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『貧しいか?豊かか?
~Poor or Rich?~』

2012.11.4 (SUN)
新城教会副牧師 四元雅也
マタイの福音書5章3節

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』



 ハレルヤ。七月二十二日以来のメッセージで、ここに立つことができますことを感謝します。
久しぶりにここに立ちますと、やはり緊張します。先ほどの礼拝賛美の中でも、メッセージの時間が近づいてきたとき、トイレに行きたくなりました。今、聖歌隊の賛美では「すべて安し…」と歌っていましたが、僕の心臓は「安し」ではなくドキドキ波打っていました。
礼拝でメッセージをする前週は、祈りながら準備に時間を費やすのですが、昨日の朝は、珍しく早くに目が覚めました。メッセージのことが気になっていたのかもしれません。メッセージはまだ未完成でした。そこで、起きてパソコンに向かいました。我が家には子どもたちの勉強部屋はありますが、私の書斎というものがありませんので、勉強部屋を借りたり、教会の事務所を使ったりして、メッセージを作っています。昨日の朝は居間でメッセージを作っていました。しばらく調子よくパソコンに向かっていたのですが、二男が土曜日で学校は休みなのに早起きして来てきました。そして、テレビをつけて前の日にやっていたアニメの録画を見始めたのです。しばらくは、それでも「気を取られないぞ、集中集中!」と自分に言い聞かせてやっていたのですが、やっぱり駄目でした。僕は憤慨して彼に、「せっかく今まで集中して仕事をしてたのに、お前がテレビなんかつけるから、できなくなったじゃないか。」と言いますと、彼は少しは悪かったと思ったのか、こう言いました。「わかった。それじゃあ昨日見たところを飛ばしてから見ることにするわ。」…意味が通じてないのに笑ってしまいました。そんなこんなで、悪戦苦闘しながらメッセージを作ったわけですが、今日は、神様が皆さんに語ってくださることを期待しています。

昨晩は、「カフェ・コンサート」という伝道集会が、インターナショナル部会の働きとして行われました。大勢の方が集い、大変活気のある素晴らしい集会となりました。埼玉のブラジル人教会からゲストとして賛美チームが来て演奏してくださいました。

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ブラジル人の若者で結成されたバンドでしたが、彼らは日本語もペラペラで、賛美も日本語や英語を交えて歌ってくださいました。それも、バリバリのハードなロック調の賛美で、とても刺激的な力強い賛美でした。参加者たちも最初からスタンディングで踊りながら一緒に賛美していました。昨晩はブラジル、ペルー人だけでなく、日本人やフィリピン人なども集まって、通訳も日本語、英語でなされて大変国際色豊かな集会でした。
今晩は六時から、主に日本人対象ですが、ゴスペルサパーが行われます。今晩は滝元開先生ご夫妻が賛美してくださいます。昨晩の賛美と比べたら、かなりおとなしい音楽ですが、「大人」に「しい」と書くように、しっとりと、秋の夜長にピッタリな賛美ではないかと思います。また、秋の味覚をおなか一杯食べることができますので、ぜひ、お友達を誘って、ご参加ください。

また、これから季節がだんだんとクリスマスに向かっていきます。今年は、新城教会では例年より早くクリスマスが来ています。十月早々には、週報にも今年のクリスマス集会の予定が載せられています。先週はクリスマスコンサートのチラシが皆さんに手渡されましたし、ポスターも貼られました。今日からクリスマスコンサートのチケットも販売されますので、みなさんお買い求めください。
いつもは「まあ世間にクリスマスが始まらないと、兄弟姉妹にも実感がわかないので」とか言って、クリスマスムードが高まってくるのに合わせて皆さんにお知らせするようにしていましたが、世間よりも早くクリスマスモードに入るのもいいんじゃないかと思います。クリスマスの本家本元は教会ですので、世間がハロウィンなんかで盛り上がっているうちからクリスマスを打ち出して、クリスマスをリードしているのは教会ですよと、世にアピールしていきたいと思います。皆さんもそんな気持ちで、クリスマスに向かっていただきたいと思います。
クリスチャンにとってクリスマスはまたとない伝道の時でもありますので、いろんな機会を用い、イエス様を紹介していきたいと思います。

