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『ニューイヤー・セレブレーション

2013.1.1 (火)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書十章十七節〜二十節

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』



 ハレルヤ!新年おめでとうございます!こうして二〇一三年を無事に迎えることができましたことを、心から感謝しています。みなさんと賛美で新しい年を始めることが出来、本当にうれしく思います。
 旧年中も、みなさんのお祈りと愛によって、新城教会は支えられました。今まで主のために、共に戦い続けることが出来ましたことを、心から感謝します。これから教会の役割は、社会において、大変重要になると信じます。その為には先に建てられたキリストのからだが一つとなって、主に近づく時、日本に新しい地が創造されると確信します。

 昨晩は、夜の時から十二時まで、カウントダウン・ワーシップと言う集会がありました。この教会には、私を含めて七名の牧師、副牧師がいます。この集会において、私以外の六名の先生方に、新しい年に向けてのメッセージを取り次いでいただくことにしています。私は毎年、その御言葉に期待しています。昨晩も大変すばらしいメッセージが語られました。
 今日、初めて教会に来られた方もおられると思いますが、ぜひとも本物の神様と出会っていただきたいと願います。
 世の中には本物と偽物があるのです。本物があったら、偽物があります。偽物があったら、必ず、本物があるわけです。本物風の物もありますから、気をつけなければいけません。
 子どもたちのために、ちょっとおもしろ写真を持って来ました。

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 上は本物。下は偽物です。

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 下の車のようにならないように、気をつけましょうね。

 本物の神、イエス様と出会わなければいけません。

 私には、六名の先生方が語ってくださったメッセージを、新年礼拝の時間までにまとめ、皆様方に提供する役割があります。昨晩の集会が終わってから、まとめる作業をしましたので、ちょっと頭がぼーっとしているところがあって、うまくまとまっていないかもしれません。
 でも、毎回、先生方のメッセージを聞いて感動するのは、キリストのからだはすごいということです。イエス様が頭で、それぞれが各器官なのです。私は主任牧師をさせていただいていますけれど、一人じゃ、何もできないと思います。
 一人一人が組み合わされているがゆえに、私も役割を果たすことができるのです。お一人一人に、大変重要な役割があります。牧師たちも一人一人、違った賜物が与えられていて、その視点から主が語って下さるわけです。

 今回、最初にメッセージを語ってくれたのは上條実先生です。彼が二〇一三年に向けて与えられた御言葉は、第一サムエル三章だと話しました。家に帰ってから、この箇所をお読み下さい。また昨晩語られたメッセージは、後ほど、プリントにしてお渡ししますから、それを読んでいただいた方が正確ですが、私はその中の一部を掴みだしてお話しします。
 サムエルは後に偉大な預言者となりましたが、少年時代に初めて神の声を聞いたことが三章に出て来ます。「サムエルよ。サムエルよ」という、主からの語りかけを聞いたのですが、彼はそれが神からの語りかけだとはわからなかったのです。自分の主人であるエリが呼んだと思い、エリの所に行って「ご主人様。私を呼びましたでしょうか?」と聞くと、「いや、呼んでないよ。帰ってお休み」と言われました。
 でも、何度もそんな事があり、三度目にエリが気づくわけです。「それはもしかしたら主が語っているのかもしれないよ。今度呼びかけがあったら『主よ、私は聞いております。お話し下さい。』と答えてごらん」というアドバイスを受け、また眠りにつくわけです。
 するとサムエルに神からの語りかけが始まったことが記されています。そんな中、第一サムエル記三章十節にこんな言葉があります。

『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。』

 昨日はここからメッセージが語られ、キーワードとして、「これまでと同じように」という所を、今年の御言葉として受け取ったと話しました。神様は私たちといつも共におられ、「これまでと同じように」語ってくださるというのです。
 サムエルも「サムエルよ。サムエルよ」一晩に三回も声をかけられたのですが、主からの声だとは気づかなかったのです。しかし四回目にやっと、エリのアドバイスもあって、主に答えることができたというのです。
 私たちにも主は同じように語りかけてくださっているのですが、それを受け取る事ができるか否かは、私たち側にかかっているのです。
 今年は一人一人が神様からの声を、直接受け取ることができる年となるように、というメッセージでした。

