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『あなたは祝福された人です

2012.12.9 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書 65章17節~25節

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』



 ハレルヤ!すばらしい賛美を聴かせていただきました。「私たちは勝ち組だ」と賛美されましたが、すばらしいですね。イエス・キリストを信じる者たちは負け組ではなく、勝ち組です。隣の方に「あなたは勝ち組です」と宣言してあげてください。あなたは人生の勝利者となるのです。
ロンブラウンさんを始め、バンドの方々が来てくださいました。今日の夜は、すばらしいコンサートになりますから、多くの方をお誘い下さい。

 今日は、もう一人、お客さんをお迎えしています。アメリカのニュージャージーから、私の友人ですが、李サンギュン牧師を迎えています。彼はもうアメリカ国籍になっているんですが、韓国で生まれで、今アメリカで牧師として働いています。私はニュージャージーに時々行くのですが、いつもお世話していただいています。
 先生は近頃「日本に行き、日本のために祈りなさい」と主からプッシュされ、教会を置いて一ヶ月間、バックパッカーのように大きな荷物を背負って奇妙な旗を立て、JRパスで北海道から九州まで、また沖縄も行くそうですが、日本中を回って祈っています。本当に感謝です。そして、今日は新城に来てくださいました。少し先生のお証しを聞きたいと思います。今日は韓国語でお話ししてくださいます。英語もよくできますけれども、韓国語の通訳者も新城にはいます。伊藤結実ちゃんです。本当に彼女は韓国語がうまいです。では、大きな拍手で李先生をお迎えしたいと思います。


 こんにちは。お会いできて光栄です。私は滝元順先生がとても好きです。滝元順先生は私の霊的なメンターです。私一人でそれを決めてしまいました。初めてアメリカで順先生にお会いした時に、すごく良かったんです。どんなに力強いことでしょうか。そこら中を走り回っておられました。それで私も走り回りました。とても楽しかったです。
 神様がどのようなメッセージをくださって、どのように皆さんに伝えたらいいのか心配もありましたが、滝元順先生がここに走って来るのを見て、「あぁ、私も走って行けばいいんだ」と走って来ました。そして、みなさんにお会いできて、神様がくださったメッセージを伝えることになってとても嬉しく、感謝で、恵みに溢れています。

 先ほどアメリカの方たちが賛美してくださいましたが、私にくださった神様のプレゼントとして受け取りました。私は日本に来て一ヶ月になりました。昨日まで十四日間はずっと日本を回っていました。そして、今日賛美されている時、リラックスして、手を叩いて、神様の安息の中で楽しみました。みなさんも賛美と祈りと御言葉の中で、十分な安息を受けることを願います。
 「安息」はとても重要です。特に日本人に対して重要です。安息しなければなりません。主の中で。私たちが主を本当に信じるなら、私たちは安息に入ることができます。安息は信頼です。信じるから安息することができるのです。神様に任せることができるのです。今、あなたもそうなさってください。「私は神様を信じます。神様が誠実であることを信じます。神様が良い方であることを信じます。神様の御心が完全であることを信じます。」と安息するのです。私とみなさんにこの安息が溢れ流れることを、主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
 今日読まれたイザヤ書六十五章の御言葉ですが、それは私が日本中を周りながら入る教会ごとに祝福の言葉として受け取った言葉でした。特に、六十五章二十節、

『そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。』

 旧約で神様がくださった約束は二つあります。それは今日読んだ二十節の御言葉です。神様が祝福される国には、老人が多いということです。なぜなら誰でも老人になるしかないですよね。神様が祝福された国は老人が多くなります。
 そしてもう一つの祝福は、子どもたちが多いということです。豊かだということです。人で豊かだということです。それは神様の祝福です。
 日本を回りながら、ある教会に入りました。東北にある教会でした。津波で流された教会です。教会で祈祷会をしました。祈祷会に行くと、老人たちが十二人座っていました。「この教会には老人に与える祝福を与えてくださっている」と思いました。
 北海道のある教会に行きました。そこには子どもたちがたくさんいました。この教会には子どもたちに対する祝福をくださったんだなと思いました。
 昨日は、私の祈りの日の最後の日でした。今日、新城教会に来ましたが、高齢者の方もたくさんいらっしゃり、子どもたちもたくさんいて、「ここは本当に祝福された教会だ」と思いました。主イエスの御名で祝福します。