今日は、「心が貧しい人は、幸せだ」というみ言葉から学んでいきます。
マタイの福音書五章三節

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

このみ言葉から『貧しいか?豊か? ~Poor or Rich?~』というタイトルでお話しします。
現代人は、心が豊かであることを追い求めています。心の豊かさを求めることは、ある意味で自然なことです。しかし、ここではそれと全く逆のことを、イエス様が語られています。「心が貧しい人が幸いです。」とおっしゃったわけです。イエス様は、私たちが普段常識としている観念とは逆のことをあえておっしゃることによって、神の国の価値観=心理を説きました。このみ言葉が語られたマタイの福音書の五章には、イエス様が山の上に立って多くの群集に語られた、いわゆる「山上の垂訓」と言われる説教が書かれていますが、ここにもイエス様の逆説的な説教が多く見られます。
われわれクリスチャンは、私たちの既成概念とは逆行する聖書の教えを、受け入れるかどうかによって、クリスチャン人生がうまくいくかどうかが変わってくることを知らなければなりません。クリスチャン人生は、ある意味で、逆転の人生なのです。

心の貧しいものがなぜ幸いなのかというと、「天のみ国がその人たちのものだから」です。天のみ国は、心の貧しいものに与えられるのです。ですから、このみ言葉は、私たちにとって聞き捨てならない、意味をしっかり理解しなければならない大切なテーマを含んでいます。なぜなら、天国に入ることは、私たちの最終的・究極的な目標であるからです。その一番の近道が「心が貧しい」ことであります。
「天国」「天のみ国」「神の国」といわれますが、一〇月七日の順牧師の礼拝メッセージにも出ていますが、「神の王国・統治・支配」を意味します。それは、イエス様が私たちに教えられた「主の祈り」の中に描かれています。
クリスチャンは、祈る者です。「主の祈り」はどのように祈ったら良いか、イエス様がお手本を示されたものです。その中で一番初めに出てくるのは「み名があがめられますように」とあるようにみ名をあがめる賛美です。
その次が「御国が来ますように」です。すなわち、「私たちが天国に入れますように」ではなく、「天国が私のところに来るように」という逆転の発想の祈りです。普通は「天国に入りたい」と考えますが、主の祈りでは「御国が来ますように」、これは原語で見ると、強い命令形で書かれていますので、わかりやすく言うと「天国よ、私のところに来い!」と命じているのです。天国を私たちのところに来させる祈りを私たちはするべきなのです。
教会という所は、地上の天国です。そこに来るだけで天国を感じる。それが教会の一番素晴らしいことです。新城教会もそのような教会になりますように。

話はちょっと逸れますが、今日のメッセージの準備中、新城教会のホームページで今までの礼拝で話されたメッセージを、遡ってずーっと読んでいました。読み返してみると先生方が毎回素晴らしいみ言葉を語っておられることに感動します。手前味噌ですが、僕が語らせていただいたメッセージも載っていますが、これって本当に僕のメッセージかと思うくらい良くできています。講壇の上では時々脱線したり、要らぬことを言ってしまったり、言わなければならないことを抜いてしまったりと、ごつごつした話をしているのですが、文書化する時は、話した先生がそれぞれ校正をして文章にしますので、そういった足らずまいをいろいろ補正して、より読みやすい内容に仕上げていきます。また、何度も読み返すこともできますので理解もしやすくて大変良いです。ただ、僕のメッセージには誤字が多いです。小学校の時に書き取りをもっとしっかりやっておくべきでした。ともあれ、皆さんもぜひ、新城教会のホームページからメッセージを開いて、読んでみてください。

さて、天国という所はどんなところでしょうか?
今年の六月一七日の礼拝で岡本牧師が天国についてお話しされていました。そのメッセージでは、天国には何があるか?ではなく、この世にはあって、「天国にないもの」について語られていました。それによりますと、天国には7つのものがないとありました。