 これは重要なメッセージだと思います。キリストの体では、お互いが補完し、支え合いますから、誰かに、誰かの事が語られることがあります。お互い、とりなし合うことは重要ですが、その基本条件が、一人一人に神の声を聞く機能が動いていることです。
 「主が私に語りかけられるなんて、信じられない」と言ってはいけないのです。主を信じるなら、主が共におられ、「いつもと同じように」語りかけてくださると言うのです。一人一人が神の声を聞くなら、全体ではすばらしいことが起こりますというメッセージでした。

 今年は常に霊的な目、霊的な耳を開き、主が語りかけてくださる言葉を個人的に受け取ることができる年とさせていただきましょう。一人一人が持ち場、持ち場、賜物に応じて言葉を受け取るならば、キリストのからだ全体の偉大な働きに繫がるのです。それが結果的にお互いを支えるのです。

 二番目に語ったのは滝元明牧師でした。ヨナ書三章一節〜十節のニネベのリバイバルについて語りました。それと共に、つい最近、彼が見た夢について語りました。明先生は現在八十三歳ですから、夢が多いのです。「夢多きおじい」とでも言いましょうか。彼は夢の中で、息子の滝元開と二人で山の中に入って行ったというのです。何をしに入って行ったのかというと、蛇を捕まえに行ったそうです。すると大きな蛇を、開が捕まえたというのです。でも、開ではうまくその蛇を殺せなかったので、おじいが完全に殺したというのです。そして彼は、その蛇を料理して、みんなに蛇の肉を食わせたという夢だったそうです。それも、みんなにそれが蛇の肉だということは黙って、食わせたというのです。みんな「うまい、うまい!」と言って蛇の肉を食べていたそうです。変な夢ですね。
 これから明先生から肉をもらったら、気をつけてくださいね。蛇の肉かもしれませんから。
 でもみなさん、これって、もしかしたら預言的な夢かもしれません。今年は巳年なんていいます。よく、「あんたの干支はなに?」「えーっと」なんて考えちゃいけませんよ。干支は無視しなければいけません。あれは占星術と関わる、危険きわまりないものだからです。クリスチャンにとっては、毎年が良い年であり、毎日、良い日です。
 今年は蛇が料理されるような年になるように願っています。

 明師が語ったメッセージは、「今年はアッシリアの都、ニネベに起こったようなリバイバルを、日本にも起こしていただけるように、真剣に祈っていきましょう」というメッセージでした。
 日本の国を見ると混乱しています。罪が溢れています。モラル的にも退廃し、多くの偶像が溢れています。これから、国はどこへ向かっていくのか、本当に心配です。

 正月は国民のほとんどが、初詣と言って神社に出かけます。「これが日本の伝統・文化だ、日本の神様を拝むことはすばらしい!」と言って出かけるのですが、初詣は、いつから始まったかというと、江戸時代にはありませんでした。それは明治時代に、国家神道が成立したことによって、初詣が推奨され、神社を拝むようになりました。

 日本で一番初詣客を集めているのは、東京にある「明治神宮」です。明治神宮にはどのくらい初詣に来るのかというと、なんと三百万人以上です。三百万人以上の人たちが、明治神宮を拝みに来るわけです。すごい数です。
 明治天皇のお父さんって、何という名前の天皇か知っていますか?「孝明天皇」と言います。孝明天皇の神社は愛知県の武豊市にあります。息子の神社と比べたら、比べものにならないほど小さいです。 
 実は、孝明天皇は維新に反対しました。彼は暗殺されたという説もあります。その息子が、こんな広々とした場所に祀られること自体、おかしいです。
 しかし主は、こんな日本でもあわれんでおられるのです。

