HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 9月 > 9月9日

『主の道は高く、主の思いは高い』

2012.9.9 (SUN)
新城教会副牧師 滝元開
イザヤ書55章7節〜13節

『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』



 イエス様の道は私たちの道よりも高く、イエスさまの思いは私たちの思いよりも高い。そのことは知っているはずですけれども、考えもしなかった主の高い思いと高い道が、この地上に現されようとするときに、驚かされることがあるものです。この度の台湾リバイバルミッションも神様の高き思いの実現です。台湾まで行ってくださる方々も、行かずにこちらでお祈りくださる皆さんも一つの思いになって、主の思いと主の御心が百パーセント実現するように祈りつつ前進していきたいと思っております。

 先週の礼拝で、すばらしいみ言葉をいただきました。今は終わりの時代であり、私たちはこの時代に生かされている者として、時を知り、時を悟り、主の業に励む者でなければならないことが語られました。今、終わりの時代へと突入し、いよいよイエスさまの帰られる日が間近な時であると感じるわけですが、この時であるからこそ、イエスさまご自身が、大いなるリバイバルへの道と思いを現されるために、そのリバイバルの計画を急いでおられるのだと思います。
 それは、私たちクリスチャンだけでなくて、すべての方々がそのことを肌で感じているのではないかと思います。理屈以上に、何か終わりが近づいているのではないかということを、人類全体が感じているような今日この頃ではないかと思います。
 先日、東京でのザワメキ集会に行きました。集会を終えて夜遅くこちらに帰って来ました。高速道路に車を走らせ、夜十時くらいに港北のパーキングエリアで遅い夕食を食べました。そこで、横浜のなんとかポークというのがすごく美味しいんです。どうでもいいことですが。
 食事をしていたら、すぐ近くに六十過ぎくらいのおじさんが座っていました。誰かを待っているようでした。私たちが食事してる間、ずっと待っておられました。そうしているうちに、だんだんと、不安になってソワソワしている様子でした。
 そして、私たちの食事が終わろうとする頃、すでに十五分以上経っていたと思いますが、そのおじさんが突然サービスエリアの中でむくっと立ち上がって、公衆の面前で突然「おいー!こらー!」と叫び出しました。でっかい声で怒り出して、みんなびっくりしたんですが、その次に忘れられない一言を言いました。「心配したじゃないか!こんな悪い時代だからよ!」
そのおじさんが、皆の前ではばかることもなく大声で、「心配したじゃないか!悪い時代だからよ!」と、本当に心配していたのだと思います。しかし、奥様を待っていたのか、お孫さんかと思ったら、どう見ても三十過ぎの息子さんのような男性でしたのでちょっと拍子抜けでしたが、でも相当心配されたんでしょうね。
 しかし、「心配したじゃないか!悪い時代だからよ!」という言葉は、あのおじさんだけの叫びでないような気がします。きっと現代の全人類の真実な心の叫びではないかと思います。本当に「悪い時代」になってしまいました。私たちの思いと異なることが世界中で起こっています。
そんな中ですけれども、神さまは必ずリバイバルの祝福のみ業を成してくださると信じています。
 マタイの福音書 二十四章十四節には、

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

と書かれています。イエスさまが来られる終わりの日の前に、この福音、「イエスさまご自身を信じると天国に行ける、信じないと地獄に行ってしまう」という、この福音を全世界に宣べ伝えて、そして、すべての国民に証しされて、それから世界の終わりが来るということなのです。ですから、この時代の私たちの使命は、すべての方々にイエスさまのことを「宣べ伝える」という、その働きをさせていただかなかったらいけないと思います。
 ですから、私たちの身の回りの人たちに、イエスさまのすばらしさ、イエスさまの他に救いがないことを宣べ伝えていくと共に、また祈り、そして、この度の台湾ミッションのような宣教を通して、その業が、すべての国民に、すべての民族に拡大していくことを、祈り宣べ伝えるために励んでいかなければならないと思います。

