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『インマヌエル。主は共におられます!

2012.12.16 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書 1章23節

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』



 ハレルヤ!ヘブンリー・キングダムの賛美、本当にすごかったですね。私もがんばって、彼らのようにテンション高く話さなければいけないです。賛美の途中で小道具も出ました。百円ショップかどこかで買ったものかな、と思いましたが、イエスさまの誕生は世界中で、様々な形で祝われています。こんな人物は世界で、他には誰一人いないです。イエスさま以外にはありません。
 みなさんの誕生日は、どのくらいの人たちが祝ってくれますか?イエスさまほど、全世界で祝われる誕生会はありません。それは救い主であるからです。

 みなさんにお祈りしていただきまして、先週の日曜の夜にありましたロン・ブラウン・ゴスペル・ジャズ・コンサートも本当に祝福されました。
 また昨日は、子どもクリスマス会がありました。毎年、恒例となっておりますが、子どもたちが祈り備え、準備しました。
 クリスマスは、キリストのからだの各器官が総動員で、宣教にあたっています。本当に麗しい姿です。二つの集まりの写真をお見せしたいと思います。

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 先週の日曜日の夜に行われた、ゴスペルコンサートです。ちょっと動員が心配でしたが、会堂いっぱい来てくださり、祝福されました。素晴らしい演奏でした。

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 また昨日の午後に行われた、子どもクリスマス会には四百名以上の子どもたちが集まりました。ちっちゃな子どもたちと分けて集りがありました。子どもたちが主を賛美している姿に、私はたいへん感動しました。
 子どもクリスマス会も恒例ですから、子どもたちはすでに賛美をよく知っています。一番よく知っている賛美は「イエスさまを信じれば」という歌です。
 この曲は、メロディーをつけないで歌詞だけを読んだら、ちょっとドキッとするような歌詞です。
 「イエスさまを信じれば天国に行ける。イエスさまを信じないと地獄に行っちゃうよ」という歌詞です。それを子どもたち四百人が大合唱するのです。「イエスさまを信じれば天国に行ける♪イエスさまを信じないと地獄に行っちゃうよ♪」と、大きな声で歌います。クリスマス会が終わっても、学校でも、みんな歌うから、時々問題になるようですけれど、それは真実だからしょうがありません。
 幼い時にイエスさまの名を告白するなら、永遠が変わると私は信じます。「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」とありますから、一度でも「イエスさま!」と人生の中で呼び求めたことがある人たちには、主が終わりの日に、助けを与えてくださると信じます。ですから、人々が御名を叫ぶように、働かなければいけません。そればかりか、イエス・キリストを信じて、人生が変えられることが重要です。

 今日みなさんとお読みした聖書の箇所は、大変有名な箇所です。マタイ一章二十八節、

『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』

 イエスさまは人手によらずにお生まれになりました。父・母を介さないで、処女がみごもったというのです。「そんなの信じられない。IPS細胞が実用化されれば知らないけれど・・・」と言うかもしれません。
 しかしみなさん、イエスさまが父・母がいて、通常の婚姻関係によって生まれたならば、救い主として信じない方がいいです。なぜなら、人間はみな、罪の性質を親から遺伝しているからです。いくら聖人君子の顔をしていても、人の間から生まれたならば、必ず裏があるからです。罪の性質があるのです。
 うちにも孫が四人おりますが、まもなく一歳になろうとしている孫も、だいぶ自我が芽生えてきました。この頃は姉ちゃんと兄弟喧嘩をします。何かを取られそうになると、誰も教えなくても喧嘩するし、自己中心に生きています。一歳の時からこんなだったら、将来どうなるだろうかと心配になります。しかし人間はみんな同じです。イエスさまは人手によらずに産まれたお方です。ですから私は、イエスさまを信じることができます。
 「インマヌエルと呼ばれる」とありますが、インマヌエルというのは「訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。」とあります。

