったりと、楽しかったです。夜の集会が終わってからもカンテラを持って魚獲りに行くというような、魂を獲るよりも魚獲りの方が中心でした。
 夏の暑い日の午後、みんなで古民家に寝転がって雑談している中で、当時クルセード伝道が盛んで、「チームで伝道をするといいね」という話になりました。
 毎晩の集会では田中政男先生が司会をして、父がメッセージをし、私たちはグロリア・シンガーズというバンドを組んでいましたので賛美をしました。「チームで伝道すると効果的でいいもんだ。これを日本全国に拡げて行こう」というようなビジョンが生まれました。その為に「何かいいチーム名はないだろうか」ということで考え、昔、「本田クルセード」というのがあり、本田弘慈という先生が有賀先生と共に盛んにやっておられました。それにちょっと刺激され、対抗したのかどうかは知りませんが、「滝元」と「田中」だから、頭の漢字を取って、「滝田クルセードってどうだろう?」という案も出ましたが、「ちょっと、ださいんじゃないの?」と言う意見が出て、やがて「リバイバルクルセード」、「いや、日本を付けた方がいい」と言うことになり田中先生の提案で「日本リバイバルクルセード」となりました。
 考えてみたらそれは東栄町から始まったのです。東栄町で行われていた集会が基礎となって、日本リバイバルクルセードが誕生したのです。その時の貴重な、私と田中先生のツーショット写真がありましたので、みなさんにお見せしましょう。

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 田中先生のネクタイ、あまりにも短かすぎるのではないでしょうか。その隣の少年、ちょっと暗い感じですが、それは私です。今と姿がちょっと違うところもありますが、本当に私です。

 それからリバイバル運動が始まりました。そして、リバイバルクルセード主催で、一九七一年から「教職者セミナール聖会」というリバイバルを求める聖会が、愛知県民の森で始まりました。

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 これも懐かしい写真です。私たちが賛美して、申賢均という韓国の先生が来られて、よく奉仕してくれました。それで当時燃え上がっていた韓国のリバイバルの火が日本にもたらされ、やがて甲子園ミッションにつながるわけです(詳しくは「主が立ち上がられた日」に記されています)。それがやがて本格的な日本のリバイバル運動となって、全国に拡大していきました。
 これが甲子園ミッションの時の写真です。

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 この決心者、何千人という方々が主を信じ、決心し前に出る光景は本当に感動的でした。甲子園球場の真ん中にでっかい十字架のステージが出来、ここから日本のリバイバルの火蓋が切られました。
 歴史を検証して一連の流れを見てみると、偶然、リバイバルクルセードが生まれ、全日本リバイバルミッションにつながり、リバイバル運動として展開していったように見えますけれど、そうではないことが分かります。
 一六世紀以降、日本のリバイバルの火が再燃したのが、津具村でした。しかしその火は消えてしまったかのように見えました。しかし神には敗北はありません。悪魔が吹き消し、それっきりなら神様の負けになりますから、絶対にそんなことはないはずです。一度消えたように見えても、その火は消えてはいないのです。
 やがて普通じゃ絶対に考えられないような方法で、津具村から一人の男を東京に連れて行ってクリスチャンにして、津具村からリバイバル運動を再開されたのです。
 そして日本のキリスト教宣教を強力にストップさせた原点、「設楽が原」から、回復を始められたのです。

 先ほど話しましたように、この設楽が原の戦いが原点となり、キリシタン大迫害へと歴史は進みました。また、ここから近代戦が始まり、世界中に悪い影響を与え、鉄砲が大量破壊兵器として利用されるようになり、多くの人たちが犠牲となりました。
 徳川家康によって出された「キリシタン禁止令」からキリシタン大迫害へとつながり、日本では完全に福音の扉が閉められる結果となったのです。