 ニネベという街も海神、ダゴンを拝んでいました。大変偶像礼拝が強い街だったのです。しかし神はヨナを遣わし、その街を救われたのです。ヨナ書四章九節〜十一節、

『すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』

 ニネベという街も相当悪かったけれど、神様はこの街を愛して、ヨナを遣わしたのです。ヨナはユダヤ人で、自分の国を愛していました。ですからニネベに行って宣教したら、神様はきっとニネベを助けてしまうだろうと考え、彼の愛国心ゆえにタルシシという街へと逃げたわけです。
 ヨナの読み通りに、神様はニネベの街を哀れみ、王様からこじきに至るまで、みんな悔い改めて救われるという、大リバイバルが起こったのです。

 ニネベに、そのような神のあわれみとみ業が現れたのなら、日本にも同じような業を起こしてくださるはずです、というメッセージでした。主は日本にあわれみの目を注いでくださっています。
 ニネベにおいては『王様が王服を脱いで悔い改めた』とありますが、日本である意味、王のような存在、天皇が救われるよう、特別、祈るべきだというすすめもなされました。

 三番目にメッセージを語ってくれたのは、四元雅也先生でした。彼のメッセージを私は何度も聞きましたけれど、今までのメッセージの中で、今回は最高のメッセージだったと思います。本当に良かったです。うちの家内もそう言っていました。本当に深いメッセージでした。マタイの福音書十一章二十八節〜三十節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 この箇所でイエス様は「疲れた人、重荷を持っている人は、わたしが休ませてあげますよ」と言いながら、舌が乾かないうちに「わたしのくびきを負え」と言っているのは、一見、矛盾するというのです。しかしここに真理が隠されているというのです。
 「くびき」とは何かについて、昨晩は映像で教えてくれました。それは牛と牛とをつないで畑を耕すための道具です。しかしくびきにはもう一種類あって、それは奴隷たちが逃げないように、奴隷の首にくさりを巻けてつなぎ止める道具も、くびきと呼ばれるそうです。

 「くびき」には、必ず背後に「支配」があるというのです。人間が二頭の牛を支配して、耕作をさせるとか、横暴な主人が奴隷たちをつなぎ止めて支配するという構図が背後にあります。
 この箇所から私たちが、どのような支配の中で生きるかについて教えています。かつて私たちは、悪魔の支配の中に生きていたのですが、救われ、神の支配下に生きる者となりました。
 特にそんな中で強調されたのが、「義のくびき」を負う重要性です。自ら義のくびきを負う時に、神の祝福があるというのです。牛も毎回、くびきをかけられていると、牛と主人との間に信頼関係ができるというのです。「この主人はわしに食べさせてくれるな。ならば、わしも少しくらい主人の仕事を手伝わなくちゃ」ということで、耕作の時間になると、牛は自らくびきに首をつっこんで、くびきの中に入って行くというのです。

 私たちも神の支配の中で、義のくびきを自ら負っていく時、リバイバルは前進していくということを語られました。私の言葉だけでは足りませんから、後で彼が語ったメッセージをよく読んでいただきたいと思います。なかなか深い、恵まれたメッセージでした。
 今年は義のくびきを自ら進んで負い、主のために働いていこうじゃありませんか。その時に神の国は前進します。決して二度と、悪魔のくびきを負う者になってはいけません。義のくびきを負う者にさせていただきたいと心から願っています。

 四番バッターとして登場したのは滝元開先生でした。彼が主から与えられた御言葉は第一テサロニケ人への手紙五章十六節〜十八節、

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 大変有名な箇所です。いつも、この御言葉を、心に留めておく必要があります。これはイエス様が私たちに望んでいる事柄だからです。いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する態度を、主は願っておられるのです。
 私も、今年一年間の標語としたいです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」
 開先生はこれを賛美にして紹介しましたが、これからも歌われるのではないかと思われます。この御言葉をもらった時、主からのしるしをくださいと祈っていたそうです。すると年末にある教会に奉仕に行って、しるしが与えられたそうです。

 一年前にその教会でざわめきの集会を開催した時、一人の人が教会に来たそうです。その人はどういう人かというと、二十年間共産党員で「神なんかない!」という人だったというのです。しかし賛美の中で主に触れられ、帰って行ったそうです。
 暮れに再度その教会に奉仕に行くと、なんとその人がクリスチャンになっていたというのです。その人は「二十年、共産党をやっていたけど、良い事は何もなかった。イエス様が神であることがわかった」と告白していたそうです。
 今まで「神なんかいない!」という普通だったら一番難しい人たちが、今年は主を信じる年になる、というしるしでした。