 先週の木曜日は、この教会で、「霊的戦いセミナー&実践」という学びの時がありました。それは、教会スタッフが順番で担当し、霊的戦いのために、各自示されたテーマについて学び、学んだことをシェアして、それからそのテーマについてとりなしを実践する機会になっています。教会スタッフのみなさんは、すごく頭の良い方ばかりで、よくぞそこまで勉強したといつも感心します。事細かに学んだことを発表してくださいます。ですから、私のような知恵と知識のない者にとっては、担当が私の所に来ることは重荷に感じるわけです。
 今回は、私が発表したわけですけれども、最近心の中に気になっていた一つの出来事について学びの時を持ちました。それは、「アラブの春」というテーマでした。
「アラブの春」は、皆さんご存じのことと思います。アラブの国々、特にイスラム社会で、かつ独裁権力によって弾圧されて苦しんでいた国の民衆が立ち上がり、民主化デモ運動を繰り広げ、独裁政権をひっくり返して、今までの冷たい冬のような国々が、自由の春に生まれ変わるということが起こされました。そのような革命的な動きが「アラブの春」と呼ばれています。それが二〇一一年にチュニジアという国から始まって、エジプトも独裁的な大統領が交替しましたし、リビアもそうですし、今シリアで大変なことになっています。特に中東一帯で大きな変動があります。ですから、そのことに対してお祈りさせていただきたいと思い、学びをさせていただきました。

 創世記十六章十一節〜十二節にこんな御言葉があります。これはアブラハムの子ども、イサクの前にもう一人産まれた子どもに対して預言されたことばです。

『さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」』

 これは多くの聖書学書がいうのには、アラブ人のことを言っているのではないかと言います。アブラハムの子ども、イサクではなく、女奴隷ハガルによって産まれたイシュマエルという者を通して子孫が産まれて拡がっていったのがアラブ人であり、彼らはすべての兄弟に敵対する存在になるという預言のことばが、中東を中心とした問題のルーツであるわけです。そんな学びを今回はしました。