 さて、イエスさまがこの地上にお生まれになった目的は、何であるのかというと、ここにあります。それは、「神が共に住んでくださる」という預言を実現するために、地上に来てくださったのです。
 聖書は、旧約聖書から新約聖書まで、六十六冊の本が一冊になった書物です。私は聖書を読むだけで、「本当に神様がおられる!」と感動します。
 神が集めた書物だと、聖書自から証言していますが、もしも誰かが聖書と今呼ばれている書物をでっち上げたとしたら、その人はすごいと思います。時代背景も何もかも違った場所で書かれた書物を六十六冊集めて、しかも一貫性があるというのは、なかなかできることではありません。時代背景、筆者、言語、文化も違った場所で記された本を六十六冊集めて、一貫性を与えることは容易ではありません。

 聖書を初めから終わりまで、詳しく調べたら、神がおられることがよく分かります。初め、人間は神によって創造されました。アダムとエバが最初の人間です。彼らは、どんな状態として造られたのかというと、神と自由に交わりができる存在として、創られたのです。
 人間は元々、神と自由に会話ができる存在として造られ、エデンの園という場所で神とお会いしていたのです。神が人と共に住んでいたのです。その時、エデンの園は人間にとって楽園でした。すばらしい世界がそこにあったのです。
 しかし、エデンの園は楽園のように見えましたけれど、完璧ではありませんでした。そこに蛇がやって来たのです。その蛇はただの蛇ではなく、「悪魔」でした。悪魔が人間と神との間に割って入って来たのです。
 以来、人類に不幸が入りました。その不幸の根源は何かというと、神と自由に交わりができていたのが、「出来なくなった」ということです。
 今までは呼べばすぐに答えてくださる、そんな関係だったのに、その関係が失われたのです。天も地も宇宙も創られた神と、呼べば答えてくださるような関係だったら、怖いものなしです。「神様。今こんな問題があるんですが・・・」と告げたら、すぐに解決してくれるはずです。
 しかし人類の不幸は、悪魔が入って自由な交わりが断たれたことでした。

 私は韓国に時々行くのですが、朝鮮半島では太平洋戦争が終わった後、また戦争が起こりました。何が起こったのかといったら、金日成率いる共産軍が北方から攻め込んできたのです。それで、今の北朝鮮付近に住んでいた人たちは共産軍に追われ、南に逃げました。しかし戦争が終わったら、故郷に帰れると思っていたのですが、その後、三十八度線という分断線が引かれ、南・北が分断してしまいました。
 私は去年、イムジンガクという北朝鮮が見える場所に行きました。見るとすぐ向こう側に北朝鮮が見えるのです。北側の家や施設が見えるのです。しかし線が引かれているものだから、向こうに親、兄弟、親族や友人たちが住んで居ても、交わりができないのです。本当に不幸な出来事です。日本はそのことにも関わりましたから、祈らなければなりません。
 しかし人類の最大の不幸は、神との分断です。神と自由に交わりができていたのが、手が届かなくなってしまったのです。

 けれども、聖書は人類の救いのための、壮大なドラマです。神は愛する人類をそのまま、放っておかれなかったのです。なぜならば、人類は自分の意思によって罪に手を出したのですが、悪魔が介入していましたから、悪魔の手から人類を取り戻すための壮大なドラマがスタートするのです。それが旧約聖書から新約聖書に向かっての歴史です。
 今まで神から分断されていた人類が、ある時から、アブラハムという人物から回復が始まっていきます。どういう形で神の声が人に届くようになったのかについて、ヘブル人への手紙一章一節にこのように記されています。
 ヘブル人への手紙一章一節〜二節、