 しかしそれらは、人が関わっていたように見えますが、人ではなく、その背後に悪魔・悪霊どもが働いており、それは霊的な戦いであったわけです。
 日本のリバイバルの働きを、まずどこから回復されなければならないのかと言えば、やはり原点からの回復です。設楽が原の戦いをきっかけに、日本の福音宣教がシャットアウトされたならば、やはりそこから霊的戦いが始まらなければならないはずです。悪しき力が日本に大挙して流入した場所から、霊的戦いを始めなければならなかったのです。
 一九九二年七月九日、朝の六時に霊的戦いは開始されました。しかし一五七五年七月九日卯の刻、朝六時、それは「設楽が原の戦い」が始まった時刻でした。
 そのことに霊的戦いが始まって二年後に気づかされました。分かった時には鳥肌が立ちました。「主は生きておられる!」と主を怖れました。

 「なぜ、新城から霊的戦いが始まったのですか?あなた方がどこからか新しい教えを仕入れて来て、特殊なことを始めたんじゃないですか?」とか、積極的に評価して下さる人たちは「あなたたちが一生懸命祈ったから、たまたま選ばれたのですよ」と言われます。しかし、そうではありません。歴史を見れば分かるように、今話したルートでその火を回復する必要があったからです。そうでなければ、歴史を支配されている主の敗北になってしまいます。悪魔に火を消されたような場所から、もう一度火を復興しなければならなかったわけです。そうしてみると、本当に神の大きな摂理を感じます。

 今日、みなさんは新城教会に座っておられますけれど、これは決して偶然ではありません。神の大きな計画の中で、一人一人に役割があるということです。
 霊的戦いが始められ、二十年が満ちました。二十一年目からは、何か主が大きな収穫の時を備えておられるような気がしてならないのです。私たちは神の時の中を生かされています。『夜は寝て朝は起きてそうこうしているうちに種は芽を出して育ちます』とありますけれど、まさしく、そのような形で、知らないうちに主が下拵えをし、準備されていたということです。
 いろいろなことがあって教会に来たように思うかもしれません。ある人は「散らされた」というような、「いろんな問題があって今ここにいる」というような方もおられるかもしれません。しかしそんなただ中に、神の御心があるということです。

 私たち、新城教会も散らされ、散らされ、やっと茶臼山駅の坪五百円の土地に定着したように見えますが、実はそこには神の深い、日本に対する何百年にも及ぶ霊的回復の計画があったのです。これからも主が、この延長線で何かをなさらないはずがありません。

 このように私たちが歴史を見る時、信仰を持って前進しなければならないことに気づかされます。二十一年目、主が、何をしてくださるのか、大きく期待し、堅く信仰に立って、サマリヤに起こったようなリバイバルが起こるように祈り、働いて行こうではありませんか。

 サマリヤにピリポが逃れていったのですが、サマリヤの街はなぜ福音から遠ざけられていたのかの理由が、ここにレポートされています。使徒の働き八章九節から見ていきますと、

『さてこの町には、長年、魔術を行なってきた人がいました。 シモンと言い、持ち前の不思議な力で人々をびっくりさせたので、サマリヤ地方でたいへんな影響力を持っていました。 メシヤ(救い主)ではないかと言われたことも、しばしばでした。』

 この町にはシモンという魔術師がいたというのです。彼が不思議なことをするもんだから、人々は「もしかしてこの人が救い主、メシヤではないか・・・」と考えていたらしいのです。
 ユダヤの方ではイエス様が現れ、「この方こそ、メシヤではないか・・・」と騒がれていたちょうどその頃、なんと、隣のサマリヤでは、シモンという男が「メシヤではないか・・・」と騒がれていたことになります。サマリヤの人々は、みな彼に目を向けていたのです。
 しかし、シモンはメシヤではなく、悪霊の支配を受けていた男でした。そのことによって、街は完全に閉ざされていたのです。