 主が、一ヶ月半前に「日本に行きなさい」という心をくださいました。それで日本に来ました。東京で二週間、韓国人教会で説教をして仕えていましたが、日本を回りなさいという言葉をくださいました。
 日本に来る前に夢を一つくださいました。夢の後半の部分は日本を回るというものでした。しかし、日本を回るんですが、ただ回るのではなくて、神様が権限をくださいました。日本を回りながら、断てば断たれるし、解けば解かれるという夢でした。そして日本を回りなさいという思いをくださるんですが、思いをくださる時は確認が必要です。「これは私の考えなのか?もしくは悪しき霊たちのものなのか?神様がくださったものなのか?」ですので、「神様、確認させてください」と祈りました。
 神様の確認の方法は普通二つあります。まず一つ目は聖書です。もう一つは生活の中で何らかの体験させてくださいます。二つがありますけれども、一つは今日証しした御言葉の中でくださって、もう一つはある方が、私にJRパスを送ってくださいました。韓国から日本にとりなしのために来たある姉妹が「牧師先生に必要だと思われます」と言って十四日間のJRパスをくれました。JRパスを使って、十四日間、日本中を電車で回ることができるのです。それを受け取って「アーメン」と言って発ちました。

 東京を出て、東北地方に行き、北海道に上って、そしてまた東京に戻り、広島、そして九州、宮崎、鹿児島、熊本、名古屋、大阪、奈良、そして新城に来ました。
 一つおかしなことは、私が北海道から下りて来ながら、新城教会にすぐに来ようと思いました。しかし順先生が「土曜に来い」と言うのです。「その日がまさに私の旅行の最後の日だけど、それもいいな。礼拝をここで捧げられていいな」と思いました。それで「アーメン」と言って広島に行きました。
 昨日、新城に来る電車の中で神様に聞きました。「どうして新城が一番最後の場所なのでしょうか?私は最後に東京に行こうと思っていたのに。」私が十四日間、旅をしながら確実に分かりました。「あぁ、この旅は日本のリバイバルのためのものなんだな」と。リバイバルに対して、自分がどのように用いられるか分かりませんが、こうして日本のために日本を回らなければいけないんだな、と日本中を回りました。そして、リバイバルを持って東京まで行くと思いましたが、新城に来ました。なぜ新城なのでしょうか?

すぐそこの茶臼山駅に下りました。びっくりしました。夜八時半に下りましたが、駅員のおじさんがいないのです。日本中を回って来ましたが、無人駅を初めて見ました。
 そしてまた神様に尋ねました。「神様、なぜ新城なんですか?」今日の朝までその疑問が続きました。しかし、神様が答えをくださいました。その答えをみなさんと分かち合いたいと思います。

 私が神様から一番最初に受け取った御言葉はイザヤ書四十一章でした。「日本に行きなさい」という言葉を聞いて、イザヤ書を開くことにしました。イザヤ書の一章からずっと読みました。四十一章に来て、イザヤ書四十一章一節、

『島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。』

イザヤ書四十一章五節、

『島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。』

 四十一章に来て、「島」が出てきました。急に「島」に注目をするようになりました。「島?日本は島だよな。何か神様が私に語っておられるのではないか。」そして読みました。
 四十一章一節からは神様が叱責される言葉でした。『島々よ。わたしの前で静まれ。』そして、五節を見ると、『島々は見て恐れた。』とあります。地の果てが恐れたのです。そして七節、

『鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。』

 島たちが恐くて震えながらしたことは、偶像にしがみつくことでした。「この偶像を掴んで私たちは生き抜こう」としたのです。そのことを神様が叱られました。「島」が日本です。島が偶像を掴んでいるのです。神様が叱られます。
 しかし、 叱る中で、また一方で神様は約束をされます。九節~十節をお読みします。

『わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

 神様は叱責をされながら、同時に神様は約束されます。私があなたと共にいる。必ずあなたと共にいる。あなたを力強くさせる。あなたを助ける。あなたを支える。神様がそうされる理由が四十二章に出て来ます。四十二章十節、

『主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。』

 神様が日本を掴んでおられる理由が、神様が日本を助ける理由が、主に向かって新しい歌を歌わせるためです。四十一章、四十二章を見ながら、日本に対しての御言葉を受け取りました。これを掴んで日本を回ればいいんだな。日本が主に向かって新しい歌を歌えるように、新しい歌を歌いながらリバイバルするように。これが神様が与えてくださったメッセージだ。

 日本を回り始めました。四十一章、四十二章をずっと黙想しながら回りました。頭の中に一つだけ引っかかることがありました。「地の果て。」四十一章から四十二章まで、「島」と「地の果て」が一緒に出て来ます。四十一章五節、

『島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。』

 島が出て来たら、一緒に地の果てが出て来ます。そして、四十二章十節でも「島々」と「地の果て」という言葉が出ます。「地の果てから歌を歌え。」島と地の果てが一つなのです。島が日本で、地の果てが日本なんだ。そして使徒の働き一章八節を思い出しました。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 これは二千年前に、イエス様が昇天されながら、この地で一番最後にされた命令でした。エルサレムにいる弟子たちに、地の果てにまでわたしの証人となりなさいと。日本にまでわたしの証人となりなさいと。私にはそのように聞こえてきました。「あぁ、地の果てが日本なんだ。日本に必ずイエス様のことを伝えなければいけないんだ」と。
 そして、宮崎に着きました。宮崎に到着すると、エルサレムから緯度上でずっと行くと同じ緯度に宮崎があります。エルサレムと日本が連結しています。「あぁ、本当にそうだ。」
 そこで、宮崎でお会いした牧師先生がいらっしゃるんですが、野中先生とおっしゃいます。その方とお話をしてみると、手を打ちました。「あなたも受けたんですか?私もそれを受け取って祈っていたんです。」そして野中先生が「ここが地の果てだ」と考えられる場所に私を連れて行ってくださいました。地の果ての海でした。これ以上行く場所がありませんでした。「本当に地の果てだ。」
 そこにいたら突然「何をしよう。もう行く場所がない」と思いました。後ろを向いて歩き始めました。どこに戻るのでしょうか。エルサレムに戻ります。エルサレムの地の果てが日本です。日本にとっての地の果てがエルサレムです。日本がリバイバルされて、エルサレムに行きましょう。エルサレムのユダヤ人に福音を伝えるでしょう。「あぁ、本当にこれが地の果てから起こらなければいけないんだな。エルサレムの地の果ては日本、日本の地の果てがエルサレム。あぁ、神様が日本を起こしてくださる時だ。」そして見させてくださいました。
 日本は今まで神様が隠しておられました。日本は今までクリスチャンが少なく偶像が多かったです。なぜでしょうか?それは神様が最後の時にまでとっておかれた民族だからです。神様が最後の時に使われる民族だからです。神様の時が満ち始めました。

 日本を回りながら、時が来ていることを教えてもらいました。東京から北に南に行くんですが、行く所々に祈祷会がありました。それは千人、二千人ではありませんが、三人、四人、十人、その小さな祈祷会が至る所にありました。大きな火はわっと大きくなって、ぱっと消えてしまいます。しかし、日本は小さな火たちが、小さな祈りの火が日本全国で今燃え上がり始めています。この小さな火たちが燃え始めたら、消えることがありません。決して消えることはありません。
 この世界に多くのリバイバルがありました。ぱっと起きて消えて、ぱっと起きて消えて、波のように。日本でのリバイバルは消えることのないリバイバルになるでしょう。そしてそのリバイバルの火が、この地の果てから起きた火が、韓国を燃やし、中国を燃やし、上って行って、エルサレムまで行くでしょう。そして神様が来られるでしょう。アーメン。