一つ目は黙示録二十一章一節に『もはや海もない』と記されています。
天国には海がないとはどういう意味かというと、海は不安定なものの象徴であります。荒海にもてあそばれる船のように揺れる心、そういう不安、動揺というものが、天国にはない。平安であるということです。
二つ目に天国には「死がない」
神様によって造られた初めの人間、アダムとエバには死がありませんでした。しかし、人間が罪を犯した結果、人類は死の奴隷となり、絶えず死の恐れと不安にさいなまれるようになりました。しかし、イエス様が十字架に死に、人類の誰もが打ち破ることができなかった死を滅ぼし、三日目によみがえられたことによって、もはや天国には「死がない」。永遠に生き続けることができるのです。
三つ目から五つ目は、「悲しみ」「叫び」「苦しみ」がない。
イエス様は、私たちのすべての悲しみを、叫びを、悲しみを背負って、十字架にかかって死んでくださいました。そして、そのすべてを滅ぼされたのです。
六つ目に、「のろわれるものがない」
人類に「のろわれるもの」が入ってきたのは、やはり人間の罪の結果なのです。創世記三章十七節には『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。』とあります。しかし、黙示録二十二章三節には、『もはや、のろわれるものは何もない。』と書いてあるように、イエス様が十字架の上で自ら呪われたものとなってくださったことにより、私たちをあらゆる呪いから解放してくださいました。私たちにとっての呪い、すなわち「飢え」「病」そういったものが天国にはありません。
七つ目に、天国には「夜がない」
これは、闇がないということです。黙示録二十二章五節に

『もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』

イエス様の栄光によって天国は照らされているので、私たちはもはや、暗闇の中に置かれておびえることもない。行く先に迷うこともないのです。「神も仏もあるものか!」という言葉がありますが、人生には時々、神様に見捨てられて迷子になったような気持になることがあるかもしれません。行く先の見えない暗闇に放り出されたら、身動きもとれずしゃがみこむしかありません。しかし、天国にはそのようなことは起こりません。なぜなら、神様ご自身が世界を照らされているからです。
神様の光の中で、不安もない、死も、苦しみ悲しみも、呪いもない、飢えも病もない、その中で永遠に生きる、そこには、命がある、喜び楽しみ、平安がある、これが天国であります。素晴らしいことです。天国はこのように最高の場所です。

私たちは、天国に向かって進んでいると同時に、「御国が来ますように」と祈り、天国を呼び寄せることができることは、大きな恵みです。

そこで大切になってくるのが、冒頭のみ言葉「心の貧しい人は幸いである」です。
心の貧しさとは何でしょうか?マタイの福音書五章三節を、リビングバイブルで読んでみると、こうなっています。リビングバイブルは、聖書の原語に含まれている意味を踏まえ、よりわかり易いように書かれていますが、こうなっています。マタイの福音書五章三節(リビングバイブル)

『心の貧しさを知る謙そんな人は幸福です。天国はそういう人に与えられるからです。』

心の貧しさ、それは神様の前で謙そんな人が知っているということです。
黙示録三章一七節には、このことと正反対の例が描かれています。

『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』

初めに述べましたように、現代人はただ働いて食べて寝るといった機械的な生活だけではなく、心豊かになることを追い求めています。楽しい趣味を見つける。美味しいものを食べる。旅行に行く。知識を追い求める。仕事に打ち込んで成功する。暖かい家庭を作る。また、ある人は何もしないことに豊かさを感じるかもしれません。いろいろなものを通して、何とかして豊かさを掴んでいこうと一生懸命求めているものです。
こういったものを追い求めていくことが人の「欲望」なのです。先々週の礼拝で順牧師がこのことについて話しておられました。欲望は決して、悪い物ではなく、人間の生きる底力でもあります。おなかが減って「何を食べようか」と考えることは、悪いことではありません。しかし、欲望をコントロールできなくなり、欲望によって支配されるとき、それらは悪になります。欲望が大きくなって独り歩きし始め、自分が欲望を満たすことを追い求めるようになる。そうなったときに、欲望は罪になると教えられていました。体の中にある細胞が秩序のもとに細胞分裂して組織を形成していくのは、生きていくうえで必要なことですが、細胞が無秩序に際限なく分裂し始めると「癌」になって人を死に至らしめる悪になるのと似ています。ヤコブの手紙四章九節にこんなみ言葉があります。

『あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。』

このみ言葉だけ見ると、神様は私たちが苦しむことを望んでおられるのかと、勘違いしてしまいそうですが、このみ言葉の前後の文脈を見ると、人間の欲望に対する戒告として書かれています。この世的な価値観から、人生を豊かにしていこうとする、世の楽しみや喜びを追い求めて行こうとする、そんな姿勢に対して警告を与えているみ言葉なのです。いわば、この世的な笑いを悲しみに、この世的な喜びを憂いに変えなさいと、教えているのです。これも逆転の発想です。この世の楽しみ、喜びを追い求めていくときに、私たちは、充実した人生を送っているのだと錯覚してしまうことがあると思います。このみ言葉は、「そうではないですよ」と忠告し、それを「悲しみ」「憂い」に変えてくださいと諭します。これは、「心を貧しく」しなさいということです。続いて、ヤコブの手紙四章一〇節には、

『主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』

とあります。
また、心を貧しくするとは、主のために働くことです。イエス様は私たちのためにお手本を示してくださいました。コロサイ人への手紙一章二四節

『ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。』

パウロが神様のしもべとして教会に仕えているのは、大変な労苦を伴うものでしたが、彼はそのことを「喜び」としていました。そのお手本がイエス様である、イエス様が十字架の上で苦しまれたのと同じ種類の苦しみである、それが、天にある喜びであると書いています。

聖書を見ていきますと、このみ言葉のように、神様のために受ける苦しみをものともせずに前進していった人を数多く見ることができます。へブル人への手紙十一章二十四~二十六節

『信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。』

モーセはエジプトの王パロの王子として育てられ、この世的に言えば、豊かさといえるおおよそすべてのものを、望むままに手に入れることができた人であったと思われます。しかし、当時エジプトで奴隷として扱われていたイスラエルの民を救い出すために、彼は大変な労苦とともに働きました。信仰のゆえに人々からそしられ、卑しめられても、それをエジプトの宝よりも尊いものだと考えたと書かれています。そして、それは、彼の目が天に向かられていたからだといいます。

では、天のみ国はどのように与えられるのでしょうか?マルコの福音書四章三〇~三二節

『また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」』

からし種とは、こんなものです。

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一円玉よりもずっと小さいものです。手からこぼれ落ちたら、もうどこにあるか分からなくなってしまいます。

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しかし、地に落ちて芽を出し、成長するとこのように大きな「木」となります。
神様の御国は、大人数、大規模の中には見られないのだと思います。大勢いるところに一派ひとからげにドカンと来るものではなくて、一人の信仰の人、少数の選ばれた人の中に現れるのです。たった一人で十分なのです。先ほどのモーセの働きもそうです。一人の人モーセによって、イスラエル全部を救われました。
聖書を見ますとそのような話がたくさん出てきます。アブラハムの人生もそうです。神様は、アブラハムを選び出して、あなたは、私が示す地へ出て行きなさい。そうすれば、あなたを大いなる国民としてあげる。あなたによって地の国々が祝福されるようになる、と神様は約束され、アブラハムは「はい」と、神様のことばを信じた、そのことを神様は良しとされたと書かれています。そして、約束の通り祝福されたことが書かれています。一人の人で十分、そこに神の国が現されれば、そこから広がっていくのです。ここにいるお一人おひとりが、それぞれ神の国を心に持つことができたら、なんと大きな御業が現れることでしょうか?

聖書をずっと見ていくと、一貫しています。神様は人を用いるときに、強い人・豊かな人は用いられません。また、大規模な組織を用いることもされません。少数の人が神様から選ばれ、大きな勝利を勝ち取っていくのです。ギデオンの戦いもそうですし、アサ王、ヨシャパテ、ヒゼキヤもそうです。また、エリヤ、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちもそうです。新約の時代になっても、使徒たちを通してなされた御業の数々もそうです。伴うしるしをもって神の国が彼らと共にあることを見ることができます。
Ⅰコリント人への手紙一章二六~二九節