 歴史を見ますと、権力者の背後には必ず、魔術師、霊能者、占い師がいたという事実を見ることができます。江戸時代、三百年間、なぜあれほどまでに固く閉ざされたのかというと、実は家康という人物はただ一人で物事を決めていたのではなく、すべてを魔術師により、占いによって決めていました。
 その男の名を「天海」と言います。自分の城を作る時、街を作る時、また戦をする時、何もかも、自分の死後の事までも「天海」という男の魔術によって決めていたのです。ですから後に、日本が完全に閉ざされてしまったのです。
 今でも日本では魔術や占いが流行っています。これは福音を覆う大きな力となることがわかります。

 前にもレポートしたのですが、去年の九月に私はネパールに行きました。いつかネパールに若者たちを連れて行きたいと思っています。連れて行ったら、きっと彼らの人生が変わるだろうと思います。ちょっと危険な場所もあるので、「自分の責任で行ってもらう」という感じですが、ネパールに行くといつも山岳少数民族の所に行きます。
 その民族は山の上に住んでいます。その場所まで、だいたい徒歩で五時間くらいかかります。去年も、一昨年も、五時間歩いてそこに到達しました。しかし本当に綺麗な場所でした。遠くにヒマラヤ連峰が見え、美しい場所でした。

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 でもその村の子どもたちは、この辺の子ども達とは違い、全員が裸足です。今日、新城教会の子どもたちは、みんな綺麗な靴を履いていますが、ここの子どもたちはみんな裸足です。数年前までは、裸だったと言いました。この村に韓国の教会が古着を持って行って、子ども達に着せたのです。彼らは前の年に着せた時と同じ服を着ていると言っていました。一年間、服を洗濯をしたかどうかは定かではありません。
 子どもたちの足の裏に興味があったので、見せてもらいました。人間って、本来は靴を履かなくても生きていける存在かもしれません。彼らの足の裏は亀の甲羅のようでした。また、ここに行くと悲しい光景も見ました。
 なぜかというと、怪我をしたりしたら日本ならすぐに手当しますよね。しかし、この村では「怪我をしたら手当てをする」という考え方がありません。ただ放っておくのです。だから、幼児死亡率がすごく高いのです。
 大きな病気になったりしたらどうするかというと、山の上のヒンズー寺院に連れて行って、「悪霊(あくりょう)が取り憑いている」と、柱に子どもを縛り付けて、魔術をかけて体を竹の棒でぱんぱん叩くような儀式をするそうです。
 この山の人たちは健脚ですから、山を降りようと思ったらいとも簡単に、一時間もあれば降りて行くのです。私たちは上りが五時間、帰りは二時間半くらいですが、彼らは一時間もかからないくらいで降るそうです。でも、下には絶対に住まないのです。下に行けばそれなりの街があって、病院もあったりと、ネパールも少しずつ近代化しているのですが、絶対に山を下りて住むことはしません。
 なぜかというと、魔術師が「山を降りてみろ。降りたらおまえたちみんな死ぬぞ!」と言うからです。
 しかし、そこに今、福音が入って、宣教が為されているがゆえに、「山を降りても死なないんだ・・・」ということが分かった人たちは、ちらほら、山を降りて住んでいます。今回も、山を降りて町に住むようになった人たちを訪問したのですが、やはり山の上の村は、サマリヤの街と同様、魔術師がいて、村は完全に福音から遠ざけられていました。しかしそこに入って行った宣教師や、私たちによって、今は徐々に変わってきています。

 私は二回ほど行きましたが、この村を変えるためには、まず、子どもたちの霊の目が開かれるしかないと思いました。今まで「村の守り神」だと信じられてきた存在が、「守り神ではない。それは悪霊だ!」と気がつかないといけないと思いました。ですから、子ども達を集めて、霊的な目が開かれ、この村を支配しているのは「悪霊だ!」と気づくように祈ってあげました。
 みんなに御言葉の剣を持たせる祈りをして、子どもたちに言いました。「この村で、最も強い悪霊が座っている場所に剣を向けてください」と言ったら、全員同じ方向に剣を向けました。

