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『霊的維新2013
  〜リバイバルを祈ろう〜

2013.1.6 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書十章十七節〜二四節

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」』



 ハレルヤ!みなさんおはようございます。新年も明けて六日目になり、明日からは、お仕事も本格的に始まるのではないかと思います。二〇一三年。お互いにとって、すばらしい年となりますように、心から願うものです。
 毎年、十二月三十一日は、この教会には私を含めて七名の牧師、副牧師がいるのですが、私以外の六人の先生方が新しい年に対しての、主から受け取った御言葉を紹介してくださいます。
 そして一月一日は、私に主が教えて下さった御言葉を加え、まとめてお分かちすることにしています。今朝は皆様方に、そのプリントをお渡ししますので、是非とも家に帰ってから、それらをよく読んでいただきたいと思います。ぜひこの御言葉を今年の指針として、共に歩んでいきたいと願っています。
 私は毎年、先生方、また私を含めて、語る御言葉を楽しみにしているのですが、今年は特に、語られた御言葉のすべてが私の心に強く留まりました。それぞれ主から語られた言葉として、心に深く留まりました。私も新年が始まってから、先生方が語って下さったメッセージを一つ一つ思い起こしながら、自分の祈りに加えるようにしています。

 クリスチャン生活は、基本的には「御言葉と賛美と祈り」だと思います。私たちは聖書の言葉に深く根ざし、主を賛美し、祈るのがクリスチャンの生活です。祈る時、どのような約束を握って祈るかが重要だと思うのですが、今年は、今回語られた御言葉を基礎として、主の前に出たいと願っています。
 今日は午後から、新年恒例ですけれど、愛知県民の森に入って祈るプログラムが持たれます。ぜひとも、新しい年、祈りから始めていただきたいと願います。毎年、その祈りを通して、一年が支えられているような気がします。

 今朝のメッセージは「霊的維新2013」としました。「維新」というと、この頃は政治団体が多く使っていますから、なんとなくイメージが良くないですが、この意味は「変革」です。また、「支配権の転換」という意味もあります。
 今読んだルカ十章十七節から二十四節は、まさに、霊的世界で大きな維新が起こった瞬間をレポートしたものです。今年、二〇一三年の御言葉として与えられているのが、「ルカ十章十七節〜二十四節」です。特に十九節の言葉が、私の心に力強く響いています。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 この言葉が、私の心に深く留まっています。毎週お渡ししている週報の一番下の欄に「今週の御言葉の剣」という欄があります。ご存じでしょうか。「宣言しましょう」となっていますが、今週は「ルカの福音書十章十九節」と、この御言葉が掲げられています。聖書六十六巻の中から、聖霊によって味付けられた生きた御言葉の剣を引き抜いて、それを握り歩むことはたいへん重要です。この御言葉を今年一年の「御言葉の剣」として、是非とも、受け取りましょう。
 『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、』とあります。「蛇やさそり」とは、聖書では「悪魔、悪霊ども」人類の真の敵を意味します。『敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。』とあります。最後の言葉は、大変すばらしいです。『だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 二〇一三年、何が起こっても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」というのです。
 『だから』と、これは前の部分を受けています。「だから」という接続詞は、「前の文脈の当然の結果として、後の文脈を導く接続詞」と説明されていました。
 「害を加えるもの」が「蛇やさそりだ」と言っているのです。しかし蛇やさそりが打ち破られる時、あなたがたに害を加えるものは何一つないと言うのです。素晴らしいです。

 みなさん、もう一度、二〇一三年に主から直接語っていただいた言葉として受け取り、ご一緒に声に出して読んでみましょうか。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 これがあなたへの御言葉の剣です。隣の方に、「この御言葉は、あなたのためです!」と宣言してあげてください。
 ルカ十章十七節〜二十四節は「霊的維新」を表しています。なぜなら、今まで人類の間に起こらなかったことが、今、起こった!とレポートしているからです。十章二十四節には、