『神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。』

 ここで述べられているように、最初は「預言者」という、特殊な存在を通して、神の声が人々に届くようになりました。神の声が聞こえなくなった人類に、預言者を通して声が届くようになったのです。
 しかし旧約時代、神の声を聞く事が出来たのは、神から特別に選ばれた特殊な人物だけでした。「預言者」が神の言葉をあずかって、人々に伝えました。人々はそれを聞いて「ふむふむ、神様はそんなことを言っているのか・・・」という感じでした。預言者を通してのみ、神の意思が知らされたのです。
 民衆は神様と直接会ったことはなく、預言者経由でしたから、意思の伝達はまだまだ不完全でした。イスラエルの人たちを見ればわかりますが、神の声を聞いていても、しばらくすると道を逸れちゃったりしたわけです。大きな奇跡を見ても、神様との直接的な交わりがない為に、やがて逸れていくわけです。

 しかし、クリスマスは何かというと、今までは電話で声を聞いていたような、それも、人伝で聞いていた声の主が姿を現したのです。
 みなさんも時々、電話では声を聞いていても、姿を見たことがない人がいますよね。
 私の家に毎日「お祈りしてください」と、電話される方がおられます。家内の所にほとんど毎日がかかってきます。家内は毎日、その方のために真剣にお祈りしています。毎日のように電話をいただくようになって、かれこれ十年くらい経ちました。しかし、まだ一度も、その方のお顔を拝見したことはありません。声は聞こえるけれど、祈りのリクエストはあるけれど、どんなお顔をしているのか、わからないのです。家内と、「どんな方だろうね・・・」と話していますが、わかりません。
 ひょっとしたらそれは、神様からの電話かもしれません。ですから「毎日かかってきてうるさいな・・・」なんて、言ってはいけないのです。靴屋のマルチンのように、その人を通して、イエスさまが電話をかけているのかもしれないので、朝早くかかってきても、夜遅くかかってきても、ちゃんと対応するように努力しています。でも相手の姿を見たことがない、ミステリーです。
 しかしその人が目の前に現れたら、どんな人なのかもっとよく分かります。電話だとはっきり分からないけれど、顔が分かったら、もっと信頼できるのではないでしょうか。

 旧約聖書の時代、神様の声は預言者を通してのみ聞こえていたのですが、なんと、その言葉の主が、人となって地上に現れてくださったのです。
 神様って、どのくらい大きな方なのか、私たち人類にとっては、想像もつかないです。なにせ、天も地も宇宙も造った方ですから。
 この頃、星空が美しいですね。夜になったら、たまには「見上げてごらん空の星~」です。でも、星を拝んじゃだめですよ。星を創られた主を、礼拝しなければなりません。この近所は星空がすごいです。
 東京に住んでいる孫が、この間新城に来て、感動していました。「ママ。空に月以外に、光る物がいっぱい見える!」と感動していました。東京は寂しいですね。月以外に光っているのは、ビルの明かりだけです。しかし、この辺じゃどうでしょうか。満天の星空じゃないですか。あれらを全て創られた方がおられるのです。
 神様に体があるとしたら、相当でかいです。子どもたちが時々、泥んこ遊びで、「これは太陽。これは月。これは星」とか言って作っていますが、自分の体よりも小さい物を作っています。神が全てを造ったとしたら、体があったら、超でかいはずです。そんな存在、見える方がおかしいのです。

 同時に神は微生物も造られました。この頃では、遺伝子に情報を書き込んだことがわかっています。超でかいし、超小さいし、すごい方です。人間の目で直接神を見たら、ぶっ倒れて死んでしまうかもしれません。
 でも、そんなすごい神様が、人間となってこの地上に現れてくださったのです。その記念日がクリスマスです。人間となって現れてくだされば、コミュニケーション可能です。
 私もいろんな国に行く特権に預かっていますが、どこの国に行っても仕事ができるのは、通訳さえいたらコミュニケーションができるからです。でも、人間風な存在は駄目です。チンパンジーとか、ゴリラとか、いくら人間に似ていても人間ではありませんから、コミュニケーションできないのです。でも人間なら、コミュニケーションができます。