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 同じ方向です。それは山の上のヒンズー寺院がある方向でした。それで、「今もらった御言葉の剣を、悪魔・悪霊どもの脳天目がけて投げつけよう!」と言いました。すると、「イエスの名によって、その剣を投げます!!」と言って、みんなで剣を投げつけました。
 投げて五分くらいすると、その場所から、一人の老人がへんな柄の杖をついて、ゆっくりと降りて来ました。私はちょっとドキっとしました。それがこの老人でした。

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 この老人は村を仕切っている酋長で、魔術師だったそうです。上にあるヒンズー寺院から、突然、降りて来たのです。何が起こるんだろうかと、ちょっと心配になりました。
 しかし私は、「この人がイエス様を信じないと、この村は変わらない」と思い、イエス様のことを短くお話して、手を置いて祈ってあげました。そうしたら聖霊様が働いて、このじいちゃん、涙を流しながらイエス様を信じ、魔術の杖を投げ捨ててしまいました。昔も今も同じです。聖霊が働かれる所に、自由があり、人は解放されるのです。

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 サマリヤの街に見られるように、街のリバイバルのためには、魔術とか、占いの背後に働いている悪霊の力が、打ち砕かれるように祈らなければいけないのです。

 案外、私たちは占いとか、そういう領域に関して軽く考えていると思うのです。「クリスチャンになる前には、よく占いに行ったな・・・」とか、「占いの暦を見た」とか、「今はクリスチャンになったから、そういうのはあんまり気にならなくなったけどね・・・」とか言いますが、実は、「占いの力」や「魔術の力」は街を閉ざす強力な力であることを、使徒の働き八章から読み取ることができます。
 今日、私たちは、新城のリバイバルのためにも、かつて占いに行ったり、魔術に関わっていたら、そのことを悔い改め、その力が打ち破られるように祈ることが、街のリバイバルのために大きな意味を持つのではないかと思っています。
 神の働きは、人の手に寄らずに進んで行くと前回も学びました。マルコ四章二十六節〜二十九節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 メッセージ・タイトルは、ここからつけさせていただいているのですが、リビングバイブルで読みますと、こういう風に訳されています。

『神の国のたとえを、もう一つ話しましょう。ある農夫が畑に種をまいて、家に帰りました。 日がたつにつれて、別に何もしなくても、種はどんどん生長しました。土が種を生長させるからです。 まず芽が出て、次に穂、そして最後に実が入ります。すると、さっそく農夫が刈り取るのです。」』

 神の国というのはどのように拡大していくのかというと、『土が種を生長させるからです』となっています。
 「土地改良」は「霊的戦いと共にある」と先日お話させていただきました。一度、霊的な戦いの火蓋が切られると、何もしないのに、日が経つにつれて、種は芽を出し、どんどん生長するのです。