『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』

また、Ⅱコリント人への手紙一二章九~一〇節

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

これも人間的な価値観とは反対の、神様の国の中にある真理です。とすれば、これを逆に考えると、私たちがイエス様のための苦しみを味わうことがないのであるなら、この世の満足、この世の楽しみが周りに満ちていたとしても、言い換えるなら私が強く、豊かな状態であったとしても、私たちの誤った豊かさは、本当は弱く、もろいものである。またそこには天のみ国は現れないばかりか、闇の力が働くための黄色信号が灯っているかもしれません。
心の貧しさを知っている謙遜さと、反対の状態に対して、聖書は警告しています。
Ⅰコリント人への手紙五章六節

『なたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。』

誤った豊かさを、高慢と言い換えて考えると、天のみ国とは反対の意味で、小さなパン種のようだといっています。小さなパン種がパン生地の全体を膨らませるように、心の高慢は、わずかなものからむくむくと膨らんで、人生の中に闇をもたらす危険なものであることを、知っていきたいと思います。ですから気をつけないといけません。

ゴスペルシンガーに岩渕まことさんという方がいます。この方の歌が好きという人も多いかと思います。彼の歌の中に「ただありがとう」という曲があります。最近、中高生の兄姉の中で、ゴスペルバンドの活動が盛んになっています。その中でこの歌をうたっているチームがあります。こんな歌詞です。

♪かねもちお金持ち かねもち貧乏
びんぼうお金持ち びんぼう貧乏

何にも無いような この僕だけど
何にも足りないものはない

このままで行こう この空の下
どこまでも行こう 地図を頼りに♪

この歌は心の貧富と経済的な貧富を掛け合わせ、ちょっとコミカルで意味深な歌詞にして歌っているユニークなゴスペルです。心の貧富と経済的な貧富を組み合わせると「かねもちお金持ち」「かねもち貧乏」「びんぼうお金持ち」「びんぼう貧乏」と、四種類の組み合わせがあるのですが、さて、あなたはこの中のどれですか?どれがいいですか?今日のメッセージに照らし合わせると、「びんぼう貧乏」でも悪くないような気もします。

今日は、『貧しいか?豊かか?~Poor or Rich?~』というタイトルで、学んでいます。

一人ひとり自分がどちらに立っているのか考え、自分を点検する時となりますように。これが、今日のメッセージです。

悪魔は誤った豊かさの中に私たちを留まらせようとします。神様に属さない喜び、楽しさ、平安に騙されると、知らない間に天国から遠く引き離されてしまいます。日本には、この世の誤った豊かさに欺かれやすい環境があります。そういう中に知らず知らずにとらわれていたら、神の国は私たちに現れなくなってしまいます。私たちは、リバイバルを求め、霊的戦いを進め、様々な働きをこの教会の中でしています。しかし、その前に自らを省みて、本当に喜んで主の前に働いていく、苦しみでさえも甘んじて受けていくとパウロが告白していたように、神様のためにならなんでもできる。神様のためなら苦しいこともなんでもない。という姿勢をとって歩んで行けたなら、素晴らしい天のみ国が現されていくことを信じます。ですから、みなが主にあって自分の貧しさを知り、天国を人生の中に表わしていただけるように、それが、からし種のように初めは小さくても、だんだんと成長していくように祈りましょう。

ハレルヤ、天のお父様あなたの聖なるみ名をあがめ、心から感謝いたします。今日あなたのみ言葉を通して、私たちに語りかけてくださいましたことを感謝いたします。今、一人ひとり、ある方は悔い改め、また、ある方はもう一度再献身して、あなたの御前にささげた祈りを受け入れてください。もし、私たちが、今まで欺きの豊かさ、誤った喜び楽しみを追い求め、その奴隷となってしまっていたならば、今日はそこから解放されますように。あなたからの聖霊の油注ぎによって、私たちの目を開き、神につくものとしての歩みを信仰によって踏み出させてください。たとえそれが貧しくあっても、苦しく見えるものであっても、主にあってそれを受け入れ、そこにある真の喜び、神の国を引き寄せることができますように、あなたの祝福を与えてください。また、この教会が御心を掴み、御国が現された教会として建てられますように。この教会で私たちが憩い、あなたを礼拝することができ、本当に感謝いたします。アーメン