学びを終えて、早速この地域にとりなしに行きました。イスラム教のモスクと呼ばれる礼拝施設が日本にどのくらいあるのだろうかと思い、インターネットを探したら随分出ていました。北海道から九州、沖縄まで、今どんどん増えています。ひょっとしたらみなさんが住んでおられるすぐ近くにもあるかもしれません。
 一つの場所に私と雅也先生と行きました。そこは、ひとつのビルがイスラム教のモスクになっていました。ビルの屋上には玉葱ような形のモノが載っています。そして、中を覗くと、じゅうたんだけの広い部屋があって、何人かの人がいるのがわかりました。薄暗い中に人がザワザワといるのがわかりました。
とりなしの祈りでは、その場所に行って「背後に働く悪しき力が砕かれますように」と祈って、後は主の手に委ねて、私たちは去るというのが、普段のパターンなのですが、私は、「雅也先生、ちょっと行ってくるよ」と、車を降りてそこに入って行って、「こんにちは!」と言ってみました。
 すると、そこにいるんですけれども、誰も出て来ないのです。なので、「こんにちは!」と大きな声で言ったら、四、五人の真っ黒いアラブ系の人だとか東南アジア系の人たちが出て来て、「なに?」というのです。日本語のできる方もおられました。
 私が「ちょっと興味があるので見たいんですけれども、いいですか?」と聞くと、「見たいの?どうぞ」と言って入らせてくださいました。「どうぞ」と言うので、中に入って行くと、「本当は足を洗って身を清めてからでないと入れない場所なんだよ」というんですが、入らせていただいたら、そこのリーダーが出て来て、その人はアラビア語しかしゃべられない方でした。実はイスラム教のメッセージはアラビア語のみでするそうです。ですから、生粋のアラビア人が来ていました。白い服を着て、白いターバンをして、ひげ蓄えて、百八十センチくらいの大男が来ました。
 彼はきっと日本語がわかっていないので、「こんにちは」と私は笑顔で握手をしました。
しばらく見学をさせていただいていたら、そこに来ていた何人かの人が寄ってきて、いろんな質問をしてきました。「どこから来た?」「誰と来た?」というから、「私は一人じゃなくて友達もいる」と言うと、「友達も呼べ」と言われたので、雅也先生を呼んで来て一緒に、そして彼らとの交わりが始まりました。
 そうしたら、その中で二人の人がいろいろとお話をしてくださって、「どうしてこんな所に来たんだ?」と言われたので、「まぁ、ちょっとこういうのに興味があって見ようと思って来た」と言ったら、「どこから来たの?」と言われたので、「新城です」と言いました。嘘をつくわけにはいかないので、「新城から来た」と言うと、「そんな遠くから来てくれたんだね」とそういうのです。
 そうしていろいろと話していくうちに、こちらのつじつまが合わなくなりそうだったので、正直に「実は僕はクリスチャンなんです」と言いました。すると、「あぁ、そうか」と。すると、「あぁ、クリスチャンね」と。「どうして来たの?」と言うので、「私はイスラエル旅行に最近行ったんだけど、イスラエルに行ったらアラブの人がたくさんいました。僕は歌を歌うのが好きなんだけど、行って歌を歌うと、みんなが一緒になって歌ってくれて踊ってくれてすごく楽しかった。アラブの人たちもすごくいいなと思うから、なんとか平和な生活ができないかと思って」と言いました。「今、アラブ人の人たちといろんな国の人といろんないざこざがあるから、なんとか平和になるように祈っている」と言いました。
 そうしたら、その中の一人は温厚なイスラム教徒で、「いいことだし、まぁ、ユダヤ人も元々先祖は一緒だしね」と言うのです。だから、ユダヤ人とアラブがアブラハムから別れたということを彼らは認識しているらしいんですけれども、そんなことを話しているうちに、もう一人の方は「でもちょっと違うと思う」と言い出しました。
 私は「アラブ人の人もすべての人が一つになって平和になるように祈っている。アラブの人たちが特にアメリカの人たちと喧嘩しているけど、ああいうことがない方がいいと思っているから」と言うと、一人の男はすごく過激な人でした。「いや、あれは違う」と言うので、どうしてかと聞くと、二つの理由をあげました。すごく短絡的だったんですが、「アメリカの人たちは聖書を信じているけど、豚肉を食べるでしょ。だから駄目。あとはもう一つ、割礼をやっていない。だから駄目だ」と言うのです。「だから彼らは殺されるべきだ」と言うのです。その二つの理由だけを盾に、「だから彼らは殺されなきゃいけない」とずっとそれを言うのです。
 本当に霊的な覆いだなと思うのですが、そんな彼らも「僕はイエスさまを信じてる」と言うと、「あぁ、そうか」と納得するのです。「本当の神さまは一人だから、あなたたちはアラーという方に祈っているかもしれないけど、私たちは本当の神さまイエスさまを信じているので、私たちは祈っていくよ」と言うと、「そうかわかった」と言うのです。
 特に、その過激な彼もすごく熱く語るんですけれども、熱く語って憎しみをこちらにぶつけられるのも良くないので、日本語があまりにも上手だったので「それにしてもあんた日本語上手だね」と言うと、「あ?そう?」と喜び、幸いおだてに弱いタイプだったので平和の内にその場を終えました。
彼らはちょうど午後の祈りのために来ていました。イスラムは日に五度の祈りがあるんですけれども、その昼の祈りのために来ていて、私たちと出会い、そんな話をして、時間になって彼らは帰って行きました。
もしもこの町新城にも突然モスクが建って浅黒い人たちが出入りしている姿を見たら、「何が始まるの?」「過激な思想を持っている人がいたらどうなっちゃうんだ?」ということで、祈りはしますけれども、その人たちに福音を伝えるということはなかなか難しいのが現状じゃないかと思うんですけれども、イエスさまの思いは、『あなた方の思いより高く、わたしの道はあなた方の道よりも高い』とあるので、イエスさまは、イスラムの彼らにも福音を宣べ伝えることを望んでおられるのではないかと思います。
 テモテへの手紙第二 四章二節に、