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』

 旧約時代の偉大な預言者たちや、王たちが「見たい!聞きたい!体験したい!」と願っていても、かなわなかった事柄が、この瞬間、弟子たちの間に起こったのです。

 ここから今日は学んでいきたいと願っていますが、その前に少し復習ですが、十二月三十一日に六名の先生方が語ったメッセージを聞かれた方も、都合で聞けなかった方もおられるかと思いますので、短くお伝えします。最初にメッセージ語ったのは上條実先生でした。
 彼はこの言葉を語った後、ノロにやられたそうです。ノロというのは沖縄だけにいるのかと思ったら、今ではそうではなく全世界にいるみたいです。このジョークが分かるのは、沖縄のことをよく知っている人だけかもしれませんが。ノロと言ってもかなり早いですね。どんどん家の中を侵略します。今年はノロにもやられないように、『蛇やさそりを踏みつけ、あらゆる力に勝利する』と約束されていますから、ウイルスやバイ菌みたいな目に見えない敵に勝利する一年になることを、心から祈っています。

 彼が語ったのは、サムエル記から、少年サムエルが神から言葉を受け取った瞬間について語りました。「サムエルよ。サムエルよ」と主はサムエルに語りかけたのですが、彼はそれが神からの呼びかけだとは分からなかったのです。
 三度も呼ばれたのですが、分からず、最終的にエリのアドバイスによって、『今度「サムエルよ。サムエルよ」と声をかけられたら「お話しください。しもべは聞いております」と答えなさい』と言われ、四度目に語られた時、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と答え、主からの預言的な言葉か届くようになったと話していました。
 そこに『主が側に立ってこれまでと同じように「サムエルよ。サムエルよ」と語られた』という所から、主は私たちに「これまでと同じように」語りかけを与えてくださると話されました。それを受け取るか受け取らないかは、私たちの側にかかっていると言われました。今年一人一人、主から直接言葉を受け取る者になりたいというメッセージでした。

 イエス・キリストを信じると、主が直接、言葉をかけてくださるようになります。牧師を通してのみとか、誰かを通してではなく、みなさんに直接、語ってくださるようになるのです。
 同時に、教会はイエスさまを頭とするキリストのからだですから、礼拝を通して、また、お互いの交わりを通して、神の言葉が届くのです。しかし、基本的には、一人一人に言葉を語ってくださいます。「私には神様の言葉なんか、聞こえるわけはない」なんて言わないでください。
 ではどうしたら、聞こえるのでしょうか?サムエルのように「お話しください。しもべは聞いております」という祈りが必要です。
 私はこのメッセージを聞いてから、毎回の祈りの中に「主よ。私は聞いています。いつでも語ってください」という祈りを加えるようになりました。夜寝る前も「主よ。私は夢の中でも聞くつもりですから、どうか語りかけてください」と祈ってから眠るようになりました。
 昨晩も寝ていたら、夢の中で「あの場所にとりなしに行きなさい!」と語られました。ですから、朝早速、祈りに行って来ました。仕事中も、勉強中も、家事をしている時も、寝ている時も「主よ、お語りください。私は聞いています」という、主へのチャンネルをいつもオープンしておくなら、主はみなさんに語りかけてくださるはずです。今年は二十四時間、常にあなたのチャンネルを、イエスさまに合わせておいてください。

 先ほど司会をした開先生が語ったメッセージは、第一テサロニケ五章十六節〜十八節の、『いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。すべてのことについて感謝しなさい』という言葉から語りました。「絶えず祈りなさい」ということは、二十四時間、「主よ、お話しください。私は聞いております」という、神様とのラインを結んでおくことだと思います。
 みなさんも携帯電話を持っていると思いますが、近頃の携帯電話は二十四時間インターネットにつながっています。ですからメールも即、届きます。私の携帯はソフトバンクですが、山の中に入りますとよく切れるのです。そうなると、いくら電話をかけてもつながらないわけです。なぜなら電波のラインが切れていますから。しかし、圏内にいるなら、いつでもつながっています。
 同じです。イエスさまから圏外に出ることなく、常に主とラインを繋いでおくならば、主が語りかけたいと願う時には、必ず、言葉を受け取ることができるはずです。そのようにしておくなら、間違いはありません。
 そのためには、常に祈りが必要です。みなさんにおすすめしますが、一日の中で少しでも時間を取って、主と向き合って御言葉を読み、祈る時間を持ってください。私は忙しくても極力、ウォーキングなどをしながら、祈るようにしています。いろんな問題があったら「主よ、どうしたらいいですか。語ってください」と祈ります。そうすると、不思議と心に、神の思いと答えが与えられます。