 それと、その教会で奉仕の前にリハーサルをしていたそうです。そうしたらその教会の牧師のお母さん、おばあちゃんが最前列に座って聞いていたそうです。おばあちゃんは全く目が見えない人だったそうですが、なんと、賛美のリハーサル中に「あぁ!」と叫びだしたそうです。なぜそんな叫び声をあげたかというと、突然、自分の手が見えるようになったからです。「指が見える!指が見える!」と、なんと賛美のリハーサルの最中に目が開かれたというのです。

 その時に主が語って下さったそうです。「二〇一二年は奇跡のリハーサルだった。しかし、二〇一三年は本番ですよ」と。本当にそうなって欲しいです。目の見えない方々が見えるようになり、全く希望を失っている方々が二〇一三年には希望を取り戻す年になって欲しいです。
 そのためにはどうしたらいいのか。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」態度が必要であることを教えられました。
 今年は、霊的戦いの厳しさの中でも、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝できる一年にしようじゃありませんか。

 五番目に語ったのは、公畑フェルナンド先生でした。フェルナンド先生のメッセージも大変すばらしかったです。そのメッセージの中心は、今まで神様との約束だけであったものが、二〇一三年は実現する年になると語りました。約束も嬉しいけれども、実現するのはもっと嬉しいと語りました。
 結婚した人はわかると思いますが、婚約した時は、嬉しかったと思います。私も家内と婚約した時、嬉しかったです。「ついに婚約できた!」それは、将来結婚できるという約束です。でも結婚した時は、もっと嬉しかったです。なぜなら、約束が実現したからです。

 二〇一三年は神が私たちに約束されたことを「実現される年」となる、と語りました。ヨシュア記にこんな約束があります。ヨシュア記二十一章四十四節〜四十五節、

『主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。』

 すばらしいですね。私たちクリスチャンは霊的イスラエルです。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず皆、実現したというのです。主がみなさんに約束してくださった良い事のすべてが実現しますよう、心の底から祝福します。今年は今まで主との約束だけであったもの、まだ形になっていなかった事柄が、見える形で実現する年になります、というメッセージでした。
 しかし、そのためには「四つの条件がある」と語られました。その四つの条件に関してはプリントを読んでいただきたいと思います。神様が約束を実行されるためには、こちら側の整えも必要です。でもそのくびきは重い物ではないのです。喜びながら、主に従うことができるのです。

 そんな中で一つ、「神様はあなたの名前を変えられます」と語られたのが印象的でした。聖書の中でも、神が一つの業を行う前に、「その人の名前を変える」という事が記されています。「アブラム」という人物は「アブラハム」になりました。また、「シモン」という男は「ペテロ」に変えられました。神様は何か自分の業を始める前に、人物の名前を変えるのだというのです。それはどういうことかというと、過去の古い悪いイメージの名前が、良い名前に変えられるというのです。
 ある人には「病気」という名前がついているかもしれません。みなさんの名前はどうでしょうか。「私の人生は、一言で言うならば病気という名前がついている」という、人もおられます。でも主は、その名前を「健康」と変えてくださるのです。

 さて皆さんはどんな名前に変えて欲しいですか?今年は「貧乏」から「金持ち」に名前を変えてほしい、なんて自己実現的には考えていけません。主の栄光のために、あなたは名前を変えていただくのです。私も「不従順」から「従順」、の順に名前を変えてもらいたいです。すばらしいメッセージでした。

 最後に、岡本信弘先生が語って下さいました。毎回メッセージの順序をどのように決めるのかというと、くじで決めます。箴言の中に、『くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は主から來る』という言葉がありますが、いつもその御言葉を読んで、私がくじを作ってみんなに引かせます。
 でも私にも責任がありますから、真剣にその前に祈ります。私はくじを作る前に、九時前に、一時間くらい真剣に祈ってくじを作りました。最後のくじを引いたバッターは岡本信弘先生でした。先生が今回語った言葉のキーワードは「あわれみ」という言葉でした。「あわれみ」という言葉を主から語っていただいたというのです。
 ルカの福音書十八章三十五節〜三十八節、

『イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。』

 この盲人のこじきが、『「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んだ』とあるけれども、私たちも主にあわれみを叫び祈ることが必要だと語りました。
 「あわれみ」という言葉を一般の辞書で引くと「誰かのことをかわいそうに思うこと」とあるそうです。しかし聖書の意味はちょっと違うというのです。
 パウロが手紙を書いた時、例えばテモテに、こんな風に記しています。第一テモテへの手紙一章二節、

『信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。』

 手紙の挨拶文の中に「恵みとあわれみと平安とがありますように。」とあります。この「あわれみ」は、「かわいそうに思う」とは、違う意味があります。どういう意味かというと、まず「恵み」とは、「神様からの一方的な行為」という意味です。私たちが救われたのは、恵みによって救われたのです。これは神様からの一方的な行為によって、救い出されたのです。私たちの努力とか、修行とか、善行というものではありません。一方的な神の行為によって、御子イエス様が十字架にかかり死んでくださり、私たちの罪の身代わりとなり、死からよみがえり、私たちを救い出してくださったのです。それは一方的な恵みの行為です。
 しかし「あわれみ」とは「恵みに基づく神の行動」であると信弘先生は説明しました。「恵みに基づいた神様の行動、それがあわれみ」だというのです。
 私たちはすでに神様から、一方的な恵みを受けています。しかしそれを基礎として、さらに神様は行動してくださるのです。
 そして、私たちも「あわれみ」という、「恵みに基づく神の行動」に参加する必要があると語られました。ルカの福音書十章の中で良きサマリヤ人の例えがありますけれど、この最後の部分、十章三十六節〜三十七節、

『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 最も大切なことが二つあるとイエス様は語られました。それは「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことだと言われました。「隣人を愛する」とは何であるのか、それは「強盗に襲われた者の隣人になる」、そしてその行動は「あわれみをかける」という事になると語られました。
 私たちも強盗に襲われた者たちの隣人になり、その人にあわれみをかけるという神の行動を共有するのです。それは何かというと、自分とは関係のない、強盗に襲われ、悪魔の毒牙にかかって倒れた人たちに対して、あわれみの心を持ち、盲人のように「あわれんでください!」と、誰かのためにあわれみを求め、叫び祈る者にならなければならないと語られました。

 今年は、神様のあわれみを、叫び祈る者とさせていただきたいです。自分のための「あわれんでください」という叫びを越えて、強盗に襲われた隣人のために、あわれみを求めて、叫び祈る年となりなさい、と主は語られています。その時に、神のみ業は進んでいきます。

 こうして六人の先生方のメッセージを、一つ一つ分析させていただきますと、私の独断と偏見の部分もあるかもしれませんが、本当に彼らは、主からの語りかけを受け取っていると思います。主がこの教会、キリストのからだ全体に、語りかけている言葉を、一年の指針とするならば、大きな勝利につながるに違いありません。
 六人のメッセージに、私に対して主から与えられた御言葉を加えて、最後にみなさんにお話ししたいと思います。

 昨年私に与えられた御言葉は、イザヤ書二十七章一節の御言葉でした。

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 去年は「竜を打ち落とせ」と語ってくださいました。朝、起きようとした時に、主が突然語ってくださいました。「二〇一二年は竜が打ち落とされる年になる」と語ってくださいました。
 去年は辰年といって竜がかなり、フィーチャーされていましたけれども、竜はレビヤタンとも呼ばれ、聖書の中ではサタンの象徴です。それが打ち落とされる年となるように祈り、戦わなければならないと語ってくださいました。去年はそれを意識して、戦い続けて来ました。去年は竜が天から落ちる年であったと信じています。そして、今年主が与えてくださった御言葉は、ルカの福音書十章十七節〜二十節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 この御言葉を主が去年の暮れから、私に語ってくださっていました。特に十九節の、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 この御言葉を二〇一三年の剣として、受け取っていただきたいと思います。すばらしい約束じゃないですか。ただの約束ではなく、今年は約束が実現するというのですから、さらに期待できます。「あなた方に害を加えるものは何一つない」と約束され、それが実現するならば、なんとすばらしいことではないでしょうか。
 折しも、今年は巳年とかいって、蛇がフィーチャーされます。去年は竜、今年は蛇。この二年の間に勝利できなかったら、いつ勝利するのかという感じです。主が二〇一三年、蛇を踏み砕き、勝利を与えてくださるのです。「私たちに害を加えるものは何一つない」、すばらしい年になることを信じます。