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

とありますので、み言葉を宣べ伝え続けることを私たちはしていかなければならないと思います。これからの時代、イエスさまの計り知れない思いと道が、もっともっと露わにされて、主のリバイバルのご計画の道がどんどんこの地に下ろされるのではないかと思います。その主のみ思いに私たちもついて行って主のみ業のために、特にすべての方々に福音を宣べ伝えなかったら終わりは来ないこのような時代の中にあるので、すべての方々に福音を宣べ伝えていきたいと願っています。

 八月の初めに、私と家内と二人で、再び被災地に行かさせていただきました。被災地の五カ所の仮設住宅でのコンサートをさせていただいたんですけれども、大きな主の恵みの時でした。
 実は被災地に行く前日の月曜日に、東京で一つの施設に行きました。その施設は、虐待を受けている人たちが行政によってかくまわれている場所なんですが、子どもたちが虐待を受けてかくまわれている場所ではなくて、主に二十代から六十代のご婦人たちがかくまわれている「シェルター」と呼ばれている場所でした。ご主人であったり、親であったり、いろんな人から口で言い表せないほどの虐待を受け、家庭から逃げ出すようにその場にかくまわれて、そこにいることを肉親にさえ知らされずにいるのです。みなさんすごく傷ついておられて、誰にも心を開かずに、そんな状況の中で今後の生き方に対して前向きに進めようと励ます、そんな所でした。
 今回私たちをお招きくださったのは、リバイバル聖書神学校の卒業生でもある方で、現在はその施設の理事長をされている方でした。その施設に行く前に、その方から一冊の本が送られて来ました。施設に入所されている方がどんな経験をしたかが書かれた本でした。それはアグネス・チャンという方が書いた本に、更にその理事長も書いておられて、それを読んだら、決して読み切れる内容の本ではなくて、今の時代の実態というのがあまりにもひどくて、大変な方々がこの日本に、身近にもいらっしゃるんだなと感じました。
 その施設の中では毎月バイブルクラスというのが行われていて、その中で毎回ザワメキを歌っているというのです。「主の愛が今」とか、「主はあなたを守り」とか、そういった歌をみんな歌っているのでぜひ一緒に歌ってくださいと言ってくださいました。
 そこの施設には三十五名くらいの方々が入所されているんですが、その日は施設の方々とその施設長のお友達のクリスチャンの方々も少し来てくださって、全体で三十数名のコンサートでした。本当に祝福されました。神さまが本当に働いてくださって、賛美の中でみなさんが涙を流しておられるのです。最初から最後まで、たださめざめと泣くというよりも、「うわぁー」と泣くのです。
 こんなにも神さまがここに訪れようとされておられるのかと思わされました。
イザヤ書六十一章に
『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』

とありますが、イエスさまはご自身が心の傷ついた者たちのためにそこに行こうとされているんだと感じました。主は賛美の中で一人一人に触れていかれて、本当に深い、神さまの愛って本当に私たちには届きようのないすごく大きな力強い愛だということを肌で感じたそんなコンサートでした。みなさん最初は目も合わせずにいた方々がみなさん泣かれて、最後は喜んでいろんな話をされました。
 そしてそれから幾日か後にその理事長とお会いした時にいろいろとお話をしてくださったんですけれども、そこで六年間ずっと入所していてバイブルクラスをしている人が、その次の日、その方の所に来てこう言ったというのです。「私イエスさまを信じた。バプテスマを受けます」とそう言ったというのです。
 またある人はその施設のどんな職員にも心を閉じていて、本当に堅かった人がその時を機に変わったというのです。すごく心を開いてくださった。イエスさまご自身がそこに訪れる時に、イエスさまご自身の愛が届く時に、神さまのみ業が人々の心の中に表されるんだということを今回知らせていただいてすごく感謝しました。『永遠の愛を持ってわたしはあなたを愛した』というみ言葉がありますが、神さまの永遠の愛は、私たちに届かないようなところにも届こうとしておられるんだなということを覚えて心から感謝しています。