 滝元明先生のメッセージは最後に紹介することにして、四元雅也先生は「義のくびき」を自ら負って歩むことの重要性を語り、フェルナンド先生は「今年は神の約束が、実現する年となる」と語りました。これは希望の言葉でした。「約束してくれるのは嬉しいけれど、それが実現するのはもっと嬉しい」と語りました。今年は、今まで主が約束してくれていた御言葉が、実現する年になるというのです。
 祈りの中で「きっとこの約束は将来、実現するだろうな・・・」と手応えを感じている事柄が多くあると思います。しかし、なかなか実現しない事も多くあると思います。
 もちろん、祈りがすべて即実現したら、「御利益宗教」みたいになってしまいますから、よくありません。答えを受け取るタイミングが必要です。神のタイミングの中で神の業が実現することが大切です。二〇一三年は、主が約束されたことが実現される神の時となる、と語ってくれました。本当にわくわくします。神様がどんな事を実現してくださるのだろうか、と期待したいです。

 また、岡本信弘先生が語ったメッセージは、「あわれみ」というキーワードで語りました
 「あわれみを持つ者になりなさい」というメッセージでした。「あわれみ」の一般的な意味は「誰かのことをかわいそうに思う」という意味ですが、もちろんそのような意味も含んでいますが、聖書の「あわれみ」はどういう意味かを語りました。
 テモテへの手紙第一、一章二節でパウロが、

『信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。』

 パウロはテモテに挨拶を送っているのです。「恵みとあわれみと平安がありますように」と。この「あわれみ」が「かわいそうに思う」という意味では、ちょっとおかしいですよね。どういう意味でしょうか。
 聖書の中では「恵み」という言葉がよく使われますが、「恵み」とは「神からの一方的な行為」というのです。私たちが救われたのは「恵みによって救われる」とよく言いますが、私たちの努力とか、修行とか、善行ではなく、神からの一方的な働きによって救われたのです。神の恵みによって、神の一方的な働きによって、救い出してくださったという意味です。
 しかし、「あわれみ」とは、「かわいそうに思う」ことではなく、「恵みに基づく神の行動」を意味すると語られました。神様の行動は恵みに基づいてなされます。恵みを基礎として、ご自身は行動を起こされるのです。
 今年は、恵みに基づく行動、すなわち「あわれみ」を与えてくださる年となります。私たちは神のあわれみに期待しなければなりません。しかし同時に、神のあわれみの行動に、私たちも参加する必要があると語られました。それは、誰かのために、あわれみを求めて祈る、叫ぶことが必要だ、と語られました。

 私もこのメッセージを聞いてから、祈りの中で「恵みとあわれみと平安がありますように」と、新城教会に集うすべての方々の上に、また、日本の上に現されるように祈っています。
 今年は、自分のためよりも、誰かのために、神のあわれみを求めて叫ぶ祈りを多くしたいと願っています。みなさんの周りにも、傷ついて倒れている人たちがおられると思います。その方々のために、あわれみ、叫びを祈りなさいという、メッセージをいただきました。これを心に留めて祈りたいと強く思っています。

 今日も県民の森に昼から行って、自分のためというよりも、誰かのためにあわれみを求めて祈ろうではありませんか。必ず、その祈りには、答えが来ます。

 滝元明牧師が語ったメッセージは、かつて、アッシリアに「ニネベ」という街がありましたが、そこに起こった大きなリバイバルを題材に、日本にも大きなリバイバルが起こります、と語りました。
 私もこの言葉を受け取ってから「あのニネベでかつて起こったリバイバル、いや、それ以上のリバイバルが日本に起きますように!」と熱く祈るようになりました。

 ニネベに起こったリバイバルとは、どういうリバイバルであったのでしょうか。その時、十二万人以上の人々が、短期間に救われたのです。これは聖書に記録されているリバイバルの中で、最大級かもしれません。

 ある日、ヨナにアッシリアの都、ニネベに宣教に行くように神からの声が届きました。サムエルみたいにです。ヨナには「ヨナよ。聞きなさい。ニネベに行って福音を伝えなさい」と、語られたのです。しかし彼はその声に従わなかったのです。けれどもヨナにいろんな事件が起きて、最終的にはニネベに行かされたのです。
 ニネベという街はどういう街であったのかというと、アッシリア帝国の首都でした。アッシリアとは、かつて世界を制覇した巨大な帝国でした。そのおかげで、イスラエルも大変なめにあいました。だから、そんな敵国に行って宣教するなんて、ヨナとしてはやりたくなかったわけです。彼は愛国者だったのです。だから「行きたくない」と、タルシシュ方面に逃げたのです。
 しかし神はそんな敵の街にも、リバイバルを起こし、街の人々を救いに導こうとされたのです。その時に主が語られた言葉が、ヨナ書四章九節〜十一節、

『すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』

 このニネベという街は、名前自体がそもそも、「女神・イシタル」のバビロニア語訳だそうです。「女神・イシタルの街」という名前が付いているような、偶像があふれていた街がニネベでした。
 ニネベは考古学で特定されていて、イラクにあるそうですが、発掘してみると様々な偶像が満ちあふれていたことが分かっています。一説によると、そこには四千種類以上の神々があったと言われます。また「海の神・ダゴン」が祭られていて、人々は偶像礼拝に明け暮れていたようです。彼らは破壊的な民で、周辺諸国を侵略し、多くの人たちを死に至らしめていました。それがアッシリアでした。そしてその中心的な街がニネベでした。

 「そんな国は滅びてしまえ!」と世界中の人たちが願っていたのかもしれません。しかし、主は世界で最悪の街、ニネベにあわれみの手を差し伸ばしたのです。
 なぜかというと、そこには『右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいる』と言われました。
 「右も左もわきまえない十二万以上の人間がいた」というのです。これはニネベに住んでいた、子どもたちのことではないかと言われていたのですが、近年、ニネベの発掘作業が進み、昔の碑文などが出て来て、ある学者がこのニネベの当時の人口を推定しました。その説によると、十七万四千人だというのです。何千年も前の街ですから、それは巨大な街でしたて。しかしその内、十二万人が右も左もわきまえていなかったというのです。それは何を意味するのでしょうか?
 ということは、王様とか貴族とか、特権階級以外のほとんどの人たちは、支配されていた構造が街にあったことを意味します。アッシリア帝国は世界に多大な迷惑をかけたのですが、その大多数は、右も左もわきまえないで、ただ権力者から支配され、指示されて、手先として動いていた盲目の民だったのです。
 国全体としては害を与えるような国でしたが、神様はその中身までちゃんとご存じで、街の人口十七万四千人という数が正しければ、その内十二万は、右も左もわきまえない、権力者たちによって動かされている盲目の民であったのです。神様はこの盲目の人たちを滅ぼすわけにはいけないと、この街にあわれみをかけ、救われたのです。

 ニネベに起こったリバイバルを日本に適応してみると、もしかすると日本も同じではないかと近頃感じています。

 正月三が日に、日本人はどこに行ったのかというと、多くの人たちが初詣でに行きました。一日にも少し語ったのですが、日本で一番初詣客を集める神社はどこかご存じでしょうか。それは東京の「明治神宮」です。
 今年、どのくらい初詣に集まったのかを調べたら、なんと、「三百十五万人」だと言うのです。三百十五万人ってすごい数です。名古屋の人口は二百万人くらいでしょうか。すごい人数が三日間で、明治神宮にどっと来たのです。それも毎年です。礼拝の時にこんな写真を出すのは嫌ですが、資料として出します。
 すごいですね。あの鳥居が十字架になったらいいと思います。神社は人で埋め尽くされています。教会がこのように、人々で埋め尽くされればいいと思うのですが。
 明治神宮は何を奉っているのかというと、「明治天皇」です。みなさんの中で、明治天皇がどういう人物であったかご存じの方はどのくらいおられますか?
 実は、明治天皇の写真は公式には二枚しか残っていないそうです。どんな人物なのか全くわからんのです。お友達もあまりいなかったようです。

 今、いろいろ有名な歌手がいますが、どんなに有名な歌手がコンサートを開いても、三百万人集めることができる歌手は、世界のどこにもいません。多く集めてもせいぜい、数万人です。有名な歌手たちが何人か集まり、十万人、二十万人が集まったとは聞いたことがあります。しかし一人の人物で集めることのできる限度は、いくら人気があっても「東京ドームがいっぱいになった」というレベルです。
 しかし、誰も知らない明治天皇の所に、毎年、三百万人以上の人たちが来るというのは異常だと思いませんか?
 初詣に来ている人たちに各国メディアが「何で初詣に来たのですか?」と聞くと、べつに大きな理由はないと人々は答えるというのです。