 神が人間となってこの地上に来てくださった日、それがクリスマスです。それは何を表しているのでしょうか。
 昔、神と人は共に過ごしていた時代があった。しかし罪によって分断してしまった。その後、声だけは聞こえるようになった。けれども、神が人となって人の間に住まわれた。それはイコール、「もう一度、神が人と共に住むようになる」ことを現しています。
 イエスさまがこの地上に生まれてくださったのは、大きな意味があるのです。それは私たちと共に、神が住んでくださるということです。「神とのコミュニケーションが回復しますよ」ということです。

 では、この知らせは、最初誰に届けられたのかということです。神様との交わりの回復を受け持ったのは一つの民族、ヘブル民族、今のユダヤ人です。
 ユダヤ人は神に選ばれた民であって、神はそこに情報を開示されたのです。他の人たちは異邦人と呼ばれ、神の声を聞けるような存在ではなかったわけです。
 みなさん私たちは何人ですか?日本人です。ユダヤ人から見たら、異邦人です。神の声なんか、普通じゃ、絶対に聞く事ができない存在です。

 しかし、救い主が生まれたという第一報は、誰に対して与えられたのかというと、ルカの福音書二章に記されています。ルカの福音書二章八節〜十一節、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 第一報が告げられたのは、「羊飼いたち」だったのです。羊飼いとはどういう人たちだったのか・・・。
 イスラエルの民は、三千年もの間、救い主メシヤの到来を待ち望んできました。彼らは、旧約聖書を綿密に調べ、救い主の到来を待ち望んでいた民でした。しかし救い主誕生の第一報が告げられたのは、王でもなく、祭司たちでもなく、民衆でもなく、「わずか数名の羊飼いたち」に告げられたのです。
 羊飼いがどういう存在だったのかといいますと、彼らはユダヤ人ではありませんでした。異邦人と呼ばれる人たちでした。
 ユダヤ人は安息日を厳格に守っていました。今でもイスラエルに行きますと、ユダヤ人は安息日を厳格に守っています。
 彼らの安息日は土曜日ですが、土曜日は一切仕事をしません。エレベーターのスイッチを押すのも、労働だと言いますから、ホテルなんか行くとエレベーターは自動運転で各階止まりです。高層ビルだったら、大変なことになります。料理することも絶対にしません。

 でも、どうでしょうか?羊は安息日は関係ありません。もしも羊飼いが仕事をしなかったらどうでしょう?羊はどっかへ行ってしまいます。行方不明になってしまいます。ならば、羊飼いはユダヤ人ができる仕事ではないのです。
 イエスさまが生まれた当時、安息日規定も細分化され、羊を飼う仕事はユダヤ人が出来る仕事ではありませんでした。それは、子どもたち、奴隷、異邦人が行っていた仕事でした。

 三千年間も、ユダヤ人たちは救い主の到来を待ち望んでいたのですが、第一報は、王様とか、祭司とか、宗教家ではなく、なんと当時、もっとも身分の低い人たちに、「あなた方のために、救い主がお生まれになりましたよ。この方こそ主イエス・キリストです!」と、第一報が入ったのです。

 神は、私たちが思い描く領域を越えた所で働かれます。ヘブル民族を通して、神との出会いを旧約聖書は描いているのですが、最後に大逆転があり、今まで神を求めなかった異邦人に福音は向かっていきました。そこに聖書の壮大なドラマがあるわけです。

 先週、イザヤ書六十五章から、お話しをさせていただきました。イザヤ書六十五章一節。

『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。』

 すでにイザヤによってそれは預言されていたのですが、神が目を向けられた存在は、「自分たちは神に近い存在だ」と自負していたユダヤ人たちではなく、なんと、一度も主の御名を呼んだことのない異邦人に、救いの第一報が伝えられたのです。
 ここから何が言えるのかというと、神の愛は限定されたものではなく、イエスさまの誕生は、人類すべてに対しての良き訪れであったということです。