 宮崎に行って、確信を得ました。宮崎に平和の塔というものがあります。平和の塔は日本の建国の始まりの場所です。そして第二次世界大戦の時に戦争を塔から持って行きました。平和の塔になんて書いてあるかというと「八紘一宇」と書いてあります。それが日本の建国の名前になっていて、第二次世界大戦の時に掲げて出て行ったスローガンでした。しかし「これが神様の御心だ」と分かりました。
 第二次世界大戦の時には、日本は八紘一宇を掲げて、力で世界を征服すると立ち上がりました。人を殺す戦争でした。日本が生きようとする戦争でした。しかしこれからは、日本は同じように八紘一宇を掲げて立ち上がるでしょう。しかしその「一」というのは「ただ主。八紘イエス。」それを掲げて韓国に、中国に、エルサレムに行くでしょう。
 日本が戦争の時に「神風」と言っていました。神風で直接攻めて行きました。しかしこれから神風は聖霊です。神様の風。それはもはや聖霊です。これからイエス様を信じるクリスチャンは立ち上がって神風となって、世界を力によって征服するのではなくて、聖霊様で覆うために出かけて行くことでしょう。これからは日本が自分が死んで、十字架に死んで、世界を生かすために、神風として出かけて行くことでしょう。

 私は宮崎からこの塔の前に立って、神様が与えてくださるその幻を感謝して受け取りました。「あぁ、日本が本当に地の果てなんだな。日本を神様がこの時まで隠しておられたんだ。今、日本の時になったんだ。今もう日本はエルサレムに行くんだな」と。

 そういう中で、新城に来ることになりました。さっき言いましたが、なぜ新城なのでしょうか。このリバイバルの旗を掲げて、神風を掲げて、東京に入って行かなければいけないのに、なぜ新城なのでしょうか。
 神様が教えてくださいました。日本にリバイバルが必要なのではない。リバイバルはすでに始まっていました。日本のリバイバルはもうすでに始まっていました。そしてそのリバイバルの火は、聖霊の風に乗ってすでに韓国に吹いていました。まさにこの新城教会は、日本と韓国のリバイバルを夢見て、すでに進んでいる教会でした。
 神様は私に、日本の夢を見させてくださりながら、神様に服従して少しのことをしたので、神様は私にプレゼントをくださいました。最後の日に新城に来させてくださりながら、日本のリバイバルを見させてくださいました。すでにここで始まっていたのです。もうすでに始まっていたことを見させてくださいました。聖霊様が臨まれなければなりません。聖霊様なしのリバイバルはありません。この新城教会はすでに二十年前に聖霊様が臨まれました。権限を受け取りました。どのくらいの権限かというと、奥様が急にドラムを叩くほど、今日、奥様を見ながら「あぁ、本当に権限を受け取ったんだな。」そのように思いました。
 そして神様は使徒の働き一章八節を、私と新城教会に再びくださいます。それを使徒二十九章八節としてくださいます。この使徒の働き一章八節は新城教会によってまた書き直されます。「すでに聖霊があなた方の上に臨まれたから、あなた方が力を受けたから、新城、全日本、韓国と(日本のサマリヤは韓国だと思います)地の果てにまで、エルサレムにまで、私の証人となります。」これが神様があなた方に与えてくださった使徒の働き二十九章八節です。

 今立ち上がってください。光を輝かせてください。聖霊様がこの教会に臨まれたのです。聖霊様は私たちがうまく生活していくために臨まれたのではありません。聖霊様が臨まれるのはただ一つ。イエス様の証人となること。イエス様の証人となるために新城教会を立ち上がらせてくださったのです。聖霊を受け取ったみなさん、今立ち上がって、イエス様の証人となってください。それが神様の御心です。それがリバイバルの旗を掲げて、新城に最後に来させてくださった意味です。今リバイバルの旗をみなさんにお渡しします。私が日本中を回りながら持ったその旗を、その八紘イエスの旗を、みなさんにお渡しします。リバイバルはもうここで始まり、私たちは地の果てに行くだけです。神様はそのことをこの新城から起こされることを、神様によって祝福します。みなさん、ご一緒にお祈りしましょう。