 人々が集まるのには、普通はなんらかの理由があるわけです。コンサートなら、「なんでこのコンサートに来たのですか?」と聞けば「この歌手が好きでたまりません!」と答えます。
 私も去年、ある歌手のコンサートに行きました。なぜなら、息子が今日もベースを弾いていましたが「コンサートでベースを弾くから来てくれ」なんて言うので行ったら、九割くらいが若い女の子でした。その日は四千人くらい集まっていました。そこにおじさん一人、浮いてました。コンサートが始まった途端、全員が立ち上がって、「イェイ・イェイ・イェイ!」のコールです。おじさん一人、ふてくされて中に埋まっていました。そこに来ていた人たちは、一人の歌手の熱狂的ファンでした。だから集まっているわけです。

 でも、明治神宮に集まった三百十五万人の人たちに、「なんで明治神宮に来たのですか?」と聞くと、「原宿に遊びに来て、ついでに来た」という人たちが多いというのです。「明治天皇最高!大好き!ここに来るとすごい御利益!」なんて答える人はだれ一人いないというのです。「なんか知らないけれど、毎年来ている」と答えるというのです。何も大きな理由もなく、三百十五万人集まるのです。
 これはよく考えたら、本当に異常なことだというのです。逆に言えば、すごい怖いことだというのです。日本人って、自由で、何でもできる国に住んでいるように思うかもしれませんが、もしかしたら日本人ほどマインドコントロールされている国民はないのかもしれません。

 最近、北朝鮮の方とお話しをしました。あの国に行きますと、金正恩が今はボスで国民全体がマインド・コントロールされているように見えます。しかし私はその方と話をしていて、その国以上に、日本はマインドコントロールされているんじゃないかなと感じました。
 なぜなら、明治神宮に三百十五万人も、強制もされず、自動的に集まるわけですから。日本ってある意味、世界で一番怖い国なのかもしれないと感じました。
 マインドコントロールにかかってはいけないのです。八千万人、九千万人という人たちが、正月には神社に行くとは何を意味しているのでしょうか?何者かに憑かれたかのように、皆、神社へと引かれて行くのです。これは暗闇の力が働いていなかったら、こういう事はありえません。

 まさしくニネベと同じように、右も左もわきまえない民が日本には何千万人も溢れています。
 先日の選挙で、自民党が圧勝しました。しかし、つい最近までは「民主党!民主党!」と言って、国民は左よりの政権を支持していました。しかし今回は一転して、右よりの自民党に、あっという間に鞍替えです。皆、何を考えているのかわかりません。右も左もわかっていないことではないかと思います。
 神様が日本を見たら、かつてのニネベの人たちと同じように、見ておられるのではないかと思います。

 日本は罪深い国であり、不安な要素が多くある国ですけれど、神の目から見たら、自由には見えるけれど、実はそうではなく、何者かにマインドコントロールされ、右に行ったり左に行ったりしてると。でも、そういう人たちを、「わたしはあわれみます」と語っておられると信じます。

 この事も一日にも少しお話ししたのですが、この頃「維新」という言葉がよく使われますが、「維新」という言葉の持つイメージは「明治維新」です。明治維新とは、長く続いていた江戸幕府の支配が終わり、明治政府の支配に変わったことを意味しています。その時代に革命が起こったのです。支配が一新したのです。
 どこの国でも、支配が変わる時、新しく歴史が作られます。同時に、真実の歴史が隠される時でもあります。日本人は「初詣に行く」と言いますが、実は、初詣は昔からあった習慣ではなく、明治から始まった新しい習慣です。江戸時代には、誰も初詣なんか行かなかったそうです。正月は、家に年神を迎える日として、家で過ごしていたそうです。
 しかし明治政府になってから「神社への初詣」が推奨され、国民が動員されたのです。明治神宮に三百万人以上出向くように意識づけられたのは、権力が関わった以外、考えられない事です。
 明治維新とは明治政府の始まりです。明治天皇を「神聖にして犯すべからず」と位置づけて国が新しく始まったのです。明治天皇を拝ませるために、政府がそのように仕向けたことに他なりません。それから初詣が始まり、国民に習慣づけられ、現在に至ります。本当に、国民は右も左もわかっていないのではないでしょうか。
 明治神宮ですけれど、東京に行くと神宮の森は巨大です。
 また、神宮外苑とか、新宿御苑とか、明治天皇にまつわる場所は広大です。後ろに東京のビル群が霞んでいます。みんな狭い所に住んでいます。東京に住んでいる私の息子たちの気が知れません。「便利だ」と言うのですが、いくら便利でも、地震が起こったらどうするのでしょうか。「殺してください」というような場所です。東京に住むのは自己責任だと思います。しかし、そう言ったって生活のためにはしょうがないのですが、明治神宮は地震が起こったって、何も落ちてくる物はありません。なぜなら広い場所に陣取っているからです。
 なんでこんな広い場所に陣取ることができ、奉られているのかということです。明治天皇の親父さんの名前って知ってますか?昔の教育を受けた人なら、全部暗記させられたので知っているかもしれませんが、今の人たちはほとんど知りません。
 明治天皇の親父は「孝明天皇」といいます。でも、孝明天皇なんて知っている人は誰もいないのです。孝明天皇の息子が、明治天皇と言うわけですから、相当孝明天皇は偉い人だと普通は考えます。
 北朝鮮は、金日成が創始者ですが、金正日と、金正恩は、三人同格で写真が並んでいます。ということは、明治天皇がこのくらいの広さで奉られていたら、孝明天皇だって、同じくらいの広さで盛大に奉られていてもいいはずです。