 そもそも、この事がなかったら、日本に住む私たちに福音が伝わることは、決してなかったはずです。イエス・キリストの誕生は、私たちのような、一度も真の神を尋ね求めたことのなかった異邦人に対して告げられたのです。これは驚くべき事です。
 「教会に来るきっかけ」というのを考えたならば、最初から聖書を勉強し、「あっ!聖書の中に、天地宇宙を造られた神がおられる」と気づいて来られた方は、いないのではないかと思います。
 ほとんどの場合、「誰でもいいから、助けてくれる神様はいないか」という感じで教会に来て、イエスさまと出会った方がほとんどかもしれません。日本において、キリスト教に興味がある人はごくわずかかもしれません。
 しかし興味が無くても、神を見つけようとしなくても、神様の方から、私たちの所に来てくださり、救いを与えてくださるのです。

 先週もイザヤ書六十五章十七節〜二十五節を紹介させていただきました。イエスさまがこの地上に来てくださった目的は何であるのかというと、新しい天を創造すると共に、「新しい地を創造するため」に来てくださったとお話ししました。
 やがてこの苦しい地を去って、天国に行くことができる。そこで別れた愛する人たちとも再会できる、という希望だけで生きているクリスチャンも多くおられますが、そうではないのです。
 神は私たちのために、天に場所を備えるだけではなく、この地を新しく創造しようとされているのです。その事が、イザヤ書六十五章十七節〜二十五節に書かれていました。それはイエスさまがこの地上に生まれた時から始まったのです。

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』

 イザヤは預言の言葉を語りました。「やがて救い主が来て、このような事が起こりますよ」と告げたのです。新しい天だけでなくて、「新しい地」が創造されますと。
 『百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。』『彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。』と言うのです。
 『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』・・・そんな時が来ると預言しました。
 これはイエスさまがこの地に再臨し、神が完全にこの地を支配する「千年王国」に起こると理解されています。しかし、聖書をよく読むと、その真理は、イエスさまの誕生と同時に始まったのです。

 先日、「リバイバル・ジャパン」という雑誌を読んでいましたら、この頃一人の英国の聖書学者、N・Tライトという博士が大変注目を浴びているとありました。彼がこんなことを語っていました。

 「キリスト教界が伝統的に描いて来た天国観は、私たちの終着点ではなく、イエスを信じる者は死後、いつか肉体が復活する時が来て、新しく再生され地上に戻って来る。
 イエスが神の国を開始したメシアであり、永遠のいのちとは、死んだら永遠に天国で生きて行くという意味よりも、その新しい時代、新しい世界を共に預かって新しく生きていくことである。つまり今、神の国は始まっており、キリスト者は永遠のいのちを生きている」

 「やがて」そういう時代が来るというよりも、イエスさまの誕生と共に、神の国は始まっているのです。新しい天と新しい地の創造が始まっているのです。私たちクリスチャンは、地上に新しい地が現されるように、すでに永遠のいのちに生きているわけですから、それを目標にしなければならないのです。

 先週も語ったのですが、一九九九年十二月に、私はこの教会の主任牧師にならせていただきました。一般的に親が始めた働きを受け継いでも、二代目で壊れると言われますから、新城教会においても、みんなそういう風に噂しておりました。「明先生の時は良かったけど、順という男が牧師になったら、きっと壊れるだろうね。まぁ、彼には無理だろうね・・」と言っていました。
 しかし、聖書にも奇想天外な展開があるのと同じように、私も聖霊を受けて変えられたのです。昔、この教会で礼拝を共にしていた田中たづ子さんが、私によく言いました。「新城教会にいろんな事が起きたけれど、最大の奇跡は順ちゃんが変わったことだね」と言われました。嬉しいような、悲しいようなことでありましたが、本当に私は聖霊様に触れられて変わりました。

 でも、主任牧師になったとき、「主よ。これからどうしたらいいでしょうか。私に御言葉を与えてください」と祈ったら、イザヤ書六十五章の十七節から二十五節の御言葉が与えられたのです。
 「この御言葉を目標にして、働き、祈っていきなさい」と。「あなた方の祈りを通して、わたしは新しい天だけでなく、新しい地を教会に創造しますよ」と語ってくださったことを思い出します。
 新しい地の創造はすでに始まっています。それは私たちクリスチャンの手に委ねられています。それが神の国を広げる働きです。私たちがこの地において、暗闇の力に立ち向かっていくならば、地は回復され、新しい地が創造されるのです。
 リバイバルとは、ただ天国に行く人たちを多く製造するものではありません。地の回復にもつながっていくのです。