 これも前にもお話したことがある証ですが、今から十数年前、一人のペルー人女性が来られイエス様を信じました。でも、彼女の信仰には常に波がありました。六ヶ月くらいは教会に来て、県民の森の祈祷会にも来て激しく祈っているのですが、ちょっと何かあると、落ち込んで六ヶ月くらいは教会に来ないのです。
 でもまた何かのきっかけで教会に来るようになって、来ればすぐに熱心になるのです。でもまた、しばらくするとどんっと落ち込む、そんな繰り返しの人がいました。でも、性格はたいへん良い子でした。
 彼女がある日、暗い顔をして教会に来ました。「どうしたの?」と聞くと、「顔が痛い」と言っていました。「なんか理由は分からないけれど、顔がみしみし痛む」と言っていました。「教会に来ないで、働きすぎじゃないの?」と言ったら、新城病院に行きました。レントゲンを撮ってもらったら、「骨の隙間に、いっぱい腫瘍が出来ている」と言われました。だから腫瘍が骨を広げ、痛いみたいです。「これはすぐに手術しなければならない」と言われました。私もそれを聞いた時、本当に心が暗くなりました。「もしかして、腫瘍が悪性なら死んでしまうかもしれない・・・」と思いました。
 彼女のために、何を祈ってあげたらいいかと思って、神様に聞きました。「主よ、何を祈ったらいいのですか?」と。すると「この人がなぜ、日本に来たのかを聞きなさい」と言われました。
 「なぜ、日本に来たのですか?」と聞くと、彼女は「占いで日本に来た」というのです。
 彼女はいろんな事を決断する前には、必ず、お母さんと一緒に占い師の所に行って物事を決めていたそうです。「占いの時、どんなことをするの?」と聞くと、先祖の墓に夜行くそうです。そして、霊能者に先祖の霊と称する存在を呼び出してもらい、指示をもらうというのです。そこで、日本に行ったら幸せになれるようなことを聞いたらしいのです。
 やがて彼女は日本に来て、最初はたくさんお金が儲かったそうです。「やっぱり言われた通りだ!」と思っていたけれど、最終的には、命に関わるようなことが起こってしまったわけです。でもそれは占いの霊、魔術によって日本に来たということは、悪霊的な力の影響によって、彼女は日本に送られたと言うことです。
 だから私は彼女のために祈りました。そのような罪を悔い改め、悪霊との繋がりが断ち切られるようにと祈りを導きました。そして「悪魔よ、よく聞け!魔術の霊よ、よく聞け!この人から汚い手を離せ!」と命じた途端、彼女の顔がぶるんぶるんと震えて、「うるさい、うるさい、うるさい!黙れ黙れ!」と男のような声をして、私に言うのです。
 「俺はこの女が嫌いだ!俺はこの女が嫌いだ!俺はこの女を殺してやる!殺してやる!」と、叫び始めたのです。それはまさしく、その人ではなく、その人の背後に隠れていた悪霊の声でした。今まで沈黙していた存在が露わにされた瞬間でした。
 しかし聖霊様が強く働いて、彼女は床に気を失って倒れてしまいました。死んでしまったのではないかと、ちょっと心配したくらいでした。

 でも、その後に何が起こったと思いますか?何も起こらなかったら、こんな話をするわけはないのです。彼女の腫瘍は消え、完全に良くなりました。完全に良くなりました。全く腫瘍は消えたのです。それからすでに、十年くらいになります。
 私は、彼女と会う度に「本当に良かったなぁ」と心から感謝をします。
 でも私はここで祈った時、彼女がペルーのどこの街の出身で、どの場所でそんな魔術をしたかなんて、全く知りませんでした。知るよしもなかったですし、別に興味もありませんでした。

 でも、種は放っておくと生長するという御言葉は事実です。今年、一月でしたでしょうか、私はフェルナンド先生と一緒に、ペルーに行きました。なぜ行ったかというと、「ワッチョ」という街で霊的戦い聖会に招かれたからです。
 なぜなら、ワッチョという街は、魔術師と占い師がいっぱいいる街なのです。毎年、その街では「全国魔法使い大会」があって、全国から魔術師たちが集まり、力比べをするような場所なのです。その街は本当に暗いです。教会も小さいし、弱いのです。
 その街にある、小さな教会の牧師が祈っている時に、「霊的な力が、この街を押さえている。それに立ち向かって祈らなければならない!」と主から示されたそうです。「でも、私の力では戦うのは難しい」と主に言ったら、夢の中にイエス様が現れてこう言われたそうです。
 「おまえを助けるために、日本から一人の男を連れて来てやる」と言われたそうです。
 そうしたら、その後、リバイバル聖書神学校を卒業した下田という宣教師がその先生と出会い、その流れで、私がその場所に行って聖会をすることになったのです。