 すばらしい新城教会に対するメッセージを李先生を通して語ってくださいました。本当に感謝します。カムサハムニダ。本当に主が突然先生を送ってくださって、このように教会に励ましの言葉を与えてくださったことを本当に感謝しています。「私たちはもう権限を受け取っている。リバイバルは始まっている」という言葉をいただきましたが、この火を世界中に広げていかなければなりません。

 イザヤ書六十五章を今日読んだのですが、私は先生と打ち合わせをしたわけではありません。今日、私はこのみ言葉から語ろうと思って準備したのですが、 先生にも語ってくださっていたみたいです。この箇所を見ますと、十七節に、

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。』

と約束されています。みなさん、神様の創造というのは、新しい天と新しい地の創造だというのです。
今日、週報に悲しいニュースがありました。一緒に礼拝を守っていた坂柳千代乃姉妹が突然亡くなられたからです。ご老人の方は寒い時、ちょっと注意した方がいいかもしれません。お風呂に入ろうとして心臓が止まってしまったそうです。本当に瞬間的なことだそうです。なにせ千代野さんは九十歳でした。九十才にもなれば次に何が起こってもやむを得ない所もあるかもしれませんが、温度差にはくれぐれも注意しなければなりません。
 でも、やがて天国で再会できるという希望があります。私たちは必ずまた会うことができるのです。先週もおばあちゃんはこの教会に来ていました。昨日は「明日は礼拝だから、先にお風呂に入っておこう」ということでお風呂に入って、瞬間的に天国に帰ってしまったみたいです。
私たちは、新しい天、天国があるということは大きな希望です。
 クリスチャンは一つの家族みたいですよね。しかし、やがて年を取ると、順番にこの地上から出ていかなければいけないわけです。でも、やがて天で会うことができる。これは本当に大きな希望ですよね。

 しかし、聖書の真理というのは、新しい天だけでなく、「新しい地」を創造するというのです。みなさん、イエス・キリストを信じると、新しい天だけでなく、なんと、新しい地が創造されるというのです。私たちが住んでいるただ中に、新しい地が創造される、これが聖書の真理です。

 実はこのイザヤ書の六十五章というのは、私は一九九九年にこの教会の主任牧師にならせていただいたのですが、そんな重責を預かって、「主よ。これからどうしたらいいですか」と祈っている時に、このイザヤ書六十五章を与えてくださいました。「あなたはこの御言葉を掲げ、祈りなさい。新城教会が、新しい天と同時に、新しい地となるように祈りなさい」と語ってくださったのです。
 イザヤ書六十五章は、私たちの教会の、ある意味での目標です。主はやがて、このようにしてくださるのです。
 なんと約束されているのかというと、二十節。

『そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。』

私は「千代乃おばあちゃんってすごいな」と思います。九十まで私は生きる自信はありません。みなさんは何歳まで生きるつもりですか?私は八十を越えたらもうオッケーだと思っているんですが、九十まで生きるには、相当節制をし、同時に丈夫でないと生きることはできません。
 うちの母も二月で九十才です。よく生きてきたと思います。私は二年前に母は天国に帰ると覚悟していましたが、ここまで生きてきました。九十まで生きるなんて大変なことだと思います。しかし、なんと新しい地の創造は、『百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。』なんて書かれています。

 新しい地において主は、この約束を成し遂げてくださるというのです。私たちは希望を持とうじゃありませんか。新しい天だけを求めるのではなく、「新しい地」を求める祈りをしなければなりません。私はこの六十五章を読んで、たいへん励まされました。六十五章二十三節、