 でも全然違うのです。孝明天皇だけが奉られている神社は、日本に一カ所しかありません。私は先々週、とりなしの祈りに行ってきました。どこにあるのかというと、愛知県武豊町にあります。それも個人の庭先にあるのです。教会の中で神社の鳥居を見せるのはいやですが、霊的戦いの意味で見せるのですが、これです。

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 一応菊の紋章がついておりますけれども、明治神宮とはあまりにも規模が違います。
 親父と息子ではあまりにも、格が違いすぎます。普通はこういう事はありません。ではなぜでしょうか?
 明治天皇の父親と言われる孝明天皇は、明治維新に強く反対した人物です。江戸幕府が続けばいいと考えていました。外人が大嫌いで、日米通商条約を江戸幕府が結んだ時に強く抗議しています。だから、倒幕派の、維新を推進する人たちにとって、孝明天皇は目の上のたんこぶでした。

 それで、何が起こったのかというと、絶妙のタイミングで孝明天皇は三十五歳の若さで死ぬのです。死因は「天然痘」と言うのですが、多分、暗殺されたに違いない、と言われます。明治維新前後は、ある意味、無政府状態でした。なんでもありの世界でした。彼は暗殺されたのだろうと言われます。明治天皇は孝明天皇の息子となっていますけれど、維新反対派の息子に、広い土地をあげて奉り上げることは、まずありえないのです。
 歴史の中には、決して表に出て来ない歴史があります。もしも孝明天皇が殺されたのなら、その子どもも殺され、明治天皇は維新派に都合の良い人物にすり替えたという事です。そのことを扱った本も何冊か出ています。
 そして、すり替えがばれないように、「天皇は神聖にして犯すべからず」という一条を、明治憲法の最初の部分に入れたと言われます。そうしたら、天皇の件に関しては、誰も手をつけられませんから。

 日本の天皇家は百二十数代続いていると言われますが、嘘かもしれません。現在の天皇家は、もしかしたら、たった四代かもしれないのです。そういう裏の歴史は全く表面に出て来ません。国民たちは、日本は古代から続いている、特別な国かのように思い込まされています。そういう事は、どこの国でも起こりえる事ですが、歴史の闇に葬られ、二度と事実は知らされないのかもしれません。
 しかし、偽りを基礎として国を建てても、決して祝福はないのです。そこに住んでいる人たちは、事実を知るまで、皆、暗闇の力に支配されるわけです。

 しかし、天と地を創られ、歴史の主人公である神様は、そのようなことをすべて公平に評価されているはずです。ニネベも、十七万人くらいの人口の中、十二万くらいの人たちが「右も左も分からない」と言われました。きっと今の日本も同じに違いありません。
 日本にも神はあわれみの目を注いでくださり、ニネベに起こったのと同じような、大リバイバルを起こしてくださると、私はこの箇所を読みながら、また、歴史の闇の部分について少し勉強して、感じました。今年こそ、そのような年になればいいなと思っています。日本に霊的維新が起こるように熱く祈ろうではありませんか。

 私たちはすでにマインドコントロールから解かれています。なぜなら、初詣なんかに行かないからです。マインドコントロールから解かれた者達が祈るならば、霊的世界で変化が起きるのです。