 そのコンサートを終えて、次の日は移動日で、その次の日から被災地でのコンサートだったんですが、本当に祝福されて、そのためにも皆様にもお祈りいただきましたけれども、一つ一つの被災地の中に神さまがいてくださることをすごく感じました。
 震災から一年五ヶ月ということなんですけれども、岡本信弘先生の娘さんの泉さんがそこで一生懸命がんばっています。またリバイバル神学校で学んでいた佐々木歩君がそこのリーダーをして一年五ヶ月ずっとそこで仕え続けているのです。最初は瓦礫の撤去だったり、直接イエス様の話をすることはできなかったので、一年五ヶ月間、ある意味すごく苦しかったというのです。「本当にこんなことしていていいのだろうか」と、「これで何が起こるのだろうか」と思っていただけれども、この期間が経って神さまが今働き始めておられることを感じているそうです。
 五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように、「これで何になるの」というような、そのような気持ちでやり始めたけど、今神さまが何かをし始めようとしていることを僕は今感じていますと、言っていました。
 今回、その五カ所の中で、一カ所だけ、三月にも行った仮設住宅に行きました。女川で被災されて石巻で住んでおられる人たちの仮設住宅です。前回の礼拝メッセージの時にここでお話しさせていただいたんですが、本当に大変な所から救い出されたおばあちゃんがいて、「最初は神も仏もあるものかと思った。でも今は神様いると思うよ」と言いました。そして、「あんた、わかめ食べるかい?」と言って「食べますよ」と言ったら、後からわかめをどっさり送ってくださいました。そのおばあちゃんがいる所に再び行きました。そこが今回最初のコンサート会場でした。到着し準備して、そのおばあちゃんの部屋がどこかわかっていたので、早速行きました。
 ピンポーンと行ったら、その息子さんが出て来ました。「こんにちは。滝元です」と言ったら、「あぁ、滝元さん!」彼がそう言うのです。「おばあちゃん元気ですか?」と言うと、「おばあちゃん今日いないんだよ」と言うのです。せっかく来たのに残念だなと思って、「ぜひよろしく言ってください」と言いました。以前に明牧師の本を送ったりザワメキの歌をお送りしたりしていたので、その息子さんもすごくを喜んで受け取ってくださっていました。私たちは「息子さんに会えたことは嬉しかったので、ぜひそのおばあちゃんにはよろしくお伝えください」と言って、その場を後にしてコンサートをしました。
 コンサートをして、終わってさぁ片付けようと思った時に、そのおばあちゃんが来ました。「おーい」と入って来て、そのおばあちゃんが「あんたたち来るって言ったからさ」と言ってどうしたかと言ったら発泡スチロールいっぱいに魚を詰めて「だからこれを用意してたの」とおばあちゃんが来てくれました。足の悪い八十二歳のおばあちゃんなんですが、いつも逆に愛をいただいています。私たちは、その方のためにお祈りをします。「主よ、あの方の足が癒やされて元気になってイエスざまと共に歩むことができるように」とそんな祈りをさせていただいていますが、そうしたら彼女はもっと大きな愛で私たちに返してくださいました。愛を注ぎ続けて行く時に必ず神さまはそこに働いてくださると信じていますから、あのおばあちゃんもきっと祝福されると信じます。。