『彼らはむだに労することもなく』

とあります。私もやっている仕事が無駄足、無駄骨じゃないかと時々心配になることがあります。しかしみなさん、私たちは「むだに労することはない」というのです。『彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいる』というのです。なんと、私たちは主に祝福された者のすえだというのです。そして、この二十四節、すばらしい言葉です。みなさんで読んでみたいと思います。

『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』

 みなさん、こんな祈りの領域があるのです。私たちがまだ祈ってもいないうちに神様が答えてくださる。『呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』というのです。これが、新しい天でなく、新しい地が創造される時に起こると教えています。
 みなさん、この事がいつから実現したかというと、イエス様がこの地上にお生まれになってから実現したのです。神の国とは、やがて私たちが天国に行く場所ではなく、この地上に下りて来るというのが、神の国の奥義です。
 私たちがリバイバルを求め、新しい天だけでなく、新しい地に目を向けて祈る時に、その事が為されるというのがこのイザヤ書六十五章の約束です。

 先週は豊根村でコンサートがありました。私は感動しました。このイザヤ書六十五章は、どういう所から始まっているかというと、一節にこうなっています。

『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。』

 なんと、神様が訪れてくださる場所とは、『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。』と言うのです。まさにこれは日本のことではないかと思いました。
 また、豊根村のコンサートを見て、まさにその事ではないかと思いました。豊根村は限界集落と言いまして、千三百人しか住んでいません。広さは新城の何倍も広いです。そこに千三百人が住んでいます。しかし、三百人のホールに、ほとんどいっぱいの人たちが集まりました。ちょっと写真をみなさんにお見せしたいと思います。

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 どうですか?こんなに集まりました。

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 これは新城で行われるコンサートと同じではないでしょうか。これは豊根村にとっては非日常の世界でした。これは村の歴史始まって以来、初めてのゴスペルコンサートであったと思います。神様が誰も今まで福音を伝えることがなかった場所に御業を現してくださいました。
 今夜も新城教会でゴスペルコンサートがありますから、普通じゃ福音を聞けない人たちに福音を伝えなければなりません。この豊根村のコンサートは数人の人たちが会衆を集めました。新城教会に来られている熊滝さんの家族が特にがんばりました。熊滝さんの奥さんに「何枚チケットを売ったんですか?」と聞きました。
みなさんは今回のチケット、どのくらい売ったのでしょうか?あまり言いたくないかもしれません。なんと彼女は、一人で百三十枚売ったそうです。百三十枚ですよ。私が火曜日に聞いた時点で「百三十人は確約が取れている」と言っていました。本当にすごいなと思いました。
 「わたしに問わなかった者たちに、尋ねられる」というのです。そこで神様はご自分を現してくださるのです。このイザヤ書六十五章は普通では主を求めないような、主を尋ねないような、探さなかった者たちに主は現れてくださるというテーマが隠されているのです。

 そしてその者たちが祝福された者たちの子孫となって、今読んだイザヤ書六十五章の御言葉が実現していくわけです。六十五章二十五節はすばらしい御言葉です。

『「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』

 これは何を意味しているのでしょうか?これは、霊的戦いの完全勝利の状態を現していると思います。今までは獅子は人を見たらすぐに食らいつきました。蛇は人に攻撃しました。しかし、狼と子羊が共に草を食べ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇はちりをその食べ物とするとあります。敵はいなくなるということを表しています。
 「新しい地」が私たちのただ中に創造される時に、それが実現するのです。「新城にすでに、リバイバルが起こっていますよ」と力強く先生が語ってくださいましたが、リバイバルとは、やがて天国に行く人たちを備えるのも大きな目的ですが、そこでは終わらないのです。それは、「新しい地の創造」です。第二ペテロ三章十三節で、

『しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。』

とペテロは言いました。また黙示録二十一章一節には、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。』

と記されています。 「新しい天と同時に、新しい地を求めなさい」と告げています。日本のリバイバルとは、新しい地が日本に創造されることです。そこには私たちに害を与えるものは何一つないのです。百歳で死ぬ人には「若いうちに死んだね」と言われるというのです。
 「新城教会に老人の方々が多い。それは、祝福された教会だ。子どもたちが多い。それも祝福された教会だ。」と。みなさん、感謝しようじゃありませんか。
しかし、まだまだです。新しい地が創造されたら、こんなものではありません。
「百歳で亡くなったの?若死にだね。」と言われるような世界がこの地上に現されるというのです。
 そのためには、先に救われた者たちが新しい天だけでなく、新しい地を求めるのです。

 この頃私は二つ、すばらしい証しを聞きました。先日、私はある所に家庭集会に行きました。新城教会に属する方です。その方は七年前に教会に来られましたが、どういう状況で来られたのかというと、前立腺癌で第四期でした。「手術もできません。治療もできません」と言われました。それを私は七年前に聞いて、心が痛かったです。「 いろんな病院に行って意見を聞いた方がいいよ」と病院を紹介したのですが、どの病院でも「もう手の施しようがありません」と言われたそうです。
 しかし先日、家庭集会をしたのですが、彼は生きていてそこにいました。「ガンはどうなりましたか?」と聞くと、消えて無くなったというのです。今でも生きているわけです。先日は体全体をチェックしたら「どこも悪い所はありません。年を取っただけだ」と言われたというのです。良かったなと思いました。新しい地が創造されないと、そういうことは起こらないのではないでしょうか。

 もう一つ先週聞いたのですが、七月によく知っている方が私の所に来てこう言いました。「私のために祈ってください」と、ご主人と共に来ました。「乳がんが発見されました」と。乳がんが七センチまで大きくなっていて、表面に出ていて、皮膚の色まで変わっているというのです。名古屋の癌センターに行ったら、「皮膚まで出ていたら助かりません。」と言われて、「大きいですからどうしようもないです。でも抗がん剤をやってみましょう。」と言われたそうです。
抗がん剤が始まる前日に教会に来られました。 私はその方のために真剣に祈りました。
 そして、治療が始まりました。病院も真剣にやってくれました。先週、ご主人に「どうなりましたか?」と聞きましたら、なんと抗がん剤の甲斐もあったのですが、七センチの癌が小さくなって、私はよく分かりませんが石灰化したというのです。そして癌細胞がすべて死んだというのです。
 それで、近いうちに石灰化した部分を取る手術をするそうですが、医者が「こんなの見たことがないから、この細胞をプレゼントしてくれないか?」と言ったそうです。わたしは、「売ってあげればいいんじゃない?」と冗談を言ったのですが、そんな物ならいくらでもプレゼントしたらいいですよね。「今後の医学の発展のために使いたい」と言われたそうです。「やった!」という感じです。

 教会で祈った時、主がその事を成し遂げてくださいました。これは、新しい天だけでなく、新しい地が創造されつつあるからです。みなさん、それがリバイバルです。
新しい地を信じて、イザヤ書六十五章が実現し、まさに新城教会に「このイザヤ書六十五章が実現している!」と言われるまで、前進しましょう。

 今晩もすばらしいコンサートになると信じています。まだ尋ねられていない、問わなかった者たちに、福音を伝えなければなりません。その時に六十五章が実現すると信じます。最後に一言お祈りして聖餐式に入っていきたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。感謝をいたします。今日は李先生を送ってくださって、新城教会にすでにリバイバルが起こっていることを語ってくださいました。感謝します。そしてイザヤ書六十五章が私たちのうちに与えられていることを心から感謝します。私たちは祝福された者たちであることを心から感謝します。主よ、新城教会の中に、イザヤ書六十五章が実現しますように。新しい天だけでなくて、新しい地を私たちのただ中に創造してください。あなたがその事を為そうとして、準備されていますことを心から感謝いたします。
 今夜も、今まであなたを尋ねたことのない、問わなかった方々が、教会に来て祝福を受けますように。イエス様、あなたの誕生と共にこのようなすばらしい事が起こり始めました。どんどん拡大していることを心から感謝します。聖餐式を祝福してください。十字架の血潮によって私たちの罪を赦し、聖めてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。