 今回、この箇所を少し勉強してみたのですが、ある先生がこの箇所に関して、詳しく注解されていました。それで大変恵まれました。
 七十人の弟子たちが、伝道に出て行く時は大変恐れていたのですが、帰りは嬉々として帰って来ました。イエス様になんと報告したかというと、「主よ、あなたの御名を使うと悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
 「イエス様すごかったですよ!あなたの名前を使うと、悪霊どもが私たちに服従したのです!」と、喜んで帰って来たというのです。

 イエス様の名前を使うなら、悪霊どもは服従する、すごい権威です。
 しかし、一方では心配もあります。それは権威の乱用です。この権威を、何かお守りのように使ってしまう危険性も一方ではあるからです。
 この箇所を原文から注意深く訳してみると、実はちょっとニュアンスが違うというのです。原文から直訳すると、
 「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられます」となるそうです。これは「イエス様の名前の中では、悪霊どもでさえイエス様に服従させられる」という、「自分が服従させる!」というのではなく、「私たちがイエス・キリストの名前の中にとどまるならば、悪霊どもは服従させられる」という意味だというのです。
 十章十九節を今年の武器して紹介したのですが、続いてイエス様は語られました。ルカの福音書十章二十節はこうなっています。

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』

 これは「おまえら、俺の名前を使ったら悪霊は服従するだろうが、それは二の次だ。おまえたちが救われて、天国に行ける方を感謝しろ。名前が天に記されていることの方が大切なんだ。霊的戦いでちょっと勝利したぐらいで、有頂天になるな!」と解釈するのですが、文脈の中で捉えるなら、その解釈は違うというのです。それはどういう意味か。

 聖書においては「名は体を表す」という原則があります。イエス様の名前とは、イエス様の行動、すべてを含んでいるのです。「あなたの名前が天に書き記されている」とは、「あなたは天国に行けますよ。そちらを喜んでください。霊的戦いに勝利するとことを喜ぶのではなく、天国に行ける方を喜んでください」と、一般的には取るけれど、そうではないというのです。
 「あなたの名が天に記されている」とは、「あなたがイエス様と同じ天の立場であるがゆえに、悪霊どもが服従する」という意味だというのです。

 私たちがイエス様の名前を、何かお守りのように使うのではなく、私たちがイエス様と同じ立場、天に名が記されているがゆえに、悪霊どもに勝利できるのです。イエス・キリストを信じた時、権威的には天でイエス様と一つになっているがゆえに、敵の力は打ち破られるのです。イエスの名前を呪文のように使うのではなく、イエス様と一つになる時に権威が行使されるのです。
 「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる」とは、天において名前が記されているがゆえに起こる勝利なのです。

 ルカの福音書十章をさらに読んでいくと、二十四節にこんな言葉があります。ルカ十章二十四節、

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』

 これは何を意味するのか。旧約時代、多くの預言者たち、王たちが見たかったこと、聞きたかったことが、今、実現していると語られています。
 なぜなら、弟子たちが「天に名が記されている」すなわち、イエス様と一つになっているがゆえに、今まで人類がどう戦っても破ることができなかった、敵の力が打ち破られている光景を見たからです。
 「わたしが見ているとサタンが稲妻のように天から落ちた」と。それを見たとイエス様は言われました。旧約時代、預言者たちや王たちが見たいと願っていたけれど実現しなかったことが、ここで実現したのです。
 それは何かというと、弟子たちがイエス様と一つになった時に、敵の力を打ち破られる光景でした。