 今、世界各地でリバイバルが起こっているのですが、リバイバルの中で「トランスフォーメーション」と呼ばれるような、街が、地域が、聖霊によって変えられる現象が起こっています。それを見ると、人々の救いだけでなく、なんと、自然界も回復しているのです。
 何年か前に「フィジー」という南の島で、リバイバルが起こりました。そこでリバイバルを体験した方が新城でも話をしてくれましたが、珊瑚礁が壊れていて魚も住んでいないような場所が、聖霊が訪れた時、一晩の内に珊瑚礁が回復して魚が集まったとか、今までは苦い水、毒の水しか流れていなかった川の水の源が清められ、飲むことのできる、きれいな水が流れるようになったとか、自然界さえも回復したと言いました。
 これは主がこの地に来てくださり、共に住んでくだっている証拠であり、その現象が力強く現されると、被造物全体に対して回復が始まるのです。そのために、イエスさまはこの地上に来てくださったのです。それを知り、それを祈り求めていかなければならないのです。

 クリスマスの時、赤子のイエスさまだけに注目していてはいけません。私はいつもクリスマスに思うのですが、赤子のイエスさまや、イエスさまがお生まれになった場所ばかりにスポットが当てられるということです。生まれたばかりのイエスさまは、踏んだら死んでしまう存在でした。イエスさまが仕事をし始めたのは、三十歳からでした。
 みなさんどうでしょうか。誕生会に毎回、あなたの生まれた日の真っ裸の写真を持って来て、「あんたが産まれた時は、こういう姿だったんだよ」とか言って、赤ん坊の写真を見る会ならば、嫌ですよね。誕生会は「今の姿を見てくれ!」という会です。

 先週は近くに住んでいる孫二人が十二月に誕生日なので、まとめて誕生会がありました。日頃、孫たちを誕生会に呼んでくださっている家の子どもたちとか、お母さんとかを孫たちの両親は、勝手に我が家に呼びました。「じいじがバーベキューをやってくれます。ぜひ、来てください。」とかいうメールを出しまして、我が家に何人来られたと思いますか?
 我が家になんと、四十人が来られました。本当にすごかったです。でもたいへん嬉しかったです。孫たちが大きくなって、一歳と三歳になりました。よく成長したと感謝しました。生まれたばっかりの写真は出しませんでした。「今の姿を見てちょうだい」という誕生会でした。

 イエスさまの誕生会も同じです。赤子のイエスさまとか、十字架に架かって苦しんでいるイエスさまでは駄目なのです。カトリックはいつも、十字架につり下がって苦しんでいるイエスさまや、赤子のイエスさまばかりを出していますけれど、そこには救いはないのです。
 よみがえりのイエスさまが、私たちの主であり、救い主です。その方が、私たちと共に住んでくださるのです。なんとすばらしい事ではないでしょうか。もう赤子のイエスさまではないのです。よみがえって、天においても地においても、一切の権威をお持ちのイエスさまが、私たちと共に住み、私たちと共に働いてくださるのです。

 詩篇二十三篇は大変有名な箇所です。これは主が人生のすべての領域で、共に歩んでくださることを教えています。みなさんで読んでみましょう。大変有名な箇所で、この箇所を暗唱するといいですね。詩篇二十三篇、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 イエスさまの誕生が羊飼いたちに最初に伝えられたのは、「イエスさまが人類の羊飼いとなる」ということを現しています。イエスさまと共に歩むなら、新しい地を共に生きることができ、「私は、乏しいことがありません」と言えるのです。