 最後に、今日のテキストから学んでいきたいと思います。ルカ十章十七節から二十四節は、七十人の弟子たちが、イエスさまによって宣教に遣わされ、帰って来た時の様子が記されています。
 ここでスポットが当たっているのは、「七十人の弟子たち」です。聖書はイエスさまが主役ですけれど、この箇所においては「七十人の弟子たちが主役」として登場しています。イエスさまは弟子達と一緒には宣教に行かなかったのです。しかし、イエスに報告された事柄は、イエスさまがあたかも一緒に行かれたかのような、輝かしいレポートでした。十七節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」』

 すごい奇跡を体験して、弟子達は帰ってきました。
 イエスさまは「あなた方だけで宣教に行って来なさい」と弟子たちを、二人ずつペアにして送り出したのです。「あなた方を遣わすのは、狼の中に羊を送るようなものだ」と。それは鴨がねぎをしょって出ていくような感じです。七十人の弟子達は全員びびりながら、出て行きました。「何が起こるのだろうか・・・」と、不安でいっぱいでした。

 しかし帰って来た時は、『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』と、すごい勝利の報告をひっさげて帰って来たのです。びびって出て行った弟子達が、予想に反して、大勝利を体験して帰って来たのです。

 二〇一三年は何があるのだろうかと多少、びびる所がありますけれど、七十人の弟子たちと同じように一年を終えたいですよね。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』と、そんな報告が主に出来たら感謝です。

 イエスさまは言われました。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました』と言われました。弟子たちが宣教に出て行った間、イエスさまはどこかで遊んでいたわけじゃないのです。弟子たちが宣教を、霊的な世界で共に戦い、霊の目で監視しておられたのです。
 そして、弟子たちの働きを通して、「サタンがいなずまのように天から落ちるのを見た」とイエスさまも、弟子達に報告されたのです。
 ここからイエスさまも、宣教の戦いに参加されていたのが、よくわかります。そして言われたのが、先ほどの十九節の言葉です。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 私たちはひとりぼっちで出て行くような気がしますけれど、主は共におられるのです。私たちが出て行く時、主は、共に陰で戦ってくださるのです。
 しかし、この七十人を二人ずつ組にして遣わしたように「自ら出て行って戦いなさい」と語られていると思うのです。続いて二十節に語られていることは、

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』

 この理解は「悪霊どもが服従するからって、喜んでいちゃだめ。天国に行ける、名が天に書きしるされていることを喜べ」と解釈されることが多いです。「悪魔・悪霊どもが服従するということは二の次。あなたの名が天に書きしるされていて、天国に入れるんですよ。そっちを喜びなさい」と。一般的にはそのように解釈されるのですが、私は暮れに、この箇所を詳しく講解したある先生のメッセージを聞いて、たいへん恵まれました。

 この箇所を詳しく見ていくと、スポットライトは七十人の弟子たちに当たっていて、前後のコンテキスト、文脈を通じてイエスさまは何を弟子達に語っておられるのかと言うことです。そのことに関して講解されていました。

 『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』とは、イエスさまの名前を、水戸黄門の印籠のように「これが見えないか。控えおろう」というような、「イエスの名前が見えぬか」とは違うというのです。この箇所を原文から訳してみると、ルカの福音書十章十七節(直訳)、
『あなたの御名においては、悪霊どもでさえあなたに服従させられる。』
と訳すことができるそうです。
 これは、私たちが悪魔・悪霊どもを服従させているというのではなく、『あなたの御名においては、悪霊どもでさえあなたに服従させられる。』という意味であると言うことです。弟子達はそれを体験したというわけです。
 そして、その時イエスさまが言われたのが、『悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』
 この意味は「敵が敗北するのを見て喜んでちゃ駄目だ。それよりも天国に行くことができるんだから、それを喜びなさい」ではなく、聖書においては「名前は体を表す」という原則があり、これは「天に名が記されているとは、あなたの本質は天にある」という意味であり、イエスさまの中に弟子たちが含まれているがゆえに、なんと弟子達はあたかも、イエスさまと同じ働きが出来たのです。弟子達の本質が地上ではなく、天にあるが故に、イエスさまが共に行かなくても、同じ勝利が来たのです。
 『あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』とは、「弟子達が服従させた」のではなく、「あなたの名前の中においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる」のです。

 霊的戦いに勝利する秘訣は、名が天に記されている、すなわち、私たちの本質はイエスさまと同じ天にあるがゆえに、イエスさまは見えなくとも、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する権威を使うことができるのです。あなたの本質はすでに天にありますよ、と教えているわけです。