 そのコンサートの中で一人の元漁師をしていたおじさんがいて、漁師でいろんな養殖をしていたというのです。カキだとかホヤだとか、そういった物をいっぱい養殖していたけど津波で全部流されてしまったというのです。それで今は時々海に出るけどなかなか海に出るのも大変なんだと言っておられました。そのおじいちゃんがこう言っておられました。「あのな、キリストさんはやっぱり違う」と。
 「キリストさんは違う。」一年五ヶ月経っていろんな人たちが来て本当にいろんな人たちが出入りするんですけど、ずっと愛を注ぎ続けているのはキリストさんだと言うのです。「だからキリストさんは違うんだ」彼がそう言いました。
 そして、仙台のベースに帰ってみんなと話している時に、同じことをあちこちで言われるというのです。この一年五ヶ月経って「キリストさんは違う。」ある人は、「あなたはどうしてそんなにいつも笑顔でいるんですか?」「何か一本筋が通っているというか、やっぱりクリスチャンって違うんですね」と、言われるようになったと言うのです。イエスさまご自身は、言わず語らず、主のために一生懸命奉仕している彼らの姿の中に、イエスさまご自身のみ姿を現わしておられるのです。そして、これから本当のリバイバルのみ業を始めようとされているのではないかと心から信じています。

 『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』

 続いて、イザヤ書五十五章十節〜十一節、

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 神さまのリバイバルの大きなご計画が私たちにすでに言い送られて、その計画の中で様々な問題があるかもしれませんけれども、その問題の中でも主は共にいてくださって、守ってくださって、支えてくださっています。天から雨が降ったら必ずその地を潤すように、神さまのみ言葉がこの地に、そして、私たちのこの教会に、私たちの心に注がれ、必ず芽を出して多くの実となってみ業が成されることを、主のみ言葉に立って、私たちは信じて進み続けていきたいと心から願うものです。
 またイザヤ書 五十五章十二節〜十三節に、

『まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』

 『まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。』この世界は様々な戦いの中にあるかもしれませんが、主はいつも喜びと共に安らかに導いてくださいます。これからのリバイバルの戦いの中に思いもよらないような所に福音宣教のために遣わされるかもしれませんけれども、その中にも喜びと安らぎと平安があることを信じて歩んでいきたいと思います。
 十三節に『いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。』と書かれていますけれども、雑草やらいろんな木が生え茂って前が見えないような大変な状況の森もミルトスが生える。ミルトスというのは祝福の木と呼ばれるそうですけれども、おどろから祝福の木が生えるような人生が私たちの生活の中にも、またこの国にも全世界にも現されることを信じていきたいと思っています。

 最後に一つのみ言葉をお読みして終わりにします。エゼキエル書十二章二十八節、

『それゆえ、彼らに言え。「神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。」‐‐神である主の御告げ‐‐』

 神さまご自身のリバイバルのご計画は必ず現されると、毎週のようにリバイバルの時が来ていることが語られていますが、私たちはそのみ言葉を信じてそして主ご自身と共に福音宣教に励んでいきたいと思います。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。愛する天のお父さま。あなたのすばらしいみ名をあがめて心から感謝します。今日こうして私たち、あなたのみ前に心からの賛美をおささげするすばらしい時を与えられたことを心から感謝します。また私たちの思いもよらなかったような中国語での賛美をこの日本の地でささげることができたことを心から感謝をいたします。この中に神さま、あなたのご計画があることを信じて心から感謝します。私たちの思いよりも、主よあなたのみ思いは高いのです。私たちの道よりもあなたの道は高いのです。しかし、主よあなたご自身はその高き思いと高き道、思いもよらないようなことの中に大きなご計画を持っておられ、その高い思いと高い道が今私たちのただ中に下ろされて来ていることを信じて心から感謝をします。どうぞ、あなたのみ思いを全うする者となることができるように助けてください。福音宣教のために私たち一人一人を遣わしていただくために整えていただくことができるように助けてください。今日のこの時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返ししつつ、心から、主よこれからの一歩一歩の歩みを主に期待し、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。