 今年私たちが、霊的な戦いに勝利するためには、イエス様の名前を何か呪文のように唱えるのではなく、主イエス様と一つとなる時、大きな力が現れ、蛇の力が打ち破られるということが、ここから学べます。
 私たちはどんな時にも、天に名が記されている、すなわち、「イエス様と一つ」という条件を満たすことが重要です。その中で戦っていきたいです。

 「あなたの本質はすでに天にある」というのが、名が天に記されているという真の意味なのです。「あなたの本質は天にあるがゆえに、イエス様と同じ行動を取ることができる」のです。
 これは預言者たちが、王たちが、見たくても見れなかった事柄です。

 霊的戦いの勝利とは、預言者や王たちが見たくても見れなかったことの実現に他ならないのです。
 今年はそのことを忘れないで、ルカ十章十九節の『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』という御言葉を、自分の武器としていきたいと願います。

 最後に、もう一つ私は御言葉をもらっています。次の曜日にでもお話しさせていただきたいと思いますが、ちょっと紹介したいと思います。詩篇五十一篇十二節、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

 これは「いつも喜んでいなさい」という御言葉にも通ずると思います。
 「二〇一三年に対する預言的なメッセージ」を私自身、次のようにまとめさせていただきました。みなさんで祈りつつ、吟味していただきたいと願います。

<2013年に対する、預言的メッセージ>

 今年はあなた方が祈ってきた事柄が、実現する年となるでしょう。
その為には、キリストの体に属する一人一人が、サムエルのように、神の声を聞き分ける者となりなさい。
 日本に、アッシリアの都、ニネベで起こったような大リバイバルが起きます。日本の罪はわたしの前に大きいけれど、わたしはニネベの人々を哀れんだように、日本に哀れみを注ぎます。特に、天皇が救われるように祈りなさい。
 あなた方は、二度と悪魔のくびきを負ってはなりません。わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすく、その荷は軽いからです。自ら進んで義のくびきを負う者は幸いです。

 リバイバルの戦いを、いつも喜び、絶えず祈り、感謝しながら進めなさい。そして、時を悟る者となりなさい。
 霊的に停滞していてはなりません。大きな希望を抱き、王の子どもとして祈りなさい。今年はあなたの悪いイメージの名前が、良い名前に変えられる年となるでしよう。病という名が付けられている者は、健康という名に変えられるでしょう。

 その為には、互いに哀れみを抱いてとりなし祈り合いなさい。強盗に襲われた者の隣人となりなさい。それが主を信じる者たちの使命です。
 あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

 今年は蛇が踏み砕かれる年となります。多くの預言者や王たちが見たいと願ったのに、見られなかった事柄が実現する年となるのです。
 喜んで仕える霊が、あなたをささえますように。


 このようにまとめさせていただきました。二〇一三年が、このような年となるように、心から切に願う者であります。それはキリストのからだの一致の中で、主が実現してくださると信じます。二〇一三年、社会を見るといろいろな不確定な要素、不安定な要素が多くありますけれど、神の側では大きな勝利が準備されているような気がしてなりません。
 最後にみなさんと一緒にお祈りして、この御言葉を主から受け取りたいと思います。一度立ち上がって下さい。ご一緒に祈ましょう。この言葉が今年、実現するように。約束が実現する年となるように。二〇一四年には、「あれは本当に主が与えてくださった預言的な言葉だった!!」と感謝できるように、ご一緒にお祈りしたいと思います。みなさんで大きな声で「主よ!!」と叫んで、そのために祈りの時を持ちたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。二〇一三年が始まりました。あなたが希望の約束を、この教会に与えてくださったことを、心から感謝します。今まで約束されていたものが実現すると仰せくださっていることを、心から感謝します。私たちもあなたを第一にして、喜んで付いて行きます。義のくびきを負って、あわれみの心を持って従って行きますから、私たちの教会に、今まで預言者たちが、王たちが見たくても見られなかった、偉大な勝利を見せてください。
 私たちは、今、あなたと一つになっていることを宣言します。今から聖餐式を行いますけれど、聖餐を通して、イエス様と一つとなっていることを、もう一度確認することができますように。イエス様の御名の中で祈ります。アーメン。