 『主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』とあります。羊という動物は臆病な動物で、不安なことがあると寝そべらないそうです。立ってふるえているそうです。でも平安だと寝転ぶそうです。私たちも不安だと安らかに寝ることができません。
 みなさんの中にも「昨晩はよく寝られなかった・・・」という方がおられるかもしれません。でも、今日は主が私たちと共におられるのです。「インマヌエル」とは「主が私たちと共におられる」ということですから、信じてください。そうしたら、眠ることができ、『いこいの水のほとりに伴われる』のです。
 また、『私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。』とあります。

 日本の将来のことを考えると、大きな不安があります。今日は震災後初めての衆議院選挙の日です。これから日本はどうなってしまうのかと、政党も十二くらいあって何がなんだかよくわかりません。誰に任せても「大丈夫かな・・・」という不安があります。
 私たちは日本のために祈らなければいけません。現実を直視したら、緑の牧場に寝ころんでいる暇なんかないのです。不安がいっぱいです。
 先日もある政党が出した憲法改正の草案を読んだら、ちょっと怖くなりました。「この国の元首を天皇とする」とあり、昔、クリスチャンが迫害された時代と同じような状況になる可能性を秘めていました。

 クリスチャンがよく祈らないと「歴史は繰り返す」と言われますから、危ないです。今から七十年前、教会は国家の管制下に置かれていました。礼拝はやってもいい。けれども、礼拝の前に君が代を歌わされ、宮城遥拝、十字架の上に神棚を置いて、神棚を拝んでから礼拝を始めさせられたのです。教会には常に警察が来ていて、それをやるかどうか見張っていました。もしもしなければ、捕まえられたのです。
 だから、戦前・戦中のクリスチャンは、教会に行くのが本当に辛かったそうです。朝教会に行くと、牧師が最初にやることは、君が代を歌って、宮城遥拝をして、神棚を拝んで、「今日の礼拝を始めさせていただきます」と挨拶をしました。
 だから、みんな最初の部分には、来なかったというのです。礼拝に遅れて来たというのです。だからその習慣が今まで残っていると言われるのですが、今日、礼拝に遅れて来た方は、その習慣によって遅れたのかは知りませんけれど。そんな時代があったのです。たった七十年前です。ここに「今、私は七十歳以上です」という方はどのくらいおられますか?この方々が生きておられた時代に、迫害の時代があったのです。今後、どうなるのか本当にわかりません。

 今、日本が元来た道に戻っていると、アジアの諸国は大変心配しています。私たちは祈らなければいけません。しかし、主を羊飼いとして、主に従っていく信仰をしっかり持つならば、「主が義の道に私たちを導いてくださる」と約束されています。

 私たちは少数派だと決して思ってはいけません。今日も、ヘブンリー・キングダムの賛美はすばらしかったですね。「天には平和!」と力強く賛美されました。天には平和とは、何を意味するのでしょうか。それは「目に見えない世界での戦いに勝利しました!」という意味です。見えない世界で勝利すると、確実に「地には平和が訪れる」のです。
 天で勝利し、天で平和が勝ち取られなければ、地に平和はないのです。そして天に平和をもたらすことができるのは、イエス・キリストの御名と、主を信じたクリスチャンたちの戦いによって勝利が現されるのです。その結果、新しい天と新しい地が創造されるわけです。
 私たちは主を牧者として、共に住み、歩んで下さる主を信頼し、歩んで行きたいです。

 『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。』と、あります。死の陰の谷を歩くことがあるかもしれませんが、そんな中でも、主は私たちを守ると力強く約束されています。
 日本の将来、どんな谷間へと進んで行くのかわかりません。自然災害が起こるかもしれません。しかしたとえ何が起こったとしても、主が共におられるならば、心配は無用です。今週も、神の完璧な守りをいただいて、歩んでいきたい願っています。