 私たちは祈りの時に「イエスさまの御名によって祈ります」とお祈りしますが、「御名によって」というのは、印籠を出すようなイメージではなく、私たちはイエスさまの中にあるがゆえに、父なる神さまに祈ることができるわけです。今年私たちは、天に名が記されている、「私たちの本質は天にある。」ことを意識し、宣言しましょう。
 エペソ二章には、私たちはすでによみがえって、イエスさまと共に天に座っているとあります。イエスさまの名の中にあるゆえに、悪魔・悪霊どもが服従するのを体験させていただきたいのです。
 イエスさまが一緒に行かなかったのにも関わらず、弟子たちの間ではイエスさまの本質と同じことが起こったのです。そして十章二十四節、

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』

 この出来事は画期的な出来事であり、霊的維新であるとイエスさまは告げられたのです。
 私たち、今年、ルカの十章で七十人の弟子たちが体験したような、「霊的維新」を体験したいです。私たちの目の前に、あたかも、イエスさまがおられるかのような、名が天に記されている、本質が天にある証拠を見たいです。地上においても、イエスさまと同じ行動ができる、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する権威が与えられていると確信するのです。だから、あなた方に害を加えるものは何一つありません、と主は語られます。

 今年、私たちがイエスさまのただ中に入り、「イエスさまと一つになっている」ことを常に意識するなら、必ず、悪魔・悪霊どもはイエスさまに従わなければならないのです。それを私たちはこの目で見るでしょう。その光景はいにしえの預言者たちが、王たちが、見たいと願ったのに見れなかった革命的な、革新的なことだと主は語られました。二〇一三年、霊的世界で大きな維新が起こることを、私たちは信じます。

 新しい年、もう一度、イエスさまと一つになっていることを確認しようじゃありませんか。そして、喜んで主に仕える者となっていきたいと願っています。

 去年の暮れにイザヤ書六十五章十七節〜二十五節の御言葉をご紹介しましたけれど、二〇一三年に対して語られている言葉として、私は受け取っています。もう一度、みなさんに紹介したいと思います。イザヤ書六十五章十七節〜二十五節、

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』

 この言葉、すばらしいですよね。主が新しい天と、新しい地を創造する時、この事が起こると。私たちは新しい天を望みますけれど、同時に、主は私たちの住んでいるただ中に、新しい地を創造したいと願っておられます。

 ルカ十章は、まさに新しい地の到来、霊的維新をレポートした瞬間でした。それはイザヤの預言の成就ではないかと思います。その中で起こることがイザヤ書六十五章に預言されていました。イザヤ書六十五章が新城教会の目標聖句だと前にお話しさせていただきましたが、今年は、キリストのからだが一つとなって前進して行く時、イザヤ書六十五章が実現すると、堅く信じる者であります。

『彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』

 私たちが「主よ!」とあわれみを求める前に、主が答えて下さるような、新しい地が創造されるのです。それを目指として進みなさいと、主が語ってくださっているような気がします。

『狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』

 これはルカ十章の十九節、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』という、イエスさまの言葉に通じる預言ではないかと私は思います。

 今年、イザヤ書六十五章がみなさんのただ中に、教会に、また日本に成就するように、信じて祈り続ける者でありたいと願います。
 今語った言葉をご自分の言葉として受け取っていただきたいと思います。
 日本は放っておいたら大変危険な方向に行ってしまうかもしれませんが、一握りの者たちが、霊的現実に気づいて祈るならば、日本が大きく変わって行くと信じています。
 維新の時はどちらにも転ぶのです。それはちょっとしたことです。ちょっとしたきっかけで、歴史は大きく変わるのです。霊的世界も同様です。

 最後にみなさんと共にイエスさまの名前のただ中に入り、本質は天にあるがゆえに新しい地が創造される事を信じて、聖餐式を行いたいと思います。
一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今年こそ霊的維新が日本に起こされますように祈ります。個人的なレベルにおいても、街においても、国においても、霊的維新が起こされますように。
 あなたはこの日本の国民を愛しておられます。右も左もわきまえないような多くの民がいます。私たちは決して悪魔のマインドコントロールにかかるものではなく、イエスさまの名前のただ中に入り、天に名が記されている者として、この地を新しくする働きに参加します。用いてください。イエスさまの御名の中で、今からの聖餐式を感謝して、受け取ります。アーメン。