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 どこで聖会をやったかといったら、毎年、魔法使いたちが、全国魔術師大会をやる、同じ会場で霊的戦い聖会を開催したのです。本当にパワフルな集会でした。本当に素晴らしかったです。地域の教会が集まり、「主よ。この街を解放してください!」と力強く祈ったのですが、しかし、その街に行ってびっくりしました。
 十年前、新城教会で一人の女性が「顔が痛い」と言って、解放され癒やされましたが、彼女がどの街の出身者だったかというと、同じ街、「ワッチョ」の出身者だったのです。そして、この街の霊能者と一緒に、墓場に行っていたわけです。
 私たちは、彼女が占いをよくやっていたという、先祖の墓にもとりなしの祈りに行きました。ちょっと気持ち悪い所でした。

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 ここが今でも誰かが魔術をやっている場所です。ここで戦って祈りました。十年経って、まさかここにまで導かれるとは、夢にも思いませんでした。同じ街で聖会をして、彼女の最後の裁ち切りの祈りを、昔、魔術をやっていた墓場で祈るなんて、夢にも思いませんでした。
 彼女は先祖の墓場で魔術をしていたのですが、十字架なんか立っていますが、これはカトリックの墓です。ここが魔術の場所なのです。

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 ここには四つの墓があります。すでに三つは誰かが葬ってありました。一個だけは空でまだ葬ってありませんでした。
 先に死んだ人たちはみんな癌とか事故とか、本当に悲しい死を遂げた人ばかりでした。もしも彼女が、新城教会で解放されなかったら、空いている墓はきっと彼女の墓になっていたはずです。
 しかし、神の国の種はすごいですよね。一粒蒔くと、放っておいただけで実を結んでいくのです。
 このように、歴史を振り返るだけでも、「本当に聖書の御言葉って真実だな」と、気づかされます。そして「これからも必ず、主は、種を苗にし、やがて実を結ぶまで生長させてくださるに違いない」と確信するのです。

 先週、私はセミナーがありましたから、私が最初に書いた本、「主が立ち上がられた日」を読み返してみました。みなさんもすでに、お読みになってくださったかもしれません。私はこれを今から十年くらい前に書きました。最初の本なので、今はあまり読んでいなかったのですが、今回読み返して、自分の本に感動したというか、すごく恵まれました。
 みなさん絶対、この本は読んでください。これは私が書いた本というよりも、新城教会で九十二年前後に起こったことをまとめた本です。それを読むと、「うわぁ、本当に主は、新城で働いて下さっている!」という、信仰を新たにさせられます。

 今日は、私たちのただ中に起こった事柄を、歴史と共に検証し、お話させていただきました。霊的戦いが起こったのも、決して偶然ではありません。これはいたずらに始められたのではありません。長い歴史の中、日本を勝ち取るために、日本のリバイバルのために、主が始められたことです。
 今、この事を深く認識し、この時代を任されている者達が、次の時代にリバイバルの炎をさらに大きくして、バトンタッチしなければならないことを教えられます。今、収穫の時に差し掛かっていると私は信じています。

 二十年が終わって、二十一年目、主が新たなる扉を開こうとされていると信じます。それは御言葉からも、私たちの身のまわりに起こった事柄を歴史的に検証しても、知ることができます。今もう一度、新しい信仰を持って、主の前に立ち上がって行こうではありませんか。最後に一言、お祈りさせていただき、礼拝のメッセージに代えさせていただきたいと思います。


 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは生きて働いてくださっています。心から感謝します。あなたは今、ここにおられます。私たちはあなたが立てられた計画の一コマを満たすことのできる特権を、心から感謝をいたします。この場所から、もう一度、回復の働きを始めようと立ち上がって下さいました。感謝します。
 日本の福音を閉ざすため、大挙して侵入した悪しき力を打ち破るために、私たちをこの場においてくださっていることを、心から感謝します。今、私たちは十字架の血潮を仰ぎ、教会に与えられた権威を持って立ち上がります。主よどうか、私たちを導いてください。
 今日この時、聖霊によって満たし、十字架の血潮によって聖め、新しい戦いのために立ち上がらせてください。今、収穫の時が来ていることを信じます。この時を心から感謝し、イエス・キリストの御名によって、聖餐をいただきます。アーメン。