 先週、ある方が風邪を引いたと思って「胸が痛い」と病院に行ったら、心筋梗塞でした。すぐに専門の病院に転院され守られました。ちょっと遅れたら危なかったです。神様が「病院に行きなさい!」とタイミングを守ってくれました。
 主はどんな時でも、私たちを守ってくださるお方です。二十三章五節〜六節は、私の大好きな御言葉です。みなさんと一緒に読んでみたいと思います。

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 時々、悪い知らせを聞くと食欲がなくなりますよね。何年か前、私と家内は韓国に行っていました。家に帰るために空港に向かっていましたら、家内に電話がかかって来ました。すると家内が「え?うそ?ほんと?ほんと?」と言って、泣き出しました。何かと思ったら、我が家で十五年間も飼っていたアイシーという犬が倒れて、死んでいるのが発見されたからです。家内はずっと泣いておりました。私も家内に、話しかけられなくなってしまいました。
 家に帰って、その日の夕食、本当に暗かったです。当時家には、まだ二人の子どもたちがいまして、四人で食卓を囲んでいたのですが、誰も食事に手をつけようとはしませんでした。恐る恐る、私だけが手を出して食べました。するとみんなから、「こういう時に、よく食べられるね」と怒られました。
 しかし涙を流しながらも、食べていた娘もいたのですが。いろんな悲しい事があったりすると、食欲がなくなってしまうじゃないですか。
 でも、みなさん、この箇所は何と書かれているのでしょうか。『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださる』というのです。
 敵が目の前、不安が目の前にあっても、食事ができるようになり、あれあれあれ、なんか知らないけれど、食欲がなかったけれど食欲がでてきたぞと。そして油注がれるというのは「権威が与えられる」という意味です。

 「目の前から敵を追っ払ってください。何もいなくなりますように」と私たちは祈るのですが、もちろんそれをすぐに取ってくださる時もありますが、そうではなくて敵はいても、不安な材料があったとしても、押しつぶされるのではなく、そこでも平安に食事ができるようになり、気が付くと敵を見下しているほど、暗闇の力を踏みつぶすほどの権威が与えられているという事です。

 「慈しみと恵みが私を追ってくる。私の命の日の限り」とあります。みなさん、私たちは幸せを求めるのではなく、幸せがついて来ると約束されています。そのためにイエスさまはこの地上に来てくださったのです。クリスマスというのは、まさにその日であったのです。イエスさまの誕生と共に、新しい地の創造は始まっています。
 主の誕生と、十字架と復活、特に、よみがえられたイエスさまに目を留めるのです。主との交わりを聖霊によって回復された者であることをしっかり受け止め、この地を雄々しく歩んでいこうじゃありませんか。

 また日本の未来に対しても、すべての要素を総合して、主が義の道に導いてくださるように祈り続けなければならないと思います。今日は投票に行かれると思いますが、よく祈って投票してください。
 「主よ。日本を義の道に導いてください。日本に新しい地を創造してください!」と祈りながら、投票することが大事ではないでしょうか。
 私は今日のメッセージを語る前に、投票しなければいけないと思いましたので、昨日「不在者投票」に行って参りました。霊的戦いの祈りと共に、投票しました。そのような時が来ているのかなと思います。
 クリスマスは「神は私たちと共におられる。神との交わりが回復した日である」ということを心に刻み、クリスマスの主を、共に喜び楽しみたいと思います。最後に一言お祈りして終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。「インマヌエル、主が共におられます」と、主が共にいてくださることを心から感謝します。
 この地を回復するために、新しい地を与えるためにあなたは来てくださいました。主よ、日本の将来を導いてください。特に、祈りが必要とされる時代に私たちは住んでいます。私たちは主と共に住む者として、守りの中を歩むことができますように。
 今日の礼拝を心から感謝します。お一人お一人の上に、特別な祝福と喜びをお与えください。今から聖餐式を行います。イエスさまが十字架にかかって死んだだけでなく、よみがえってくださったことを、確認することができ感謝します。
 主が共におられる臨在を、聖餐式と共に与えてくださいますように。イエスさまの御名を通して、御言葉と聖霊によって聖餐式を行います。アーメン。